【ウクライナ危機(4)】デフォルトとロシア再建!自由と民主主義の課題と独裁の必要性

この記事では、ロシアの歴史的な変遷をたどりながら、民主化の試みからロシア連邦の再生、そしてウラジーミル・プーチン政権の台頭までを探求します。ソビエト連邦の崩壊後、ロシアは民主国家の建設を志向しましたが、困難な過程を経てプーチン政権が誕生しました。

詳細な出来事や政策について解説しながら、ロシアが経済の自由化や民主化を試みた1980年代から1990年代、そしてプーチン政権がロシアを復活させた2000年代に至るまでの歴史を紐解きます。この記事は、ロシアの過去と現在を理解するための貴重な情報源となるでしょう。

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Boris Yeltsin

ロシア連邦の誕生と民主主義の旗振り

RSFSR/YouTube

1991年の12月、独立国家共同体(CIS)の設立とともにソビエト連邦の崩壊が進行した。これに伴い、新たにロシア連邦として再生したロシアは、「法と正義」を基盤とする民主国家を志向した。外交政策の核心には、民主主義と市場経済の価値を共有する先進民主主義諸国との協調関係が据えられた。ロシアの出発点として、自由と平等の理念に立脚したこの新たな道程は、一見、明るい未来を約束するかのように見えた。

「赤い帝国」の終焉と経済的苦境

マルクス・レーニン主義を国家理念としていた「赤い帝国」が姿を消し、ロシアは民主的な連邦国家として再生した。しかしその時期、ロシアは厳しい冬と経済的な底なし沼に直面していた。全体主義を打破した8月革命の熱狂はすっかり冷め、祝福のムードはほど遠かった。

1991年のソ連の崩壊後、ロシアは対外債務700億ドル(約7兆8000億円)の負担を引き受けた。この債務の多くは「ペレストロイカ(改革)」が推進され、民主化が進んだ1985年から1991年の間に生じたもので、これが1990年代の財政を圧迫する一因となった。

「市場解放」深刻な物不足が解消と国営企業の廃業

ソビエト連邦の崩壊後、ロシアでは急激な資本主義化が進行し、結果として国内経済は大混乱に陥った。1991年の10月には、エリツィン大統領がIMFとOECDの助言に従い、市場主義改革を実施しようと試みた。そして、1992年の6月にはロシアがIMFに加盟した。

エリツィンはIMFの提案を全面的に受け入れ、ロシア市場を大胆に開放した。目に見えて変化が始まったのは、それから翌年の1992年だった。市場が開放されると、外国からさまざまな製品がロシアに流入し始めた。これによりソビエト時代末期の物資不足は一気に解消され、自由競争が導入された。効率の低い国営企業は廃業に追い込まれ、あるいは民間へと委譲される道を選ばざるを得なくなった。

ボリス・エリツィン政権下でのこの変化は、しばしば「ショック療法」や「急進的な市場化」などと呼ばれます。

IMF(国際金融機関)

IMF(International Monetary Fund)は、国際通貨基金の略称で、世界各国の通貨政策と金融安定を維持することを目的とした国際機関です。

IMFは1944年のブレトンウッズ会議で設立され、現在ではほぼ全世界の国々が加盟しています。その主な任務は、国際金融の安定を促進し、国際貿易を促進すること、および加盟国が経済的困難に直面した場合に財政支援を提供することです。

具体的な業務としては、各国の経済政策の監視、経済データの提供、経済政策に関する助言、そして必要に応じて短期間の財政支援を行います。この支援は「IMFローン」と呼ばれ、経済危機に直面した国々が外貨準備を維持し、経済の安定化を図るために利用されます。

しかし、IMFローンはしばしば厳しい経済改革の条件付きであり、これが受け入れられない場合、批判の対象ともなります。それでも、多くの発展途上国や経済が困難な国々にとって、IMFは重要な金融リソースとなっています。

CNN Business/YouTube

オリガルヒの台頭と国民の苦境

しかし、エリツィンの大胆な市場開放策の結果、「オリガルヒ」と呼ばれる一部の人々が巨大な利益を享受する一方、大多数の国民は困難な生活を強いられることとなった。

オリガルヒとは、ソ連の崩壊とその混乱に乗じて、国営企業を安価に買い取り、莫大な富を築いた新興財閥を指します。

このプロセスは、90年代のロシアで非常に一般的でした。多くの国有企業が民営化され、これらの企業の大部分が元政府関係者や元共産党幹部によって掌握されました。彼らは自分たちの権力と影響力を利用して、石油、ガス、非鉄金属、放送など、特定の産業で実質的に独占的な地位を獲得しました。

一部のオリガルヒはソ連崩壊前から既に大金を得ていました。しかし、その頃彼らが行っていたビジネスは、厳格な規制が敷かれていた西側諸国からの製品輸入(多くが密輸)であり、コンピュータなどの商品は一般人の手の届かない価格で販売されていました。

オリガルヒの力は国を動かすレベルにまで成長

やがてオリガルヒは、献金を通じてエリツィン政権の政策を左右するまでの力を持つようになりました。

これらのオリガルヒは、その後の政治にも大きな影響を及ぼし、献金やロビー活動により政策を形成することがありました。彼らの影響力は非常に大きかったため、ロシアのプーチン大統領は、彼らを「莫大な利益を得るために権力者との近さを利用する不道徳な企業経営者」と定義しました。

ロシアでのオリガルヒの多くはユダヤ人でした。彼らは、その金力を利用してロシアを事実上乗っ取る勢いを見せていました。ソ連崩壊後のロシアにおける政治環境が混乱していたこともその原因の一つであったが、金(つまり、賄賂)で物事が決まる傾向が強まったのも事実でした。

しかし、この現象はロシアに限った話ではありません。多くの経済が過渡期にあるとき、国有資産の急速な民営化が行われると、しばしば新しいエリート層が生まれ、寡占的な経済構造が形成されることがあります。これは、民営化プロセスの透明性や公平性が十分に確保されないとき、特に顕著になります。

「ハイパーインフレ」欧米のやり方を導入したロシアにカオスが訪れる

こうして、ソ連崩壊後のロシアは、経済的混乱の時代に突入しました。民営化や市場経済への転換に伴う混乱や、インフレーション、そして政治の変動などが結びついて、国の経済と社会の不安定化を引き起こしました。

特に1992年のハイパーインフレーションは、ロシアの経済に深刻なダメージを与え、多くの人々が生活を苦しめました。お金の価値が急速に失われ、普通の人々の貯蓄は一夜にして価値を失いました。また、この時期の混乱は法秩序の崩壊を引き起こし、組織犯罪(マフィア)の台頭を助長しました。

この後、ロシア政府は金融政策を修正し、インフレを収束させるための取り組みを始めました。しかし、その間も国家財政は困難を極め、赤字は続きました。ロシアはこれを補うために、国際金融機関からの融資や短期国債の発行などを行いました。

「モスクワ騒乱事件」議会対立のあげくエリツィン大統領が戦車で砲撃

1993年、エリツィンは経済改革を進めるために強力な大統領制を求めましたが、最高会議はこれに反対しました。エリツィンは議会の解散を宣言し、新たな憲法の下で選挙を実施することを求めました。

これに対して、最高会議はエリツィンの弾劾を試み、自身の解散を無効と宣言しました。これはロシアの政治体制が大きく揺らぎ、混乱が増すきっかけとなりました。

最終的に、エリツィンは軍と内務省を味方につけ、最高会議ビル(ホワイトハウス)を包囲し、最終的には戦車でビルを砲撃しました。この事件は数日間続き、多くの死傷者を出しました。

この事件の後、エリツィンは新憲法を制定し、強力な大統領制を確立しました。しかし、このモスクワ騒乱事件はロシアの民主化への道のりが困難であることを示し、エリツィン政権の経済改革への支持を弱めました。

Radio Free Europe/Radio Liberty/YouTube

大混乱は民主主義のせい!?ロシア国民の疑念

1993年に入ると、すでに国民の間には民主主義に対する幻滅が広まっていました。民主主義の導入と経済の崩壊は本来無関係なはずでしたが、国民は「民主主義のせいで貧しくなった」と誤解していました。

ソ連時代は不自由さこそあったものの、社会主義による福祉が存在しました。大学の学費は無料で、医療費も無料。ソ連の全人民が公務員のようなものであったため、失業は存在せず、年金も十分に支給されていました。

しかし、エリツィンはIMFの指導に従い、財政再建のために社会福祉予算を大幅に削減。保険や年金の制度は事実上崩壊しました。さらに、国営企業解体に伴う大規模なリストラにより、生活が困窮した人々は社会福祉を受けられず、特に高齢者の生活状況は悲惨な状況になりました。

この混乱の中で、国民は、安定と秩序をもたらし強かった頃のロシアを復活させる、ある種の独裁的で強力なリーダーシップを持っている指導者を求め始めました。

事実、1993年の連邦議会選挙では極右のウラジーミル・ジリノフスキーの自民党が第一党になっています。

民主主義 or 共産主義!大統領選でエリツィンが再選

1996年、ソビエト連邦の崩壊から5年後、ロシアは初の大統領選挙に向けて動き始めました。それまでソビエト連邦の一部であったロシアは、ソ連の崩壊後、自身の道を歩み始めていました。初代大統領として選ばれたボリス・エリツィンは、ロシアの「自由と民主主義」の象徴でしたが、その新生ロシアは混沌とした状況にありました。

エリツィンが再選を目指す中、彼の最大の競争相手はロシア共産党のゲンナジー・ジュガーノフでした。ジュガーノフは、前年の下院選での第一党という実績を背景に、共産党政権の復活を訴えていました。これは、「民主体制の維持」か「共産党政権の復活」かという、まさにロシアの将来を決定づける選挙でした。

そして、この選挙にはさらなるドラマがありました。ロシア軍の英雄であるレベジ中将が3位につけ、民主体制と共産主義との戦いだけでなく、さらに複雑な三つ巴の戦いとなりました。これがロシアの1996年の大統領選挙であり、その後のロシアの政治を大きく左右する重要な出来事でした。

AP Archive/YouTube
オリガルヒがメディアを使って世論操作

この選挙では、新興の富裕層であるオリガルヒが重要な役割を果たしました。特にベレゾフスキーとグシンスキーという二人のオリガルヒは、公共テレビORT、NTVテレビ、ラジオ、雑誌などの多数のメディアを通じて、世論を操り、エリツィンを支持する雰囲気を作り上げました。このため、当初の支持率が5%だったエリツィンは、選挙で53%の得票を得て勝利を収めることができたのです。

オリガルヒたちは、メディアを通じて世論を操作し、エリツィン政権と親族、特に次女のタチアナ・ジャチェンコとのつながりを強め、政治と経済の両面で影響力を拡大しました。これは、「エリツィン・ファミリー」とも呼ばれ、ロシアの政治に大きな影響を与える要素となりました。

しかし、エリツィン自身は健康問題に悩まされ、特に心臓病のために長期間クレムリンを不在にすることが度々ありました。その結果、実質的な権力はオリガルヒたちが握り、彼らの影響力は2000年春にプーチン大統領が登場するまで続くことになりました。

こうした事情から、1996年のロシア大統領選挙は、新興財閥オリガルヒの台頭と彼らが国家をどのように支配し、私物化していったかの節目ともなりました。

エリツィンの支持が低下「第1次チェチェン紛争」

ソ連の崩壊後、ロシア連邦は連邦国家として存続し、その中には多様な共和国や地域が存在していました。その中で、イスラム系のチェチェン共和国は独立を宣言し、著しい問題を引き起こしました。ボリス・エリツィン初代大統領はチェチェンの独立を認めず、これに反発したチェチェンは武装蜂起を開始。ロシアはチェチェン内の親ロシア政権を支援しようと試みましたが、成功せず、1994年にはロシア連邦軍がチェチェンを攻撃し、武力衝突が発生しました。

この武力衝突は、西側諸国を複雑な立場に追いやりました。一方で、エリツィンはソ連の崩壊後の混乱期に民主化を推進し、ロシアの安定化に努めた人物であり、その功績は西側諸国からも評価されていました。しかし、同時に彼の指導下でチェチェンへの弾圧が進行したため、西側諸国は批判的な姿勢をとらざるを得ませんでした。

クリントン政権とブッシュJr.政権のアメリカは、エリツィンと後任のプーチンのチェチェン政策を批判しました。しかし、米露間の関係に重大な影響を及ぼすほどの事態には至りませんでした。それは、ロシアとの関係を維持するという戦略的観点と、人権や民主化に対する価値観の間で、西側諸国が難しいバランスを取らなければいけなかったからです。

Based War Music/YouTube
エリツィンの支持が低下

1994年から1996年のチェチェン紛争は、ロシア軍にとって大きな犠牲を伴う難戦でした。数万人ものロシア兵が死亡し、最終的にロシア軍は屈辱的な敗北を喫しました。これにより、ボリス・エリツィン大統領の支持率は大きく下落し、その結果、国民の支持を失う結果となりました。

メディアはこの紛争について報道し、ロシアによる人権侵害行為を隠さずに報じました。これにより、エリツィン政権のチェチェン政策に対する批判が高まりました。

退役兵の一人は「チェチェン紛争を中止し、改革に専念することは可能だったはずだ」と批判の声を上げました。また、軍の上層部と政治家がこの紛争を金儲けの手段にしたとも語っていました。

このような声は、エリツィン政権に対する一般の国民の不満を象徴しています。エリツィン政権がチェチェン紛争を適切に解決しなかったことで、その政策に対する信頼が失われ、エリツィン自身に対する評価も大きく下落したのです。

ロシアのデフォルト危機と経済の混乱

1997年のアジア通貨危機は、世界経済に大きな影響を及ぼし、特に生産物価格に大きく依存していた国々に深刻な打撃を与えました。ロシアもその一つで、その主要な輸出産品である石油、ガス、金属、木材などの価格が大きく下落し、既に混乱していた経済状況がさらに悪化しました。

1990年代のロシアはソ連時代の計画経済から市場経済へと大きな経済体制の転換を行っていました。しかし、この移行期間中に経済の構造改革が不十分だったため、アジア通貨危機の影響を深刻に受けたのです。

特に、財政面では、原材料価格の下落による輸出収入の減少に加えて、内需も低迷し、政府の税収が大幅に減少しました。さらに、インフレ率も上昇し、経済はハイパーインフレに近い状況に陥りました。

これらの要因により、ロシアは1998年に金融危機(ロシア財政危機)を経験し、その結果、国内の経済状況はさらに混乱しました。

デフォルト宣言とルーブルの暴落

1998年のロシアの金融危機は、国内外の経済に大きな影響を与えました。ロシア政府は外債の返済を停止し、国内債を大幅に切り下げるというデフォルト(債務不履行)を宣言しました。これにより、ロシア通貨のルーブルは大きく価値を失いました。

この危機は、ロシア経済への投資を行っていた多くの投資家や金融機関にとって大きな打撃となりました。特に注目すべきは、米国のヘッジファンド、ロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)です。LTCMはロシアの国債を大量に保有しており、ロシアのデフォルトにより膨大な損失を被り、結果的にはその倒産につながりました。

しかし、ロシアの経済基盤そのものは危機によって破壊されたわけではなく、その後の原油価格の上昇などにより、経済は比較的早期に回復することができました。原油や天然ガスなどのエネルギー資源はロシア経済の大きな柱であり、その価格が回復すると、ロシアの経済も同時に回復することができました。

財政難に陥った国営企業をオリガルヒが次々と買収

1998年のロシアの金融危機は、ルーブルの急激な下落とデフォルト(債務不履行)を引き起こしましたが、オリガルヒたちはこの危機をうまく乗り越えることができました。その理由の一つは、彼らが危機前に自身の資産をルーブルから他の安定した外国通貨へと変えていたからです。

さらに、危機後には、財政難に陥った石油企業などのロシア国営企業を安価で買収するチャンスが生まれました。その結果、一部のオリガルヒは資産をさらに増やすことができました。

それぞれのオリガルヒが危機にどう対応したかは異なり、一部は巨額の財産を失ったものもいました。しかし、危機を乗り越えたオリガルヒや新たに出現したオリガルヒは、以前以上に強力な影響力を持つこととなり、ロシアの経済や政治に大きな影響を与えることとなりました。

Journeyman Pictures/YouTube

KGBで働いていたプーチンが首相に任命

ウラジーミル・プーチンは、旧ソ連国家保安委員会(KGB)の東ドイツ・ドレスデン支部で約5年間働いた後、1990年1月に生まれ故郷であるサンクトペテルブルク(旧レニングラード)に戻りました。ここで彼は、改革派の旗手として名高い市長、故アナトーリー・サプチャークの補佐となり、次第に頭角を現しました。しかし1996年、再選を目指したサプチャークは汚職スキャンダルで落選し、プーチンは職を失いました。

しかし、プーチンに再び機会が訪れます。パーヴェル・ボロージン大統領府総務局長が彼をクレムリンに招きました。ボロージンが何故プーチンを呼んだのかは明らかではありません。プーチン自身も「私のことを思い出した理由はわからない」と述べています。

クレムリン入りしてから、プーチンはエリツィン大統領及びその側近からその能力を評価され、急速に昇進しました。最初は総務局次長でしたが、1997年には監督総局長に、1998年5月には大統領府第1副長官(地方行政担当)になりました。そして同年7月、KGBの主要継承機関の一つである連邦保安庁(FSB)の長官に就任。1999年3月には安全保障会議書記を兼務し、同年8月には首相に任命されました。

「テロとの戦い」第2次チェチェン紛争でプーチンが見せたリーダーシップ

1999年8月7日に再びチェチェンで武力衝突(第二次チェチェン争)が発生したとき、ウラジーミル・プーチンはロシアの首相でした。彼はこの事件に強硬に対応し、「テロとの戦い」を宣言しました。これは、国内外にむけてテロを許さないというアピールであるとともに、チェチェンの反乱分子を非難するものでした。この強硬な姿勢が国内で評価され、プーチンの人気を急上昇させました。

KGB出身の指導者としてのプーチンの役割

KGB出身のプーチンは、そのスキルと経験を使って、エリツィン政権下の連邦保安庁長官や安全保障会議事務局長として、情報収集や謀略の指導にあたりました。彼は、ロシアの統一と安全保障を維持するためには、必要な場合には武力行使も辞さないという姿勢を示しました。

その象徴ともいえるのが、1999年に始まった第二次チェチェン争での対応です。プーチンは、チェチェンの分離独立派を壊滅させるために、大規模な爆撃や地上戦を指導しました。この際、彼は「我々はあらゆる場所にテロリストたちを追い詰める。最後には便所でも奴らを捕まえ、ぶち殺す」という発言をしました。

これは、強硬な反テロ対策を行うプーチンの姿勢を象徴するものであり、テロに怯えるロシア国民のプーチン支持を広げる結果となりました。

しかし、このような強硬な対応は国際的な批判を招き、人権侵害や戦争犯罪についての指摘もありました。戦争はチェチェンの人々に甚大な被害をもたらし、約20万人が亡くなったとされています。

エリツィン政権の終焉とプーチンの大統領就任

エリツィンの時代はロシアにとって非常に困難な期間でした。ソビエト連邦の崩壊後、エリツィン大統領は民主化と市場経済化を急ピッチで進める一方、それに伴う経済の混乱や社会の不安定化を引き起こしました。その一例が1990年代半ばのチェチェン戦争で、この紛争はロシアの治安悪化や中央政府の管理能力の低下をさらに深刻化させました。

エリツィンは自身の政策に対する国民の支持が失われるとともに健康状態も悪化し、1999年12月に突然の辞任を発表しました。

民主主義よりも求められた安定と秩序

1999年12月、ボリス・エリツィン大統領の突如としての辞任に伴い、ウラジーミル・プーチンが後継者として大統領代行に就任しました。プーチンはその演説「千年期の狭間にあるロシア」で、エリツィン政権時代に進行した国家権力の深刻な弱体化について指摘。そして、「強いロシア」の復活を図るための固い決意を示しました。

翌2000年3月の大統領選挙でプーチンは勝利し、同年5月に正式に大統領に就任。プーチンはKGB(ソ連国家保安委員会)出身であり、彼が大統領に就任したことは大きな注目を集めました。この時点でロシア国民の多くは、民主主義よりも安定と秩序を望んでいました。

Inessa S/YouTube
プーチン政権の経済的な安定と国際的な地位向上

プーチンが大統領に就任した2000年代は、ロシアの復活と見なされています。エリツィンの時代の混乱から一転、プーチンはロシアの中央政府の権力を強化し、国内の経済と社会の安定化を図りました。

エリツィン時代の自由市場改革は、経済の混乱や社会不安を引き起こし、多くのロシア人にとっては困難な時代でした。しかし、プーチンの指導の下、ロシアは経済の回復と政治の安定化を達成し、国内外の多くの人々から「ロシア再生の時代」と評価されました。

しかし、このプーチンの政策は一部で批判もありました。中央政府の権力強化や政治的な抑圧は、民主的価値観や人権問題についての懸念を引き起こしました。また、経済の安定化と引き換えに、不平等や腐敗も一部で見られました。

それでも、ロシアの人々の中には、プーチン政権がもたらした経済的な安定と国際的な地位の向上を評価する声も多くありました。この時期のロシアは、エリツィン時代の混乱からの回復と、新たな挑戦への対応を求められる時代となりました。

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Vladimir Putin 

ロシアにとっては「再生の時代」プーチンが大統領時代

AP Archive/YouTube

ウラジーミル・プーチン大統領の輝かしいキャリアは、1975年にレニングラード国立大学法学部を卒業して始まりました。その後、ソ連邦国家保安委員会(KGB)、サンクトペテルブルク市副市長、大統領府副長官、大統領府第一副長官、そして連邦保安庁長官として働き、続々と昇進しました。

1999年8月には、前首相ステパーシンの解任とエリツィン前大統領の辞任を受け、わずか4ヵ月余りで安全保障会議書記から首相代行、首相、そして大統領代行へと昇進しました。2000年3月に大統領選挙に勝利し、同5月に正式に大統領に就任。以降、彼は政治的、経済的な観点から国家権力の強化を目指す一連の改革に積極的に取り組んでいます。

しかしながら、プーチン政権は、その手法について議論を巻き起こしています。スターリン時代を思わせるように、人権活動家、野党政治家、独立系ジャーナリストなどを「外国の代理人エージェント」、すなわちスパイとして指名することが度々見受けられます。このような手法は、彼がかつて勤務していたKGBの典型的な戦術であり、批評家たちはこれをロシアの「再生」ではなく、むしろソ連時代の再現と見なしています。

強力なリーダーシップとロシア経済立て直し

プーチンは、2000年5月に大統領に就任した後、「強いロシアの復活」を目指しました。自身の理論である「国家が国内資源を監督し、それを経済再生に繋げるべきだ」という論文を具現化させていきました。

プーチンの強力なリーダーシップのもと、政府は天然ガスと石油などの資源関連企業に対する関与を強化しました。ロシアは、世界最大の天然ガスの生産量と埋蔵量、そして世界第2位の産油量を誇る国であり、これらの産業はロシア経済にとって極めて重要でした。

様々な経済政策の下、旧ソ連の崩壊後に弱体化した国内経済は立て直され、強いロシア復活への道筋が見てきました。

IMFの支配からの自立へ

ロシアの権力者たちは、米国がソ連崩壊後の新生ロシアに「故意に」誤った経済改革を施したと主張しています。もちろんその真相は不明です。ただし、新生ロシアが米国や国際通貨基金(IMF)の提案した経済改革を実施した結果、1992年から1998年にかけて国内総生産(GDP)が43%も減少したのは事実です。

2000年のプーチン政権の成立以降、ロシア当局はIMFや欧米に要求されるよりも前に、自発的に金融・財政政策の積極的な推進に取り組んできました。その背景には、プーチンが絶対的に重視する「国家主権」の思想があります。

プーチンとロシアににとって、「国家主権」とは、具体的に言えば、「アメリカの指図に従わない」ことを意味します。

もしロシアが再び債務不履行という状況に陥った場合、盧氏ははIMFの管理下に置かれる可能性があります。IMFは、ロシア側から見ればアメリカの支配下にある機関と見ています。

これは一定の事実基盤に基づいた認識であり、その組織による微細な指導に従わなければならない状況は、ロシアにとって屈辱以外の何ものでもなく、何としても避ける最悪の事態とされています。

「オリガルヒとの権力闘争」プーチン大統領の絶対的忠誠への要求

プーチン大統領が2000年に就任するとすぐに、ロシアの富裕層、オリガルヒとの間には権力闘争が始まりました。プーチン政権が発足してわずか2カ月後の2000年7月28日、彼は21人のオリガルヒを集め、新政権の経済政策について話し合いました。しかし、会談の主要な焦点は具体的な経済政策ではなく、プーチンに対する忠誠の誓約にあったとされています。これにより、プーチンはオリガルヒの中から彼に忠誠を誓う者とそれ以外の者を分けることができたと言われています。

当時のニュース映像に記録されたこの会談の様子を見ると、オリガルヒたちは文字通り恐怖に褪色した顔をしていました。その後、プーチンに反抗的なオリガルヒたちは脱税などの理由で次々と逮捕され、資産を奪われました。

プーチンの権力下で資産を保持し続けるためには、オリガルヒたちはプーチンに絶対の忠誠を誓わなければならなかったのです。そして、その忠誠には、政治的な野心を放棄するという要素も含まれていました。失脚し、現在は亡命している元オリガルヒたちは、プーチンへの敬意を形式的に示す必要性もあったと語っています。

国営企業はプーチンの忠実な部下

一方、プーチン大統領は国営企業の掌握にも積極的でした。プーチン政権下で、「ロスネフチ」社長のセチン(石油産業)、「ロステク」社長のチェメゾフ(軍需産業)、「ロスコスモス」社長のロゴジン(宇宙産業)、そして「ロスアトム」社長のリハチョフ(原子力産業)など、国営企業のトップたちはすべて、プーチンの忠実な部下であり、政府高官の経験を持つ人々でした。

プーチン政権と経済繁栄

プーチン政権は、石油・天然ガス大手のユーコスを国営企業のガスプロムに吸収させました。イラク戦争が勃発すると、原油価格が急上昇し、ガスプロムの利益は急増しました。ガスプロムの高い配当はロシアの膨張する財政を支え、経済成長を推進しました。2000年の原油平均価格が24ドルだったのに対し、2011年には100ドルにまで上昇しました。また、天然ガスの価格も2004年の100ドルから342ドルへと急上昇しました。

こうしたエネルギー価格の高騰により、ロシア経済は大いに活況を呈しました。プーチン政権が成立した2000年から10年間で、ロシアのGDP(ドル換算)は5倍以上に膨れ上がりました。500メートル四方の巨大スーパーマーケットが各地に現れ、その中には商品があふれていました。ロシアは夢に見ていた豊かな国へと変わりました。

困難からの救済者

このような経済復興は、失業率が極めて高く、自殺者が多く、一家離散などの悲惨な事態が繰り広げられていた時代を経験した世代にとっては、プーチンが「救世主」と映ったのでしょう。多くの人々が、ロシアが豊かになったのはプーチンのおかげと考えています。

「批判は絶対に許されない」大手メディアはプーチンの支配下

現代のロシアにおける「3大テレビ局」は、国営「RTR」、「1カナル」、そして名目上民間放送の「NTV」である。しかし、「NTV」の最大の株主は国営ガス会社のガスプロムであり、そのため、これらの全てが国営で、全てがクレムリンの影響下にあると言っても過言ではない。

これらのメディアは、プーチン政権に対する批判を放送することはほとんどなく、政権に批判的な立場を持つメディアの職員や経営者は解雇され、独立系メディアの記者はときに暗殺され、ときには不審死を遂げることもあります。それでもロシアでは、これらの厳格なメディア支配に対して、大規模な反対運動はあまり起きません。

大多数の視聴者は政府やメディア経営陣の説明をそのまま受け入れ、言論の自由について深刻に考えているロシア国民はむしろ少数派なのです。

プーチンによって作られた「強いロシア」

現代ロシアの政治経済構造は、政府、軍・治安機関、そして財界といった要素が相互依存し、共存しています。これらは運命共同体とも言える関係にあり、その中心にはプーチン大統領が存在しています。このような構造は、官僚機構の巨大さと、保守的かつ愛国的なロシア国民の存在により支えられています。

多くのロシア国民からはロシアを再び強大な国家にしたリーダーとして支持されています。

しかし、彼の統治下で人権や言論の自由への抑圧が問題視されることもあります。そのため、プーチン大統領の支配体制に対する評価は分かれるところです。

破壊と混乱から再生そして統制の時代へ

前述の通り、1990年代のエリツィン大統領の時代は、破壊と混乱の時代とされています。その期間は、ソ連の崩壊後の経済的、政治的な変動により、社会が大きな動揺を経験しました。その後、2000年代に入ってプーチンが大統領に就任すると、彼の政策はロシアの再生を促す方向に向かいました。経済改革、国有企業の再編成、メディアの統制など、プーチン政権下でのロシアは、徐々に安定してきました。

しかし、その安定は、中央集権と統制によって維持されています。言論の自由や民主的な議論は制約され、国民の選択肢は限定されています。プーチン政権下のロシアは、再生の時代から統制の時代へと移行しているとも言えます。

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