ロシアによるウクライナへの軍事介入は、多くの国々と国際組織によって非難され、国際的な緊張を高めてます。しかし、驚くべきことに、ロシア正教会のトップ、キリル総主教はこの侵攻を支持し、それを「聖戦」とまで表現しています。プーチン大統領との関係が「蜜月」と報じられ、両者の連携がこの戦争の背後にあると指摘されています。
本記事では、キリル総主教のこの問題に対するスタンス、そしてロシア政府と正教会との関係について探っていきます。
【ウクライナ危機(37)】宗教を利用したプーチンの政治的野心。侵攻の要因「ウクライナ正教会の独立」
Patriarch Kirill of Moscow
「聖なる戦い」の演出…ロシア正教会とウクライナ侵攻
ロシア正教会は、ウクライナ侵攻において積極的な役割を果たしています。
報道では、正教会の司祭である“キリル総主教”がモスクワ大聖堂での礼拝で、ウクライナに出征する兵士や戦車に対して聖水を振りかけ、国家親衛隊の将軍には聖火を渡して戦勝祈願をする場面が見られました。これはプーチン政権と正教会の「蜜月関係」を強調するものでした。
このような宗教的な儀式は、通常、人々が「聖戦」を演出する手段として用いられます。
「聖戦」とは、宗教的な理由で戦争を行うことを指す言葉であり、一連の行動は信者に対して戦争の“正当性”を強化するメッセージを送ることになっています。
また、信者に対して戦争の「正当性」を強化するメッセージが送られることで、政府と宗教団体の間で語られる「聖戦」の概念が社会全体に広まる恐れがあります。
その結果、宗教と政治の境界があいまいになり、一層の混乱を招く可能性があります。
このような行動は国際的(特に西洋諸国)から特に批判されており、宗教を政治的な目的に利用することに対する疑問と懸念が高まっています。一部の専門家や批評家は、これが国際法に反する可能性があると指摘しています。
ロシア正教会のトップ『キリル総主教』の発言とその意味
2022年2月24日、ロシアがウクライナへの軍事行動を開始した際、ロシア正教会の最高指導者のキリル総主教は、戦争を支持するような説教を展開しました。
(「総主教」とは正教会、東方諸教会における最高位聖職者であり、その位は教皇と同位)
特に2月27日に、キリル総主教はウクライナ侵攻に言及し、「私たちは今日、ウクライナの兄弟姉妹たちとの一致を必要としている」「私たちは、平和の回復と両国民間における良き友愛関係の再構築のために祈らなければならない」と述べました。
そして、その和解が「ウクライナのモスクワ総主教区派正教会によって保障される」との確信を示しました。
キリル総主教はさらに、「主なる神が、ロシアの地を維持してくださいますように」と祈り、ロシアの土地には「ロシア、ウクライナ、ベラルーシと他の民族や人々が含まれる」と説明しました。
そして、神がロシアの地を外敵や国内の秩序の混乱から守り、「私たちの教会の一致が強められ、神の慈悲によって、あらゆる誘惑、悪魔的な挑発が退けられ、ウクライナの信仰厚き人々が平和と安穏を享受できますように」と願いました。
これらの発言は、キリル総主教自身がロシアの軍事行動を事実上支持していると解釈できます。これは、リル総主教がウクライナのモスクワ総主教区派正教会との一致を強調し、ロシア、ウクライナ、ベラルーシを含む「ロシアの土地」を守ることを神に祈ったからです。
キリル総主教の立場は、ロシア正教会とロシア政府との関係の観点からも重要です。ロシア正教会は、プーチン政権と密接な関係にあり、国家の政策に影響を与える力を持っています。そのため、キリル総主教の発言が、ロシア政府の軍事行動に対する国内外の支持を高める役割を果たしている可能性が考えられます。
一方、この発言は、ウクライナの信者との和解を求めるものとも解釈されるかもしれません。キリル総主教は、教会の一致を強め、ウクライナの信仰深い人々が平和と安穏を享受できることを願っています。この解釈が正しい場合、キリル総主教の発言は、ロシア正教会が地域の和平と安定を求めているというメッセージを伝えるものとなります。
このように、キリル総主教が発したこれら言葉が、ロシアの軍事行動を正当化するものと受け取られるか、それとも、ロシア正教会が地域の和平と安定を求めているというメッセージとして受け取られるかは、解釈によって異なっています。
「宗教と戦争」ロシア正教会の役割と東方正教会の非難
ロシア正教会は、その歴史を通じて国家と深い関係を持ってきました。
シリア内戦時には、ロシアはシリア政府を支持し空爆を実施しました。その際、ロシア正教会はミサイルに聖水を振りかける祭式を行い、これが大きな話題となったこともあります。
このようなロシア正教会の戦争賛美のスタンスに対して、東方正教会は強く反発してきました。(東方正教会は、ロシア、中東、東欧を中心とする15の自立教会の連合体で、各教会がそれぞれの地域で重要な役割を果たしている)
ウクライナへの軍事行動に対して、キリル総主教が戦勝祈願や聖水を浴びせたことに対して、一部の東方正教会の指導者たちは懸念を示しました。
特に、ウクライナ正教会はロシア正教会の立場に強く反対しており、ロシアの軍事行動を非難しています。ウクライナ正教会のメトロポリタン・エピファニーは、ロシア正教会の行動を「神聖なる教会の教えに反する」と述べ、キリル総主教の行動を批判しました。
他の東方正教会の指導者たちも、ロシア正教会の戦争支持の立場に疑問を投げかけています。コンスタンティノープル総主教バルトロメオス1世は、全てのキリスト教徒に平和と和解を求めるメッセージを送り、教会の役割は、平和と愛を広めることであると強調しました。
このように、東方正教会の中でも、ロシア正教会のキリル総主教の行動に対して、様々な意見があります。
一部では、キリル総主教の行動を、ロシアの軍事行動を支持するものと解釈し、批判的な立場を取っています。また。教会の役割は平和と愛を広めることであり、キリル総主教の行動に慎重な立場を取っている指導者もいます。
キリル総主教とプーチンとの蜜月関係
キリル総主教は、2009年にモスクワ総主教に就任して以来、ウラジーミル・プーチン大統領との関係を緊密化に努めてきた。彼は西側の自由主義よりも、保守的な価値観を重視してきた。プーチン大統領は、映画監督オリバー・ストーンのインタビューで、正教会との蜜月について面白い逸話を紹介している。
プーチンは、キリル総主教に自身がロシア正教会に入る経緯を尋ねた際、総主教の父が司祭だったことを知った。それは、プーチンの故郷レニングラードの司祭で、プーチン自身が洗礼を受けた司祭と一致していた。プーチンはこれを「奇跡」として強調したが、他方では、キリル総主教が出世したのはこの洗礼のためで、後から偶然聞いたように小話に仕立てたのかもしれないという意見もある。
この逸話は、ロシアの政治と宗教がどれほど密接に結びついているかを示している。プーチン大統領は、キリル総主教との関係を強化することで、保守的な価値観を支持する国民からの支持を得られると考えている可能性がある。一方、キリル総主教は、プーチン大統領との関係を強化することで、教会の影響力を高め、信者に対しても、国家の行動を支持するメッセージを送ることができる。
キリル総主教のプーチン大統領への称賛
2012年にキリル総主教は、プーチン大統領の統治を「神の奇跡」と評し、ソビエト連邦の崩壊後に続いた経済的な混乱に終止符を打ったとの見解を示しています。キリル総主教は更に、プーチンが「わが国の歴史のねじれを修正するため自ら大きな役割を果たした」と称賛しました。
このような発言は、ロシアにおいて宗教と政治がどれだけ密接に関わっているかを示しています。特に、ロシア正教会はロシアの国家と深く結びついており、その影響力は非常に大きいです。キリル総主教のプーチン大統領に対する肯定的な評価は、教会が政府の方針をどのように影響・支持しているかの一例です。
批判と賛美の間
しかし、このような公然とした政治的な支持は賛否が分かれる場合もあります。特に、ウクライナ侵攻やシリアでの軍事行動など、ロシア政府の国際的な行動に対して教会が肯定的な立場を取ることは、教会内外での議論を呼び起こしています。
プーチン政権を批判する勢力を批判!?キリル総主教の立場
キリル総主教の政治的立場は、彼の行動と発言から明らかになっています。
- 反体制派の抗議運動に対する批判: キリル総主教は、反体制派の抗議運動を痛烈に批判し、政府との密接な関係を浮き彫りにしました。例として、ロシア正教会の聖堂でプーチン大統領を批判する曲を演奏した女性パンクバンド「プッシー・ライオット(Pussy Riot)」のメンバーが禁錮刑の判決を受けた時、多くの信徒の懇願にもかかわらず、キリル総主教は厳しい判決を支持しました。
- 「家庭の価値観」の擁護: キリル総主教は、ロシアの人口減少に歯止めをかける運動の土台となる、いわゆる「家庭の価値観」を回復する政府の取り組みを支持しています。
キリル総主教のこれらの立場は、ロシア正教会の影響力と、教会と政府との関係の深さを示しています。プーチン政府とロシア正教会は、多くの点で価値観を共有しており、政府の政策や行動に対して教会が公然と支持を示すことで、その政策や行動の正当性が強化されると考えられます。
また、このような支持が、ロシアの社会的・政治的な文脈において、政府の政策に対する一般の支持を高める役割を果たしている可能性も考えられます。反面、教会と政府との密接な関係は、教会の独立性や、政府の決定に対する批判的な視点を持つ人々にとって、問題視される可能性もあります。
ロシアの宗教多様性と「政教分離」
ロシアは多宗教国家であり、イスラム教、仏教、ユダヤ教、プロテスタント、カトリックなど様々な宗教や宗派を信仰する人々が住んでいます。ロシアの宗教政策は、「政教分離」の原則に基づいていると公言されています。
「政治と宗教は分けるべき」政教分離の原則
「政教分離」の原則は、国家や自治体が特定の宗教団体や教派と結びついてはいけないとする憲法上の原則です。
一方で、この原則は各国で異なる解釈がなされています。例えば、日本の憲法では、国による宗教活動・宗教支援活動を禁止していますが、宗教が政治に関与することは問題視されていません。米国でも、特定の教会・教派と国家の分離は求められていますが、宗教が政治に関与することは許されています。
ドイツでは、キリスト教民主同盟(CDU)のような宗教政党が政治活動を行い、国民の支持を得ています。これは、政教分離の原則が、特定の教派が政治権力を行使することを制限する、という意味で解釈されているからです。
政教調和とロシアの宗教
ロシア正教会の場合、政教調和の考えがビザンチン時代(6世紀頃)から根付いています。
「政教調和」とは、政治と宗教が協力し、互いに支え合いながら社会を運営する考え方です。ロシア正教会の場合、ビザンチン帝国時代からこの考え方が根付いていました。ビザンチン帝国では、皇帝が神に次ぐ存在とされ、宗教的な権威も持っていました。このため、政治と宗教は密接に結びついていたのです。
ロシアでは、ビザンチン帝国の崩壊後も、この政教調和の考え方が引き継がれました。モスクワ大公国、そしてロシア帝国時代においても、皇帝がロシア正教会と密接に関連していました。ロシアの皇帝は、自らをビザンチン帝国の後継者と位置づけ、政治的・宗教的な権威を持っていました。
現代でも、ロシア正教会はロシアの政治と密接に関わっています。政府と教会は協力し合い、社会の安定と発展に寄与しています。ただし、このような関係が、政治的な影響力を持つ教会による政治介入や、逆に政府による教会への介入を招く可能性もあるため、批判の声もあります。
プーチンとロシア正教会
プーチンの政権下で、ロシア正教会は国の政治、文化、社会生活の中で重要な役割を果たしています。プーチンは、ロシアの伝統的な価値観を保護し、国のアイデンティティを強化するために、ロシア正教会との関係を強化してきました。
プーチンの立場からすると、ロシア正教会との関係強化は、国内の結束を強化し、国際的な舞台でのロシアの位置付けを強化するための戦略的な選択であるとも考えられます。
宗教多様性への影響
ロシアの公式な立場は、全ての宗教が平等であるというものです。しかし、ロシア正教会と政府との密接な関係は、他の宗教団体にとっては不平等な状況を作り出している可能性があります。
政府とロシア正教会との関係が強化されることで、他の宗教団体の影響力が低下する可能性があります。これは、特にイスラム教徒や他の宗教団体の信者にとって、不満や不安を生む可能性があります。
また、ロシアの政教関係の特殊性は、国際的な舞台でのロシアのイメージにも影響を与える可能性があります。他の国々から見たロシアのイメージは、政府とロシア正教会との関係によって、ある程度影響を受ける可能性があります。
ロシアの新たな憲法では神に言及!?
2020年のロシアの憲法改正は、ロシアの政治体制における重要な変更をもたらしました。
この改正は、プーチン大統領の権力を強化し、プーチンの支配を固めるものでした。
具体的には、大統領の任期に関連する3選禁止規定が修正され、プーチン大統領が2036年まで大統領職にとどまることができるようになりました。また、大統領は首相を解任することができる権限を持ち、閣僚に対する人事権も強化されました。
簡単に言えば、プーチン大統領の任期がリセットされ、自身がさらに2期、大統領としての再選を可能とするものでした。
国民投票の必要性
憲法の規定によれば、「修正」は、下院の3分の2以上、上院の4分の3以上の賛成に加え、全連邦構成主体の3分の2以上の立法機関での承認によって成立します。
したがって、法的には国民投票は不要です。しかし、2020年の憲法改正において、プーチンは法的に不要な国民投票を実施しました。これにはいくつかの理由が考えられます。
- 正当性の強化: プーチンは、憲法改正に国民の支持を得ることで、その改正がロシアの人々によって支持されているという強力なメッセージを送りたかった。これは、国際的な批判に対抗するため、また国内での反発を抑えるために重要だった。
- 政権の安定化: 改正がプーチンの権力を強化し、彼の支配を固めるものであったため、国民の承認を得ることで、彼の政権の安定化を図ることができた。
- 国民の参与感を高める: 国民投票を通じて、ロシアの人々に憲法改正に参与する機会を与え、政府に対する信頼と、国家への所属感を高めることができた。
以上のように、法的には不要な国民投票をあえて実施することで、プーチン政権は、その正当性を強化し、政権の安定化を図り、国民の参与感を高めることができたと考えられます。
憲法の修正には本来は国民投票は不必要
そして、国民投票の実施に向けてプーチンの肝煎りで急ピッチで進められました。これには、プーチン大統領の20年間の統治の集大成とも言える以下の内容が盛り込まれました。
- 対外主権の強調:国家が自らの領土や国益を守るために外部の干渉を拒否することを意味します。これは国家の独立性や自己決定権を重視する考え方であり、他の国や国際機関からの指示や干渉を最小限に抑えることを目指します。
- 大統領権限の強化:大統領がより強力な権限を持つことを意味します。これにより、大統領はより広範な政治的な決定を行い、政策の実施に関与することができます。結果として、大統領は国家の運営において中心的な役割を果たすことができます。
- 集権的垂直統治:統治が中央集権的であり、権力や意思決定が上位から下位へと一方的に行われる形態のことを指します。
- 保守愛国理念:国家の伝統や文化、価値観を尊重し、それを守りながら国家の繁栄と発展を追求する思想や信念のことを指します。
そして、2020年の国民投票の結果、約78%の賛成を得て、2020年7月1日に新憲法が施行されました。改正は承認され新憲法が施行されました。
その後の改憲プロセスは全てプーチン大統領によって制御され、指示され、進められました。プーチンの意向に沿ってプロセスが進行し、重要な決定はプーチンによって下されました。
これにより、既存の法制度や議会での審議プロセスが軽視され、プーチン大統領の意向が強く反映された憲法が成立したのです。
新憲法の特徴と神への言及
新憲法では、ロシアの法律が国際法よりも優先されると規定された。これは、ロシアの主権と独立性を強化し、国際的な圧力に屈しない強い国家を構築するための重要なステップです。
また、新憲法には“神”への言及が盛り込まれました。これは、キリル総主教のロシア正教会の価値観を日常生活に根付かせる努力の結果でした。
保守主義と国家主義が強調されたのは、67条に新たに加えられた条項で、ロシア連邦を「ソ連の法的継承国」と位置づけ、「千年の歴史によって団結し、我々に理想および神への信仰、ならびにロシア国家発展の継続性を授けた祖先の記憶を保持するロシア連邦は、歴史的に形成された国家の統一を認める」と記述されました。
さらに、「ロシア連邦は祖国の防衛者を追悼し、歴史的真実の保護を保障する。祖国防衛に関する国民の功績の意義を貶めることは、認められない」と、軍人を讃え、愛国心を前面に打ち出しました。
キリル総主教は、ロシア正教会の価値観を日常生活に根付かせる努力をしてきました。2020年に成立した新憲法に神への言及が盛り込まれたことで、その取り組みは絶頂期を迎えました。
政治生命に関わる問題をロシア国民から“神論争”で覆い隠すため
ロシアにおける宗教と政治の関係は複雑であり、特に共産主義時代には宗教は抑圧される一方で、ロシア正教会は政権と一定の癒着を持っていました。そのため、ソビエト連邦の崩壊後もロシア正教会が持つ社会的・政治的な影響力に対する議論は絶えません。
新憲法で「神」への言及が加えられたことは、このような背景を持つロシア社会でさまざまな反応を呼び起こす可能性があります。一部のロシア消息筋によれば、プーチン大統領が新憲法で「神」を導入した背後には、国内での“神論争”を巧妙に利用し、国民の関心を自身の政治的問題から逸らす意図があるとされています。
具体的には、新憲法による「神」の導入は、社会的な対立を煽り、プーチン自身の政治的問題、特に大統領の任期に関する議論を覆い隠す可能性があるとされています。そのため、プーチン大統領が自身の政治的野望のために「神」を利用しているとの批判も存在します。
また、新憲法の72条で婚姻を「男性と女性との結びつき」と明示し、同性婚を排除した点も、保守主義の高まりと関連しています。総主教はこのような保守的な価値観を支持し、同性愛を罪とまで言い切っています。
総主教の影響力が高まることで、ロシア正教会が宗教的少数派に対する取り締まりを歓迎するという状況もあり、この新憲法がもたらす社会的・政治的影響は極めて広範であり、その後の動きに注目が集まっています。
キリル総主教の背景
キリル総主教、俗名グンジャエフ・ヴラジミール・ミハイロヴィッチは、1946年11月20日、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)に生まれました。プーチン大統領、オリガルヒ(新興財閥)、シロビキ(セキュリティー・フォースのメンバーまたはそれに連なるエリート集団)といったロシアの政治・経済の中心人物たちと同様に、総主教もサンクトペテルブルグ出身です。
キリル総主教の家族背景には、ソビエト時代の抑圧が影響を及ぼしています。キリルの祖父は司祭でしたが、ヨシフ・スターリンの統治時代に強制労働収容所に送られ、約30年間を過ごしました。一方で、キリル総主教自身は、このような抑圧の時代においても、教会内でスピード出世を果たしました。
スピード出世
キリルは、1970年に神学校を卒業した後、ロシア正教会内で素早く昇進しました。キリルは外交部門に所属し、その後渉外部長になりました。
その後、テレビで宗教思想をテーマにした冠番組を持つに至りました。キリルがロシア正教会の最高指導者(総主教)に就任した時、キリルはすでに誰もが知る有名人になっていました。
キリル総主教は、テレビを使って旧ソ連時代の無神論によってダメージを受けた教会のイメージを刷新しました。彼は、学校や軍隊といった国家機関で教会の存在感を高めるという壮大な計画を提唱しました。
そして、総主教として、その構想を実現させました。これは、教会が社会における役割を再確立し、国家の中での影響力を増すというキリル総主教の野望の一部でした。
キリル総主教のリーダーシップの下で、ロシア正教会が1億1000万人超の信者を抱える巨大な組織として、ロシア社会におけるその影響力を高めました。
キリル総主教とプーチンの関係
2009年2月、リル府主教はアレクシイ2世の後を継ぎ、ロシア正教会の最高位(モスクワ総主教)に就任しました。
就任以来、キリル総主教は一貫してプーチンを支持しています。一方、2000年に大統領に就任したプーチンは、共産党の代わりに人々の心を掴むために宗教は有効であると考え、ロシア正教会を支援し始めました。
プーチンとキリル総主教の関係は相互利益の関係であると考えられています。プーチンは、教会の支持を得ることで、その権威を強化し、国内外での支持を得られると考えました。一方、キリル総主教は、プーチンの支援を受けることで、教会の影響力を高め、教会の役割を再確立することができました。
ソビエト時代のロシア正教会
ソビエト連邦時代、ロシア正教会は国家保安委員会(KGB)の厳しい監視と管理の下に置かれました。共産主義政権は、宗教を「人民のアヘン」とみなし、その影響力を抑えるために、教会の活動に多くの制限を課しました。この時期、多くの教会関係者が逮捕され、迫害され、あるいは弾圧されました。
KGBは、教会の内部情報を把握し、教会の活動を制御するために、教会内部にスパイを送り込みました。そのため、一部の聖職者はKGBと連携し、その指示に従って行動することが求められました。この事実は、ソビエト連邦の崩壊後、ロシア正教会の信頼性に大きな影響を与えました。特に、KGBと連携していたとされる聖職者が、その後、教会の高位に昇進したことは、多くの議論を引き起こしました。
プーチンと正教会
2010年に、プーチン政権がソビエト時代に没収された正教会の資産を教会に返還したことで、教会は膨大な量の不動産を所有することとなり、キリル総主教は突如として大富豪となりました。
しかし、その後の報道により、キリル総主教の資産が注目を浴びることとなります。
2019年には、ロシアの独立メディア「ノーバヤ・ガゼータ」が、キリル総主教の資産を約40億から80億ドル(約5兆1400億から1兆3000億円)と推算しました。
また、2020年には、ロシアの探査専門メディア「プロエクト(Proekt)」が報じたところによれば、キリル総主教は親戚と共にロシアに約287万ドル相当の不動産9軒を所有しているとされました。
さらに、キリル総主教は、3万ドル相当の高価なブランド時計を持っていることについても、多くの批判を受けました。
キリル総主教は2012年に、「時計は持っているが着用したことはない」と述べましたが、後に時計を着用している写真が公開され、その写真が画像操作で時計が削除されたことが明らかになりました。
聖職者が宮殿に!?
また、キリル総主教は、聖職者としての立場にも関わらず、クレムリンの宮殿内に住んでいるとされ、その豪奢な生活様式が問題視されることがありました。
その豪奢なライフスタイルと、ロシア政府との密接な関係は、教会と政府の役割、そして教会のリーダーの生活様式について、一部の人々からの批判を招きました。
これらの批判は、ロシア正教会の信頼性や、教会のリーダーの道徳性に疑問を投げかけるものであり、一部の人々にとっては教会のイメージを損なう要因となっています。
ロシア正教会の政治色の強化とプーチン
キリル総主教の時代から、ロシア正教会は政治色が強まり、教会と政府の関係が深まっていきました。特に、プーチン大統領とキリル総主教との間の関係は非常に強力で、お互いに影響を与え合っています。
アメリカとの関係が悪化する中で、プーチン大統領は国内を統一し、安定させるために宗教の重要性を高めました。キリル総主教も、政権の意向に沿い、その地位を強化しました。
キリル1世の海外資産
欧米メディアによれば、キリル1世は他のロシアのオリガルヒと同様、海外に資産を持っているとされています。これは、教会のトップが政治的な影響力を持つだけでなく、経済的な力も持っていることを示唆しています。
さらに、ロシアの大富豪であるオリガルヒたちの資金が教会に入ってきているとされています。これは、教会と経済的エリートとの関係が深いことを示しています。
資産の透明性の欠如
しかし、教会の資産内容については専門家でも分からない部分が多く、その多くは闇に包まれています。
KGBエージェント!?キリル総主教の闇
フォーブスやタイムズ紙などが報じた情報によれば、キリル総主教はソ連時代にKGBのエージェント(コーっドネーム:ミハイロフ)であったとされています。
KGBと教会指導者のつながりを調査している英国の作家フェリックス・コーリーも、KGBとロシア正教会、特にキリル総主教のつながりについて調査し、「キリルがKGBのエージェントであったことは疑いようがない」と断言しています。このような過去の関係は、ロシア正教会が政治的にどれほど影響力を持っているかを示しています。
コーリーによれば、ソビエト時代末期には、正教会を含む宗教の指導者がKGBと協力することは一般的だったとされています。
ソ連崩壊後のロシア正教会と諜報機関の繋がり
ソ連の崩壊後、ロシア正教会はロシア愛国主義のイデオロギーを称揚し、特にプーチン大統領の信任が厚いとされています。さらに、ロシア正教会はKGBの後継機関であるFSB(連邦保安庁)やSVR(対外諜報庁)とも良好な関係を維持しているとされています。
ウクライナ侵略とロシア正教会
キリル総主教は、ウクライナに対するロシアの行動を全面的に支持しています。具体的には、「NATOが約束を守らず、ロシアとの国境に近づき、軍備を増強してきた。さらに、西側はウクライナの人たちを再教育してロシアの敵に作り変えようとした」とプーチンの言葉を引用し、西側諸国を批判しています。
諜報機関との関係
キリル総主教がかつてKGBのエージェントであったとされていることを考慮すると、彼の発言には諜報機関との繋がりが影響している可能性があります。これは、ロシアの諜報機関が、国の政策を強化し、国際的な影響力を拡大するために、ロシア正教会を利用している可能性を示唆しています。
キリル総主教とプーチン大統領の「ルースキー・ミール」ビジョン
キリル総主教とプーチン大統領は、いくつかの共通の目標とビジョンを持っていますが、特に「ルースキー・ミール」(ロシア的世界)というコンセプトにおいて、彼らの考え方と目的が一致しています。
ルースキー・ミールの意味
「ルースキー・ミール」という言葉は、直訳すると「ロシアの世界」または「ロシア的世界」となります。この言葉は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシなど、東スラブ語圏全体の文化的、精神的、歴史的な連帯を指します。プーチン大統領にとって、この言葉は、旧ソ連、そしてそれ以前のロシア帝国の領土を含む、ロシアの正当な勢力圏を示します。
二人の共通のビジョン
プーチン大統領とキリル総主教は、この「ルースキー・ミール」のビジョンを共有しています。プーチン大統領は、このビジョンを政治的、戦略的に解釈し、ロシアの地政学的影響力を拡大しようとしています。一方、キリル総主教は、このビジョンを精神的、宗教的な側面から解釈し、ロシア正教会の影響力を強化し、東スラブの世界におけるロシアの文化的、精神的リーダーシップを確立しようとしています。
ウクライナ問題
このビジョンは、ウクライナの問題においても強く反映されています。プーチン大統領は、ウクライナを「ルースキー・ミール」の一部と見なし、その統合を強く望んでいます。
実際にプーチンは、ウクライナ侵攻の3日前に、「ウクライナは我々にとって単なる隣国ではない。ウクライナは我々の歴史、文化、精神世界と不可分の存在だ」と述べています。
ロシア正教と「ルースキー・ミール」ウクライナの特別な役割
ロシア正教の観点から、「ルースキー・ミール」はただの政治的または地理的なコンセプトよりも深い宗教的、歴史的な意味合いを持っています。特にウクライナは、ロシア正教にとって非常に特別な地位を占めています。
ウクライナとキリスト教化の歴史
西暦988年、ウラジーミル大公はキリスト教に改宗し、その後ロシアにキリスト教をもたらしました。この出来事は、キーウ大公国(現在のウクライナ)で発生しました。
この歴史的な瞬間により、ロシア、ウクライナ、ベラルーシなどの東スラブの地域は、宗教的なつながりによって強く結びつけられました。
キリル総主教の主張
キリル総主教は、ウクライナの首都キーウが「エルサレム」と同等の重要性を持つと言い、教会法に基づき、ウクライナとロシアが深く結びついていると強調しています。加えて、ロシア正教会がキーウから誕生したため、その地域との精神的なつながりを断ち切ることは不可能だと彼は考えています。
しかし、この宗教的・歴史的なつながりがある一方で、ウクライナには独自の宗教、文化、政治的なアイデンティティも存在します。そのため、ロシアとウクライナの関係は、単に宗教的なつながりだけでは説明できない複雑なものとなっています。
軍事と宗教の結びつき
「ルスキー・ミール」というビジョンは、ロシア国内で非常に宗教的な意味合いを持っています。これは特に軍隊において顕著で、正教会の聖職者がしばしば軍の士気を高める役割を果たし、愛国心を高める活動をしています。
ロシアの軍事力、特に核戦力を扱う陸海空の3軍には、それぞれ守護聖人がおり、これがまた正教会と軍の深い関係性を象徴しています。このような結びつきは、軍事活動が「神聖な使命」を担っているとの認識を強化しています。
シリア内戦におけるロシアの介入も、正教会によって特定の宗教的枠組みで解釈されています。ロシア正教会は、シリアでのロシアの役割を「十字軍」として位置づけ、少数派のキリスト教徒を保護する神聖な使命として熱心に宣伝していました。
この見方は「NATO vsロシア」の対立は「コンスタンティノープル vs モスクワ正教会」の対立としても展開してく
ロシア正教会の幹部は、ロシアとウクライナを「宗教的、精神的に西側の脅威から防衛しなければならない」と考えています。
この考え方は、NATOとロシアの間で進行中の代理戦争の文脈で、特に重要になっています。この対立は、コンスタンティノープル系の正教会とモスクワ系の正教会の間でも展開されており、ロシアとウクライナの宗教的、文化的、そして政治的な結束が、西側、特にNATOの拡大に対する防衛として強調されています。
ウクライナ正教会の分離
2018年、ウクライナ正教会の一部の教派はロシア正教会との関係を断ち切りました。この行動はキリル総主教を激怒させました。
キリル総主教は、ロシア、ベラルーシ、ウクライナの国家は同じものであり、その中心はモスクワにあるという帝国主義的な考え方を持っています。そのため、彼にとって、ウクライナの教会も、従来どおりロシア教会に属する立場でなくてはならないと考えられています。
この立場は、ロシアのプーチン大統領の見解と一致しています。
実際にウクライナに侵攻する前の2022年2月21日、プーチン大統領は、ウクライナは独立国家としての正当性がなく、ロシアの軌道に戻すべきだと主張しました。プーチンの言葉、「我々にとって、ウクライナは単なる隣国ではなく、我々の歴史、文化、精神空間の不可分の一部だ」というものは、そのままキリル総主教の考えが反映されてるのがわかります。
ウクライナ正教会の独立とロシア正教会
2019年1月、当時のウクライナ大統領、ペトロ・ポロシェンコは、モスクワのキリル・モスクワ総主教聖庁よりウクライナ正教会を独立させることに成功しました。これはコンスタンチノープルのバーソロミュー全地総主教が公に認めたためです。
この成功に至るまでにはいくつかの試みがありました。
2007年、ヴィクトル・ユシチェンコ大統領(当時)が交渉に当たりましたが成功しませんでした。しかし、2014年のロシアによるウクライナへの軍事介入を機に、ウクライナでは正教会独立の機運が決定的に高まりました。
2017年、ペトロ・ポロシェンコ大統領(当時)が再び交渉し、条件付きで独立を承認されました。正教会にはローマ・カトリック教皇のような世界全体を統括するような組織は存在しないため、コンスタンティノープル総主教庁が独立問題に介入することは異例中の異例でした。
2018年4月、反露路線を取るポロシェンコ大統領は、コンスタンチノープル総主教のバルトロメオ1世にウクライナ正教会の独立の承認を訴える嘆願書を提出しました。
同年8月31日、これに対し、露正教会のキリル総主教もバルトロメオ1世と会談し、キリル総主教は「ウクライナ正教会は露正教会の管轄下にある以上、コンスタンチノープルにウクライナを独立させる権限はない」とする立場を伝えました。
2018年10月、コンスタンティノープル総主教庁はウクライナ正教会の独立を承認しました。これにより、ウクライナ正教会はロシア正教会の支配から解放され、自主的に運営することが可能となりました。バルトロメオ1世は、この決定がウクライナの信者にとっての信仰の自由を保証するものであり、ウクライナの人々の選択を尊重するものであると述べました。
しかし、ロシア正教会はこの決定を認めず、キリル総主教はコンスタンティノープル総主教庁との全ての関係を断絶すると宣言しました。彼はこの決定が違法であり、分裂を招くものであると主張しました。ロシア正教会は、ウクライナ正教会の独立がウクライナ国内での教会の分裂を引き起こし、地域全体での宗教的な対立を激化させるとの立場を取りました。
ウクライナ側では、この決定を歓迎し、独立を祝う声が上がりました。一方で、ロシア側では、ウクライナの分離と、これに続く教会の分裂が、ロシアの地域的な影響力の低下、そして国際社会での立場の弱体化をもたらすとの懸念が高まりました。
そして、2019年にウクライナ正教会は、コンスタンティノープル総主教庁からの独立の認定を受け、正式にウクライナ独立正教会として設立されました。
しかし、この独立は正教会を通じたロシアとウクライナの一体性を主張するプーチンとキリル・モスクワ総主教にとって大きな打撃でした。これに怒ったモスクワ総主教は、コンスタンチノープル全地総主教との関係を事実上断絶しました。
『2022年ロシアのウクライナ侵攻』では好戦的な説教を展開
2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻以降、ロシア正教会の最高位の指導者であるキリル総主教は、好戦的な説教をおこない、ロシアとウクライナの歴史的な一体性を損なおうとする「敵」に対する制圧と、そのための国民的な団結を強く呼び掛けました。
「退廃した文化を享受する欧米社会に対するロシア側の戦い」
「ドンバス地方のロシア人たちは、退廃した欧米文化に長年苦しんできました。その救済のためにプーチン大統領はウクライナへの特別軍事作戦を行っているのです」
この発言はウクライナ侵攻後の3月6日のもので、キリル総主教はロシアのウクライナへの軍事介入を全面的に支持する立場を明確しました。
また、この発言は冷戦時代のアメリカ大統領、ロナルド・レーガンの「善悪闘争論」を逆転させるものでした。
レーガンは、1981年から1989年までの在職中、共産主義世界を「悪の帝国」と位置づけ、対照的に民主主義世界を「善」とて扱いました。
しかし、キリル総主教はこの概念を180度転換させ、欧米文化―特に同性愛の容認や薬物の流行―を「悪」とする新たな善悪闘争を提唱したのです。
ウクライナに攻めるロシア軍は十字軍!?「正義と悪の黙示録的戦い」
キリル総主教は、ウクライナへの侵攻を「正義と悪の黙示録的戦い」と表現し、その結果が「神の加護を受けられるか否かという人類の行方を決めることになる」と述べました。これにより、キリル総主教はウクライナへの侵攻を、単なる地政学的な争いではなく、宗教的な視点から見た、善と悪、神と悪魔の戦いと解釈しました。
プーチン大統領にとって、ウクライナへの侵攻はロシアの政治的な復権を目指すものでした。しかし、キリル総主教にとって、このウクライナ侵攻は神の意志を果たす、十字軍のように扱ったのです。
「ウクライナ民族を地球上から抹殺するのが貴方たちの任務である」ロシア兵士に配布
ロシア正教会は、ロシア軍の兵士に、「ウクライナ民族を地球上から抹殺するのが貴方たちの任務である」と書かれた配布物を配りました。この配布物は、ブリャンスク管区のロシア正教会が作成し、「貴方はロシアの戦士である、貴方の任務はウクライナの民族主義から祖国を守ることだ、貴方の任務はウクライナ民族を地球上から抹殺することだ、貴方の敵は人間の魂に罪深い損害を与えるイデオロギーだ」と書かれていました。
ウクライナのニュースウェブサイトは、この配布物を取り上げ、「ロシア軍兵士にとって正教会関係者の指示はウクライナ民族に対する暴力に限り免罪符を与えている」と指摘しました。
この事実は、ウクライナ侵攻が、平和なウクライナ人をナチズムから解放するという建前を失っていることを示しており、侵攻のロシアの動機が、ウクライナ民族を「地球上から抹殺する」という極めて暴力的なものに変わっていることを示しています。
「ブチャの虐殺」が報じられた日…キリル総主教は侵攻支持を表明
2022年4月、モスクワ郊外のロシア軍大聖堂内で、ロシア正教会の最高指導者、モスクワ総主教キリル1世が、ウラジーミル・プーチン大統領のウクライナ侵攻を支持する講話を行いました。
この日は、ロシア軍がウクライナの首都キーウ郊外の町ブチャでウクライナ市民を大量虐殺したとの報道を受け、西側の指導者らが非難した同じ日でした。
キリル1世は、「ファシズムを打ち破ったのはわれわれだ。もしロシアがいなければ、世界を征服していただろう」と語りました。彼は、第2次世界大戦でナチスの侵攻にロシアが勝利したことを記念する壮大な建物の中で、この言葉を述べました。
すぐ近くでは、軍服を着た多くのロシア兵が聞き入っていました。
この講話は、ロシア正教会がウクライナ侵攻において政府の立場を全面的に支持していることを示すものでした。キリル1世は、ロシアが過去にナチズムを打ち破った歴史的な背景に言及することで、現在のウクライナ侵攻を正当化し、軍の士気を高めようとしたのです。
ウクライナ正教会の独立・自治とロシア正教会の立場
キリル総主教は、2019年12月にも、正教会内部の一致に関わる問題として、「邪悪な勢力(evil forces)」と発言していました。この発言の背景には、正教会世界において、2014年以来、特に激しくなった、教会法上の問題、「ウクライナ正教会の独立・自治」についての議論がありました。
つまり、キリル総主教の発言は、今回のウクライナ侵攻のみを背景に発せられたものではないことがわかります。
それでも、複雑な状況が絡み合う情勢の中で、ロシア正教会の最高位であるキリル総主教の発言は安易に聞き流すことはできません。
ウクライナ正教会の自治と独立は、ウクライナ国家の主権と同様に、ウクライナの国民にとって非常に重要な問題であり、これがウクライナの政治、社会、そして宗教の三つの側面での独立性を確保する鍵であると考えられています。
そのため、キリル総主教の発言とロシア正教会の立場は、ウクライナとその独立した正教会に対して、非常に重大な意味を持っています。キリル総主教は、ロシア正教会の影響力を強化し、ロシアの政治的、軍事的立場を支持するため、これらの発言を行ったと考えられます。
ロシア正教会と武器の祝福…倫理的矛盾
ロシア正教会、特にその最高位の指導者であるキリル総主教は、その言動においてしばしば批判の対象となっています。特に、戦争で使われる武器を「祝福」したり、他の聖職者たちに闘争を呼び掛けたりすることが問題視されています。このような行動は、一般的にキリスト教の平和と愛に関する教えとは矛盾しているように見えます。
ロシアでは、新車や新居、宇宙船「ソユーズ(Soyuz)」に至るまで、神の加護を得るために司祭による清めの儀式が広く行われています。ロシア正教会は「武器を手に祖国を守る行為は称賛に値する」と解釈しており、その結果として聖職者は兵士とその所持する武器や乗り物を祝福しています。
聖職者たちの道徳的ジレンマ
ソ連崩壊後、の儀式はさらに広がりを見せ、軍隊や航空機、船舶に加え、カラシニコフ銃や核弾頭の搭載が可能な弾道ミサイル「イスカンデル(Iskander)」など、さまざまな兵器に対しても清めの儀式を行うようになりました。
問題は、二十世紀になって生まれた大量破壊兵器です。核兵器や毒ガス、生物兵器は、大量かつ不特定の人の死をもたらします。核弾道ミサイルには、兵士が乗っているわけでもありません。
これに対して、改革派の聖職者たちは、「大量破壊兵器を、旧来の武器と同列に扱って良いのか」という疑問を募らせてきました。
聖職者のジレンマ
確かに、聖職者たちは祖国を守る行為を支持し、兵士たちの安全を祈る役割がありますが、キリスト教の平和を愛する教えとの間にジレンマを抱えています。
これは、キリスト教の教えが愛と平和、敵への寛容を奨励する一方で、聖職者たちも国と国民を守るためには、時に兵士を支持し、武器を使うことを支持しなければならないという現実があるためです。
キリスト教の教義と兵器の祝福
キリスト教の教えとして、聖書では「愛しなさい、あなたの敵を」(マタイ5章44節)と記されており、愛と平和、敵への愛情と寛容を奨励しています。キリスト教の教えは基本的には非暴力、相手を尊重し、愛と平和を追求するものなのです。
しかし、ロシアの司祭らが多くの無関係な人々の命を奪う可能性のある大量破壊兵器を祝福する行動は、この教えと矛盾していると考えられます。
キリスト教の多くの伝統では、戦争は最終的な手段として、ある条件下で正当化される場合があります。これは、通常「正戦論」(Just War Theory)として知られています。しかし、正戦論でも、無差別に多数の市民を殺傷する行為は許容されていません。
したがって、改革派の聖職者たちの懸念は十分に正当化されるものであり、大量破壊兵器の祝福について再考することは、キリスト教の教義と一致するものと言えます。
大量破壊兵器への祝福反対運動
ロシアの聖職者たちの中には、大量破壊兵器に対する祝福をやめるべきだと主張する声が高まっています。モスクワ総主教庁は、公式ウェブサイトで「大量破壊兵器の聖別はロシア正教の伝統に即していないし、儀式の趣旨から逸脱している」とする改革案を発表しました。
モスクワ総主教庁のツトゥノフ司教は、「私たちはあくまで祖国を守る戦士として、兵士を祝福しています。同様に、兵士が携行する武器も祝福しますが、これは武器が兵士とつながりがあるものだからです。大量破壊兵器の祝福を兵士の祝福と同列にするべきではありません」と訴え、大量破壊兵器の祝福を兵士の祝福と同列にするべきではないとの立場を取りました。
この改革案とツトゥノフ司教の発言は、ロシア正教会、そしてキリスト教全体にとって、信仰と現実の間でのバランスを取るための重要なステップとなる可能性があります。
対立する意見
モスクワ総主教庁の改革案に対して、核兵器の祝福を取り止める動きには、激しく抵抗する意見も存在します。ロシア正教会の「長司祭」と呼ばれる立場の聖職者ドミトリー・スミルノフは、核兵器を「素晴らしい発明」と評し、それが旧ソ連時代を含めてロシアの存在を保ったと主張しました。
元モスクワ総主教庁の広報担当者フセヴォロド・チャップリンは、「核兵器こそが、西側諸国による奴隷化から祖国を守る守護天使です」と述べ、核兵器の祝福に賛意を表しました。
ロシア正教会には、サロフの聖セラフィムという「核兵器の守護聖人」も存在しています。これは、ロシアが宇宙船ソユーズMS-02を打ち上げる際に、宇宙飛行士らがお守りとして聖セラフィムの聖遺物を機内に持ち込んだという事実を考慮すると、非常に興味深い点となります。
ロシア正教会に存在する核兵器の守護聖人
サロフの聖セラフィムは、近代で最も尊崇される正教会の聖人の一人です。ロシアの皇帝であったニコライ2世とその皇室一家は、特に彼を崇めていました。セラフィムの没後70年、1903年に、その不朽体がサロフで見つかったことを機に、皇帝自らが積極的に働きかけ、彼の列聖を実現しました。
そのため、聖セラフィムは、ロシア正教会、特に皇室にとって、非常に重要な存在となっています。彼が「核兵器の守護聖人」とされることは、ロシアの信仰と核兵器に対する態度、およびその相互関係について、多くの示唆を与えています。
正教会の聖人「サロフの聖セラフィム」
サロフの聖セラフィムは、ロシア正教会において、近代で最も尊崇される聖人の一人で、特にニコライ2世の皇室一家に愛されていました。セラフィムは、1759年にロシアのクルスクで生まれ、34歳の時にサロフ修道院に入り、修道士としての人生を送りました。
セラフィムは、修道院での生活の中で、神への愛と献身を深め、数々の奇跡を起こしたとされています。そのため、彼の死後も、多くの人々が彼の霊的な力を信じ、サロフに詣でていました。
1903年、セラフィムの死後約70年が経過した時、セラフィムの不朽体がサロフで発見されました。これを機に、当時のロシア皇帝、ニコライ2世が積極的に働きかけ、セラフィムの列聖を実現しました。
ロシア正教会の聖地「サロフ」の歴史
サロフの歴史は古く、12〜13世紀にさかのぼることができます。この地域は、古くから修道院が存在していたため、帝政ロシア時代には、ロシア正教の聖地として知られていました。サロフ川に隣接して建てられた古い修道院が、その中心でした。
この地域で最も尊崇されている聖人、サロフの聖セラフィムは、この地の森林で修行を行いました。セラフィムは、深い信仰心と、神への献身的な生活を送っていたため、セラフィムの存在は、サロフ地域における正教会の信仰の象徴となりました。
また、サロフのセラフィムには、熊がなついていたという言い伝えもあります。これは、セラフィムの優しさと、自然界に対する敬意を示す物語として語り継がれています。
秘密核兵器開発都市「アルザマス16」サロフの近代史
サロフは、旧ソ連時代には「アルザマス16」という名前で知られ、秘密核兵器開発の都市として重要な役割を果たしました。サロフ(アルザマス16)は、16世紀以来知られる有名な修道院の跡地で、帝政ロシア時代には、ニコライ2世を始めとする皇帝一家も訪れていました。
ボリシェヴィキによって1920年代に修道院が廃止され、その後、労働コミューンや収容所が置かれました。1938年10月12日、ソ連邦人民委員会議決議により、収容所は機械製造人民委員部へ移管され、1939年7月10日には、ソ連邦人民委員会議付属国防委員会がサロフ修道院の跡地に152mm砲弾工場の建設を決定しました。
第二次世界大戦中、サロフの「第550号施設」(サロフ機械製造工場とも)では、12時間労働2交代制が敷かれ、ここで製造されたロケット弾「カチューシャ」の砲弾(M13)は、戦争終結までに20万発に達しました。
弾薬人民委員のБ.Л.ヴァンニコフと、爆薬を担当したЮ.Б.ハリトンは、1946年にサロフを核センターに改造する際に、候補地を選定する役割を果たしました。
ソ連の原爆製造とロシア正教
ソ連の原爆製造計画は、極秘裏に進行していましたが、その一部は、現在のニジニ・ノヴゴロド州、サロフで行われました。1946年4月、サロフには核開発センターが設立され、後に閉鎖都市とされ、アルザマス16と名付けられました。この都市はソ連の核開発の中心となりました。
第二次世界大戦中、弾薬人民委員のБ.Л.ヴァンニコフと、爆薬を担当したЮ.Б.ハリトンは、「カチューシャ」用の爆薬を開発し、戦後、サロフを核センターに改造する際、候補地を選定する役割を果たしました。
当時、宗教に関連した話題はタブー視されていましたが、振り返ってみると、アルザマス16やトムスク7などの施設は、もともとロシア正教の施設でした。特に、サロフ(アルザマス16)は、ロシア正教の聖地として非常に有名でした。
サロフの核開発センターとツァーリ・ボンバ
サロフの核開発センターは、ソ連の核兵器開発の重要な役割を果たしました。1949年、セミパラチンスク(現在のカザフスタン領)で、最初の原爆実験に成功しました。そして、その後の開発では、1961年に、史上最大の水素爆弾、通称「ツァーリ・ボンバ(爆弾の王様)」の製造と実験に成功しました。
この爆弾は、広島型原爆の3300倍の威力を持っていました。この成功は、ソ連が冷戦時代の核兵器開発競争で、アメリカに対抗する能力を持っていることを示す重要な瞬間でした。この水爆の開発成功は、世界中で議論を呼び起こし、核軍縮の重要性が再認識される一因となりました。
今も核開発などの研究が行われている
ソビエト連邦の崩壊後、アルザマス16は再び旧名、サロフに戻されましたが、その機能は変わらず、核開発や物理学研究は今もなお続けられています。そのため、サロフは依然として、特別な許可なくしては立ち入ることができない閉鎖都市のままです。
サロフは、ロシアの核兵器開発、そして物理学、特に核物理学の研究の中心地の一つであり、その重要性はロシア連邦時代でも変わっていません。この街には、高度に訓練された科学者や技術者が集まり、ロシアの科学技術の進歩に貢献しています。また、サロフはその歴史と、ロシア正教の聖地としての側面も持ち合わせています。
ウクライナに侵攻した「ロシアが悪」ではない?プーチン支持者の視点
2022年のウクライナ侵攻の発端は、2014年のクリミア半島の併合以降でロシアが更なる領土拡張を計画していたという見方が国際的に広く共有されています。
ウクライナの東部・南部での紛争において、ウクライナ人とロシア人の間で発生した対立は、これまでにも多くの命を奪い、最大で8万人が死亡したとも言われています。現状に対する国際的な評価は、ほとんどが「ロシアが悪い」という方向に傾いています。
しかし、このような評価には全員が賛同しているわけではありません。プーチン支持者の視点から見ると、この紛争の発端は2016年2月にあるとされています。
教皇フランシスコとモスクワ総主教キリルの歴史的会談
プーチン支持者によるロシアとウクライナの紛争に対する見解として、2016年2月12日に教皇フランシスコとロシア正教会のキリル・モスクワ総主教との会談が重要な位置を占めているとされています。
この会談は、キリスト教の東西分裂が起きた1054年以来、11世紀ぶりに行われたもので、その重要性は極めて高いものでした。
教会間の関係
キリル総主教は15の大手ローカル正教会を率いているため、キリスト教世界で最も権威のあるリーダー2人が会談するという事態となりました。
以前にも、1964年にはローマ法王パウロ6世と東方正教会のコンスタンティノープル総主教アテナゴラスが会談し、緊張緩和に向けた前進がありました。
さらに、2014年には法王フランシスコとコンスタンティノープル総主教バルソロメオス1世が統一への努力を強化する共同宣言に署名しています。
ロシアとカトリック教会の緊張関係
しかし、ロシア正教会とカトリック教会との間には、特に旧ソ連諸国でのカトリック教会の布教活動が拡大するにつれて緊張が高まっていました。
先々代の故ヨハネ・パウロ2世をはじめ、これまで融和に向けた努力が続けられてきましたが、会談は実現していませんでした。
この会談は、20年以上にわたっての懸案であり、フランシスコ法王によれば、その準備は2年がかりで秘密裡に行われていたとのことです。
場所と参加者
この歴史的な会談は、キューバのラウル・カストロ国家評議会議長の仲介によって、キューバの首都ハバナのホセ・マルティ国際空港で実現しました。
出迎えと抱擁
会談では、白い帽子と聖衣に身を包んだ法王フランシスコと、白い頭飾りと黒の聖衣に身を包んだキリル総主教が、互いに抱擁し、キスを送った後に着席し、笑顔を見せました。フランシスコ法王は、キリル総主教に「やっと(会えた)」と叫び、「われわれは兄弟だ」と述べ、抱擁を交わしました。
歴史的な背景
フランシスコ法王は、米国とキューバの国交正常化交渉の仲介役を担ったこともあり、この会談は、両国間だけでなく、両教会間の関係においても、新たなページを開くことを期待されていました。正教会の報道担当者は、「中南米という新しい世界で両教会関係の新たなページを開くことを期待している」と語りました。
イスラム過激派との戦いでの連携
教皇フランシスコとロシア正教会のキリル総主教は、イラクやシリアで迫害を受けるキリスト教徒の保護に焦点を当てた共同宣言に署名しました。この宣言では、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)による暴力やテロ撲滅に向けて、国際社会に行動を求める内容が含まれていました。
会談の後、キリル総主教は「2つの教会は今日、世界のキリスト教徒保護のため積極的に協力できるようになった」と述べ、対話と協力の継続に前向きな姿勢を示しました。
東西教会の和解と地政学
教皇フランシスコとロシア正教会のキリル総主教との会談は1000年近くに及ぶ歴史の中で、長いキリスト教の東西分裂を克服するための一歩となりました。この和解は、文化的や宗教的側面だけでなく、地政学的な側面も持っています。プーチン政権は、この和解を欧米との関係修復に利用したいと考えているようです。
共同宣言とウクライナ問題
共同宣言にはウクライナ問題に関する指摘が2つあります。一つ目は、ギリシャ・カトリック教とギリシャ正教の間の緊張に対する和解と共存の必要性。二つ目は、ウクライナでの敵対行動に対する慎重な対応と平和構築の呼びかけです。これらはウクライナ内でのカトリックと正教徒(主にロシア人)の間の緊張と紛争に明確に言及しています。
ロシア側は、この共同宣言を根拠に「ウクライナ内戦を、ロシア軍を使って終結させる」と主張しています。この主張は、NATOとウクライナが「ロシアによるウクライナ侵攻」と位置づける行動と矛盾しています。
このような状況の中で、キリル総主教がプーチンを支持することは、この時に築かれたバチカンとの関係に悪影響を与える可能性がありました。
【ウクライナ危機(39)】国際的なキリスト教世界が結束、ロシアへの批判拡大。ウクライナ正教会が関係断絶へ―『孤立するロシア正教会』