【ウクライナ危機(37)】宗教を利用したプーチンの政治的野心。侵攻の要因「ウクライナ正教会の独立」

ウクライナの政治的状況とロシアの干渉は、数多くの要因から成る複雑な組み合わせであり、その一部は歴史的、文化的、そして経済的な背景を持っています。しかし、あまり知られていない一因が、ウクライナ正教会の独立問題です。

この記事では、ウクライナ危機における宗教的な背景と、プーチンの政治的野心がどのように交錯しているのかを詳細に探っていきます。

【ウクライナ危機(36)】プーチンを振り払いEU加盟への決意!侵攻の要因「ユーラシア連合」
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いま起こっているのは「新冷戦」ではない。世界政治の最大の焦点は宗教だ!ウクライナ危機の深層、現代ロシアと宗教との関係、国際秩序の変容を文明論、歴史的視点から解き明かす。(「BOOK」データベースより)

Ukrainian Orthodox Church

「ロシア正教を破壊している」プーチンの野心とウクライナ正教会の独立

BBC News – Русская служба/YouTube

ウクライナとロシア、そしてNATOとの関係性は、近年緊張が増しています。この緊張の一因として、ウクライナ正教会の独立問題が浮上しています。ロシア正教会を政治的ツールとして利用するプーチンの野心を探ると、この問題の背後には深い背景が見えてきます。

プーチン vs ウクライナ!宗教で激化する対立の裏側

2022年2月21日、ロシアのプーチン大統領はテレビ演説において、ウクライナ政府のロシア正教会に対する姿勢を鋭く非難しました。彼の言及した「ロシア正教」とは、ウクライナに存在するモスクワ総主教区派正教会のことを指しています。以下は、その発言のポイントと背景についての概要です。

  1. プーチン大統領の主張
    • ウクライナのキエフ政権は、モスクワ総主教区の正教会に対する圧迫を進めていると主張。
    • ウクライナ政府はロシア正教会の「教会分裂」という悲劇を国政の道具として使用していると批判。
    • 信仰者の権利を守る法律の撤廃に対するウクライナ国民の要請が無視されているとも指摘。
  2. ウクライナの対応プーチン大統領の発言に対し、ウクライナ政府は具体的な反応を示していないものの、これに先立つウクライナ正教会の独立宣言に関しては、国内での独立性とナショナルアイデンティティを強化するものとして位置づけています。
  3. 背景と今後の動向ロシアとウクライナの間には、歴史的・文化的背景が深く結びついています。特に宗教の領域では、両国のナショナルアイデンティティや政治的立場が絡み合っており、その対立がエスカレートすることで、更なる緊張の原因となり得るとの懸念が指摘されています。

このように、ウクライナの宗教問題は、単に信仰の領域を超えて、両国の政治的緊張の中心となっています。

世界の正教会、ロシア&ウクライナが圧倒的な理由!

ロシア正教会は、キリスト教東方正教会の中で最も影響力のある派閥として知られています。2億6000万人を超える信者を持ち、これは東方正教会全体の信徒数の大部分を占める巨大な数字です。

特に興味深いのは、ロシアとウクライナの信者の合計数は、世界の他の正教会の信徒全員を合わせた数を上回ることです。この統計からも、ロシア正教会の中心的な役割とその地域における影響力の大きさが理解できます。

モスクワ総主教庁の下で信仰を守っている1億3600万人の信徒のうち、約4分の1はウクライナ人です。また、モスクワ総主教庁が管理している1万8000カ所の教会区の3分の1はウクライナに位置しています。これは、ウクライナがロシア正教会にとってどれほどの重要性を持つかを示しています。

この密接な関係は、宗教だけでなく、文化、歴史、政治の面でも深く結びついています。ウクライナ正教会の独立動向は、このような背景からも、ロシア正教会とモスクワ総主教庁にとって大きな意味を持つことがわかります。

SLICE/YouTube

プーチン大統領の意外な洗礼の秘密と名前の背景

ロシア国民の大部分は正教徒であり、ロシアの指導者であるウラジーミル・プーチン大統領も例外ではありません

洗礼の背後には興味深いエピソードが存在します。プーチンの父親は共産党員であり、宗教に批判的な立場を持っていました。それにもかかわらず、彼の母親は息子を秘密裏に洗礼を受けさせました。その際、聖職者は、洗礼の日が大天使ミハイルの日であったことから、プーチンに「ミハイル」という名前を提案しました。しかし、彼の母親は、夫が既に息子に自身の名前である「ウラジーミル」と名付けたと伝え、提案を断りました。

プーチン大統領はこのエピソードを引き合いに出し、「正教徒『ミハイル・プーチン』の話」として公に語ったことがあります。また、自身の両親の追悼ミサが行われたキリスト変容教会との繋がりを強調しました。この教会は1977年以来、現キリル総主教の実兄が運営しています。

さらに、プーチンは、キリスト変容教会との特別な関係を公に語っている。この教会は1977年から、現在のキリル総主教の実兄が運営しており、プーチンの両親の追悼ミサもこの教会で行われたという。これらの出来事からは正教会との縁やプーチン自身の信仰に対する深い敬意が感じられます。

東方正教会の成り立ちと信仰の意味

東方正教会(Eastern Orthodox Church)はキリスト教の一宗派で、ギリシア正教会やロシア正教会などの名で呼ばれることもあります。

これらの教会はすべて東方正教会に属しています。その名前に「東方」という言葉が付けられているのは、カトリックやプロテスタントが主に西欧で発展しているのに対し、東方正教は中近東、バルカン半島、ロシアなどで発展してきたためです。

東方正教会自身は、「東方正教会」という名前を認めているものの、多くの場合、自らの教会を単に「正教会」と称しています。

「正教会」の語源、神の讃えと教え”

「正教会」(Orthodox Church)という名称は、ギリシャ語の「オルソス(正しい)」と「ドクサ(教え・讃美)」から派生しています。

この名前は、正教会が「正しい教えを持つ教会」や「正しく神を讃美する教会」という意味を持っていることを示しています。これはロシア語においても同様で、ロシア語では「プラバ(права, 正しい)」、「スラーブナヤ(славная, 讃美する)」、「ツェルコフь(церковь, 教会)」という言葉で表現されます。

古代ローマ帝国から始まったギリシャ正教

ギリシャ正教の起源は、かつてローマ帝国全体に広がっていたキリスト教にあります。395年のローマ帝国の分裂に伴い、首都ビザンチウム(後のコンスタンティノープル)を中心に東ローマ帝国は、皇帝の下で新しいキリスト教の形態を模索しました。

このコンスタンティノープルの教会は、教義や典礼の守り手としての役割を強調し、「正しいキリスト教」としてのアイデンティティを築き上げました。その後、特にギリシャ地域での発展に伴い、ギリシア正教と名乗るようになったのです。

最高位の称号「コンスタンティノープル総主教」

キリスト教は、カトリック、プロテスタント、東方正教という3大宗派に分かれています。その中で、東方正教会は信徒数約2億5000万人と言われており、カトリック教会やプロテスタントに比べると、教会の組織体系や信仰の実践に特有の特徴があります。

東方正教会の特徴の一つとして、各国の正教会が対等の地位にあることが挙げられます。これは、カトリック教会のローマ法王のような、一つの中心的な権威が存在しないという意味での対等性です。ただし、コンスタンティノープル総主教は「世界総主教」とも称され、名誉的な意味で最高位の称号を持っています。

信徒数はロシアとウクライナが中心

信徒数においては、ロシアとウクライナが大きな割合を占めています。実際、これら2つの国の信徒数を合計すると、他の全世界の正教会信徒を上回るほどです。

特に注目すべきは、モスクワ総主教庁の管轄する約1億3600万人の信徒の中で、4分の1がウクライナ人である点です。さらに、モスクワ総主教庁の教会区1万8000カ所のうち、3分の1はウクライナに位置しています。

プーチンは神の代理人? ロシア正教の驚きの信念とは

カトリック教会とロシア正教は、いずれもキリスト教の一部ですが、神学的な解釈や信仰のアプローチに違いがあります。中心的な違いの一つは、イエス・キリストの性質に対する認識です。

カトリックではキリストを「真の神、真の人」として、神と人の二つの性質を完全に持つ者と理解しています。

ロシア正教もキリストの二重の性質を教えていますが、信仰の実践や祈りの中で、キリストの人間性が強調されることがあります。

この差異は、ロシア正教の信者たちが神と化した人間、すなわち完全に神に仕える人を求める気持ちを反映しています。

この理解の違いは、長い間続く教会の対立や違いの背景となってきました。特にロシアでは、この宗教的な感覚が国家統治にも影響を与え、統治者を「神の代理人」とみなす文化が形成されてきました。

現代の皇帝!?プーチンと神の意志に見るロシアの政治

帝政ロシアの時代、ツァーリ(皇帝)は神の代理人としての役割を果たしていました。この伝統的な統治者観は、現代ロシアの政治文化にも影響を与えていると言われています。

現在、プーチンはロシアのリーダーとして強大な権力を持っており、彼の統治スタイルや意志が、一部のロシア人には「神の代理人」としての役割を継承するものとして受け止められている可能性があります。

このような背景を考慮すると、プーチンの政策や行動、例えばウクライナへの介入など、はロシア国民の一部には「神の意志」として受け入れられることが考えられます。ただし、ロシアの社会は多様であり、すべてのロシア人がこのような感覚を共有しているわけではないという点は重要です。

正教の影…プーチンの手腕が築いた新たなるロシア

近年のロシアでは、国家の威信やアイデンティティの回復を求める声が高まっています。この背景の中で、プーチン大統領はロシア正教会との緊密な連携を図り、それをロシアのアイデンティティ回復の核心として位置づけてきました。

実際、ソビエト時代にはロシア正教会は抑圧され、共産党との癒着問題も浮上しており、ソビエト連邦の崩壊後も、その影響を乗り越えるのに時間がかかりました。

しかし、プーチンが大統領となったことで、この状況は大きく変わりました。彼はロシア正教会を国政における重要なパートナーとして位置づけ、国民の愛国心や統一感の強化に活用してきました。

さらに、彼自身も公然と教会の行事や祝日に参加することで、自らの信仰を示し、敬虔な正教徒としての姿勢を強調してきました。

このような取り組みにより、プーチンはロシア正教会の復興と、それを通じた国家アイデンティティの再構築の中心的な役割を果たしてきたと言えるでしょう。

Al Jazeera English/YouTube

Russian Orthodox and Ukrainian Orthodox

ロシア正教とウクライナ正教の複雑な関係

Al Jazeera English/YouTube

古代のキリスト教世界において、特定の都市や地域がキリスト教の中心として発展し、それぞれの地域の教会を指導する役割を担っていました。

これらの中心的都市の主教たちは「総主教」として知られており、彼らの中で最も重要だったのがローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、イェルサレム、アレクサンドリアの5都市の総主教でした。

これらの都市は、その権威と影響力から「五大総主教座」とも呼ばれていました。

395年、ローマ帝国は東西に分裂しました。この分裂は、キリスト教界にも影響を及ぼし、特に教義や典礼の面での違いが明確になりました。

西ローマ帝国の中心地であるローマでは、ローマ・カトリック教会が発展し、教皇を頂点とする組織構造を持つようになりました。

一方、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では、首都コンスタンティノープルを中心に、独自の典礼や慣例が発展しました。このビザンツ帝国のキリスト教は、今日私たちが「東方正教会」と呼ぶものとなりました。

東方正教会は、特定の典礼やアイコンの使用、聖体奉仕の仕方など、西のカトリック教会とは異なる伝統や慣習を持っています。両教会の間には、教義や教えの違いも存在し、これらの違いは1054年の大分裂を通じて明確となり、以降、2つの大きなキリスト教の伝統が確立されることとなりました。

「スラヴの聖人」キュリロスとメトディオスの宣教師としての旅

キュリロスとメトディオスの兄弟は、9世紀にスラヴ人にキリストの教えを伝えるための重要な活動を行った宣教師であり、彼らの功績はスラヴ文化とキリスト教の歴史において非常に重要です。

スラヴ人とギリシャ語の交流地「港町テサロニケ」

キュリロスとメトディオスはギリシャの重要な港町テサロニケで、貴族の家庭に生まれました。この都市はギリシャ語とスラヴ語の双方が話される場所として独特の位置を占めていました。

これはスラヴ人がこの地域に数多く住んでいたためです。

キュリロスとメトディオスはこうした多文化的な背景の中で育ち、彼らの母親がスラヴ人の血を持っていたと言われるほど、家族自体もスラヴ文化と深い関係があったと考えられます。

この多文化的環境は、2人がスラヴ文化や言語に自然と触れる機会を増やしました。特に南スラヴ族の言語を学ぶには絶好の環境でした。

Monument of Saints Cyril and Methodius, Skopje
コンスタンティノープルで磨かれたキュリロスとメトディオス

また、彼らの教育はテサロニケだけに留まらず、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルにも及びました。この大都市での学びは、2人にさらに広い視野をもたらし、キュリロスは特に哲学や神学において高い教養を身につけました。

これが後に、彼が宮廷付の司祭としての地位を得る基盤となりました。一方、メトディオスは政府の官職に就く道を選びましたが、後に彼の心は宗教に傾き、修道院での生活を選択しました。

ビザンツからの宣教!兄弟のモラヴィアでの歴史的足跡

ヨーロッパの歴史において、さまざまな民族や文化の移動と交流は常に進行していました。ゲルマン民族の西方への移動の後、スラヴ系の諸民族は東ヨーロッパの大部分を占めるようになりました。これらのスラヴ人は、多くの部族国家を形成し、文化と言語を発展させていきました。

モラヴィア(現:スロバキア)は、これらのスラヴ系部族国家の一つであり、ロスチスラフ王の下で急速に発展しました。

ロスチスラフ王は、自国の人々にキリスト教の教えを広めるため、宣教師の必要性を強く感じていました。しかし、西のローマ教会との関係が複雑であったため、ロスチスラフ王は東のビザンツ帝国に目を向けました。

862年、ロスチスラフ王の要請を受けて、東ローマ皇帝ミカエル3世はキュリロスとメトディオスの兄弟をモラヴィアに派遣しました。

これは、スラヴ人へのキリスト教宣教の重要なターニングポイントとなりました。兄弟はスラヴ人の言語と文化に精通していたため、彼らの活動はモラヴィアの人々にとって非常に受け入れやすかったのです。

「グラゴル文字誕生」兄弟からスラヴ民族への贈り物

スラヴ民族の中には、9世紀の初めにはまだ固有の書記体系を持っていない集団も多かった。それは、スラヴ諸民族が主に口伝での伝達を用いてきた結果であり、書物や文書を残す習慣が形成されていなかったからです。この文化的背景の中でキュリロスとメトディオスの宣教活動は開始されました。

兄弟は、聖書や祈祷書をスラヴ人に理解しやすい形で伝える必要性を痛感しました。そこで彼らは、スラヴ民族の言語に合わせて新しいアルファベット「グラゴル文字」を開発しました。

これにより、初めてスラヴ民族は文章を書き記す能力を得ることができました。この文字の導入によってスラヴ民族は、口頭の伝統から脱却し、知識や歴史を文字に残す文化が育まれるようになりました。

更に、この文字を用いて「教会スラヴ語」という統一された文章語が形成されました。これにより、スラヴ諸民族間での交流が容易になり、文化や知識の共有が進みました。

兄弟の功績がもたらしたスラヴ人の教育革命

兄弟は、自らが開発した新しいアルファベットを使用して、キュリロスとメトディオスは聖書や祈祷書をスラヴ語に翻訳しました。これにより、スラヴ人は自分たちの言語でキリスト教の教えを学び、神との関係を深めることができるようになりました。

キュリロスの死後、弟子たちがグラゴル文字をさらに発展させ、これを「キリル文字」として確立しました。このキリル文字は、その後のスラヴ系言語の発展において中心的な役割を果たし、現代に至るまでロシア語やブルガリア語、ウクライナ語、セルビア語などで使用されています。

Elektrick Me/YouTube
「スラヴ人の使徒」キュリロスとメトディオスが残した遺産

キュリロスとメトディオスの宣教活動の影響は、スラヴ諸民族の宗教や文化に深く刻まれています。彼らの努力によって、多くのスラヴ民族がキリスト教に改宗しました。この変革は、ただの宗教的な変遷に留まらず、スラヴ諸民族の歴史やアイデンティティの形成にも深く影響を与えました。

スラヴ諸民族の間でキリスト教が受け入れられる過程は、必ずしも平穏ではありませんでした。異なる宗教や信仰、伝統を持つ地域や部族が存在しました。

しかし、キュリロスとメトディオスの誠実な働きにより、多くのスラヴ人がキリスト教の教えに感銘を受け、その信仰を受け入れるようになりました。

二人の兄弟は、スラヴ諸民族の文化や言語に深い尊敬と理解をもって接し、そのため彼らの宣教活動は効果的でした。彼らはスラヴ人に合わせた方法で教えを広め、彼らの文化や言語を高めるための新しい文字や語彙を導入しました。

兄弟のこのような取り組みは、彼らがスラヴ諸民族に与えた影響の大きさを示しています。彼らの宣教活動と、それに伴う文化や教育の普及は、スラヴ諸民族の歴史やアイデンティティの形成において、中心的な役割を果たしました。

その功績から、キュリロスとメトディオスは「スラヴ人の使徒」として、スラヴ諸国では今も高く尊敬されています。彼らの生涯と業績は、スラヴ諸民族の信仰と文化の発展に不可欠なものとして、後世に伝えられ続けています。

ビザンツからロシアへ…正教会の変遷とスラヴ諸民族の信仰の歴史

キュリロスとメトディオスによるスラヴ人への布教活動は、その後のスラヴ諸民族の歴史に大きな影響を与えました。

ビザンツとの交わり!ルーシのキリスト教国家誕生!!

10世紀後半、東スラヴの地において、キエフを中心とした国家が登場します。これが「キエフ大公国」または「ルーシ」と呼ばれる国家です。このルーシは、初めは多神教を信仰する民族から成り立っていましたが、10世紀の終わりに向かって、キリスト教の影響を受け入れるようになりました。

988年、キエフ大公ウラジーミル1世はキリスト教を受容し、ルーシ全体の国教とした。これにより、ウラジーミル1世は洗礼を受け、キエフ大公国はビザンツ式のキリスト教国として、東欧におけるキリスト教の中心地となりました。

これは、ビザンツ帝国との緊密な関係を背景に、キリスト教の受容が進んだ結果であり、ルーシの歴史や文化に深くキリスト教が根付くこととなりました。

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ルーシの試練と再生…モンゴル支配下の正教会の役割

1240年、モンゴルの大軍がキエフを占領し、キエフ大公国はモンゴル帝国の一部となりました。このモンゴルによる侵攻は、ルーシの政治的・社会的構造に深刻な影響を及ぼしました。多くの都市や村が破壊され、多くの人々が死亡したり、奴隷として連れ去られました。

しかし、モンゴルの支配下で、ルーシの正教会は一定の自由を享受していました。モンゴル帝国は異なる宗教を容認する政策をとっており、正教会もその例外ではありませんでした。

キエフ大公国が滅亡した後、正教会の組織は一時的にコンスタンティノープル総主教庁の直轄となり、ビザンツ帝国の影響をさらに強く受けるようになりました。

この期間、多くの修道院や教会が再建され、ルーシの正教会は徐々に力を取り戻し始めました。モンゴルの支配下での正教会の活動は、ルーシの文化やアイデンティティの維持に重要な役割を果たしました。

キエフの没落とモスクワの興隆!正教会の移動と権威の転移

キエフ公国が13世紀にモンゴル帝国の侵攻を受ける中、その権威は急速に失墜しました。キエフの府主教は、より安全な場所を求めて、まずウラジミールへ、その後モスクワへと主教座を移しました。この移転は、モスクワ公国の重要性が増してきたことを示しています。

モスクワ公国は、モンゴルの宗主権の下で独自の政策を採りながら、その影響を最小限に抑える策を取っていました。特に、モスクワ公国の公(公爵)たちは、正教会を重視し、その庇護者としての役割を果たすことで、モンゴルの支配からの独立性を強化しようとしました。

「政治的・宗教的な影響力の強化」モスクワ広告の台頭と周辺地域の併合

14世紀に入ると、モスクワ公国は周辺の小公国を次々と併合し、その領土を拡大していきました。これにより、モスクワ公国は東スラヴ地域での主要な政治的・宗教的中心地としての地位を固めていった。モスクワの府主教は、この新しい中心地での活動を通じて、モスクワ公国と緊密な関係を築いていきました。

ビザンツ帝国の滅亡と正教会の変遷

1453年、ビザンツ帝国の滅亡が正教会の命運を大きく変えることになります。コンスタンティノープルの陥落以前、ビザンツ帝国はキリスト教東方教会、特に正教会の中心であり、世界中の正教徒から尊重されていました。

しかし、この都市の征服により、正教会の総主教はイスラム帝国の支配下に置かれることとなりました。

驚くべきことに、オスマン帝国は新たに征服したキリスト教徒のコミュニティに対して相対的な宗教的自由を提供しました。

正教会は存続を許され、オスマン帝国の支配下でのキリスト教徒の代表として機能し続けました。しかし、この時期に正教会は多くの挑戦に直面しました。

その主な理由は、イスラム教徒の多数派の中での少数派の地位、そしてオスマン帝国の行政体系の中でのその役割でした。

キリスト教の象徴からイスラムの象徴へ

オスマン帝国の支配下で、コンスタンティノープルはイスタンブールとして再定義されました。多くのキリスト教の教会や修道院がモスクに変わりました。

もっとも顕著な例は、アヤソフィア大聖堂がアヤソフィアモスクとして変えられたことであり、これはキリスト教の象徴的な建造物がイスラムの象徴に変わったことを示しています。

この変革は、正教会の精神的中心がビザンチン帝国からロシアや他の東欧の国々へと移動するきっかけとなりました。特にモスクワ公国(ロシア)は、自らを「第三のローマ」とみなし、ビザンツの後継者としての役割を主張し始めました。

「ビザンツ滅亡とロシアの台頭」モスクワの正教会と第三のローマの役割

ビザンツ帝国滅亡の5年前、1458年にモスクワの正教会が独立を宣言しました。この背景には、ビザンツ帝国の衰退とロシアのモスクワ公国の台頭がありました。

ビザンツ帝国の衰退とオスマン帝国の脅威を背景に、東方正教会の新しい中心としてモスクワが位置づけられることとなります。

ツーモスクワ公イヴァン3世は、ビザンツ皇帝の姪を妻とし、ビザンツ帝国の二重鷲をモスクワ公国の紋章として採用した。これは、モスクワがビザンツの正当な後継者としての自己認識を持っていたことを示している。

しかし、モスクワの正教会の独立宣言は、コンスタンティノープル総主教庁の正式な認可がされていなかったため、式な形では認められませんでした。この出来事以降、モスクワの正教会と他の正教会との間には長い間緊張状態が続いていきました。

その後、モスクワ(後のロシア帝国)の政治的、経済的な成長とともに、モスクワの正教会もまたその影響力を増していきました。ロシアは「第三のローマ」としての役割を自認し、正教の保護者としての地位を確立。

15世紀から17世紀にかけて、ロシア正教会は大きな教会の改革を進め、それにより更なる独自性を確立していきました。

ロシア正教会が正教会の公布文書(トモス)を受け取っていないという事実は、正教会の伝統的な構造とモスクワの政治的立場との間の複雑な関係を示しています。

それにも関わらず、ロシア正教会は東方正教会の中で非常に重要な役割を果たしており、今日もその役割を続けている。

モンゴル支配からのモスクワ独立とウクライナとの結びつき

1480年、イヴァン3世のリーダーシップの下、モスクワ公国はモンゴル帝国の占領からの独立を果たしました。この出来事は、モンゴル帝国による長い支配期間、通常「タタールのくびき」として知られる時期の終結を意味しました。

イヴァン3世は、統一の過程でロシアの各地の公国や領土を併合していき、その勢力範囲を拡大しました。ウクライナの一部もこの拡大するモスクワ公国の影響下に入ることとなった。

イヴァン3世は、この増大する領土と権威を反映して「ヴェリーキー・クニャージ(大公)」という称号を使用し始めました。これにより、モスクワ公国という名称はモスクワ大公国として知られるようになりました。

スラヴ文化とキリスト教の拠点がキエフからモスクワへ

ウクライナの歴史の文脈から見ると、キエフ公国はスラヴ人の文化やキリスト教の伝播の中心として栄えた地域であり、その後のモスクワ大公国の興隆は、ある意味でキエフの正統性を乗っ取る形でのものと捉えられることもあります。

ウクライナ人の中には、キエフ公国の歴史や文化を重んじ、モスクワの影響下にあった時代を批判的に捉える人々もいます。

ビザンツの継承者としてのモスクワの役割と正教会の新たな中心地

イヴァン3世の治世下で、モスクワは文化的、政治的、宗教的な中心地として発展しました。クレムリンと赤の広場の建設は、この時代のモスクワの発展と権力の象徴としての役割を果たしました。

イヴァン3世がビザンツ帝国最後の皇帝、コンスタンティノス11世の姪ソフィア・パレオロゴスと結婚したことは、モスクワとビザンツの関係の深化を示すものでした。

ビザンツの歴史や伝統、象徴を受け継ぐことで、モスクワは正教の新たな中心としての役割を主張しました。ツァーリという称号は、ローマの皇帝を意味する「カエサル」から派生したもので、これを用いることでイヴァン3世は、ビザンツ帝国の後継者としてのモスクワの役割を明確にしました。

モスクワ大公国の強化とともに、正教会も大きな発展を遂げ、後のロシア正教会の基礎を築くこととなりました。この時代やや後のロシア帝国の成立とともに、正教会は東スラヴ地域の主要な宗教としてその地位を確立し続けたのです。

ロシア正教会の昇格!モスクワ総主教庁の成立と影響

1589年には、イェレミアス2世コンスタンティノープル総主教がロシア正教会モスクワモスクワの正教会の地位を「総主教庁」に昇格させることを認めました。

それまでモスクワの正教会は、府主教区の地位にありましたが、この昇格によって、モスクワの正教会の首座も「総主教」という称号を名乗ることが正規に認められたのです。

この決定には、モスクワの正教会の影響力と地位の向上を反映するとともに、正教会の世界におけるヒエラルキーを調整する意味が含まれていました。ロシアの国家が急速に成長し、正教会がその中心的役割を果たしていたため、この昇格は正当であると考えられました。

このことは、ロシア正教会の国際的な位置付けを強化する重要なステップでした。この決定により、モスクワは正教の世界における重要な中心地として認識されるようになりました。

これらの出来事を通じて、ロシアは次第に東方正教の中心としての地位を確立していき、同時にカトリックやプロテスタントの勢力からの影響を防ぐ役割も果たしました。

しかし、この昇格には条件が付与されていました。イェレミアスⅡ世はモスクワ総主教に「総主教」という称号の使用こそ認めたものの、コンスタンティノープル総主教の上位性を認めることを要求したのです。これは、正教会の伝統的な階層構造を保持するための措置でした。

正教の新たな秩序!モスクワ総主教庁の誕生

ロシア正教会の歴史における1589年の出来事は、正教会内のヒエラルキーにおける重要な転換点となった。この年に、コンスタンティノープル総主教イェレミアスⅡ世はモスクワの正教会を「総主教庁」に昇格させることを認めました。

それまでモスクワの正教会は、府主教区の地位にありましたが、この昇格によって、モスクワの正教会の首座も「総主教」という称号を名乗ることが認められました。

この決定には、モスクワの正教会の影響力と地位の向上を反映するとともに、正教会の世界におけるヒエラルキーを調整する意味が含まれていました。ロシアの国家が急速に成長し、正教会がその中心的役割を果たしていたため、この昇格は正当であると考えられました。

モスクワ総主教庁昇格の背後にある条件

しかし、この昇格には条件が付されていました。イェレミアスⅡ世はモスクワ総主教に「総主教」という称号の使用を認めたものの、コンスタンティノープル総主教の上位性を認めることを要求しました。これは、正教会の伝統的な階層構造を保持するための措置でした。

このモスクワとコンスタンティノープルの間の関係は、時折緊張を伴うことがあるものの、基本的なヒエラルキーは今日まで維持されています。そして、コンスタンティノープル総主教は今も「第一にして同等(primus inter pares)」としての地位を保持しているのです。

「ウクライナ VS ロシア」キエフ・ルーシのアイデンティティ論争

キエフ・ルーシの歴史とその後のスラヴ諸国の発展についての認識は、ウクライナとロシアの間で長年の議論となってきました。この古代の国家のアイデンティティは、現代の両国の文化的および政治的アイデンティティの中心的な部分として位置づけられています。

ウクライナの視点

ウクライナ人の多くは、キエフ・ルーシを現代のウクライナ国家の直接の前身として見ています。彼らにとって、キエフは「ウクライナの母」として知られる都市であり、キエフ・ルーシの時代に繁栄した文化や伝統は、現代のウクライナのアイデンティティの基盤を形成しています。

また、ウクライナの多くの歴史家や学者は、キエフ・ルーシの主要な文化や宗教活動がキエフ周辺で起こったことを強調しています。

ロシアの視点

一方、ロシア人の多くは、キエフ・ルーシを現代のロシアの歴史的前身として認識しています。彼らは、「ルーシ」という言葉が「ロシア」の語源であることを指摘し、キエフ・ルーシの歴史はロシアの歴史の一部であると考えています。

モンゴルの侵攻後、キエフ・ルーシの一部がモスクワを中心とする北東ルーシに移動し、これが後にロシア帝国の形成につながったという歴史的背景をもとに、ロシア人はキエフ・ルーシの遺産を自らのものとして主張しています。

問題の核心

このアイデンティティ論争の中心には、歴史の解釈とその歴史が現代の国家アイデンティティにどのように影響するかという問題があります。キエフ・ルーシの歴史は、ウクライナとロシアの両国で異なる方法で解釈され、それぞれの国のアイデンティティと自己認識を形成する上での基盤となっています。

以上のように、キエフ・ルーシのアイデンティティ論争は、単なる歴史的な議論以上のものであり、現代のウクライナとロシアの間の文化的、政治的な緊張の根源の一部として存在しています

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西暦九八八年、キエフ大公ウラジーミル一世は東方キリスト教(ギリシア正教)を国教に採用した。以来、ロシアはビザンチン文明圏に属し、同じキリスト教を共有しながら、西欧とは別の歴史を歩んできた。時に熾烈な迫害を受け、時にロシア民族主義を鼓吹して、人々の精神的支柱となってきたロシア正教会の歴史を、政治と社会の流れの中で捉えた労作。(「BOOK」データベースより)

Religion from a Ukrainian Perspective

ウクライナの視点からみた宗教感

Al Jazeera English/YouTube

ウクライナの地域性による宗教的、文化的な違いは、国の歴史とアイデンティティの形成に大きな影響を与えてきました。この国の宗教的、言語的、文化的な背景には、その地域的な違いが深く根ざしています。

ウクライナの宗教的構造

ウクライナの宗教的構造は非常に多様であり、その中でも特に影響力のあるのがウクライナ正教とカトリック教です。

東部のウクライナ正教会

ウクライナの大部分、特に東部ではウクライナ正教会が優勢です。この正教会は、古くからの伝統を持ちロシア正教会との繋がりも強固です。

ロシア語が広く話されており、この地域は歴史的にロシアとの経済的、文化的、宗教的なつながりが強い。ソビエト連邦時代を通じて、このつながりはさらに強化されました。

西部のカトリック教会

ウクライナ西側、歴史的にポーランド、オーストリア=ハンガリー帝国とのつながりが強く、カトリック信仰が主流となっています。特に、ポーランドとの国境地帯には、多くのローマカトリック教会の信者がいます。

一方で、この地域は独特な宗教感も存在しています。それが東方典礼カトリック教会(ウクライナ・グレコカトリック教会)です。彼らはカトリック教の教義を受け入れつつも、正教の典礼を保持しています。

言語としては、ウクライナ語が一般的に使用されており、この地域の文化や伝統は、中央ヨーロッパの影響を強く受けています。

東部ウクライナ住民の宗教観念について

東部ウクライナの住民の宗教観に関する認識については、しばしば誤解や一般的な見解が存在しています。以下は、キーウ国際社会学研究所による調査をもとにした東部ウクライナ住民の宗教に対する考えを整理したものです。

正教徒の存在

ウクライナ東部諸地域において、自らを「正教徒」だと答える者は78~84%と、非常に高い数字を示しています。この数字は、ウクライナの西部よりもやや高い数値であり、東部には正教徒の信者が多いことが伺えます。

ウクライナ正教とロシア正教

しかし、正教徒と答える回答者の内訳を深堀りすると、独立「ウクライナ正教会」の信者だと答える者が48~54%であるのに対し、ロシア正教会系列の「ウクライナ正教会モスクワ聖庁」の信者だと答える者は24~35%に過ぎません。これは、東部住民の中で、自らを「ロシア正教徒」と見なす者よりも、「ウクライナ正教徒」と考える者の方が多いことを示しています。

日本の専門家の見解

一部の日本の専門家の間で「ウクライナ東部の人たちは自分がロシア人だと考えている」という認識や「ロシアに統合されることを望んでいる」という主張がなされているが、上述のデータを鑑みると、この認識は実態と異なる可能性がある。

東部ウクライナの住民の間では、確かに正教徒は多いですが、その大部分は自らを「ウクライナ正教徒」と同一視しており、「ロシア正教徒」としてのアイデンティティは少数派となっています。従って、地域や宗教的な背景に基づく認識や立場を正確に理解することが、より深い対話のためには不可欠です。

ウクライナ正教会の独立の意思

ウクライナにおける正教の状況は、その国の複雑な歴史と密接に結びついています。ウクライナの正教会は、独立国としてのウクライナのアイデンティティと結びついており、長い間ロシア正教会からの独立を目指してきました。

2018年、コンスタンティノープル総主教庁は、ウクライナ正教会・キエフ総主教庁とウクライナ独立正教会の合併を支持し、その独立を認めました。これにより、新生「ウクライナ正教会」が誕生しました。これは、コンスタンティノープル総主教庁にとって、ロシア正教会の権威に対する大きな挑戦となり、正教会の中での大きな対立の原因となりました。

この動きに対し、モスクワ総主教庁はコンスタンティノープル総主教庁との全ての神職者間のコミュニオン(共同体)を断絶する措置を取りました。これにより、ウクライナにおける正教会の状況はさらに複雑化しています。

独立への歴史

ウクライナ正教会の独立を求める動きは、国の歴史や政治的状況と密接に関わっていました。ウクライナの正教会がロシア正教会から独立を果たすまでの道のりは、確かに長く険しいものでした。

17世紀中頃、ウクライナはポーランド・リトアニア共和国の一部でしたが、次第にロシアの影響力が増していき、やがてウクライナの一部(特に東部やキーウ)はロシアの保護下に入ることになりまし。

この時期、ウクライナの正教会はロシア正教会の影響下にありましたが、ウクライナの独立志向とともに教会の独立も求められるようになりました。

正教会の総本山であるコンスタンティノープル総主教庁は、キリスト教東方正教の中で非常に権威のある組織でしたが、17世紀においてはオスマン帝国の支配下にあり、その影響力は衰退していました。

一方で、モスクワ総主教庁はロシアの国家権力に支えられ、勢力を増していました。これにより、ウクライナの正教会の組織をモスクワ総主教庁の管轄下に移す動きが起き、1686年に実現しました。

20世紀初頭、特に1917年のロシア革命後、ウクライナにおける独立の動きが活発化しました。この流れの中で、ウクライナの正教会の独立も大きな課題として取り上げられました。

最終的にウクライナは一時的に独立こそ果たしましたが、すぐにソビエト連邦の一部となってしまいました。

ソビエト連邦の崩壊後、1991年にウクライナは再び独立を宣言。その後、ウクライナ正教会の独立を巡る議論や動きが活発化しました。

ウクライナ人の中には、彼らの教会がロシア正教会の一部としてではなく、独立した「ウクライナ正教会」として存在するべきだと考える人々が多かったのです。そして、独立を求める聖職者たちは独自の正教会を設立していきます。

ウクライナ正教会(キエフ総主教庁)

この教会はウクライナにおいて非常に多くの信者を持っており、その信者数においては、ウクライナ内で最も大きな正教会となっています。しかし、モスクワ総主教庁はこの教会を「分裂主義者集団」とみなしており、正教としては承認していません。

ウクライナ自治独立正教会

この教会は、ロシア革命の直後の1917年に独立を求める形で組織されました。その後、ソビエト政権の圧力を受ける中、一部の信者や聖職者は北米に移住し、その地で活動を続けました。

北米においては、ウクライナ文化や伝統を維持し、ウクライナの教会独立の理念を守り続ける役割を果たしてきました。この協会もキエフ総主教庁と同様、他の正教会からは正式に認知されていませんでした。

正教会の教会法上、これらの教会は「非合法」とされていました。これは、コンスタンティノープル総主教庁などの伝統的な正教会からの正式な承認を受けていないためです。そのため、これらの教会での聖秘(洗礼や結婚式など)は、他の正教会では公式には認められませんでした。

ウクライナ正教会・モスクワ総主教庁派

一方、モスクワ総主教庁下のウクライナ正教会は、ロシアのモスクワ総主教庁との結びつきを強く持っています。このため、ウクライナにおけるロシアの影響力を反映しているとも言えます。この教会はウクライナの正教徒の約26%を擁しており、ウクライナの正教会の中では唯一、全世界の主要な正教会に認知されていました。

ウクライナ正教会独立の道

ウクライナ正教会の独立問題は、正教会の伝統と地政学的・政治的問題が複雑に絡み合った問題となっていました。

正教会の伝統において、独立国家の存在は、その国家に自主独立の教会を持つための大きな理由となることが多いです。

たとえば、ブルガリア正教会やポーランド正教会、チェコ・スロバキア正教会などは、その国々の歴史や独立運動とともに、独立した教会としての地位を獲得してきました。

そのためウクライナも、独立国家として独立した教会を持つべきとの意識が高まってきたのは自然な流れでした。

しかし、ウクライナの場合、独立後もロシア正教会の一部として存在していたため、ウクライナ正教会が独立は長年問題視されてきました。特に、ロシア正教会はウクライナの教会に対する影響を失いたくないという強い意向があり断固反対していたため、この問題がさらに複雑になっていました。

声を上げ続けるウクライナ

ウクライナ正教会キエフ総主教庁は、長い間、独立を求める声を上げ続けてきました。この要求は宗教者だけでなく、ウクライナの政治家からも強くなっていました。

特に、ウクライナの第三代大統領であるヴィクトル・ユシチェンコは、2008年にコンスタンティノープル総主教のヴァルソロメオス1世をウクライナに招待しました。この際に、大統領は再びウクライナ正教会の自治権を求めました。

しかし、ヴァルソロメオス総主教は具体的な決断を下さなかった。コンスタンティノープル総主教庁からの回答は、「国内の教会が先に統一することが必要で、その後で独立を認める」というものでした。

この要求の背後には、ロシア正教会の影響下にあるモスクワ聖庁と独立を求めるキエフ総主教庁との関係がありました。多くの人々は、これらの教会が統一することは非常に難しいと考えていました。

しかし、2014年にロシアがウクライナに軍事介入したことで、ウクライナの正教会独立の機運がさらに高まりました。

ウクライナ正教会が悲願の独立へ!!

2018年は、ウクライナ正教会の独立に向けての重要な転換点となる年になりました。その年の4月、反露的な姿勢をとっていたウクライナのポロシェンコ大統領が、コンスタンティノープル総主教のバルトロメオ1世に対してウクライナ正教会の独立を強く求める嘆願書を提出したのです。

驚くべきことに、これにはウクライナ正教会モスクワ聖庁からも支持が得られ、キエフ聖庁や自治独立派の主教たちとともに、コンスタンティノープル総主教に対して統一した声を上げる形となりました。

これにより、コンスタンティノープル総主教庁が以前から求めていた「ウクライナ正教会の統一」が形式上成立することとなりました。

さらに、この年の8月31日から9月4日まで、トルコのイスタンブールで「シノド」という正教会の主教会議が開催されました。

この会議での最も注目された決定は、コンスタンティノープル正教会総主教であるバルトロメオ1世が、ウクライナに2人のコンスタンティノープル総主教代理を派遣することを決めたことであった。

このシノドの決定について、ウクライナのポロシェンコ大統領は非常に前向きに評価し、「悪に対する善の勝利」と述べました。

一方、モスクワ総主教庁からは批判的な声が上がり、「ウクライナの国家安全保障への直接的な脅威だった」との声明を発表した。この年の動きは、ウクライナ正教会の独立に向けた新しい段階の始まりを示すものとなりました。

ATV English/YouTube
ウクライナ正教会の独立へ…。ロシア正教会の管轄からの解放

2018年10月11日、コンスタンティノープル全地総主教庁聖会議は、ロシア正教会が教会法上、ウクライナ領の管轄権を失ったこと、そしてウクライナの母なる教会がコンスタンティノープルであるとの決定を下しました。

ウクライナのポロシェンコ大統領は、この決定に大きな喜びを示しました。ポロシェンコのウェブサイトには、「これはわれわれの独立、国家の安全保障、そして国家としての地位に関わる問題だ」との声明が掲載されました。

さらにポロシェンコは、「神を愛するウクライナ国民は、モスクワの悪魔たちとの戦いで偉大な勝利を収めた」と続けました。

ウクライナには、正教信者が人口の約70%を占めています。ウクライナ正教会には、ロシア正教会に融和的な1宗派と、独立志向の2宗派(「キエフ総主教庁」と「独立正教会」)の計3宗派が存在していました。独立志向の2宗派は、それまでに総主教庁に「独立した地位」を求める嘆願書を提出していました。

この歴史的決定を受けて、フィラレート・キエフ総主教は、ウクライナにおける教会組織を統合し、新たな正教会の設置を目指す意向を明らかにしました。これにより、ウクライナの正教会の統一と独立への道がさらに具体的なものとなったのです。

ロシア正教会はこの決定を「破滅的」と非難

コンスタンティノープル総主教庁の決定に対し、ロシア正教会からは厳しい非難の声が上がった。ロシア正教会は、この決定を「破滅的」と見なし、キリル総主教の報道官も「コンスタンティノープル総主教庁は越えてはならない一線を越えた」との立場を鮮明にした。

10月15日には、ベラルーシの首都ミンスクでロシア正教会の教会会議が開かれました。この会議では、コンスタンティノープル総主教庁によるウクライナ正教会の独立に関する決定を「違法」とし、その決定に従っての正教会としての関係維持は「不可能」とする声明が出されました。

ロシア正教会は、これまでの伝統や教会法に基づく管轄を重視しており、コンスタンティノープル総主教庁がロシア正教会の管轄下にあったウクライナ正教会に対して独立手続きを開始したことに強く反発しているのです。

様々な正教の統一と団結!ウクライナ正教会の歴史的な転換点

2018年12月15日、ウクライナのキエフにおいて歴史的な統一公会が開かれました。この公会は、ウクライナ正教会の独立を求める大きな動きとして位置づけられています。

この公会には1991年にウクライナがソ連から独立した後、正式な承認を得られずに活動してきた「ウクライナ正教会(キエフ総主教派)」をはじめとした様々な聖職者や関係者190人以上が出席しました。

この公会で、新しく統一されるウクライナ正教会のトップとして、キエフ総主教派のエピファニー主教が選出されました。

興味深いことに、この会議にはウクライナのポロシェンコ大統領も出席しており、統一と独立の動きを強く支持した。公会が進行する中、多くのウクライナ国民が国旗を掲げて広場に集まり、その景色はウクライナの独立精神と国家意識の高まりを象徴していました。

ポロシェンコ大統領は、公会を通じて「モスクワ総主教庁からの独立に向けての大きな一歩」と宣言し、ロシアとの関係に対して明確な立場を表明。

この宣言は、ポロシェンコの政治的背景を考えると驚くべきものではなありません。ポロシェンコは、ウクライナのNATO加盟を目指すなど、西側諸国との関係強化とロシアとの対立を明確にしてきた政治家だからです。

ATV English/YouTube
2019年1月5日 ウクライナ正教会が悲願の独立!

2019年1月5日、ウクライナの正教会の独立にとって歴史的な瞬間を迎えました。ウクライナ独立正教会の独立を正式に認めるトモスが、コンスタンティノープル総主教庁にて署名されたのです。

Al Jazeera English/YouTube
「トモスの意味」ウクライナ正教会の独立が明示される

トモスは、正教会における用語であり、小さな文書や宣言を指します。具体的には、独立正教会位の祝福や聖シノドによる重要な宣言などが含まれます。

ウクライナ正教会の場合はコンスタンティノープル総主教庁聖会議によって与えられたトモスによって、ウクライナ正教会が世界の15の独立した正教会の一つとして認められることになります。

Radio Free Europe/Radio Liberty/YouTube
ウクライナ正教会へのバルトロメオ1世の祝福

コンスタンティノープル総主教のバルトロメオ1世は、このトモスをもってエピファニウス1世のキエフ府主教としての地位を正式に認めました。トモスは署名と同時に発効し、ウクライナ正教会の存在とその独立を正式に確立する文書として機能していくことになりました。

「何の効力もない」ロシアの反発

しかし、このトモスの署名に対してロシア正教会からは強い反発がありました。ロシア正教会は、トモスが持つ効力や新たに結成されたウクライナ正教会の正当性を否定する立場を取り、さらにコンスタンティノープル総主教庁との交流を断絶すると表明しました。

ウクライナ側でも、モスクワ総主教庁派の正教会はこのトモスを拒否する立場を明確にしました。事実、ウクライナのモスクワ総主教庁派の主教たちの中で、主教会議に参加したのはわずか2人だけでした。このことからも、モスクワ総主教庁派の強固な反対姿勢が伺えます。

以降、ウクライナとロシアの間の宗教的、政治的対立が一層深まったと言えます。特に、露上院のコサチョフ外交問題委員長が「トモスは宗教的なものではなく、政治的なものだ」と指摘していたことからも、この問題が単なる宗教的なものだけでなく、両国の政治的な緊張関係と深く結びついていることが理解できます。

「東方正教の地政学」ウクライナ正教会の独立がもたらした変革

ウクライナ正教会の独立を中心とする教会分裂は、東方正教の歴史においても重要な出来事となりました。

ロシア正教会にとってウクライナ正教会を管轄下に持つことは、その宗教的影響力を通じて、ウクライナに対しても一定の政治的・文化的影響力を保持するという意味を持っていました。

しかし、ウクライナの正教会の独立によってロシア正教会は332年間にわたる管轄下にあったウクライナ正教会とのつながりを失ってしまったのです。

プーチンの政治的野心への影響

プーチン大統領は、ロシアの影響力を強化し、かつてのソ連時代のような影響範囲を再構築しようとする野心を持っています。そのため、宗教を通じた影響力は政策の一部として非常に重要でした。

その中でロシア正教会は、プーチン政権の外交政策の一部として、東欧諸国の正教会圏において政治的影響を及ぼす手段としてこれまで使用されてきました。

そのため、ウクライナ正教会のモスクワ正教会からの独立の動きは、プーチン政権にとって大きな脅威となりました。

そこで、2018年にコンスタンティノープル総主教庁に独立を求める動きを強めた際、ロシアは偽情報キャンペーンを活用して対立を煽りました。しかし、コンスタンティノープ総主教庁の判断により、ウクライナ正教会の独立が事実上認められてしまいました。

ウクライナ正教会の独立により、ロシアの文化的・宗教的な影響力が低下したため、プーチンの政治的戦略は一歩後退せざるを得なくなりました。

正教会の争いから考察するNATOとロシアの対立

さらに、この動きは東欧諸国の中でロシアからの独立を望む声が高まる中での出来事であり、他の国々にも影響を与える可能性がありました。

ロシアは、この独立の動きの背後にNATO加盟諸国の影響を感じ取りました。これは、1917年のロシア革命後、共産党による宗教弾圧が進行し、多くの反共系のロシア正教徒が亡命。これらの亡命教会がコンスタンティノープル総主教庁の支援を受けてきた歴史が背景にあります。

このため、ロシアはコンスタンティノープル総主教庁をNATO加盟諸国と価値観を共有する存在と認識していました。

つまり、コンスタンティノープル派の正教会とロシア系の正教会という宗教的争いは、NATOとロシアの地政学的な対立、代理戦争の様相を呈してきました。

TRT World/YouTube

ウクライナの憲法改正と2019年大統領選挙

2019年のウクライナの政治的動きは、国の方向性とその未来についての明確なメッセージを示しています。ウクライナ正教会の独立後すぐに、ウクライナはその欧州志向をさらに固める形で、EUとNATO加盟の目標を憲法に明記するという大きなステップを踏み出しました。

憲法改正とウクライナの方向性

2019年2月の憲法改正は、ウクライナが欧州の一部としてのアイデンティティを確固たるものにしたいという国民の願望を反映しています。

EUとNATOへの加盟は、ウクライナにとって経済的、政治的、軍事的に安全な環境をもたらすとともに、ロシアとの関係において一定の距離を置くことを意味します。この憲法改正は、そのようなウクライナの方向性を法的にも裏付けるものとなりました。

大統領選挙で明らかになった欧州志向

2019年3月の大統領選挙において、現職のポロシェンコ大統領と挑戦者のゼレンスキーは、どちらもEUとNATOへの加盟を主要な政策として掲げました。これは、親ロシアか親西洋かという二元的な議論が過去のものとなり、ウクライナの欧州志向が主流の意見となったことを示しています。

結果として、ゼレンスキーが圧倒的な支持を受けて当選しましたが、それは新しいアプローチや、ウクライナの政治的エリートに対する不信感など、多くの要因によるものでした。しかし、ゼレンスキーもEUとNATOへの加盟を主要な政策として掲げたことは、ウクライナ国民の欧州志向の強さを再確認するものとなりました。

ウクライナ侵攻の背後にある宗教的要因と文化的影響

2022年2月24日、ロシアのプーチン大統領はウクライナへの軍事行動を正式に宣言しました。この行動の根拠として挙げたのは、「ウクライナでのロシア系正教徒への宗教迫害を終わらせ、西側の世俗的価値観から守る」というものでした。

この発言の背景には、前述のウクライナ正教会とモスクワ正教会との関係の変動、特にウクライナ正教会の独立があります。

この独立は、プーチン大統領にとって、ロシアの宗教的・文化的影響範囲に関する「レッドライン」を超えたものと捉えられた可能性があります。正教会はロシアのアイデンティティと深く結びついており、ウクライナにおけるその影響の低下は、ロシアの地域的な影響力の低下としても受け取られたのかもしれません。

ウクライナへの軍事行動が開始されると、ウクライナ国内での祈りの様子や、教会関係者による兵士への祝福の姿がソーシャルメディアに投稿されました。

特に、ツイッター上では、ロシア正教会の司祭がロシアの戦車を祝福する様子や、ウクライナ正教会の司祭がウクライナ兵を祝福する様子が拡散されました。これらの画像は、戦争の中での宗教の役割や、宗教的アイデンティティの戦争における影響を強く示唆するものでした。

また、正教会だけでなく、他のキリスト教の教派からもこの戦争に関する様々な声が上がりました。キリスト教徒同士が戦争の中で対立しているという事実は、多くのキリスト教徒にとって困惑や悲しみをもたらしたのです。

このように、2022年のロシアのウクライナ侵攻は、単なる政治的・軍事的な行動にとどまらず、宗教、文化、アイデンティティといった深い層の問題をも巻き込む複雑な出来事となりました。

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いま起こっているのは「新冷戦」ではない。世界政治の最大の焦点は宗教だ!ウクライナ危機の深層、現代ロシアと宗教との関係、国際秩序の変容を文明論、歴史的視点から解き明かす。(「BOOK」データベースより)

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