今回は、ウクライナ情勢の中で広がる“ネオナチ”運動やバンデラ主義と呼ばれるイデオロギーの影響、そしてその背後にある欧米との複雑な関係に迫ります。果たして、欧米諸国がなぜこうした過激な要素を支援しているのか、それは単なる戦術的な一時的な利害関係なのか、それともより深い背景があるのかを解き明かしていきます。
【ウクライナ危機(32)】モスクワまで数分!NATOのミサイル防衛がウクライナに配備される…侵攻の口実「MDシステム」
Great Patriotic War
「ナチスとの戦い」ロシアの“ネオナチ”主張とウクライナの実情
2022年2月24日、ロシア軍のウクライナ侵攻以降、ロシアのプーチン大統領はウクライナ政権を繰り返し「ネオナチ」として非難してきました。
プーチンの「ネオナチ」指摘
この主張は、ロシアの軍事行動の正当性をアピールするためのものとみられています。実際、ゼレンスキー政権を「キエフで権力を握る者たち」と表現するなど、プーチン大統領はウクライナの正当な政権を公然と認めていません。
主張の背後
プーチンの主張の背後には、NATO主要国がウクライナのネオナチ勢力を支援しているとの疑惑が存在しています。しかし、この主張の具体的な根拠や証拠は明確に提示されていません。NATO諸国もこの指摘に対して否定的な立場を取っています。
ゼレンスキー政権とナチ系過激派の関係
ロシア側は、ゼレンスキー政権がウクライナ西部を拠点とするナチ系過激派の影響を受けており、政権は東部の親露派住民に対する「ジェノサイド」を行っている主張しています。しかし。このような大量虐殺の事実について独立した第三者機関からの確固たる証拠は提出されていません。また、多くの国際的な専門家や組織も、ロシアの主張に対して疑問を呈しています。
ナチスを撃退!ロシアの歴史認識と「大祖国戦争」
ロシア人の多くは、第二次世界大戦を「大祖国戦争」として認識しています。この命名は、ナチス・ドイツとの戦争をソ連(ロシア)の聖戦と捉えるという意味合いが強い。彼らにとって、この戦争は祖国を守るための正義の戦いとして位置づけられています。
「独ソ不可侵条約」
1939年、スターリンとヒトラーは、ヨーロッパの安定と相互の国益を確保する目的で独ソ不可侵条約を締結しました。この条約により、ソ連は西部の安全を一時的に確保することができました。
独ソ不可侵条約の影響で、ヒトラーは1939年9月1日にポーランドに侵攻することができました。スターリンもこれを機に、ポーランドの一部をソ連の領土として併合しました。しかし、この協定は長続きせず、1941年6月、ヒトラーは独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連に侵攻しました。
「バルバロッサ」作戦
ナチス・ドイツによるソ連侵攻、通称「バルバロッサ」作戦は、第二次世界大戦中の最も規模の大きい陸上戦であり、両軍の戦闘は東部戦線全体で展開されました。
1941年6月22日に、ナチス・ドイツ及びその同盟国軍は約330万の兵力をもってソ連に対する大規模な侵攻を開始しました。この攻撃は、バルト海から黒海に至る約3000キロメートルにわたる広大な戦線で行われました。
ドイツ軍は技術と戦術の優越性を背景に、ソ連軍を多くの場面で圧倒しました。ミンスクやスモレンスクといった主要都市を迅速に占領し、さらにはレニングラードに迫るほどの進展を見せました。
1941年の夏から秋にかけて、ドイツ軍はウクライナでの機動戦を展開しました。キーウ方面のソ連軍は、ドイツ軍の包囲戦術に翻弄され、約45万の兵力が包囲され、最終的には多くが捕虜となり、または戦死しました。
スターリングラードの戦い
1943年1月のスターリングラードの戦いは、独ソ戦の中でも特に象徴的な戦闘となった。ドイツ軍はソ連軍に囲まれ、最終的には降伏を余儀なくされた。この戦闘は、第二次世界大戦中でソ連が初めて主導権を握った大きな転換点となりました。その背後には、甚大な人命の犠牲が伴いました。
ソ連がナチス・ドイツとの戦闘で失った人命は、戦闘員と民間人を合わせて約2700万人に上るとされています。この犠牲は、戦後のソ連・ロシアの記憶に深く刻まれています。
「大祖国戦争」と「祖国戦争」
ロシアは、1812年のナポレオンに対する戦争を「祖国戦争」と呼び、その勝利を称えてきました。しかし、スターリンは第二次世界大戦を「大祖国戦争」と称し、独ソ戦の開始から1945年5月のベルリン陥落までの期間を特に強調しました。
「大祖国戦争」の祝日としての地位
「大祖国戦争」の終結日は、1948年から1964年にかけては、祝日としての地位を失っていました。しかし、戦勝20周年の1965年に、この日は祝日として復活され、現在のロシアにおいても年間で最も重要な祝日としての地位を保持しています。
「大祖国戦争」ソ連崩壊後のロシアでもナショナリズムのシンボル
ソ連とその後のロシアにおいて、「大祖国戦争」の意義は非常に大きいものになっています。以下に、この記憶がロシアのアイデンティティや政治においてどのように使用されてきたかの要点をまとめます。
- 共産主義対ナチズム: ソ連時代、共産主義は自らを自由と平等を追求する思想と位置づけ、ナチズムやファシズムを最も反対するイデオロギーとして非難していました。第二次世界大戦の勝利は、共産主義の優位性と正当性を確立する重要な要因となった。
- ロシアのナショナリズム: ソ連邦の解体後、多くの国民が共産主義の理念やソ連時代を見直す中で、戦争の勝利はロシアのナショナルアイデンティティの一部として維持されました。「大祖国戦争」の勝利は、ロシア人の誇りとして、また、多民族国家としての結束のシンボルとして受け止められています。
- プーチンの政策: ヴラジーミル・プーチン大統領は、ロシアの統一と国家の再建を強調しています。そのため、共有の歴史や文化、特に「大祖国戦争」の記憶は、国民をまとめる強力な手段として利用されています。プーチンは、戦争の記憶を、ロシアが世界史上で果たしてきた重要な役割を強調するためにも利用しています。
- 多民族国家の結束: ソ連・ロシアは、多くの民族や文化が共存する多民族国家です。戦争の記憶は、これらの異なる民族や文化が一丸となって共通の敵に立ち向かった瞬間を象徴しており、現在のロシアにおいても国家の結束やアイデンティティを強化する要因となっています。
このように、「大祖国戦争」の記憶は、ソ連時代から現代のロシアまで、国家のアイデンティティや結束を形成し維持する上で中心的な役割を果たしてきました。
2022年ロシアのウクライナ侵攻と「ナチス」という言い回し
2022年2月24日、ロシアはウクライナへの軍事的侵攻を開始し、その動機や正当性について、多くの議論が巻き起こしました。特に注目を集めたのが、ロシアのプーチン大統領が使用した「ナチス」に関する言い回しです。
プーチンの「ナチズム」主張
- プーチンはウクライナの非軍事化・非ナチ化を目的として軍事行動を正当化。
- ゼレンスキー政権は反ロシアの「ナチスト集団」として非難。国内の結束を高める狙いがあるとみられる。
- ウクライナの民族浄化の主張も行われている。このようなレトリックは民間人の犠牲を拡大する可能性があり、国際的な非難を受けている。
ゼレンスキーの反論
- ウクライナとゼレンスキー自身の歴史や背景を基に「ナチズム」の非難を退ける。
- ゼレンスキー大統領はユダヤ系で、先祖がホロコーストの犠牲者であることを前面に押し出し、ナチスのレッテルを拒否。
- ソ連・ロシアにおける「ナチス」というレトリックの背後にある文化的・歴史的な意味合いとのギャップを指摘。
ロシアのラブロフ外相の問題発言に世界中が非難
2022年5月1日、イタリアのテレビ番組「Zona Bianca」でのロシアのラブロフ外相の発言が、世界中で大きな波紋を呼び起こした。
この番組でインタビュアーは、ゼレンスキー大統領がユダヤ系であることを考慮して、ロシアがウクライナの「非ナチス化」のために戦争を進行させている理由について質問しました。
ラブロフ外相は、ヒトラーにもユダヤ人の血が流れていたという事実(実際には確定的な事実としては認知されていない)を挙げ、ユダヤ系であることが「非ナチス化」の主張に関連しないと述べました。
この発言は、ユダヤ人の血を引くゼレンスキー大統領とヒトラーとの間に関連性を持ち込もうとするものであり、多くの国際的リーダーと専門家から非難されることになりました。
- ゼレンスキー大統領の反応
- ゼレンスキー大統領はこの発言を強く非難し、ロシアの外交トップがナチスの犯罪の責任をユダヤ人に転嫁しようとするものとしてこれを非難した。
- 国際的な反応
- ドイツ:政府報道官はラブロフの発言を「ばかげたプロパガンダ」と非難。
- イタリア:ドラギ首相は発言が誤りであるとし、イタリアの表現の自由について触れた。
- カナダ:トルドー首相は発言を「容認できない」として非難。
- イスラエル:右派も左派も一斉に怒りの声を上げた。ベネット首相とラピード外相も強く反論。
- プーチン大統領の対応
- プーチン大統領はベネット首相に謝罪。ベネット首相も謝罪を受け入れた。
- プーチンはイスラエルの独立記念日にヘルツォグ大統領に祝意のメッセージを送った。
- イスラエルとロシアの間には緊密な関係があり、プーチン氏は関係の悪化を避けたかったとされる。
- イスラエルとウクライナ
- イスラエルはロシアとの関係を悪化させたくないという状況の中で、ウクライナのゼレンスキー大統領との間に複雑な立場を取っている。ゼレンスキー大統領は、イスラエル国民を「兄弟たち」と呼びながら、イスラエルからの強硬な対露制裁や武器供与を求めている。
このように、ラブロフ外相の発言は国際的な緊張を高める要因となり、特にユダヤ系のリーダーたちとの関係において、ロシアの立場を難しくするものとなりました。
『ユーロ・マイダン革命』ウクライナで極右勢力が表舞台に登場
実はロシアによるウクライナ侵攻より数年前から極右団体やネオナチとの関連が懸念されてきました。ウクライナの極右勢力は、2013年に始まった「ユーロ・マイダン革命」から国際的なスポットライトを浴びるようになりました。
経緯
- EUとの連携協定の撤回: 2013年11月、ウクライナ政府はEUとの連携協定の締結を撤回しました。これがマイダン抗議の発端となり、多くのウクライナ市民がキーウの独立広場に集まりました。
- 平和的抗議から暴力へ: 最初の抗議行動は平和的で、暴力的な傾向はありませんでした。しかし、政府の強硬姿勢やデモ隊への実力行使を契機に、一部のデモ参加者の行動は過激化しました。
- 極右勢力の活動: 極右の「スヴァボーダ(自由)」や「右派セクター」のような団体が、抗議の先頭に立って行動し、その結果、投石や火焰瓶を使った暴力的な傾向が目立つようになりました。
国際的背景
- プーチン大統領の立場: ロシアのプーチン大統領は、これらの抗議行動を「ウクライナのナチス化」と批判しました。しかし、その背後には、ロシアの地政学的な目的やウクライナに対する戦略的な関心があると広く見られていました。
- 欧米の懸念: 2010年代以降のウクライナでの極右勢力の台頭は、欧米からも注意深く監視されていました。特に、アメリカが極右政党との接触を持っていたという報告が存在し、それに対する批判も存在します。
この一連の動きを通じて、ウクライナの極右勢力は国際的な注目を集めるようになりました。しかし、クリミアの併合やウクライナ東部の紛争は、極右勢力の台頭を超えた、より広範な地政学的な課題として存在し続けています。
“スヴァボーダ(全ウクライナ連合「自由」)”とロシアの二重基準
スヴァボーダ(全ウクライナ連合「自由」)は、ウクライナの政界における極右の代表的存在として知られています。
「全ウクライナ連合『自由』」の台頭
- 極右的立場: 「全ウクライナ連合『自由』」は、ウクライナ語のみを話すウクライナ人を唯一の合法的な住民として認めるという民族的純血主義を掲げています。さらに、彼らはロシア系の住民に対しては「出ていけ」との姿勢を取っています。
- ピーク時の影響力: 2012年から2014年の期間、この党はその影響力のピークを迎えました。その結果、閣僚4ポスト、国家安全保障・国防会議議長、検事総長といった重要な役職を獲得しました。
- 現状: しかし、現在はその影響力が大きく減少しており、政権の主要メンバーとしての役割は果たしていません。
ロシアの「ナチス化」批判
ロシアは、ウクライナの極右勢力が衰退する中でも、ウクライナ政府の「ナチス化」を強調し続けています。しかし、この指摘は事実に基づいているとは言えない可能性が高いです。
プーチンの極右政党との関係
プーチン大統領は、欧州の極右政党、特にオーストリアの「自由党」との関係を深めています。この関係性は、プーチンのウクライナ政府に対する「反ナチ主義」のスタンスと矛盾していると言えます。
極右政治団体「右派セクター」
もう一つの極右勢力「右派セクター」は、ウクライナの極右政治団体として、2013年11月にドミトリー・ヤロシが中心となり設立されました。彼は当時、極右団体「トライデント」のリーダーであり、ウクライナ全土のいくつかの極右団体を統合して「右派セクター」を形成しました。
「右派セクター」の設立に参加した主要な団体や組織は、ドミトリー・ヤロシとアンドリー・タラセンコが率いるトライデント(Tryzub)、政治・準軍事組織のウクライナ国民議会-ウクライナ国民自衛(UNA-UNSO)、「スヴァボーダ」など複数のナショナリスト団体で構成されており、その主要な思想として「反ロシア」と「反ユダヤ主義」を掲げています。
また、この団体には「ブラウン・シャツ」というグループも含まれているとされています。「ブラウン・シャツ」は、ナチスの突撃隊(SA)の愛称であり、ファシストと関連付けられる色である「茶色」や「褐色」が由来です。
ただし、この団体は必ずしも一致団結しているわけではなく「右派セクター」のリーダーの一人、ディミトリ・ヤロシュは、「スヴァボーダ」を「リベラルすぎる」と評しており、その思想には多少の温度差があります。
右派セクターの行動と影響
2014年2月21日、リーダーの一人、アレキサンダー・ムズィチコは、公然と「秩序と規律」の回復のために武力行使の意志を表明しました。ムズィチコは「無法者や略奪者」として指摘する存在、特に警察に対して、直接的な武力行使を予告し、「警察が止めなければ軍隊を引き継ぎ装甲車・戦車を持つ」という過激な警告を行いました。
実際に、右派セクターは内務省の兵器庫から武器を奪い行動に移しました。これは「ユーロ・マイダン革命」の中で非常に重要な瞬間となり、政府の力に対抗するための明確な武力行使を意味しました。この行動は革命の成功の要因となり、右派セクターの名声と影響力を高める要因となりました。
ドミトリー・ヤロシが政権入り
革命後、「右派セクター」の顔とも言える存在になっていたドミトリー・ヤロシは、ウクライナ暫定政権において国防会議副議長のポジションに配置されたことで、ヤロシと「右派セクター」の政治的影響力が如実に示されました。その役割の重要性から、暫定政権側は彼らを外すことができないと判断されたのです。
多くのウクライナ国民からは、彼らを英雄として捉える向きも強かった。さらに、ヤロシ氏には暫定政権内で副首相の座を与えるという提案も出ていたとの報道も存在します。
しかしながら、ヤロシ氏の強烈なロシアに対する敵対的な姿勢は、ロシア系住民の間での不安や恐怖を引き起こす要因となっていました。彼はロシアを「数世紀に及ぶウクライナの敵」と位置づけ公言したのです。
政治団体としての登場
2014年3月22日、右派セクターは正式に政治団体として登場し、約10,000人のメンバーを持つと主張しました。彼らの政治的アジェンダは、ウクライナの主権と独立を強く主張するものでした。
ロシアとの関係
一方、ロシアはヤロシをテロ行為煽動の罪で告発。結果、ヤロシ氏は国際的に指名手配される事態となりました。また、ロシアの国営放送は、右派セクターを「ネオナチ」として報道しました。
このような報道は、ウクライナの東部やクリミアの住民に対して、右派セクターを恐れる感情を生み出しました。ロシアの報道は、この地域の住民と右派セクターとの間の緊張を高める要因となったとも言えます。
クリミア併合は「右派セクター(ネオナチ)」からロシア系住民を守るため?
ウラジーミル・プーチン大統領の下でのロシアのクリミア併合(2014年3月18日)は、日本や欧米諸国にとって予期しない行動でした。多くの国々はこれを国際法違反とみなし、ウクライナの領土保全を強く主張しています。また、ウクライナ東部での動乱についても、プーチン大統領やロシアが関与しているという指摘がある。このため、サンクションなどの経済的制裁が行われてきました。
一方で、ロシア国内では異なる認識が存在します。親米派とされるウクライナの新政権は、武装集団「右派セクター」がロシア系住民に対する攻撃を行っているとの情報が流布されています。このため、クリミアのロシア系住民の安全確保が求められ、プーチン大統領の行動はこれを守るためのものとされています。
ウクライナの政情と「右派セクター」の役割
2014年4月17日、ジュネーブにてウクライナ暫定政権、欧米、そしてロシアはウクライナ国内の「全ての違法な武装組織の武装解除」に関する合意を締結しました。しかしその後も緊張は高まり続け、特に5月2日のオデッサでの火災において、40人以上の親露派が死亡した事件はロシアからの非難を招く結果になりました。ロシア側は、極右組織「右派セクター」がこの事件に関与しているとの立場を明らかにしました。
この頃、「右派セクター」は、ウクライナの政府軍とともに親ロシア派武装勢力と戦い始めました。その中で、指導者であるドミトロ・ヤロシは、2015年4月6日にウクライナ国防省から軍参謀総長の顧問に任命されると発表されたのです。
これは、親ロシア派を打倒するという共通の目的を持ちながらも、政府の指揮下にはない複数の民兵組織の統率を強化するための動きとして解釈されます。
実は「右派セクター」は公式に政府に登録することを拒否していました、今回のヤロシの顧問任命はその姿勢が変化したことを示します。
ヤロシ率いる新組織の誕生がもたらした政治の変遷
2015年12月、ヤロシは新政党の結成を発表。その後、2016年2月に「ヤロシュ政府イニシアチブ」という新組織を設立。この動きにより、「右派セクター」のメンバーの約20%がヤロシとともに新組織へと移行した。その結果、2016年3月19日、アンドリー・タラセンコが「右派セクター」の新議長として選出された。
さらに、ロシアがウクライナに侵攻を開始する数ヶ月前の2021年11月、ヤロシはソーシャルメディアで「ウクライナ軍最高司令官顧問に任命された」との声明を発表。しかし、ウクライナ・プラウダの情報要請に対して、ウクライナ軍参謀本部は機密性を理由に、ヤロシとの関係詳細を開示しなかった。
この一連の動きは、ウクライナの政治的背景や国内の権力勢力の変動、そしてロシアとの関係の複雑さを示している。
Stepan Bandera
英雄 or テロリスト?ステパン・バンデラを讃える「バンデラ主義者」
「ネオナチ」や「バンデラ」といった用語は、ウクライナとロシアの間で史観の対立を象徴する言葉として頻繁に使用されています。特にロシアのメディアや政府高官からは、これらの言葉がウクライナを非難する文脈で用いられることが多いです。
ステパン・バンデラとは?
ステパン・バンデラは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツと協力して旧ソ連と戦ったウクライナの民族主義組織の指導者でした。彼の指導のもと、ウクライナの独立とナショナリズムを掲げて活動を展開していました。
ロシアのバンデラ評価
ソ連、そしてその後のロシアにおいて、バンデラは「ナチスの協力者」や「テロリスト」として否定的に評価されてきました。これは、ソ連との戦いの中でナチス・ドイツと協力した事実に基づくものです。
ウクライナのバンデラ評価の変遷
ウクライナにおいては、近年の独立運動やナショナリズムの高まりとともに、バンデラの評価は変わりつつあります。彼のソ連に対する戦いは、独立を追求したウクライナの英雄として再評価されるようになってきました。その結果、ウクライナ内での彼の名誉回復の動きが活発化しています。
対立の背景
ロシアとウクライナの間でのバンデラの評価の差は、両国のナショナリズムや歴史観の対立を示すものです。特に、ウクライナがバンデラを英雄として再評価する動きを進める中で、ロシアからはこれを「ネオナチ」の動きとして非難する声が高まっています。
ウクライナ民族主義者組織(OUN)とステパン・バンデラの活動
ウクライナ民族主義者組織(OUN: Organization of Ukrainian Nationalists)は、20世紀初頭のウクライナの民族主義運動を代表する組織の一つです。ウクライナの独立を目指して多くの活動を展開したこの組織は、特にその活発なリーダー、ステパン・バンデラのもとで知名度を高めました。
設立とバンデラのリーダーシップ
OUNは1929年に設立されました。その後、ステパン・バンデラがリーダーシップを執るようになり、組織はさらに活発な行動をとるようになります。
バンデラの活動と逮捕
バンデラは、ウクライナ民族主義の思想を広めるため、グループの募集活動を積極的に行いました。この過程で、OUNの禁止された刊行物をポーランドから密輸するために、度々ポーランドとチェコスロバキアの国境を不法越境しました。彼のこの活動は、彼が6回逮捕される原因となりました。特に、1934年のポーランド内務大臣の暗殺容疑での逮捕は、バンデラとOUNの名を一層有名にしました。
OUNの破壊活動
OUNはウクライナの独立とポーランド当局に対する反感を背景に、多数の破壊活動や抗議活動を展開しました。ガリツィアやヴォルィーニャでの数百回にわたる破壊工作や、ポーランドの地主に対する放火キャンペーン、国立学校やポーランドのタバコ・酒の独占業者へのボイコット、さらには政府機関への襲撃や暗殺など、彼らの行動は過激でした。
「1938年~1942年」ステパン・バンデラとOUNの活動拡大
ステパン・バンデラは、ウクライナの民族主義者として20世紀初頭のウクライナの独立運動に大きな影響を与えました。特に、1938年から1942年までの期間は、彼のリーダーシップ下でOUN(ウクライナ民族主義者組織)の活動が大きく拡大した時期となります。
「1938年」バンデーラの活動と組織分裂
1934年、ステパン・バンデーラはポーランド当局に逮捕され、死刑判決を受けましたが、後に無期懲役に減刑されました。彼は1936年から1939年の間、ポーランドの刑務所で服役しましたが、1939年9月、ドイツによるポーランド攻撃によって釈放されました。その後、バンデーラはドイツ軍の占領地へと移動しました。
バンデーラは刑務所から釈放されるとすぐに、ウクライナ民族主義者機構(OUN)の資金を利用して戦闘員の訓練センターを設立しました。このセンターでは、800人の戦闘員に対してゲリラ戦術や破壊工作技術などが教えられました。
1940年2月、バンデーラはOUNの分裂を引き起こし、統率組織である革命的摂理を結成しました。この分裂によって、経験豊富な穏健派が支持する「OUN-M」派閥と、若い民族主義者に支持される「OUN-B」派閥(バンラ派)に組織が分かれました。両派閥は武力闘争を繰り広げ、互いに対立しました。
1938年5月23日、バンデーラの同僚であるコノヴァーレツィが、OUNに潜入していたNKVD(ソ連国家保安委員会)諜報員であるパヴェル・スドプラトフによって暗殺されました。この事件を契機に、組織はOUN-M派閥とOUN-B派閥に分裂し、互いに武力闘争を行うことになりました。OUN-B派閥はウクライナSSRの西部地域で地下活動を行い、若い民族主義者による支持を受けていきました。
「1940年」対ソビエト蜂起の準備開始
翌1940年、OUNは対ソビエト蜂起の準備を本格的に開始します。この時期、バンデラの指導のもと、OUNは多数の武装勢力を組織し、ウクライナ全土での反乱の計画を立てました。
「1941年」ソ連侵攻とOUNの動き
1941年7月、ナチス・ドイツがソビエト連邦を侵攻した際、OUNはその動きに対応して活動を加速させました。西ウクライナ地域には、約2万人の兵士を3300か所に配置し、独立運動の推進を試みました。
「1942年」ウクライナ蜂起軍(UPA)の設立
最も注目すべきは、1942年10月のウクライナ蜂起軍(UPA)の設立です。OUNの軍事部門として活動を開始したUPAは、ウクライナの独立と、ソビエトやナチス・ドイツの占領に対する反乱を目指しました。
「UPA」と「OUN」第二次世界大戦中の複雑な連携
第二次世界大戦中、欧州各地で多数のレジスタンス組織が活動していましたが、その中でも特に注目されるのがウクライナのOUNとUPAです。彼らはナチス・ドイツとの連携や様々な民族集団に対する暴力を含む複雑な歴史を持っています。
ナチス・ドイツとの協力
戦争の初期段階で、OUNとUPAはナチス・ドイツと手を結び、ソビエトとポーランドに対するレジスタンス活動を強化しました。これは「敵の敵は味方」という古典的な戦略的論理に基づくもので、ナチスとの協力によりソ連軍との戦いを有利に進めると期待されました。
民族間の対立と虐殺
一方で、この協力関係は深刻な結果を招きました。バンデラ率いるOUNの部隊は、一部でユダヤ人、スロバキア人、チェコ人などの民族集団に対する大量虐殺を行ったとされています。これらの行為は、後の時代に大きな議論の対象となりました。
反ユダヤ主義の影
以上のように、バンデラや仲間たちは、反ユダヤ的な声明を出していたことがわかっています。これは、ユダヤ人、ロシア人、ポーランド人などを「敵対民族」と見なすもので、多くの人々の命を奪う原因となりました。
バンデラとナチスの矛盾「ウクライナ独立の夢と現実」
バンデラのウクライナ独立への情熱は、生涯を通じて変わることはありませんでした。しかし、彼の目的を達成するための手段として選ばれたナチス・ドイツとの協力は、予想以上の困難を生むことになりました。
ナチスとの協力の始まり
バンデラの目的は明確でした。ウクライナの独立。この目的のためにナチス・ドイツの占領下であってもウクライナの独立を宣言する勇気を持っていました。
一方、ナチス・ドイツはこの地域をその新たな領土として取り込むために、ウクライナのナショナリストたちとの協力を求めた。初めは前述の通り「敵の敵は味方」という論理で、バンデラは「OUN」と「UPA」を率いてドイツ軍と協力し、ソ連軍と戦いました。
ナチスの裏切り
しかしこの協力関係は長続きしませんでした。ナチス・ドイツの目的は、ウクライナを完全に自らの下に置くことであり、ウクライナの真の独立とは相容れないものだったのです。
バンデラの独立宣言は、ナチスの裏切りの兆候が次第に明らかになる中で行われました。
その後、ウクライナ人は「東方の労働者」としてドイツの鉱山や工場に送られ、過酷な条件下で働かされた。バンデラ自身もナチス・ドイツ警察の中にあった秘密警察部門「ゲシュタボ」によって逮捕、捕虜となりザクセンハウゼン強制収容所に送られてしまいました。
逮捕理由は、バンデラがソビエト連邦へのドイツの侵攻後、ナチス・ドイツと協力するという1941年のウクライナ国の宣言を取り消すことを拒否したためでした。
収容中のバンデラと釈放まで
バンデラがザクセンハウゼン強制収容所で受けた待遇は、通常の囚人とは異なっていました。特別な政治犯用刑務所に移されたバンデラは、比較的良好な拘束条件のもとで保持されていたのです。これは、彼の持つ情報や彼自身が持つ影響力をナチス・ドイツが認識していたことを示すものでした。
1944年4月、バンデラはナチスドイツのライヒ保安本部の役人と接触を持ち、ソビエト軍に対する軍事行動についての協議を行いました。この接触は、バンデラがまだナチス・ドイツにとって価値のある人物と見なされていたことを示しています。
KGBによって暗殺
1944年9月にバンデラは釈放されました。この時、彼は反ソビエトの武力闘争の指導を提案されましたが、バンデラはナチス・ドイツとの協力を拒否してています。
ウクライナに戻ったバンデラは、ウクライナの独立のための闘いを続けました。それから約一年経った1959年10月15日、ミュンヘンの自宅近くでKGB(ソ連国家保安委員会=秘密警察)の刺客によって暗殺されてしまいました。
ウクライナにおけるバンデラの名誉回復
ウクライナの歴史には多くの葛藤と転換点があるが、その中でもバンデラの位置づけは非常に複雑といえます。バンデラの名前は、ウクライナのナショナリズム、独立、そしてナチスとの協力という三つの要素と深く関連しています。ソビエト連邦時代、バンデラは裏切り者としてのレッテルを貼られていました。しかし、ウクライナ独立後、特にロシアに対する対抗意識が高まった背景から、その評価は大きく変わりつつあります。
ソビエト時代のバンデラ評価
ソ連の公式史観において、バンデラや彼の組織OUN(ウクライナ民族主義者組織)は、祖国を裏切り、外部の敵と協力した反革命分子として語られています。そのため、バンデラはソ連の構成国であったウクライナにおいても非難される存在となっていました。
独立後の評価の転換
ウクライナは独立以降、国内の政治風土は大きく変動していきました。ソビエト時代の統制のもとで抑圧されていたナショナリズムの感情が、1991年の独立を境に次第に表面化していったのです。
この流れの中で、バンデラやOUNは、ウクライナ独立の先駆者として再評価されるようになっていきます。
PSNUの誕生と初期の活動
ウクライナ社会国民党(PSNU)の登場とその後の変遷は、この新しい政治的文脈の中で理解することができます。
ウクライナ社会国民党は、独立後のナショナリズムの高まりを背景に結成されました。当初、この党は外国人に対する反感や急進的な愛国主義を掲げており、その影響はウクライナの西部地域に限られていました。オレーフ・チャフニボークが1998年に議会議員に選出されるまで、大きな政治的影響力を持っているとは言えませんでした。
過去の象徴とのつながり
ステパン・バンデラを指導者としたOUNとの関連は、PSNUの象徴やスローガンに明確に現れていた。特に、OUN-Bが使用していた赤と黒の旗は、PSNUの行進やデモでよく目にするものであった。
オレンジ革命とバンデラの再評価
2004年のウクライナにおいて、政治の大きな転換点として「オレンジ革命」が起こりました。この動きは、大統領選の不正を背景に、民主化を求めるウクライナ国民の力強い声として現れました。
結果として、親ロシア政権が終焉を迎え、親欧米・反ロシア色の強いヴィクトール・ユシチェンコが大統領として誕生しました。このユシチェンコ政権の下で、ステパン・バンデラへの評価が大きく変わることになります。
PSNU党の再ブランディング
一方、PSNUもそのイメージを大きく変えました。第6回総会で、極右やファシズムとのつながりを示す旗印やシンボルを取り下げ、スヴァボーダ(全ウクライナ連合「自由」)という新しい名称を採用した。
この名前の変更は、党の方針やイメージを中道化し、より広い選挙層にアピールすることを意図していた。その象徴として、ネオナチの紋章であった《ボルフザンゲル》を捨て、中立的なシンボルへとシフトしていきました。
バンデラに「ウクライナの英雄」の称号
2009年にはバンデラをデザインに採用した郵便切手が発行され、2010年1月20日、ユシチェンコ大統領はバンデラに「ウクライナの英雄」の称号を正式に授けました。
この授与は、ウクライナ国内で賛否両論を巻き起こしました。西ウクライナでは、リヴィウに隣接するテルノピリ市の首長ロマン・ザスターヴニーが賞賛の声を送る一方、東ウクライナの都市では、この授与を非難する抗議行動が相次ぎました。
国外からも反応があり、ロシア政府、ロシアのラビ、ポーランド政府などはこの授与を非難し、ヨーロッパ議会でも遺憾の意を示しました。ヴィクトール・ヤヌコーヴィチ政権下の2011年、この称号は取り消されました。
しかし、2013年のユーロ・マイダン革命を経て、新たに誕生したポロシェンコ政権の下で、バンデラや彼の指導した「ウクライナ民族主義者組織」「ウクライナ蜂起軍」への評価は再び上昇しました。
特に、2015年に提出された法案で、これらの組織のメンバーたちを「20世紀のウクライナ独立の闘士」と認定する動きが見られました。ユーロ・マイダンの抗議行動中、ウクライナ蜂起軍の赤と黒の旗を掲げるデモ参加者も目立ちました。
「ステパン・バンデラ通り」が誕生!
2016年8月、ウクライナの首都キーウに新しい通りが登場しました。その通りには「OUN・UPA」(ウクライナ民族主義者組織・ウクライナ蜂起軍)の指導者、ステパン・バンデラの名を冠し「ステパン・バンデラ通り」と名付けられました。
この改名の背景には、ウクライナの国家アイデンティティを強化する動きと、ロシアとの関係悪化が影響していると見られます。
特に、ウクライナの主要なニュースサイト「キーウポスト」によれば、この通りは元々「モスクワ通り」という名前であったことから、その改名はウクライナとロシアの対立の中での象徴的な行動として受け止められました。実際、ロシア側からはこの通りの改名に強い反発の声が上がっています。
さらに、この命名はポーランドとの関係にも影響を及ぼしています。歴史的に、バンデラの組織「OUN」「UPA」は第二次世界大戦中にポーランド人を虐殺する事件を起こしており、ポーランド側はこれを「ポーランド人に対する虐殺」と認定しています。そのため、ステパン・バンデラを讃えるような動きはポーランドにとっては不快感を与えるものとなっています。
バンデラ再評価とたいまつ行進
2010年を境にウクライナでは、ナショナリズムの象徴としてステパン・バンデラへの評価が高まり始めました。かつてのナショナリスト指導者・抵抗運動家としてのバンデラの役割は、新たな政治的・歴史的な背景の中で再評価され、その愛国的な立場や行動が再び注目を集めるようになったのです。
行進の背景と意義
毎年1月1日のバンデラの誕生日を祝うたいまつ行進は、ウクライナの新しいアイデンティティを求める声として確固たる地位を築きつつあります。特に若い世代や民族主義者、国粋主義者たちが集まるこの行進は、彼らの国や歴史への情熱や信念を公然と示す場となっています。
最近の行進では、全ウクライナ連合「自由」とウクライナ民族主義者組織など、国粋主義的な団体が大々的に参加している。プラカードには、「第2のハザール・カガン国を倒せ」や「我々の信条は民族主義なり! 我らの預言者はステパン・バンデラなり!」といったスローガンが書かれている。この行進に参加する人数は、約1000人に上る。主な組織者としては、「自由」党と「右派セクター」党が挙げられる。ルートは、タラス・シェウチェンコ公園のコブザール像から、フレシチャーティク通りに向けてとなっている。
また、この行進の形式は、ナチス・ドイツが採用していたものと似ているため国内でも賛否が分かれています。しかし、多くの参加者や支持者にとっては、それはウクライナの独立やアイデンティティを称賛・祝福するものとして受け取られています。
国際的な反応
ウクライナの国外、特に隣国や欧州諸国からは、このたいまつ行進やバンデラの再評価に対する批判的な声も少なくありません。
このような動きは、ウクライナの歴史やアイデンティティに関する複雑で繊細な問題を浮き彫りにしており、今後の国の方向性や国際関係にも影響を及ぼす可能性があります。
その後もバンデラに称号を再付与すべきとの議論がウクライナ国内でなされており、ゼレンスキー大統領は「ステパン・バンデラは何割かのウクライナ国民にとっては英雄である。これはいたって普通であり、素晴らしいことだ。彼は祖国の自由を守った一人である」と発言している。
ゼレンスキー大統領とバンデラへの評価
ウクライナのゼレンスキー大統領は、国内で続くステパン・バンデラに対する評価の議論に対して、中立の立場をとっています。バンデラがウクライナ独立のために戦ったこと、そしてウクライナの歴史において重要な役割を果たしたことは否定しきれないからです。
ゼレンスキーは「ステパン・バンデラは何割かのウクライナ国民にとっては英雄である」と発言しています。この発言は、ウクライナの国民感情や歴史認識の多様性を反映しているといえます。
国内には、バンデラを英雄視する声がある一方で、過去の行動や連携に疑問を持つ声も存在します。このような複雑な背景を持つ中、ゼレンスキー大統領は国民の感情を尊重しつつ、歴史的事実を認める態度を取っています。
このようなスタンスは、ウクライナの独立とアイデンティティをどのように捉えるか、そして未来に向かってどのような国を築いていくのかという問いに直面するウクライナの現状を示しているといえます。ゼレンスキー大統領の言葉は、歴史的事実を認めつつ、国民の感情や意見の多様性を尊重する方向性を示しており、ウクライナの未来に向けた一つの指針となっているのです。
プーチンと第2次世界大戦のナラティブ「ウクライナの過去と現在」
2014年、ウクライナの動向に対するロシアの対応が急速に変わった背景には、歴史的な物語が存在しました。ウラジーミル・プーチン大統領は、第2次世界大戦の出来事とその時代の人々を利用して、現代の政治的展開を理解しやすくするための物語を形成しました。
- レニングラード包囲戦の記念: プーチン大統領は、レニングラード包囲戦の終結を記念する式典での花輪の奉納を通じて、自身やロシア国民との深いつながりを強調しました。彼のこの行動は、国民の感情を喚起するための戦略的なものでした。
- 「新たなファシスト」の脅威: プーチン大統領とクレムリンは、第2次世界大戦の物語を利用して、キーウの新政権がナチズムの流れを汲むという印象を形成しました。
- ウクライナ人とロシア人の関係: プーチン大統領は、過去にウクライナ人とロシア人を同じ民族とみなしていましたが、新たな物語では、ウクライナ人をスパイや裏切り者として描写することで、両者の間に距離を置く戦略を取りました。
- ウクライナ民族主義者組織(OUN): OUNやその指導者ステパン・バンデラの歴史的背景を利用して、新しいウクライナ政府の方針をナチズムに関連づける試みがなされました。
- ロシア世界(ルスキー・ミール): プーチン大統領は、ロシアの歴史的な物語を通じて、国の安全やアイデンティティを守るための闘争を強調しました。
この物語の形成は、ロシアの外交政策や情報戦争の一部として、ウクライナに関する国内外の意識や意見を形成するためのものでした。
一方で、第2次世界大戦当時の独ソ不可侵条約や、スターリンとヒトラーとの秘密協定については「ロシアの生存のための必要な措置」として正当化しました。反対に、ウクライナの民族主義者やステパン・バンデラは、ナチスとの協力やユダヤ人への迫害を行ったとして厳しく批判しました。
プーチンが展開したメディア戦略によって、彼らはウクライナの民族主義者として、そしてロシア人に対する脅威として物語に組み込まれたのです。
ナショナリズムとロシアの情報戦略
しかし、この動きはウクライナ全体の主流とは言えず、議会や政権においての少数派で影響力ありません。実際、議会や政府において、極右勢力はその影響力を大きく示すことはできていません。
2019年の議会選挙結果は、この事実を如実に示しています。全ウクライナ連合「自由」(スヴァボーダ)をはじめとする極右政党やその関連候補者たちは、議席を確保するための基準となる5%の得票率に到達することができませんでした。
それでも、ウクライナの親ロシア派勢力やロシアは、彼らを「バンデラ派ファシスト」として、特にロシア系住民に向けての脅威として強調し続けました。
「バンデラ派のファシスト」
この「バンデラ派のファシスト」というレッテルは、実際にロシアの正統性や影響力を脅かすものというよりも、ロシア自身がこの言葉を使いウクライナの反露感情を煽り、ウクライナ内での分断を促進する手段として用いられました。
このロシアの動きを見た中東欧の国々の中には、ロシアがウクライナ問題において攻撃的な姿勢をとり、紛争を煽っているという懸念が強まり、「ロシアが誤った歴史観で外国を威嚇している」という批判の声が高まっていきました。
これに対してロシアは「中東欧のファシストたちが誤解された歴史観に基づき、戦後の秩序やロシア系住民を脅かしている」と反論。これにより、双方の間には相互不信と緊張が高まり、情報戦略や歴史観を巡る対立が続いていくことになります。
ウクライナの現実とロシアの主張
以上のようにウクライナには、歴史の中でネオナチのような極端な右翼勢力が存在したことも、また現代においても一部に存在することも事実です。
しかし、これを「ウクライナ全体がネオナチに支配されている」と単純化して捉えるのは誤解であり、特に現在のウクライナ政府や主要な政治勢力が、ネオナチや極端な右翼イデオロギーを支持しているという主張は無理があります。
実際、ウクライナの現大統領、ヴォロディミール・ゼレンスキーはウクライナ系ユダヤ人の家庭で生まれ、ユダヤ人が大統領になること自体が、ウクライナがナチス主義的な国であるという主張に対する明確な反証になっています。
ロシアのプーチン大統領による「ウクライナはナチストたちに支配されている」との主張は一定の層に広がっていますが、これはあくまで情報戦略の一部として、国内や国外の世論形成に影響を与えるためのものと見ることができます。
「アゾフ連隊(アゾフ大隊)」
2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻以降、特に議論や懸念の中心となっているのが「アゾフ連隊(アゾフ大隊)」です。
【ウクライナ危機(34)】ウクライナ正規軍の中のネオナチがロシア系住民をジェノサイド!?侵攻の口実「アゾフ連隊」