【ウクライナ危機(31)】ベルリンの壁崩壊以前からの緊張の連鎖!侵攻の口実「ウクライナのNATO加盟」

2022年2月24日、ウクライナ侵攻が勃発しました。プーチン大統領はNATOとロシアの緊張が背景にあると主張しました。現在、NATO加盟国は30ヵ国に達し、ロシアは地域での影響力を回復しようとしています。

この記事では、プーチン大統領の演説やウクライナのEU・NATO加盟への意向も詳細に触れていきます。また、冷戦後のNATOの存続についても取り上げ、ロシアの要求とは異なる方向へ歴史が動いていく様子を追っていきます。

【ウクライナ危機(30)】2022年2月24日。欧州の歴史に残る暗黒の日、プーチンによるウクライナ侵攻の始まり
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ヨーロッパはなぜ東西陣営に分断され、緊張緩和の後は一挙に両陣営が統合されたのか。経済、軍事的側面にも注目しつつ、最新研究により国際政治力学を分析する。(「紀伊國屋書店」データベースより)

NATO vs Russia

クライナ危機の真実!?ロシアとNATOの衝突

https://www.youtube.com/watch?v=nVt-WXTLIZM
DW News/YouTube

ロシアと北大西洋条約機構(NATO)との間の緊張は、ウクライナ危機の背後に潜む根深い課題の一つであり、これはベルリンの壁が崩壊した1989年以降のヨーロッパの政治情勢に深く根ざしています。

プーチンの演説で明かされたロシアの視点

ロシアはウクライナに対する軍事行動を、「NATOからの脅威への自衛」の一部と主張しています。この主張は、特にウクライナがNATOへの参加を求めているという事実を背景に展開されています。

2月24日の演説で、ロシアのプーチン大統領は、NATOについて「ロシアを敵と見なし、ウクライナを支援している。そして、いつかロシアを攻撃するつもりだ」と言い切りました。

ウクライナへの侵攻開始と同時に行われたこの演説で、プーチンはなぜ軍事行動に踏み切ったのか、そしてロシアがどのようにして国際的な脅威と対峙しているのかを明らかにしました。

「NATO vs. ロシア」新冷戦の激化と世界の影響

1991年、ソビエト連邦の崩壊と共に、ワルシャワ条約機構は消滅しました。これは、東側陣営の主要な軍事同盟であり、その消滅はヨーロッパの地政学的バランスに重大な影響を及ぼしました。一方、西側陣営の軍事同盟であるNATOは、社会主義圏の東欧諸国を次々に吸収し、拡大していきました。

現在、NATOの加盟国は30ヵ国にまで上り、アイスランド、アメリカ、イタリア、イギリス、オランダ、カナダ、デンマーク、ノルウェー、フランス、ベルギー、ポルトガル、ルクセンブルク、ギリシャ、トルコ、ドイツ、スペイン、チェコ、ハンガリー、ポーランド、エストニア、スロバキア、スロベニア、ブルガリア、ラトビア、リトアニア、ルーマニア、アルバニア、クロアチア、モンテネグロ、北マケドニアを含む多くの国々が参加しています。

一方、大国復活を目指すロシアは、この地域で軍事的影響力を再び増大させる意向を明らかにしています。ロシアはNATOの拡大を警戒しており、特に旧ソビエト連邦の領域に近い地域でのNATOの存在を強く否定しています。

こうした中、NATOとロシアの間の対立は激化しており、これは「新冷戦」とも形容されています。

これは、かつての東西冷戦を彷彿とさせる緊張状態を指しており、両者間の対立は世界全体に影響を及ぼす可能性があります。ウクライナの問題は、その一環として理解することができ、国際社会がその解決に向けて動くことが求められています。

ウクライナのEU・NATO加盟への決意

2019年2月、ウクライナ議会は、当時の大統領ペトロ・ポロシェンコの提出した憲法改正案を承認し、ウクライナの欧州連合(EU)および北大西洋条約機構(NATO)加盟への道をウクライナ憲法に明文化しました。

この改正により、ウクライナ民族の欧州アイデンティティと欧州・ユーロ大西洋統合の不可逆性が憲法前文に明記されるとともに、憲法第102条も改正され、「ウクライナの大統領は、EUとNATOへの完全な加盟への国家の戦略的方針の実施を保証する」との規定が追加されました。

ポロシェンコ大統領が2019年の大統領選挙で敗北したものの、ウクライナの外交政策の基本方向は大きく揺らぐことはありませんでした。

後任となったゼレンスキー大統領も、EUとNATOへの統合を追求し、対ロシア外交政策を維持する路線を引き継いだのです。

さらに、ゼレンスキー大統領は2020年9月、ウクライナの新たな国家安全保障戦略を承認しました。この戦略には、NATOとの特別なパートナーシップを発展させることでNATOへの完全な加盟を目指すという意志が明確に表現されています。

これは、ウクライナがNATOへの加盟を目指すという強い決意を再度確認したものであり、国際社会に対してその姿勢を示す重要なステップとなりました。

Петро Порошенко/YouTube
プーチンが見るNATOの脅威

ソビエト連邦の崩壊後、プーチン大統領は「偉大なロシアの復興」を目標に掲げ、国家を強力に牽引してきました。

その一方で、プーチン大統領が最も警戒してきた存在が、アメリカが主導する軍事同盟、すなわちNATOでした。東西冷戦終結後、NATOは東方へとその範囲を拡大しました。その結果、NATOはウクライナの西隣まで迫り、その行動はロシア(プーチン)から見ると直接的な安全保障上の脅威となっていたのです。

事実、プーチンはロシアの安全保障に深刻な脅威であると幾度となく批判をしてきました。

NATOとワルシャワ条約機構(WTO)の対立の起源と冷戦期の役割

冷戦期には、世界は大まかに米国と西欧が形成する「北大西洋条約機構(NATO)」と、ソビエト連邦(ソ連)と東欧が形成する「ワルシャワ条約機構(WTO)」という二つの軍事同盟によって分けられました。

これらの同盟は、それぞれの政治的・軍事的影響力を確立し、一方が他方に対して行動を起こすことを抑制するバランスの役割を果たしていました。

HISTORY/YouTube
冷戦の終焉とNATOの変貌

第二次世界大戦が終わった数年後の1949年4月、アメリカとイギリスを中心に結成された北大西洋条約機構(NATO)は、ソビエト連邦を中心とする共産主義陣営(東側諸国)に対抗する目的で設立されました。

その主要な任務は「集団防衛」であり、もし一つの加盟国が攻撃を受けた場合、その攻撃は全同盟国への攻撃とみなされ、攻撃を受けた国は他の加盟国により支援されました。これは「集団的自衛権」の行使として知られています。

NATO/YouTube
1955年 ワルシャワ条約機構(WTO)結成

一方、ソビエト連邦と東欧諸国は、1955年にワルシャワ条約機構を結成し、NATOに対抗しました。

これらの軍事同盟は冷戦期におけるイデオロギー的対立と軍拡競争を特徴づけましたが、「冷戦」という名の通り、事態は集団的自衛権を行使するほどエスカレートせず、核戦争のリスクを回避するため、両陣営とも直接的な軍事対立を回避しました。

British Pathé/YouTube

NATOの東方拡大とゴルバチョフの「約束」

ベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終わった時、ドイツ統一の問題が表面化しました。この時、NATOの東方への拡大について、様々な議論が生じ、それは今日まで続いています。中でも特に論争を呼んでいるのは、ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ書記長が、統一ドイツのNATO加盟を巡る交渉において、NATOの東方拡大について何らかの「約束」を受けていたかどうかという問題です。

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NATOの東方拡大と「1インチたりとも東方に拡大しない」約束

1989年、ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの統一に向けた議論が、当時の米国大統領ジョージ・H・W・ブッシュとソビエト連邦書記長ミハイル・ゴルバチョフの間で始まりました。この議論の中で、統一ドイツとNATOとの関係のあり方が大きな課題となりました。

当時の米国務長官ジェームズ・ベーカーは、ゴルバチョフ書記長に対して、「もし我々がNATOの一部となるドイツに留まるなら、NATO軍の管轄は1インチたりとも東方に拡大しない」と述べたとされています。

AP Archive/YouTube
ドイツの再統一にはソ連の安全保障に配慮する必要があった

米国、ドイツ、その他の主要西側諸国は、ドイツ再統一に向けてソビエト連邦の同意を得るために、ソビエト連邦の安全保障への配慮を表明する必要がありました。

そのため、米国務長官ジェームズ・ベーカー、西ドイツ首相ヘルムート・コール、西ドイツ外相ハンス-ディートリヒ・ゲンシャーをはじめ、ジョージ・H・W・ブッシュ米大統領を含む米欧各国の首脳は、彼らの発言を支持し、ソビエト連邦に対してNATOの東方拡大を制限するとの意向を示しました。

この働きかけの結果、1990年10月3日にドイツ再統一が実現しました。この成果は、西側諸国がソビエト連邦の懸念を認識し、その安全保障を尊重するという立場を通じて得られました。

しかし、この時点での「NATOの東方拡大を制限する」という発言は、当時の具体的な政治状況を背景にした「発言」であり、正式な条約として文書化されることはありませんでした。

NATOの約束は本当にあったのか?議論続く

ベーカー米国務長官の「1インチたりとも東方に拡大しない」との発言は、その後の研究で注目され、一部ではNATOの東方拡大の約束があったという解釈がなされました。これはベーカーの回顧録や一部の公文書研究によるものでした。

しかし、この発言が具体的に東ドイツ部分を指していたのか、それともより広い意味での東欧全体を指していたのかについては、見解の分かれるところです。結局、この発言は具体的な約束や条約となる形をとらず、その後のNATOの東方拡大に影響を及ぼしました。

ソ連の解体とドイツの統一後、NATOは中欧・東欧の旧社会主義諸国やバルト三国を含む東方へと拡大しました。これにより、ロシアは直接NATO加盟国と国境を接する形となり、多くのロシア人は西側に「裏切られた」と感じるようになりました。

しかし、この「拡大」は一方的なものではなく、各国が自らの選択によりNATOに加盟したという側面もあります。

ポーランド、リトアニア、チェコ、ハンガリーなどの国々は、自国の防衛を自力で行うことが困難で、中立の立場を取る選択肢もない中で、自国の安全保障を確保する最良の手段としてNATOへの加盟を選んだのです。

これらの国々にとって、NATO加盟は自由で主権を持つ民主国家としての自己決定によるものであり、受け身の行為ではなかったと言えます。

ソ連崩壊後の国々に課されたNATO非加盟の条件

ソビエト連邦の崩壊後、1991年にソビエト共和国は独立し、ウクライナを含む共和国も独立しました。ただし、ロシアはこれらの地域に対して、NATOに加盟しないことを条件に独立を認めました。

BBC News – Русская служба/YouTube

ワルシャワ条約機構が失効……敵を失ったNATOの存続と新たな使命

1991年12月にソビエト連邦の崩壊が引き起こした政治的変動の中で、ウクライナを含むソビエト連邦の旧共和国が独立しました。ロシアは、これらの国々に対してNATOへの加盟を避けることを条件に独立を認めました。一方、これらの国々が加盟していたワルシャワ条約機構は、ソ連の崩壊前の1991年7月に失効しました。

ロシアは、冷戦が終わり、ワルシャワ条約機構が解体したことから、NATOもまた解体され、その使命を終えるべきだと主張しました。ロシアは、東西を包摂する形で欧州安全保障協力会議(CSCE、後にOSCEとなる)がヨーロッパの新しい安全保障組織として機能するべきだと主張しました。

しかし、NATOは長年にわたり協力関係と軍事的ノウハウを蓄積してきた組織であり、解体は容易なことではありませんでした。そのため、NATOは新たな使命を模索することで存続する道を選びました。

その新たな使命とは、従来の防衛の枠組みを超えて、より広範な安全保障課題に対応すること、そしてNATO加盟国だけでなく、パートナー国とも緊密な協力関係を築くことでした。

NATOの存続と役割の変化は、その後のヨーロッパの安全保障環境に大きな影響を与えることになりました。

旧東欧諸国とバルト三国のNATO加盟要求

実はこの頃から、旧東欧諸国やバルト三国は、過去の体験からロシアに対する深い恐怖心を抱いていました。これらの国々は、ワルシャワ条約に基づく軍事行動の結果、ロシアから厳しい攻撃を受け、深刻な影響を被ってきました。そのため、ロシアの政体が変わったとしても、これらの国にとってのその信用性は低いままでした。

そのため、これらの国々は新たな安全保障のパートナーを求めるようになりました。

具体的には、「ロシアの政体が変わったからと言って、信用できない。NATOはただ残すだけでなく、我々を加盟させてほしい」という主張を始めました。

これは自国の安全保証のため必要であると判断しての行動でした。しかし、この動きはロシアのみならず、NATOとその加盟国にも新たな課題をもたらすこととなります。

クリントンとタルボットの役割

旧東欧諸国やバルト三国がNATOへの加盟を望んでいた一方で、ロシアはこの動きを快く思っていませんでした。NATOが東方に拡大し、自身の国境線に迫ることは、ロシアにとって受け入れがたい状況でした。こうした中で、緊張の調整役としてアメリカが前面に出てきます。

1993年1月から8年間にわたりアメリカ大統領を務めたビル・クリントンがその役目を担いました。彼の対ロ政策の策定には、彼の学生時代からの親友であり、ロシア専門のジャーナリストであったストローブ・タルボットが深く関与しました。

タルボットは日本の対ソ連政策に関心を持っていた一方で、同時期に日本の外務省でソ連課長を務めていた筆者とも親交がありました。クリントンとタルボットの二人は、NATOの東方拡大とロシアの安全保障環境を巡る緊張緩和のために、多大な努力を払いました。

World101/YouTube

誤解と信頼の喪失…NATOとロシアの関係の変遷

ソビエト連邦の崩壊後、エリツィン大統領の指導の下、ロシアは西洋型の自由主義と市場経済に急速に転換しました。しかし、1993年10月、米国のクリストファー国務長官の訪問がきっかけで、ロシアとNATOとの関係に微妙なひずみが生じ始めます。

クリストファー国務長官は、NATOと東欧、そしてロシア諸国との関係について、「Partnership for Peace(平和のためのパートナーシップ:PfP)」という構想を提案しました。この構想は、ワルシャワ条約機構の旧ソビエト諸国がNATOと協議体を結成し、いずれNATOへの加盟へと道を開くものであると説明されました。ただし、「それは長い道のりである」と付け加えられました。

エリツィン大統領はこの提案に全面的に同意しました。彼はこれにより、ロシアとNATOとの関係が安定し、同時にロシアの国威も保たれると考えました。

しかし、1994年の後半、米国のクリントン政権は方針を転換。「NATOにはどの国も加盟できる」という新たな政策を打ち出しました。これは、大統領選挙で東欧系移民の票を取り込むための政略だったとされています。

民主主義の国では、選挙はしばしば国の方針を左右します。しかし、このような方針転換は先の約束を覆すものであり、それがロシアとNATOとの間に複雑な緊張を生み出す結果となりました。加えて、これは民主主義のポピュリズムの弱点を露呈する一方、ロシアとNATOとの間に誤解と不信感を植え付けるきっかけともなりました。

挑発と無視…NATO拡大の影響

ジョージ・ケナンは、元ソビエト連邦の代理大使としての経験を持つ晩年の外交官で、NATOの拡大がロシアを挑発するだろうと警告していました。ジョージ・ケナンは、ロシアの指導者であるプーチンにはソ連を再建する意図がないと述べ、当時国務副長官でありクリントン政権の主要なブレーンであったストローブ・タルボットに説明しました。

しかし、タルボットはケナンの警告を無視しました。彼自身が述べているように、タルボットの交渉術は「こちらの提案から一歩も譲らず、相手が折れるまで待つ」というもので、これによりロシアを敗戦国のように扱い、その意志を無視したのです。

当時のコズイレフ外相はタルボットに対して苦言を呈しています。「米国の命令に従うのがロシアの為になると君は言うが、それは我々の傷に塩を塗り込むようなやり方だ」と。タルボットの対ロシア政策は、ロシアの傷口にさらなる痛みを与え、その後の米露関係の悪化を招いた要因の一つと考えられます。

NATO拡大とロシアの反応…関係悪化の火種

クリントン政権は、ロシアとの関係を安定させるためにNATO・ロシア評議会を設立しました。しかし、評議会は名ばかりのもので、実質的な決定権を持つことはありませんでした。これは、クリントンがロシアを「騙した」ことに他ならないと、多くのロシア人は感じました。

一方、ユーゴスラビアの崩壊に伴うボスニア紛争では、国連やヨーロッパ諸国の対応が無力で、結果的にNATOの関与が拡大しました。この動きはロシアをさらに刺激し、親欧米路線を推進していた若手のアンドレイ・コズィレフ外相の失墜を招きました。

1997年5月には、ロシアがNATOと基本協定を結びましたが、同年7月にマドリッドで開かれたNATO首脳会議で、チェコ共和国、ハンガリー、ポーランドの3国の加盟が承認され、これら3国は1999年4月に正式に加盟しました。

その後も、NATOの拡大は続き、エリツィン大統領が「レッドライン」と警告していた旧ソ連圏まで広がりました。2004年には、バルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)がNATOに加盟しました。これらの動きは、ロシアとNATOとの間に深刻な緊張を引き起こし、二国間関係はさらに悪化しました。

プーチンの台頭と対NATO方針の転換

エリツィン大統領が退任後の2000年に出した回想録「大統領のマラソン」では、「これ(NATO東方拡大)は誤りだ。新たな東西対立へとおとしめることになるだろうと。残念ながら、その通りになった」と記しています。こうして、ロシアの親欧米路線は瓦解し、代わって登場したのが、96年にロシア外相に就任したゴルバチョフの側近であったプリマコフでした。プリマコフはインドや中国などとの全方位外交へと方向転換しました。

同時に、エリツィンの市場改革路線は1998年のアジア金融危機の影響を受け破綻しましたが、この危機を救ったのも急遽首相に就任したプリマコフでした。また、NATOの拡大がコソボ危機を招いた際、プリマコフ首相は訪米を中止し、次期大統領候補との声が上がりました。

この状況に対抗するため、エリツィンは元東ドイツ駐在KGBのプーチンを登用しました。1999年末、病気がちのエリツィンは後事をプーチンに託しました。プーチンは、チェチェンなどのテロに対抗し、国家再建と保守主義、そして経済成長を掲げて登場しました。

2000年の初めての大統領選で、プーチンは「NATOを敵とは見なさず、同等の立場からNATOに加盟する可能性を排除しない」と明言しました。「同等の立場から」という言葉は、今日のプーチンのNATOに対する態度を理解するための重要なヒントとなっています。

ユーゴスラビア空爆とロシアの反NATO・反米観の増幅

1999年のNATOによるユーゴスラビア空爆は、ロシアの反NATO・反米観を増幅させました。この空爆が行われた背景には、コソボという地域がありました。コソボには多数派のアルバニア系住民と、セルビア系住民が共存していました。コソボはセルビア系住民にとって聖地とされていましたが、一方でアルバニア系住民に対する自治権が認められており、アルバニア語教育なども行われていました。

1980年代、アルバニアは独裁者エンベル・ホッジャによる鎖国政策の影響で欧州最貧国となりました。そのため、多くのアルバニア人が寛容なコソボ自治州を目指して難民となりました。一方で、少数派のセルビア系住民が被害を受けていたという事実も存在します。

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コソボ紛争の勃発とエスカレーション

冷戦終結後、旧ユーゴスラビアの解体が進行する中、コソボのアルバニア系住民は独立あるいはユーゴスラビア内の共和国昇格を求めて運動を強めました。しかし、1989年にユーゴスラビア連邦共和国はコソボの地方自治権を無効にしました。これに反発したアルバニア人はセルビア国家機関や行政当局をボイコットし、緊張が高まりました。

その中で、1996年にはコソボ解放軍(KLA)が武力による独立を求めて表面化しました。KLAはセルビア人役人や彼らに協力するアルバニア人を攻撃し始め、対抗するセルビア当局は大量逮捕に踏み切りました。

1998年3月5日、長年にわたる平和的な自治権獲得運動が頓挫すると、KLAはイスラム教徒が多数を占めるユーゴスラビアの地域でセルビア人支配に対する武力蜂起を開始しました。ミロシェビッチ大統領は軍隊を派遣し、アルバニア系住民に対する強硬な弾圧を行いました。

セルビアの治安部隊はアルバニア系住民の町や村を焼き払い、多数の一般市民を殺害しました。この結果、大量の難民が隣国アルバニアへと流出し、深刻な人道危機が発生しました。

国連の決議がないままNATOが介入…その結果

ユーゴスラビア内のコソボで進行していた人道的危機を防ぐため、NATOは「アライド・フォース作戦」を発動し、紛争への介入を開始しました。この行動はアメリカのビル・クリントン大統領によって「人道的な介入」と呼ばれましたが、国連の決議を得ずに実行されました。

空爆は1999年3月24日から同年6月10日まで続き、ミロシェビッチ政権によるすべての軍事行動や弾圧活動の即時停止、コソボからの全軍隊・警察・準軍事部隊の撤退、国連平和維持軍の駐留、難民と国内避難民の無条件で安全な帰還を目指しました。

NATOの介入の結果、ユーゴスラビアの軍隊はコソボから撤退し、これにより地域のパワーバランスが大きく変化しました。これまでコソボのアルバニア人住民を脅威に晒していたユーゴスラビア軍とセルビア警察および準軍事部隊の力が失われ、アルバニア人は一転して優位となりました。この状況の下、NATOはセルビア側が完全に敗北するまで作戦を継続しました。

NATOの空爆は沢山の民間人と子供を虐殺

当初、NATOのコソボ介入は、ユーゴスラビアのミロシェビッチ大統領による「非人道的な民族浄化キャンペーン」への対抗策として開始されました。この目的は、平和促進と人道的観点から、国際的な支持を得てユーゴスラビアに平和協定の受け入れを促すことでした。しかし、この戦略の一環として採用された空爆による「強制的な制圧」は、貴重なアメリカのステルス爆撃機が撃墜されるなどの困難を引き起こしました。

「人道的な攻撃」の名の下に開始された行動は、皮肉にも大規模なコソボ難民の流出を引き起こしました。さらに、誤爆による市民犠牲者の増加という悲惨な結果を招き、予想外の「非人道的」な状況を生み出しました。国連難民高等弁務官事務所の報告によれば、NATOの空爆開始後、約44万人のアルバニア系難民がアルバニアへ、23万人がマケドニアへ、7万人がモンテネグロへ、さらに3万人がボスニアへ避難しました。この上に、3万人の難民がトルコ、クロアチア、ブルガリアへと避難を余儀なくされました。

一方、欧州連合(EU)とNATOは10万人の難民を一時的に受け入れると決定しましたが、開始から2ヵ月間で約5万人しか受け入れられず、難民受け入れの大きな負担は引き続きバルカン諸国に置かれました。さらに、NATOの空爆により1,500人以上の市民が死亡し、5,000人以上が負傷するなど、悲惨な結果がもたらされました。

特に衝撃的なのは、負傷者の40%が子供であったという事実で、この結果は「典型的な戦争犯罪」に酷似した現実を示しています。

コソボ紛争の後の民族間の緊張と国際的影響

1999年のNATOによる空爆の後、セルビア軍はコソボから撤退し、80万人のアルバニア人難民の半数がコソボに戻りました。しかし、この流れは新たな問題を生じさせました。セルビア人が今度はコソボから避難を始め、アルバニア人によるセルビア人を含む少数民族への迫害が報告されるようになりました。

コソボ紛争では「エスニッククレンジング(民族浄化)」という言葉が一部で「発明」され、一方的にセルビアが悪者、コソボ人=被害者とする報道が主流でした。

しかし、事実は単純ではなく、KLA(コソボ解放軍)が警察署を先に襲撃したり、虐殺行為などを行ったという証拠もありました。これらの行為が報復の連鎖を引き起こし、外部から見れば、どちらも問題を持つ存在と見ることができました。しかし、西側メディアはセルビアだけを悪者に描いた。

NATOが、ロシアが常任理事国として参加している国連安全保障理事会の決議を取り付けないまま、NATO域外であるユーゴスラビアへの空爆に踏み切ったことは、ロシアから見れば国際安全保障のルールを逸脱するものであり、強い反発を呼びました。

加えて、NATOが域外での軍事行動を容認する新戦略概念を採用したことは、チェチェン問題を抱えるロシアにとって、コソボと同じような人道介入が自国にも適用される可能性を生み出し、絶対に容認できない事態となりました。

冷戦終結後、ロシアは全体主義的な共産主義から解放され、西側との良好な関係を築くことを期待していました。しかしこの親善ムードは、1999年のNATOによる一方的なコソボ介入によって一転し、西側の意図と誠意に対する疑念が再燃しました。これがきっかけとなり、ロシアはNATOの潜在的なパートナーから再び反目する存在へと変わったのです。

地政学的駆け引き!?ロシアとEUの間で揺れるウクライナ

ウクライナは、1991年のソビエト連邦の崩壊後に独立しました。2004年5月には、ポーランドやスロバキアなど8つの旧東欧諸国がEUに加盟し、これによりウクライナはEUとロシアの間に位置する、重要な地政学的地域となりました。

その同年の11月には、ウクライナで行われた大統領選挙の結果に対して不正があったとする抗議運動が広がりました。これによってヴィクトル・ユシチェンコ氏が大統領に再選され、この事件は「オレンジ革命」と呼ばれました。

ユシチェンコ政権は、反ロシアの政策を推進し、NATOへの加盟交渉を進めるなどしました。これに対してロシアは反発したものの、ユシチェンコ政権を崩すほどの干渉は行いませんでした。

プーチンのNATOに対する反論とウクライナ、ジョージアのNATO加盟問題

2007年、ロシアのプーチン大統領はついに我慢の限界に達しました。この年のミュンヘン安全保障会議での演説で、「ワルシャワ条約機構の解体後、欧米は(軍事ブロックを拡大しないよう)保証したのか」「NATOは前線部隊を我々の国境付近に配置してきた。それでも、我々は条約義務を厳格に守り、こうした活動にも目をつぶってきた」と、欧米とNATOを公の場で強く批判しました。

プーチンのこの発言は、ロシアがソビエト連邦崩壊後の混乱と弱体化を経て、大国としての自信を取り戻した時期に当たるものでした。プーチンの安全保障に対する主張は、この時から今も変わっていません。

このようなプーチンの訴えを尻目に、NATOは2008年4月のサミットではウクライナとジョージアが将来的なNATO加盟に同意し、NATOとロシアの緊張がさらに高まることになりました。

Brut America/YouTube

ウクライナとジョージアのNATO加盟とロシアの反応

2008年4月のブカレストサミット。ウクライナとジョージアにNATO加盟を目指す機会が訪れました。当時の米国大統領ジョージ・W・ブッシュ政権は、両国のNATO加盟を強く支持していました。しかし、これはロシアからの圧力を受けたドイツとフランスによって阻止されました。

FRANCE 24 English/YouTube
ロシアの行動とNATOの拡大

しかし、ロシアは、ウクライナとジョージアがNATO加盟を目指す動きを自体を、ロシアの影響圏への進出と見なし、レッドライン(一線を越えた)と捉えました。

これに対抗する形で、ロシアは2008年8月にジョージアへの軍事介入を行いました。ジョージアの南オセチア地方など親ロシア地域を事実上「独立」させることで、NATOが旧ソ連圏へと進出してくることへの警戒を示したのです。

2014年にロシアはさらなる行動を起こし、ウクライナのクリミア半島とドンバス地域を占領しました。これらの出来事は、ロシアと西側諸国との間で長期にわたる緊張関係を生み出し、地政学的なパワーバランスに大きな影響を与えました。

CBS/YouTube

NATOの加盟要件とロシアの反対

NATOの加盟要件には、進行中の領土紛争を抱えていないことが求められるわけではありません。しかし、新たに加盟を希望する国が特定の要件を満たすことはNATO加盟国間での合意事項であり、これには領土紛争の解決も含まれます。この規定は、ウクライナとジョージアのような、ロシアとの進行中の領土紛争を抱える国々にとってはNATOへの加盟障壁となっています。

ロシアはウクライナとジョージアの一部地域を占領することで、これらの国々がNATOに加盟することを事実上困難にしています。ロシア軍によって一部が占領されている国がNATOに加盟することは認められないため、これは間接的にプーチンに対してNATO加盟の拒否権を与えることを意味します。

しかし、プーチンのウクライナに対する攻撃はNATO加盟に対するものだけではありませんでした。プーチンは、ウクライナの民主主義を終わらせ、ウクライナを再びロシアの影響下に戻すことでロシアに従属する国にし、ロシアの地政学的な影響力の強化を目論んだのです。

ロシアがNATO加盟!?プーチンの提案

実はプーチン大統領は、過去にロシアのNATO加盟を示唆する発言をしています。

これは2000年、ビル・クリントンがアメリカ大統領であった時期に起きました。この時期、ロシアの経済は深刻な困難に直面しており、国内の軍事力も衰退していました。このような状況下で、プーチンは西側の支援を求め、ロシアのNATO加盟を提案しました。

しかし、クリントン大統領の反応は冷たく、プーチンの提案は実質的に却下されました。クリントン大統領は、NATOが東方に拡大し、旧ワルシャワ条約の加盟諸国を含むようになれば、「ロシアとそれらの国々の関係が改善され、ロシアは友好的な国々に取り巻かれるだろう」との見解を示しました。

これに対し、プーチンは苦々しく回想し、「なぜダメなのか。ロシアの国益を考え、もし平等なパートナーということであれば、その可能性を排除しないのは当然だ。ロシアは欧州文化の一部であり、ロシアが欧州の中で孤立するとは考えていない。だから、NATOを敵対視することは困難だ」と述べています

「対テロ対策五項目」プーチンの国際協力と対テロ戦略

さらに、プーチンはアメリカやNATOと協力関係を結んでいたこともあります。

米同時テロが起きた2001年9月11日の前後、ロシアでは南部チェチェン共和国の独立派との紛争が続き、大規模テロが頻発していた。ロシア指導部は、今回のテロ事件を、停滞している対米関係、対欧州関係を一気に改善する絶好の機会ととらえました。

また、チェチェン共和国におけるロシアの軍事行動が、あくまでも国際テロのネットワークへの対処であるとのロシアの主張を欧米諸国に理解させる機会でもありました。

その一環として、プーチンは各国首脳の中でも最も迅速にブッシュ大統領に連絡を取り、ロシアのアメリカ支持と具体的な支援策を提示しました。

その後、プーチンは9月24日に、「対テロ対策五項目」を発表しました。これは次のような内容で構成されていました。

  1. 米軍に対する情報の提供: テロ対策に必要な情報を米軍に提供することで、効率的な対テロ活動を実施するための情報基盤を整備するというものでした。
  2. 人道支援のための航空機の領空通過の容認: テロ被害による人道的危機への対応を円滑に行うため、人道支援物資を輸送する航空機のロシア領空通過を認めました。
  3. 中央アジア諸国が自国の飛行場の使用を米国に認めた場合、その決定を支持: 米国と中央アジア諸国との協力体制を強化し、対テロ活動を支援するための基盤を確立しました。
  4. アフガニスタンにおける国際捜索救助活動への参加: テロ発生地であるアフガニスタンにおける救助活動に積極的に関与し、被害者の救出と治療、安全保障の強化に貢献しました。
  5. 反タリバンである「北部同盟」に対し装備品や軍用機材を提供し追加的支援: タリバーンに対抗する勢力を支援し、地域の安定化に貢献しました。

これらの決定は、プーチンがアメリカと共闘することでロシアの国際社会における地位を強化しようとした戦略を明確に示していました。また、国際テロという共通の敵に対抗することで、国際間の緊張緩和と共同体意識の醸成に寄与することを目指したものでした。

これらの措置は、プーチンがロシアの外交政策を具体的にどのように進めていくのかを示すものであり、その後の国際政治の舞台におけるロシアの動向を理解するための重要な指標となりました。

AP Archive/YouTube
各国の自由な選択を尊重…NATOとの協力を強調

旧ソ連時代のアフガン戦争からの経験と、アフガニスタンに隣接する中央アジア諸国に対する影響力を活用し、プーチン大統領は米国との協力を進めていきました。2001年10月、彼はブリュッセルのNATO本部を訪問し、共通の敵である国際テロリズムに対抗するためには、ロシアとNATOの協力関係を強化する必要があると述べました。

プーチンは、ロシアが将来NATOに参加する可能性についても言及しました。このコメントは、ロシアが西側の安全保障機構への統合を考えていると解釈されました。しかし、NATOの第2次東方拡大により、ロシアとNATOの間の対テロ協力が崩れる可能性も指摘されていました。

2001年11月、プーチンは訪米中に、テロとの戦いについての現実的で友好的な意見を発表しました。それによれば、各国が異なる手法を用いるかもしれないが、それは同じ目標に向かうものであり、その結果がどうあれ、両国と世界の利益を脅かすものではないと述べました。

また、ロシアはNATOの役割を理解しており、その組織との協力を拡大する意志があるとも表明しました。

2002年、NATOはエストニア、ラトビア、リトアニアといった旧ソ連圏のバルト三国の加盟方針を発表しました。しかし、プーチン大統領はこれに対してほとんど反応せず、各国が安全保障を強化したいと希望する場合、それを禁止することはできないと述べ、各国の自由な選択を尊重する立場を示しました。

ロシアとNATOの確執の歴史

この一連の流れからも明らかなように、ロシアとNATOとの間の確執は長い歴史を持っています。ベルリンの壁が崩壊して以降、NATOが東方に拡大し続ける中で、その確執はエスカレートしてきました。

そして今、その歴史的な対立がウクライナ危機という形で再び表面化し、世界に大きな影響を与えています。これからの動向に注目が集まる中、解決のための道筋を見つけ出すことが急務となっています。

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ヨーロッパはなぜ東西陣営に分断され、緊張緩和の後は一挙に両陣営が統合されたのか。経済、軍事的側面にも注目しつつ、最新研究により国際政治力学を分析する。(「紀伊國屋書店」データベースより)
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