【ウクライナ危機(3)】長い闘いの果てに…350年の希望実現!ウクライナ独立の瞬間

この記事では、ウクライナが独立を勝ち取りながら、核兵器保有国からの完全な非核化へと歩みを進めた一連の出来事について詳しく紹介します。

1917年のロシア革命から始まるウクライナの独立運動、ブダペスト覚書を通じた核兵器の返還と廃棄、そして非核化に対する安全保障の試練まで、ウクライナの歴史的な旅路と国際的な関与を探ります。

さらに、ウクライナが直面した困難や国際社会の役割についても議論し、非核化の意義と課題に迫ります。ウクライナの非核化に関心のある方や国際政治の興味を持つ方にとって、必読の記事です。

【ウクライナ危機(2)】ソビエト連邦崩壊の予兆…史上最悪の原発事故「チェルノブイリ」
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ロシア帝国やソヴィエト連邦のもとで長く忍従を強いられながらも、独自の文化を失わず、有為の人材を輩出し続けたウクライナ。不撓不屈のアイデンティティは、どのように育まれてきたのか。スキタイの興亡、キエフ・ルーシ公国の隆盛、コサックの活躍から、一九九一年の新生ウクライナ誕生まで、この地をめぐる歴史を俯瞰。人口五〇〇〇万を数え、ロシアに次ぎヨーロッパ第二の広い国土を持つ、知られざる「大国」の素顔に迫る。(「BOOK」データベースより)

Ukraine independence

ウクライナ独立の挑戦

almostunrealthing/YouTube

1917年、歴史は大きな転換点を迎えました。その年、ロシア革命が勃発し、その影響はウクライナにも及びました。独立への願いを胸に、ウクライナ人民共和国という一時的な形態が誕生しました。しかし、ロシア・ソビエト政権からの攻撃により、この試みは失敗に終わり、独立への道は閉ざされました

第二次世界大戦が終わった後も、ウクライナの独立は実現しませんでした。大国間の政治的な緊張が高まる中で、ウクライナは自由を求め続けました。

事実上の独立を宣言「国家主権宣言」

ソ連の一部であったウクライナ社会主義共和国は、改革の風が吹き荒れていた1990年のペレストロイカ期に、共和国主権宣言を採択しました。この宣言では、ウクライナの「統治、自律、完全性、不可分性、外交関係における独立と平等」が強調されました。

宣言では、ウクライナの人々を代表する権限は最高会議にあると明記されました。また、現行の国境を守り、ウクライナ領土の不可侵性が明確に宣言されました。

さらに、ウクライナの人々だけが国家の資源を管理し、利用し、使役する権利を有すると強調されました。これにより、ウクライナの主権と資源管理権の重要性が再認識されました。

国会でこの宣言が採択され2度目の「国家主権宣言」

ウクライナ国家主権宣言は、その後の大きな出来事、すなわち1991年8月24日のウクライナ独立宣言の基盤となりました。この日、ウクライナは自身が独立国家であることを再び宣言し、ソ連から最終的に離脱しました。これがウクライナの独立への実質的な二度目の宣言となりました。独立への長い待ち望みがついに現実となったのです。

「1991年国民投票」独立への圧倒的な支持

した。この投票によって、レオニード・クラフチュク最高会議議長が初代大統領として選出されたのです。特に注目すべきは、ロシア語が主に話され、民族的なロシア人が多数を占める地域でも、独立が圧倒的に支持されたことであり、クリミア地方でも賛成票が54.2%を占めたのです。

「独立広場」の役割

ウクライナの首都キエフ市中心に位置する「独立広場」(マイダン・ネザレージュノスチ)は、この独立運動の中心地となりました。旧ソ連時代には「革命広場」と呼ばれていたこの場所は、1991年8月24日のウクライナ独立宣言、そして同年末のソ連崩壊と、ウクライナの独立達成の舞台となりました。

学生のハンガーストライキと無血の独立

武力衝突を伴わない無血の独立であったものの、1990年の夏には、キエフ大学を中心に学生たちがハンガーストライキを行いました。彼らは独立広場でソ連共産党の指導的役割を謳った憲法の条項を削除することを要求しました。このデモは市民の賛同を得て、結局は当時のクラフチュク最高会議議長(初代ウクライナ大統領)が学生たちと会うことにより、問題は解決へと導かれました。

ロシアの承認とウクライナ独立の確定

12月3日、ロシア共和国がウクライナの独立を承認し、ウクライナのソ連邦からの離脱は決定的なものとなりました。

さらに、12月8日には旧ソ連諸国からなる独立国家共同体(CIS)が誕生しました。そして、12月25日にソ連邦が解体すると、ウクライナは名実ともに独立国となりました。ここに、約350年にわたる待望のウクライナ独立の長い旅路が、ついに終結を迎えたのです。

中立の道を選ぶウクライナ

1991年の独立は、そのような大いなる時代から再びの独立ともいえるでしょう。ウクライナはようやく完全な独立国となり、西側世界とも東側世界とも密着しない中立の道を選びました。

「言語の独立」首都の英語表記の変更

また、ウクライナの独立性は言語にも表れています。首都のウクライナ語表記「Київ」の英語表記が「Kiev」から「Kyiv」に変更されることが1995年に正式に認められたのです。これはウクライナの独立とアイデンティティの強化を象徴する出来事でした。

通貨制度の変遷

ウクライナが1991年に独立すると、ソビエト連邦のルーブル(SUR)と等価の独自通貨であるカルボーヴァネツィ(UAK)が発行されました。もともとSURもウクライナではカルボーヴァネツィと呼ばれ、紙幣にもウクライナ語ではカルボーヴァネツィと記されていました。

その正式名称はカルボーヴァネツィだが、紙幣にはより大きな文字でクーポンと記され、通常はクーポンと呼ばれました。1991年に発行されたカルボーヴァネツィは番号もないものだったため、1992年にデザインを変更し通し番号を入れました。

現行通貨フリヴニャ(UAH)の導入

そして、1996年には、100000UAK=1UAHのレートで実質的なデノミを行い、現在の通貨であるフリヴニャ(UAH)が導入されました。これにより、ウクライナの経済は一段と安定し、自己のアイデンティティを保つ独立国としての地位を強固にしました。

ウクライナ憲法が施行

1996年6月28日、ウクライナ最高会議にて現行のウクライナ憲法が採択・施行されました。この憲法はウクライナを共和国と規定し、立法府(一院制の最高会議)、行政府(閣僚会議)、司法府(裁判所)の三権分立を明記しています。

さらに、国家元首であるウクライナ大統領は、国家主権、ウクライナの領土一体性、ウクライナ憲法の遵守、国民の権利と自由の保証人と位置づけられています。このような役割分担は、ウクライナが民主的な国家体制を築き上げていく上で重要な要素となっています。

「ロシアとの友好協力条約」ロシアとウクライナの密接な関係

ロシアとウクライナは歴史的、文化的に非常に深いつながりを有しています。約1000万人のロシア系住民がウクライナに、また約400万人のウクライナ系住民がロシアに居住しているとされており、文字通り最大の隣国であると言えます。また、お互いの最大の貿易相手国でもあり、当時から対ロシア外交はウクライナ外交の最優先課題の一つとなっていました。

包括的な友好協力条約と黒海艦隊分割についての協定

1999年3月には、両国間で最大の問題であった包括的な友好協力条約(1997年5月に署名)がロシア上院において批准され、ウクライナの領土保全と両国の国境不可侵が確認されました。同時に、ロシアが同条約の発効の条件としていた黒海艦隊分割に関する3つの協定も、1999年3月にウクライナ最高会議によって批准され、独立以来の両国間の重大な問題が解決されました。

世界3位の核保有国ウクライナの非核化への道

ソ連が解体した時、ウクライナは世界3位の核保有国となっていました。そのため、ウクライナの独立はソ連解体直後から地政学的な安全保障問題となっていました。ソ連はウクライナ国内に大量の核兵器を置いており、その数は1240発に上り、英国が冷戦時に保有していた核の2倍以上になりました。

「受け入れない、作らない、手に入れない」ウクライナが選んだ道

しかし、ウクライナは核兵器を保有する道を選びませんでした。チェルノブイリ原発事故の影響から、国民は核に対してアレルギーを持っていました。ウクライナ議会はソ連崩壊の前年、「受け入れない、作らない、手に入れない」の非核三原則を宣言しました。

政府や軍では「核を手放すことで自国の安全を守ることができるか」についての懸念がありましたが、「独立国家共同体(CIS)創設協定」「アルマアタ宣言」「核兵器の共同措置に関する協定」「戦略軍に関する協定」により、CIS戦略軍が核兵器の管理を担当し、ウクライナは非核化するという方針が確定しました。

核不拡散条約への加入

1992年には、旧ソ連のカザフスタン、ベラルーシとともに、戦略兵器削減条約(START)の「リスボン議定書」に署名。核ミサイルや戦略爆撃機などすべての核兵器を廃棄し、非核兵器国として核不拡散条約(NPT)に加入することに合意しました。これにより、ウクライナは名実ともに非核化の道を歩み始めました。

核放棄の見返りは「安全」と「独立性」

冷戦後の平穏な時代が訪れていた時期に、ウクライナ国内には約1800の核兵器が存在していました。これは短距離戦術兵器や空中発射巡航ミサイルを含んでいました。この状況を憂慮していた米国は、核保有国の数と核兵器の数を減らすことを望んでいました。

ブダペスト覚書とウクライナの非核化

ウクライナは1994年12月7日、米国・英国・ロシアなどと「ブダペスト覚書」を締結しました。これはウクライナが世界3位規模であった核兵器を放棄し、その代わりに領土の安全性と独立的主権が保障されることを取り決めた協定です。

正式名称は「ウクライナの核兵器不拡散条約加盟に伴う安全保障に関する覚書」であり、旧ソ連の中でロシア、ウクライナ、カザフスタン、ベラルーシに置かれていた核兵器をすべてロシアに集め、核兵器を保有しないウクライナの安全保障を担保する内容となっていました。

非核化への異論と財政支援

この非核化への動きに対し、ウクライナ内部からは安全保障の不安などを理由に反対の声も上がりました。しかし、米国は財政支援を見返りとして提供することで非核化を推進しました。

核兵器をロシアに集めその見返りに安全を保障する

ブダペスト覚書は、ウクライナが核兵器不拡散条約(NPT)に加盟し、核兵器をロシアに移送することと引き換えに、署名国がウクライナの独立、主権、国境線の不変を保証する内容となっていました。また、署名国はウクライナに対して核兵力を含む武力行使や威嚇、経済制裁を行わないことを約束しました。

ブダペスト覚書は条約とは違い各国の議会で批准はされませんでしたが、首脳が署名したことで一定の法的効力を持つ文書として扱われています。ウクライナはこの覚書により、自国の安全と主権を保障することと引き換えに核兵器を手放すことにしたのです。

「ウクライナをあらゆる核の脅威から守る」中国の保証

中国は、1994年12月に「ウクライナへの安全保証の提供に関する声明」を発表しました。これは、新たに独立を勝ち取ったウクライナに対する核保全の宣言であり、中国が核不拡散条約(NPT)が認める核保有国として行ったものでした。

具体的には、中国は自国が核兵器を使用したり、核の脅威を与えるような行動をとることはないと宣言しました。また、他の核保有国に対してもウクライナへ同様の保証を提供するよう求めました。

この宣言は、文字通り「中国はウクライナをあらゆる核の脅威から守る」とのメッセージを伝えるものでした。2012年に中国共産党総書記に就任した習近平も、この宣言を引き継いでいます。

さまざまな事情でウクライナは自国だけで核兵器の維持が困難だった

実は当時のウクライナは、自国だけで核兵器の維持が困難だったという問題も抱えていました。

独立後のウクライナ国内には膨大な数の核兵器が存在していました。しかし、それらを維持・管理するための技術的能力や組織的体制は十分に整っておらず、深刻な課題を抱えていました。

1993年には、ロシアの戦略軍とウクライナの第43ロケット軍の間で、核の管理について協議が行われました。その後、ロシアとウクライナの視察団がウクライナの戦略核の現状を視察し、ロシア側はその状況を「保管と安全の面で深刻な問題がある」と評価しました。これは、チェルノブイリ級の事故を引き起こしかねない危険な状況であったとされています。

また、核兵器の運用の指揮統制システム(Command and Control)はロシアの管理下にあり、核兵器のコントロールの権限を管理する行動許可伝達システム(PAL:Permissive Action Link)もロシアが管理していました。これは、ウクライナが独自で核兵器の維持・管理を行う能力を持っていなかったことを示しています。

さらに、ウクライナの経済状況も厳しく、核兵器の維持に必要な資金を確保することは困難でした。この結果、ウクライナは自国に残存していたICBMの保有を断念せざるを得なくなりました。そして、交渉の主眼を経済協力、非核化支援、安全の保証(security assurance)へと切り替えることとなったのです。

「ウクライナの非核化」大陸間弾道ミサイルの返還と廃棄

ブダペストの覚書に従い、ウクライナは1800余りの核弾頭と大陸間弾道ミサイル(ICBM)を全てロシアに返還し、廃棄した。これによりウクライナは大規模な非核化プロセスを実現し、その成功は世界に注目されました。

1996年6月までに、ウクライナは全ての核兵器をロシアに移送しました。これによりウクライナは完全に非核化されたと公式に認められ、核兵器がなくなった新たな独立国としての歩みを始めることとなりました。この非核化は、ブダペスト覚書に従い、独立、主権、国境線の保証と引き換えに実現されました。

ウクライナのこの一連の行動は、核兵器保有国としての立場から完全に離れ、非核化を達成したという点で、国際社会における重要なステップとなりました

「各国はウクライナを守る義務がない」ブダペスト覚書の厳しい現実

ウクライナの核兵器をロシアに移転・廃棄する取引の一部として、米国と英国は経済支援を提供し、これらの3国がウクライナの安全を「確約」した。しかし、「確約」は、国際法上、安全保障を「保証」するものではなかった。したがって、合意の名前は「覚書」であり、条約ではなかった。

言葉の選択は重要で、この覚書(Memorandum)は、国際法的な拘束力を持つ条約ではなく、各国間の約束事を記したものでした。つまり、ブダペスト覚書の条項を破っても、国際法違反にはならないということです。

当時の国際情勢では、ウクライナが武力攻撃を受ける可能性はほぼ皆無だと見られていたため、ウクライナの指導者はこの覚書を「安全を保証する文書」として受け入れました。詳細について無知だったウクライナの国民の多くも、この覚書によってウクライナの安全が保証されたと信じ込んでいました。

しかし、実際には、米国と英国は、ブダペスト覚書によってウクライナを守る法的義務が発生しないように文面を慎重に作成していました。つまり、覚書はその性質上、絶対的な保証を提供するものではなく、その意味合いを理解していない者には誤解を招く可能性があったのです。

UKRAINE TODAY/YouTube

トゥーズラ島紛争とブダペスト覚書の試練

基本的に安定した関係を築いていたロシアとウクライナですが、初めて大きな外交危機が生じたのは、2003年のトゥーズラ島を巡る紛争でした。ウクライナ領でケルチ海峡に位置するトゥーズラ島にて、ロシアが堤防建設を始め、ウクライナがこれを国境変更の試みと主張したことで対立が起きました。この問題は政府間の交渉により堤防建設が中止される形で解決しましたが、ロシアとウクライナの友好関係にひびが入るきっかけとなりました。

この対立は、ブダペスト覚書の法的拘束力に疑問を呈する契機ともなりました。ユシチェンコ大統領は覚書の見直しを求めましたが、新たな安全保証のための国際会議は開かれませんでした。

ロシアはこの事態を利用し、2014年3月1日にロシア連邦院はウクライナ領内での軍事行動を許可しました。その後クリミアの占領、ドンバス戦争が始まりました。

「非核化の見返りの安全保障」ブダペスト覚書の存在価値

ウクライナは、この出来事をブダペスト覚書の署名国であるロシアによる覚書違反と見なしています。さらに、ウクライナの一部では、覚書の他の署名国も自らの義務を守らなかったとして、強い批判の声が上がっています。

この事態は、ブダペスト覚書が実質的な安全保証を提供していないこと、そしてそのような覚書が国際紛争を防止する力が不十分であることの証明してしまいました。

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