この記事では、1991年のソビエト連邦の崩壊とチェルノブイリ原発事故の関連性について詳しく解説しています。ソビエト連邦の崩壊により、ウクライナ、ベラルーシ、およびロシアは放射能汚染や被災者援助の問題を抱えることとなりました。
さらに、ソビエト連邦の崩壊の経緯、新たに設立された独立国家共同体(CIS)の誕生、ゴルバチョフ大統領の辞任、そしてチェルノブイリ事故の被災地域の現状などを取り上げています。さらに、国際的な支援や課題の解決に向けた取り組みについても触れられています。この記事を通じて、20世紀末の重要な歴史的転換点とその影響を深く理解することができます。
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Dissolution of the Soviet Union
「超大国の終焉」ソビエト連邦崩壊への道とチェルノブイリ原発事故
1986年のチェルノブイリ原発事故は、歴史上最も悲惨な原発事故として知られる。しかし、その事故は単なる技術的な失敗以上のもので、当時の超大国、ソビエト連邦の崩壊を予見する象徴となった。この事故は、ゴルバチョフ政権が開始した翌年に発生し、その影響はソビエト連邦の終焉を加速させる一因となった。
「チェルノブイリ原発事故」と隠蔽
1986年4月26日、ソビエト連邦ウクライナ共和国のチェルノブイリ原子力発電所で大事故が発生し、その影響は莫大なものでした。この事故は少なくとも9,000人の命を奪い、数百万人に影響を及ぼしました。有毒物質の汚染が広範囲に広がり、放射性粒子が大気、都市、森林、道路を満たしました。その結果、何百万人もの人々が直面することになったのは、生涯にわたる健康リスクと避難の困難さでした。
汚染地域の現在と未来
事故前、汚染地域には約220万人が住んでいました。そして現在も約180万人がここに住み続けています。この人口の大部分を占めているのが、20歳未満の若者で、彼らは約48万人を数えます。原発から半径30キロメートル以内の地域は、”30キロゾーン”と名付けられ、人々に危険を及ぼす区域と指定され、住民は強制的に避難させられました。
「ウクライナだけでない」広範囲な影響
チェルノブイリ原発事故の影響はウクライナだけでなく、隣国のロシアとベラルーシにも及びました。特にベラルーシは、放出された汚染物質の70%以上が降り注いだとされ、最大の被害を受けた国と言われています。
ソビエト連邦の秘密主義
事故が発生した当時、ウクライナはソビエト連邦(USSR)の15の共和国のうちの1つでした。ソビエト連邦は極めて中央集権的な体制で、連邦共産党(CPSU)がすべての権力を掌握していました。しかし、この強力な権力構造が事故の隠蔽につながり、国内外からの非難を浴びる結果につながりました。
情報隠蔽の結末
事故が発生した日から、事態の深刻さはソビエト政府によって秘密にされ、その結果、住民たちや国際社会は真の危険性を適切に理解できずにいました。たとえば、原発近くのプリピャチ市の住民たちは、事故が発生した36時間後に初めてその危険性を知らされました。このような「連絡遅れ」や「秘密主義」は、ソビエトの硬直した社会主義体制を世界中から非難する理由となりました。
事故は最終的に国際原子力事象評価尺度(INES)でレベル7に分類されましたが、この重大事故についての情報がソビエト政府から提供されるまでには、北欧諸国からの情報と国際的な圧力が必要でした。
ゴルバチョフの対応の遅れ
チェルノブイリの事故が発生した当時、ソビエト連邦はミハイル・ゴルバチョフの指導下にありました。しかし、体制の秘密主義のせいで、ゴルバチョフ指導部自体が事故の全貌を把握することができず、対応が遅れる結果となりました。これは、1980年代のソビエト連邦の官僚制度がすでに動脈硬化の末期症状を呈しており、責任を問われる可能性がある事態はすべて隠蔽される傾向にあったためです。これが、事故後の適切な対応を阻害し、結果として人々の生命と健康を更に危険に晒すこととなりました。
チェルノブイリとペレストロイカの開始
チェルノブイリ原発事故は、ソ連の政府制度に大きな変革をもたらすきっかけとなりました。長年にわたる情報統制と秘密主義が厳格に実施されていたソビエト社会は、ゴルバチョフの指導の下、「ペレストロイカ(立て直し)」という新たなスローガンを掲げ、市場経済の一部導入や欧米諸国との関係改善を試みるようになりました。
グラスノスチ(情報公開)の提唱
チェルノブイリ原発事故から学んだゴルバチョフは、政府の透明性を高めるために、「グラスノスチ(情報公開)」を提唱しました。これは国の現状を国民に正確に伝えることで、国民に危機感を持たせる目的がありました。それまでの秘密主義からの転換は、表現の自由をもたらし、市民による権威への批判の波を引き起こしました。
チェルノブイリとソビエト連邦の崩壊
ゴルバチョフ自身も、チェルノブイリ原発事故がソビエト連邦の崩壊の真の原因であり、「歴史的転換点」であったと認めています。彼は、「ソ連のシステムをそれ以上続けることができなくなった」と述べており、原発事故の結果、国内で大規模な反核運動が生じ、政権への不信感や反対意見が公に表されるようになったと指摘しています。これは、ソ連に属する共和国の独立を求める大規模な抗議行動の種をまき、最終的にはソビエト連邦の崩壊を招くことにつながりました。
ウクライナ民族運動と第3のウクライナ化
ペレストロイカの下、1986年以降ウクライナでは民族運動が活発化し、「第3のウクライナ化」とも称されるウクライナ語の地位向上運動が広まりました。ウクライナ語の公用語化、教育現場でのウクライナ語使用の拡大、ウクライナ語出版物の増大といった要求が知識人・作家を中心に提起され、歴史の見直しも進められました。
民間団体の形成と活動
1989年には、ウクライナの民族運動を牽引する二つの重要な民間団体、「シェフチェンコ名称母語協会」と「ナロードニイ・ルーフ(民衆運動)」が結成されました。特に「ナロードニイ・ルーフ」は、「ペレストロイカを支持するウクライナ民衆運動」を意味し、その名称自体が「運動」を示す「ルーフ(Rukh)」を含んでいました。
独立志向の強化
1990年以降、ウクライナの民族運動は独立志向を強め、ナロードニイ・ルーフは名称から「ペレストロイカを支持する」の表現を取り除きました。そして、1991年には70万人以上のメンバーを抱えるまでに成長し、ウクライナの独立を求める大きな声となりました。
東欧の民主化とその影響
1989年、東欧諸国の民主化の動きが急激に進展しました。特にポーランドとハンガリーで始まった改革は、東欧諸国で一党独裁の社会主義体制を崩壊させ、複数政党制に基づく新しい政治体制を生み出しました。この一連の激変は、「東欧革命」と称され、1989年秋から1990年初頭にかけて頂点に達しました。
自由と市場経済の導入
東欧各国で民主的な選挙が実施されるようになり、市民は言論や移動などの自由を享受できるようになりました。さらに、西側の市場経済が導入され、経済のグローバル化が加速した。非人道的な独裁を打倒した東欧革命の意義は今日でも色褪せていません。
‘ベルリンの壁崩壊とその影響
1989年11月9日、東欧革命のハイライトとしてベルリンの壁が崩壊しました。これは予期しない突然の出来事であり、東ドイツの社会主義政権にとって、自由社会の西ドイツへの国民流出を防ぐ壁でした。その後のドイツ統一の動きは、冷戦体制(ヤルタ体制)を解体し、ソ連の15の共和国に独立の可能性を見せました。
ソ連の変革と放射能汚染対策
冷戦終結の流れの中で、ソ連国内でも大きな変化が生じていました。ウクライナやベラルーシでは民主化と独立を求める運動が高まる一方で、放射能汚染の対策を求める運動も同時に強まりました。これらの運動は、1989年に初めて詳細な放射能汚染地図が公表されたことで一層の勢いを得ました。この地図は原発から300km離れた地域まで高い放射能汚染が広がっていることを明らかにしました。
モスクワ中央政府の対応とIAEAへの要請
ベラルーシ共和国では、モスクワ中央政府の意向に反して、新たに11万人の人々が移住することが決定されました。汚染地住民の抗議や各共和国の反抗に対応するため、モスクワ中央政府は1989年10月、国際原子力機関(IAEA)に対して、放射能汚染地域住民の健康影響と汚染対策の妥当性についての調査を要請しました。
国際チェルノブイリプロジェクトとその結果
IAEAはこれに応えて国際諮問委員会を組織し、1990年春に国際チェルノブイリプロジェクトを開始しました。このプロジェクトは1991年5月に報告会を開催し、その中で放射線被曝に起因する健康影響は認められないとの結論を発表しました。また、汚染対策はもっと緩やかでも良いとされましたが、社会的現状を考慮して現状の対策が妥当であるとされました。これに対して、ベラルーシやウクライナの代表は甲状腺疾患の増加など深刻な健康影響が出ていると抗議しましたが、その声は結局無視されました。
東西冷戦終結とソ連国内の変化
冷戦の終結とともに、ソ連国内では民主化と独立を求める運動が高まり、特にウクライナとベラルーシでその声が大きかった。この中で、放射能汚染に対する対策を求める運動との連携も見られ、当局による放射能汚染の対策が強く求められた。
チェルノブイリ原発事故の詳細な汚染地図の公表
1989年2月、チェルノブイリ原発事故からほぼ3年後、初めて詳細な汚染地図が公表された。これにより原発から300kmも離れた地域まで高度に汚染されていることが明らかになった。
ベラルーシ共和国の移住政策と中央政府
モスクワ中央政府の意向に反して、ベラルーシ共和国では新たに11万人もの人々の移住が決定された。汚染地住民の反抗や各共和国の抗議に対処する中央政府は、国際原子力機関(IAEA)に汚染地住民の健康影響と汚染対策の調査を要請した。
国際チェルノブイリプロジェクトとその報告
IAEAは1990年春に国際諮問委員会を組織し、国際チェルノブイリプロジェクトを開始した。1991年5月には報告会が開かれ、汚染地住民に対する放射線被曝による健康影響が認められず、現状を考慮すると現在の汚染対策が妥当であるとの結論が出された。しかし、ベラルーシやウクライナの代表は甲状腺疾患の増加など深刻な健康影響を主張したものの、結局それは無視された。
「ヤルタからマルタへ」冷戦終結の象徴
1989年12月3日、歴史的な米ソ首脳会談がマルタで開催され、ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ議長兼共産党書記長とアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領が一堂に会した。両者はこの会談で、44年間続いた冷戦の終結と欧州新秩序への協力を世界に向けてアピールしました。
「冷戦は終わったのか?」との問いに、ゴルバチョフ氏は「私たちは、世界が冷戦という一つの時代を離れ、新たな時代に入ると言い合った」と答えました。一方、ブッシュ氏は「われわれは永続的な平和と持続的な協力を実現できる」と述べました。この米ソ首脳会談は、共産主義と資本主義の対立を象徴する「東西冷戦」の終結を宣言するものとして広く認知されています。
この会談が行われた背景には、東欧革命と冷戦の象徴であるベルリンの壁の崩壊がありました。東欧諸国、特にポーランドなどが民主化へと向かい、「鉄のカーテン」はついに消えました。この時期の出来事は、「ヤルタからマルタへ」と表現され、第二次世界大戦末期のヤルタ会談から冷戦の終焉を象徴するマルタ会談までの歴史的軌跡を示すものとなっています。
ウクライナとベラルーシの民主化・独立運動、チェルノブイリ原発事故の放射能汚染、そして冷戦の終結という一連の事件は、ソビエト連邦の崩壊への道を加速したのです。
リトアニアの勇気「血の日曜日事件」とソビエト連邦崩壊への道
990年3月11日、バルト三国の中で最初にリトアニアがソビエト連邦からの独立を議会で宣言しました。ソ連からの強硬な反応として経済制裁が施行され、翌年1991年1月13日には首都ビリニュスのテレビ塔がソ連軍によって攻撃されました。この衝突で14名の市民が犠牲となり、「血の日曜日事件」として記憶されています。
リトアニアの国民は勇敢にソ連軍に立ち向かいました。一人の若い女性が戦車に轢かれ、無差別発砲の銃弾が民衆を容赦なく撃ち抜きました。この事件は、ミハイル・ゴルバチョフ書記長の民主化政策「ペレストロイカ(再建)」を暗転させ、一夜にして「血塗られた独裁」に変わりました。
今日、リトアニア政府の機関である「リトアニアにおけるナチスおよびソビエト占領期の評価のための国際委員会」の事務局長を務めるラチンスカスは、この時期を振り返り、「死ぬのは怖くなかった。国家の独立は個人の命より重要だったからだ」と語っています。リトアニア人は、全欧州の自由、人間の尊厳、基本的な民主的価値を擁護しようとしたのです。
この血の日曜日は、現代リトアニア社会における最も重要な瞬間として、そしてリトアニア民族の20世紀最大の勝利として語り継がれています。この日は「自由の擁護者の日」と定められ、キャンドルを窓辺に灯すという習わしが生まれました。
リトアニアの「血の日曜日事件」は、ソ連邦を構成する他の共和国の独立運動の火付け役となりました。
「ロシアの主権宣言」ソビエト連邦の崩壊への一歩
1990年6月12日は、ソビエト連邦の歴史にとって重要な日でした。この日、連邦内の最大の共和国であるロシア連邦共和国が主権宣言を行ったのです。それまでにもソビエト連邦の構成共和国の議会は、次々と自国の主権宣言を採択していましたが、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国もこれに追随する決断をしました。
この問題を議題に含めることについては大会の代議員たちがほぼ全会一致で賛成していましたが、最終文書の詳細については議論が紛糾しました。その結果、作成作業は一月を要し、最終的な主権宣言は6月12日に採択されました。
「ゴルバチョフとエリツィン」ソ連の混乱と二人の大統領
翌年の1991年の6月12日には、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の初の大統領選挙が行われ、ボリス・エリツィンが圧勝しました。この選挙の結果、モスクワにはソビエト連邦を代表するミハイル・ゴルバチョフ大統領と、ロシアを代表するボリス・エリツィン大統領の二人の大統領が並立するという異常な状況が生まれました。
「権力交代から民主化の要求へ」保守派による権力奪取の試み
1991年、全国的な民族独立と民主化要求のデモと集会が頻繁に発生し、国が揺れていた。新国名を確定する余裕もない中、ソ連初代大統領であったミハイル・ゴルバチョフは「主権国家連邦条約」を締結しようとしていた。しかし、その前日の8月19日には、守旧派によるゴルバチョフ大統領へのクーデターが首都モスクワで発生しました。このクーデターは、ゴルバチョフの自由主義・市場経済への移行に不安と焦燥を覚えた保守派が実行したもので、副大統領、KGB議長、国防相、内相、最高会議議長など、ソ連の主要機関のトップが参加しました。デモやストライキは禁止され、その決定に反する者は断固として制圧されることが宣言されました。ソ連国家上層部で権力交代が起きたという状況でした。
「白鳥の湖」が示す混乱の象徴
1991年8月19日の朝6時(モスクワ時間)、ソ連のテレビは突然通常番組を中止し、バレエ組曲「白鳥の湖」を流し始めました。これは、ゴルバチョフ大統領が重大な健康問題を抱えていることを示唆していました。ロシア政治史では、「白鳥の湖」は重大な意味を持つ象徴で、過去にブレジネフ氏、チェルネンコ氏、アンドロポフ氏などの政治指導者が亡くなった際にも、同じ映像が流れました。ソ連時代、何か「悲劇的な大事件」が起きると、「白鳥の湖」の音楽が流れるのが恒例でした。これを考えると、テレビ局が一種の抵抗と警告を発してい
クーデターの失敗と市民の抵抗
休暇中の黒海沿岸で軟禁状態に置かれたゴルバチョフは、民主化の終焉を宣言するクーデター勢力の政権獲得を許した。「あの休暇をとるべきではなかった。あれは間違いだった」とゴルバチョフは語った。しかし、エリツィン大統領の断固たる姿勢と市民の決死の抵抗により、クーデターは3日間で失敗に終わりました。この最終日の夜、秘密警察の創始者ジェルジンスキーの像がKGB広場で倒されました。ペレストロイカは、従順なソビエト(ロシア)市民を大きく変えたと感じられました。
共産党の崩壊とエリツィンの台頭
1991年8月24日、ゴルバチョフはソ連共産党書記長職の辞任と党中央委員会の解散勧告を発表しました。ソ連共産党は事実上崩壊し、ゴルバチョフの権威の失墜は明白でした。
一方、エリツィンは新しい指導者の風格を見せていました。「エリツィン」コールと共に英雄として迎えられた彼は、8月24日にソ連共産党を解散に追い込むなど、急進的な民主革命を推進しました。その歴史的な意義は、「ロシア8月革命」とも称されました。
ロシアの新たな道へ
9月3日の臨時人民代議員大会でエリツィンは、「民主主義と自由を選択したロシア国家は、二度と帝国にならず、兄にも弟にもならず、(周辺の)国々と対等な関係を築くつもりである」と宣言しました。しかし、ゴルバチョフとエリツィンの個人的な確執により、首都モスクワは二重権力状態となり、この混乱がソ連連邦消滅の背景となりました。
ウクライナの独立
モスクワで発生し失敗に終わった1991年8月19日のクーデターの後、ウクライナ社会主義共和国は8月24日に独立を宣言し、国名を現在の「ウクライナ」に変更しました。この政治的変革は、ソビエト連邦の終わりの始まりを象徴していました。
ベラルーシの独立
一方、ベラルーシではペレストロイカの末期、1988年10月に独立を標榜するベラルーシ人民戦線が結成されました。そして、1990年7月27日に独立宣言が行われ、非核地帯であることが宣言されました。このベラルーシの独立は、ウクライナの独立宣言の翌日、1991年8月25日に承認されました。これらの出来事は、旧ソビエト連邦の構成国が次々と独立へと舵を切った象徴的な瞬間でした。
ベラルーシの名前の起源
「ベラルーシ」はかつて「ベロルシア」、あるいは「白ロシア(White Russia)」とも呼ばれていました。これは、国民の大多数を占めるベラルーシ人に由来しています。「ベラ」はスラブ語で「白い」を、「ルーシ」は「ロシア」を意味し、合わせて「白いロシア人」となります。実際に、ソビエト連邦から独立する前は「白ロシア・ソビエト社会主義共和国」が正式な国名でした。
しかし、この名称は「白系ロシア人」すなわち、革命に反対して亡命したロシア人と混同されやすい。しかし実際には両者は全く異なるものであり、これが「白いロシア」の由来ではありません。
なぜ「白いロシア」なのでしょうか。ベラルーシ人に尋ねると、彼らの伝統的な民族衣装が白い布地を基調としているから、または白い色が自由を象徴し、ロシアとは違ってモンゴルの支配を受けていなかったから、といった答えが返ってきます。これらは「民間語源」といえ、学問的な根拠を問うとあやふやな説明であることが多いです。
他には、色彩で方位を表す東洋の空間概念(白虎・朱雀・青竜・玄武)がモンゴルのロシア支配を通じて伝えられ、ベラルーシが「西のロシア」を意味する、という説もあります。これは興味深い仮説で、古い時代に存在した「赤ルーシ」や「黒ルーシ」などの地名がこの説に説得力を与えています。
これらの説を通じて見えてくるのは、モスクワ、ウクライナ、ベラルーシが元々兄弟であったという事実です。
「ソ連消滅宣言」ロシア・ウクライナ・ベラルーシが秘密裏に会談
991年12月までに、ソビエト連邦を構成していた全ての共和国が独立を宣言しました。ソビエト連邦大統領のミハイル・ゴルバチョフは新連邦条約により連邦制を維持しようと試みましたが、これを阻止したのがロシア共和国大統領のボリス・エリツィンでした。
12月8日に、エリツィン、ベラルーシ最高会議議長のスタニスラフ・シュシケビッチ、ウクライナ大統領のレオニード・クラフチュクの3人の首脳がベラルーシのベロヴェーシの森にある旧フルシチョフの別荘で秘密裏に会合を開きました。これらスラブ系3共和国首脳が署名した協定は、ソビエト連邦の消滅を宣言し、緩やかな独立国家共同体(CIS)を結成するというものでした。12月21日には、8つの新しい国がCISへの参加を宣言しました。
独立国家共同体(CIS)の誕生
ソビエト連邦の崩壊の衝撃が新たな独立国家間の紛争につながらないよう、CISの設立合意が作られました。しかしこの時点ですでに、ロシアとウクライナの間には新たな共同体を通じて結びつきを強めたいというロシアの意志と、一気に自立を果たしたいウクライナの意志との間に矛盾が生じていました。
この矛盾は、合意文書の第5条に表現されています。この領土に関する条項では、互いの領土を尊重するとしつつ、「共同体の枠内で」という言葉が挿入されています。これはクリミア半島をめぐる対立を、ウクライナがロシア中心の共同体に留まっている間は持ち出さないとする意図が見て取れます。これはロシアがウクライナを共同体の枠内に留めたいという思惑を示しています。
アルマトイ・サミットとソビエト連邦の消滅
1991年12月21日、カザフスタンのアルマトイで、ソビエト連邦を構成していた11共和国の首脳が集まり、歴史的なサミットが開催されました。このサミットで首脳たちは、ソビエト連邦の崩壊を正式に認め、これを受け入れる旨を発表しました。
この決定は、ソビエト連邦の存在自体を否定するものであり、同時に新たに独立した国々が共同で行動をとるという、独立国家共同体(CIS)の設立を宣言するものでもありました。
ソビエト連邦の崩壊を認め、CISの設立を宣言したこのサミットは、20世紀の世界史における重要な節目となりました。ソビエト連邦の崩壊は、冷戦の終結を象徴する出来事として広く認識されています。
このアルマトイ・サミットの後、各共和国は新たな独立国として、それぞれが自国の歴史を刻んでいくこととなりました。
ゴルバチョフ大統領の辞任とソビエト連邦の終焉
1991年12月25日は、ソビエト連邦(USSR)の歴史にとって、非常に重大な日となりました。この日、ミハイル・ゴルバチョフ大統領は辞任を表明し、国営中央テレビ・ラジオを通じて全国民に向けて演説を行いました。
ゴルバチョフは約12分間にわたる演説の中で、「国の分裂、国家の分裂に同意することはできない」と懸念を表明しました。しかし、ソビエト連邦の終焉を認め、新たに設立される独立国家共同体(CIS)の成功に全力を尽くすと述べました。そして同日、ゴルバチョフは大統領としての最後の行動として、核の管理権限をボリス・エリツィン・ロシア大統領に移管する大統領令に署名しました。
この日をもってソビエト連邦は解体され、正式に消滅しました。1917年のロシア革命以降、約69年にわたり存在し続けたソビエト連邦は、この日をもってその歴史を閉じたのです。
後継国家ロシア連邦とエリツィン大統領
エリツィン大統領率いるロシア連邦は、ソビエト連邦の後継国家として各国から認知され、欧米各国政府もこれを支持しました。また、中央アジアの共和国も新たに生まれたロシア連邦を支持し、これに従いました。ソビエト連邦の消滅は、冷戦の終結と新たな時代の始まりを象徴する出来事として世界中で大きな影響を与えました。
ソビエト連邦崩壊後のチェルノブイリの遺産
1991年にソビエト連邦が崩壊したとき、それはチェルノブイリ原子力発電所事故の影響を受ける多くの地域に対する新たな挑戦を生じさせました。ソビエト連邦が崩壊すると、汚染対策は新たに独立したそれぞれの国々、主にウクライナ、ベラルーシ、ロシアの責任となりました。
しかし、これらの新たな国々はソビエト連邦の崩壊後に経済的な危機に直面しました。これは、汚染対策や被災者救援の問題を十分に対処する資金と能力が不足する状況を招きました。
この状況は、被災者の援助や復興、放射能汚染の清掃という課題に対して、国々が取り組む能力を試すものとなりました。そして、それは現在も続いており、チェルノブイリ事故の影響を受けた地域が抱える課題の一つとなっています。
【ウクライナ危機(3)】長い闘いの果てに…350年の希望実現!ウクライナ独立の瞬間