この記事では、ウクライナの大統領ウォロディミル・ゼレンスキーの驚くべき人生の物語を紹介します。彼がコメディアンとしての成功から政治の舞台へと飛び込み、ウクライナとロシアの関係修復を試みる姿勢、そして彼のリーダーシップの変容に焦点を当てます。
この物語は、ゼレンスキー大統領がドラマと現実の舞台で並行して活躍し、大統領選挙とドラマの最終回がリンクする奇妙な出来事から始まります。彼が大統領に就任した後、彼の対話路線と支持率の変動、さらには国際的な緊張の高まりとの戦いが描かれます。
そして、ウクライナにおけるロシアの侵攻が起きたとき、ゼレンスキー大統領は勇敢なリーダーシップを示し、国民の団結を鼓舞しました。彼の決断力と世界への影響力は称賛され、彼が喜劇俳優から国家の守護者へと変わった姿が浮かび上がります。
この記事を通じて、ゼレンスキー大統領深く知り、彼がウクライナと世界に与えた影響を感じてください。
【ウクライナ危機(15)】2019年ウクライナ大統領選挙の舞台裏!新時代の幕開けへの挑戦!
Volodymyr Zelenskyy
ウォロディミル・ゼレンスキー
ウォロディミル・ゼレンスキー、名前は聞いたことがあるかもしれません。彼は2019年4月にウクライナの大統領に当選した人物です。しかし、彼の過去を知ると、その政治生活の始まりが驚きを持って迎えられることでしょう。
ゼレンスキーの前職は何だったと思いますか?政治家か、あるいは政治顧問、または大学教授か?実は彼は、大統領になる前に、人気のあるコメディアンだったのです。それも、政治経験ゼロの。
これがウクライナ危機の一部、そして一人の男の真実の物語です。
ウォロディミル・ゼレンスキーの出生地
ウォロディミル・ゼレンスキーの生い立ちは、彼の非凡な転身の物語を更に色彩豊かにするものです。彼は1978年1月25日、ソビエト時代のウクライナ中東部、クリボイ・ログ(現在のクリヴィー・リフ)という都市で生まれました。
この時代は、レオニード・ブレジネフの治世末期で、通常「停滞の時代」と称される期間に当たります。この時代は、個々の民族よりも「ソビエト人」という新たなアイデンティティが形成されていた時期でもありました。
ゼレンスキーの生まれたクリボイ・ログは、その人口が60万人以上に上る大都市でした。また、その豊富な鉄鉱山により、ソビエトの鉄鋼業の中心都市の1つとして知られていました。
ユダヤ系の家系と戦争の傷跡
ウォロディミル・ゼレンスキーの家族背景は、彼の人生とキャリアに大きな影響を与えました。彼の父親は経済学研究所でコンピューターサイエンスを教える大学教授で、母親は元エンジニアでした。彼らはユダヤ系の家系であり、その家族の歴史は深く、時に悲劇的なものでした。
ゼレンスキーの祖父はソ連軍の一員としてナチスと戦い、その間に親戚の多くがホロコーストで命を落としたと伝えられています。この深刻な家族の歴史は、彼の世界観を形成するのに一役買ったことでしょう。
ソビエト連邦の崩壊とゼレンスキー家族の試練
1991年12月、ゼレンスキーが14歳の頃、ソビエト連邦の崩壊を目の当たりにしました。その崩壊の直接的な引き金は、ウクライナの国民投票で選ばれた独立でした。これは、ウクライナがソビエト連邦の第2の共和国としてその地位を放棄した瞬間でした。
その後の経済危機は、ロシアでもウクライナでも、ソビエト的中産階級を直撃しました。学者、教師、医者、技術者、中堅官僚、軍人など、これまで安定した生活を享受していた人々の暮らしが一変したのです。それは、ゼレンスキー家族も例外ではありませんでした。
モンゴルでの生活とゼレンスキーの国際視野
ゼレンスキーの幼少期は、彼の人生とキャリアに多大な影響を与えました。それは父親の仕事によるもので、科学者の父親はモンゴルで鉱山および加工工場の建設に携わっていました。
このため、ゼレンスキーも両親とともにモンゴルで4年間を過ごし、エルデネト市の中等学校に入学しました。彼はそこで英語を勉強を始めましたが、まだ文字 “A” から始まる基本的な学習だったと言われています。また、彼はモンゴル語を流暢に話す能力も獲得しました。
「成長する才能」 ウォロディミル・ゼレンスキーの学生時代の物語
ウォロディミル・ゼレンスキーは、多彩な才能と強い決意を持つ少年として成長しました。モンゴルから故郷のクリボイ・ログに戻った後、彼は「第95ギムナジウム」に入学し、本格的に英語の勉強を始めました
学生時代、彼はさまざまなスポーツに情熱を注いだ他、UKロックが好きギターを弾いたり、学問にも熱心でした。彼はレスラーや重量挙げ選手として活動し、切手収集やバスケットボール、バレーボールを楽しみ、ダンスも得意でした。さらに、彼は独学でギターを学び、学校のバンドで演奏しました。
しかし、彼の才能と情熱はスポーツと音楽だけにとどまりませんでした。16歳の時、彼は奨学金を得てイスラエルに留学しようとしましたが、父親の願いにより故郷にとどまりました。
そして1995年、ゼレンスキーは2科目で優秀な成績を修め、他の科目でも優れた成績で第95ギムナジウムを卒業しました。その後、彼はキーウ国立経済大学に進学しました。
ゼレンスキーが通っていた学校のアラ・シピルコ校長は、彼が優れた学業成績と統率力を持つ一方、高い演技力と話術の能力も有していたと証言しています。
法学から笑いの世界へ!
2000年、ゼレンスキーはキーウ国立経済大学の法学部を卒業し、弁護士資格を取得しました。しかし、2か月のインターンシップを除けば、法学の仕事をすることはほとんどありませんでした。なぜなら彼が選んだ道はコメディアンだったからです。
「第95街区」レンスキーとの芸能界の出発点
実は、ゼレンスキーは早い段階で芸能界への情熱を示しました。彼は17歳の時に地元のコメディ劇団に参加し、ロシアのテレビ番組で自身の寸劇や即興演技を披露しました。
大学生活の中で、ゼレンスキーは芸能界への参入を一層深めました。19歳の時、キーウ国立経済大学在籍中に、彼は故郷の仲間たちと「第95街区(Kvartal 95・クバルタン95)」という劇団を結成し、「ヴォバン」のニックネームでチームのキャプテンを務めました。
この劇団名の「95」は、ゼレンスキーが通っていた学校名から取ったものでした。
「第95街区」はウクライナの都市クリヴィイ・リハを拠点にしていましたが、公演はロシア語で行われていました。これは当時のウクライナで一般的な事象でした。この経験を通じて、ゼレンスキーと「第95街区」は旧ソ連域内での名声を急速に上げました。
メディアンの頂点へ!ウォロディミル・ゼレンスキーと『KVN』
ゼレンスキーの人生における大きな転機の一つは、旧ソビエト圏で人気の番組『KVN(КВН)』への参加でした。これはソビエト時代から続く、若者グループがユーモアを競い合う番組で、ロシアのチャンネル1が旧ソビエト全体で放送を続けていました。
1998年から2003年まで、ゼレンスキー率いる「第95街区」はモスクワで暮らし、KVNの上位リーグで定期的にパフォーマンスを行いました。彼らはロシアやCIS諸国を定期的にツアーし、コメディアンとしての腕を磨き続けました。
KVNからの離脱とウクライナでの活躍
しかし、ゼレンスキーが25歳になった2003年、KVNの経営陣との衝突を経て、「第95街区」は番組を去ることになりました。奇しくもこれがウクライナで活動する最初の転機になりました、ゼレンスキーと彼のコメディ集団はウクライナの大手テレビ局と契約を結び、番組出演や番組制作を行うようになったのです、
その後、ゼレンスキーは2011年頃までロシアの芸能界で活躍、人気芸人としての地位を確立しました。それゆえ、彼はロシア国内の情勢を熟知していました。
『Kvartal 95(第95街区)』の設立
2003年、第95街区がロシアのテレビで評判を博すと、ウォロディミル・ゼレンスキーはパートナーのセルゲイとボリス・シェフィルと共に、スタジオ「Kvartal 95(第95街区)」を設立しました。この企業はライブショーやテレビのバラエティ番組、映画制作を手がけ、大きな成功を収めました。
ゼレンスキーはここで制作監督としても才能を発揮しました。彼の創造力と経営能力は、Kvartal 95を芸能界の大手に育て上げることに貢献しました。
ゼレンスキーのダンス番組での優勝と人気の増大
スタジオ「Kvartal 95」は、ウクライナとロシアの市場に対して多くのテレビ番組やイベントを制作しました。その中でも、ゼレンスキー自身が参加し優勝を飾った2006年のウクライナのダンス番組は、彼の人気をさらに高めることとなりました。
まるでチャップリン!?マルチな才能を発揮!
2005年以降、ゼレンスキーは役者と脚本家としてのキャリアを本格化させました。米国で教育を受けた映画監督マリウス・ベイスバーグと協力し、ロシアのコメディ番組において製作、共同脚本、時折主演を務めました。
彼の演技キャリアの中で特筆すべきは、『三銃士』のミュージカル・コメディ版でダルタニアン役を演じたことで、これが彼の俳優デビューとなりました。その後も、彼は『ノー・ラブ・イン・ザ・シティ(No Love in the City)』、『伍長VSナポレオン(Corporal vs. Napoleon)』、『8つのファースト・デイト(8 First Dates)』、『ラブ・イン・ベガス(Love in Vegas)』などの作品で主演と脚本を担当し、その多才さを見せつけました。
ゼレンスキーは自身が共同設立した制作会社の経営者でありながら、自らシナリオを書き、自ら演じるなど、多岐にわたるクリエイティブ活動を行っていました。その才能と活動ぶりから彼は”ミニチャップリン”と形容されることもありました。
映画『パディントン』ゼレンスキーが主人公の声を担当
ゼレンスキーは多彩な才能を持つエンターテイナーであり、その活動の一環として声優も務めました。彼は映画『パディントン』のウクライナ語版で主人公パディントンの声を担当しました。この役を通じて彼は、子供から大人まで幅広い視聴者に愛されたキャラクターの声を演じることで、さらに多くの視聴者から親しまれる存在となりました。
インテリコメディアンとしての才能と下ネタ芸での成功
ゼレンスキーは、一貫して自己表現の形としてコメディを選び、下ネタ芸も辞さないインテリのエンタメ人として重宝されました。彼の出世作は2009年のロシア版『SEX AND THE CITY』であり、ここで彼はあられもない姿を披露しました。
彼の存在は、日本の著名なコメディアン、志村けんに例えられるかもしれません。志村けんのように、ゼレンスキーも体を張ったネタを厭わず、視聴者を惹きつける才能を発揮しました。
ゼレンスキーの笑いへの情熱
ゼレンスキーの娯楽への情熱は2016年のあるバラエティショーで最高潮に達しました。スーツ姿のゼレンスキーは舞台上でスポットライトを浴び、ピアノの後ろでズボンを下げるというあからさまなパフォーマンスを展開しました。相方とともに腰を振りながら、局部でピアノを演奏するという独特のネタで観客を大いに盛り上げ、会場は大爆笑に包まれました。
彼の人気はそのエネルギーと創造性から来ていることは明らかです。ウォロディミル・ゼレンスキーは、エンターテイメントにおける独自のアプローチと、常識を超えるようなパフォーマンスで人々を楽しませ、時には驚かせることで注目を集め続けました。
テレビのプロデューサーとしての経験
ゼレンスキーは、テレビ業界でさまざまなな経験を積んでおり、彼の多面的なキャリアにとって重要な要素となっています。2011年には、ウクライナの主要なテレビチャンネルである「インター」の総合プロデューサーに就任し、1年間その役職を務めました。
プロデューサーとしての彼の役割は、番組の企画や製作、スタッフの管理、資金調達、放送スケジュールの決定など、テレビ番組の生産全体を監督することでした。この経験は、彼が将来的に自身のテレビ番組を制作するとき、または政治の世界に進出するときに、メディアとパブリックとの関わり方を理解するのに重要な役割を果たしました。
風刺コメディから愛国行動への転換
ゼレンスキーのコントの大部分は政治風刺に重きを置いていました。政治に対する深い知識と、何が笑いを引き出すかという「勘」がなければ、政治風刺で観客を引きつけることはできません。このプロセスを通じてゼレンスキーは大量の知識を蓄積し、その経験が彼を政治の道へと導く土台となりました。
ゼレンスキーにとっての人生の転機は2014年3月、ロシア軍によるクリミア占領の時に訪れました。彼は即座にウクライナ軍に寄付をしたり、慰問をしたりという愛国的な行動を取り始めました。その結果、ロシアの芸能界から出入り禁止という厳しい措置を受けることになりました。それでも彼は屈せず、活動の中心をウクライナへと移すことを決定しました。
教師が大統領に!運命を変えたドラマ「国民のしもべ(僕)」
2015年にゼレンスキーは自社制作のドラマシリーズ「国民の僕」を企画し、主演として参加しました。このドラマシリーズはゼレンスキーの人生を大きく変えるキーポイントとなりました。
主人公は財閥や腐敗したシステムと戦う
ゼレンスキーが演じたのは、汚職や不正を嫌う平凡な歴史教師でした。
ある日、彼の政治批判が隠し撮りされ、その動画がソーシャルメディア上に拡散、そしてあれよあれよとい間に大統領に…。というストーリで、ゼレンスキーはその役を見事に演じきりました。
そして主人公が大統領として、ウクライナに存在する様々な腐敗や問題を解決していくという内容は、多くの視聴者から大きな共感を得ました。
このドラマは、ゼレンスキーが政治にどのような視点を持っているか、そして彼が国家のリーダーとしてどのように振る舞うかを描いたものであり、その後の彼の政治キャリアにおける重要なステップとなりました。
《2018年の大晦日》突然ビデオメッセージで大統領選の出馬を表明!
2018年12月31日、新年を迎える間際、ウォロディミル・ゼレンスキーは大胆な行動に出ました。
なんと、現職大統領の新年の辞の形を借りたビデオメッセージを通じて、彼は大統領選挙への立候補を表明したのです。この突然の出馬宣言は、過去の職業を照らし合わせると理にかなったものでした。ゼレンスキーは、もともと風刺を得意とするコメディアンで、政治家の腐敗を笑い飛ばすことで知られていました。
さらに、テレビドラマ「国民のしもべ」では、彼の風刺的な芸風が活かされ、平凡な高校教師が大統領になり、政界の腐敗と不正を正す役割を演じていた。このドラマは大ヒットとなり、若者を中心に大きな人気を獲得していました。そして、ゼレンスキーのファンから現実の世界での大統領就任を望む声が上がり始めていました。
「彼らから現実の大統領就任を期待する声が出始めたんです」と国際ジャーナリストは語っている。
ドラマタイトルの同じ名前「国民のしもべ党」設立
ゼレンスキー氏が公認を受ける政党の名前もまた、彼のヒットドラマと同じ「国民のしもべ」という名前を採用した。彼はSNSを駆使し、地方遊説を続ける一方で、これまでドラマを制作していたスタッフの一部は政党のスタッフとして働くようになった。
大統領選とドラマ撮影「2つの舞台で活躍するゼレンスキー」
大統領選の真っ最中、ウクライナでは2つの異なる舞台で競演する二人の大統領候補を目撃していました。現職大統領のペトロ・ポロシェンコが政治集会を開催している一方で、ゼレンスキーは人気ドラマ「国民のしもべ」の撮影に追われていたのです。
ドラマと現実の交錯するウクライナの大統領
日本では想像もつかないような、ユニークな出来事がウクライナで生じました。
ウォロディミル・ゼレンスキーが出演していたドラマ「国民の僕」の第3シーズンの最終回が放送されたのは、2019年3月28日でした。この時点で、ゼレンスキー氏は大統領選挙戦を戦いながらもドラマの大統領役として引き続き出演していた。
そして、驚くべきことに、大統領選挙はドラマの最終回がオンエアされてからわずか3日後の3月31日に開催されたのです。ドラマと現実がこれほどに密接に結びついた状況は他では見られない、まさにウクライナだけのストーリーでした。
「コメディアンから大統領へ」ドラマの終わるも新たな章が始まる
「国民のしもべ」は2015年に放送が開始され、2019年までに51話(シーズン3は3話のみ)が制作されました。しかし、シリーズは一部分を未完のままで終わりを迎えました。その理由は、主演を務めていたウォロディミル・ゼレンスキー自身が同年の大統領選挙で当選したためです。
ゼレンスキーは、まさにドラマの脚本をなぞるように、コメディアンから現実の大統領へと転身しました。彼の物語はウクライナのみならず世界中で話題となり、コメディアンから大統領への変貌は、政治の舞台でも革新的な一歩を踏み出したことを示しています。
オリガルヒ・イホル・コロモイスキーとの関係を超えて
この大統領選ではある権力者の姿が見え隠れました。イホル・コロモイスキーです。彼はゼレンスキーが主演を務めた人気ドラマ「国民のしもべ」を放映したテレビ会社「1+1」のオーナー社長であり、同時に11億ドルの資産を所有するオリガルヒでした。
彼はポロシェンコ政権と対立し、自身が所有していたプリバト銀行が国有化され、現在は外国に身を寄せています。そこで、ウクライナにおける有力なメディアを保有しているコロモイスキーが、自身のメディア力を活用してポロシェンコを攻撃したのでは?と噂されていました。
操り人形ではない証明
今回のウクライナの大統領選挙は、まさにフィクションが現実となった。ゼレンスキーの人気テレビドラマ「国民のしもべ」が画面から現実の舞台へと移るという、劇的な展開が見られました。選挙期間中は連日、ゼレンスキーが出演した過去の番組が放送され、選挙活動はSNSやメディアを中心に展開されました。
しかし、それだけではなく、よくある演説集会に代わって、仲間のコメディアン俳優を動員し、各地でショート・コントを演じるという奇抜な作戦が行われました。それが大いに功を奏し、ゼレンスキーは大統領選挙に勝利しました。
これらの選挙活動のほとんどは、イホル・コロモイスキーが提供した選挙資金を使って行われていました。そのため、ゼレンスキーはコロモイスキーの操り人形だと噂されていたのです。
しかしそうはなりませんでした。
大統領になったゼレンスキーは、コロモイスキーに厳しい処置を下しました。彼が所有していたプリヴァト銀行が国有化された後、その再民営化を認めなかったのです。これはゼレンスキーが操り人形ではないことの明確な証明になりました。
大統領とコメディアンの並行したキャリア形成
ゼレンスキーは大統領に就任してからも、コメディアンを続けていました。なんと彼の出演した作品『I、You、He、She』では、大統領に就任の月に公開されています。
「ゼレンスキーの対話への道」ウクライナとロシアの関係修復を試みる
ウォロディミル・ゼレンスキー大統領は就任当初、ロシアとの関係修復に楽観的な視点を示しました。「ロシアとしっかり目を合わせて話し合えばいい」という彼の言葉は、ウクライナとロシアの間に深く刻まれた溝を超えることの困難さを見落としているかのように聞こえました。彼のアプローチはロシアのウラジーミル・プーチンから「世間知らず」と強く非難され、政治専門家からも厳しい評価を受けました。
対話の努力と支持率低下
就任後のゼレンスキー大統領は紛争解決のための新たなアプローチを試みました。彼はプーチン大統領との対話路線を打ち出し、フランスとドイツを交えて3年ぶりに4者会談を開催しました。これにより、一定の停戦合意が成立しました。しかし、親ロシア派支配地域の地位など未解決の問題は依然として存在しました。
さらに、ゼレンスキー大統領の支持率は、汚職や紛争といった深刻な問題を解決できなかったことから次第に低下していきました。
再評価される新たな姿勢と国際緊張の高まり
2021年秋以降、ロシアとウクライナ間の緊張が再び高まる中で、大統領としての資質が求められました。この頃から、ゼレンスキーはプーチンに対する口調を硬化させ、「戦争を仕掛けてくる相手に極めて毅然とした態度で臨みながらも、決して攻撃的ではない」新たな姿勢を示しました。また、「彼はもはや、就任時と同じ人間ではなく、プーチンという相手が、いかなる妥協も許さない、手強く、強欲で皮肉な相手であることに十分気づいている」という発言もありました。彼のこの姿勢は、「国家元首の貫禄が出てきた」として、再評価され始めました。
そして、1人のコメディアン世界的な英雄になった。
2022年2月24日は、ウクライナとその指導者ゼレンスキー大統領にとって、衝撃的な一日となりました。ロシア軍がウクライナに侵入し、市民に対する無差別な攻撃と原子力発電所への砲撃で、世界はその悲劇に震えました。
虚偽情報に立ち向かうゼレンスキー大統領の勇敢な姿勢
この危機に対して、ゼレンスキー大統領は果敢なリーダーシップを示し、強力な指導者へと変貌を遂げました。プーチン大統領は、彼をコメディアン出身の政治素人と見下し、ウクライナの首都キエフの陥落を容易なものと見ていました。更に、ゼレンスキー大統領がすぐに国外に逃げるだろうという虚偽の情報さえ流れていました。
「ウクライナのヒーロー」91%の支持率を獲得したゼレンスキー大統領
しかし、ゼレンスキー大統領はその予測を覆す行動を見せました。彼は自身のSNSで自撮り動画を公開、「自分はロシアの殺人リスト・ナンバーワンとなっている」と自認しつつも、「ウクライナにいて国を守る」と公言し、ウクライナ国民に共に戦うことを呼びかけました。
ゼレンスキー大統領の呼びかけにより、ウクライナ国民は団結し、ロシアへの抗戦機運が高まりました。その結果、ロシア軍の早期キエフ陥落作戦は失敗ししました。大統領の強い意志と戦争への対応が、国民の心を一つに結びつけたのです。
そして今、ゼレンスキー大統領への支持率は驚異的な91%となり、彼はウクライナのヒーローとまで称えられています。彼の果敢な行動は、国民の間で「キャプテン・ウクライナ」「ウクライナの最初の本物の大統領」「英雄」「指導者」などの称賛を浴びるに至りました。
「私は彼に投票しなかった。しかし、彼の勇気は私の考えを変え、何百万人もの国民を鼓舞した」という声が挙がるなど、彼の影響力は計り知れません。その姿勢は、ウクライナ国民だけでなく、世界中の人々に感動を与え、一人の指導者がいかに大きな力を持つかを見せつけました。
世界中に広がる支援の輪
ゼレンスキー大統領のリーダーシップは、これまでにないタイプの指導者を形成しています。戦争の最中でも絶えずメッセージを発信し続け、その不屈の精神は、ウクライナだけでなく、世界中に影響を与えています。物的支援だけでなく、義勇兵やボランティアも含め、彼に触発されて応援しに駆けつける人々が後を絶ちません。
「リーダーシップの変容」ゼレンスキー大統領の”顔の変化”
多くの人々がゼレンスキー大統領の「顔の変化」に注目しています。「彼の顔は、ウクライナ国民の痛みを感じ、彼らの命が失われていることを悲しんでいる男の顔だ。彼は私たち全員にとって、真のリーダーでありヒーローだ」「彼の表情からは、その心痛が手に取るように伝わってくる。すべてのウクライナ人を思って、心を痛めているのだ」といった感想が寄せられています。
喜劇俳優から国家の守護者へ
元々は喜劇俳優で、政治経験ゼロだったゼレンスキー大統領は、現在では真剣に国家を守るリーダーへと成長しました。アメリカから国外脱出を打診されたとき、「私が必要としているは弾薬だ。脱出の為の足ではない」と述べた彼の言葉は、国家指導者としての責務を彼が如何に理解しているかを示しています。ゼレンスキー大統領の姿勢は、「国民の保護」という最大の責務に敢然と立ち向かっているリーダーの姿として評価されています。
元コメディアンからウクライナの抵抗の象徴へ
西側諸国のリーダーたちは、ロシアのプーチン大統領に立ち向かうことを避けてきました。しかし、そんな中で一人の男が立ち上がりました。敵からは「ただの面白い男」と揶揄されてきた元コメディアンであったゼレンスキーが、今やウクライナの抵抗の象徴となり、国民からの絶大な信頼を勝ち取っています。この戦争は、ウクライナだけでなく、世界のリーダーたちにも、真の指導力とは何か、そして人々の信頼とは何かを見つめ直す機会を与えています。
「困難を共有し、共に戦う」ゼレンスキー大統領とウクライナの団結の力
これまでの彼の道のりを振り返ると、ゼレンスキー大統領は一見すると予測不可能な選択を繰り返してきたように思えます。しかし、彼の行動を見ていくと、彼が自分自身とウクライナ国民を信じてきたことが明確に伝わってきます。彼の存在は、喜劇俳優から戦時の指導者へと変わったことで、ただのコメディアンから国民のヒーローへと変貌を遂げました。
この戦争は、ゼレンスキー大統領だけでなく、ウクライナの国民全体にとっても試練となっています。しかし、その試練を乗り越える中で、ウクライナの人々は新たな誇りと結束を見つけ、一体感を深めています。これは、彼らの困難を共有し、共に戦う決意を持つリーダー、ゼレンスキー大統領の影響力が大きく関与しています。