ウクライナにおけるクリミア危機の概要を知りたいですか?この記事では、2014年のクリミア半島の併合とその後の影響について詳しく解説します。ウクライナ内での政治的混乱や抗議活動から始まり、ロシアによるクリミアの編入までの一連の出来事が網羅されています。国際社会の反応や経済制裁、そしてウクライナ東部での緊張の高まりに至るまでを包括的にお伝えします。
【ウクライナ危機(9)】衝撃の真実!「ユーロ・マイダン革命」自由への壮絶な闘いの舞台裏
2014 Crimean crisis
「2014年クリミア危機」ロシアのクリミア侵攻
2013年、ウクライナのヤヌコーヴィチ大統領は当時、欧州連合(EU)への加盟を検討していましたが、最終的にはその計画は見送られました。この決定に対し、親欧米派は大いに失望し、抗議の声を上げる抗議運動が広がりました。そして2014年2月「ユーロ・マイダン革命」で親ロシア派政権が崩壊する結果となりました。
しかし、ロシアはこの出来事を黙って見過ごすことはありませんでした。国際法を無視してクリミア半島に軍を差し向けたのです。
多彩な過去と未来「クリミア半島」の歴史と文化
クリミア半島はその地理的な位置と豊かな自然資源から、古代ギリシャ時代からさまざまな民族や帝国の支配を経験してきました。その多様な歴史的背景から、クリミア半島は多様な宗教と文化が混在する地域となっています。
クリミア半島は古代ギリシャの植民都市から始まり、その後ローマ帝国、ビザンツ帝国、オスマン帝国など様々な大帝国の影響下にありました。また、カライム人(トルコ系のユダヤ教徒)がクリミアの語源とする説があるということは、この地域の多様な文化と宗教の混在を示しています。
キプチャク・ハン国の時代には、タタール人がクリミア半島に移住し、イスラム教を広めました。しかし、18世紀には帝政ロシアがクリミア半島を併合し、ロシアの影響力が強まりました。
民族の架け橋か、政治のツールか?「ロシア系住民」とクリミアの関係性
このように、歴史的、文化的な特性から多様な民族集団が共存しているクリミアの中で、ロシア系、ウクライナ系、タタール人は主要な民族集団となっており、特にロシア系住民の存在は、2014年のロシアによるクリミア半島の併合に影響を及ぼしました。
ロシア系住民の定義は実際には曖昧で、ロシアの政策や立法によってさまざまに解釈されることがあります。これは、ウクライナや他の旧ソ連国家に住むロシア語話者やロシアの遺産を持つ人々に対するロシアの政策と行動に影響を及ぼします。この件に関してロシア人はいいかげんな態度を取ってきた。
単にロシア語話者を指す場合もあるが、祖父母にロシアでの居住経験があり、母語がロシア語であればロシア国籍を得られるとする新法も成立した。つまり、ロシアがその「同胞」や「ロシア系住民」の定義を利用して他国の内政に介入することは、国際法と主権尊重の原則に対する潜在的な脅威となり得る、ということです。
「クリミア・タタール人」のムスリム文化とロシアへの不信感
ロシア系住民はクリミア半島の大部分を占めており、ロシアとの繋がりを重視する傾向にあります。これに対して、ウクライナ系住民はウクライナの統一と主権を支持しています。また、タタール人は主にムスリムで、彼らの祖先は13世紀から17世紀までの間にクリミア半島を支配していました。
クリミア・タタール人とも呼ばれる彼らは、クリミア半島の住民の中では1割ほどを占めており、約26万人が住んでいます。彼らはソビエト時代に大量追放を受けた経験からロシアに対して不信感を持っています。
また、彼らは政治的にも活発で、ウクライナの政治的変革にも積極的に参加してきました。2004年の「オレンジ革命」では、タタール人の一部がウクライナの政治的変革を求めるデモに参加し、その後もウクライナ政府への圧力を続けてきました。
黒海の鍵を握るクリミア半島
「クリミア半島を握るものは黒海を握る」と言われきました。その理由は、その戦略的な位置にあります。クリミア半島は黒海の北部に位置し、ロシア、ウクライナ、トルコなど、黒海に面する主要な国々と接しています。そのため、クリミア半島の支配者は黒海の交通と貿易を掌握することができます。これが、クリミア半島の支配を巡る様々な国々の争いの背景となっています
ロシアにとっての戦略的な港湾都市「セバストポリ」
クリミア半島、特にセバストポリ市は、ロシアの戦略的重要性と深い歴史的繋がりから、ロシアにとって非常に重要な地域です。セバストポリ市はロシア(および旧ソ連)の黒海艦隊の母港であり、その戦略的地位から多くの歴史的な戦闘の舞台となりました。
ロシア帝国(そして後のソビエト連邦、そして現在のロシア連邦)は、歴史的に南下政策を追求してきました。その主な目的は、全年通じて氷に閉ざされることのない、いわゆる「不凍港」へのアクセスを保持することでした。このような港は、商業的利益だけでなく、海軍の運用にとっても重要で、特に冬季になると北部の港が凍結する可能性があるロシアにとっては必要不可欠でした。
ウクライナとクリミア半島は、「不凍港」が必要なロシアにとってを重要な場所でした。特にクリミア半島の港湾都市セバストポリは、ロシアの黒海艦隊の母港となり、黒海から地中海への重要な通行口となりました。
「セバストポリの英雄」ロシアの琴線を揺さぶる歴史的な遺産
1853年から1856年までのクリミア戦争では、英仏連合軍とロシア軍がセバストポリで激しい戦闘を繰り広げ、その戦いは後世に大きな影響を与えました。また、第二次世界大戦では、ソ連とナチス・ドイツとの間で一大攻防戦が展開され、これらの戦闘はロシア人の「琴線」に触れるものとして、深い民族的な記憶を形成しています。
セバストポリ基地とウクライナ・ロシアの複雑な関係
ウクライナとロシアの間の緊張の一つの要素は、クリミア半島のセバストポリにある黒海艦隊の基地に関するものでした。ソビエト連邦の崩壊後、新たに独立したウクライナは、セバストポリとその艦隊の一部を自国の領土と主張しました。
しかし、ロシアもまたこの戦略的に重要な基地を放棄する意志がなく、双方の間で紛争が続いた結果、1997年に合意が達成され、ロシアはウクライナ領内のセバストポリにある基地を20年間使用する権利を得ました。
2010年には、ウクライナの親露派大統領であったヤヌコビッチがロシアとの租借期間をさらに25年延長しました。しかし、2014年にヤヌコビッチが追放され、親西派の新政権が誕生すると、セバストポリ基地の将来が不確定な状態となりました。これは最終的に、ロシアによる「クリミア併合」の要因となりました。
ユーロ・マイダン革命後にロシア系住民の不満が爆発
2014年には、ウクライナの首都キエフで始まった大規模な抗議運動、通称「ユーロマイダン」が国全体に波及し、結果的には親露派のヴィクトル・ヤヌコビッチ大統領を追放することにつながりました。これに反発した親ロシア派のグループが東部のウクライナで力を持ち始め、特にクリミア半島とドネツク州、ルガンス州(合わせてドンバス地域とも呼ばれる)では抗議活動が激化しました。
特に注目すべきは、ヤヌコビッチの追放と新政権の誕生後、ロシア系住民の間で不満が爆発し、抗議活動が頂点に達したクリミアでした。
ウクライナ語の使用義務化とクリミアの反発
ウクライナでは、ウクライナ語が公用語とされていますが、実際にはロシア語が広く使われています。特に東部と南部、そして首都キエフではロシア語が主に使用され、テレビ番組でもウクライナ語とロシア語が混在しています。
しかし、ウクライナの政治状況が変化し、特にロシアとの対立が深まる中で、ウクライナ語の使用が強化される傾向が見られました。2014年2月以降、ウクライナ国内ではウクライナ語使用の義務化政策が推進され、生活や教育などの様々な場面でウクライナ語使用が義務付けられました。
この政策は、クリミア半島などのロシア語を母語とする人々から強い反発を引き出しました。彼らにとって、自分たちの生活や文化を規定することができる言語を制限することは、自身のアイデンティティや地位を侵害する行為と見なされました。この結果、クリミアの人々はウクライナから離れる動きを見せはじめたのです。
クリミアの「ロシア系住民保護」ロシアの行動の背景
この状況の中で、ロシアはクリミアの「ロシア系住民保護をクリミア介入の口実とします。ロシアは、ロシア語を母語とする住民の権利を守るために行動するとの立場を明確にしたのです。
言語政策の強化…ウクライナ語への移行を促す中でロシア語に制約
2020年になると、ウクライナ語の公用語化政策はさらに強化され、中高等学校の授業でもウクライナ語が使用されることが義務付けられました。これは、ウクライナ国内のロシア語使用を制限し、ウクライナ語への移行を促す政策であり、ロシア語話者にとっては厳しい制約となりました。
「クリミアの民族的な分断」ロシア系住民の恐れとアイデンティティの守り
ウクライナのヤヌコビッチ大統領の追放を決定した2014年2月22日以前から、クリミアではロシア系住民によるデモが続けられていました。彼らは親欧州派に警戒感を抱き、自分たちの生活やアイデンティティが脅かされることを恐れていました。
セバストポリの分離派デモと新市長の選出
デモの中で、クリミア分離派の一部は、2月23日に挙手投票を行い、ロシア人実業家のアレクセイ・チャリイイをセバストポリ市長に選出しました。これは事実上の選出であり、公式な選挙ではなかったのですが、それでも大勢の人々が市庁舎の前に集まり、新市長の選出を支持しました。
デモ参加者たちは、ロシアとの繋がりを持つ企業家が市のトップに立つことを2月24日に宣言しました。彼らは中央政府の干渉に備えて、地元警察当局の支持も取り付けました。
ウクライナ政府の深刻な懸念…クリミア対するトゥルチノフ大統領代行の表明
これらの動きに対し、ウクライナのトゥルチノフ大統領代行はクリミアの情勢に深刻な懸念を表明し、翌日の25日に緊急の安全保障会議を招集。分離独立運動の指導者を厳しく取り締まる方針を決定しました。
このように、ウクライナ政府の変動とそれに対するロシア系住民の反応は、クリミアの政治的混乱を一層深める要因となりました。ロシアへの帰属意識が強い人々が多いこの地域で、ウクライナの新政府との間の対立が激化する過程で、分離主義の動きが活発化したのです。
ロシア系 vs タタール人!歴史的・文化的背景からくる政治的対立と民族間の衝突
クリミア半島の首都シンフェロポリで、2月26日に大きな政治的な動きが見られました。クリミア自治共和国政府がウクライナからの分離を否定したことを受けて、親ロシア派のコサックが指導する数千人規模のデモが発生しました。同時に、新たに発足したウクライナの暫定政府を支持する、タタール人も同規模で集まりました。
これら二つの大きなグループが対立し、にらみ合いが始まりました。そして、それはやがて小競り合いに発展しました。これは、クリミアにおけるウクライナとロシアの対立が、さらに地元の民族間の対立にまで波及していることを示しています。
それぞれの民族、コサックとタタール人は、その歴史的、文化的背景から異なる立場をとり、その結果、政治的な対立が民族間の衝突にまで深まったのです。
「くたばれアメリカ」抗議デモでのロシア系住民の象徴的な表現
2月27日にも多くのロシア系住民が集まり、その抗議の声を上げました。彼らの間では、「ロシア! ロシア!」の歓呼が繰り返され、赤青白のロシア国旗やロシア海軍旗が広げられました。
参加者の一人は、「首都キエフには米国の傀儡(かいらい)政権ができた。くたばれアメリカ!」「キエフのクーデターで発足したのはナチズムの非合法政権だ。その権力がクリミアに及ぶことは許さない」と述べ、強く抗議の意を表しました。彼は更に、「われわれの権利を守り、秩序をもたらしてくれるのはロシアとプーチン大統領だけだ」と力説しました。
武装部隊が包囲する議会の中で「親ロシア派の首相」が誕生
2月27日以降、クリミア半島では武装集団による一連の行動が活発化しました。彼らは議会や市庁舎、空港などを占拠し、一部では所属不明の部隊がウクライナの軍施設を包囲しました。武装集団が占拠した議会では、ウクライナの新たな暫定政権を承認した首相が解任され、親ロシア派のセルゲイ・アクショノフが新首相に就任しました。
クリミアがロシア編入の賛否を問う住民投票を実施
クリミア半島の自治共和国新首相セルゲイ・アクショノフ氏は、3月1日にクリミアの地位に関する住民投票を3月30日に行うと表明しました。これはクリミア半島の政治状況を変動させる大きな決定でした。
「ロシア軍投入の承認」プーチン大統領のロシア系住民保護への要請と上院の同意
ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、ロシア系住民の保護を理由にウクライナへのロシア軍投入の承認を上院に求めました。上院はこれを全会一致で同意しました。これは親ロシア政権が崩壊したウクライナ領内での事態を収拾するための措置として、ロシアの介入を正当化する意図があったと考えられています。上院がこれを承認したため、ロシア軍のウクライナ領内での活動が法的に可能となりました。
プーチン大統領はその後、バラク・オバマ米大統領との電話会談で、親ロシア派住民が多いウクライナ東部への軍派遣も示唆しています。
クリミア最高会議の独立宣言と領土変更の国民投票要件
クリミア最高会議(議会)が3月11日にウクライナからの「独立」を採択し、3月16日の住民投票後に「ロシアへの編入」を目指すという決定は、この地域の政治的な分裂を一層深めました。
ウクライナの憲法では「領土変更の決定にはウクライナ全土での国民投票を要する」ことが規定されています。しかしクリミア最高会議の「独立宣言」はこの規定を迂回する形で出され、住民投票による「独立」を通じて、クリミアがロシアへ編入することの正当性を主張しました。
「独立宣言は無効」トゥルチノフ大統領代行の大統領令
だが、ウクライナの新政権や欧米諸国からはこの「独立宣言」は認められませんでした。特にウクライナの大統領代行、オレクサンドル・トゥルチノフは3月14日にこの「独立宣言」を無効とする大統領令を発令しました。
圧倒的多数の賛成票でロシアへの編入が決定
3月16日の住民投票結果を受けて、ロシアはクリミア自治共和国とセバストポリ市とそれぞれ編入に関する条約に調印し、これは4月1日に発効しました。クリミア自治共和国はロシアに対してクリミアをロシア連邦に編入するよう要請し、ロシアはこの要請を受け入れ、3月18日にクリミア自治共和国をロシア連邦の一部として編入することを宣言しました。
クリミア自治共和国にはもともとロシア系住民が多く、彼らの多くがロシアへの帰属意識を持っていました。そのため、ロシアへの帰属を問う住民投票が行われれば、結果がロシアへの帰属を示すことは予想されていました。
国際社会の非承認と制裁
しかしながら、クリミアの住民投票とその結果には、国際社会は大きく揺れました。まず、投票はウクライナ全体の住民ではなく、クリミア自治共和国の住民だけで行われました。これは、「領土変更は国民投票によってのみ議決することができる」と規定するウクライナの憲法73条に違反しています。
また、ロシアが深く関与した形でクリミア自治共和国に独立を宣言させ、その結果をもとにクリミアをロシア連邦に編入したことは、ウクライナの主権と領土保全を侵害する行為として国際社会から広く批判されています。
欧米諸国は経済制裁はプーチンの支持率を上昇させた
2014年にロシアがクリミアを併合した際、この行動はウクライナ政府と欧米諸国から強く非難されました。結果として、これらの国々はロシアに対する経済制裁を発動しました。しかし、一方で、この行動はロシア国内でウラジーミル・プーチン大統領の人気を高めました。
プーチン大統領は、クリミアの併合についての国営テレビのドキュメンタリー番組に出演し、ロシアがクリミアを防衛するために核兵器を使う準備があったことを明らかにしました。彼は、「クリミアは歴史的にわれわれの領土であり、そこに住むロシア人が危険にさらされているのを放置するわけにはいかないと、同僚たちに伝えた」と述べました。
しかし、彼はその一方で、これが最悪のシナリオになった場合の準備だったと明らかにしました。さらに、「世界的な紛争に発展させることはだれも望んでいなかったはず」と述べ、大規模な戦闘を避ける意図があったことを示しました。
「G7首脳会議とハーグ宣言」ロシアをG8から追放
2014年3月24日、ロシアのクリミア半島併合に対して、世界を代表する先進7カ国(G7)は、オランダのハーグで緊急の首脳会議を開催しました。会議の結果、6月にロシアのソチで予定されていた主要8カ国(G8)首脳会議への参加を取りやめ、ブリュッセルでG7首脳会議を開催することを決定しました。これは「ハーグ宣言」としてまとめられました。
この声明はロシアを一時的に主要な国際的枠組みから締め出すもので、クリミアの情勢に対する方針を変更しなければ、さらなる制裁を行うことも示唆しています。日本の安倍晋三首相も会議に参加し、制裁措置に賛成を表明しました。こうしてロシアは、ウクライナのクリミア半島の強引な併合に対する非難とともに、G8からの一時的な追放を受けることとなりました。
しかし、この決定には一部で懸念の声も上がりました。特に、天然ガスや原油の輸入においてロシアに依存度が高まっている日本にとって、制裁が「ブーメラン」として自国に影響を及ぼすことはないかという心配がありました。海外のメディアも、日本を含めたエネルギー政策の観点からこの問題を報じていました。
クリミア編入は中国・ベラルーシですら認めていない
ロシアのクリミア半島併合に対する国際社会の反応は強く、G7を含む多くの国が一斉に非難の声を上げました。ロシアがG8から一時的に追放されたことは、この非難の具体的な結果の一つでした。特筆すべきは、ロシアの友好国として知られる中国やベラルーシでさえ、この行動を正式に承認しなかった点です。
国連が断固たる立場!住民投票の無効宣言と国境変更に反対票、日本も行動を起こす
2014年3月27日、国連総会はウクライナの領土保全について重要な採決を行いました。住民投票の無効宣言とウクライナの国境線の変更を他国が認めないことが、賛成多数の100票、反対の11票、棄権の58票という結果で採択されたのです。
日本もこうした流れに対し、積極的な対応を見せました。ウクライナ東部の情勢不安定化に関わっていると見られる人物の資産凍結措置を取りました。
ロシア領としての誇り…プーチン大統領がクリミアで戦勝祝典に臨む
2014年5月9日、ウラジーミル・プーチン大統領はウクライナ南部、クリミア半島を訪問しました。この訪問は、ロシアによるクリミア編入後の初めてであり、プーチン大統領はクリミアのセバストポリ軍港で、クリミア半島がナチス・ドイツから解放された70周年と戦勝69周年を祝う式典に出席しました。ここで彼は、クリミアが「ロシア領」になったことを誇示しました。
式典に先立ち、軍最高司令官であるプーチン大統領はモスクワ中心部の赤の広場で行われた恒例の軍事パレードにも出席しました。彼の演説は「わが国がナチス・ドイツを穴に追い込み、完全に壊滅させた」との言葉で国民の愛国心を引き立てるものでした。この愛国主義は、プーチン政権に対する国民の支持を固めるための重要な政治思想となっています。
また、プーチン大統領はウクライナの過激な民族主義者を「ナチス」に例える表現を使い、ウクライナ新政権に対する強硬姿勢を示しました。
クリミアの影響は拡大!ウクライナ東部で緊張が高まり戦闘状態へ
ロシアによるクリミア半島の不法占領の影響は深刻で、ウクライナ東部でも緊張が高まり、事態は急速に悪化しました。特にドンバス地方では、「ドネツク人民共和国」および「ルガンスク人民共和国」を名乗る武装勢力が出現し、ロシアへの編入を求めながら独立を一方的に宣言しました。
ウクライナ政府はこれらを反政府武装勢力と認識し、占領された地域を回復するための「反テロ作戦」を開始しました。この結果、地域は戦闘状態に突入しました。
「クリミア危機の背景」プーチンのNATO基地反対と地政学的な観点
プーチン大統領は、旧ソビエト連邦の領域内にNATO(北大西洋条約機構)の基地が設置されることを強く反対してきました。彼はそれをロシアの安全保障に対する重大な脅威と見なし、ロシアの地政学的な利益を守るために幾度となく行動を起こしてきました。
2014年のクリミア危機はその一例です。ウクライナでの政変の直後、ロシアはクリミア半島に軍を送り込み、事実上の支配を確立しました。ロシアはその後、クリミアを正式に編入しましたが、この行動は国際社会から広範囲にわたる非難を引き起こしました。
プーチン大統領は、この行動を後に公に認め、それがロシアの地政学的な利益を守るための必要な行動であったと主張しました。彼は特に、NATOがクリミアに基地を設置する可能性について警戒していました。この視点から見れば、彼の行動は予防的な戦略と解釈できます。
しかし、それによりロシアは国際的な経済制裁を受け、その結果、ロシアの経済に大きな打撃を与えました。したがって、プーチンのこの政策に対する評価は、視点や立場に分かれています。
Crimean Tatars
元々タタール人が住んでいた!?波瀾万丈の「クリミア史」
クリミア半島の歴史は、多様な文化や民族が入り混じり、領土競争の舞台となり、波瀾万丈と言えるほど複雑で多様な歴史を持っています。
ギリシャの息吹が吹き込まれた古代クリミア
まず、古代には、クリミアは重要な交易路の一部であり、ボスポロス海峡と黒海を経由して地中海と連絡を取り、遠くはギリシャ、ローマなどの古代文明と交流がありました。これにより、クリミア半島はギリシャ文化の影響を強く受け、多くのギリシャ人がクリミア半島に移住し、都市国家を形成しました。
クリミア史を塗り替えた侵略者「ゴート族」と「フン族」
一方、4世紀にはゴート族が侵入し、5世紀にはフン族がクリミアを占領しました。これらの侵入と占領はクリミアの文化と社会に大きな影響を与え、その後のクリミアの歴史を形成する要素となりました。
ビザンツ帝国の統治下で繁栄するクリミアとキリスト教文化
6世紀から9世紀までは、ビザンツ帝国がクリミアを支配しました。この期間、クリミアはキリスト教化が進み、ビザンチン帝国の文化や政治の影響を強く受けました。
クリミアのルーシ支配と東スラヴ文化の発展
10世紀には、古代ルーシ(現在のウクライナ、ベラルーシ、ロシアの一部)が台頭し、クリミア半島の一部を支配しました。この時期のルーシはキエフを中心に発展し、キエフ大公国とも呼ばれ、東スラヴの文化と正教会の信仰を広めました。
イスラム教の普及とクリミアの宗教的変容
11世紀から12世紀にかけて、中東で台頭したセルジューク朝の影響を受け、テュルク系の民族がクリミア半島の南岸部に移住し、定住しました。これはクリミアがイスラム教の影響を受ける重要な時期でした。テュルク系民族はこの地で生活し、独自の文化を築き上げ、その後のクリミア・タタール人の形成に大いに貢献しました。
モンゴル帝国の支配とタタール人のクリミア定住
13世紀には、モンゴルの侵入とともにタタール人がクリミアに定住し、クリミアはキプチャク・ハンの支配下に入りました。その後、15世紀にクリミア・ハン国が成立し、首都はバフチサライに置かれました。しかし、このハン国は独立を維持することが難しく、やがてオスマン帝国の保護下に入りました。
ロシア帝国下でのクリミア・タタール人の戦争の歴史
18世紀後半、クリミアはロシア帝国に併合されました。これ以降、クリミア・タタール人はロシア帝国の一部として多くの戦争に参加し、軍事的に活躍しました。それはナポレオン戦争、1828-29年の露土戦争、そして特に名高いクリミア戦争などです。
ロシア帝国の徴兵制度とクリミア・タタール人
しかし、1874年にロシア帝国が「国民皆兵」の原則を導入すると、クリミア・タタール人も本格的に徴兵対象となりました。彼らは当初、一般の兵役よりも短い期間の兵役となるなど、一部特別扱いがありましたが、1892年以降は一般規則が適用されました。
クリミアの政治的な断絶と統治者の多様性
ロシア革命とそれに続く内戦の時期、クリミアはその混乱の中心にありました。1917年から1922年にかけて、政権は何度も交代し、クリミア・タタール人、ウクライナ人民共和国、リプカ・タタール人、そしてソビエト政権によって統治されました。その結果、1921年にクリミアはロシアソビエト連邦社会主義共和国の一部となり、クリミア自治社会主義ソビエト共和国が成立しました。
クリミア・タタール語の公用語化
1920年代のクリミアでは、クリミア・タタール語がロシア語と並んで公用語とされました。この時期には学校、図書館、博物館でクリミア・タタール語が広く用いられ、クリミア・タタール文化が推奨されました。これは、ソビエト連邦が各地の少数民族文化を尊重し、発展させる政策を採っていたことの表れです。
クリミアにおける言語と文化の抑圧…ソビエト連邦の一体感への追求
しかし、この政策はその後のスターリン時代には大きく方向転換します。1930年代になると、ソ連の政策はロシア化政策にシフトし、多くの少数民族の言語や文化が弾圧されました。そして、その一方で、ロシア語とロシア文化が優位に置かれ、ソビエト全体での一体感と統一感を作ることが試みられました。
クリミア・タタール人とナチスドイツへの協力
第二次世界大戦中、クリミア・タタール人の中にはナチスドイツに協力した者もいました。これは、彼らがソビエト連邦政府から受けた過酷な扱いへの反発や、独立を求める意図からでした。しかし、この行為は1944年にスターリンによって深刻な報復を引き起こしました。
「スターリンの報復」クリミア・タタール人の強制移住とジェノサイド
スターリンは、クリミア・タタール人全体がドイツへの裏切り者であるとの決定を下し、彼ら全員を中央アジアへの強制移住に追い込みました。その過程で、多くのクリミア・タタール人が飢餓や強制労働によって死亡しました。この出来事は、民族全体を破壊しようとするジェノサイド(大量虐殺)とされています。
ウクライナへのクリミアの移譲!ソ連指導者フルシチョフの決定
第二次世界大戦後、クリミアはソビエト連邦の一部としてロシア共和国に所属していました。しかし、1954年にはソビエト連邦の指導者であるニキータ・フルシチョフが、クリミアをロシア共和国からウクライナ共和国へと移管しました。
フルシチョフのこの決定は、300年前の1654年にウクライナがロシアの保護下に入ったことを記念して行われました。また、この移管は行政上の簡素化という理由もあったとされています。当時、ソビエト連邦は連邦制をとっており、ロシア共和国もウクライナ共和国もその構成員であったため、内部の領域変更は大きな問題とはなりませんでした。
しかし、ソビエト連邦の崩壊後、この決定はクリミア半島の領有を巡る大きな論争の引き金となりました。
ウクライナ独立後のクリミア・タタール人の帰還と生活再建の困難
1991年にソビエト連邦が崩壊し、ウクライナが独立すると、スターリン時代にシベリアや中央アジアへ追放されていたクリミア・タタール人たちは故郷へと戻り始めました。その数は当初約30万人でしたが、高い出生率と移民の流入により急速に増えていきました。しかし、彼らの古くからの居住地にはすでにロシア系の人々が定住しており、タタール人たちの生活再建は難しいものでした。
一方、クリミア半島の人口の大部分を占めていたロシア系住民たちは、ウクライナ人となることを嫌い、独立運動を起こしました。この問題は、高度の自治が認められた自治共和国としてウクライナに留まることで妥協されました。
現代のクリミア自治共和国の人口構成と民族的な複雑さ
この結果、2014年現在のクリミア自治共和国の人口は約200万人で、そのうちロシア系は約60%、タタール系は約15%を占めています。
クリミア憲法の承認と自治共和国の地位の確立
クリミアは1996年のウクライナ憲法により、ウクライナ唯一の自治共和国とされました。この措置は、クリミアの独立要求の高まりを抑えるためにウクライナ政府が行ったもので、その結果、「国家並み」の権限がクリミアに与えられました。これにより、クリミアは一定の自治を保持しながらも、国際的にはウクライナの一部と認識されるという体制が成立しました。
その後、1998年にクリミア憲法がウクライナ政府により承認され、これによりクリミア自治共和国の地位はより具体的な法制度として固定化されました。これにより、クリミアの政治体制はその後も安定を続けましたが、同時にその地位についての議論も存在し続けました。
「クリミア危機と地政学的」住民投票の影響とクリミア・タタール人の立場
2014年のクリミア危機は、クリミアの地政学的な未来を巡る大きな転換点でした。クリミア議会が行った住民投票によって、多数のクリミア住民がウクライナからの独立およびロシアへの編入を支持したとされています。しかし、この住民投票はウクライナ政府や多くの国際社会から非合法、不公正と見なされました。
この投票の際、クリミア・タタール人の多くは反対の立場を表明しました。クリミア・タタール人はクリミア半島の歴史的な住民であり、スターリン時代の強制移住からの帰還を果たしてきましたが、クリミア全体の人口に対しては少数派に過ぎません。そのため、その意見は結果として反映されませんでした。
クリミアのロシアへの編入は、クリミア・タタール人にとっては再びの追放と感じられるもので、これ以降も彼らは政治的、経済的、社会的な圧力を受けることになりました。
ウクライナとロシアの緊張「クリミア半島」の主権問題と国際政治
ウクライナ政府は確かにクリミア半島におけるロシアの主権を認めておらず、国際社会の多くもこれを支持しています。この状況はウクライナとロシアの間で緊張を引き起こしており、更には国際的な政治問題となっています。
クリミア・タタール人の中には、ロシアのクリミア統合に強く反対する声が多く、彼らは領土一体性を維持することの重要性を訴えてきました。彼らの抗議行動は、彼らの権利と身の安全に対する深刻な懸念を示しています。
ロシアによるクリミア半島の占領が始まった際、多くのクリミア・タタール人が迫害を恐れて半島を去ることを余儀なくされました。この状況はクリミア・タタール人のコミュニティに大きな影響を与え、彼らの生活や文化に対する深刻な脅威となっています。
さらに、報告によれば、ロシアはクリミアの人口構成を変えるためにロシア国民をクリミアへ移住させており、その一方で占領に抵抗する人々に対しては圧力をかけています。これは人権侵害と見なすことができ、国際的な懸念となっています。
クリミア併合後における政治的迫害「クリミア・タタール人」の権利侵害
ほとんど全ての国際社会はクリミアをウクライナの一部と見なし続けています。しかし、クリミア内でこの立場を表明すると、逮捕や迫害、あるいは禁固刑の対象になるという報告があります。例えば、ウクライナの国旗を自宅に掲げたウラジーミル・バルーハが有罪判決を受けたケースなどがその一例です。
また、政治的な理由で有名な映画監督オレグ・センツォフなどがロシアに移送され、裁判にかけられています。特に、クリミア・タタール人の迫害は深刻で、指導者たちや一般のクリミア・タタール人が対象となり、メディア事務所の業務停止や自治機関メジュリスの活動停止などが行われています。
また、ロシア当局は新たなクリミア・タタール組織を設立し、以前の独立派テレビ局に代わる新しいテレビ局を作っています。ロシア市民への同化政策も行われており、徴兵や医療サービスの受給のためにロシアのパスポートを必要とするなどの方針が取られています。
国際司法裁判所は2017年に、クリミア・タタール人に対する差別が存在するとの判断を下しました。また、2021年にはG7の外相が共同でクリミア・タタール人への人権侵害を非難する声明を発表しました。多くの国際人権団体からも、クリミア・タタール人がロシアから政治的迫害を受けているとの報告が出されています。
このような状況は、クリミア・タタール人だけでなく、その地域の全ての住民の人権と尊厳に対する深刻な脅威を示しており、国際社会の懸念となっています。
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