この記事では、ソビエト連邦やウクライナ、ゴルバチョフ、ブレジネフ、KGBなど、様々な歴史的な出来事と人物について取り上げています。
ウクライナのオデッサでの遺骨発見からスターリン時代の恐怖を再認識し、ウクライナとクリミアの関係、そしてブレジネフ時代のソ連の停滞とゴルバチョフによる改革まで、さまざまなトピックが網羅されています。
また、KGBやゴルバチョフの政策、ソビエト連邦の崩壊などについても触れられています。これらの記事を通じて、冷戦時代や社会主義国家の歴史に興味がある方や、現代の政治や国際関係について理解を深めたい方にとって、興味深い情報になっています。
【ウクライナ危機(0)】キエフ・ルーシ大公国から始まる東欧最後の大国の物語
Birth of the Soviet Union
ロシア帝国が革命によって崩壊「ソ連(ソビエト連邦)誕生」
ソビエト連邦の誕生は、ロシア帝国の最後のツァーリであったニコライ2世の治世、そしてその後の1910年代の「ロシア革命」に遡ることができます。この激動の時代は、ロシアの歴史を大きく変え、国の未来を決定づける重要な出来事でした。
「ロシア第一次革命の火花」血の日曜日と革命の嵐
1905年1月9日(旧暦1月22日)に起きた「血の日曜日事件」は、ロシアの歴史を永遠に変える出来事となりました。戦争の莫大な費用と苦痛に悩む数万人の民衆が、政策変更を求めて宮殿広場に向かったこの日、政府軍が無慈悲にも発砲し、数多くの無辜の人々が命を落としました。この虐殺のニュースはロシア全土に広がり、1905年にはロシア第一次革命が勃発するほどの影響を及ぼしました。
全国各地で農民の反乱が頻発し、さらに同年6月にはロシア海軍黒海艦隊の戦艦ポチョムキン号で水兵たちが反乱を起こすという出来事が起きました。9月5日にはアメリカ大統領セオドア・ルーズヴェルトの仲介により、日本との間にポーツマス条約が結ばれ、日露戦争が終結。しかし、10月には一大ストライキが発生し、ロシア全土の多くのインフラが停止しました。
新たな組織「ソビエト」
この混乱の中、ペテルブルクの労働者や兵士たちは、新たな組織「ソビエト」を結成しました。これが後のソビエト連邦の基礎となる組織であり、この地点でロシアの未来は大きく動き出すこととなりました。
ロマノフ王朝の終焉とロシア帝国の崩壊
皇帝ニコライ2世の統治下、ロシアは第一次世界大戦へと参戦しますが、その戦局は次第にロシアにとって不利なものとなりました。こうした中、1917年3月には首都ペトログラード(開戦後のペテルブルクの新名称)で大規模なデモが発生。この混乱を利用しソビエトが首都を占拠しました。
こうしてニコライ2世は退位を余儀なくされ、一世紀以上にわたりロシアを統治してきたロマノフ王朝の終焉とともに、ロシア帝国は崩壊しました。サンクトペテルブルクを舞台に200年以上にわたって繁栄を続けてきたこの王朝が幕を閉じた瞬間でした。この政治的な変革は、ロシアの歴史を大きく転換させ、その後のソビエト連邦の誕生へと繋がる重要な節目となりました。
革命指導者レーニンの台頭
ロシア帝国の崩壊後、臨時政府が設立されましたが、その支配は長く続きませんでした。スイスから帰国した革命指導者ウラジーミル・レーニンは、1917年11月に武装蜂起を行い、この新たな政府を打倒しました。
この過程で、レーニンは社会主義者のグループを吸収して「ボリシェビキ(ロシア共産党)」と名乗った。そしてレーニンは「ソビエト」の権力を掌握し、社会主義を目指す新たな政権を打ち立てました。
レーニンの台頭は、ロシアの社会と政治を再び大きく変える出来事となり、ソビエト連邦の成立へと繋がる道を切り開きました。
<都市の名の変遷>サンクトペテルブルクからレニングラードそしてサンクトペテルブルクへ
サンクトペテルブルク(「聖ペテロの街」を意味)は、第一次世界大戦が勃発するとその名称をペトログラード(ロシア語で「ピョートルの町」を意味)に変えました。
しかし、その後のロシア革命によりロマノフ王朝が打倒され、社会主義政権が樹立されると、革命指導者レーニンは首都をモスクワに移しました。これにも関わらず、モスクワは事実上の首都としての地位を保持していました。
そして、レーニンの死後の1924年に、ペトログラードは彼の名を冠し「レニングラード」に改称されました。しかし、ソビエト連邦の終焉を予感させる1991年6月12日に、市民へのアンケートが行われました。
その結果、回答者の55%が市の旧名「サンクトペテルブルク」に戻すことを支持し、こうしてこの古都はその由緒ある名前を取り戻すこととなりました。この名前の変遷は、ロシアの政治的な変動と密接に関連しており、その都度、国の大きな転換点を映しています。
ソビエト社会主義共和国連邦の成立とウクライナの過酷な歴史
1922年、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、そしてアゼルバイジャン・アルメニア・グルジアによって構成されるザカフカス連邦が、新たに成立したソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)を形成しました。この新たな超大国の支配は、ウクライナの歴史上、最も過酷なものとなりました。
それ以前のウクライナはポーランドやロシア帝国に支配されていました。ロシア帝国の支配はすでに厳しいものでしたが、新たな共産主義国家であるソ連による支配は、それを遥かに凌駕するほどの残虐さを見せました。ソ連時代のウクライナの歴史は、人々の想像を絶するほどの苦難に満ちたものでした。
ウクライナの短い独立とソビエト化への道程
1917年、帝国の時代が終わり、新しい国家が誕生する機会が到来しました。ロシア帝国とオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、それに伴い、それまで支配されていた複数の民族が独立を果たし、民族国家を作りました。この一大波は、第一次世界大戦後、ヨーロッパにおいてポーランド、チェコスロバキア、フィンランド、リトアニア、ラトビア、エストニアなどが独立し、スロベニア、ボスニア、クロアチアが南スラブ連合であったユーゴスラビアに結集するという動きをもたらしました。ウクライナもまたこの独立の波に乗ることとなりました。
ロシア帝国の中でのウクライナの地位は、1917年の2月革命によって変わりました。ウクライナでは中央ラーダ政府が誕生し、ロシアの臨時政府と自治拡大を巡って対立、そして10月革命を経て、中央ラーダは「ウクライナ人民共和国」を宣言しました。しかし、当時のウクライナ共和国は、現在のウクライナ西部地域が含まれていませんでした。その地域は、ポーランド・リトアニア共和国、その後オーストリア帝国に支配され、第一次世界大戦後はポーランド共和国の領土となりました。
ソビエト時代のウクライナの変革
しかし、ウクライナ人民共和国の独立は短命でした。1919年に第3回全ウクライナ・ソビエト大会でウクライナ社会主義共和国が成立し、1922年12月にはソ連邦の構成共和国となりました。その後、1937年に「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」に改名され、国旗も1949年に変更されました。
ソ連邦では初めは各民族の自主性が尊重され、それぞれの言語や習慣が積極的に保護されました。ウクライナでもウクライナ語の使用が奨励され、
ウクライナの独自の文化も尊重されていました。しかし、レーニンの死後、スターリンが権力を握ると、ソビエト連邦は中央集権化の道を進み、民族文化の抑圧が始まりました。
ウクライナ語のアルファベット、語彙、文法はロシア語に近づけられ、新聞雑誌でもウクライナ語の使用が減少しました。それにより、ウクライナ語とウクライナ文化は抑圧され、1920年代に見られたウクライナの独自の文化は1930年代にはほとんど姿を消してしまったのです。
ウクライナの悲劇はその後も続き、1932年から1933年にかけての大飢饉「ホロドモール」で、数百万人ものウクライナ人が命を失いました。スターリンの集団農場政策と、ウクライナの穀物を強制的に徴発したことが大飢饉を引き起こし、これは多くの人々にとってウクライナに対するソビエトのジェノサイドとみなされています。
第二次世界大戦では、ウクライナはナチスドイツの侵攻を受け、多大な被害を受けました。戦後、ウクライナはソビエト連邦の一部として再建され、1960年代から1970年代にかけては産業化が進み、農業も復興しました。しかし、チェルノブイリ原子力発電所事故などの災害もあり、ソビエト連邦の統治下でウクライナは多大な困難に直面しました。
ソビエト連邦の崩壊後の1991年、ウクライナは再び独立を達成しました。しかし、その独立は、ソビエト連邦時代の経済的、政治的影響からの回復、ロシアとの関係調整など、多くの課題を残しました。それらの課題は現在もウクライナの歴史、政治、社会の大きなテーマとなっています。
スターリン時代のソ連…一党支配と集団農場の強制
1879年、グルジアの靴職人の家庭に生まれたスターリンは、神学校への通学を経て、レーニンが指導するボリシェビキに参加しました。1924年のレーニンの死後、スターリンとトロツキーの間で後継者争いが繰り広げられ、スターリンが一国社会主義論を掲げて勝利しました。
彼の支配下で始まった1928年の第一次五カ年計画は、ソビエト連邦の重工業化と農業の集団化を目指しました。これにより、集団農場(コルホーズ)と国営農場(ソフホーズ)が強制的に設立されました。
同時に、スターリンは反対派の粛清を開始し、彼の個人崇拝を強化しました。1936年にはスターリン憲法が発布され、その中で信仰の自由や民族間の平等が規定されましたが、現実にはこれらはほとんど守られませんでした。一方、1929年からの世界経済恐慌の影響をほとんど受けずに経済成長を遂げたソビエト連邦は、1933年に第二次五カ年計画を開始し、国民生活の向上を図りました。しかし、共産党の一党支配体制はこの時期にも変わることはありませんでした。
このように、スターリン時代のソビエト連邦は、一党支配と強制的な集団農場制度の下で、独自の経済発展を遂げつつも、民主的な原則とは大きくかけ離れた形で国民生活を管理し続けるという、矛盾した姿を見せていました。この時代のソビエト連邦の政策は、ウクライナなどの各地域に深く影響を与え、その後の歴史を大きく左右しました。
【ホロドモール】スターリン政権下でのウクライナ大飢饉
20世紀、ウクライナは大規模な飢餓を3度も経験しました。その中でも最も深刻だったのは、ホロドモールと呼ばれる1932年から33年の飢餓で、この事件は今日、スターリン体制によるウクライナ人へのジェノサイド(大虐殺)として認識されています。
ホロドモールという言葉は、「飢饉」を意味する「ホロド」と、「疫病や苦死」を表す「モール」を組み合わせたものです。この事件は20世紀最大の悲劇の一つと見なされ、オスマン帝国によるアルメニア人大虐殺やナチス・ドイツによるホロコーストと並び称されています。
ホロドモールの引き金となったのは、スターリン政権が1928年に導入した国家成長計画、「五ヶ年計画」です。この中で、農業の集団化は成功に導く重要な政策の一つとして推進されました。政府が徴収した穀物を輸出し、外貨を得て工業化や国際債務の返済に充てるためでした。
1926年頃からソビエト連邦全体で農作物の供給が不足し始めると、「ヨーロッパのパンかご」と称されるほどの豊かな穀倉地帯だったウクライナは、スターリン政権の政策に利用されました。ウクライナで収穫される小麦は、ソ連にとって貴重な外貨獲得の手段となりました。これが、ウクライナの人々を深刻な飢餓へと追い込む結果となったのです。
人類が忘れてはならない惨劇
1933年初頭には、スターリン政権はウクライナの飢餓地域からの移動も禁止し、農民たちは逃亡という最後の手段まで奪われました。食物がなくなり、何も植えることができなくなった農民の家族は、食べられる物としてトウモロコシの身と芯、野菜の皮、乾燥した藁、腐ったスイカやビーツ、ジャガイモやアカシアの皮、木の葉を粉砕した粉などを食べざるを得ませんでした。
スターリン政権はさらに、共産党員をウクライナ地域に送り込み、ウクライナの農民を厳密に監視しました。「穂を刈るだけでも」人民の財産を収奪したとの罪状で10年の刑を言い渡し、「飢餓」という言葉の使用すら禁じました。
飢えに耐えきれなくなった人々は、最終的には病死した馬や人間の死体を掘り起こして食べるまでに至りました。ウクライナでは飢餓による死者が増えると同時に、疫病も猛威を振るいました。最も恐ろしい話として、ある村では全員が死亡し、生き残った一人の女性は精神を病んでいたといいます。飢餓に苦しむ子どもを見ることができない女性たちは、子どもの首を絞めて殺害したという報告もありました。さらに、錯乱して自らの子供を食べた母親もいたとされています。
この大飢饉により、約400万人(ウクライナ化学アカデミーの推計)の人々が命を落としたとされています。現地の農民が食べるものは何も残らず、この悲劇は20世紀最大の人道的な危機として、人類が忘れてはならない出来事となりました。
人口が減少したエリアにソ連市民を移住させる
ホロドモールの惨劇によりウクライナ東部の人口が大幅に減少した後、スターリン政権はその人口の空白を埋めるため、ロシア人を始めとする多くのソビエト市民をウクライナ東部に移住させました。移住させられたソビエト市民の多くはウクライナ語を話さず、この地域にはほとんど縁もゆかりもない人々でした。
この政策により、ウクライナの民族・文化構成には深刻な影響が生じ、これが後のウクライナ東部の民族・文化的な分裂を招く一因となったと考えられています。
ホロドモールの認知 – タブーから事実へ
ソビエト連邦は、長年にわたりホロドモールという大飢饉の存在をタブー視していました。しかし、1980年代に入ると、その事実を認めるようになりました。
ホロドモールの存在を公に認めた背景には、政治的な変化が大きく影響しています。1980年代は、ソビエト連邦における「ペレストロイカ(改革)」や「グラスノスチ(情報公開)」という新たな風潮が吹き荒れていた時期で、ソビエト政権の過去の過ちや歴史的な事実が次々と明るみに出されるようになった時期でもありました。それまで隠されていたホロドモールの事実も、この流れの中で明らかにされたのです。
ウクライナはこの出来事を忘れないように……。法律を設定
ウクライナでは2006年のオレンジ革命によって、ビクトル・ユシチェンコが大統領に就任すると、「ホロドモールはジェノサイドである」とする法律が制定されました。
これは、ウクライナが自国の歴史を再評価し、受けた過酷な苦難を公に認めるという、その主権を全うするための重要な一歩でした。スターリン体制下のソビエト連邦による、ウクライナ人に対する大量虐殺をジェノサイドと認識することは、ホロドモールの過酷な現実を理解し、未来への教訓とするための不可欠なステップでありました。
ユシチェンコ大統領は、ホロドモールをジェノサイドと公に認めることで、ウクライナ人の苦痛を世界に伝え、またこの悲劇から学びを得るよう呼びかけました。ウクライナの歴史に深い影を落としたホロドモールが法律によってジェノサイドと認められたことで、ウクライナ人の記憶と経験はより具体的な形となり、忘れ去られることなく未来へと繋がることができたのです。
ところが、ホロドモールが新たな国際紛争の種となってしまいました。その根底には、ウクライナとロシアがホロドモールを巡る歴史認識を争っていることがあります。
ウクライナ政府はこの飢饉がスターリンによってウクライナ民族とその文化を抹殺しようとしたジェノサイドであるとの立場を明確にし、2008年11月22日には飢饉犠牲者追悼の記念行事を行いました。これはウクライナにとって大きな歴史的な一歩でした。
しかし、ロシアのメドヴェージェフ大統領は、2008年11月14日に声明を発表し、飢饉がスターリンによる全ソ連の農民を抑圧するものであり、その対象はウクライナ人に限るものではなかったとし、民族「ジェノサイド」であるという認識を否定しました。また、メドヴェージェフ大統領は、記念行事への参加を断りました。
これにより、ソビエト連邦の後継国家であるロシアとウクライナとの間で、ホロドモールを巡る対立が激化しました。
犯罪者と認定
さらに2010年1月13日には、ウクライナのキーウ市の控訴裁判所は、ヨシフ・スターリン、ヴャチェスラフ・モロトフ、ラーザリ・カガノーヴィチ、パヴェル・ポスティシェフ、スタニスラフ・コシオール、ヴラス・チュバーリ、メンデリ・ハタエヴィチといったソ連の指導者たちを、ウクライナでのホロドモールの組織化を行なった犯罪者と認定しました。
この対立は、両国間の歴史認識の相違が具体的な形で表れた事例であり、両国の関係を一層複雑なものとしています。ホロドモールをめぐるこの対立は、ロシアとウクライナが未来に向かって共に歩むための重要な課題となっています。
ウクライナだけじゃなかった?ソ連全土で凄まじい餓死者
ウクライナ国内でも、大飢饉(ホロドモール)についての見解は一致していません。2010年、前任者ユシチェンコとは異なる立場を取ったヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領は、「ウクライナ人に対するジェノサイドと見なすことはできない。この大飢饉はソ連に含まれていた諸民族共通の悲劇だった」と述べました。
ホロドモールは、スターリン体制下でのソ連全体の経済政策、特に農業集団化政策の結果として、ソ連全体で起こりました。ウクライナだけでなく、ロシア南部、ウラル地方、ボルガ沿岸、そして中央アジアのカザフスタンでも飢饉が発生しました。
特にカザフスタンでは人口の約半分が飢饉の犠牲となり、大規模な人口減少を経験しました。この地域の遊牧民族は農業よりも家畜飼育に依存していたため、集団農場制度の導入が家畜の大量死を引き起こし、それが飢饉に直結しました。
統計データによれば、この飢饉でソ連全体で700万人から800万人が餓死し、そのうち300万人から350万人がウクライナに集中していたとされています。カザフスタンとキルギスタンでは200万人が死亡したと見積もられています。ロシア国内の死者は200万人から250万人とされています。
しかし、ホロドモールがウクライナ人に対するジェノサイドと見なされる主要な理由の一つは、ウクライナがこの時期に特に重大な影響を受け、農民が彼らの収穫を没収され、飢餓に苦しむ様子を見るために綿密に監視されたことです。さらに、ウクライナの飢饉地域からの移動が禁止され、逃げる手段が遮断されました。これらの要素は、飢饉がウクライナ人に対する意図的な行動だったという説を強めています。
しかし、飢饉の全体的な影響とスターリン体制の全ソ連的な政策を考慮すると、ヤヌコーヴィチ大統領のような視点もあることは確かです。
「独ソ不可侵条約」ウクライナと第二次世界大戦の始まり
ウクライナにとって、第二次世界大戦は1939年9月1日に始まります。この日、ナチス・ドイツがポーランドへの侵攻を開始し、ウクライナの町、リヴィウなどを空爆しました。
僅か2週間後の9月17日には、ソビエト連邦もポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦の参戦国となりました。ソビエトは、モロトフ=リッベントロップ協定(独ソ不可侵条約)付属の秘密議定書に基づいて、ポーランド領の一部を占領しました。
この過程で、ソビエトはポーランド支配下にあったウクライナ人居留区(かつてのロシア領)を、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国に「再統合」しました。
ウクライナの悲劇…独ソ戦争とバビ・ヤールの虐殺
1941年6月、ナチス・ドイツは独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連への侵攻を開始しました。バルバロッサ作戦と呼ばれたこの奇襲作戦の結果、ウクライナは最も死者を出すことになる「独ソ戦争」の舞台となりました。
ホロコーストの序章
さらにキーウを占領した独軍により、ウクライナでの虐殺の幕が開けられました。
ウクライナのキーウ郊外にあるバビ・ヤールで、ユダヤ人3万人以上が出頭を命じられ、2日間にわたり銃殺されました。ロマの少数民族や独軍に逆らった市民も同様の運命に遭いました。最終的に、バビ・ヤールの犠牲者は10万人を超えます。この虐殺は、後にアウシュビッツなどで起きるホロコーストの序章となりました。
強制労働とユダヤ人の粛清
やがてウクライナ全域がドイツの支配下に収まり、多くのウクライナ人が強制連行され、労働力とされました。また、歴史的な経緯からウクライナに多く居留していたユダヤ人も粛清の対象となり、ウクライナは再度の蹂躙を経験しました。
ウクライナのナチスへの期待とその裏切り
大戦前のウクライナでは、ソ連政府の穀物徴発によるホロドモールが発生しており、一部ではナチスをソ連の強権支配からの解放者と期待する向きもありました。しかし、恐怖政治を行うナチス・ドイツも、スターリンによる大飢饉や粛清、強制移住で大きな犠牲を払ったウクライナにとって、同じくテロ国家であることに変わりはありませんでした。
ドイツ占領後のウクライナでは、ドイツ軍の甘言から解放への期待を抱いた地域もありました。その期待は特に農業地帯の人々に大きかったとされています。このような戦略は、ドイツ軍がユーゴスラビアでも用いたものです。また、伝統的に反ユダヤ主義が強いウクライナ西部では、ユダヤ人虐殺に協力した者も少なくありませんでした。
ウクライナの分断とプーチンの利用
ウクライナ東部では、反ユダヤ主義の強い西部の人々をファシストと捉えるなど、大戦の記憶は今も生々しいまま残っています。その頃の記憶は、ロシアのプーチン大統領によって戦争の口実に利用されることになります。
ソ連軍の抵抗によりドイツは次第に劣勢に
バルバロッサ作戦は一時的にはドイツ軍に多大な戦果をもたらしたが、厳しい冬とソ連の強固な抵抗により、ドイツ軍は次第に劣勢に陥っていった。そして、1942年8月に始まったスターリングラード攻防戦は、ドイツ軍にとって壊滅的な敗北を意味し、これにより戦局は大きく変わった。翌年、1943年2月2日には、ソ連軍が反攻に転じ、西へと進撃を開始した。
ソビエトの復帰と占領地の厳しい現実
ソビエトがドイツから領土を取り戻す過程で、ウクライナなど一時的にドイツの占領下にあった地域の住民は大量に逮捕された。ドイツ軍と何らかの接触があった者たちは、その行動が「消極的反逆」または「ドイツ軍との協力」とみなされ、軍法会議にかけられることとなった。
ソ連がドイツからウクライナを奪還「ドイツに協力した住民を次々と逮捕」
それは単に生活を維持するためにドイツ兵の洗濯をしたり、炊事場で働いた人々までが、犯罪者と見なされ重労働を課されるという厳しい状況でした。
3000万人の命が失われた戦争の終結
1945年4月、ソビエト連邦軍はベルリンを占領し、5月にはドイツが無条件降伏を宣言しました。これにより、ヨーロッパにおける戦闘は終わりを告げました。
独ソ戦はその過程で驚くべき数の人々が命を失いました。ドイツとソ連の双方を含む戦闘員と民間人の死者数は約3000万人とも言われています。これは両国の人口を著しく減らす結果となり、戦後の両国に深刻な人的資源の損失をもたらしました。
「ソビエト連邦の領土再編」ウクライナの拡大と地理的基盤の形成
1945年の終戦時において、ソビエト連邦は自国の領土を確固たるものにすると同時に、その影響力を周辺国にも広げていきました。ウクライナの領土拡大はその一環とも言えます。当時、ウクライナはポーランド、ハンガリー、ルーマニア、チェコスロバキアといった国々と直接接するようになり、ウクライナ共和国の地理的な基盤が形成されました。
その結果、ウクライナにはロシア人以外の民族も住むようになりましたが、それでもウクライナの人口の多くはロシア語を話すロシア人で、その言語と文化はウクライナ社会に深く根付いていたのです。これは歴史的な背景からくるもので、ウクライナとロシアは長い間、政治的、経済的、文化的に深く結びついていたからです。
一方で、ウクライナにはウクライナ語を話すウクライナ人も多く、彼らは自国の言語と文化を保護し、発展させることを求めてきました。このような状況はウクライナの内部での民族間の緊張を引き起こす一因となり、長い間ウクライナ社会の重要な問題となっています。
ウクライナは第二次世界大戦で世界最多の死者
ウクライナはソ連の一部であり、ナチス・ドイツとソビエト連邦との戦場となりました。その地理的な位置から、ウクライナは戦争の直接的な影響を強く受け、多大な犠牲を強いられました。
戦争中、ウクライナの人口は大幅に減少しました。あなたが述べたように、研究によれば、ウクライナの死者数は800万人から1000万人と推定されています。その多くが民間人であり、また多くのウクライナ人が強制労働のためにドイツに連行されました。
加えて、ウクライナの土地と建物も壊滅的な損害を受けました。数多くの町や村が完全に破壊され、多くの人々が家や故郷を失いました。
ウクライナは、ソビエト連邦が採用した「焦土戦略」の影響を強く受けました。この戦略では、進行するドイツ軍を深く自国内に引き入れ、その後で反撃を行うというものでした。これにより、ウクライナは多大な犠牲を払うこととなりました。
このような歴史的背景は、ウクライナが第二次世界大戦後、その影響から立ち直るのに多大な労力を必要とした理由の一つともなりました。
連合国軍でのウクライナ人の役割
ウクライナ人の大規模な戦争参加は、第二次世界大戦の全体的な戦果に大きく寄与しました。ウクライナ出身者たちは、連合国側の軍や部隊で多くの役割を果たし、特にソビエト連邦軍には大量のウクライナ人が参加しました。
イギリス・カナダ軍に45000人、ポーランド軍に120000人、ソビエト連邦軍に600万人、アメリカ軍に80000人、フランスに6000人が参加しました。これらの兵士たちは各々の軍で重要な役割を果たし、戦争の勝利に貢献しました。
また、ウクライナ国内でも抵抗活動が行われました。ウクライナ蜂起軍(UPA)はウクライナのナショナリストによって設立された組織で、第二次世界大戦中には10万人以上が参加しました。UPAはナチス・ドイツに対するゲリラ戦を展開し、ウクライナ人の抵抗精神を象徴する存在となりました。
戦勝国になった3つの国が利害を調整「ヤルタ会談 from クリミア」
1945年2月、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、そしてソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相はクリミア半島のヤルタで会談しました。これは、第二次世界大戦後の世界秩序の枠組みを作るための会議でした。
主な結果としては、ヨーロッパでのドイツの分割占領、国連の創設、そして東ヨーロッパ国家の自由な選挙の実施が確認され、国際秩序の枠組みの確立を達成しました。プーチン大統領もヤルタ会談を「ヤルタ会談で生まれたシステムは世界を激震から守った」と評価しています。
しかしながら、その後の歴史が示すように、これらの合意は全てが順調に進んだわけではありませんでした。特に、自由選挙に関する合意はソビエトの影響下の国家で事実上無視され、これが冷戦の一因となりました。
ミトローヒン文書に記されたKGBの盗聴活動
ヤルタ会談をKGBを盗聴が盗聴したという記録が、ミトローヒン文書に詳細に記されています。これは、ソビエト連邦の元KGB職員であるワシリー・ミトローヒンが密かに蒐集していた文書で、KGBの活動に関する詳細な情報を含んでいます。
世界は冷戦の時代を迎えた
冷戦という用語は、第二次世界大戦後の国際政治の特徴を表すものであり、ソビエト連邦(現在のロシア)とその衛星国、そしてアメリカ合衆国とその同盟国との間の間接的な対立を指します。
この用語は、ジャーナリストのウォルター・リップマンが1947年に著した『冷たい戦争』に由来します。この本は大ヒットとなり、そのタイトルがこの時期の国際関係を表す用語として広く使用されるようになりました。
冷戦は、直接的な戦闘がないにもかかわらず、イデオロギー、経済、政治、軍事、そして科学技術などの各分野でソビエト連邦とアメリカ合衆国という二つの超大国が厳しく競争・対立した時期を指します。この時代は、世界が資本主義陣営と共産主義陣営の二つに分かれ、その対立が多くの国際問題を引き起こしました。
1945年には国際連合(UN)が設立され、安全保障理事会が世界の平和と安定を維持する責任を担いました。しかし、アメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする共産主義陣営は、次第に対立を深めていきました。これは、冷戦が終わるまで続き、世界の政治的風景を大きく変えることとなりました。
「秘密警察の誕生」NKVDからKGBへ
1930年代から1940年代にかけて、スターリンはNKVD(内務人民委員部)を用いて広範な粛清を行い、彼の政治的な敵やソビエト社会の一部を疑った人々を逮捕、迫害、そして頻繁には処刑しました。これにはウクライナ人が大きな比率を占めていました。また、あなたが指摘したように、「詩人殺しの夜」はこの暗黒の時期の象徴的な出来事で、13人のイディッシュ語作家がNKVDによって処刑されました。
スターリンの死後、ソ連の権力構造は大きな変化を遂げました。ラヴレンチー・ベリヤとニキータ・フルシチョフの間の激しい権力闘争があり、結果としてフルシチョフが勝利しました。ベリヤは裁判の後に処刑され、NKVDは再編され、KGB(国家保安委員会)となりました。新たに形成されたKGBは共産党の支配下に置かれ、その後もソ連の国内・国外の安全保障を担当しました。
スターリン時代の恐怖とNKVDによる処刑の痕跡
ウクライナ南部のオデッサで2021年に発見された数千の遺骨は、スターリン時代の恐怖を具体的に示すものであり、この時期に多くの無実の人々がどのように扱われたかを再認識するきっかけとなりました。これらの遺骨は、30年代にNKVDによって処刑されたと考えられています
「スターリン政権下でのウクライナ」大粛清の犠牲者とクリミアの移管
スターリンの死後、ウクライナでは大粛清の犠牲者の名誉回復や、ウクライナ独自の文化の再興に対する意識が高まりました。1954年、フメリニツキーのペレヤスラフ協定締結300周年を記念して、クリミアが「ウクライナに対するロシア人民の偉大な兄弟愛と信頼のさらなる証し」としてウクライナ共和国に移管されました。この公的な理由はロシアとウクライナの友好を強化することでしたが、ニキータ・フルシチョフがウクライナに対する親近感からクリミアをウクライナに与えたという説もあります。
フルシチョフ自身はウクライナ出身ではありませんでしたが、彼の妻ニーナはウクライナ西部の出身であり、彼自身も若い頃にウクライナ東部のドネツィクの鉱山で働いていました。そこで彼は仲間意識を深く共有した鉱山労働者たちとともに働き、その経験を通じてウクライナに対する親近感が育まれたとされています。
また、1930年代初頭にスターリンによって引き起こされたウクライナでの大飢饉、ホロドモールの被害者たちへの報いとしても、クリミアのウクライナへの移管は意義深いものでした。ホロドモールでは数百万人が飢餓により亡くなり、これがウクライナの人々に深い痛手を与えました。
「クリミアのウクライナへの贈り物」フルシチョフの意図と統合の象徴
ソビエト連邦の指導者であったニキータ・フルシチョフがクリミア半島をウクライナに移管した理由については、様々な説があります。一部には、フルシチョフがウクライナ共産党幹部を喜ばせ、ウクライナとロシアの統合300周年を祝う贈り物としてクリミアをウクライナに与えたという説もあります。
また、クリミアの移管には地理的、経済的な理由もありました。クリミア半島は地理的にウクライナ本土と隣接しており、インフラの面でもウクライナのインフラ体系の一部でした。水道、ガス、電力供給などのインフラストラクチャはウクライナ本土からの供給が主でした。
そして、クリミア半島の水道管を敷設する際、ウクライナ共和国の管轄下にある方が地理的に便利でした。そのため、クリミアを直接モスクワが管理するより、ウクライナに任せた方が、効率的であると判断されました。
1954年の移管は、その時点では「ソ連の中での帰属地変更」に過ぎませんでしたが、ソ連の崩壊とウクライナの独立に伴い、クリミアはロシアにとって「外国領土」になったのです。そしてこれが後にクリミア危機(2014年)を引き起こす一因となりました。この時、ウクライナとロシア間で領土問題が深刻化し、国際的な緊張を引き起こしました。
「停滞の時代」の継承者…ブレジネフ後のソビエト連邦のリーダ問題
レオニード・ブレジネフはソビエト連邦の指導者として知られ、彼の統治期間(1964年から1982年)はしばしば「停滞の時代」と言われます。この期間は経済成長の鈍化、社会的動力の失速、そして政治的な硬直化に特徴付けられています。
ブレジネフ政権下で、ソビエト連邦は軍事力とスーパーパワーとしての地位を維持するために大量の資源を消費しました。これは経済全体に重大な負担をかけ、技術革新と生産性の向上を妨げました。ブレジネフの時代は、リーダーシップと改革の欠如により、ソビエト連邦の経済と社会の停滞と衰退が進んだ時期と広く認識されています。
彼の死後、後継者としてユーリ・アンドロポフ(KGB出身)、コンスタンティン・チェルネンコ(共産党中央委員会出身)がそれぞれ短期間指導者を務めました。しかし、彼らはいずれも高齢で病気がちであり、それぞれが短期間しか指導者を務めることができませんでした。このため、深刻な経済と社会の問題に対処し、必要な改革を行うことができなかったのです。
「ブレジネフ・ドクトリン」ソ連の介入と社会主義圏内の安定維持
1968年、アレクサンデル・ドプチェクはチェコスロヴァキア社会主義共和国の首脳として「人間の顔をした社会主義」を提唱し、一連の改革を開始しました。この改革運動は「プラハの春」として広く知られるようになりましたが、それは短命に終わりました。レオニード・ブレジネフ指導下のソビエト連邦は、ドプチェクの改革が社会主義の基本原則を脅かすものと見なし、ワルシャワ条約機構の他のメンバー国とともに軍事介入を行い、改革運動を弾圧しました。
この軍事介入を正当化するために用いられたのが「ブレジネフ・ドクトリン」で、これによれば「社会主義圏全体の利益は圏内のどの一国の利益にも優先する」とされました。このドクトリンは、ソ連が自らの影響下にある他の国々の内政に介入する権利を主張するものでした。
しかし、1985年にミハイル・ゴルバチョフがソビエト連邦の指導者となると、この状況は変わりました。ゴルバチョフは経済改革を推進するために「ペレストロイカ」を始め、同時に「ブレジネフ・ドクトリン」を放棄しました。
これにより東欧諸国は自国の内政についてより大きな自由を手に入れることができ、それは最終的に東欧での民主化運動の波を引き起こし、ソビエト連邦の崩壊につながることとなりました。
「シナトラ・ドクトリン」ベルリンの壁にソビエト連邦の消滅
1989年10月、ソビエト連邦外務省のゲンナジー・ゲラシモフ報道官は、「我々はフランク・シナトラのドクトリンを取る。彼の曲『マイ・ウェイ』にちなんで、各国は自分たちの道を選ぶべきだ」と述べ、新たな外交政策を示しました。これは、ソ連が東欧の社会主義諸国に対し自主性を尊重する方針を取ることを示すもので、ブレジネフ・ドクトリンの放棄を表明するとともに、これらの国々により大きな自由をもたらしました。
その結果、1989年11月9日にはベルリンの壁が崩壊し、旧東側ブロックの国々は政治体制の大改革に着手しました。そして約2年後の1991年12月には、ソビエト連邦自体が消滅しました。
ドレスデンのスパイ時代のプーチンが見たソ連崩壊
この間、ウラジミール・プーチンは東ドイツのドレスデンでKGBのスパイとして働いていました。ベルリンの壁の崩壊、その後の東西ドイツの統一、統一ドイツのNATO加盟、そして最終的にはソビエト連邦の消滅という、これらの歴史的な出来事は彼にとって深い衝撃を与えたことでしょう。これらの経験は、後のプーチンの政策、特にロシアの国際社会における役割と地位に関する彼の見解を形成する重要な要素となったと言えるでしょう。
KGB元長官のロシア統治とソ連の変革への影響
ユーリ・アンドロポフは、1982年11月にレオニード・ブレジネフが死去した後、ソ連共産党の書記長になりました。彼は以前、KGB(ソビエト連邦国家保安委員会)の長官で、ソビエト連邦の情報・治安機関の最高責任者であった人物でした。
アンドロポフは政権についた時点で、すでに病気がちであり、彼の在任期間はわずか15ヶ月でした。そのため、彼の統治は政策を大きく打ち出し実施するには短すぎた期間で、公にはあまり知られることなく、彼の死後すぐにコンスタンチン・チェルネンコが書記長に就任しました。
アンドロポフの時代は、ソ連の「停滞の時代」の終わりと、ゴルバチョフの「ペレストロイカ」への道のりをつなぐ短い期間でした。彼の政策は経済改革や反腐敗キャンペーンに重きを置いていたものの、その全てが実行に移される前に彼は死去しました。そのため、アンドロポフの統治は「何が可能だったか」についての質問を残すものであり、彼の真の影響力や意図した政策の全貌は明らかにされることはありませんでした。
「KGBが国政に関与」アンドロポフ時代のKGB
1967年にソビエト連邦共産党中央委員会書記であったユーリ・アンドロポフはKGB議長に就任しました。彼は反体制派の弾圧を強化し、ソビエト連邦の国家安全保障を保つためにKGB内に第5総局を設立。この部署にはウラジミール・プーチンも所属していました。
アンドロポフは西側の情報機関の陰謀によって「プラハの春」が引き起こされたと考えていました。彼のこのような見解は証拠に基づいていなかったものの、これが彼の反体制派への強硬な態度を反映していました。アンドロポフは1973年にソビエト連邦共産党中央政治局員に昇格し、1982年にはソビエト連邦共産党書記長に就任。これによりKGBは国政に深く関わるようになりました。
この期間、ソビエト連邦は共産党一党支配体制を維持し、アメリカとの冷戦を続けることから、より強力な治安・情報機関を必要としていました。結果としてKGBはさらに強大化し、経済防諜部門など新たな部門が設立され、優秀な人材が集められました。
「プーチン」と「アンドロポフ」KGBの経験と見解の共感
ウラジミール・プーチンは1975年にKGBに入り、レニングラード(現サンクトペテルブルク)支部の防諜機関に勤務した後、1980年代初めに対外スパイ部門に移りました。プーチンはアンドロポフを深く尊敬していたと言われており、彼の反体制派弾圧による政策に共感していたと考えられます。
しかし、アンドロポフを含む当時のKGBやソビエト連邦政府の指導層は、イデオロギーに固執し、西側が支配している世界の陰謀論をそのまま信じ、共産主義が資本主義に優れているという信念を抱き続けるなど、現実からの逸脱が見られました。このような姿勢が、ソビエト連邦の経済・政治体制の矛盾と問題を無視または見過ごす結果となり、最終的にはソビエト連邦の崩壊を加速させる原因となりました。
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