ウクライナの歴史は、長い年月の中でロシアとの闘いや独立への願いが絡み合いながら進んできました。本記事では、ウクライナの台頭からロシア帝国の支配、そして独立への道のりを詳しく辿ります。15世紀からのモスクワ大公国の力の増大やイヴァン3世によるツァーリ称号の使用、イヴァン4世の「雷帝」としての治世、そしてウクライナのヘトマン国家の誕生など、重要な出来事が綴られています。
さらに、ウクライナの不凍港獲得への渇望やペレヤスラフ協定、クリミア併合、そしてナポレオンのロシア侵攻によるウクライナの民族独立運動まで、ウクライナの歴史を豊富な事実と共に探求していきます。ウクライナ人の英雄イヴァン・マゼッパの勇気と志向した独立への渇望、そして現代ウクライナの対ロシア感情の背景も明らかにされます。
ウクライナの歴史は、対ロシア感情やウクライナのアイデンティティを形成する大きな要素となっています。ぜひ本記事を通じて、ウクライナの困難な道のりと栄光を知り、その国の魂に触れてみてください。
Ukrine
ウクライナの歴史
ウクライナは、旧ソ連構成国の中でロシアに次ぐ2番目に大きな人口を誇り、4159万人(※2021年の統計)が暮らしています。国土は日本の約1.6倍に相当する広大な面積を持つこの国は、その地理的位置により、多種多様な文化と歴史を内包しています。
トリュピリア文明から始まる長い歴史
ウクライナ文化のルーツは、非常に長い歴史を遡ることができます。紀元前6000~3000年頃には、既にトリュピリア文明が存在していました。その遺産は今日でもウクライナの風土に深く刻まれ、人々の生活に息づいています。
言語の多様性:ウクライナ語とロシア語
国民の7割は公用語のウクライナ語を話しますが、ロシア語も広く使われています。特にロシア系住民が多数を占める東部や南部クリミア半島などでは、ロシア語が第一言語として用いられています。この言語の多様性は、ウクライナがさまざまな国々と深い関係を結んできた歴史の証でもあります。
複雑な歴史:多国籍国家から独立へ
ウクライナはその地理的位置により、ロシア・ポーランド・リトアニア・オーストリアなどの影響を強く受けてきました。第1次大戦直前には、大部分がロシアの支配下にあり、残りの一部はオーストリア・ハンガリーに統治されていました。それでもウクライナは独自のアイデンティティを保ち続け、現在では独立国として国際社会でその地位を確立しています。
東スラブの心の故郷キーウ(キエフ)
ウクライナの首都、キーウは、その人口260万人を超える大都市で、1500年以上の歴史を有する東ヨーロッパでも指折りの古都です。この都市は東スラブの政治や経済の中心地として、またギリシャ正教の一大中心地として9世紀から12世紀にかけて発展を遂げました。その影響力と伝統は深く、キーウは「ルーシ(東スラブ)の母なる街」と称され、東スラブ人の心の故郷とも見なされています。
ソ連時代のキエフから現代のキーウへ
ソ連時代、キーウはモスクワ、ペテルブルグに続く第3の都市でした。その名前「キエフ」はロシア語読みで、ウクライナ語読みでは「キーウ」になります。1991年にウクライナがソ連から独立すると、「キーウ」が正式な名称となりました。しかし、世界では長らくロシア語読みの「キエフ」が一般的に使われ続けていました。
「Kiev」から「Kyiv」へ、名称変更の背景
この命名の流れが大きく変わったのは、ロシアがクリミア半島を不法占領したあたりからです。ヨーロッパの空港では「Kiev」からウクライナ語の綴りに合わせた「Kyiv」へと変わり、案内放送もそれに合わせて変化しました。これはウクライナがその独立とアイデンティティをより強く主張し、その声が国際社会に広く認識されるようになった証とも言えるでしょう。
「ウクライナ」と「ロシア」東スラブ民族の絆と葛藤
ウクライナ人は民族的にロシア人と同じ東スラブ民族に属します。この共通の民族的ルーツは、ウクライナの歴史が東に隣接する大国ロシアの歴史と密接に絡み合っていることを説明します。
両国の起源
両国の起源は、中世のキエフ公国に遡ります。この公国はかつて、黒海(Black Sea)からバルト海(Baltic Sea)まで広がっていました。その後の歴史の中で、両国はさまざまな形で影響を受け合い、一緒に発展してきました。
ロシアの支配と「兄弟国家」の概念
ロシアは帝政、ソ連時代を通じてウクライナを支配してきました。これは、同じスラブ系民族という共通の起源を持つ両国間に「兄弟国家」という概念を生み出しました。ロシアを「兄」、ウクライナを「弟」とするこの概念は、両国間の歴史的、文化的な結びつきを象徴しています。
しかし、この「兄弟国家」の関係は常に平穏なものではありませんでした。時折、政治的な緊張や葛藤が起きてきました。それにもかかわらず、両国の文化的、歴史的な結びつきは現在もなお深いです。
東スラヴ文化の母なる古都
ウクライナの首都キーウは、「ロシア諸都市の母」という別名を持っており、東スラヴ文化において最も古い都市の一つです。その起源は、ロシア最古の年代記である「ロシア原初年代記」(1113年)に記されています。
伝説の3兄弟と「キーの町」
年代記によると、キーウは482年にキー、シチェク、ホリフという3兄弟により建設されました。その都市名は、「(長男である)キーの町」という意味からキエフと名付けられたと伝えられています。
この伝説は、キーウが東スラヴ文化の源泉であり、ウクライナやロシアなど東スラヴ諸国の発展に大きな影響を与えたことを示しています。
ヴァイキング時代の交易と抗争
ヨーロッパの8~11世紀は、「ヴァイキングの時代」として知られます。特にスウェーデン地方のヴァイキング、スウェード人は9世紀ごろからスラヴ人やフィン人と交易を始め、時には略奪や抗争も行われました。
東スラヴ人とルーシ族による共同統治の申し出
部族間の抗争に苦しんだ東スラヴ人は、862年にスウェード人の一派であるルーシ族(ルス族)に使者を送り、自分たちの支配者を求めるという歴史的な出来事が起こりました。彼らがルーシ族に送ったメッセージは「我らの国は大きく豊かだが秩序がない。我らのところへ来て、支配してほしい」というものでした。
ルーシの族長リューリクとノヴゴロド国の建国
ルーシの族長リューリクは、このメッセージを受け取り、862年にノルマン人を率いてノヴゴロド国を建国しました。これは、現在のサンクトペテルブルク南方のイリメン湖畔にあるロシア最古の商業都市国家で、リューリクはこの地で混乱を収めました。
オレーグの南下とキエフ公国の成立
その後、リューリクの一族オレーグはビザンツ帝国との交易の利益を目指し、882年にドニエプル川中流のキエフを占領し、都をノヴゴロドから移しました。この行為が、実質的なキエフ公国(キエフ=ルーシ)の成立となりました。
キエフ公国の正式成立とルーシの同化
912年、オレーグの死後、リューリクの子イーゴリが大公として治め、キエフ公国が正式に成立しました。この過程でルーシ族は東スラヴ人に同化していき、ロシア史ではこの期間を「キエフ=ルーシ」と称しています。
ウラジーミル聖公の時代とキエフの衰退
988年、ウラジーミル聖公がギリシャ正教を国教に定め、キエフをキリスト教文化圏の一大中心地へと昇華させました。10世紀の終わり、ウラジーミル聖公の治世はキエフ公国の最盛期であり、東ローマ帝国の皇帝の妹を妃に迎え入れると同時に、キリスト教が国教とされました。
しかし、ウラジーミル聖公の死後、公国内部の親族間争いが勃発し、その弱体化が進みました。これに加えて、十字軍遠征に伴う地中海貿易の活発化がドニエプル川経由の交易の衰退を招き、キエフの衰退が決定的となりました。人々は次第にノヴゴロドやモスクワへと移住するようになったのです。
ロシア正教の起源とルーシの共通性
ロシア正教は、キエフ大公国の正教会から派生したと言われています。この点において、ウクライナはロシアの宗教的な起源となっています。これは、ベラルーシとは異なる関係性を示しています。
ウクライナ人は、自身がキエフ・ルーシ公国の後継者であると主張し、一方でロシア人もまた同様の主張をします。しかし、どちらにせよ、9世紀後半にキエフを中心に相当大きな国家が存在していたことは確かであり、その歴史的遺産は現在も引き継がれています。
ロシアとウクライナは、元来「ルーシ」と呼ばれる同一の民族であり、ギリシャ正教の影響下にある文化的背景から、ヨーロッパの一員としてのアイデンティティを持っています。
キエフ公国の衰退とモンゴルの侵入
10世紀にキリスト教を国教として繁栄したキエフ公国は、13世紀に入るとモンゴルの襲来を受け、滅びました。キエフ陥落後のウクライナは、モンゴル帝国の一部であるキプチャク・ハン国によって支配され、この時期は「タタールのくびき」と呼ばれる時代が続きました。
モンゴルの侵入により、ヨーロッパ人は彼らを悪魔(タルタル)と呼び、モンゴル族とその支配下のチュルク系民族全体をタタールと呼びました。これは現在でも旧ソ連邦のヨーロッパ・ロシア、カフカス、シベリアのチュルク系住民がタタール人と呼ばれる起源となっています。
「くびき」とは、文字通り牛や馬に車を引かせるための道具で、「束縛するもの」という意味を持つ言葉です。タタールのくびきという表現は、その厳しい支配の下で人々が馬車馬のように働かされ、束縛されていたことを示しています。
モンゴルの支配とルーシ
しかし、モンゴルの征服者たちは人口が少なかったため、ルーシの地方諸侯を通じた間接的な統治を行いました。モンゴルは、政治的忠誠と軍事的服従を条件に納税と軍役を行うことを求める一方で、地方諸侯の領土を保証する「本領安堵」を行いました。
このようなモンゴルの支配下でも、東西交易はモンゴル帝国の出現により栄え、その恩恵はルーシの地にも及びました。また、モンゴル人は宗教に対して非常に寛容であり、その宗教的多様性を許容しました。これにより、ルーシの人々も多様な信仰を保持しつつ生活することが可能となりました。
モスクワ公国の台頭
キエフ・ルーシの北東辺境に位置していた小国、モスクワ公国が、13世紀にモンゴル帝国の支配下にある中で次第に台頭してきました。ロマノフ王朝の前身であるモスクワ公国は、モンゴルの庇護を受けながら、ルーシの最高地位であるウラジーミル大公の地位を独占していきました。
1326年には、全ルーシ最高の聖職者であるキエフ府主教をモスクワに迎え入れ、精神的にもキエフに代わるルーシの中心となりました。モスクワ公国が次第に勢力を拡大していく一つの要因として、モンゴルのハーンに収める税金の納入を引き受けたことが挙げられます。一説によれば、この時期がロシアの歴史上最も税負担が軽い時代だったとも言われています。
クリコヴォの戦いとモスクワ大公国の勢力拡大
14世紀後半、キプチャク・ハン国は混乱と分裂の時期に突入し、ロシアへの支配力も弱まりました。この状況に対し、キプチャク・ハン国の実力者ママイは、ロシア支配を強化するために侵攻を計画しました。しかし、1380年にクリコヴォの戦いでモスクワ大公国のドミトリー・ドンスコイを中心とするロシア諸公軍に敗北を喫しました。
この戦いの後、ロシアはモスクワ大公国を中心に発展していくことになります。13世紀にモンゴルの支配を受けて急速に衰えたキエフ大公国から、ロシアが台頭して歴史を動かしていく過程で、東スラブ文化はキエフで生まれ、そしてモスクワで発展していったとも言えます。
「第三のローマ」としてのモスクワの台頭
1453年には歴史的な変動が起きました。なんとビザンツ帝国がオスマン帝国によって滅ぼされたのです。ビザンツ帝国の滅亡がキエフ・ルーシ大公国に及ぼした影響は深いものがありました。
ビザンツ帝国はギリシャ正教の中心地で、「第二のローマ」と称されていたため、モスクワ公国は自らを「第三のローマ」と位置づけ、ビザンツ帝国の後継者であると主張しました。さらに彼らは自身がキリスト教世界の盟主であると強く主張したのです。
「神の代理人」からロシアの統治者へ
モスクワ公国は、「神の代理人」という強圧的な統治者観を持ち、このビジョンは後のロシアの統治者たちに引き継がれました。彼らの観念によれば、モスクワ公国は神によって選ばれ、その神聖な使命は、キリスト教世界の指導者として人々を導くことでした。
これはただの宣言以上のものでした。モスクワ公国はこのビジョンを具現化し、後のロシア帝国の基盤を築きました。
モスクワの台頭からロシア帝国の形成へ
15世紀頃から商業の中心地であったモスクワのモスクワ大公国は力を増していきました。1480年にはイヴァン3世のもとでモンゴル人から自立し、東北ロシアを統一したのです。
イヴァン3世「全ルーシの大公」から「ツァーリ」
イヴァン3世は他の諸侯を抑えて強大な権力を握り、ビザンツ皇帝の後継者としてツァーリの称号を用いました。しかし、これは正式なものではなく、一般的には彼は「全ルーシの大公」と称しました。
「ロシア」という言葉は15世紀の末に初めて文献に現れます。また、ツァーリが正式に皇帝を意味する称号として用いられるのはイヴァン4世からでした。
イヴァン4世は「雷帝」というあだ名で知られています。このあだ名は、彼が生まれた日に雷鳴が鳴ったことから来ています。ロシアでは、歴史的にも現在も、権力構造はピラミッド型になっています。このピラミッドは16世紀にイヴァン雷帝によって作られました。
「雷帝」の治世とロシアの権力構造
イヴァン4世は「雷帝」というあだ名で知られています。このあだ名は、彼が生まれた日に雷鳴が鳴ったことから来ています。ロシアでは、歴史的にも現在も、権力構造はピラミッド型になっています。このピラミッドは16世紀にイヴァン雷帝によって作られました。
ロシア帝国の成立とローマ帝国の後継者
本来、皇帝という言葉はローマ皇帝の流れを汲むビザンツ帝国だけが名乗れます。しかし、モスクワ大公国は、自身をローマ帝国の後継者と位置づけました。そして、16世紀にロシアが東ヨーロッパの大勢力となり、中世ロシア世界で勢力を拡大したモスクワ大公国を引き継ぎ、17世紀初めにロマノフ朝が成立。ロマノフ朝の下で専制君主制が強化され、18世紀にはロシア帝国が成立しました。
ピョートル1世の時代とサンクト・ペテルブルクの創建
17世紀後半、モスクワ大公国の君主となったのがピョートル1世でした。1721年、ピョートルはモスクワ大公国を正式に帝国と宣言します。
ピョートル1世は首都を新都市サンクト・ペテルブルクに遷し、ロシアをヨーロッパの列強と比肩する国家にすべく、急速な西欧化を目指しました。
首都移転の影響と意義
首都のサンクトペテルブルクへの移転は、ロシアの政治の方向性が絶対的に変わったという意味を持つものでした。それより前は、ロシアは少なくとも外交関係よりも国内を重視していましたが、ピョートル大帝になって外交も貿易も発展し始めました。
海への窓口としてのサンクト・ペテルブルク
そのためには海への窓口が必要でした。ピョートル大帝の時代に、ロシア海軍だけではなく、海の輸送が発展し始めました。そのような理由で、首都はモスクワからヨーロッパに一番近い都市サンクトペテルブルクに移されました。以後”西欧に開かれた窓”たるサンクト・ペテルブルグは発展を続けることになります。
「凍港」サンクトペテルブルクの限界
こうしてサンクトペテルブルク港はバルト海最大の港湾になりました。しかし、ここは冬に海面が凍りつく「凍港」であり、ロシアの北西端に位置するため、モスクワ以南へのアクセスは必ずしも良好とはいえませんでした。
不凍港への渇望
ロシアは広大な領土を持つ国でしたが、海洋交易を活発に行うための港、冬でも凍らない不凍港(ふとうこう)がありませんでした。広大な国土面積を有していながら、その大半が高緯度に位置するため、多くの港湾が冬季には凍ってしまうという弱点があったのです。
不凍港獲得の国是
政治的にも経済的にも軍事的にも、「不凍港」の獲得は必須事項でした。これはピョートル1世からエカチェリーナ2世、ニコライ1世、アレクサンドル2世、ニコライ2世など歴代の皇帝に引き継がれていきました。イギリスやスペインなどの当時のヨーロッパの先進国が海洋に進出して貿易などで巨万の富を得ていくさまを目の当たりにしたロシアは、一年中凍らないで使える港を求めました。これが「南下政策」を打ち出し、不凍港獲得を目指した領土拡張策となりました。この政策はロシア・トルコ戦争、クリミア戦争、第一次世界大戦などの一因にもなりました。
クリミア半島の併合
18世紀後半、ロシアの女帝エカテリーナ2世がオスマン帝国を破って、クリミア半島を併合します。このときウクライナ南東部にロシア人が移住し、クリミア半島にはセヴァストーポリ軍港を築いて黒海艦隊を配置しました。この併合は、不凍港獲得への一歩としての重要な意味を持つことになりました。
ウクライナからモスクワにルーシー(ロシア)の中心地が移動
18世紀にロマノフ朝のロシア帝国が成立し、その時点で「ロシア」という国名が正式に用いられるようになりました。元々、「ロシア」はルーシのギリシア語名(Ῥως)から派生(Ῥωσσία)した名前でした。
ウクライナ:失われた名前と新たな名前
ウクライナは東スラブの本家筋でしたが、モンゴルの侵攻などでキエフが衰退したため、スラブの中心と、ルーシ(ロシア)の名前を分家筋のモスクワに取られてしまいました。そのため、キエフの人々は新たな名前「ウクライナ」を作る必要がありました。「ウクライナ」は文字通りに「辺境」を意味します。
キエフ=ルーシ公国はウクライナ人の国というよりロシア発祥の国と捉えられるようになり、ウクライナは「歴史なき民」となりました。これは、その歴史的な変遷と名前の変化が象徴しています。
帝政ロシアにおけるウクライナ語の抑圧
帝政ロシア時代の1863年と1876年には、ウクライナ語の使用が教育や出版、演劇などのあらゆる場面で禁止されました。ウクライナ語は「ロシア語の小ロシア方言」と規定され、公式文書や文学作品は全てロシア語で記述されることが求められました。このような厳格なロシア化政策から、ロシア帝国は「諸民族の牢獄」と呼ばれるようになりました。
2ウクライナ語の解放と認識
しかし、1905年の革命により変化が訪れ、ロシア帝国アカデミー言語部会はウクライナ語が独立言語であると認識しました。そして1917年の革命により、ウクライナ語は「諸民族語の牢獄」から解放されました。これによりウクライナ人は、その共和国内での行政的・文化的自治権を獲得しました。1927年にはウクライナ語の正字法が確定し、その地位はさらに強化されました。
「歴史なき民」の誤解…ウクライナの歴史
ウクライナ人はしばしば「歴史なき民」と形容されてきた。しかし、この表現は完全に正確ではない。ウクライナの土地と人々は、中世からさまざまな国家と文化の影響を受け取ってきた。
ポーランド・リトアニアとの関係
14世紀にはウクライナの大部分はリトアニア大公国の領土で、一部はポーランドの支配下にあった。そして1569年、リトアニア大公国とポーランドが合併して単一のポーランド王国を形成し、ウクライナはその一部となりました。
ウクライナが地図に初登場
「ウクライナ」が地名として初めて地図に登場したのは、1640年頃のことでした。この時点ではウクライナはポーランド・リトアニア共和国の一部でした。ある古地図ではウクライナは「果てしなく広がる何もない平原(一般に「ウクライナ」と呼ばれる)」と記されていました。
「歴史なき民」から東欧最後の大国へ…コサックの誕生
ウクライナはかつて「歴史なき民」と不名誉に呼ばれたこともありましたが、15世紀から16世紀にかけてポーランドの支配からの抵抗の産物として、農奴を中心とした集団「コサック」がウクライナ南部に生まれました。コサックは次第に力を増し、彼らが住む町がいくつも生まれ、これらの町を統治するリーダー、ヘーチマンが現れました。ヘーチマンは貴族であり、王の任命によってその地位につきました。
自由と独立を求めて
自由と独立を求めるコサックの中には、ドニエプル川下流に要塞「シーチ」を建設した者たちもいました。これは「早瀬の向こう」という意味の地名「ザポロージュ」と組み合わせて「ザポロージュ・シーチ」と呼ばれ、ここに住むコサックを「ザポロージュ・コサック」と呼ぶようになりました。彼らは後にウクライナのコサックの中心地となります。
ヘトマン国家の誕生
17世紀半ば、各地で遊牧民に対抗するため武装していたコサックたちは次第に力をつけ、「ヘトマン国家」という連合国家を築き上げました。その中で、ウクライナ・コサック団の首領であったボフダン・フメリニツキーは、当時ウクライナを支配していたポーランドと戦うために、北方の新興国モスクワ・ロシアと軍事同盟を結びました。
「ペレヤスラフ協定」永遠の結合か支配の始まり?
その同盟、ペレヤスラフ協定は、ウクライナとロシアの「永遠の結合」、「諸民族の友好」の原点として、帝政ロシアとソ連時代を通じて長く称えられてきました。しかし、反対の立場から見れば、この協定はロシアによるウクライナ支配の第一歩として、常に歴史論争の的となってきました。1654年のペレヤスラフ協定により、ヘティマンシチーナとザポリッジャはモスクワの保護下に置かれ、ツァーリへの忠誠を誓うこととなりました。
ペレヤスラフ協定への混ざった反応
ポーランドに対抗するためにロシアの援助を期待したコザークや都市住民は協定を喜んで宣誓しましたが、一方で、キーイフの高位正教聖職者やザポリッジャ・コザークは宣誓を拒否しました。反協定の抗議行動を起こすコザーク連隊があり、またコザークに宣誓を強要された都市住民たちも存在しました。この協定へのウクライナ側の反応は、その時点ですでに多様でした。
東スラブのツァーリへの忠誠誓約
最終的に、1654年に現在のウクライナの地を治めていたコサックの首領は、当時東スラブのモスクワ大公国のツァーリが「再統合」を進めていたロシアの国々に忠誠を誓うこととなりました。
イヴァン・マゼッパとポルタヴァの戦い
当時、ウクライナ西部はポーランド・リトアニア共和国に、東部はコサックによって支配されていました。そして、最も有力なコサックの指導者がイヴァン・マゼッパでした。しかし、1708年にスウェーデン軍がウクライナに侵入すると、ロシアのピョートル1世はマゼッパに対抗するよう命じました。マゼッパは、スウェーデンの勝利を予想して、スウェーデン王カール12世と同盟を結び、ロシアに対抗しました。しかし、多くのコサックはマゼッパに反発し、モスクワの側につきました。マゼッパが頼りにしていたザポロージュ・コサックの大部分も、最終的にはモスクワ側につきました。
1709年のポルタヴァの戦いでは、スウェーデン・マゼッパ連合軍とモスクワ軍が激突しましたが、これはモスクワ軍の圧勝に終わりました。スウェーデン・マゼッパ連合軍は大きな損害を受け、この戦いはウクライナがロシアから独立を試みた最後の試みとなりました。
ロシアによるウクライナ統一とクリミア併合
18世紀後半には、エカテリーナ二世によってウクライナは完全にロシアの一部とされ、ウクライナ・コサック社会は消滅しました。その後、ロシアは1783年にクリミア汗国を廃止し、クリミアを併合しました。しかし、この地域は1853年からクリミア戦争の主戦場となりました。クリミア戦争は、ロシア帝国とオスマン帝国を主体とする連合軍(イギリス、フランス、サルディニア王国)との間で行われました。この戦争は主に黒海周辺で行われ、クリミア半島での激戦が特に知られています。
現代ウクライナの対ロシア感情
マゼッパはロシアと戦ったことで、現代ウクライナでは英雄視されています。彼の志向した独立と自由は、現代ウクライナの対ロシア感情やウクライナのアイデンティティを形成する大きな要素となっています。
ナポレオンのロシア侵攻と独立の火種
1812年、フランス皇帝ナポレオンがロシア帝国への侵攻を開始しました。この事件は、ナポレオン戦争の重要な転換点となりました。フランス軍は連続した勝利を納め、9月にはモスクワに入城しました。
しかし、ロシアのクトゥーゾフ将軍が採用した焦土戦術の結果、モスクワ市内は食料や物資が焼き払われてしまい、フランス軍は補給に苦しむこととなりました。更に、10月には厳しい寒波がフランス軍を襲い、ナポレオンはモスクワからの撤退を余儀なくされました。
フランス軍がモスクワから撤退した後、ロシア軍の騎兵隊が市内に入ったところ、衝撃的な光景が広がっていました。破壊された建物、焼け付く大地、そして死者の多さに彼らは深い衝撃を受けました。
ロシアの国家的プライド
ロシアの国家的プライドとして語り継がれるこの出来事は、ロシアが外敵からの侵攻に立ち向かい、その困難を乗り越えた象徴とされています。特に、ロシアの現代政治において、ロシアのプーチン大統領はこの歴史的な勝利を「ロシアの勝利」とし、多くのプロパガンダとして利用してきました。このロシアによるナポレオン軍撃退と、第二次世界大戦の独ソ戦での勝利は、ロシアの国家的プライドの柱となっているのです。
民族独立運動の始まり
ロシアへのナポレオンの侵攻は、彼の敗走によって結局幕を閉じることになるが、この過程でヨーロッパに民族独立の火がつけられました。それは、国民国家形成の動きを後押しする結果となり、ギリシャは英仏の支援を受けて独立に成功します。これが他国の民族独立運動の火花となり、ポーランド独立運動の高まりや若者たちの独立運動(青年ドイツ、青年イタリアなど)を引き起こしました。
独立運動とクリミア戦争
独立運動は、絶対王政による支配に対する抵抗運動として、社会主義者や共産主義者も巻き込む形で展開されました。そして、その中で1853年から1856年まで続いたイギリス・フランスとロシアとの間のクリミア戦争が発生し、ウクライナの民族独立運動が生まれました。この頃には、ウクライナ民族の存在と、ウクライナが独立国であるべきだという主張が誕生していました。
「小ロシア人」ウクライナの立場とロシア革命
19世紀、ロシア帝国は「小ロシア人」としての地位を受け入れるウクライナ人に対しては平等に扱う一方で、独自性を主張するウクライナ人に対しては弾圧を行っていました。しかし、この独自性の主張は1917年のロシア革命期に大きなうねりとなり、短期間ですがウクライナの独立国が形成されました。
【ウクライナ危機(1)】戦火に巻き込まれ……超大国の支配を受けながらも戦い続ける『地獄のソ連時代』