【ウクライナ危機(0)】伝説の三兄弟から始まった!?東欧最後の大国ウクライナ!!『キエフ・ルーシ大公国』

【ウクライナ危機(0)】伝説の三兄弟から始まった!?東欧最後の大国ウクライナ!!『キエフ・ルーシ大公国』

Ukrine

ウクライナの歴史

TAPP Channel/YouTube

ウクライナは、旧ソ連構成国の中でロシアに次ぐ2番目に大きな人口、4159万人(※2021年の統計)を抱えます。国土は日本の約1.6倍の面積があります。

ウクライナってどんな国? 実は世界が注目する“IT大国”/日テレNews.2022

ウクライナ文化のルーツは非常に長い歴史を有しています。紀元前6000~3000年頃には、トリュピリア文明が存在していました。

ウクライナ/EXPO 2005 AICHI,JAPAN – 愛・地球博

国民の7割は公用語のウクライナ語を話すが、ロシア語も広く使われている。ロシア系住民が多数を占める東部や南部クリミア半島などでは、ロシア語が第一言語というケースが多い。

地図で見るウクライナ/CNN.co.jp
ウクライナはさまざまな国の支配を受ける

 ウクライナはその地理的位置により、ロシア・ポーランド・リトアニア・オーストリアなどの支配を受けてきたが、第1次大戦直前は、大部分がロシア、残りの小部分がオーストリア・ハンガリーの支配下にあった。

西ウクライナ/ソビエト連邦カメラ

旧ソ時代は第三の大都市!ウクライナの首都「キエフ」

 ウクライナの首都として260万の人口抱える大都市キエフ。1500年以上の歴史をもつ、東ヨーロッパでも指折りの古い都市です。東スラブの政治、経済の中心として、またギリシャ正教の一大中心地として9世紀から12世紀ごろに発展を遂げました。東スラブ人の心の故郷とされ、「ルーシ(東スラブ)の母なる街」と呼ばれ親しまれています。

キエフ/ ウクライナ – 世界ふれあい街歩き/NHK.2011

首都キエフは、ソ連時代、モスクワ、ペテルブルグに続く第3の都市でした。

“音楽大国”ウクライナ情報!〜ウクライナとはこんな国/光藍社.2010
実は「キエフ」はロシア語読み、正式名称はウクライナ語読みの「キーウ」

実は「キエフ」はロシア語読み、「キーウ」はウクライナ語読みです。1991年、ウクライナがソ連から独立すると、ウクライナ語読みである「キーウ」を正式な名称としました。しかし、世界では慣れ親しんできたロシア語読みの「キエフ」が使われてきました。

「オランダ」は正式な国名じゃない?気をつけたいヨーロッパの国名と首都名/TABIPPO.NET.2014

流れが変わったのはロシアがクリミア半島を不法占領したあたりから。ヨーロッパの空港では次々に「Kiev」から「Kviv」に変わり、案内放送も綴りに合わせたものになっています。

「オランダ」は正式な国名じゃない?気をつけたいヨーロッパの国名と首都名/TABIPPO.NET.2014

ロシアとウクライナは同じ東スラブ民族!

ウクライナ人は民族的にロシア人と同じ東スラブ民族に属します。

ウクライナ/EXPO 2005 AICHI,JAPAN – 愛・地球博
切っても切れない両国の歴史

 ウクライナの歴史は、東に隣接する大国ロシアの歴史と密接に絡み合っている。

【解説】ロシアとの因縁からボルシチまで ウクライナとはどんな国?/AFPBB News.2022

 両国の起源は、中世のキエフ公国にさかのぼる。公国はかつて、黒海(Black Sea)からバルト海(Baltic Sea)まで広がっていた。

【解説】ロシアとの因縁からボルシチまで ウクライナとはどんな国?/AFPBB News.2022

 ロシアは帝政、ソ連時代を通じてウクライナを支配してきた。同じスラブ系民族でロシアを兄、ウクライナを弟とする「兄弟国家」と呼ばれ、歴史的、文化的な結びつきは今も深い。

解説「ウクライナ侵攻」…衝突の背景は/読売新聞オンライン.2022

首都キエフの始まりと伝説の3兄弟

「ロシア諸都市の母」という別名を持つウクライナの首都キエフは、その名の通り東スラヴにおいて最も古い都市の一つであり、その名はロシア最古の年代記「ロシア原初年代記」(1113年)に現れています。その中でキエフは482年にキー、シチェク、ホリフという3兄弟により建設され、「(長男である)キーの町」という意味からキエフという名が付けられたと伝えられています。

キ エ フ 案 内(p.7)/在ウクライナ日本国大使館

“キエフ・ルーシー”のルーツはヴァイキング!

 ヨーロッパの8~11世紀は、「ヴァイキングの時代」として知られる。ヴァイキングは、ノルマン(北の人)とも呼ばれる。

「ロシア最初の君主」リューリクは実在の人物か神話か?/ロシア・ビヨンド.2021
東スラヴ人は部族間の紛争調停に、ヴァイキングの一派“ルーシー族”を頼った

その中で、スウェーデン地方に現住するノルマン人をスウェード人と呼ぶが、彼らは、9世紀ごろからスラヴ人やフィン人と交易、さらには略奪・抗争を行うようになっていった。伝承によると、862年、東スラヴ人は、部族同士の抗争に苦しみ、スウェード人の一派であるルーシ族(ルス族)のもとに使者を送り、東スラヴ人の支配者を求めた。

リューリク朝の興亡/世界史の目

 『原初年代記』によると、スラヴ人がヴァリャーグたちに送ったメッセージは次の通りだった。

「ロシア最初の君主」リューリクは実在の人物か神話か?/ロシア・ビヨンド.2021

 「我らの国は大きく豊かだが秩序がない。我らのところへ来て、支配してほしい」

「ロシア最初の君主」リューリクは実在の人物か神話か?/ロシア・ビヨンド.2021
“ルーシー族”の長が紛争を調停「ノヴゴロド国を建国」

ルーシの族長リューリク(?-879)は、兄弟でノルマン人を率いて海を渡り、現在のサンクトペテルブルク南方のイリメン湖畔にあるノヴゴロドで、ロシア最古の商業都市国家・ノヴゴロド国を建国し(862)、混乱をおさめたとされている。

リューリク朝の興亡/世界史の目

“ルーシー族”が“キエフ”を占領!「キエフ・ルーシー公国」が誕生!

Kings and Generals/YouTube

その一族のオレーグは、ビザンツ帝国との交易の利益などを目指して南下し、882年、ドニェプル川中流のキエフを占領、都をノヴゴロドから移した。オレーグはさらに南下してビザンツ帝国を脅かした。これが実質的なキエフ公国(キエフ=ルーシ)の成立であるが、オレーグの死後、912年、リューリクの子のイーゴリが大公として治めることになり、正式に公国となった。その過程でルーシは東スラヴ人に同化していった。またこの間のことをロシア史では「キエフ=ルーシ」といっている。ロシアといってもほぼ現在のウクライナにあたる。

キエフ公国/キエフ=ルーシ/世界史の窓

またルーシとは、”船の漕ぎ手”の意味を持つとされ、スラヴ地域に入ったノルマン人をスラヴ人が呼んだ名で、リューリクが招かれて支配した土地も同様に”ルーシ”と呼ばれ、この言葉が語源となって現在の”ロシア”になったとも言われている。

リューリク朝の興亡/世界史の目

「ギリシャ正教を国教にしよう」キリスト教文化圏の一大中心地に!!

時を経て988年、ギリシャ正教を国教として、キエフをキリスト教文化圏の一大中心地へのし上げたのはウラジーミル聖公。

キエフ大公国の盛衰を見つめて/Railway Story.WOWOW

10世紀終わりのウラジーミル聖公の時代に最盛期を迎え、東ローマ帝国の皇帝の妹を妃に迎えるとともにキリスト教を国教として導入しました。

語られないロシアの歴史とアメリカとの深い関係/キヤノングローバル戦略研究所.2020
様々な要因によって弱体化していくと、人々はモスクワなどに移住していった

 ウラジーミル聖公の死後、親族間の争いで公国は弱体化し、これに十字軍遠征とそれに伴う地中海貿易の活発化によるドニエプル川経由交易の衰退が追い打ちをかけ、キエフは衰退し、人々はノブゴロドやモスクワに移住していきました。

語られないロシアの歴史とアメリカとの深い関係/キヤノングローバル戦略研究所.2020
ロシア正教のルーツはキエフ・ルーシーの正教会
Detail of the domes - St. Michael's Golden-Domed Monastery

ロシア正教は、キエフ大公国の正教会から派生したといわれる。つまり、宗教上の祖先はキエフなのだ。その点は、ベラルーシと大きく違う。ベラルーシはいま可愛がっているポチで、ウクライナはご先祖さまなのだ。

ロシアは、ウクライナに軍事侵攻する?しない?/ビジネス・ブレークスルー大学大学院.2022

キエフ・ルーシ公国の後身がウクライナだとウクライナ人は言い、いやロシアだとロシア人は言う。いずれにせよ、キエフを中心に相当大きな国が9世紀後半に存在していたことは確かである。

「ウクライナのNATO入りは絶対に認められない」プーチンがそう考える地政学上の理由/PRESIDENT Online.2022
ルーツを辿るとロシアとウクライナは同じ民族でヨーロッパの一員

 ロシアとウクライナは、もともと「ルーシ」という同じ民族でした。ギリシアのキリスト教(ギリシア正教)を受け入れ、文化的にはヨーロッパの一員なのです。

“ウクライナ問題はなぜ終わらないのか”「ロシアVSアメリカ・EU」の歴史的背景とは?/ダイヤモンド・オンライン.2014

<タタールのくびき>モンゴル襲来によりキエフ・ルーシ公国が滅亡

Kings and Generals/YouTube

キエフ公国は10世紀にキリスト教を国教として栄えたが、モンゴルの襲来で13世紀に滅んだ。

プーチン氏の本音反映か ウクライナめぐり一方的歴史観―国営通信社が誤配信の論説/JIJI.COM.2022
モンゴル帝国の支配下「タタールのくびき」

キエフ陥落後はモンゴル帝国の中のキプチャク・ハン国によって支配される時代が続きました。

「キエフの戦い」と「ルーシー侵攻」モンゴルがキエフ大公国へ攻め込んだ/BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン).2019

支配された側からの通称は「タタールのくびき」。

「キエフの戦い」と「ルーシー侵攻」モンゴルがキエフ大公国へ攻め込んだ/BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン).2019

13世紀にモンゴル族の侵入を受けたヨーロッパ人は彼らを悪魔 (タルタル) と称し,モンゴルとその支配下のチュルク系民族をタルタル,タタールと呼び,以来今日でも旧ソ連邦のヨーロッパ・ロシア,カフカス,シベリアのチュルク系住民はタタール人と総称されている。

タタールとは/コトバンク

くびきとは「束縛するもの」という意味で、元は牛や馬に車を引かせるときに使うものです。文字通り馬車馬の如く働かされたもしくは束縛されていたということでしょう。

「キエフの戦い」と「ルーシー侵攻」モンゴルがキエフ大公国へ攻め込んだ/BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン).2019
比較的自由!?モンゴル帝国の支配下

しかしながら、征服後のモンゴルは人口も少なかったことからルーシの諸侯を使った間接統治を行い、納税と軍役さえ行えば、政治的忠誠と軍事的方向を条件として「本領安堵」をしました。そして東西交易はモンゴルという大帝国の出現により栄え、その恩恵はルーシの地にも及びました。またモンゴル人は宗教にも極めて寛容でした。

語られないロシアの歴史とアメリカとの深い関係/キヤノングローバル戦略研究所.2020

ルーシーにとって辺境の小国!モスクワ公国の台頭

それと入れ替わるように台頭してきたのが、キエフ・ルーシの北東辺境に位置する小国にすぎなかった、モスクワ公国だった。

歴史と宗教観 背景に…早稲田大学教授 三浦清美氏[視点 ウクライナ危機/読売新聞オンライン.2022

後のロマノフ王朝はモンゴルの庇護下でルーシの最高の地位とされたウラジーミル大公の地位を独占してゆき、最終的にはモスクワ大公と呼ばれるようになります。1326年には全ルーシ最高の聖職者であるキエフ府主教をモスクワに迎え、精神的にもキエフに代わってルーシの中心になって行った。彼らが次第に勢力を拡大していく一つの遠因がモンゴルのハーンに収める税金の納入を引き受けたからであり、一説によれば実はこの時代がロシアの歴史上もっとも税負担が低い時代だったと言われています。

語られないロシアの歴史とアメリカとの深い関係/キヤノングローバル戦略研究所.2020

14世紀後半になると、キプチャク・ハン国は混乱と分裂の時代にはいり、ロシアへの支配も弱まります。そのため1380年、「これではまずい」と、キプチャク・ハン国の実力者ママイはロシア支配を強化するために侵攻します。しかし逆に、成長著しいモスクワ大公国のドミトリー・ドンスコイ(位1359~89年)を中心とするロシア諸公軍にクリコヴォ平原で敗北。以後、ロシアはモスクワ大公国を中心に発展します。

2回 モンゴルによる征服とモスクワ大公国/裏辺研究所
モスクワが台頭するも東スラブのルーツはやはりキエフ!?

13世紀にモンゴルの支配を受けて急速に衰え、その後、キエフ大公国の中からロシアが勢いを増して歴史を動かしていくのだが、東スラブ文化はキエフで生まれたと考える人が多いという。

東スラブの源を訪ねる~ウクライナ、キエフ大公国の誇り/JIJI.COM
第二のローマ(ビザンツ帝国)滅亡!!モスクワがローマの後継国を主張

さらに1453年、ギリシャ正教の中心地で「第二のローマ」と呼ばれたコンスタンティノープルを有するビザンツ帝国が、オスマン帝国に滅ぼされると、モスクワこそが「第三のローマ」であり、キリスト教世界の盟主だと主張するようになる。「神の代理人」であるという強圧的な統治者観は、後のロシアへと引き継がれていく。

歴史と宗教観 背景に…早稲田大学教授 三浦清美氏[視点 ウクライナ危機/読売新聞オンライン.2022

モンゴルから自立したモスクワの「イヴァン3世」が東北ロシアを統一「皇帝の称号“ツァーリー”」

(前略)15世紀頃から商業の中心地モスクワのモスクワ大公国が強力となり、1480年イヴァン3世の下でモンゴル人から自立し、東北ロシアを統一した。彼は他の諸侯を抑えて強大な権力を握り、ビザンツ皇帝の後継者としてツァーリの称号を用いた。

中世のキエフ公国とモスクワ公国がロシアの起源/豊島逸夫の手帖 – 三菱マテリアル.2022
正式にツァーリーの称号が認められているのは「イヴァン4世」から!

ただし、それは正式なものではなく、一般的には彼は「全ルーシの大公(または主)」と称した。なお、「ロシア」という言葉は15世紀の末に初めて文献に現れる。またツァーリが正式に皇帝を意味する称号として用いられるのはイヴァン4世からである。

イヴァン3世/世界史の窓
イヴァン4世は雷帝と呼ばれ恐れられた

ちなみにイヴァン4世のあだ名が雷帝と呼ばれているのは、生まれた日に雷鳴が轟いたことから。また他には、雷のごとく突然怒り恐怖政治を行ったことからとも言われています。

グロズヌイとして恐れられた「イヴァン4世(イヴァン雷帝)」の生涯を歴女が5分で解説!/Study-Z ドラゴン桜と学ぶ学習サイト

ロシアでは、歴史的にも現在も、権力構造はピラミッド型になっている。このピラミッドは16世紀にイヴァン雷帝によって作られた。

「ソ連こそ人間の希望」ロシア作家ソローキンが解き明かした”プーチンの頭の中”/PRESIDENT Online.2022
ローマ帝国の後継国を名乗る

皇帝という言葉は、本来ローマ皇帝の流れをくむビザンツ帝国しか名乗れません(例外として、ドイツの神聖ローマ帝国はローマ教皇からローマ帝国の流れを受け継いだ)。つまり、モスクワ大公国(&ロシア正教会)は、ローマ帝国の後継を自認するのです。

2回 モンゴルによる征服とモスクワ大公国/裏辺研究所

国内では勅令で全国の農民の移動の自由を奪い、農奴化を進めるなど専制君主の地位を固めた。こうして16世紀にはロシアが東ヨーロッパの大勢力となったのだ。

中世のキエフ公国とモスクワ公国がロシアの起源/豊島逸夫の手帖 – 三菱マテリアル.2022
モスクワはその後にロマノフ朝の時代を経て“ロシア帝国”に繋がっていく

中世ロシア世界で勢力を拡大したモスクワ大公国を引き継いで、ロシアでは17世紀初めにロマノフ朝が成立した。ロマノフ朝の下で専制君主制が強化され、18世紀にはロシア帝国が成立した。

第23回 ロシア帝国/世界史.NHK高校講座 |

ロシア帝国の誕生

17世紀後半、モスクワ大公国の君主となったのがピョートル1世です。

第23回 ロシア帝国/世界史 |NHK高校講座

1721年、ピョートルはモスクワ大公国を正式に帝国と宣言します。

第23回 ロシア帝国/世界史 |NHK高校講座
首都がモスクワからサンクトペテルブルクに移転!それは外交と貿易のため

ピョートル1世は首都を新都市サンクト・ペテルブルクに遷し、ロシアをヨーロッパの列強と比肩する国家にすべく、急速な西欧化を目指します。

ロシア① サンクト・ペテルブルク~ピョートル大帝の拓いた街/旅の記憶.イシマル

首都のサンクトペテルブルクへの移転は、ロシアの政治の方向性が絶対的に変わったという意味を持つものでした。それより前は、ロシアは少なくとも外交関係よりも国内を重視していましたが、ピョートル大帝になって外交も貿易も発展し始めました。そのためには海への窓口が必要でした。ピョートル大帝の時代に、ロシア海軍だけではなく、海の輸送が発展し始めました。そのような理由で、首都はモスクワからヨーロッパに一番近い都市サンクトペテルブルクに移されました。

ロシアにおける首都移転の歴史的経緯について/ヤーセネフ・セルゲイ報道担当参事官へのインタビュー(平成21年12月15日).国土交通省

(前略)以後”西欧に開かれた窓”たるサンクト・ペテルブルグは発展を続けることとなる。

サンクトペテルブルグ(旧レニングラード)旅行ガイド/地球の歩き方
でもサンクトペテルブルクの港は冬になると凍ってしまう「凍港」だった

バルト海最大の港湾であるサンクトペテルブルク港は「凍港」であり、ロシアの北西端に位置するため、モスクワ以南へのアクセスは必ずしも良好とはいえない。

ロシア・CIS向け供給拠点として注目(バルト3国)/ジェトロ(日本貿易振興機構)
ロシア繁栄のためには不凍港(凍らない港)がどうしても欲しかった

このときロシアはすでに広大な領土を持つ国でしたが、海洋交易を活発に行うための港、冬でも凍らない不凍港(ふとうこう)がありませんでした。

第23回 ロシア帝国/世界史 |NHK高校講座

しかしロシアは、広大な国土面積を有していながら、その大半が高緯度に位置するため、多くの港湾が冬季には凍ってしまうという弱点があったのです。政治的にも経済的にも軍事的にも、「不凍港」の獲得は必須事項でした。ピョートル1世が退位した後も、エカチェリーナ2世やニコライ1世、アレクサンドル2世、ニコライ2世など歴代の皇帝に引き継がれていきます。

5分でわかる南下政策!ロシアの目的、影響、日英同盟などをわかりやすく解説/ホンシェルジュ.エンタメウィーク.2021
凍らない港を求めたロシアは凍らない港を求め戦い続ける「南下政策」

イギリスやスペインなどの当時のヨーロッパの先進国が海洋に進出して貿易などで巨万の富を得ていくさまを目の当たりにしたロシアは、一年中凍らないで使える港を求めました。以降、不凍港獲得を目指した領土拡張策「南下政策」はロシアの国是になり、ロシア・トルコ戦争、クリミア戦争、第一次世界大戦などの一因にもなりました。

「ロシア対ウクライナ」地政学から見た紛争の裏側/東洋経済ONLINE.2020
オスマン帝国に勝利してクリミアを併合「クリミア半島に黒海艦隊を配置」

18世紀後半、ロシアの女帝エカテリーナ2世がオスマン帝国を破って、クリミア半島を併合します。このときウクライナ南東部にロシア人が移住し、クリミア半島にはセヴァストーポリ軍港を築いて黒海艦隊を配置しました。

ロシアのウクライナ侵攻の結果が「中国と台湾の今後」を左右する/Web Voice.2022

ウクライナからモスクワにルーシー(ロシア)の中心地が移動

ロシアという国名が正式に用いられたのは、18世紀ロマノフ朝のロシア帝国が成立してからである。

ロシア/東京都立図書館

ウクライナは東スラブの本家筋だったのだが、モンゴルの侵攻などでキエフが衰退したのに対し、いわば分家筋のモスクワが台頭し、スラブの中心と、ルーシ(ロシア)の名前をそちらに取られてしまった。

ウクライナ/世界史の窓
ギリシャ語でルーシーはロシア

(前略)「ロシア」という国名は、ルーシのギリシア語名(Ῥως)から派生(Ῥωσσία)している。ルーシの人々、すなわち「ルーシ人」はラテン語で「ルテニア人」とも呼ばれる

ウクライナ、どのような国か?知っておきたい歴史・経済・基本データ/The HEADLINE.2022
キエフ(ウクライナ)に住む人たちは「国がない民族」として歴史を歩み始める

そのためキエフの人たちはウクライナという新しい名前を作らなければならなかった。

ウクライナ/世界史の窓

「ウクライナ」の文字通りの意味は「辺境」だ。

【解説】ロシアとの因縁からボルシチまで ウクライナとはどんな国?/AFPBB News.2022

キエフ=ルーシ公国はウクライナ人の国というよりロシア発祥の国と捉えられるようになり、ウクライナの歴史は「国がない」民族の歴史となった。

ウクライナ/世界史の窓
さらにウクライナ語が禁止され、ロシア語に直される

帝政ロシアでは、1863年のヴァルーエフ指令でウクライナ語の学校における使用が禁止され、1876年のエムス法によりウクライナ語による印刷・刊行・上演など一切が禁止された。ウクライナ語は「ロシア語の小ロシア方言」と規定され、公式文書や「純粋な」文学作品などはすべてロシア語で記述されていた。

ウクライナにおけるナショナリズムの暴走(p.51)/森 彰夫.東北公益文科大学総合研究論集.第26号
“諸民族の牢獄”と言われたロシア化政策は「1917年ソ連誕生」で解放される

このような19世紀末の厳しいロシア化政策から、ロシア帝国は「諸民族の牢獄」とも呼ばれてきた。

ウクライナにおける「リードナ・モーヴァ」概念とその解釈(p.19)/〆木, 裕子.27064_論文 – 大阪大学リポジトリ

1905年革命の過程で、ロシア帝国アカデミー言語部会は、ウクライナ語は独立言語であることを決議した。1917年革命で「諸民族語の牢獄」は解放され、ウクライナ人は他の諸民族と同様にその共和国内で一定の行政的・文化的自治を獲得した。1927年には正字法が決定された。

ウクライナにおけるナショナリズムの暴走(p.51)/森 彰夫.東北公益文科大学総合研究論集.第26号

「歴史なき民」モスクワが繁栄していく歴史の裏でウクライナは様々な国の支配された……。

ウクライナ人はしばしば「歴史なき民」と形容されてきた。

『ウクライナ史概略-近代ウクライナ民族の形成-』(1)/北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター

14世紀にはウクライナの大部分はリトアニア大公国、一部はポーランドの支配下に入り、1569年、両国が合併し、単一のポーランド王国を作るとウクライナは同国の領土となりました。

キ エ フ 案 内(p.8)/在ウクライナ日本国大使館
ウクライナという名前が地図に登場

「ウクライナ」が初めて地図に登場したのは、1640年頃、ポーランド・リトアニア共和国の一部だったときだ。ある地図では「果てしなく広がる何もない平原(一般に「ウクライナ」と呼ばれる)」と記されていた。

「ウクライナと露」エネルギーから見る危機の歴史/東洋経済ONLINE.2022

ウクライナ南部では武装集団コサックが出現!独立運動を開始

「歴史なき民」などと不名誉な呼び方をされることもあるが、15~16世紀にはポーランドの支配に抵抗し、農奴を中心とした集団「コサック」がウクライナ南部に生まれた。

歴史と宗教観 背景に…早稲田大学教授 三浦清美氏[視点 ウクライナ危機/読売新聞オンライン.2022
コサックの主要な街「ヘーチマン」「サポロージュ」

コサックは次第に強大化し、コサックが住む町がいくつもできていきました。町に住むコサックを率いるリーダーは「ヘーチマン」と呼ばれ、王に任命された貴族が務めました。

ウクライナのコサック軍事国家「ヘーチマン国家」の興亡/歴ログ -世界史専門ブログ-.2018

一部の者はより大きな自由を求めてドニエプル川下流に「シーチ」と呼ばれる要塞を作りました。これは「早瀬の向こう」という意味の地名「ザポロージュ」と組み合わせて「ザポロージュ・シーチ」と呼ばれ、ここに住むコサックを「ザポロージュ・コサック」と呼ぶようになりました。後にこのザポロージュ・コサックはウクライナのコサックの中心地となります。

ウクライナのコサック軍事国家「ヘーチマン国家」の興亡/歴ログ -世界史専門ブログ-.2018
「ヘトマン国家 誕生」

遊牧民に対抗するため武装した各地のコサックが次第に力を持ち、17世紀半ばには連合国家である「ヘトマン国家」が誕生した。こうした自由と独立を求め続けた歴史は、今回のロシアへの徹底抗戦ともつながっているようにも見える。

歴史と宗教観 背景に…早稲田大学教授 三浦清美氏[視点 ウクライナ危機/読売新聞オンライン.2022
ポーランドを倒すために!モスクワ(ロシア)と軍事同盟を集結「ペレヤスラフ協定」

17世紀半ば、ウクライナ・コサック団の首領ボフダン・フメリニツキーは、当時ウクライナを支配していたポーランドと戦うために、北方の新興国モスクワ・ロシアと軍事同盟を結んだ。このペレヤスラフ協定は、ウクライナとロシアの「永遠の結合」、「諸民族の友好」の原点として帝政ロシアとソ連時代を通じて長く称えられてきた。ただし正反対の立場に立てば、ペレヤスラフ協定はロシアによるウクライナ支配の第一歩として、常に歴史論争の的となってきた。

ヨーロッパの「一員」か「隣人」か~ウクライナ・アイデンティティの歴史的変遷~(p.9)/光吉 淑江.北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター
ロシアの皇帝(ツァーリ)に忠誠を誓うことに!主要都市「ヘーチマン」「サポロージュ」はモスクワの保護下

1654年のペレヤスラフにおける協定によって、ヘティマンシチーナとザポリッジャはモスクワの保護下に入り、ツァーリへの忠誠を誓うこととなる。ポーランドに対抗するためにロシアの援助を期待したコザークや都市住民は喜んで宣誓したが、キーイフの高位正教聖職者やザポリッジャ・コザークは宣誓を拒否した。抗議行動を起こしたコザーク連隊があり、またコザークに宣誓を強要された都市住民たちもいた。この協定に対するウクライナ側の反応は、すでに多様だったのである。

帝政ロシアにおけるノヴォロシア・ベッサラビアの成立 : 併合から総督府の設置まで(p.246)/志田, 恭子.スラヴ研究, 49, 245-268.2002

(前略)1654年、現在のウクライナの地を治めていたコサックの首領が、当時ロシアの国々を「再統合」していた東スラブのモスクワ大公国のツァーリに忠誠を誓った。

「ウクライナと露」エネルギーから見る危機の歴史/東洋経済ONLINE.2022
その後に東はロシア・西はポーランドにウクライナが分割統治

 「ペレヤスラフ」協定合意の3年後、1657年、対立していたモスクワ公国とポーランドの両国は、ドニエプル川を境とする影響圏の相互承認に合意し、東はロシアの支配下に、西はポーランド支配下に入る。ロシアとポーランドによる、ウクライナ領域の東西分割の決定で、これが事実上、現在にいたるウクライナの東西対立の始まりでもある。

ウクライナ危機の背景と行方を、今一度、考える/一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ広場」
スウェーデン軍 vs ロシア軍!!この戦いにコサックが動員され深刻な死者を出す

18世紀初頭、ウクライナのコサックはロシアのピョートル大帝の「大北方戦争」(1700~21)に動員された。コサックの死傷率は50%から70%にも上った。

バビ・ヤール、ウクライナの酷い地理と歴史/朝日新聞出版 最新刊行物

戦ったのはカール十二世の卒いるスウェーデン軍とピョートル大帝のロシア軍です。この前年、ピョートル大帝は当時ヨーロッパ最強の軍事大国だったスウェーデンと戦い、リヴォーニア(現在のラトヴィアとエストニア)を奪いました。カール十二世はこれに腹を立ててモスクワ攻略を企てましたが気候の厳しさや地形を考えて迂回しウクライナからモスクワを目指すことにしました。

第79回ロシア語サロン 2010.9.26 ポルタワの戦い/日本ユーラシア協会愛知県連
この中でコサックがロシアを裏切る!?「マゼッパの反乱」

当時のウクライナは、西部はポーランド・リトアニア共和国に支配されていました。東部はコサックが支配していて、もっとも有力な勢力を率いていたのがイヴァン・マゼッパでした。

第79回ロシア語サロン 2010.9.26 ポルタワの戦い/日本ユーラシア協会愛知県連

1708年、スウェーデン軍がウクライナに侵入した際、ピョートル1世はマゼッパに戦うよう命じますが、マゼッパは勝機がスウェーデンにあると見て、スウェーデン王カール12世と同盟し、ロシアに戦いを挑みます。

ウクライナの歴史2 コサックとヘトマン国家/note.Nikolai Misonikomii.2022

マゼッパはモスクワへの反感が強いコサックの大部分は自分に味方をすると信じていましたが、一般コサックの大部分は大領主で貴族の味方マゼッパを快く思っておらず、予想に反して大部分がモスクワに付きました。

ウクライナのコサック軍事国家「ヘーチマン国家」の興亡/歴ログ -世界史専門ブログ-.2018

ただザポロージュ・コサック8,000はマゼッパの側に付き、1709年7月にスウェーデン・マゼッパ連合軍2万8,000と、コサック軍を含むモスクワ軍4万が激突しました。ポルタヴァの戦いです。

ウクライナのコサック軍事国家「ヘーチマン国家」の興亡/歴ログ -世界史専門ブログ-.2018

この戦いはモスクワ軍の圧勝に終わり、スウェーデン・マゼッパ連合軍は約9,000の死傷者を出して壊滅。大北方戦争はこうしてスウェーデンの野望が絶たれ、モスクワが帝政ロシアを成立していくに至ります。

ウクライナのコサック軍事国家「ヘーチマン国家」の興亡/歴ログ -世界史専門ブログ-.2018

これはウクライナがロシアから独立を図った最後の試みとなった。

バビ・ヤール、ウクライナの酷い地理と歴史/朝日新聞出版 最新刊行物
ウクライナでは英雄

21世紀の現在も、ウクライナとロシアは問題を抱えていますが、そんなウクライナではマゼッパは今でも英雄なのだそうです

ウクライナの英雄に魅せられたリスト 何度も作曲モチーフにした「マゼッパ」/J-CAST ニュース.2019
完全にロシアの一部となりコサック社会は消滅

 18世紀後半にはエカテリーナ二世によって完全にロシアの一部とされ,ウクライナ・コサック社会は消滅した。ロシアは1783年にクリミア汗国を廃しクリミアを併合。同地は1853年からクリミア戦争の主戦場となった。

略史/在ウクライナ日本国大使館

ナポレオンがロシアに侵攻!!

Epic History TV/YouTube

1812年、ナポレオンはロシア帝国に侵攻しましたが、これ自体はナポレオン戦争の転換点となります。

ナポレオンのロシア遠征失敗の理由
【モスクワ大火】迫り来るナポレオンに対してロシアはモスクワを放火

フランス軍は勝利を重ね9月には モスクワに入城したが、ロシアの将軍クトゥーゾフの焦土戦術により、全ての食料や物資が焼き払われており、フランス軍は食料や物資の補給に苦しんだ。また、10月にはいると猛烈な寒波がフランス軍を襲い、ナポレオンはモスクワから退却した。

ナポレオンへの抵抗とロシア遠征/岐阜県まるごと学園-小学校 – 学校間総合ネット

 フランス軍がモスクワから撤退した後、市内に入ったロシア軍の騎兵隊は、そこに待ち受けていたものを目にして衝撃を受けた。

ロシア史上最も壊滅的な大火:中世から現代まで/ロシア・ビヨンド.2019

 「我々は、人や動物の死体をようやくかき分けて進んだ」。アレクサンドル・ベンケルドルフ将軍は回想している。「廃墟と塵埃があるのみ。巨大な焼け野原のなかでは、略奪され真っ黒に変色した教会だけが目印となった」

ロシア史上最も壊滅的な大火:中世から現代まで/ロシア・ビヨンド.2019
今もロシアで語られ続ける

プーチンはその逸話を『ロシアの勝利』とし、何度もプロパガンダとして利用してきました。

プーチンが狙う”最悪の一手” ウクライナ全土「放射能汚染作戦」/FRIDAYデジタル.2022

ロシアのナポレオン軍撃退は、第2次大戦の独ソ戦勝利と並び、ロシアの国家的プライドの柱となっている。

ナポレオン撃退200年 ロシア、古戦場で戦い再現/日本経済新聞.2012
「イギリスを支配しているの私だ」歴史の分岐点“ワーテルローの戦い”・・・それは金の戦争【ロスチャイルド陰謀論】
ナポレオンはヨーロッパ中に民族独立の火種をまいた

ロシア侵攻は、結局ナポレオンの敗走によって幕を閉じるのだが、ヨーロッパに民族独立の火をつけ、その後進展する国民国家独立運動を引き起こしてしまう。

ロシアとウクライナが「こじれた」複雑すぎる経緯/東洋経済ONLINE.2022
ウクライナ民族も独立を目指す

英仏の支援を受けたギリシアは独立に成功するが、これがポーランド独立運動の高まりを生み出し、若者たちの独立運動を引き起こす(青年ドイツ、青年イタリアなど)。こうした独立運動は、当然ながら絶対王政による支配に対する抵抗運動として、社会主義者や共産主義者も巻き込み、ポーランド独立運動支援を生み出す。

ロシアとウクライナが「こじれた」複雑すぎる経緯/東洋経済ONLINE.2022

そんな中、1853年イギリス・フランスとロシアが戦ったクリミア戦争(~1856年)が起き、ウクライナの民族独立運動が生まれる。この頃生まれたのが、ウクライナ民族は存在し、ウクライナは独立国であるべきだという主張である。

ロシアとウクライナが「こじれた」複雑すぎる経緯/東洋経済ONLINE.2022

ロシア帝国にとってウクライナは「小ロシア人」

 19世紀、ロシア帝国は「小ロシア人」としての地位を受け入れるウクライナ人は平等に扱う一方、独自性を主張する人々は弾圧しました。独自性の主張は、1917年のロシア革命期に大きなうねりとなり、短期間ですが独立国が形成されました。

プーチンの「一面的な歴史観」が引き起こした悲劇 「ウクライナの存在の正当性を否定している」と専門家/AERAdot. – 朝日新聞デジタル.2022
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ロシア帝国やソヴィエト連邦のもとで長く忍従を強いられながらも、独自の文化を失わず、有為の人材を輩出し続けたウクライナ。不撓不屈のアイデンティティは、どのように育まれてきたのか。スキタイの興亡、キエフ・ルーシ公国の隆盛、コサックの活躍から、一九九一年の新生ウクライナ誕生まで、この地をめぐる歴史を俯瞰。人口五〇〇〇万を数え、ロシアに次ぎヨーロッパ第二の広い国土を持つ、知られざる「大国」の素顔に迫る。(「BOOK」データベースより)

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【ウクライナ危機(1)】戦火に巻き込まれ……超大国の支配を受けながらも戦い続ける『地獄のソ連時代』
“https://diggity.info/society/ukraine-1/”
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