1970年代初頭から始まった困難な時代から、バブル崩壊、そして新型コロナパンデミックまで、日本の繊維産業は数々の試練に直面してきました。円高や貿易変動による影響、国内市場の縮小など、繊維産業は大きな変革を迫られました。しかしこの過去の経験を踏まえ、繊維産業は再生を目指し、新たな挑戦に取り組んでいます。
本記事では、過去の困難な時代から現在までの繊維産業の変遷を振り返りながら、その課題と挑戦を探ります。バブル崩壊後の構造変化や海外競争の中での独自性の追求、そして新型コロナパンデミックによる供給チェーンの脆弱性への対応など、繊維産業が直面する現実と未来への展望を考察します。また、持続可能な発展やイノベーションの重要性、地域産業の支援など、繊維産業の挑戦に焦点を当てながら、再生への模索を紹介します。
《激動の繊維産業史 ③ 》日本の繊維産業が直面した困難と挑戦「日米繊維紛争とニクソンショック」
Declining industry
繊維産業の衰退
1970年代初頭、日本の繊維産業は数々の困難に直面した。主な要因は、1971年のニクソンショックと1973年の第1次オイルショック、さらには日米間の繊維貿易に関する政治的な動きだった。
1971年8月、ニクソン米大統領はドルの金本位制を一方的に打ち切り、ドルの価値を大幅に下落させた。これにより日本円が急速に高くなり、日本の製造業、特に輸出競争力を大きく損なった。これがニクソンショックである。
さらに、1973年には第1次オイルショックが日本経済を直撃。産業全体がエネルギー不足に悩み、企業活動が鈍化した。繊維産業も例外ではなかった
オイルショック後の繊維産業の衰退と競争力の喪失
1979年、繊維産業は再び衝撃を受けた。それが第二次オイルショックであり、イラン革命とOPEC(石油輸出国機構)による原油価格の引き上げが引き金となった。特にエネルギー多消費型産業は大きな打撃を受け、繊維産業もその例外ではなかった。エネルギー価格の高騰は製造コストを膨らませ、同時に消費の減少も引き起こした。これは繊維産業の構造そのものに大きな変化をもたらした。
一方で、1970年代初頭から、発展途上国に対して特恵関税が供与され、繊維製品の輸入が事実上自由化された。これは低価格製品を中心に東南アジア諸国から大量の繊維製品が日本へ流入する結果となった。これらの輸入繊維製品は、オイルショック以前は国内の需要の急速な拡大により、大きな影響を与えることはなかった。
しかし、オイルショック後の総需要の減少は、国内産地の生産量を大幅に減少させ、国内の繊維産業に深刻な影響を及ぼした。これらの要因は、低価格の輸入製品との競争力を失った日本の繊維産業の衰退をさらに加速させた。
プラザ合意がもたらした繊維産業への影響と課題
1985年9月22日、先進5カ国(アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本)の蔵相および中央銀行総裁が一堂に会したG5会議で、ドル高是正のための協調介入を行う取り決めがなされました。これが「プラザ合意」であり、その影響は為替市場に大きな波紋を投げかけました。
プラザ合意の結果、わずか1年で為替相場は1ドル=約240円から1ドル=約160円へと大きく変動し、急激な円高ドル安が進行しました。この大きな為替変動は日本の輸出産業に大きな影響を与え、特に繊維産業はその影響を大きく受けました。円高により、日本製品の海外での価格は上昇し、その結果として輸出は減少しました。これにより、日本の貿易黒字が縮小する結果となりました。
アメリカ側の視点から見ると、プラザ合意はドル安によって自国の貿易赤字を改善する目的がありました。当時、アメリカは日本を含む多くの国との貿易赤字を抱えており、ドル安により自国製品の輸出競争力を高めることで、貿易赤字の改善を図ったのです。
そして、このプラザ合意以降、円高が進行する一方で、日本の製造業、特に繊維産業は輸出競争力を失い、さらなる厳しい状況に立たされることとなりました。
合意の影響による繊維産業の逆転現象と構造変化
1985年のプラザ合意は、円高を引き起こし、日本の輸出産業全体に大きな影響を及ぼしました。繊維産業もその例外ではありませんでした。石油ショック後、一時的に貿易黒字を維持していた繊維産業も、プラザ合意の翌年1986年には貿易赤字(マイナス34億900万ドル)に転じました。
1987年には状況が一層悪化し、繊維品全体の輸入が輸出を超過しました。特にアパレルの輸入が急増し、製品ベースでの輸入だけで繊維品全体の輸出を上回る状態となりました。これは、輸出を国是としてきた日本にとって、まさに画期的な出来事であり、繊維産業にとっての第1の歴史的転換点とも言えます。
この年を境に、繊維産業の構造変化が加速しました。東南アジアへの縫製拠点の移転、いわゆる産業の空洞化が進み、国内での生産量は急速に縮小しました。
繊維産業の構造不況と生き残りの試練
繊維産業は、戦前の日本経済を支える重要な産業であり、大企業だけでなく、その下請け企業までが株式市場に上場していました。しかし、1970年代半ば以降、低価格な海外製品の流入が本格化し、国内の繊維産業は厳しい状況に立たされました。
さらに1985年のプラザ合意による円高進行は、これらの産業にとって追い打ちをかける形となりました。為替レートの急激な変動は、輸出に大きく依存していた繊維産業にとって大きな打撃となり、構造不況に陥ることとなりました。
その結果、多くの繊維産業関連企業が株式市場から姿を消すこととなりました。このような中、残された企業も高度な技術開発や生産体制の効率化など、生き残るための様々な試みを行いました。
バブル経済と繊維産業の繁栄
1989年12月、日本の経済はバブル経済の頂点に達し、日経平均株価は史上最高値の3万8915円を記録しました。この頃の都心では、億を超える価格の豪華なマンション、通称「億ション」が登場し、物価や資産価値は実体経済とはかけ離れた高騰を見せました。これらの現象は、一般に「バブル」あるいは「バブル経済」と称されました。
バブル時代の給与水準も非常に高く、一般的なサラリーマンであっても平均月給が50万円程度であり、新入社員の初任給も30万円を超えることが珍しくありませんでした。また、中間管理職である部長クラスの平均月給は90万円以上とも言われています。このように賃金が高水準であったことから、ボーナスも大幅に増加し、新入社員でもボーナスが年間で数百万円という時代でした。
円高と余剰資金がもたらしたバブル景気
バブル経済のきっかけとなったのは、1985年のプラザ合意です。プラザ合意により円が急速に高くなり、日本経済は円高不況に直面しました。これに対応するため、日本銀行は低金利政策を取りました。しかし、これが引き金となり、経済には大量の余剰資金が生まれ、この資金が株や土地に向かい、バブル景気を引き起こしました。
繊維産業の変革と合成繊維の躍進
バブル景気の時代、日本経済は急激な拡大を見せ、住宅建設も盛んに行われました。これに伴い、カーテンなどのインテリア用品の需要も増加しました。天然繊維や再生繊維の供給だけでは需要を満たすことが難しくなり、価格の安いポリエステルなどの合成繊維の開発・生産が活発になりました。
ブランド物や流行の衣類が飛ぶように売れた時代!
また、バブル景気が進むにつれ、ブランド商品の人気も急上昇しました。80年代半ばの「バブル期」には、DCブランドやイタリアンブランドなど、有名デザイナーやメーカーが提唱する「流行」が消費者の間で大いに追い求められました。これは一部の富裕層だけでなく、中産階級にも広がり、一般の消費者がブランド商品を手に入れることを楽しみとする風潮が広がりました。
そして、バブル景気のピークとなる1990年には、衣料品市場の規模が15兆円にまで膨らみました。これは、当時の消費者が購買力を増大させ、さらに流行を追い求める傾向が強まった結果であったと言えます。
プラザ合意の影響を跳ね返したバブルの勢い
この頃、日本の高級綿製品の分野での高い技術力は世界から認められるようになりました。一流ブランドなどの素材もライセンスの下で生産され、日本の繊維産業は一定の地位を確立しました。また、1年先の流行を予測しての企画提案型の素材(織物)作りも進められ、産業全体の技術力と提案力は一層向上しました。
しかし、同時期に昭和60年のプラザ合意や円高の進展などにより、その悪影響が繊維業界へと徐々に波及し始めました。昭和62年には輸出量と輸入量が逆転するなど、新たな課題が浮上しました。しかしながら、バブル景気の影響により、その打撃は産地には大きな影響を与えず、一時的に繊維産業はその影響をしのぐことができました。
バブル崩壊後の試練からの再構築と差別化戦略
バブル崩壊後の1990年代初頭、日本の繊維産業は大きな試練に直面しました。1991年をピークに、国内の繊維製造品出荷額は急激に減少し、これまでの成長パターンから大きく転換することとなりました。これは、バブル経済の崩壊を契機とした未曾有の大不況が直接的な原因であり、この結果、繊維業界には劇的な構造変化が求められるようになりました。
この期間、多くの企業は大幅なリストラや事業再編を余儀なくされました。製造業の中でも、特に労働集約型であった繊維産業は、雇用維持が困難となり、多くの企業が海外への生産移転を進めました。一方で、国内では技術革新や新素材の開発、高付加価値商品の製造による差別化戦略を追求する企業も現れました。
コスト削減のため生産拠点を海外に移すケースが続出
バブル崩壊後の1990年代以降、日本の繊維産業は大きな変化を経験しました。多くの企業が生産拠点を海外、特に労働力が安価な中国に移転しました。これにより、大量生産による商品単価の低下を実現し、競争力を維持しようとしました。しかし、その結果、国内の繊維産業とアパレル市場は脆弱化しました。
海外に生産拠点を移転したことで、輸入品が急増し、現在の日本の繊維市場は輸入依存型となりました。国内で生産される繊維製品はわずか20%に過ぎず、残りの80%は海外からの輸入品です。特に、ユニクロなどの大手アパレル企業が中国の工場で生産した製品を多く販売しています。
国内市場の縮小を受け、アパレルメーカーはグローバル展開に注力
国内のアパレル市場は、高価格帯のハイエンドマーケットと、低価格で大量に販売するマスボリュームマーケットの二極化が進みました。しかし少子高齢化が進む中、国内市場の縮小は避けられず、アパレルメーカーが国内のみで事業を展開するのは難しくなっています。
減少少する国内生産と大量輸入による価格競争
バブル崩壊以降、日本の繊維産業は厳しい状況に直面し続けています。国内で生産される繊維製品は大幅に減少し、全体のわずか2%にまで落ち込んでしまいました。また、経済産業省によれば、衣料品市場の規模も1990年の約15兆円から2010年には約10兆円までと、大きく縮小しています。
一方で、国内生産と輸入を合わせた国内供給量は増加し、衣料品の商品単価は3分の1にまで下がりました。これは大量の安価な輸入製品が市場に流入したことが主な要因です。また、繊維産業に関わる事業者数も1990年と比較して約4分の1に減少し、経営者の高齢化も進んでいます。このような状況が続けば、今後さらなる廃業などが進む可能性があります。
「斜陽産業」と呼ばれる繊維産業の現状と将来への展望
現在の繊維産業は、厳しい状況に直面しています。世界の工場である中国による大量生産や、欧州の高級ブランドによる高品質製品への需要の集中により、日本の繊維産業は深刻な打撃を受けています。こうした事情から、繊維産業は「空洞化産業」や「斜陽産業(しょようさんぎょう)」と呼ばれることもあります。
「斜陽産業」という言葉は、売上高や生産高がピークを迎えてから下降し、将来的な回復が見込めない産業を指す言葉です。一部では、このような産業を「先のない産業」と表現することもあります。
日本の繊維産業の技術力と創造性がもたらす新たな価値
日本の繊維産業は、国内外の厳しい競争環境に直面しつつも、長年にわたり蓄積してきた高い技術力と創造性を活かして新たな価値を生み出しています。確かに、一部の商品や市場では中国などの大量生産型の企業との競争に苦しんでいますが、その一方で、「中国では作れないもの」を生み出すことによって独自の地位を確立し、産業の再生を目指しています。
具体的には、日本の繊維産業は、独自の高度な技術や素材開発を基に、新たな製品やアプリケーションの開発に取り組んでいます。たとえば、ナノテクノロジーやバイオテクノロジーを利用した新素材、環境に優しいエコ素材、機能性を高めたスマート素材など、繊維分野での先端技術を駆使した製品の開発が進められています。
また、非繊維分野においても、繊維技術の応用が進んでいます。建築、自動車、医療、ITなどの分野で、繊維技術が活用され、これらの産業のイノベーションを支えています。これらの産業は、繊維技術の柔軟性、軽量性、強度などを利用して、新たな製品やサービスを生み出しています。
新型コロナパンデミック後の繊維産業への挑戦と可能性
新型コロナウイルスのパンデミックは、繊維産業を含む世界中の多くの産業に大きな影響を及ぼしました。アパレル業界は特にその影響を強く受けており、店舗の一時閉鎖や消費者行動の変化により売上が大幅に減少しました。
パンデミックはまた、消費者の行動や価値観、ニーズの変化を引き起こし、それがアパレル業界にさらなる影響を及ぼしました。たとえば、「新たな日常」に対応するために、消費者は快適さや機能性を重視する傾向が強まり、これはアスレジャーやワークフロムホーム向けの衣料品の需要増加といった形で現れました。同時に、持続可能な製品やブランドに対する消費者の関心も高まっています。
また、パンデミックは供給チェーンの脆弱性を露呈しました。製造拠点を海外、特に中国に集中させていることがリスクとなり、生産の多様化や国内製造への回帰の必要性を再認識させました。
それでも、このような困難な状況の中でも、日本の繊維産業は新たな可能性を追求し続けています。例えば、感染防止やウイルス除去などの機能を持つ新素材の開発、デジタル化によるオンライン販売の強化、サステナビリティに対する取り組みなどが進められています。これらの取り組みは、新型コロナウイルス後の「新たな日常」に対応し、産業の再生を目指すものでした。
日本経済の未来への教訓 !繊維産業からの示唆
日本の繊維産業は、現在空洞化が進んでおり、特に衣服の製造分野では中国での生産が増えています。競争力のない産業を保護する必要はないという主張もありますが、日本の状況は非常に厳しいです。
自動車や家電などの主要産業は、国際的な競争が激しく、中国が強力なライバルとなっています。日本の製造業が将来生き残るためには、見直しを迫られている時期です。繊維産業は、この困難な状況で貴重な経験を提供してくれます。そのため、繊維産業から学ぶことは、日本の未来を考える上で非常に重要です。
繊維産業の変化は、それから3年後には日本経済全体にも波及しています。つまり、日本の経済の未来は、まず繊維産業で顕著に現れると言えます。
外国製品との競争の激化や海外への生産移転による産業の空洞化、地域の産業の衰退などの問題は、単に繊維産業だけでなく、日本の産業全体が直面している共通の道のりです。これらの課題に対しては、私たちは一度立ち止まり、大胆な見直しを行う必要があります。
日本の未来を考える
日本の未来を考える上で、繊維産業は重要な示唆を与えてくれる存在です。私たちは競争力を高め、イノベーションを促進し、地域産業を支援するために努力しなければなりません。また、国内外の市場トレンドや技術の進歩にも敏感に対応する必要があります。繊維産業の経験から学び、他の産業にも応用することで、日本の製造業全体が成長し、競争力を維持することができるのです。
日本経済の未来を切り拓くためには、今こそ繊維産業の教訓を活かし、新たな戦略を模索する時です。