《激動の繊維産業史 ③ 》日本の繊維産業が直面した困難と挑戦「日米繊維紛争とニクソンショック」

日本の繊維産業は戦後の高度成長期に世界の首位に躍り出ました。労働集約型の産業として、多くの雇用を生み出し、日本経済の復興と発展に大きく貢献しました。

しかし、アメリカの輸入制限や経済混乱により、繊維業界は大きな打撃を受けました。特にニクソンショックは円高を引き起こし、日本の繊維産業に深刻な影響を及ぼしました。この記事では、繊維産業の栄枯盛衰をたどりながら、日本経済の軌跡と国際貿易の変遷を紐解きます。

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Textile dispute

アメリカとの激しい摩擦が揺るがした日本の繊維産業

Sunchan Obc/YouTube

日本の繊維産業は、急速な経済成長の過程で国際的な影響力を持つようになりました。特に、第二次世界大戦後の高度経済成長期には、日本の繊維産業は世界の首位に立つ存在となりました。しかし、その成功は同時に新たな問題を引き起こしました。それが、日米間で起こる繊維紛争のはじまりでした。

日本の繊維産業の台頭と日米繊維紛争の始まり

戦後の日本経済復興の中で、繊維産業は労働集約型の産業として、多くの雇用を生み出しました。また、技術革新と生産効率の向上により、日本の繊維製品は高品質で低価格となり、世界中で人気を博しました。これは、日本の繊維産業が急速に成長し、世界的な市場を席巻する要因となりました。

しかし、日本の繊維製品の海外進出は、特にアメリカにおける国内産業に影響を与えました。アメリカの繊維産業は、日本製の繊維製品の大量輸入により、市場を奪われる形となりました。これは、アメリカ国内の失業率の上昇を招き、貿易摩擦の火種となりました。

アメリカは、繊維製品に対する輸入制限を強化し、日本に対する貿易赤字を減らすことを試みました。これに対して日本政府は、自由貿易の原則を守るべく、アメリカの輸入制限に反対しました。これが「日米繊維紛争」の始まりでした。

世界大恐慌と繊維紛争

日本と米国との間では、過去に少なくとも2度、繊維製品の輸出に関する大きな紛争が発生しています。

第一次日米繊維紛争は1930年代、世界大恐慌の時期に発生しました。一方、第二次日米繊維紛争は1969年から1971年にかけてのリチャード・ニクソン政権時代に発生しました。

世界大恐慌と日本の繊維産業

1920年代後半、アメリカはイギリスに代わって世界経済の中心となり、国内は異常な消費景気に沸き立っていました。アメリカ国民は株式市場に熱狂的に投資し、株式ブームが起こりました。しかし、この過熱状態が金融市場を不安定にし、1929年10月24日、いわゆる「ブラック・サーズデー」にニューヨーク株式市場は大暴落しました。この出来事は、世界大恐慌の始まりとなりました。この経済危機は、翌1930年には日本にも波及しました。

原材料の輸入から輸出品目まで、日本が直面した試練と挑戦

1930年代の世界大恐慌は、世界経済に大きな影響を与えました。この時代、日本の貿易は原材料の輸入と繊維品を中心とする特定の品目の輸出で成り立っていました。日本は、アジア地域やアフリカ地域から原材料を輸入し、それを加工して綿織物や生糸などの繊維品を製造し、主にアメリカやヨーロッパへ輸出していました。

特に、綿織物と生糸を中心とする繊維品が日本の輸出の主力であり、1935年には輸出総額の約50%を占めるほどでした。これは、当時の日本経済において繊維産業が重要な役割を果たしていたことを示しています。

しかし、世界大恐慌によってアメリカやヨーロッパ諸国の経済が混乱し、日本の繊維製品の輸出も大きな打撃を受けました。

生糸産業の凋落と昭和恐慌

1927年の金融恐慌からはじまった昭和恐慌は、世界大恐慌と重なっていました。この経済危機は、金本位制の放棄や財政政策の誤りなど、国内の政策判断ミスが招いた側面もありました。しかし、世界経済の混乱が直接的な原因となり、日本の基幹産業であった生糸ビジネスが大きな打撃を受けました。

特に、アメリカ向けの輸出生糸の価格が急落し、これが繭の価格暴落につながりました。これにより、農村や山村の養蚕農家は大きな経済的な困難に見舞われました。この結果、農家の収入が減少し、貧困と失業が広がり、社会的な不安が高まりました。

Cocoons
アメリカ市場依存の弱点と生糸輸出の崩壊、製糸業に迫る厳しい現実

1929年のニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけに始まった世界恐慌は、アメリカをはじめとする世界の経済に深刻な打撃を与えました。特に、全面的にアメリカ市場に依存していた日本の製糸業にとっては、その影響は計り知れないものがありました。

当時の日本にとって2大産業といえば、絹紡と綿紡でした。しかし、世界恐慌によって絹と綿の価格が暴落し、不況のアメリカでは絹の消費が急激に減少しました。その結果、日本の生糸の輸出は激減し、綿製品も同じ運命をたどりました。

綿製品の主な輸出先であった中国やインドでも農産物価格と銀価格が暴落し、購買力が大きく減退しました。さらに、インドでは綿布の輸入関税が引き上げられ、綿布の価格は一気に40%も低下しました。これらの影響により、日本の2大産業であった絹紡と綿紡は大打撃を受け、日本経済は昭和恐慌という大不況に突入しました。

加えて、人絹の急速な進出や、中国産生糸と高価な欧州産生糸の価格低落による日本産生糸の市場占有率の減少も、製糸業の打撃に拍車をかけました。

貿易摩擦と日本の対応

1934年と1935年にアメリカの綿業界は、自国の市場を守るために日本からの綿製品の輸入制限を政府に要求しました。これに対応する形で、日本は米領フィリピンへの輸出規制を行い、日比紳士協定により輸出量を規制しました。また、米国本土への輸出も自主的に規制するための交渉を開始しました。

しかし、日本は米国産原棉の最大の買い手であったにもかかわらず、米国は1936年6月に日本製綿布に対する関税を引き上げました。さらに同じ年の6月には、オーストラリア政府も英国の綿業者を配慮して日本製綿布の輸入制限措置を取りました。

これに対して日本は、「飼い犬に手をかまれた」という感情を抱きました。なぜなら、日本はオーストラリア産羊毛の大口の買い手であり、これまで良好な取引関係を築いてきたからです。その結果、日本は再び輸入擁護法を発動し、年末には日豪会商の決着がつきました。

しかし、米豪の1936年6月の措置が時間的に重なったため、日本のマスコミはこれを「米英両国による”結託””共謀”」と報じ、日本国内には閉塞感が強まりました。結局、この貿易摩擦の結果、”アジアへの回帰”(中国市場確保論)が喧伝されるようになりました。

ニクソン政権下の日米繊維紛争:アメリカの挑戦と日本の対応

朝鮮戦争やベトナム戦争などの戦争の影響で、戦後のアメリカ経済は大きな負担を背負っていました。国力が低下し、インフレが進行する中、1955年には繊維製品の輸入関税が引き下げられました。これにより、安価な日本製繊維製品がアメリカ市場に大量に流入し、アメリカの繊維産業は深刻な打撃を受けることとなりました。

特に南部地域では失業率が上昇し、社会問題となりました。こうした事態を受け、米国の繊維産業関係者や労働組合は、政府に対して貿易保護策の導入を求める声を強めました。

アメリカ市場に押し寄せた日本製繊維製品

アメリカが1955年に繊維製品の輸入関税を引き下げたことで、日本製の安価な繊維製品が大量に米国市場に流入しました。これは、戦後の日本経済復興の一環として、日本の繊維産業が急速に発展し、大量生産体制が整った結果でもありました。

「ワンダラー・ブラウス事件」

“ワンダラー・ブラウス”事件は、1955年に日本からアメリカへの綿製品の輸出が急増し、これが米国内の綿製品産業に大きな影響を及ぼすとともに、日米間の貿易摩擦を引き起こすきっかけとなった出来事です。

日本から輸出されたこれらの製品は、低コストで大量生産が可能であったため、非常に安価に市場に供給されました。当時の米国では、”ワンダラー・ブラウス”という名前で知られるようになったこれらの製品は、1ドル(当時の為替レートでは約360円)で購入可能であり、その手頃な価格から米国の消費者に大変人気でした。

アメリカは日本に自主規制を迫る

しかし、これらの製品の大量流入は、米国の綿製品産業にとっては大きな脅威でした。その結果、米国内の綿製品製造業者や労働組合は、日本製品の輸入制限を求める運動を開始しました。この問題は、その後数十年にわたり日米間の貿易摩擦の一因となり、両国間の交渉や協定締結につながるなど、長期的な影響を及ぼしました。

「日米綿製品協定」日本は5年間の輸出自主規制を開始

「ワンダラー・ブラウス」事件の発生を受けて、日本政府は1957年に米国と「日米綿製品協定」を締結しました。この協定により、日本は対米綿製品の輸出を5年間自主規制することを約束しました。

この協定は、日本の綿製品の大量輸出が米国の綿製品産業に及ぼしていた影響を緩和するための措置であり、貿易不均衡の是正を目指していました。しかし、一方で、日本の綿製品産業にとっては大きな制約となりました。

予想外の結果と他国からの輸出増加に驚くアメリカ

1957年の日米綿製品協定は日本からの輸入を抑制するものでしたが、その結果、他の国々からの輸入が増えるという予想外の結果を生みました。香港、インド、フランス、スペインなどからの対米綿製品輸出が急増しました。

これは「貿易のバルーン効果」と呼ばれる現象で、ある国に対する貿易制限が他の国との貿易を増やすというものです。日本からの輸入が制限されたことで、米国は他の国からの輸入を増やす必要が生じ、それが結果として香港やインドなどの国々の対米輸出の増加につながったと考えられます。

「1960年アメリカ大統領選挙と繊維業界」ケネディの公約と南部諸州の支持

1960年のアメリカ大統領選挙は、ジョン・F・ケネディとリチャード・M・ニクソンの間で行われ、その中で繊維業界の問題が重要な議題となりました。

当時、繊維産業は南部諸州とニューイングランド地方で重要な役割を果たしており、これらの地域の選挙人票は選挙の結果を大きく左右する可能性がありました。ケネディは南部諸州の支持を取り付けるため、繊維産業の救済を公約に掲げ、地元の政治家や労働組合のリーダーへ公約を伝える手紙を送りました。

この結果、ケネディは繊維産業が重要な地域であるノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージアなどの南部諸州とニューイングランド諸州で得票し、ニクソンを辛うじて破りました。

British Pathé/YouTube
ケネディの交渉戦略と繊維産業保護の限界

大統領就任後のケネディは、1961年に繊維産業を救済するための国際会議の開催を推進しました。その結果、1962年にGATT(関税と貿易に関する一般協定)主催の国際繊維品貿易会議で、「綿製品の国際貿易に関する長期取り決め」が採択されました。この取り決めは、綿製品の国際貿易を規制するもので、当初の規制期間は5年でしたが、その後1973年まで延長されました。

さらに1965年には、日本繊維協会と米国繊維製品製造業者協会(ATMI)との間で会談が行われました。この会談では、他の製品に対する規制も求められましたが、日本側はこれを拒否しました。

このように、繊維産業の保護と、国際貿易の規制が当時の国際貿易政策の重要なテーマであったことを示しています。

「選挙戦から始まる第二次日米繊維紛争」ニクソンの公約と繊維産業保護

1968年の大統領選挙では、ベトナム戦争の泥沼化と反戦運動が高まる中、再びリチャード・M・ニクソンが出馬し、民主党のハンフリーとの激しい競争が繰り広げられました。

選挙戦の中で、ニクソンは、サンディエゴのミッションベイで繊維業界代表のミリケン(Roger Milliken)らと会い、輸入制限を約束しました。さらに、ニクソンは共和党議員に電報を送り、「毛、化合繊、混紡を含む繊維製品」の輸入割当に関する国際協定を結ぶ交渉を行うと宣言しました。これがニクソンの選挙公約(マニフェスト)となりました。

そして、ニクソンは「南部戦略」の一環として、衰退しつつあった南部の繊維産業救済を公約に掲げ、大統領選挙に勝利しました。その後、公約を実現するために、日本をはじめとするアジアの4か国(韓国、台湾、香港は”The Three”と呼ばれた)に対して、毛製品や化学繊維製品の対米自主規制を求めました。

このように、1969年から1971年にかけての第二次日米繊維紛争は、繊維製品の輸入割当に関する国際協定という形で、ニクソンの公約の一部として展開されました。

Richard Nixon Foundation/YouTube

沖縄返還と3つの密約

佐藤栄作は日本の政治家であり、昭和から平成初期にかけて活躍しました。彼は内閣総理大臣を務め、日本の国際的地位向上や経済成長の促進に尽力しました。また、政治改革にも取り組み、日本の政治体制の安定化に貢献しました。彼の功績と指導力は高く評価されています。

佐藤首相は「核兵器を作らない、持たない、持ち込ませない」の「非核3原則」を提唱し、そのアジア平和への貢献が認められ、ノーベル平和賞を受賞しました。さらに、日米繊維摩擦の解決や日韓基本条約の批准などでも手腕を発揮しましたが、一方で「黒い霧事件」などの不祥事も存在し、マスコミ嫌いでも知られていました。

ニクソン米大統領との秘密の約束

1965年8月19日、当時の首相・佐藤栄作が那覇空港に降り立った際、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」と述べ、沖縄返還への強い意欲を示しました。そして1972年5月15日に沖縄が本土に復帰し、それ以前の1968年6月26日には小笠原諸島の返還も実現させました。

沖縄返還交渉の際、佐藤首相とニクソン米大統領の間には密約が存在したことは、公にはされていませんが広く知られています。アメリカ側からの要求は三つ。

Film Archive of Japan/YouTube
【密約】「核兵器の再持ち込み」

第一に、緊急事態においては、在日米軍基地への核兵器の再持ち込みを認めること。

これは、いわゆる「核の持ち込み」問題で、非核三原則(核兵器を作らない、持たない、持ち込ませない)に反するものとされています。ただし、この密約の存在については、長らく否定されてきましたが、2009年に鳩山由紀夫内閣が発足すると、外務省は密約の存在を認める立場を明らかにしました。

ANNnewsCH/YouTube
【密約】「沖縄の軍用地を返還する際、費用を日本が肩代わり」

第二に、沖縄の軍用地を返還する際に発生する原状回復費用を日本が負担することでした。公式にはアメリカ側が負担することになっていましたが、実際には日本が裏で負担を引き受けることになっていたのです。

これは、いわゆる「環境復元費用」問題で、返還される米軍基地の整備費用を日本が負担するというものです。これについても、長らく否定されてきましたが、2000年代に入ってから、これに相当する資料が公開されるなど、存在が認められるようになりました。

ANNnewsCH/YouTube

【密約】「糸と縄」の交換取引」

沖縄返還に関しては、通常、上述した2つの問題が中心に議論されますが、実はあまり知られていない第三の密約が存在します。それは「繊維密約」です。1969年に日米が合意した沖縄返還を巡り、大統領再選を視野に入れたニクソン政権は、佐藤政権の主張する沖縄の施政権返還に同意する引き換えに、米国内の繊維産業保護のための対米輸出規制を迫ったのです。これが「糸(繊維)と縄(沖縄)」の取引でした。

「“約束”ではなくあくまで“密約”」繊維交渉が難航

1969年11月の日米首脳会談では、沖縄返還の約束を得た佐藤英作首相は、感謝の気持ちを述べ、対米自主規制を約束することをニクソンに明確に約束しました。しかし、国内で「糸で縄を買った」との風評を打ち消し、また国内繊維業界の反発を避けるために、この約束の存在を秘密にすることを決定しました。

こうして「約束」は「密約」となりました。大平正芳通産大臣もこの問題については佐藤に協力的ではありませんでした。その結果、佐藤は年末までにニクソンへの約束を果たすことはできず、1969年が終わりました。

当時、繊維輸入の規制は、ニクソン大統領の再選を達成するための重要な課題でした。しかし佐藤首相は、この問題の深刻さを適切に認識できず、また密約であったために、国内の業界に「存在しない」繊維輸出規制を説得することができませんでした。その結果、1970年に入ると、日米間の繊維交渉は難航しました。

背景を知らない日本の繊維業界団体とニクソンの怒り

そして、日本の繊維業界団体は、状況が一変する1971年に至ります。繊維業界団体は、ニクソン大統領の政敵である民主党の提案に基づく自主規制を受け入れてしまったのです。この結果、ニクソンの怒りを買い、日米関係は一気に冷え込みはじめます。

さらに1971年の春には、日本の繊維製品の対米輸出規制を巡る日米繊維交渉が決裂しました。

これによってニクソン大統領をさらに激怒します。その証拠に、ニクソン大統領は「失望と懸念を隠すことができない」と、佐藤栄作首相に対して非難の意を明らかにした異例の書簡を送りました。

ニクソン大統領の激怒に触れた日本は、その後、数々の反撃を受けることになりました。

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「ニクソンショック」日本の繊維業界に大打撃

密約の履行を怠った日本への報復が具体的な原因かどうかは明らかではありませんが、その後の出来事は日本にとって大きな衝撃となりました。とりわけ、日本はその後2度にわたって「ニクソンショック」を経験することになります。この事態は、日本の経済や国際関係に大きな影響を与え、一時的な混乱をもたらしました。

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「第一次ニクソン・ショック」

1971年7月15日、ニクソン大統領はアメリカと中華人民共和国が対話を開始し、自身が翌年に中国を訪問することを発表しました。これは「第一次ニクソン・ショック」と呼ばれています。

この突然の発表は、国際社会全体、特に日本に衝撃を与えました。日本とアメリカは安全保障上の親密な同盟国であり、互いの外交政策について密接に協力していました。したがって、ニクソンの発表は日本政府にとって予期しない驚きであったと言えます。

このニクソンの訪中は、冷戦期の国際政治における重要な出来事でした。アメリカと中国の関係改善は、両国間の直接的な対話を再開し、冷戦の構造を大きく変えることになりました。しかし、同時に日本を含む他の国々にとっては、自国の地位と安全保障を再評価する必要が生じ、その結果、地政学的な緊張と不確実性を増大させました。

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「第二次ニクソン・ショック」

「第二次ニクソン・ショック」は、1973年2月にアメリカがドルの再デフレーション(公式な為替レートの再調整)を宣言し、日本円がさらに高くなったことを指します。これにより、日本の輸出産業はさらに打撃を受け、日本の経済全体が大きな影響を受けました。

この変化は日本経済に大きな影響を及ぼしました。円が急速に再評価され、それまで360円だった1ドルの価値が308円に下がりました。これにより、日本の輸出製品の価格が相対的に高くなり、国際市場での競争力が低下しました。

繊維産業はこの影響を特に強く受けました。円高により、日本製の繊維製品は海外市場での価格が高くなり、輸出が減少しました。これは、当時の日本経済にとって大きな打撃であり、産業全体の再構築を必要としました。

danieljbmitchell/YouTube
ニクソン・ショックと繊維産業への打撃

ニクソン・ショック前、日本円は国際経済での実力に対して過小評価されていましたが、政府や産業界は円の切り上げに反対していたため、急激な円高によって日本経済は大混乱に陥りました。特に繊維産業などは、円高の影響で大きな打撃を受けました。

2つの「ニクソンショック」が繊維交渉決裂に対する米国の報復措置として取られたという主張もありますが、確固たる証拠は存在していません。ただし、キッシンジャーは回想録で、「新経済政策」に関して、「繊維紛争が1971年8月15日にニクソンが発表した新経済政策とからみ合ってしまった。これが1971年の(私の北京隠密外交に次ぐ)第二の『ニクソン・ショック』だが、これには、それまでの日米交渉失敗の産物という面もかなりあったのである」と述べています。

ニクソン・ショック後の最後の一撃!日米繊維協定の調印と輸出の衰退

1971年10月、当時の田中角栄通商産業大臣はアメリカと突如「日米繊維協定」の了解覚書に仮調印しました。この時点で、日本は沖縄返還交渉を進行中で、既に6月に沖縄の返還を受け入れていました。「糸(繊維)を売って縄(沖縄)を買った」と繊維業界では強く批判されました。

そして、最終的なトドメとなったのは、1972年1月に「日米繊維協定」が正式に調印されたことでした。このニクソン・ショックに続く調印により、日本のアメリカ向け輸出は衰退していきました。この時期は日本の繊維産業にとって大きな打撃となり、その影響は深刻でした。

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