《激動の繊維産業史 ② 》過酷な環境で働く「女工」と「女子バレー」の深すぎる関係

この記事では、19世紀末のアメリカで生まれたバレーボールが、女性労働者に適したスポーツとして広まっていった経緯を紹介します。民間企業の運営が始まった時期には、利益追求のために工女たちの労働環境が悪化しました。彼女たちは長時間労働と低賃金によって過酷な状況に置かれました。

しかし、彼女たちは不屈の精神で立ち上がり、自らの手で未来を切り拓いていったのです。彼女たちの労働運動や奮闘が、労働環境の改善や社会の変革に繋がっていきました。この記事では、工女たちの感動の物語とともに、紡績産業の興隆と労働者の闘いを振り返ります。

《激動の繊維産業史 ① 》「紡績」と「工女」日本近代化の支柱となった産業と女性たち
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『女工哀史』の著者細井和喜蔵(1897‐1925)の妻高井としを(1902‐83)の自伝。10歳で紡績女工になり、労働運動を通じて和喜蔵に出会い、事実上の共作者として夫の執筆を支えた。戦争を挟んだ貧しさのなか、ヤミ屋や日雇い労働で5人の子を育てながら、社会保障を求めて闘いつづけた生涯の貴重な記録(「BOOK」データベースより)

The history of spinning in Japan Part.2

国の紡績企業を民間委託!結果、労働環境が悪化していく

昭和の暮らし映像ch / 昭和物語/YouTube

政府主導で設立された紡績企業の経営は思うように進まず、紡績業の振興役割は次第に民間企業に移っていきました。その象徴的な出来事として、富岡製糸場が1893年に民間に払い下げられたことが挙げられます。この製糸場は、その後も高品質な生糸の量産に貢献し、近隣農家の養蚕技術改良にも主導的役割を果たしました。

しかしこの時期、民間企業による運営が始まると、利潤を追求する結果として、工女たちの労働環境は次第に悪化していきました。彼女たちの就業時間は徐々に長くなり、1日10~12時間の労働が常となりました。さらに休日も月にわずか2日となるなど、過酷な状況が続きました。

器械製糸の発展と工女募集の変化

明治九年(1876年)頃から、器械製糸が急激に発展し、製糸工場の増設が進んでいきました。これに伴い、工女の需要が増加し、募集の対象も徐々に変化していきました。元々は良家の娘さんを対象にしていた工女募集が、窮乏化した士族や遠隔地の農村部の貧しい家庭の娘たちにも広がっていきました。これにより、工女たちの形態も、当初の通動工から出稼ぎ型の寄宿工へと変化していったのです。

綿紡績業界でも同様の傾向が見られ、貧しい農村出身の女工たちの一部は、町へ出て賃労働者になることで、故郷の農村社会においても一定の地位を得ることができました。このような女工たちを紡績工場と遠隔地の農村との間でつないでいたのが、募集人という存在でした。

募集人の役割と募集方法の変遷

初期の工場では、従業者を募集地に直接派遣して募集する方法が一般的でしたが、次第に仲介業者に手数料を払って募集させる間接募集に移行しました。募集人は、複数の紡績会社と契約を結ぶことも珍しくありませんでした。

しかし、1920年代に入ると、大規模な工場の多くが、再び自工場の従業者を派遣する直接募集に戻しました。自工場の従業者を募集人とする場合、募集人は自らの出身地域から若い女性たちを継続的に引き出す役割を担い、連鎖的な移動を促進していきました。

このように、工女募集の対象や方法が時代と共に変化していく中で、繊維産業に従事する女工たちの生活もまた大きく変わっていきました。彼女たちは働くことで自身の家族を支えるだけでなく、新たな社会的地位を得る機会を手に入れました。

女工の厳しい労働環境と帰郷への閉ざされた道

近代日本の女性労働の歴史は、過酷な労働条件の下で働く農村出身の若い未婚女性、すなわち「女工」たちの歴史として知られています。当時、工場労働者の大部分は繊維産業に従事しており、そのほとんどが女性でした。

彼女たちは低賃金で長時間労働を強いられ、労働条件は非常に悪かった。例えば、生糸工場では、毎日の労働時間が13~14時間を下回ることはなく、時には17~18時間にも達しました。公休日は月に一回あるかないかで、食事は麦飯に味噌汁とたくあんだけ。寝具は二人、あるいは三人で一つを共有し、病人が続出しても医療は不充分で、病気であっても働かざるを得ない状況にありました。

しかし、このような厳しい生活に耐えかねて逃亡する女工たちも多かったのですが、その足が故郷に向かうことはほとんどありませんでした。なぜなら、故郷の農村は貧困に喘ぎ、彼女たちに暖かな場所を提供することはできなかったからです。この事実は、彼女たち自身が十分に理解していました。

長時間労働と低賃金の中での生活と寄宿制度

明治33年における長野県の製糸工場では、全体の66.09%を未成年の女性が占めていました。その一方で、当時の製糸工場の女性労働者の1日あたりの平均賃金はわずか17.8銭でした。これは、当時の物価を考慮に入れると、米一升が14銭~18銭だったことから見ても、非常に低賃金であったことがわかります。

しかし、女性労働者たちはこのような低賃金にもかかわらず、家族のためや自身の夢の実現のために、製糸工場での労働を選択しました。当時は女性が現金収入を得ることが難しい時代であったため、製糸工場で働くことは、生計を立てるための一つの手段であったのです。

製糸工場では、寄宿舎制度が多く採用されていました。これは、工場が労働者の3食の食事を提供するという制度で、女性労働者にとっては賃金が低いことをある程度補う役割も果たしていました。

また、寄宿舎制度は企業側にとってもメリットがありました。まず、夜間の安定的な操業を可能にするためで、また、他の工場への女性労働者の引き抜きや逃亡を防止するといった意図もありました。

明治時代の女性労働者の抵抗とストライキ

1886年(明治19年)の日本では、生糸の相場が下落し、企業の利益が低下していました。その中で、甲府の雨宮製糸紡績工場では、既に長時間であった1日14時間の労働時間をさらに30分延長し、そして1日の賃金を33銭5厘から22銭3厘に引き下げるという提案がなされました。

これに対して、工場で働いていた100人の女工たちは、リーダーの訴えに呼応して抵抗しました。彼女たちは「普段でも、私たちは長時間のトイレの時間さえなく、水一杯飲む暇もない。これ以上労働時間を延長し、賃金を3分の1減らすなんて…」と反発し、近くの寺に立て籠もりました。彼女たちは、厳しい取締りや遅刻・早退による大幅な賃金引下げなど、労働環境の改善を求めました。これが日本初の女性によるストライキでした。

その後も、1894年には大阪の天満紡績で大規模なストライキが起こるなど、女性労働者たちは労働環境の改善を求める抵抗を続けました。

渋沢栄一:「日本資本主義の父」と社会貢献

富岡製糸場の設立に深く関与した渋沢栄一は、日本の近代化に大いに寄与したことから、「日本資本主義の父」とも称されています。彼は第一国立銀行を始めとする500以上もの企業創設に関与し、日本の経済発展を牽引しました。

しかしながら、渋沢栄一の功績は、産業界に留まらず、社会貢献活動にも広がっています。例えば、彼は身寄りのない老人や子どもを保護する施設や、聖路加国際病院の設立にも関与しています。これらの活動からも、渋沢の弱者への支援や救済への熱心な取り組みが伺えます。

特筆すべきは、戦前の長野県岡谷地方での労働争議です。当時の製糸工場で働く女工たちは、過酷な労働条件に抵抗し、ストライキを決行しました。この際、渋沢栄一は女工たちの側に立ち、彼女たちへ200円という当時としては大変な金額を寄付しました。

当時の“1円”の価値は?

明治時代の経済状況と現代を直接比較するのは難しいですが、あくまで参考として、1円が2万円程度の価値があったとすると、当時の小学校の教員の初任給8~9円は、現代の価値で160万~180万円に相当することになります。

しかし、これはあくまで参考の一つで、明治時代の物価、生活水準、物資の可得性など、さまざまな要素を考慮する必要があります。それらを考慮に入れないと、過去と現在の経済状況を適切に比較することは難しいです。

輸出量が輸入量を上回る!紡績業の復活

1890年に綿糸の国産高が輸入高を上回ることで、日本の繊維産業は国内市場を回復し、独自の地位を築くことに成功しました。このことは、当時の日本の産業発展や技術革新が功を奏し、国内産業が競争力を持つようになったことを示しています。

さらに1897年には輸出高が輸入高を上回り、綿糸紡績業は対外的に自立し、輸出産業へと転換しました。このことは、日本の綿糸産業が国際市場で競争力を持ち、世界的な繊維産業のプレイヤーとしての地位を確立したことを意味します。

日露戦争後、日本の紡績業は中国に進出

日露戦争後、日本の外国貿易は急速に発展しました。特に注目すべきは、近代紡績業の確立によって綿関連の繊維製品の輸出が急増したことです。これは、日本が生産技術と製品品質を向上させ、繊維製品において国際的に競争力を持つようになったことを示しています。また、雑貨類の輸出も伸び、多様化する日本の製品が世界市場で受け入れられ、国際的な商業活動が活発化しました。

一方で、日本の経済発展と産業近代化は、原材料の大量輸入を必要としました。これは、国内の資源だけでは日本の工業化のペースに追いつかなかったためで、原材料の輸入は急増しました。

「在華紡」

日本の工業化が始まると同時に、日本企業の多国籍化も進行しました。初期の段階では、貿易商社などの貿易関連企業が先駆けとなり、海外に事業拠点を設けました。日清戦争後には、日本企業は植民地に資源投資を行い、日露戦争後には満洲や中国大陸での資源開発や鉄道投資を進めました。また、この時期から製造業の中国投資が始まり、紡績企業がその先駆けとなりました。

日本の紡績企業が中国に設立した会社は「在華紡」と呼ばれ、1905年の日露戦争終結後に中国経済が新局面を迎えると、在華紡は活動の幅を広げていきました。金融機関や交通機関の整備が進み、綿花の栽培や労働者数も増加したことで、紡績業は再び活気を取り戻しました。これは「紡績業の平和に進歩した時代」とも言われています。この時期、日本の紡績工場が中国に進出し、イギリスや中国の紡績業と競争する「三者鼎立時代」が始まりました。

具体的な事例としては、1905年に三井洋行が上海の大純紗廠を借りて生産を始め、翌年にはこれを買収しました。また、内外綿株式会社は1909年に上海で工場を建設し、1911年から生産を開始しました。これが日本が中国で初めて独自に紡績工場を建設した例です。

第一次世界大戦後には、日本の主要な紡績企業の大半が中国に紡績工場を建設しました。こうした在華紡の多くは、中国での地位を確立し、中国紡績業の主要な担い手として成長しました。しかし、これらの成果は、第二次世界大戦の日本の敗戦とともに失われました。

「第一次世界大戦」戦場じゃなかった日本は輸出で爆益

第一次世界大戦(1914-1918)が勃発すると、英国を始めとする交戦国の綿業は輸出余力を失い、その隙間を埋める形で日本の綿製品がアジア諸国に進出しました。この結果、日本の綿業は空前の活況を呈しました。例えば、日本綿花の喜多又蔵社長は、日本の紡績業および日本の工業発展への貢献が認められ、1919年のパリ講和会議の民間随行員の一人に選ばれました。

しかし、第一次世界大戦が1918年に終わると、日本の綿業は一転して反動不況に見舞われました。日本の資本主義は戦争を通じてしばしば発展しましたが、その一方で、軍事産業の占める比重が大きく、また国内市場は未だに十分に広がっておらず、常に海外市場に依存する不安定な構造を持っていました。

第一次世界大戦が終結し、列強の生産力が回復すると、日本の輸出は後退しました。1919年からは貿易収支が輸入超過に転じ、特に重化学工業の分野では輸入品が増加し、国内の生産を圧迫しました。さらに、1920年には株式市場が暴落し、綿糸・生糸の売れ行きが不振となり、その相場が下落しました。これにより、紡績・製糸業は操業を短縮するなど、不況に見舞われました。これらの一連の出来事は通常、戦後恐慌と呼ばれています。

その後も、1923年の関東大震災、1927年の金融恐慌、1929年の世界恐慌などが重なり、日本の綿業界は1931年まで長期的な不況に苦しむこととなりました。

合成繊維の開発

1930年代から1940年代にかけて、合成繊維の開発は世界各地で進んでいました。それらの繊維は自然素材の限界を超える性質を持ち、多様な用途に対応することができました。

1931年にはドイツでポリ塩化ビニル(PVC)が開発されました。PVCはその耐水性、耐腐食性、耐酸性、難燃性などにより、パイプ、電線の絶縁材料、衣料品など様々な製品に使われました。

1935年にはアメリカのデュポン社がナイロンを発明しました。ナイロンは耐久性、強度、軽量性などに優れ、特に女性のストッキング、通称”ナイロンストッキング”に使われ、一世を風靡しました。また、手術糸、釣り糸、ロープ、パラシュートなどさまざまなものにも利用されました。

その後も、合成繊維の開発は進み、アクリルやポリエステルなどが開発されていきました。これらの繊維は服地として使われることが多く、洗濯に強く、シワになりにくいという特性を持っています。

日本でも1939年に京都大学でビニロンが発明されました。ビニロンは合成繊維の中でも特に強度が高く、熱にも強い特性を持っています。そのため、作業服や学生服、漁網、ロープなどに利用され、戦時中の資源不足を補う重要な役割を果たしました。

「女工」の“結核”が深刻な社会問題

明治時代から昭和初期の日本では、急速な工業化と近代化の影響で労働環境の悪化が問題となりました。特に繊維工業では、大量の女工が劣悪な労働環境と長時間労働のもとで働かされていました。

過密な生活環境と不衛生な状況は、結核という感染病の蔓延に火をつけました。結核は感染力が強く、長時間密閉空間で接することで容易に感染します。また、栄養状態や生活環境が悪いと抵抗力が落ち、感染しやすくなることも結核が蔓延した一因です。

女工が結核に感染し、労働力を失った場合、彼女たちは故郷に帰ることが多かったです。その結果、それまで結核がほとんど存在しなかった地域でも結核が蔓延する事態となりました。

1935年には、日本の死因別死亡率で結核が第1位となり、戦後の1950年までその状況が続きました。この期間、結核は日本社会において深刻な健康問題となり、多くの人々の命を奪いました。

石原修 [著]『女工と結核』

石原修の『女工と結核』は、明治時代から昭和初期の日本における労働環境と結核の関係を詳細に調査した重要な研究であり、石原はその中で結核の罹患と産業化、特に繊維工業の女工の労働環境との関係を明らかにしました。

石原の研究は、1911年に公布され、1916年に施行された工場法の制定に向けた一連の調査の一部として行われました。この工場法は、労働者の保護と労働環境の改善を目指し、労働時間の制限や休息時間の確保、未成年者の労働の制限などを定めたものでした。しかし、その施行初期は適用範囲が狭く、また法律自体が十分に実施されないなどの問題がありました。

『職工事情』や「工場調査要領」も、工場法制定に向けた調査の一部であり、工場労働者の実情を詳細に把握するためのものでした。これらの調査は、労働者の健康と安全に対する認識を深めることで、労働法制度の改善につながりました。

結核の蔓延は、産業化と結びついているとされているが、それを具体的に示した石原の研究は、当時の日本の公衆衛生と労働環境問題に対する理解を深めるうえで重要な役割を果たしました。

結核対策で「工場法」が施工!


大正期に施行された工場法は、近代日本の社会政策の草分けとも言えるもので、労働者の保護と労働環境の改善を目指しました。しかし、その当初の施行には多くの問題がありました。

一つには、工場法が15人未満の工場に適用されなかったこと、また製糸業においては14時間労働を期限付きで認めてしまったことが挙げられます。このような規定は、労働者保護の観点から見て不完全であり、特定の業種や規模の工場での過酷な労働環境を容認する結果となりました。

また、工場法の施行は、反対派の抵抗により延期され、1916年(大正5年)まで実施されませんでした。

さらに労働条件を改善へ!「改正工場法」が施行

1923年に公布され、1929年に適用された改正工場法は、日本の労働環境に大きな変化をもたらしました。この改正工場法により、紡績業界における深夜業が禁止され、それまでの二交代12時間勤務から、深夜業のない二交代9時間勤務が標準となりました。これにより労働者の生活環境や健康状態が改善される一方で、企業側には新たな課題が発生しました。

この時期、日本は昭和初期の不況に見舞われており、企業は生産コストを削減する必要性に迫られていました。新たに施行された改正工場法は、深夜業を禁止し、操業時間を短縮するという規定を持っていたため、企業はこれに対応するために技術的合理化と人員削減を進めました。

しかし、こうした企業の対策は、労働者の待遇や労働環境の悪化を招く結果となり、労働争議が多発することとなりました。これは、労働者の権利保護と企業の経済的効率追求という、社会的な課題を明確に浮き彫りにした出来事であり、その後の労働法制度の改善や発展に大きな影響を与えました。

「第二次世界大戦」軍事産業へ強制転換されたり、空襲の被害で衰退……。

第二次世界大戦は、日本の繊維産業に深刻な影響を与えました。戦時体制下では、軍事目的に直接寄与しない産業は低い優先順位に置かれ、繊維産業もその例外ではありませんでした。

まず、経済の軍需物資生産に注力するため、企業の統合が強制されました。これにより、繊維産業は「10大紡」と「化繊7社」という体制に再編されました。この統合は、競争を排除し、生産効率を向上させることを目指していました。しかし、一部の大企業による業界支配は、中小企業の困難を増幅させました。また、繊維産業以外の企業は、軍需産業への転換を余儀なくされました。

さらに、戦局の悪化に伴い、繊維産業の設備や資源は軍需物資生産のために供出されることが求められました。紡績工場の設備はスクラップとして供出され、また、工場自体も空襲の被害に遭いました。

これらの一連の動きにより、戦時中の日本の繊維産業は著しく衰退しました。

20th Century Japanese Photography

戦後、GHQの手によって紡績業が復活!!

第二次世界大戦後、日本の繊維産業は極度に縮小しました。戦時中の供出や空襲により、多くの生産設備が失われていました。しかし、連合国軍最高司令官(GHQ)による戦後統制政策の一環として、繊維産業の再建が進められました。

特に、綿紡績産業は早期に復興を遂げました。これは主に二つの要因によるものです。一つ目は、10大紡績による設備復旧と、新たな紡績企業への参入奨励により、生産設備が再建されたことです。二つ目は、アメリカからの援助により、必要な原料である米綿を輸入できるようになったことです。

これらの措置により、綿紡績産業は戦後の経済復興に大いに貢献しました。特に外貨獲得において重要な役割を果たし、日本経済の安定化と成長に寄与しました。

朝鮮戦争で米軍からの大量注文「糸へん景気」

1950年に勃発した朝鮮戦争は、日本経済に大きな影響を与えました。戦争によりアメリカ軍からの軍需品の大量発注があり、これが日本経済に特需景気をもたらしました。特に繊維産業と鉄鋼業は大きな成長を見せ、この期間を「糸へん景気」「金へん景気」とも呼んだほどでした。

繊維産業はこの頃最盛期を迎え「ガチャマン景気」とも呼ばれました。

「ガチャマン景気」とは、「(織機を)ガチャンと織れば万の金が儲かる」という業界の繁栄を例えた言葉です。

特に織布部門では、紡機に比べて織機の生産・補修が比較的容易であったため、1949年半ばから翌年3月頃まで織機台数・工場数が急増しました。さらに、GHQによる戦後統制の解除と朝鮮戦争特需を契機に、綿紡績産業への新規参入も相次ぎました。これらの要素が組み合わさり、繊維産業は戦後の日本経済復興に大いに貢献しました。

その後は一気に不況の渦に……。

951年に入ると、朝鮮戦争による特需景気は終わりを告げ、日本経済は深刻な不況に陥りました。この結果、各紡績工場は稼働時間を短縮し、女性労働者たちは大量に解雇されました。さらに、工業機械そのものが東南アジアへと流出しました。

一方で、1960年代には、経済成長を背景に、都市への一大人口移動が起こりました。貧しい農村地帯から都市へと若い労働力が集団就職で集められ、工業化を支える労働力となりました。この期間は、都市と地方との経済格差が広がる時期でもあり、その影響は現代の日本社会にも残っています。

貧乏な農村地帯から都市部への若者の「集団就職」が増加

高度経済成長期の日本では、産業の発展に伴い、労働力需要が急増しました。1952年以降、新規中卒者への求人倍率は上昇を続け、1964年以降は男女ともに3倍を超えるほどになりました。この時代は中卒労働者が「金の卵」と言われるほど求められ、中卒でも求職者のほとんどが就職できる状況でした。そのため、中学卒業生たちは「集団就職列車」に乗って大都市へ向かうことが一般的でした。

この時期は日本の社会経済の発展に大いに寄与し、多くの若者が工業化と経済成長を支える労働力となりました。しかし、このような大量の労働力の動きは、地域間の人口移動を促進し、地方と都市の間の経済格差を広げる一因ともなりました。

IBC岩手放送 6BOX/YouTube
紡績工場と女工の集団就職

このような中学校と紡績工場との提携による集団就職は、高度経済成長期の日本でよく見られた現象でした。地方の中学校は特定の紡績工場と提携し、卒業生を連続的に工場へ送り込むシステムを持っていました。これにより、工場は安定的な労働力を確保でき、一方の学生は就職先を見つけやすくなるというメリットがありました。

それぞれの工場は特定の地域から労働者を募集することが一般的で、地方の学生たちは先輩たちが働く工場へ行くことが多かったようです。例えば、北海道の美深から富山県の日清紡へ行くようなケースがありました。

農村から都市部への気持ちを歌った曲が大ヒット

1950年代から60年代の日本は高度経済成長期と呼ばれ、この時代には大量の農村出身の労働力が都市部の工場へと流入しました。これは”人口の産業構造転換”とも言われ、経済の急激な成長を支える重要な要素でした。

この時代の社会現象は、当時の流行歌にも反映されています。例えば、1959年には「上を向いて歩こう」が大ヒットし、苦労しながらも前向きに生きる若者たちの姿を象徴していました。

Hisaki TV/YouTube

化学繊維が普及

化学繊維の登場は、ファッションや日常生活に大きな変化をもたらしました。ナイロンのストッキングは、一般的な消費者にとって初めての化学繊維製品であり、その耐久性、安価さ、さらにはエレガントな外観からすぐに人気を博しました。

その後、1950年代から60年代にかけて、アクリルやポリエステルなど新しい種類の化学繊維が開発され、ますます一般的になりました。これらの素材は、天然の繊維(綿や絹など)に比べて製造コストが低く、生産量を増やすことが容易であるため、衣料品の価格を下げ、大量消費を可能にしました。

また、化学繊維は機能性にも優れており、耐久性、軽さ、吸湿性、速乾性など、さまざまな特性を持つ製品を提供することができます。これらの特性は、スポーツウェアやアウトドア用品など、特定の用途に適した製品の開発につながりました。

「女工」と女子バレーの深すぎる関係

バレーボールは、その起源から女性労働者に適しているスポーツと考えられてきました。19世紀末のアメリカで、体力的な制約がある女性労働者のためのスポーツとして発案され、その後全世界に広まりました。

日本でも、戦後の繊維産業復興期には、多くの「女工」よ呼ばれた女性労働者が寄宿舎で生活しながら工場で働いていました。彼女たちは厳しい労働条件の中で働く一方で、余暇にはバレーボールを楽しむことでストレス解消や健康維持を図っていました。

Film Archive of Japan/YouTube

健康のためにレクレーションを!「女工」たちはバレーを楽しんだ

明治時代から大正時代、そして昭和時代初期にかけて、繊維工場の女性労働者たちは厳しい労働環境の中で働いていました。その過酷さは、例えば記録文学『女工哀史』などを通じて後世に伝えられています。しかし、国内外からの批判や政府による規制、そして企業側からの待遇改善の動きにより、労働環境は徐々に改善されていきました。

大正時代に施行された工場法により、労働時間が短縮され、健康増進を目的としたレクリエーションが工場ごとに導入されるようになりました。その中で取り入れられたスポーツの一つがバレーボールでした。

バレーボールは、織機工場の女性労働者たちにとって、気軽に楽しむことができるレクリエーションとして受け入れられました。小さなスペースでもできること、多くの人と一緒に楽しむことができることなど、バレーボールが工場で普及した理由は多くあります。

そして、昭和の高度経済成長時代になっても、工場の空き地やビル横の駐車場、さらにはビルの屋上などで、働きながらもバレーボールを楽しむ風景は日本の至る所で見られました。それは、バレーボールが労働者たちの間で広く受け入れられ、その休憩時間の定番となっていたからです。

しかし、それらの工場でのバレーボールは、あくまでレクリエーションとして位置づけられていました。当時、バレーボールの競技大会で強かったのは、実業団よりもむしろ学校だったと言われています。

戦後初頭、競技目的でのバレーがスタート

戦後初頭、バレーボールは繊維工場の女性労働者たちにとって、身体を健康に保つレクリエーションの一つでありながら、同時にチームワークや共同性を育む競技スポーツとしても機能していました。そして、1950年代に入ると、バレーボールは実業団中心のスポーツとして発展していくことになります。

労働運動が盛んな時代、団結のために社内対抗女子バレー大会が開催!

当時は労働運動が盛んな時代で、工場の経営者たちは労働者たちが「変な思想」に取り込まれないようにするため、健全な職場環境を作るための手段としてバレーボールを奨励しました。その結果、同じ会社でも寮や工場、部署などの単位でバレーボールチームが組織され、社内大会が開かれるようになったのです。また、チームは対外試合にも積極的に参加し、その活動は社内だけにとどまらず、社会全体に広がっていきました。

女子社員の離職率対策

1950年代まで、女性社員の勤続年数は一般的に短く、多くの女性が20歳前後で職場を離れ、その後連絡が取れなくなるというケースが多かったのです。これは女性の社会進出がまだ制限されていた時代背景と、女性の生涯進路が結婚と家庭生活を中心に据えていたことが影響していました。

このような状況を改善するため、当時の繊維業界は、労働者の待遇改善や工場環境の改良に努めました。特に、工場の近代性や安全性をアピールし、労働者にとって面倒見の良い職場であることを強調するための一環として、レクリエーションとしてのバレーボールが採用されました。

企業同士でのバレー対決が始まる

繊維業界におけるバレーボールの競争が激化する中で、チームの編成は工場単位から企業単位へと変化していきました。この変化を引き起こした社会的背景には主に次の2つの要素があります。

  1. 繊維業界間の競争激化: 繊維業界全体での競争が激化したことにより、工場単位での選手育成だけでは競争力を維持することが難しくなった。企業全体としての資源を集中させることで、より高いレベルの選手育成とチーム編成が可能になりました。
  2. 朝鮮戦争特需後の従業員減と工場閉鎖: 朝鮮戦争特需による経済ブームが終息すると、繊維業界は従業員の減少と工場の閉鎖という厳しい状況に直面しました。その結果、企業はより効率的な運営を追求する必要が生じ、企業単位でのチーム編成が一つの解答となったのです。

このような変化をいち早く取り入れたのが大日本紡績で、その結果として誕生したのが日紡貝塚チームでした。このチームは繊維業界だけでなく、日本の実業団バレーボール界全体においてもその後の時代を牽引する存在となりました。

大日本紡績「日紡代表女子バレーボールチーム」を編成

大日本紡績は1954年に各工場のバレーボールチームを貝塚に集約し、さらに高卒の新人選手を大量にリクルートして、全社的な統一チームを結成することでチーム強化を図りました。監督には貝塚工場勤務の大松博文が就任しました。大松は学生時代からのバレーボールのプレイ経験を買われ、その能力が認められての任命でした。

バレーボール部の強さは、会社の強さを示すバロメーターとされていました。つまり、バレーボール部が勝つということは、会社が強いという証明となるのです。そのため、日紡貝塚女子バレーボール部は何があっても勝ち続けることが求められました。当時の大日本紡績の社長であった原吉平は、その思いを強く大松監督に伝え、激励しました。

nandemo/YouTube

日紡貝塚の結成は、女子工員たちのレクリエーションから完全に分離した形で実現したものでした。バレーボール部は、会社の名誉に関わるものとして、必ず勝たなければならない存在となりました。これにより、バレーボールの意義は根本的に変わり、女子バレーボール部と各工場のレクリエーションとの間には一線が引かれました。

日紡貝塚の選手たちは、会社の庇護の下で、各工場のバレーボール部から有望な選手が集められました。また、工員用の大食堂を体育館に改築するなど、選手たちは昼夜を問わず練習に励む環境が整えられました。

そして、そのチームが世界を席巻しました。欧州メディアから「東洋の魔女」というニックネームをつけられ、それは日本の女子バレーボールチームの代名詞となりました。

東京オリンピック後、「東洋の魔女」たちは次々と結婚し、主婦となりました。これは、高度成長の時期に「女工」が消え、女性労働者が急速に主婦化する過程と重なっていました。東京オリンピックは、金メダルを熱望する国民の強い要望で引退を延期した「東洋の魔女」たちの最後の舞台でもありました。

繊維業界といえば女子バレー

大日本紡績だけでなく、日本の繊維工場全体が女子バレーボールチームの育成に力を入れていました。その理由は、繊維会社の従業員の多くが女性であったことが大きな要因となりました。例えば、当時の鐘紡では、女性従業員の約2割がバレーボールに参加していたと言われています。

これにより、日本の女子バレーボールを繊維会社が支えるというパターンが形成されました。全日本総合女子選手権に出場したチームを見ても、鐘紡から6チーム、日紡から5チーム、倉紡から4チーム、東レから3チーム、東洋紡から2チームが参加し、これら大手繊維会社からだけでも全体の20チームが参加していました。これは全出場チーム50チームの4割を占めています。大手以外の繊維会社も参加していたことを考えると、この時期の女子バレーボールの約半分は繊維会社のチームによって成り立っていたと言えます。

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