《激動の繊維産業史 ① 》「紡績」と「工女」日本近代化の支柱となった産業と女性たち

日本の紡績産業の興隆は、ただの経済の変遷にとどまりません。それは、一人ひとりの女性たちが困難に立ち向かい、新たな未来を切り拓いた感動の軌跡です。鎌倉時代から始まった綿花作りの挑戦は、庶民の生活に息づき、地域ごとに独自の織物文化を築き上げました。

そして、明治時代の産業革命によって、日本は世界の舞台に立ち上がります。富岡製糸場に集った女工たちは、新しい技術を学び、高品質な生糸を生み出しました。彼女たちの努力と情熱は、当時の社会で限られた役割が求められる中で輝く存在となりました。この記事では、彼女たちの生き様と紡績産業の興隆を通して、勇気と情熱の力がどれほど大きな変革をもたらしたのかを描きます。感動の涙がこぼれる、女性たちの奮闘の物語に、心をゆさぶられることでしょう。

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明治6年春、長野県松代区長の娘・横田英は反対する父を説得し、同郷の河原鶴らとともに富岡製糸場に工女として入場した。製糸場に到着した英が目にしたのは、壮大なレンガの建物とピカピカの器械、そして西洋式の労働環境の中で真摯に糸を引く先輩工女たちの姿だった。工女たちは、紅い襷を掛けることが許されている一等工女になり、一日も早く技術を習得し故郷に戻ることを夢見ていたが…。(「Oricon」データベースより)

The history of spinning in Japan Part.1

日本における繊維の歴史

tsulunos/YouTube

繊維の歴史は、人類の歴史そのものと言えるほど長い。我々の祖先が最初に繊維を手にした時点から、それは人類の生活と切り離すことのできない存在となりました。麻や棉などの植物繊維、そして蚕が吐く糸を材料に、私たちは古代から衣服を作り、自分たちの体を守ってきました。

特に日本においては、自然環境との密接な関係の中で、さまざまな繊維素材が開発され、活用されてきました。和紙のように、植物の繊維から作られたもの、そして世界的にも有名な絹織物のように、蚕の産んだ繊維から作られたものなど、その例は数多くあります。

だからこそ、近代化の過程で日本の繊維産業が大きな発展を遂げたことは、驚くべきことではありません。それは単に技術的な進歩や産業の成長だけでなく、日本人が長い歴史を通じて培ってきた繊維に対する深い理解と、それを活用するための技術と知識の結晶だったのです。

「紡績」の起源と進化

「紡績」とは、原料となる麻や羊毛、綿などの天然繊維から糸を作る工程を指します。「紡」は撚り合わせること、「績」は引き伸ばすという意味を持ちます。紡績によって作られた糸は「紡績糸」と呼ばれます。

紡績の技術は、人類の歴史と共に進化しました。最初は手作業で行われていましたが、産業革命以降、機械化が進んで大量生産が可能になりました。この技術の進歩により、紡績業は大きな発展を遂げ、工業化の一翼を担うこととなりました。

三幸毛糸紡績株式会社/YouTube

絹と養蚕の歴史

日本の繊維産業においては、絹の生産も重要な役割を果たしてきました。絹は、蚕という昆虫が作る繭から引き出した糸から作られます。蚕は糸を吐き始めてから吐き終えるまで途切れることのない一本の糸で繭を作り、その長さは千数百メートルにもなります。

数個の繭から糸口を引き出してほぐした糸を撚り合わせて、一本の糸としたものを生糸といいます。繭の表面を作る繊維は質が悪いので製糸の段階で良質な糸と区別され、この糸がのし糸、またはしけ糸と称されます。また繭の最内部の糸もキビソと称し、他のくず繭とともに紡績絹糸の材料として主に用いられます。

この蚕を飼って繭を収穫することを養蚕と言います。養蚕は蚕を育てて繭を収穫する農業で、日本における絹の生産には欠かせない存在です。

KATAKURA/YouTube
「お蚕」と神々との関連性

蚕は、昔から「お蚕」と「お」を付けて呼ばれ、神蠶(かみこ)や神の蠶(かみのこ)として尊ばれてきました。これは、蚕が人間にとって貴重な糸を供給する重要な存在として見られてきたからです。現代の漢字でも蚕(かいこ)は、上下に分けると「天」の虫になります。これはまさに、神から授かった虫、という意味合いを持つことができます。

日本の神話においても、蚕は重要な役割を果たしています。古事記の国産みの話には、二番目に創られた伊豫之ニ名洲のうち阿波国が大宜都比売(オオゲツヒメ)として誕生し、その頭の部分から蚕が生まれたとあります。同様に、日本書紀にも保食神(うけもちのかみ)の眉の上から蚕が生じたとの記述があります。

また、天照大神が繭を口に含んで糸を紡いだとの記述もあります。これらの神話や伝説は、蚕や絹が日本の生活や文化にどれだけ深く結びついていたかを示しています。

糸

東のシルクロード:日本の絹産業の形成

「魏志倭人伝」によると、238年には邪馬台国の女王卑弥呼が中国の魏王に斑絹を贈り、その返礼として多数の高級絹織物が下賜されたと伝えられています。これは、当時の日本においてすでに独自の養蚕・製糸・染色技術が存在していたことを示しています。これは、古墳から出土された斑絹などが中国の織物とは糸使いが異なっていたことから推察されています。

その後、大化の改新の頃から増えた中国大陸や朝鮮半島からの渡来人によって、中国の蚕種や養蚕・製糸・染織などの先進的な技術が持ち込まれました。これらの技術は日本各地に広まり、各地で独自の発展を遂げ、多様な絹産地が形成されました。

このように、西のシルクロードに対し、朝鮮半島を経て日本に伝わったルートを「東のシルクロード」と呼びます。これは、東アジア地域における絹や繊維の交流と技術伝達の重要な経路であり、日本の絹産業の発展に大いに寄与しました。

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養蚕と日本の農家たち:租税としての絹

養蚕は、紀元前200年頃に日本に伝わったとされています。当初は限定的な範囲で行われていた養蚕ですが、奈良時代にはすでに全国的に広がっていました。その結果、絹織物の生産が日本の農家たちの重要な仕事の一部となりました。

農家たちは絹織物を作り、それを朝廷への租税として納めていました。つまり、絹はただの商品ではなく、政治的・社会的な価値も持つ重要なアイテムでした。

絹織物の製造は、農閑期の農家の仕事として行われ、女性たちが中心的な役割を果たしていました。これは、後の近代化の過程で女性労働者が紡績業において重要な役割を果たすことへとつながっていきます。

朱雀門

綿の栽培:日本への紹介と挑戦

日本で綿が初めて栽培されたのは、桓武天皇の延暦18年(799年)でした。三河国に漂着したインド人がもたらした種子により、日本での綿栽培が始まったとされています(『日本後紀』による)。しかし、この種子は1年で絶えてしまいました。

その後、何度か種子が渡来して栽培が試みられましたが、それらは定着しませんでした。これは、日本の気候が綿栽培に適していなかった、または栽培技術が未熟だったことが原因であったと考えられます。

しかし、これらの挫折が日本の農民たちに綿栽培への挑戦を諦めさせることはありませんでした。その後も綿栽培の試みは続けられ、技術の進歩と共に、徐々にその結果も改善していきます。

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平安から鎌倉:絹織物の変遷と衰退

平安時代に入ると、日本の服装文化は現在の着物のようなスタイルへと変化しました。この時期、独自の文様の絹織物が作られるようになり、華やかさと繊細さが求められるようになりました。絹織物は、当時の貴族たちの間で高く評価され、贅沢で上品な生活の象徴とされていました。

しかし、鎌倉時代に入ると、文化の中心が平安の貴族から鎌倉の武士へと移りました。武士たちの間では「質素」であることが美徳とされ、絹織物への需要が減少しました。結果として、絹織物の一大産地であった京都の織物産業は衰退を迎えることとなりました。

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室町時代~安土桃山時代:撚糸技術と「西陣織」の誕生

室町時代から安土桃山時代にかけて、日本の織物産業は新たな段階に進みました。この時期、中国から撚糸(糸に撚りをかける)技術が伝わり、それにより日本独自の織物、「西陣織」が誕生しました。

西陣織は、その名の通り、京都の西陣地区で生まれた織物で、織り込まれる細やかな文様と、質感のある絹糸の使い方が特徴です。撚糸技術の導入により、より強度のある糸が作れるようになり、その結果、織物のデザインや品質が飛躍的に向上しました。

西陣織は、その美しさと品質の高さから、茶道具の袋や室礼の障子、そして高級着物の素材として広く使われるようになりました。また、その製作過程は高度な技術を要し、それが西陣織を製造する職人たちのスキルと名声を高める一因となりました。

西陣織會館-和服走秀

江戸時代:絹織物の普及と地域産業の発展

江戸時代に入ると、日本の織物産業は大きな変革を迎えました。社会の安定化と貨幣経済の発展に伴い、絹織物は上流階級だけでなく庶民の間でも広く使われるようになりました。しかし、その一方で、生糸や絹織物の多くが中国からの輸入品であったため、幕府財政を圧迫するまでになってしまいました。

このため、幕府は奢侈禁止令を何度も出し、庶民が絹物を着用することを制限しました。また、中国からの生糸の輸入を減らすために、養蚕が奨励されました。これにより、国内での絹織物の生産が盛んになり、それぞれの地域で独自の織物が生み出されました。

金沢では友禅染め、山形では米沢織、茨城では結城紬、仙台では仙台平など、各地で特色ある織物が作られるようになりました。これらの織物は、各地域の伝統文化を反映したもので、その技術やデザインは、現在でも評価されています。

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江戸時代:木綿の普及と「衣料革命」

江戸時代は、庶民の普段着の生地が麻から木綿へと大きく移り変わった時代でもありました。これは、1540年代に琉球から薩摩を経て内地に綿栽培が伝わったことに始まります。その後、綿栽培は盛んになり、特に尾張平野では麦作の後に生綿(きわた)を作るのが一般的で、秋祭りの頃には見渡す限り綿の白で溢れ、住家と納屋も生綿の山となりました。

加工のしやすさや暖かさという利点を兼ね備えた綿は、江戸時代に栽培が広まるとあっという間に人々の生活に普及しました。さらに、綿は藍によく染まるという特徴も持っていたため、綿とともに藍染も広まりました。

その結果、木綿は庶民の暮らしに浸透し、綿花作りは最盛期を迎えました。江戸時代以前は木綿衣料の大半を輸入に頼っており、高級衣料でした。しかし、国内生産が始まると「衣料革命」が起こり、木綿は庶民の生活に欠かせないものとなりました。これは、高価な絹と違い、木綿の値段が手頃だったからです。

Cotton Harvest

幕末から明治初期:工業化と紡績業の興隆

1853年にマシュー・ペリー提督が来航し、日本との貿易が再開されると、イギリスから機械生産による規格統一された安価な綿織物が大量に輸入されました。これにより、日本の伝統的な綿織物工業は大混乱に陥り、休業や倒産が相次ぎました。

幕末から明治初期にかけて、「始祖三紡績」と称される鹿児島紡績所、堺紡績所、鹿島紡績所が設立されましたが、綿糸の輸入は増加の一途でした。特に慶応3(1867)年5月には、国策上の立場から技術導入を第一目的として、日本で最初に設立された鹿児島紡績所に注目が集まりました。創業当初から勤めていた元工女は、「職エハ皆通勤ニシテ主モニ市内ヨリ来レリ」「当時職エタラントスル者甚ダ多クシテ容易二採用サレズ」と述べており、すべて通勤工であり、また、職工の希望者が多く、なかなか採用されなかったことを語っています。

このように、幕末から明治初期にかけては、日本の紡績業が大きな変革期を迎えた時期でした。

ペリー艦隊来航記念碑

明治新政府と紡績業の発展

明治新政府は、「富国強兵」の原則に基づいて日本社会の近代化を急激に促進しました。政府は、近代化を実現するために必要な外貨を獲得する目的で、殖産興業政策によって、多くの産業部門に介入しました。幕府から継承したものや新設したものを含む官営工場の経営に乗り出したのです。

中でも、製糸業は、当時、最大輸出品であった生糸を生産して大量の外貨をもたらす産業として、国策の中核に位置づけられました。「男軍人、女は工女、糸を引くのも国のため」と唄われたように、政府は内務卿・大久保利通の下で殖産興業政策を推し進め、富国強兵の実現に努めました。

製糸業が明治日本の主要輸出産業になりえたのは、原料である蚕、繭、生産器械をすべて国産で賄えたためです。この結果、製糸業は日本の産業近代化の一翼を担う存在となり、国内の経済力を大いに高める役割を果たしました。

生糸

明治初期の紡績業とその挑戦

明治時代になると、外国綿糸の大量輸入により国内の綿糸生産が圧迫されるようになりました。危機感を持った明治政府は、1878年(明治11年)に、英国マンチェスターからミュール2,000錘紡績機2台を購入し、官営紡績所を設立しました。

ミュール紡績機は、1779年にイギリスの発明家サミュエル・クロンプトンが新しい紡績機を発明したもので、天然繊維をよって連続的に糸にする装置です。その後、1830年にリチャード・ロバーツがこれに蒸気機関を組み合わせ、さらに作業を自動化することに成功しました。

国産綿と技術者不足、日本紡績の成長に立ちはだかる課題

明治政府は、これらの紡績機を各地の事業者へ貸し付けて産業育成を図りました。これら政府によって生まれた紡績工場は「十基紡」と呼ばれました。これらの紡績所では、通勤可能な地域から職工を調達することができ、職工も多くて100人程度でした。職工の多くは貧困士族の子女でした。

しかし、2,000錘の本格的な洋式の紡績機械を稼働させるためには馬力が足りませんでした。安定的な動力を確保するためには、どうしても石炭による蒸気機関が必要となり、その輸送コストは予想外の出費となりました。

また、イギリスの紡績機は当然のことながら現地綿を基準に作られており、奈良県で調達できる国産綿とは、繊維の質が異なりました。その上、機械がトラブルを起こした時に迅速かつ的確に対応できる熟練技術者がまだ育っていませんでした。

困難を乗り越えた紡績業界の変革

これらの課題を背景に、開業後、わずか十数年で廃業に至る紡績所も出現しました。

しかし、これらの困難を乗り越えるための努力も始まっていました。それは、国内での技術習得と人材育成の重視、資源調達の改善、そして最終的には自国での機械製造への道を開くことでした。

一方で、日本の産業界は、特に明治政府の指導の下で、新たな技術と知識を学び、洋式の製品を生産するための新しい工場を建設しました。これにより、日本の産業は、伝統的な家内制手工業から近代的な工場制手工業へと大きく転換しました。

日本の独自の産業化戦略とその成果

さらに、明治政府は欧米からの技術導入と並行して、独自の産業基盤を構築するために、国内での技術開発と研究を推進しました。これにより、日本は自らの工業化を進めるための基盤を確立し、独自の産業発展の道を開いたのです。

特に注目すべきは、人材育成のための教育制度の整備でした。明治政府は、新たな学問と技術を学ぶための学校を設立し、また海外への留学生を送り出すことで、産業界に新たな人材を供給しました。これらの取り組みにより、日本は西洋の技術を取り入れ、自国の技術を開発し、産業革命を遂げることができました。

このように、明治時代の日本は、外国からの圧力と内部の困難を乗り越えるための戦略を開発し、独自の産業革命を達成しました。これは、日本が西洋の近代化とは異なる、独自の道を歩んだ証拠であり、その結果、日本は東アジアで初めて工業化した国となりました。

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父のため国のため世界に通用する生糸を目指す!日本の工女第一号・尾高勇の青春。世界遺産富岡製糸場誕生秘話(「BOOK」データベースより)

Eiichi Shibusawa

「渋沢栄一」の手によって紡績業が復活する

TOKYO MX/YouTube

渋沢栄一は、日本の近代化の立役者として知られています。彼は、日本が近代的な国際経済システムに適応するために必要な経済制度と企業組織を導入しました。彼はまた、経済と道徳を結びつけるという観念を提唱し、その結果、彼はしばしば日本の資本主義の父と見なされています。

渋沢は、明治時代初期に日本の養蚕業と生糸産業の近代化に尽力しました。彼は、品質と生産性を向上させるために、西洋の繰糸機械を導入することを提唱しました。これらの機械は、手作業による生糸生産よりもはるかに効率的で、一定の品質の生糸を大量に生産することが可能でした。

1872年、渋沢は政府の支援を受けて日本初の官営模範工場、八幡製糸場を設立しました。この工場は、日本の生糸産業の近代化を牽引し、日本の主要輸出品である生糸の品質と生産量を大幅に向上させました。

渋沢の業績は、養蚕業と生糸産業だけにとどまりませんでした。彼はまた、日本初の現代的な銀行である第一国立銀行を設立し、日本の近代的な金融システムを確立しました。さらに、彼は日本の近代的な企業組織を導入し、多くの重要な企業、例えば三菱商事など、の設立に関与しました。

これらの業績により、渋沢栄一は日本の近代化の重要な推進者として認識されています。

その規模は1万錘「大阪紡績」設立

渋沢栄一は、日本の紡績産業を近代化し、国際競争力を高めるために大規模な紡績所を設立することの重要性を理解していました。彼は、日本の紡績所が海外の競合相手に比べて規模が小さく、適切な経営者と技術者が不足しているという問題を把握していたため、1万錘規模の紡績所の設立を提案しました。

同時期に、大阪では藤田伝三郎、松本重太郎、および繊維関連の商人らとともに紡績会社を設立する機運が高まっていました。これらの関係者は、大阪府から工業用地を借りることができることを知り、渋沢栄一と手を組むことを決定しました。そして、1882年に東京と大阪の資本が結集し、日本初の蒸気力紡績会社である大阪紡績会社が設立されました。

日本人技術者を育てるために「山辺丈夫」をイギリスに派遣

山辺丈夫は渋沢栄一からの要請に応じて紡績業の実態調査を行い、その知識と経験は日本の紡績業の発展に大いに貢献しました。彼はロンドン大学を辞めて紡績工場で働き、そこで紡績技術から製品の販売方法までを学びました。

帰国後、山辺はイギリス製の最新紡績機械を輸入し、蒸気機関を採用した動力源と電灯を利用した昼夜二交代制のフル操業を導入しました。これにより、彼は大規模経営による日本初の紡績会社を成功させることができました。この成功は、後続の紡績会社にも影響を与え、それらの会社もまた、山辺の留学を手本にして学卒者を英国に派遣し、自前の技術者を養成する道を選びました。

このようにして、明治時代の日本では洋式の技術と経営手法が取り入れられ、紡績産業は大きな発展を遂げました。これは、日本の産業近代化における重要な一歩であり、日本が国際競争力を持つ産業国として成長する基礎を築きました。

日本の紡績大国のはじまりのはじまり

1883年に開業した大阪紡績は、山辺の指導の下で大きな成功を収め、そのビジネスモデルは他の紡績会社にとっての手本となりました。

その結果、天満紡、浪華紡、摂津紡、金巾製織、岸和田紡、明治紡、日本紡など、新たな紡績会社が次々と開業することになりました。これらの成功は大阪を「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようにし、その後の日本の紡績産業の成長を牽引しました。

大阪紡績の成功は、日本が世界最大の紡績大国に成長するきっかけを作ったと言えます。大阪紡績のビジネスモデルを模範とすることで、多くの紡績会社が設立され、その結果、日本の紡績産業は大きく発展しました。

の建設に向けて

明治政府は新たな産業の開発と国の富強化を目指して、ヨーロッパからの最先端の製糸技術の導入を急速に進めました。これには、渋沢栄一が大きな役割を果たしました。彼は政府から役人に任命され、新たに設立される官営模範工場の計画を担当しました。

この工場の設立にあたり、3つの重要な方針が掲げられました。1つ目は、洋式の製糸技術を導入すること、2つ目は、外国人を指導者とすること、そして3つ目は、全国から工女を募集し、訓練を受けた後に彼女たちが地元に戻り、新たに導入された製糸技術の普及に努めることでした。

フランソワ・ポール・ブリューナは、この計画に大きな影響を与えました。彼はエッシェ・リリアンタール社の生糸検査人として、製糸技術と生糸の品質についての深い知識を持っていました。彼は1870年に日本政府に雇われ、新たに設立される製糸場の立地選定に携わりました。

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群馬県富岡市に建設

場所の選定には多くの要素が考慮されました。その中で、養蚕と繭の生産が盛んで、良質な水資源があり、広大な土地を有していた群馬県富岡市が、工場の建設地として選ばれました。

尾高惇忠が明治政府に対して土地の購入を提案し、その後、フランソワ・ポール・ブリューナの計画に基づき建設作業が開始されました。この建設は1871年から始まり、約1年4か月後の1872年7月に完成しました。そして、同年10月4日には機械が稼働し、生産が始まりました。

建設費は当時の金額で24万4,940円で、この大規模なプロジェクトの実現には、伊藤博文、大隈重信、渋沢栄一、尾高惇忠などの政府高官や重要人物が関与しました。

富岡製糸場の初代場長「尾高惇忠」

その中でも、尾高惇忠は、富岡製糸場の初代場長として大いに貢献しました。彼はこの工場の建設段階から関与し、その運営と発展に一貫して尽力しました。「至誠如神(至誠は神の如し)」を信条として、彼は工場の規律維持を図りつつも、工場で働く女性たちの教育と教養の向上にも力を注ぎました。

彼はまた、後の日本の近代化における重要な人物である渋沢栄一の従兄でもあり、彼の教育にも深く関与しています。渋沢栄一は幼少の頃から尾高の下で学び、『論語』などの学問を学んだと言われています。

当時の世界最大規模!富岡製糸場

富岡製糸場の製糸工場は、当時の世界最大級の規模で建設されており、その時代の日本の近代化と産業化への強い意志を示していました。

約140.4メートルの長さ、12.3メートルの幅、そして12.1メートルの高さを持つこの建物は、その大きさだけでなく、その設計と構造でも革新的でした。日本の伝統的な木造建築技術と西洋の産業建築スタイルが融合され、製糸作業の効率化と労働条件の改善が図られました。また、建物の大きさは、製糸作業の規模を示しています。

読売新聞オンライン動画/YouTube
当時の最新鋭の設備

富岡製糸場の設立は、日本の絹産業が大きく変化するきっかけとなりました。それまでは、各繭農家が座繰りと呼ばれる手動の製糸機械で個々に生糸を紡いでいました。この方法は手間がかかり、生産効率が低かったため、生糸の量産は難しく、品質も一定ではありませんでした。

しかし、富岡製糸場の設立により、最新の製糸機械が導入されました。これらの機械はフランスから輸入され、大量の生糸を効率よく生産することが可能になりました。また、機械を用いることで、製糸工程が一貫化され、品質管理も容易になりました。

これにより、日本の生糸は品質と量産の両面で大きな向上を見せ、国際市場での競争力を高めました。富岡製糸場の設立は、日本の絹産業の近代化と発展に大いに貢献したのです。

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工場で働く女性従業員は「工女」と呼ばれていた

富岡製糸場で働く女性たちは「工女」と呼ばれました。これは「女工」ではなく「工女」と表記されたのは、その当時の日本の文化や社会規範に由来しています。

明治時代の日本では、女性が一般的に家庭内での役割を果たすことが期待されていました。一方で、富岡製糸場のような新しい工業施設では、女性が働くことが求められました。これは、絹の紡績は伝統的に女性の仕事とされてきたからです。

「工女」という言葉は、女性が「女」であることを前に置き、「工」つまり「働く」ことを後に置いています。この表現は、女性がまず第一に「女性」として、そしてその上で「働く者」として認識されるべきだという、当時の社会規範や価値観を反映しています。

一方、「女工」は「働く女性」を意味し、職業が性別を前に置く形になります。しかし、当時の日本社会では、女性の社会的な役割はまず「女性」であることが前提とされ、その上で「働く」という行為が追加されるという観念が一般的だったため、「工女」という表現が選ばれました。

富岡製糸場と工女たちの社会的変革

富岡製糸場の設立は、日本の工業化と近代化の一環として、新たな職業としての「工女」の地位を創出しました。これらの女性たちは、新しい製糸技術を学び、国内外の市場に適応するための新たな製品を生産する役割を果たしました。

その出身背景は多様で、華族や士族、平民からの女性たちが含まれていました。しかし、特に士族出身の女性が多かったことは注目に値します。これは、明治維新の時代に士族の社会的地位が大きく変化し、新たな生計を見つける必要があったからです。

富岡製糸場で働くことは、新たなスキルを習得し、新しい社会的地位を得る大きなチャンスでした。そのため、これらの女性たちは自分自身の新しい役割を誇りに思っていたと考えられます。

また、「髪は束髪 花ようじ 紫はかまを着揃えて 縮緬襷をかけ揃え 糸繰る姿のほどのよさ」という俗謡もあり、工女たちが職業婦人としての新しい地位を得て、その仕事に誇りを持っていたことを示しています。地元の人々も、彼女たちの新しい役割を評価し、尊敬していたのです。

最先端の設備!当時の若い女性たちにとって憧れの職場

富岡製糸場は、当時の日本において労働環境や福利厚生の先進的な取り組みを実施していました。日曜日を休業日とする週休制の導入は、労働者の休息と健康を重視した画期的な制度であり、夜間操業の禁止も同様です。また、敷地内に無料の診療所を設置することで、労働者の健康面でのサポートも行っていました。

富岡製糸場で働く工女たちは、日本の近代化を目指し、西洋技術を学ぶ先駆者としての役割を担っていました。工女たちの回想録『富岡日誌』には、彼女たちがその役割に誇りを持ち、フランス人指導者との交流を楽しんでいた様子が生き生きと綴られています。

富岡製糸場は、その福利厚生や労働環境の整備により、当時の若い女性にとって憧れの職場となっていました。このような取り組みは、労働者の幸福や満足度を高めることに繋がり、結果として生産性の向上にも寄与したと言えます。また、富岡製糸場の成功事例は、その後の日本の産業界においても労働環境の改善や福利厚生の充実に向けた取り組みのきっかけとなりました。

「工女」を募集するも中々集まらなかった

明治時代の日本は、急速な近代化と西洋化が進行していた時期でした。その結果、人々の間には不確実さや混乱が広がり、新しい事物や考え方に対する不安や恐怖が生まれました。これは、富岡製糸場の工女募集に対する反応にも現れています。

赤ワインを飲むフランス人の姿から「富岡の工女になると血を飲まれる」という噂が生まれ、人々の間に広まりました。これは、外国の習慣や生活様式に対する理解がまだ浅かった時代背景と、新しい工業生産方式に対する不安が混ざり合った結果と考えられます。

また、富岡製糸場が建設される前年には、通信用の電線に未婚女性の生血が塗られるという奇怪な噂が広まるなど、この時期には他の場所でも様々な流言飛語が生まれていました。

政府はこれら噂を打ち消すために告諭書を出すなどの努力をしましたが、人々の間に根強く残った噂を完全に払拭することは難しかったようです。

最初の工女「尾高勇」
CinemaGeneシネマジーン-女子向け映画情報メディア-/YouTube

富岡製糸場の初代所長の尾高惇忠の任務は非常に困難でした。工女を募ることが急務であったにもかかわらず、「血を飲まれる」という流言飛語により応募者が集まらなかったのです。そこで彼がとった行動は、自身の信念と決断力を示すものでした。

彼の最愛の娘である勇を富岡製糸場に招き、工女として働いてもらうことにしたのです。勇は当時14歳で、募集要項の15歳から25歳という条件を満たしてはいませんでしたが、惇忠はこの状況を打開するためには自らが範を示さなければならないと決断しました。

この勇敢な行動により、惇忠と勇の親子は「富岡の工女になると血を飲まれる」という流言飛語が誤りであることを証明しました。また、勇の決断は同じ村の少女たちに大きな影響を与え、勇と共に5人の少女たちが富岡製糸場に入場しました。これが工女たちの最初の集団となり、富岡製糸場の成功の礎となったのです。

富岡製糸場の一等工女たちの誇り

勇は、オーストリア・ウィーンで開催された万国博覧会に出品された富岡製糸場の生糸を製造した一等工女18人の中の1人として名を連ねたことは、彼女が優れた技術を身につけ、高品質の生糸生産に貢献していたことを示しています。

また、明治6年(1873)4月の時点で工女総数が556名に達しました。富岡製糸場がすでに大規模な生産体制を整えていたことを表しています。工女たちは新しい西洋の製糸技術を学び、その技術をもとに高品質の生糸を生産していました。

明治9年以降は外国人指導者が去り、日本人だけで富岡製糸場が運営されるようになりました。官営期を通じて経営は黒字ばかりではなかったものの、富岡製糸場の生糸はその高品質から海外で高い評価を受けていました。

当時の女性の憧れの的

富岡製糸場の導入した等級制度は、その時代としては非常に先進的なものでした。技術の習熟度によって昇進するこの制度は、現代でいうスキルベースの昇進制度や能力給制度に通じるものであり、一律の賃金ではなく、個々の技術や成果によって評価され、報酬が決まるという近代的な働き方を実現していました。

特に一等工女は、その技術力が認められ、高い給料を得ることができ、また特権として赤いタスキと高草履を許されるなど、当時の働く女性の理想の姿であり、憧れの存在でした。これは、一等工女の技術力が生糸の品質に直結し、その結果、富岡製糸場の生産する生糸が世界的に高い評価を受けることに貢献していたからです。

富岡製糸場から始まった近代日本の紡績産業

また、富岡製糸場で培われた技術と働き方は、その後の日本の産業に大きな影響を与えました。1882年には大阪紡績が設立され、近代日本綿業がスタートしました。その後も、1886年には三重紡績、1889年には尼崎紡績が設立されるなど、紡績業の発展が進みました。これらの動きは、富岡製糸場での成功が基盤となっていたと言えるでしょう。

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