《天然痘》天然痘の撲滅とワクチン備蓄 ── 人類が学んだ教訓とは【パンデミック】

《天然痘》天然痘の撲滅とワクチン備蓄 ── 人類が学んだ教訓とは【パンデミック】

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地上最強の地位に上り詰めた人類にとって、感染症の原因である微生物は、ほぼ唯一の天敵だ。医学や公衆衛生の発達した現代においても、日本では毎冬インフルエンザが大流行し、世界ではエボラ出血熱やデング熱が人間の生命を脅かしている。人が病気と必死に闘うように、彼らもまた薬剤に対する耐性を獲得し、強い毒性を持つなど進化を遂げてきたのだ。40億年の地球環境史の視点から、人類と対峙し続ける感染症の正体を探る。(「BOOK」データベースより)

Smallpox

『天然痘』

Edward Jenner statue

症状

ヒトにしか感染しない天然痘は、飛沫を介して感染します。1~2週間の潜伏期の後、急激な発熱、頭痛、関節痛を伴って発症し、数日たつと発疹となります。発疹は水疱性が特徴的で、やがて水疱が化膿して膿疱となり、かさぶたへと変化します。死亡率は20~50%と高く、助かる場合には2~3週間で回復することがあります。

感染

ヒトが唯一の天然宿主であり、不顕性感染はないことから、一般的な感染経路は、感染者からの痘瘡ウイルス飛沫やエアロゾルの吸入による気道感染、近距離接触、または天然痘患者、汚染物品との直接接触によるものが考えられる。なお、食物や水を媒介とすることはない。発病初期から感染源となり、発疹期の 1 ~ 3 日目が最も感染力が強いため、痂皮が完全に脱落するまでは感染の可能性がある。

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現役キャリア官僚が告発。根絶したはずの「恐怖」が復活。年金崩壊、失業者対策よりひどい「国民の安全も守れない」エリート集団の無能。 –このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。(「BOOK」データベースより)

Timeline of Smallpox

紀元前9000年からすでに存在!『天然痘』の歴史

Egyptian hieroglyphs

人類は太古の昔から、ウイルスが感染症の原因であることを知っていました。例えば,紀元前9000年の古代エジプトでは天然痘に関する記述が発見されており、その痕跡を残すミイラも発見されています.ウイルスは、人類にとって長い間脅威であり続けています。

古代エジプトとメソポタミアの大河流域で紀元前9000年頃、人口が増え始めたことから、天然痘が人々の間で広がるようになったのではないかと推測されています。この大河流域は、ティグリス川とユーフラテス川流域のメソポタミアという世界最古の文明の地で生まれたものです。

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文明の始まりはウイルスとの戦いの歴史の始まり

紀元前9000年頃から、肥沃な三日月地帯(2つの大河に挟まれた地帯)の土壌が非常に豊かだったため、人類が農耕を始めた。その習慣は、南のエジプト、西の小アジア、東のインドに広がり、バルト海または黒海周辺へと拡散していった。しかし、この功績の一方で農耕民は、牛から麻疹、乳から結核、豚からインフルエンザ、ネズミからペスト、ラクダから天然痘などの災厄とも闘ってきた。

インダス文明で流行の記録

Stupa at Mohenjo-Daro

紀元前2000年のインドの仏典には、痘瘡の記載があることから、天然痘の起源は古くさかのぼる。さらに、紀元前1500年のサンスクリットの医学書にも、天然痘と思われる病気の流行が記されている。

古代エジプトでは死の疫病

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エジプト王朝のラムセス5世が紀元前1100年代に没したとされるが、これは天然痘による死亡の最古の例と考えられている。

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古代ローマ帝国では何度も!

New Historia/YouTube

「アテナイの疫病」と「アントニヌスの疫病」の両方が、紀元前430年に記録に残された症状から考えられている天然痘であるとされています。

アテナイの疫病

「アテナイの疫病」は、古代ギリシャ文明を凄惨(せいさん)な衰亡に陥れた。患者たちは神殿に助けを求めてつめかけ、神にすがったが、病苦に打ち負かされ、病状が悪化したため、もうこのような場所に寄りつかなくなった。

ペロポネソス戦争と疫病

430年前のペロポネソス戦争で、アテナイとスパルタの間に争いが起きました。

ペルシア戦争では、ギリシア軍の勝利を確定させたサラミス海戦で、アテナイ海軍がその実力を見せたことで、アテナイの発言力が高まりました。これを受けて、スパルタを中心とするペロポネソス同盟は危機感を持ち、アテナイの勢いに対抗しようとしました。その結果、ギリシア全土を巻き込む一大戦争となったのがペロポネソス戦争です。

その後、翌年の前429年には疫病が流行し、ペリクレスもこの疫病で死亡しました。これ以降、アテナイは徐々に衰退していきました。

『アテナイのペスト』

「アテナイのペスト」と呼ばれてきた感染症は、ペロポネソス戦争中に蔓延したものです。しかし、現在では記録に残る症状の分析から、チフスや天然痘が原因と考えられています。そして、当時はこの病気が同時期に蔓延した為、スパルタ陣営が貯水池に毒を投げ込んだという噂も流れていました。

『アントニヌスの疫病』

166年、当時の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスが、西アジアの大国・パルティアへの遠征から天然痘を持ち帰ってしまったことから、その病が発生しました。激しい嘔吐で内臓が震え、血を吐き、目から火が出る。身体は衰弱し、足はふらつき、耳が遠くなり、盲目になると歴史家が記録しています。

キプリアヌスの疫病

キプリアヌスの記述によると、北アフリカ沿岸の都市カルタゴで発生した疫病の患者は、絶え間ない嘔吐に加えて、腸が震え、目に感染した血液の炎が燃えるなどの症状を示したという。さらに、場合によっては足あるいは手足の一部が腐って落ちることもあり、多くは失明したり聴覚障害が残った。

紀元251年から15~20年間のあいだ、ローマ帝国内に大きな被害を出したこの疫病は、歴史学者のウィリアム・マクニールによると、天然痘か麻疹であった可能性があると推測されている。当時の記録によると、1日に5,000人が死亡していたことから、この疫病は、蛮族の侵攻や政治的な混乱などとともに、ローマ帝国の混乱を助長したものと考えられている。

日本では天然痘は怨霊の仕業と思われていた!

『日本書紀』によると、古くは552年に天然痘が日本国内へ伝来していたとされています。そして、聖武天皇が国分寺などを奈良や日本各地に設立した理由の一つとして、この天然痘を怨霊の仕業だと推測し、封じ込めようとしたということも語られています。

737年に天然痘が流行し、累々たるしかばねが道を埋め尽くしたと記録されている。その猛威を受けた藤原不比等は4人の息子を天然痘で失い、政務が停滞したほどであった。聖武天皇の妃(きさき)である光明皇后の兄弟4人も病に倒れ、その冥福を祈るために法隆寺の夢殿が建てられた。天然痘の恐ろしさを前に仏教への信仰が深まり、聖武天皇は全国各地に国分寺を建立した。後醍醐天皇、後鳥羽天皇も天然痘に感染し、平安時代の蜻蛉日記には症状が詳しく記載されている。

天然痘が原因で元号が何度も変わった

「天暦(947年)、永久(1113年)、大治(1126年)、応保(1161年)、長寛(1163年)、安元(1175年)、治承(1177年)、建永(1206年)、承元(1207年)、嘉禄(1225年)、嘉禎(1235年)、乾元(1302年)、弘和(1381年)、享徳(1452年)」と天然痘の大流行によって14回も改元しています。

「インカ帝国」滅亡のきっかけ?

1519年にスペイン人がアメリカ大陸に持ち込んだ天然痘が原因で約350万人のメキシコ人が死亡し、インカ帝国が滅亡した。それ以前にインカ皇帝の2代が天然痘で亡くなり、その息子たちが帝位を競って国家が分裂していた。そこにフランシスコ・ピサロ率いるスペイン軍が侵攻したが、スペイン人たちは全く無事だった。しかしインカの民は、彼らが神に見放された証と見るべき事態となった。戦闘を始める前から、士気の差は明らかであった。つまりアメリカ大陸にはもともと天然痘は存在しなかったのだ。

あのエリザベス女王も感染

エリザベス1世は1562年に、女王即位してから4年目に天然痘にかかって29歳の時である。彼女は、国民の前で威厳ある姿を見せるため、肌を白く厚塗りし、カツラを着用していた。また、外見的なコンプレックスから豪華に着飾ることを好み、襟の大きさは「エリザベスカラー」と言われるほどに肥大化、髪には真珠を縫い付けたという。その結果、彼女は生涯独身であったとする意見もあるが、真偽のほどは明らかではない。

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明朝時代の中国

Forbidden City 紫禁城

少なくとも1千万人の死者を出したということで、萬暦・崇禎(1573年~1644年)の時代に、華北地方でペストや天然痘が猛威を振るったことが明らかになっている。

日本の蝦夷地(北海道)

1624年以後、蝦夷地では周期的に天然痘が発生し、それによって村々の人口が大きく減少していった。最も被害が大きかったのは1698年の蝦夷地全域での流行時であるといわれている。

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アメリカ大陸のインディアン

米国では1663年、インディアン部落の人口が約4万人であったが、その中で流行が起き、わずか数百人だけが生存出来た。

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ひどすぎる……天然痘の兵器利用

1755~1763年のフレンチ・インディアン戦争では、イギリス軍が天然痘を生物兵器として使用したと伝えられる最初の例として有名である。イギリスの将校は、和平交渉の席でアメリカ・インディアンに汚染された毛布を故意に与え、それによる病気の蔓延が一因でインディアンが降伏したという。現在では天然痘はバイオテロのイメージが強い。

インドで流行
Varanasi, India

インドでは1770年に300万人が死亡した記録がある。

ついに天然痘のワクチンが完成!!!

エドワード・ジェンナーは1796年5月14日、世界で初めて種痘(しゅとう:天然痘のワクチンこと)の接種を行った、イギリスの外科医です。その目的は天然痘の予防でした。このワクチンは大変効果的で、世界中の人々に接種され今もなお有効です。

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江戸時代の日本でも流行!!……その時にはワクチンがあった。

10代の藩主である鍋島直正が、1846年に佐賀藩で大流行した天然痘の予防に効果的だと知った牛痘の種痘をオランダからとりよせ、1849年8月に佐賀城で息子の淳一郎(直大)に接種した成功を収めたことにより、種痘は藩内に広がり、やがて全国に普及していきました。

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人口爆発!世界的パンデミックの危機

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1950年になると、「危険度の高い感染症」が「人から人に飛沫感染」することで、世界中で5,000万人の人が感染し、大きな問題となった。それはあっという間に大流行した。

人類の悲願が達成!!「天然痘根絶計画」

World Health Organization (WHO)/YouTube

1977年に世界保健機関(WHO)が立ち上げた天然痘根絶計画により、ソマリアで最後の患者が発生したとされています。2年間の監視期間を経て、1980年5月にWHOは天然痘の世界根絶宣言を行い、それ以来、地球上では患者の発生はみられなくなりました。

WHOは1979年時点で2億人分のワクチンを備蓄していましたが、その後徐々に減らされて行きました。しかし、現在でもなお250万人分が備蓄されています。天然痘ウイルスが生物兵器として用いられる恐れがあることから、撲滅されたのになぜこれほどの備蓄が必要なのかと不思議に思われるかもしれませんが、それが理由であるといえます。

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人類の脅威である「感染症」のなかで、唯一、根絶に成功したのが「天然痘」。本書は、最後の天然痘地帯を駆け回ったノン・テクニシャンたち、技術者たち一人ひとりの活動の記録であるとともに、「感染症」撲滅に向けた闘いの再現でもある。(「紀伊國屋書店」データベースより)
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