本記事では、天然痘という恐ろしい伝染病について紹介します。天然痘は過去に人類を苦しめた最大の敵の一つであり、数多くの命を奪ってきました。
しかし、天然痘はワクチン接種によって根絶されたという歴史的な偉業もあります。本記事では、天然痘の歴史や病気の特徴、ワクチン接種の重要性について解説します。天然痘の恐ろしさを知り、今こそワクチン接種の大切さを再認識しましょう。
Smallpox Vaccine’s Victory”
「天然痘」を克服したワクチンの開発と普及
天然痘の症状と感染経路
ヒトが天然痘の唯一の宿主であり、不顕性感染はありません。一般的な感染経路としては、感染者からの飛沫やエアロゾルの吸入による気道感染、近距離接触、または天然痘患者や汚染された物品との直接接触が考えられます。ただし、食物や水を通じた感染は報告されていません。
天然痘の症状と感染拡大のリスク
天然痘の症状は急激な発熱や頭痛、悪寒から始まります。その後、口腔や咽頭粘膜に発疹が現れ、体全体に広がっていきます。天然痘の発疹は、水疱から膿疱へと変化していき、かさぶたができるまでに数週間かかります。発疹は水痘の発疹に似ていますが、天然痘の場合はすべて同じ形態で経過することが特徴的です。
天然痘の発疹が現れると、高い感染力を持つため、感染が広がるリスクが高まります。そのため、天然痘患者は速やかに隔離する必要があります。
免疫を獲得するためのワクチン接種の重要性
天然痘には現在、効果的な治療法がありません。天然痘の治療には、発疹を抑えるための対症療法や、感染を抑えるための抗ウイルス薬が用いられますが、これらは症状を和らげる程度に留まり、完全な治療には至りません。
そのため、天然痘に対する最も効果的な対策は、ワクチン接種です。天然痘のワクチン接種接種は、天然痘ウイルスに対する免疫を獲得するために、弱毒化した天然痘ウイルスを接種する方法が用いられます。この免疫獲得により、天然痘に対する免疫を持つことができます。
現在、天然痘はほとんど絶滅した病気となっていますが、緊急時のために天然痘ワクチンが保管されており、必要な場合には使用されることがあります。
「二度なし」古代の免疫概念
人間が免疫の現象をいつごろから気がついていたのかということについて、少なくとも紀元前五世紀のギリシャ・カルタゴの戦争の記述からは、「二度なし」という言葉で今でいう「免疫」ことが書かれていることが分かります。
ただし、当時は免疫についての正確な理解はなく、あくまでも「二度かからない」という経験則に基づく知識であったと思われます。現代的な意味での免疫学の始まりは、18世紀にイギリスのエドワード・ジェンナーが天然痘ワクチンの予防接種を発見したことから始まります。
人類が古代から直面してきた病原体との闘い
人類がウイルスが感染症の原因であることを知るようになったのは比較的最近のことです。ウイルスが病気の原因であることが最初に明らかにされたのは、19世紀後半のことでした。ただし、ウイルスによって引き起こされる感染症自体は、人類の歴史において古くから存在していました。
約1万年前の新石器時代において、人類は農耕を開始しました。肥沃な三日月地帯(現在の中東地域)は、2つの大河、チグリス川とユーフラテス川に挟まれた地帯で、非常に豊かな土壌がありました。農耕の開始は、人類の歴史において重要な転換点となり、その習慣は広範囲に拡散しました。
しかし、農耕の開始とともに家畜の飼育も始まり、その結果、様々な感染症が人類に伝染するようになりました。家畜との接触を通じて、人類は牛から麻疹、乳から結核、豚からインフルエンザ、ネズミからペスト、ラクダから天然痘など、さまざまな病気と闘うことを余儀なくされました。
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インドの古代仏典に見られる痘瘡
インドの古代文献や仏典には、痘瘡(とうそう)とされる天然痘に関する記述が見られます。紀元前2000年頃のインドの仏典や、紀元前1500年のサンスクリットの医学書には、天然痘に関する症状や流行が記されています。
ファラオと天然痘の痕跡
エジプト第20王朝のファラオであるラムセス5世は、紀元前1150年頃に没したとされており、彼のミイラには天然痘によると考えられる痘瘡の痕跡が見られます。この事実は、天然痘による死亡の最古の証拠の一つとされています。
古代エジプトの女王クレオパトラも、天然痘に罹患したとの説があります。彼女の肖像画には、顔に瘢痕が描かれていることが多く、これが天然痘によるものと考えられています。
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古代ローマを襲った疫病
古代ローマ時代にも、天然痘が存在し、人々に大きな影響を与えていたとされています。
アテナイの疫病とペロポネソス戦争
ペロポネソス戦争(紀元前431年 – 紀元前404年)は、古代ギリシャのアテナイとスパルタを中心とする都市国家同士の長期戦争でした。この戦争の中で、アテナイで発生した疫病が歴史に大きな影響を与えました。この疫病は、アテナイの疫病として知られています。
患者たちは神殿に助けを求めてつめかけ、神にすがったが、病苦に打ち負かされ、病状が悪化したため、もうこのような場所に寄りつかなくなった。
この疫病は、紀元前430年から紀元前426年にかけて発生し、アテナイ市民の約三分の一(推定で約75,000人から100,000人)が死亡したとされています。
古代ギリシャの歴史家テュキディデスがその記録を残しており、アテナイの軍事力や政治力が大きく低下し、ペロポネソス戦争の行方に影響を与えたとされています。
アテナイの疫病の原因については、天然痘が一つの候補として挙げられています。症状や流行の様子から、他にチフス、麻疹、エボラ出血熱なども原因として考えられていますが、現代の科学では特定の病原体を確定することはできません。
One of the first recorded ones was the Plague of Athens in about 430BC, which ended that city’s ambitions to be a major regional power
— David Fickling (@davidfickling) January 23, 2020
It was described by the great historian Thucydides, who was himself infected. pic.twitter.com/5tyrevEqeG
恐怖のアントニヌスの疫病
アントニヌスの疫病(アントニウスの疫病)は、紀元後165年から180年にかけて発生しました。
この疫病は、当時の皇帝であるマルクス・アウレリウス・アントニヌスが、西アジアの大国・パルティアへの遠征からの帰還と共に天然痘を持ち帰ってしまったことから、始まったとされています。
この疫病は、ローマ帝国全土で大規模な流行を引き起こし、500万人以上が死亡したと推定されています。
症状については、激しい嘔吐、内臓の震え、血を吐く、目から火が出るような感覚、身体の衰弱、足のふらつき、耳が遠くなり、盲目になるなど、非常に恐ろしいものでした。これらの症状から、天然痘や麻疹が原因と考えられていますが、特定の病原体は確定していません。
キプリアヌスの疫病が示す古代医療技術の限界
キプリアヌスの疫病は、紀元251年から紀元後270年頃にかけてローマ帝国全土で発生した大規模な疫病です。キプリアヌスは、当時のカルタゴの主教であり、疫病についての記録を残しています。
キプリアヌスの記述によれば、疫病の患者は、絶え間ない嘔吐、腸の震え、目に感染した血液の炎が燃えるなどの症状を示していました。さらに、足や手足の一部が腐って落ちることもあり、多くの人が失明したり聴覚障害が残りました。
この疫病は、約15~20年間ローマ帝国内で大きな被害をもたらし、歴史学者のウィリアム・マクニールによれば、天然痘か麻疹であった可能性が推測されています。当時の記録によると、1日に5,000人が死亡、さらに二人の皇帝も感染して死亡していたことから、この疫病は、蛮族の侵攻や政治的な混乱などとともに、ローマ帝国の混乱を助長したものと考えられています。
キプリアヌスの疫病は、ローマ帝国の衰退期における重要な出来事の一つであり、感染症が当時の社会や政治に与えた影響を示す例となっています。
天然痘がもたらした日本社会の影響と仏教信仰
『日本書紀』によれば、552年に天然痘が日本に初めて伝来したとされています。聖武天皇は、天然痘を怨霊の仕業だと考え、封じ込めるために国分寺を奈良や日本各地に建立しました。
737年には、天然痘が大流行し、多くの人が犠牲になりました。その中には、藤原不比等の4人の息子や、光明皇后の兄弟も含まれていました。藤原不比等は政務が停滞するほどの影響を受けました。光明皇后は、亡くなった兄弟の冥福を祈るために、法隆寺の夢殿を建立しました。
天然痘の猛威を受け、人々は仏教への信仰を深めました。聖武天皇は、全国各地に国分寺を建立することで、天然痘と闘おうとしました。
後醍醐天皇や後鳥羽天皇も天然痘に感染しました。平安時代の『蜻蛉日記』には、天然痘の症状が詳しく記載されています。
改元と天然痘の関係
日本の歴史では、天然痘が原因で元号が何度も変わることがありました。以下の14回の改元が、天然痘の流行が大きな要因であったとされています。
- 天暦(947年)
- 永久(1113年)
- 大治(1126年)
- 応保(1161年)
- 長寛(1163年)
- 安元(1175年)
- 治承(1177年)
- 建永(1206年)
- 承元(1207年)
- 嘉禄(1225年)
- 嘉禎(1235年)
- 乾元(1302年)
- 弘和(1381年)
- 享徳(1452年)
これらの元号が改元された時期には、天然痘の大流行があり、多くの人々が病に苦しんでいました。改元は、新しい時代の幕開けとともに、病気からの回復や悪縁を断ち切ることを願って行われました。
天然痘が引き起こしたインカ帝国の破滅
スペイン人が1519年にアメリカ大陸に持ち込んだ天然痘は、先住民に壊滅的な影響を与えました。大陸にはもともと天然痘が存在しなかったため、先住民は免疫を持っていませんでした。
メキシコでは、天然痘が原因で約350万人が死亡しました。インカ帝国でも、天然痘の大流行が破滅の一因となりました。インカ皇帝の2代が天然痘で亡くなり、その後継者たちが帝位を巡って争い、国家が分裂してしまいました。
そのような状況下で、フランシスコ・ピサロ率いるスペイン軍が侵攻しました。スペイン人たちは、天然痘に対する免疫を持っていたため、大流行による被害を受けませんでした。一方、インカの民はこれを神に見放された証と捉え、士気が低下しました。このため、戦闘が始まる前から、勢力の差が明らかになっていました。
スペイン人による天然痘の持ち込みは、アメリカ大陸の先住民に対する大きな災厄であり、インカ帝国の滅亡やアメリカ先住民の大量死につながりました。
天然痘がエリザベス1世の生涯独身に影響した?
エリザベス1世は、1562年に天然痘にかかりました。彼女は当時29歳で、女王として国民の前に威厳ある姿を見せることが求められていました。天然痘の痕跡を隠すため、彼女は肌を白く厚塗りにし、カツラを着用しました。
また、彼女は外見に対するコンプレックスから、豪華に着飾ることを好んでいました。襟の大きさは「エリザベスカラー」と言われるほどに肥大化し、髪には真珠を縫い付けるなど、非常に贅沢な装いをしていました。
エリザベス1世が生涯独身であった理由については諸説ありますが、天然痘が関係しているという意見もあります。彼女の容姿や天然痘の影響が結婚に影響を与えたのかどうかは定かではありませんが、彼女は結婚せず、「処女の女王」として知られるようになりました。
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中国における天然痘の歴史
中国における天然痘の歴史は古く、南北朝時代の495年に斉と北魏が交戦した際に流入したとされるのが最初の記録です。中国における天然痘の歴史は古く、南北朝時代の495年に斉と北魏が交戦した際に流入したとされるのが最初の記録です。
さらに明朝の萬暦・崇禎時代(1573年~1644年)には、華北地方でペストや天然痘が大流行し、少なくとも1000万人の死者を出すほどの猛威を振るいました。
日本の蝦夷地での天然痘流行
1624年以降、日本の蝦夷地(現在の北海道や東北地方)では、天然痘が周期的に流行し、それによって多くの村々の人口が大幅に減少しました。天然痘は非常に感染力が強く、感染者の多くは高い死亡率を伴うため、当時の医療技術では十分な対処が困難でした。
蝦夷地で最も被害が大きかったのは、1698年の蝦夷地全域での天然痘流行とされています。この流行により、多くの人々が命を落とし、地域社会に大きな打撃を与えました。また、人口減少は労働力の喪失や生産力の低下につながり、経済的な影響も大きかったと考えられています。
インディアン部族における被害の大きさ
1663年にアメリカ合衆国で発生した天然痘の流行は、先住民族インディアン部族に壊滅的な影響を与えました。当時のインディアン部族の人口は約4万人とされていますが、流行によって多くの人々が死亡し、生き残ったのはわずか数百人に過ぎませんでした。
先住民族インディアン部族は、天然痘に対する免疫が欠如していたため、流行が非常に猛威を振るいました。また、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に到来する以前は、天然痘は存在しなかったため、インディアン部族は病気に対する抵抗力がほとんどなく、感染が急速に広がりました。
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フレンチ・インディアン戦争におけるイギリス軍の非人道的手段
フレンチ・インディアン戦争(1754-1763年)は、イギリスとフランスの植民地間で北アメリカでの支配権を巡って争われました。この戦争の中で、イギリス軍が天然痘を生物兵器として使用したとされる事例が知られています。
当時のイギリス軍の将校ジェフリー・アマーストは、インディアンとの和平交渉の際に、故意に天然痘に汚染された毛布を彼らに提供しました。
この行為によって、インディアン部族に天然痘が蔓延し、多くの死者が出ました。この事態がインディアンの抵抗力を弱め、イギリス軍に対する降伏につながったとされています。
インドでの頻発する天然痘流行
インドでは、天然痘の流行が数世紀にわたって頻繁に発生しており、多くの人々が影響を受けました。1770年には、インドで天然痘が大流行し、推定300万人以上が死亡したとされています。これは、歴史上最も破壊的な天然痘の流行の一つとされています。
私たちはついに武器を手にした!人類初のワクチンが誕生
1796年にイギリスの医師であるエドワード・ジェンナーが、人類初のワクチンである天然痘ワクチンを開発しました。
人類初のワクチンによる予防接種
エドワード・ジェンナーは、乳搾りの女性が天然痘にかからないという現象に注目し、彼らがかかる弱い天然痘である牛痘が何らかの免疫を提供しているのではないかと考えました。ジェンナーは、この仮説を検証するために実験を行いました。
彼は、牛痘に感染した乳搾り女性の水ぶくれから液体(漿液)を採取し、それを健康な少年に接種しました。これが人類初のワクチンによる予防接種です。その後、少年に天然痘ウイルスを接種しても、天然痘にかからないことが確認されました。これにより、牛痘ウイルスが人間に対して天然痘に対する免疫を提供することが証明されました。
#OnThisDay in 1796, James Phipps, an eight-year-old boy was inoculated with cowpox by Edward Jenner FRS. Jenner’s research paved the way to the eradication of smallpox, a disease that killed around 10% of the population at the time. pic.twitter.com/40jTISXtaU
— The Royal Society (@royalsociety) May 14, 2019
王族の熱心な支持がもたらした天然痘ワクチンの広まり
エドワード・ジェンナーの天然痘ワクチンは、1801年までにイギリスだけでも10万人に接種され、さらに世界中に広まりました。
王族が熱心な支持者となったことも、ワクチン普及の大きな要因でした。彼らは一般市民と同様に、天然痘で家族を失う経験を持っており、病気の恐ろしさを痛感していたからです。
ジェンナーが天然痘ワクチンの特許を取らなかった理由は?
ジェンナーの種痘法は、1840年にイギリス政府が他の予防法を禁止するほどの成功を収めました。彼は、この成功を受けて天然痘ワクチンの特許を取得することができたでしょう。
しかし、彼は特許を取らず、ワクチンを広く普及させることを選びました。彼の考えは、特許を取得するとワクチンが高価になり、多くの人々に行き渡らなくなるというものでした。ジェンナーは、自ら開発したワクチンを人々に贈り物として提供することを選んだのです。
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佐賀藩がワクチンにより天然痘を抑制!
文政5年(1822)11月27日に、鳥取藩の支藩の前藩主の息女である露が、たった6歳で天然痘によって亡くなりました。当時、天然痘は幼い子どもたちにとって非常に危険な病気であり、多くの命が奪われていました。
このような状況が、後に佐賀藩の10代藩主である鍋島直正が牛痘の種痘を導入し、日本全国に普及させるきっかけとなりました。
鍋島直正は、1846年に天然痘が大流行した際に、予防に効果的な(ワクチン)牛痘の種痘をオランダから取り寄せることに成功しました。1849年8月、佐賀城で息子の淳一郎(直大)に接種が行われ、成功を収めました。
この成功により、種痘は佐賀藩内で急速に広がりました。その後、日本全国に普及し、天然痘の流行が大幅に抑えられるようになりました。
文政5年(1822)11月27日、疱瘡(天然痘)のため6歳でその短い生涯を閉じた幼女が話題になりました。彼女の名は露、鳥取藩の支藩の前藩主の息女でした。画像は、露姫の遺筆です(視聴草) pic.twitter.com/HGhG7COZHs
— 国立公文書館 (@JPNatArchives) November 27, 2015
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1864年に開催された医学会議
1864年の医学会議において、天然痘ワクチンの生産が注目されたことは、その後のワクチン普及に大きな影響を与えました。この会議によって、天然痘ワクチンの重要性が国際的に認識され、各国でワクチンの生産と普及が促進されました。
会議では、天然痘ワクチンの効果や安全性、生産方法などが詳しく議論され、それによってワクチンの品質が向上し、さらに多くの人々に接種されることとなりました。ワクチンの普及によって、天然痘の流行が次第に抑えられ、感染者数が減少し始めました。
凍結乾燥ワクチンの製造法を確立
1956年に英国リスター研究所のCollier Collierが安定した凍結乾燥ワクチンの製造法を確立したことは、ワクチンの普及に大きな影響を与えました。凍結乾燥ワクチンの開発によって、運搬や保管が容易になり、ワクチンの効果が長期間維持されるようになりました。
従来のワクチンに比べて、凍結乾燥ワクチンは温度変化に対しても耐性があり、開発途上国などの厳しい環境下でも使用することができました。このため、世界中でワクチン接種の普及が促進され、多くの感染症の予防に役立てられるようになりました。
Collier Collierの凍結乾燥ワクチン製造法は、その後のワクチン開発や製造技術にも大きな影響を与え、現代のワクチン技術の発展に貢献しました。
WHOが天然痘撲滅を目標
1959年のWHOの世界保健総会で、天然痘撲滅を目標として採択されました。その後、1967年にパンアメリカン衛生局(現:WHOのアメリカ地域事務局パンアメリカン保健機関)は、「パンアメリカン天然痘根絶計画」を開始し、この運動は全世界的な取り組みへと拡大されました。
この計画の中で、天然痘ワクチンの開発・製造・配布、感染者の早期発見と隔離、情報共有など、様々な対策が実施されました。
人類の悲願が達成!!天然痘の世界根絶を宣言!
世界保健機関(WHO)は1967年に天然痘根絶計画を立ち上げました。このプログラムのおかげで、天然痘の流行が徐々に減少し、最後の天然痘患者が1977年にソマリアで報告されました。そして、2年間の監視期間を経て、1980年5月にWHOは天然痘の世界根絶を宣言しました。
現在も一部の研究施設で天然痘ウイルスが保管されており、生物兵器として使用される危険性があるため、ワクチンの備蓄が続けられています。このワクチン備蓄は、万が一の天然痘ウイルスの再流行やバイオテロに備えて用意されており、感染拡大を最小限に抑えるための対策として重要な役割を果たしています。