ネルソン・マンデラの生涯 ⑥ ── マンデラとラグビーが紡ぐ「虹色の国」の奇跡

この記事は、南アフリカのアパルトヘイト政策の終焉と、ネルソン・マンデラが果たした役割について書かれたものです。マンデラのリーダーシップの下、新しい国旗や国歌の制定は、南アフリカがアパルトヘイトの遺産を乗り越え、多文化主義と平和を追求する新たな時代に突入したことを示す重要なシンボルとなりました。

そして、ラグビー代表チーム「スプリングボクス」を通じて、人種の壁を打破し、南アフリカの未来への希望を示しました。是非、マンデラが築いた南アフリカの物語に興味を持ち、この記事を読んでみてください。

ネルソン・マンデラの生涯 ⑤ ── マンデラの釈放から総選挙までの闘い
created by Rinker
平凡な人生を歩んでいた青年の前に、アパルトヘイトという巨大な敵が立ちはだかった。英米で大反響のベストセラー。抑えた筆致が読み手の心を静かに揺さぶる。世界22か国で出版。(「MARC」データベースより)

Mandela led South Africa’s unity and hope

マンデラ大統領が導いた南アフリカの団結と希望

CNN/YouTube

1994年4月27日は、南アフリカ共和国の歴史にとって重要な日でした。この日、同国で初めて人種規制のない普通選挙が行われました。これはアパルトヘイトの終焉を象徴し、全ての南アフリカ市民が平等に投票権を行使できる新たな時代の幕開けを意味していました。

この歴史的な選挙に参加するため、早朝から多くの人々が投票所に並び、その中にはマンデラもいました。選挙は4日間にわたり、26日から29日まで実施されました。すべての成人が国民議会と州議会議員の選出に1票ずつ投じることができました。

Channel 4 News/YouTube

「自由の日」マンデラ大統領の誕生

1994年5月10日、選挙の結果、、アフリカ民族会議(ANC)が圧倒的な勝利を収め、ネルソン・マンデラは南アフリカ共和国第8代大統領に就任しました。

この日は、人種隔離政策(アパルトヘイト)が終焉を迎え、南アフリカが新たな時代に突入したことを象徴する重要な日になりました。現在では「自由の日」として祝日に定められています。これにより、国民は毎年この日を通じて、人種差別の終わりと新たな平和な時代の始まりを祝っています。

マンデラとデクラークの指導力による内戦回避と民主化の成功

南アフリカの民主化過程は、同時期に一党制や軍政からの体制転換を経験した他のアフリカの国々と比較して、比較的スムーズに進んだと言えます。確かに、選挙直前まで衝突が起き、多くの人々が死亡するなど、混乱や緊張があったものの、南アフリカは内戦に陥ることなく民主化を達成しました。

これは、南アフリカの指導者たちが対話と和解を重視し、多くの政治勢力が積極的に交渉に参加したためです。特に、ネルソン・マンデラとデクラークの指導力が、困難な状況下での民主化プロセスを成功させる鍵となりました。

AP Archive/YouTube

「虹の国」への希望!マンデラ大統領就任演説

1994年5月10日、マンデラは、その大統領就任演説で「虹の国」という言葉を使って、新生南アフリカを表現しました。虹は、黒人、白人、そしてすべての人種やエスニック集団が互いの違いを認め合い、対等に力を合わせて開かれた国家を築いていくという希望を象徴しています。

マンデラはまた、過去の苦難に耐え、団結して戦ったすべての南アフリカ人への敬意を表し、これからの南アフリカが平和、正義、そして繁栄を追求する国家であることを強調しました。

この演説は、南アフリカの未来への希望を与え、世界中の人々に感動を与えました。南アフリカがアパルトヘイトの遺産を克服し、多文化主義、民主主義、そして平和を実現する新たな時代を築いていくことを誓いました。

SABC News/YouTube
「虹の国」の建設と白人層への配慮

大統領となったマンデラは、「虹の国」を掲げ、人種や宗教に関係なく誰もが融和できる新しい南アフリカを築くことに取り組みました。国民と共に新たなビジョンを持つことが重要だと考えていたマンデラは、新体制に対する白人の恐怖心を払拭し、協力を得ることに特に注意を払いました。

メディアの取材を通じて、白人も同じ南アフリカ人であり、彼らに安心して暮らしてほしいと訴え続けました。また、白人層の功績を高く評価することを強調しました。

国民党の白人政治家であり、前大統領のデクラークを閣僚に加えることで、人種融和政策に積極的に取り組みました。、また政権が代わったことにより政界を去ろうとした白人の優秀な政治家たちを呼び止め、国づくりに協力してくれるよう頼みました。さらに、政治運営の方針においても、白人が築き上げてきた「素晴らしい功績」を、なるべくそのまま引き継ぐ意向をもって、黒人の政治家を説得したのです。

国民の絆を強めるための白人との共生の探求

マンデラは、刑務所での生活中に、看守と接することを通じてアフリカーナー(南アフリカの白人)について多くを学びました。彼らの言語、歴史、文化について学んでいく中で、共に国を築いていく「白人の同胞」が誇りに思うことは何かを探求しました。この経験は、彼が国を統治する際に、異なる人々を理解し、国民の絆を強めるために役立ちました。

南アフリカの新国旗と国歌が象徴する多様性と団結

この取り組みの象徴として、新しい国旗と国歌が制定されました。

新しい国旗は、南アフリカの多様な文化と歴史を表現するカラフルなデザインで、黒、緑、金、青、赤、白の6色が使われています。これらの色は、南アフリカのさまざまな民族集団を象徴し、統一と平和のメッセージを伝えています。

また、新しい国歌「南アフリカのために」は、アフリカンス語、英語、および南アフリカ先住民の言語であるズールー語、セソト語、コサ語、セペディ語の合計6つの言語で歌われています。この国歌は、南アフリカの多様な文化と言語を讃え、国民の団結を象徴しています。

マンデラのリーダーシップの下、新しい国旗や国歌の制定は、南アフリカがアパルトヘイトの遺産を乗り越え、多文化主義と平和を追求する新たな時代に突入したことを示す重要なシンボルとなりました。

inkmonamour/YouTube

マンデラとラグビーの奇跡「憎しみを超えたスポーツの力」

ネルソン・マンデラは、長年にわたる人種差別と対立を克服し、国民統合を目指すために、スポーツの力を利用することを決断しました。彼は、1995年に開催されるラグビーワールドカップ南アフリカ大会を、国民の団結と和解の象徴として活用することを考えました。

World Rugby/YouTube
アパルトヘイトを象徴するチーム

南アフリカのラグビー代表チーム「スプリングボクス」は、かつては南アフリカの白人コミュニティーとアパルトヘイトを象徴する存在であり、黒人選手はほとんど存在しなかった。1969年当時、ネルソン・マンデラは刑務所で獄中生活を送っており、南アフリカでは、アパルトヘイトという厳しい人種差別政策が敷かれていました。そのため、南アフリカのスポーツチームは国際社会から非難され、多くの抗議活動が行われました。

スプリングボクスがイギリスに遠征した際には、反アパルトヘイトの抗議者たちがデモを行い、試合を中断させる事態になりました。当時の内相で後にイギリスの首相になるジェイムズ・キャラハンは、警察に対し残りの遠征試合の警備を強化するよう命じましたが、大規模なデモは続きました。

この抗議活動は、ネルソン・マンデラが収監されていた刑務所にも影響を与え、看守たちが彼と彼の仲間に八つ当たりをする事態になりました。しかし、そのことによって、マンデラらは外の世界で自由を求める人々の抗議が続いていることを知ることができました。

南アフリカのスポーツ界における人種差別を問題視する声は、サッカーやクリケット、オリンピックなど他のスポーツにも広がり、25年間続く南アフリカの国際大会排除が始まりました。この運動が後に南アフリカ政治の根本的な変化をもたらし、アパルトヘイト政権の崩壊につながりました。

刑務所での経験

ネルソン・マンデラが注目したラグビーは、ポルスモア刑務所で出会ったヴァン・シタート少佐から学んだものでした。少佐は政治犯であるマンデラを、他の一般犯罪者と同じように容赦なく扱っており、最初は対話が困難な状況でした。しかし、マンデラは少佐との関係を改善し、彼に近づくために努力しました。その結果、少佐が熱中している唯一のものがラグビーであることに気づいたのです。

南アフリカのラグビーチーム「スプリングボクス」は、白人政権時代の国旗を象徴する緑と黄色のユニフォームを着用していました。このため、黒人にとってスプリングボクスはアパルトヘイトの象徴であり、憎むべき存在でした。しかし、その迫力あるプレーは白人の存在感を象徴し、アイデンティティとして機能していました。

白人と黒人の団結を促進するためにラグビー

マンデラが大統領に就任した後も、ラグビーを通じた経験が「虹の国」を築くための重要な要素であることを忘れませんでした。刑務所で過ごした時間は、彼の心に大きな変化をもたらし、白人への憎しみから理解へと変わりました。彼は、アパルトヘイトの白人も人間であり、心が通じるはずだと確信しました。

敵対者に敬意を払うことで、マンデラは刑務所内で敵を味方に変えました。マンデラの話術と笑顔は人々を魅了し、その魔法は社会に出てからさらに大きな力を発揮しました。

刑務所で培った力が、白人看守との信頼関係を築き、刑務所内の生活環境を改善しました。最終的には、白人の前大統領と交渉する機会を得るまでに至りました。

この成功体験からマンデラは大統領として、新憲法制作や海外からの資金調達などの最優先事項と同様に、ラグビーを通じて黒人と白人の団結を促進するために多くの努力と時間を費やしました

マンデラ大統領のラグビーに対する画期的な決断

マンデラ大統領は、アパルトヘイトの象徴であるラグビーとスプリングボクスを廃止せず、むしろその団結のシンボルとして活用するという画期的な決断を下しました。マンデラは白人たちに対して敬意を払い、彼らのアイデンティティを尊重することで、新しい南アフリカの中で彼らと共に歩む道を築きたいと考えていました。

この決定は、黒人と白人の融和と統合を進めるための重要な一歩であり、マンデラのリーダーシップのもと、南アフリカは新たな時代へと歩み出しました。マンデラは、スポーツを通じて人々が共通の目標に向かって努力し、お互いの違いを超えて協力することができる力を理解していました。

国際大会か排除され弱くなっていたチーム

アパルトヘイト政策をとっていた南アフリカは、世界中の制裁により1985年から91年までラグビーの国際試合をしてもらえず、長年の国際試合の経験不足のため、スプリングボクスは“南アフリカの恥”と言われるほど、チームは実力は落ちていました。

しかしW杯開催国は自動的に出場が認められているため、南アフリカ代表のスプリングボクスは久しぶりに国際事態に復帰することにができました。それでもスプリングボクスの選手をはじめ、誰もが優勝できるとは思っていませんでした。

勝利を目指すマンデラの挑戦と激励

それにもかかわらず、マンデラはスプリングボクスの主将のピナールを何度も呼び出し激励をくり、彼らと同じユニフォームを着て練習会場を訪れました。

ラグビーに批判的な非白人に対して「過去は過去、我々は未来を見よう」「我々のチームを愛してほしい」「ワンチーム、ワンカントリー」とマンデラは説得していました。

この行動はマンデラの周りにいた黒人の同胞には理解できませんでした。ある日、ついにマンデラの秘書が我慢できなくなり、「ラグビーの応援は政治的打算なのですか?」と問いかけたところ、マンデラは「いいえ、人間的打算だ」と答えたという逸話が残っています。

iconic/YouTube

ラグビーW杯で「虹の国」をつなぐ

期待と不安の中で、スプリングボクスは「ワンチーム、ワンカントリー」を掲げ、1995年ラグビーW杯に挑みました。

前年に就任したマンデラ大統領のもとで、「虹の国」として多人種が住む国の民主化を進めたものの、白人と黒人の経済格差は埋まらず、非白人の不満は募っていました。アパルトヘイト撤廃後も、白人の象徴だったスプリングボクスではなく、相手チームを応援する人もいました。

しかし、W杯が始まると、そんな雰囲気は徐々に薄れていきました。南アフリカは初戦で1991年W杯王者のオーストラリアに快勝し、勢いに乗り始めました。この勝利は、国内の雰囲気を変え始めるきっかけとなり、南アフリカの人々が次第にスプリングボクスを応援するようになりました。

その後のプール戦でルーマニアに21-8、カナダに20-0で勝利しましたが、どちらも大勝ではありませんでした。それでも、彼らは決勝トーナメントに進出しました。

準決勝ではフランスと対戦し、悪天候の中での試合となりましたが、南アフリカは強力なフォワードを活かして19-15でフランスを破り、決勝に進出することができました。

人種差別を克服した南アフリカがたどり着いた決勝の舞台

そして、あれよあれよという間にスプリングボクスは決勝まで勝ち上がりました。

1995年6月24日、ヨハネスブルクのエリス・パーク競技場は、ニュージーランド相手に圧倒的不利との予想の中、人種差別の問題を克服してひとつになろうと願う、南アフリカの様々な人種で構成された6万5000人がスタジアムを埋めつくしました。その様子はまさに虹色の国でした。

World Rugby/YouTube

マンデラと飛行機が激励

南アフリカの国民は、スプリングボックス(南アフリか)とオールブラックス(ニュージーランド)の決勝戦の開始を今か今かと待ち侘びていました。

そしてマンデラは当時の主将・ピナールの背番号6の緑と黄色のユニフォーム姿でスタジアムに登場しました。

ここで驚くべきことがおこりました、試合開始の数分前、「GOOD LUCK BOKKE(スプリングボックスに幸運を)」とメッセージが書かれた南アフリカ航空のボーイング747機がスタジアムの最上段の席からわずか60メートルのところを飛んだのです

これは大会妨害のテロ攻撃かと思われていましたが、スプリングボクスを励ますための飛行でした。実際に、この時のスタジアムは大歓声に包まれていました。

cmaclean100/YouTube
アパルトヘイト終焉後の新たな時代を切り開く勝利

試合はオールブラックスのアンドルー・マーテンズと南アフリカのジョエル・ストランスキーのキック合戦となり、両チームが9-9で引き分け、初めてのワールドカップ決勝の延長戦に突入しました。

延長戦の後半4分に、南アフリカのジョエル・ストランスキーが決勝点となるドロップゴールを成功させ、南アフリカはニュージーランドを15-12で破りました。この勝利は、アパルトヘイト終焉後の新しい南アフリカの歴史が幕を開ける象徴的な瞬間でした。

World Rugby/YouTube

マンデラとスプリングボックスの勝利が示した人種融和の象徴

表彰式では背番号6のユニフォームを着たネルソン・マンデラが登場し、白人が多数を占める会場で「マンデラコール」が鳴り響きました。そして主将フランソワ・ピナールに栄冠を手渡しました。マンデラは「ありがとうフランソワ。君がこの国のためにしてくれたことに心から感謝する」と言い、ピナールも「いいえ大統領、あなたがこの国のためにしてくれたことに心から感謝します」と返答しました。

会場では「ネルソン!ネルソン!」の大合唱が起こり、ピナールがカップを掲げると、マンデラは笑顔で何度も拳を突き上げました。これは、スタジアムのファンだけでなく、南アフリカ国民4300万人が応援した勝利でした。

この歴史的な瞬間は、黒人と白人が団結し、南アフリカの結束を象徴する場面となりました。また、かつてアパルトヘイトの象徴だったラグビーは、人種融和の象徴へと変わりました。

2019 All For Japan Team/YouTube

<南アフリカの奇跡>ラグビーW杯で結ばれた人々の心

当時のニュージーランド主将、ショーン・フィッツパトリックは、この歴史的な瞬間を鮮明に覚えています。「負けてしまい、心に痛みが残った。ただ、試合後にバスから見た光景は今でも忘れない」とフィッツパトリックさん。彼がホテルに向かう途中に目にしたのは、さまざまな人種の人たちが手をつなぎ、踊り、南アフリカの勝利を祝福する姿でした。「スポーツがすべての人を一つにするのだと感じた」と彼は感慨深く語ります。

一方、当時12歳だった少年ブライアン・ハバナは、観客席から試合を観戦していました。彼は後に南アフリカ代表として活躍する黒人選手となります。当時はまだラグビーをやっていなかったハバナですが、「勝利の瞬間、(私たちに)インスピレーションを与えた。スポーツの力はすごい。みな平等だと思った」と振り返ります。この瞬間をきっかけにラグビー選手になることを決心し、その後、快足WTBとして成長。南アフリカが2度目の優勝を果たした2007年の大会では8トライを挙げ、当時の1大会最多記録に並びました。

World Rugby/YouTube

南アフリカ初の“黒人”代表選手の物語

南アフリカのラグビー史上初、そしてただ1人の“黒人”代表選手だったチェスター・ウィリアムズは振り返る。「みんな僕らが勝てるとは思っていなかったが、自分たちは勝てると信じていた」と語ります。

チェスター・ウィリアムズは身長174センチ、体重84キロで、ラグビー選手としては小柄ながら「黒い真珠」と呼ばれました。彼は1970年にケープタウン東64キロメートルのパールという町で生まれました。この地域では激しい反アパルトヘイト運動が行われ、ウィリアムズの親友も殺されました。

南アフリカでは、ラグビーやクリケットは裕福な白人のスポーツ、サッカーは貧しい黒人のスポーツと分断されていました。多民族の血が流れるウィリアムズは白人でも黒人でもなく、「有色(カラード)」に分類されました。

彼は8歳でラグビーを始めましたが、12歳で一度やめ、18歳で再開。更衣室が白人選手しか使用できなかったため、ウィリアムズはバスの中で着替えたこともあります。W杯初優勝後、「国民和解」の象徴になったウィリアムズは長い間、心の痛みを隠してきました。

彼は侮蔑されたり、初優勝したチームメイトの何人かから国内リーグの試合の際に避けられたりしていたことを明かしました。

AP Archive/YouTube
マンデラ大統領との出会い、新しい国歌とともに達成した歴史的勝利

ウィリアムズによると、マンデラ大統領は決勝戦の試合前、更衣室を訪れ、「さあ祖国のために戦おう」と呼びかけ、ウィリアムズを激励したという。

さらに彼は、「試合の準備をしている間、人種に関係なく観衆が総立ちになって新しい国歌を歌っていました。感動的な光景で、私も大声で歌いました」と振り返ります。

国民和解の象徴として、「神よ、アフリカに祝福を」と旧国歌「南アフリカの叫び」を1つに編曲して新しい国歌が作られました。「虹色国歌」は5つの言語で歌われます。これは、すべての国民を代表する新国家を建設すると宣言したマンデラ大統領の願いが新しい国歌に込められていました。

最後に「もう過去のことです。私たちは前に進み、幸せをつかみました」とウィリアムズ氏は後に海外メディアに語っています。「私は実力で白人のシステムを勝ち抜きました。私は単純かつ明快にラグビー選手でした。それが私のストーリーです」と語りました。

World Rugby/YouTube

映画『インビクタス/負けざる者たち』に描かれた感動的な物語

この感動的な出来事は、後に映画『インビクタス/負けざる者たち』として2009年に公開されました。クリント・イーストウッドが監督を務め、モーガン・フリーマンがネルソン・マンデラ役、マット・デイモンがフランソワ・ピナール役を演じています。

現在の南アフリカではラグビーを白人のスポーツだと考える人はほとんどいません。

Warner Bros. Pictures/YouTube
created by Rinker
アパルトヘイトによる27年間もの投獄の後、黒人初の南アフリカ共和国大統領となったネルソン・マンデラは、依然として人種差別や経済格差が残っていることを痛感する。誰もが親しめるスポーツを通して、人々を団結させられると信じたマンデラは、南アフリカのラグビーチームの立て直し図る。マンデラの不屈の精神はチームを鼓舞し、団結させ、奇跡の快進撃を呼び起こす。それは、暴力と混沌の時代に初めて黒人と白人が一体となった瞬間だった。

You might be interested in …

当サイトでは、利用状況の把握や広告配信などのために、GoogleやASP等のCookieが使用されています。これ以降ページを遷移した場合、Cookieなどの設定や使用に同意したことになります。
Cookieなどの設定や使用の詳細、オプトアウトについてはプライバシーポリシーをご覧ください

X