ネルソン・マンデラの生涯 ⑤ ── マンデラの釈放から総選挙までの闘い

この記事は、南アフリカの歴史的な出来事であるアパルトヘイト政策の終焉と、ネルソン・マンデラの役割について書かれたものです。1980年代後半から1990年代初めにかけての南アフリカの政治情勢を詳しく紹介しており、マンデラが釈放された後の政治的な展開や暴力沙汰についても触れています。

また、マンデラの指導力やリーダーシップに焦点を当て、彼が民主主義的な解決策を模索する中で直面した困難や交渉の過程についても掘り下げています。南アフリカの歴史に興味がある方や、現代の政治情勢について理解を深めたい方におすすめの記事です。

ネルソン・マンデラの生涯 ④ ── 27年の投獄から解放された伝説の英雄
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平凡な人生を歩んでいた青年の前に、アパルトヘイトという巨大な敵が立ちはだかった。英米で大反響のベストセラー。抑えた筆致が読み手の心を静かに揺さぶる。世界22か国で出版。(「MARC」データベースより)

Struggles in South Africa After Mandela’s Release

マンデラ釈放後の南アフリカの葛藤

Mandela

1990年2月11日、ネルソン・マンデラが釈放された時、国外にいた人々の多くは、この日を勝利の日として記憶しているでしょう。しかし、南アフリカ国内では当時、緊張が高まり、将来への不安が増していました。少数派である白人の多くは、マンデラの釈放後の演説が内戦の引き金になるおそれがあると考えていました。アパルトヘイト撤廃を目指すアフリカ民族会議(ANC)の武装闘争を支持すると、マンデラが語ったからです。

一方、黒人たちは、当時の白人大統領F.W.デクラークのことを誠実な人間と評したマンデラに不信感を抱いていました。これは、マンデラがデクラークとの交渉を通じてアパルトヘイト制度の終焉を目指していたことから、一部の黒人たちは彼の方針に疑念を抱いていたのです。

マンデラが演説したサッカー・スタジアムでの歴史的瞬間

NowThis News/YouTube

1990年2月13日、ソウェトのサッカー・スタジアムには13万人の大群衆が詰めかけ、会場に入り切れなかった7万人の観衆とともに、待ちに待った最高指導者であるマンデラの言葉に耳を傾けていました。

マンデラ氏は終始穏やかな口調で運動の統一と規律を語り、武装闘争の継続、経済制裁の継続、基幹産業の国有化の必要性を主張しました。これらの発言は、西側の政治家や世論の称賛と困惑の入り交じった反応を引き起こしました。彼はANCの既定方針に従って話し、その枠を逸脱することはありませんでした。

マンデラANC副議長に就任し再び闘いの最前線に立つ

1990年2月27日、刑務所からの釈放からわずか16日後、ネルソン・マンデラはザンビアの首都ルサカを訪れ、通常は元首のために予約されている式典で迎えられました。彼を歓迎した人々の中には、最前線の州の指導者、連邦代表、パレスチナ解放機構議長、追放されたANC執行委員会などの著名人が含まれていました。

そして病気療養中だった議長オリバー・タンボを代行する形でマンデラはANC副議長に就任しました。この役職に就いたことで、マンデラは再びアパルトヘイトの撤廃に向けた闘いの最前線に立つこととなりました。

アパルトヘイト撤廃へ向けた予備交渉の始まり

1990年4月11日に予定されていた第一回の予備交渉は、内外で発生した暴力事件やデモの衝突により延期され、5月2日にようやくケープタウンで開始されました。ANC側はネルソン・マンデラを団長とする11名、政府側はデクラーク大統領を団長とする9名で構成されました。

この予備交渉は南アフリカ解放闘争史上初めてアフリカ人と白人が対等な立場で話し合ったものであり、アパルトヘイト廃絶へ向けての重要な一歩でした。

交渉では暴力的環境の解消への双方の約束、政治犯の定義を検討する合同作業部会の設置、政府による治安関連法規の見直しについて合意が得られました。しかし、将来の政治・経済体制については双方の立場に大きな隔たりが残っており、暴動は依然として頻発し、死者が前年を越える数に達していました。

予備交渉の展開と政治情勢の変化

デクラーク大統領は予備交渉の後もアパルトヘイトの根幹をなす法律の廃止に向けて改革を推進し、6月には非常事態宣言の解除と分離施設法の廃止を決定しました。これにより、南アフリカの政治状況は徐々に変化し始めました。

南アフリカ政府とANC、2回目の予備交渉で武力闘争の停止を合意

8月6日には、ANCと南アフリカ政府の第2回予備交渉が首都プレトリアで開かれました。この交渉では、ANC側が初めて武力闘争の停止を正式に認め、南アフリカ政府側は治安関連法の見直しを確約しました。また、第1回予備交渉で設置された作業委員会により、政治犯の釈放を同年9月1日から開始し、12月末日までに完了するという期限を設定した「プレトリア議定書」の調印が行われました。

予備交渉中も国内で武力衝突が激化

南アフリカの暴力は予備交渉と並行してさらにエスカレートし、1987年以来ナタール州だけで死者は4000人を超えました。この原因には、様々な要因が絡んでいましたが、最大の原因はインカタとANC系反政府組織の衝突であるとされています。

暴力のエスカレートが交渉を打ち切りにさせる

マンデラは黒人勢力の和解と統一を目指して何度も話し合いを呼びかけましたが、失敗に終わりました。しかし、遂にマンデラとインカタのリーダーのG・ブテレジとの会談が実現し、1991年1月29日にダーバンで会談が行われました。この結果、5項目にわたる合意がなされ、武力衝突の終結が期待されました。しかし、その後も暴力は収まらず、多くの死傷者が出ました。

これを受けて、マンデラは1991年4月5日にデクラーク大統領に7項目からなる最後通告を送り、それが実現されない限り今後南ア政府との一切の交渉を打ち切ると宣言しました。しかし、南ア政府はその通告の一部にしか応じなかったため、ANCは交渉の打ち切りを宣言しました。

デクラーク大統領がアパルトヘイトの終結を宣言!

1991年6月17日、南アフリカのデクラーク大統領は、国際的に悪名高いアパルトヘイト(人種隔離)政策の終結を宣言しました。彼はアパルトヘイトの基本法ともいえる三つの法律の廃止を決定しました。これらの法律には、分離施設法、集団居住地法、および人口登録法が含まれていました。

分離施設法は、公共施設の利用を人種ごとに制限するものでした。集団居住地法は、国土を人種別に区分し、人々の居住地を制限するものでした。人口登録法は、南アフリカの市民を人種によって登録し、人種間の結婚や性的関係を禁止するものでした。

これらの法律の廃止によって、南アフリカはアパルトヘイト政策の終焉に向けて大きな一歩を踏み出しました。

アパルトヘイトの終わりの始まりは1985年から

1985年から本格的にアパルトヘイト法体系が崩壊し始めました。この年、アメリカ政府は南アフリカへの経済制裁措置を発表し、南アフリカ政府はアパルトヘイト法の修正によって制裁の緩和を期待しました。このため、1985年6月に終わった国会で不道徳法16条、雑婚禁止法、政治干渉禁止法を廃止し、人口流入規則やパス法の条件も緩和しました。しかし、反アパルトヘイト紛争は収まらず、政府は非常事態宣言を発令しました。

1986年には、全土に非常事態宣言が発令されました。その中で、1986年4月23日に、人種差別法の中でも特に悪名高いパス法が廃止されました。

1988年には、アメリカ下院が南アフリカへの経済制裁を可決し、南アフリカ経済はさらに厳しい状況に陥りました。これを受けて、南アフリカ政府は早急にアパルトヘイト法の大規模な修正・廃止に取り組むことが求められました。この時期、推進していたボタ大統領が病気になり、デクラークが大統領になりました。デクラーク大統領の下で、アパルトヘイト法の修正・廃止が推進され、1990年に入ると、この動きが本格化しました。これが、アパルトヘイトの終焉へと繋がる重要な過程となりました。

マンデラがANC議長に選出!

1991年7月2日、合法的な組織となったANCは年次総会をダーバン・ウェストビル大学で開催しました。この総会にはアフリカ諸国をはじめ世界各地域から約200名の来賓が招待されました。ここで新たに70万人もの会員が加わり、組織の再構築が始まりました。

マンデラ副議長の演説は予想に反して厳しいものでした。彼はデクラーク政権が依然として人種主義、暴力、白人支配を続けようとする政権であり、ANCが望んでいるのは制憲会議の開催と暫定政府の樹立であると主張しました。

さらにマンデラは、既存の政党や組織以外と交渉しようとしていないデクラーク政権に対しては、ANCは依然として闘争を続けなければならないとし、その闘争は「人民への権力の移譲」を目的とする交渉の継続以外にはないと述べました。そのためには、民主的な憲法が採択されるまで対南ア制裁という武器を放棄しないよう国際社会に要請することであると主張しました。

「民主南アフリカ会議(CODESA)」予備交渉を前提に本格的な会議がスタート

1991年12月20日と1992年5月に、南アフリカ政府との予備交渉を踏まえて全人種代表(19政党・組織)が出席する「民主南アフリカ会議」(CODESA)が開催されました。政府とANC、それに国内他組織との正式交渉が行われたのです。さらに、ヨーロッパ共同体、英国連邦、アフリカ統一機構などがオブザーバーとして参加しました。

CODESAは、南アフリカのアパルトヘイト政策に終止符を打ち、新たな憲法制定と民主的な政治システムへの移行を目指す重要なフォーラムでした。参加者たちは、人種間の対立を乗り越え、多元的な民主主義を構築するための枠組みや、新憲法の原則について議論しました。

しかし、CODESAの交渉は容易ではありませんでした。南アフリカ政府、ANC、インカタ自由党など、様々な政治勢力がそれぞれの利益を追求し、意見の対立が激しかったのです。

「ボイパトン虐殺事件」により交渉は停止

交渉が進行している一方で、IFP(インカタ自由党)とANC(アフリカ民族会議)系組織との黒人間武力衝突や白人右翼によるテロ行為が連日のように発生し、多くの犠牲者が出ていました。特に1992年6月17日には、ボイパトン不法居住区でインカタ支持者たちがANC支持者の住民を襲撃し、40名以上が死亡するボイパトン虐殺事件が発生しました。これを受けて、6月21日にネルソン・マンデラANC議長は再度政府との交渉を打ち切ることを宣言しました。

マンデラは自制的な態度を示しましたが、彼の支持者たちは虐殺に加担したとされる警察に対して怒りを抑えきれず、衝突寸前の状態に陥りました。この事件を受けて、ANCはCODESAからの脱退を表明し、復帰のための条件として14項目からなる要求書を政府に手渡しました。

また、ANC系の「南アフリカ労働組合会議」(COSATU)は、ボイパトン事件への抗議として、8月初めに2日間のゼネストを行い、約400万人がこれに参加しました。主要都市での労働者の職場放棄率は80〜100%に達し、プレトリアの合同庁舎へは10万人のデモが行われました。

「ビショの悲劇」が引き金となった和解の記録

1992年9月には、ビショでの7万人デモが当初のコースを外れたことから兵士が発砲し、29人の市民が命を落としました。これを「ビショの悲劇」と呼びます。この事件をきっかけに、暴力事件を二度と起こさないための協定「和解の記録」に両陣営が署名を行いました。協定には、「警察行動を監視する独立機関の設置」や「選挙による一院制憲議会の発足」などが含まれていました。

この協定によって、選挙の日時(1993年終わり)、議会決議に必要な最低得票の設定、五年間有効の国民統一政府を選ぶ(次回選挙は1999年)、5%以上の得票を得た政党が得票率に応じて内閣に参加すること、多数決ではなく閣僚の総意によって政策を決定する(票数の少ない白人層への配慮)などの具体的な内容が決められました。

マンデラは、「いかなる形の人種主義も破滅の公式である。国民の政治、経済、文化の諸権利を、ときの多数者の手の届かないところに置いておかなければならない」と語り、人種隔離政策の終焉を願っていました。

暴力が続く中で26の団体が参加しての交渉が進む

このような和解の努力にも関わらず、暴力は完全には収まらなかったものの、両陣営は対話を続けました。

1993年4月に再開された民主化交渉(多党間交渉、Multi-Party Negotiating Forum)には26の団体が参加しましたが、ANCと政府・国民党が共同戦線を組むことで、総選挙の実施方針が決まり、選挙に至るまでの政治日程も大枠が見えてきました。ただし、少数派や強硬派による政局運営への反発も強く、選挙に至る道のりは決して平坦ではありませんでした。

「クリス・ハニ暗殺事件」による混乱とマンデラのリーダーシップ

1993年4月10日、クリス・ハニが自宅前で射殺されるという悲劇が起こりました。彼はANCのナンバー3であり、南アフリカの黒人にとってはネルソン・マンデラに次ぐ英雄でした。彼の暗殺により、南アフリカ国内は混乱に陥り、内戦の危機が迫りました。

しかし、マンデラはこの危機を冷静に対処し、国民に平和的解決を訴えました。彼は、ハニを殺害した白人男性に対しても、通報した白人女性に言及し、国民が分断されないよう努めました。マンデラのリーダーシップにより、国民は彼を支持し、南アフリカを救えるのはマンデラだけだと確信しました。

この事件により、民主化交渉のフォーラム開催が再び延期されましたが、ANC連合は1年以内に総選挙を実施することと、暫定的な行政評議会を設置することを要求し、国民運動を組織しました。

1993年に採択された暫定憲法と、歩み始めた民主化の道

1993年11月、デクラーク大統領はついにこれらの主張を受け入れ、合意が成立しました。その結果、まず暫定憲法が国会において採択されることになりました。

また、1994年4月には全人種参加の制憲議会選挙が行われ、選出された新議会において新憲法を作成することが定められました。

この合意が成立したことで、南アフリカは民主化への道を歩み始めました。そして、1993年12月10日には、ネルソン・マンデラとフレデリック・デクラークがノーベル平和賞を共同受賞しました。マンデラはこの受賞を解放闘争の先人たちの代表として受け取り、「崇高な人々を生み出すためには、過酷な抑圧が必要だったのだろう」と語りました。

武装グループによる白人への無差別テロと政治的対立

1994年2月12日、総選挙の党派登録の期限を迎えましたが、インカタ党、保守党、アフリカーナー民族戦線は参加せず、1993年に成立した暫定憲法の、4月に選挙結果が発表されました。得票率はANCが62.6%、国民党が33%でした。憲法制定において、2/3の議席があれば単独で決定できることになっていましたが、そこまでの得票は得られませんでした。しかし、マンデラはそうならなかったことに安堵したといいます。それはANC単独で決めてしまうことは、再び白人と黒人の対立の原因になりかねないからです。

武力衝突と政治的対立が続く中、選挙日程が決定される

1994年5月、PACの武装グループAPLAの無差別テロに対抗するため、アフリカーナー右翼グループはフィルユン南ア国防軍退役将軍を中心に大同団結して「アフリカーナー民族戦線」(AVF)を結成しました。また、ANCとIFP(インカタ自由党)との武力衝突も依然として続いており、多党交渉フォーラム再開の前提条件としてその終結が緊急課題となりました。

デズモンド・ツツ大司教が仲介に乗り出し、1994年6月23日にマンデラANC議長とブテレジIFP議長の頂上会談が実現し、武力衝突の終結で基本的な合意が成立しました。その後、6月25日に延期されていた多党交渉フォーラムが再開されることが決定されましたが、当日、右翼組織「アフリカーナー抵抗運動」(AWB)の党員約300名がフォーラム開催会場である世界貿易センターに乱入し、フォーラム開催は再び延期されました。

その後、7月2日に多党間会議が開催され、インカタ、保守党、アフリカーナー民族同盟(AVU)、ジモコ進歩党(ZPP)、ボプタッワナ政府、クワズールー政府からなる「憂国の南アフリカ人グループ」(Concerned South African COSAG)の反対にもかわらず、選挙日程が1994年4月27日と決定されました。また、同時に26項目の憲法原則が合意されました。これは、今後採択される暫定憲法だけでなく、制憲議会によって起草される新憲法に対しても拘束力を持つこととされました。

こうした合意・決定に不満を持つCOSAGは議場から退出し、以降、多党間会議から脱退しました。その後、1994年7月と8月に発生した暴力事件で、1000人以上の死者が出る事態となりました。これは、政治的対立が大きな要因であったとされています。

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