この記事は、南アフリカの偉大な指導者であるネルソン・マンデラの人生と功績について詳しく紹介しています。マンデラは、アパルトヘイト政策に反対して闘い、27年間にわたる投獄生活を経て、自由の身となりました。
この記事では、マンデラの投獄生活や釈放の経緯、そして彼が南アフリカの未来を変えるために行った重要な交渉について詳しく説明しています。また、マンデラが世界的なアイコンとして知られるようになるまでの歴史的な出来事も振り返ります。彼の功績を讃えるとともに、その精神や思想について深く考えるきっかけになるでしょう。
ネルソン・マンデラの生涯 ③ ── ロベン島での収監生活と指導者としての役割
Release of Nelson Mandela
マンデラ釈放!!
マンデラの投獄が長期化すると、南アフリカだけでなく世界中の人びとが、「マンデラに自由を!」を合い言葉として、彼の釈放を求めるようになった。
世界中の町で、肌の色に関係なく大勢の人々が街頭デモに繰り出し、また音楽、詩、あるいは美術で、それぞれの思いを表現するようになった。当時は植民地の独立、差別の撤廃、マイノリティの権利、貧困の克服といった理想が、現在よりもずっと熱く語られていた時代だった。世界の多くの人々が、自分たちの運命とマンデラの運命を重ね合わせて、マンデラの自由のために声を上げたのである。
写真が禁止された男、ネルソン・マンデラ
この頃、収監されたネルソン・マンデラは、アパルトヘイトに反対する世界的な運動の顔として知られていましたが、マンデラの写真が南アフリカで禁止されていたため、多くの人々は彼の姿を知らず、神話的なイメージを持っていました。マンデラは1960年代前半から収監されており、ほとんどの人々が彼の見た目を知ることはできませんでした。彼の写真を公開することは厳しく制限され、禁止命令に違反する者には罰が科せられました。
しかし、世界中でマンデラ解放運動が高まり、多くの著名人が支持を表明しました。この運動は、国際的なメディアや芸術家たちの力を借りて広がりました。一方、南アフリカではマンデラのイメージが1962年の逮捕時から変わっていませんでした。
それでも、若者たちは秘密裏に集まり、マンデラを支持するシンボルを使い、反アパルトヘイト運動を推進しました。彼らは逮捕や拷問の危険を承知の上で、マンデラの顔がついたTシャツやバッジを身に着けました。アパルトヘイト政権は、マンデラの名を唱える者を厳しく監視していましたが、それでも彼らの抵抗は止まりませんでした。
結果として、南アフリカ国内外の反アパルトヘイト活動家たちの尊敬を集め、彼らの関心を抑えることはできませんでした。マンデラは、アパルトヘイトに反対する世界的な運動の顔となり、多くの人々にインスパイアされました。
Taking over the Leeds University Admin building to protest links with South Africa during Apartheid or this protest to Free Nelson Mandela – I was 3. pic.twitter.com/7d5tvneY11
— Beatie Edney ?(freelancer) (@beatieedney) October 9, 2018
「フリー・マンデラ!」世界的な運動が引き起こした変革
実は学生たちがマンデラ解放を叫ぶ前に、既にマンデラ解放運動は行われていました。
1980年3月、「ヨハネスブルク・サンデー・ポスト紙」が「マンデラに自由を!」という見出しで取り上げたことが、運動の火付け役となりました。これによって、以前は絶対に掲載が許されなかったANCに関する記事が新聞に掲載され、マスコミを通じてマンデラ釈放運動が広まり始めました。
ANCはこの機会を利用し、世界規模で「Free Mandela! フリー・マンデラ!」キャンペーンを展開しました。このキャンペーンは世界中で関心を集め、多くの国で支持されました。日本人もこの時期にマンデラの名前を広く知ることになりました。
国際的なプレッシャーにより、南アフリカ政府はアパルトヘイト政策の終焉に向けた動きを加速させざるを得ませんでした。『サンデー・ポスト』が発起したマンデラ解放の陳情書には、禁止された人物を支援する罪を冒して約86,000人が署名しました。
マンデラ解放キャンペーンは、異なる立場の多くの人々が少数の白人支配に対抗するために統一民主戦線(UDF)のもとで団結するための結束材となりました。これにより、アパルトヘイト政策の終焉が現実のものとなりました。
国際社会の支持を受け、アパルトヘイト制度に対する圧力が高まる
1981年、ロンドン大学で行われた名誉学長選挙において、ネルソン・マンデラが候補となりました。その選挙では、英国のエリザベス女王と争った末、僅差で敗れましたが、この事実はマンデラの名声と影響力が世界的に広がっていたことを示しています。
この名誉学長選挙における僅差の結果は、マンデラやアフリカ民族会議(ANC)に対する国際社会の関心や支持が強まっていたことを証明しました。この結果はまた、アパルトヘイト制度に対する世界の反感をさらに強め、南アフリカ政府に対する圧力が続くことを意味しました。
マンデラの刑務所移送とANCの武装闘争
1982年、ネルソン・マンデラはロベン島の刑務所から、南アフリカでも最も過酷な刑務所の1つであるポルスモア刑務所へ移送されました。しかし、この新しい刑務所はケープタウン近郊にあり、面会が容易になるなど、環境はさらに改善されました。
同じ頃、アフリカ民族会議(ANC)の武装組織「民族の槍」は武装闘争をさらに活発化させていました。南アフリカの軍隊との衝突事件も起き、状況はますます緊迫していました。
この時期、南アフリカ国内外の抗議活動が増加し、国際社会からの圧力も高まっていました。アパルトヘイト制度の撤廃を求める声が大きくなり、南アフリカ政府は改革を迫られる状況になっていました。
刑務所での面会で感じた、長い別れの後の再会の喜び
1984年、ネルソン・マンデラは刑務所で21年ぶりに妻ウィニーと同じ部屋で面会が許されました。二人は21年ぶりにお互いの体に触れ合い、感慨深い再会となりました。
南アフリカにおけるアパルトヘイト撤廃運動が加速する
同年の1984年、アフリカ民族会議(ANC)をはじめとする様々な団体が結集し、反アパルトヘイト組織「統一民主戦線(UDF)」が誕生しました。労働組合、地域団体、教会団体、学生連盟などが所属し、UDFは南アフリカにおけるアパルトヘイト制度への抵抗運動の中心的な役割を果たしました。
その中心人物の一人であるデズモンド・ツツ主教は、1984年にノーベル平和賞を受賞しました。彼はアパルトヘイト制度に対する抵抗を牽引し、南アフリカ国内外から支持を集めました。このような動きが、南アフリカにおけるアパルトヘイト制度の終焉に向けた流れを加速させることになります。
マンデラ、大統領の釈放提案を拒否
1985年1月31日、ボータ大統領が国会で、獄中のネルソン・マンデラが「政治的武器としての暴力を無条件に放棄する」ならば釈放する用意があると発表しました。これは初めての提案ではなく、以前はさらに「マンデラがトランスカイに自主退去すること」という条件もつけていました。
マンデラは、大統領の提案に対し、自らのメッセージを送り、娘のジンジがUDFの集会で代読しました。「民衆の組織が活動を封じられたままだというのに、わたしがどんな自由を受け取れるというのでしょう?」「愛する妻がブランフォードへ流刑になったままだというのに、わたしがどんな自由を受け取れるというのでしょう?」
「交渉が許されているのは自由な人間だけです。囚人は契約を結ぶことができないのです」と続けた。そして、誰も誤解しようのない言葉で自身の立場を示しました。「私にも皆さんにも自由が与えられていない今、私は政府に対してどのような約束もできないし、することはありません」「皆さんの自由とわたしの自由は切り離せないのです。わたしはかならず、皆さんのもとに帰ります。」と答え、大統領の提案を拒否しました。
マンデラのこの決意と言葉は、国内外の支持者に勇気を与え、抵抗運動をさらに強化することにつながりました。
賢人グループが南アフリカを訪問し、マンデラと面会
1986年、国際的な賢人たち7人が南アフリカを訪問し、彼ら「賢人グループ」とマンデラとの面会が実現しました。賢人グループには、オーストラリアの元首相マルコム・フレイザーやナイジェリアの元指導者オルセグン・オバサンジョなど、世界的な指導者が含まれていました。
マンデラは、賢人グループとの面会で、いよいよANCと南アフリカ政府が直接交渉を行う時期が訪れたことを彼らに訴えました。彼は、対話の重要性を強調し、アパルトヘイトの終結と南アフリカの民主化のための和平プロセスを進めることが必要だと主張しました。
マンデラの訴えは、賢人グループのメンバーに強い印象を与え、南アフリカ政府への圧力を強めることになりました。
反アパルトヘイト法の成立と経済制裁
1986年、アメリカでは反アパルトヘイト法が成立しました。この法律は、南アフリカのアパルトヘイト政策に対する国際的な反発と抗議を具現化したものであり、アメリカ政府が南アフリカへの経済制裁を開始するきっかけとなりました。
具体的には、アメリカ企業が南アフリカとの新規投資を禁止し、南アフリカ政府と関係のある銀行への融資を制限するなどの措置が含まれていました。また、南アフリカの商品の輸入を禁止し、スポーツや文化イベントなどでの南アフリカとの交流を制限することも求められました。
北欧諸国が南アフリカに対する経済制裁を実施
1987年に北欧3か国(ノルウェー、スウェーデン、デンマーク)は、対南アフリカ貿易禁止法を制定しました。これは、アパルトヘイト政策への国際的な反発が強まっていたため、南アフリカに対する経済制裁が行われました。
これらの北欧諸国は、対南アフリカ貿易禁止法を通じて、南アフリカとの新規投資を停止し、南アフリカ産品の輸入を禁止し、南アフリカ政府と関連のある企業への融資を制限しました。これらの経済制裁は、南アフリカ経済に大きな影響を与え、アパルトヘイト政策の維持がさらに困難になる一因となりました。
イギリス系企業の働きかけから始まる政府とANCの交渉
イギリス系の金融機関や南アフリカに基盤を置く企業は、株価の下落や経済制裁の影響で危機的状況に陥り、南アフリカ政府に対してアパルトヘイトを廃止するよう働きかけを開始しました。南アフリカの鉱山会社を運営するイギリス系の大企業は、自社の社員をUDFと政府との交渉の調整役として送り込み、彼らが交渉で重要な役割を果たしました。
司法大臣コビー・クツィエとの本格的な交渉が始まり、高官レベルの委員会が設置されました。委員には国際情報局長ニール・バーナードなどが含まれていました。1988年5月には、第一回の公式会合が開催され、矯正局長官ファニー・ファン・デル・メルヴェも参加しました。この会合にマンデラも出席し、まずANCについての歴史を説明しました。政府側のメンバーが持っているANCに関する誤解を解くことが信頼を得るために必要だと考えたためです。
そして、マンデラはANCが南アフリカを共産主義国にするつもりではないのかという疑問に対して、次のように答えました。
「皆さんは、自分たちが頭がいいと思っているでしょう?自分たちには強制力も説得力もあると思っているでしょう?ところが、囚人であるわたしひとりを相手にして、わたしを従わせることも、わたしの考えを変えさせることもできないじゃありませんか。あなたがたにできないことが、どうして共産主義者たちにできると思うんです?」
この発言により、政府側のメンバーたちはマンデラの意図を理解し、彼がANCを共産主義国家へと導く意図はないことが明らかとなりました。マンデラは交渉を通じて、政府側との信頼を築くことに成功し、アパルトヘイトの撤廃に向けて重要な一歩を踏み出すことができました。
マンデラ釈放を求めるコンサートが世界中で開催
1988年、ウェンブリー・スタジアムで開催されたマンデラ釈放を要求するコンサートは、反アパルトヘイト運動の象徴的なイベントでした。世界中から著名なミュージシャンが集まり、マンデラの名声を高め、彼の釈放を促す目的で行われました。それまで、マンデラは一部の国々からテロリストとみなされており、なんとマンデラの名前は2008年まで米国のテロ監視リストに掲載されていました。
当時の英国首相であるマーガレット・サッチャーは、マンデラがロベン島に拘束されていた頃、マンデラが所属するアフリカ民族会議(ANC)を「典型的なテロリスト組織」と呼んでいました。しかし、1988年のコンサートは、マンデラに対するテロリストというレッテルを取り払い、マンデラの釈放を確実なものにしようとする試みでした。
コンサートは、世界中から注目を集め、マンデラおよびANCの名声を高め、アパルトヘイト廃止とマンデラの釈放に向けた国際的な支持を得ることに成功しました。
マンデラの移送先は豪華な施設
1988年、彼はケープタウンの北東50キロにある町パールへ、そこにあるヴィクター・フェルスター刑務所(ドラケンスタイン刑務所)へと再び移送されます。そこに用意された彼のための施設は、なんとプールがついていて、白人シェフもいる豪華な一軒家でした。しだいに自由になれる日が見えてきた中、交渉は続けられますが、お互いに不信感を拭い去ることができないまま時間が過ぎていました。
マンデラとボタ大統領の歴史的な対話
1989年7月5日、南アフリカの強硬派として知られるボタ大統領とネルソン・マンデラとの歴史的な初会見が行われました。この会談は、アパルトヘイト政策の終焉に向けて重要な一歩となりました。マンデラとボタ大統領との対話は、南アフリカの政治的風土を変えるための協力と、将来の和平プロセスへの道を開くことを目指して行われました。
しかし、国際社会が南アフリカに対し圧力を強める中で、ボタ大統領は辞任してしまいます。
フレデリク・デクラークは、ボタ大統領の辞任を受けて、1989年9月に南アフリカの大統領に就任しました。彼はもともとアパルトヘイト政策を支持していた与党国民党の強硬派議員でしたが、大統領になると政治的スタンスが変え、黒人指導層との対話に努めてきました。
「マンデラを釈放する!」デクラーク大統領の歴史的な演説
1990年2月2日、デクラークは歴史的な国会演説を行い、非合法団体であったANC、PAC、共産党などの活動禁止措置を30年ぶりに解除し、死刑執行も停止し、ネルソン・マンデラをはじめとする政治犯約120人の釈放を発表しました。マンデラ釈放は、南アフリカの人種差別による混乱の終結をねらった国の命運を賭けた決断でした。
さらに、デクラークは演説の中で、民主的な新憲法の制定を求めました。これにより、南アフリカはアパルトヘイトからの脱却と民主化を目指す新たな道を歩み始めることになりました。デクラーク大統領の決断は、国内外で大きな反響を呼び、南アフリカの歴史において重要なターニングポイントとなりました。
「長い一章に終わりを告げる」 デクラーク大統領が発表したマンデラ釈放の日
デクラークは釈放の日を具体的に明言していなかったが、1990年2月10日、デクラーク大統領はついにネルソン・マンデラの釈放を発表しました。彼は声明の中で、「長い一章に終わりを告げる」と語り、新生南アフリカを平和裏に誕生させることを各政治勢力に訴えました。
マンデラの釈放が発表されたとき、デズモンド・ツツ大司教(ノーベル平和賞受賞者)は大いに喜びました。彼は、その喜びは言葉で表現できないほどだと語っています。
歴史的瞬間!世界が注目したネルソン・マンデラの釈放
1990年2月11日、日曜日、マンデラの釈放が予定されているビクター・バースター刑務所の前には、数百人の支援者が集まりました。マンデラ自身が刑務所からの釈放の様子を全世界に見せることを要求していたため、世界中のメディアがその瞬間を報道するために集結しました。
そしてついにマンデラが釈放される時がきました。
世界が見たのは圧倒的なオーラーを放つマンデラの姿
予定より1時間以上遅れたが、1990年2月11日午後4時15分頃、ネルソン・マンデラとウィニー夫人はついにビクター・バースター刑務所から釈放されました。
刑務所の門を出たマンデラは、最初は困惑した表情を見せましたが、すぐに顔に輝きが戻り、支持者に向かってこぶしを突き上げました。その後、マンデラは車に戻り、約65キロ離れたケープタウンに向かいました。
再び世界のメディアの前に現れたマンデラは、若い頃とは見違えるほど痩せ細っていましたが、その風貌は圭角のとれた威厳に満ちていました。彼は1962年に44歳で逮捕され、27年間獄中で闘い続けた一人の男でした。
その姿は、長い闘いの中で得た深い知恵と強い信念を示しており、多くの人々に感動と勇気を与えました。この時点で、彼はすでに南アフリカの未来を変えるための象徴的な存在となっていたのです。
刑務官も魅了したマンデラのカリスマ性
マンデラが収容されていた刑務所のスタッフも、彼の人柄に魅了されていたと言われています。2月11日の日曜日の早朝、刑務所長からマンデラが解放されることが告げられ、刑務所スタッフは至急その準備に取り掛かりました。当時の刑務官の1人、ギリンガムは、「一番大事なことは、刑務所内に外部の人間を侵入させないことだった」と語ります。彼はマンデラの出所手続きを行った人物でした。手続きがすべて終わった後、マンデラは家族とのひと時を過ごし、刑務所のスタッフ一人一人と握手を交わしました。「マンデラは『Higher than Hope』という活動家の本をくれた。刑務所内でもマンデラは親切で優しい人物だった。出所を知った瞬間から、南アフリカという国が新しい方向へ向かうことを感じ取った」とギリンガムは語ります。
27年間の収監生活でマンデラが学んだこと
マンデラの27年間の収監生活は、彼の肉体と精神に大きな試練をもたらしました。結核や呼吸器疾患、目の問題など、さまざまな健康問題に悩まされましたが、彼は決してくじけず、勉学に励み、法学士号を取得しました。
マンデラは、クリントン大統領との親交の中で、自分の心境について語ったことがあります。「最初の11年間は憎しみに燃えていましたが、ある日突然、こんな考えが浮かびました。自分と家族はすべてを奪われましたが、それを受け入れることにしましょう。何をされても、自分の心と精神だけは奪われないのだから。」
このように、マンデラは困難な状況にあっても、自分の心と精神を守る強さを持っていました。
マンデラとデクラークが刑務所内で共に歩んだ道
マンデラは刑務所内で5年間にわたって、アパルトヘイト政権の当局者たちと会談を重ね、最終的には当時のデクラーク大統領とも面会して、共に白人政治支配機構を徐々に解体するために困難な交渉を行いました。
これらの会談は、マンデラとデクラークが共同で南アフリカの未来を築く礎となりました。
ケープタウン演説は南アフリカの新たな時代の幕開けを告げる
ケープタウンでは、マンデラの到着を前に警官が黒人グループに発砲する事件が発生し、混乱が懸念されましたが、彼が市庁舎のバルコニーに現れる頃には衝突も収まっていました。市庁舎前には、マンデラの第一声を聞くために大勢の人々が詰めかけました。
世界中で放送されたこの集会でマンデラは力強い口調で演説し、感謝の言葉を述べ、デクラーク大統領を「高潔な人」と称賛しました。また、「全国議会に民主的に選出されない限り、いかなる公的な指導的地位につく意思もない」と明言しました。しかし、27年間の獄中生活を経た71歳のマンデラは、カリスマと闘争心を持っていることを示しました。彼は武力闘争を続けることが必要であると断言し、諸外国に対して、対南アフリカの経済制裁を継続するよう求めました。
最後に、「われわれの自由への歩みはもはや後戻りできない。行く手を恐れてはならない」と語り、黒人支持者に対して「黒人が黒人を治めるのは無理だなどと言われるようなまねをしてはならない」と訴えました。
この演説は南アフリカが生まれ変わるための歴史的な出来事でした。
「ハラレ宣言を継続せよ」マンデラが要求した条件
釈放されたマンデラは、1990年2月12日にケープタウンで記者会見を開き、ハラレ宣言で示された前提条件のうち、まだ実現していない項目を南アフリカ政府に要求しました。
ハラレ宣言(Harare Declaration)
ハラレ宣言(Harare Declaration)は、1991年8月21日にジンバブエの首都ハラレで開催された英連邦首脳会議(Commonwealth Heads of Government Meeting, CHOGM)において採択された宣言です。この宣言は、英連邦加盟国の民主主義と人権、法の支配、および良好な統治の重要性を強調するもので、英連邦の基本的価値観を示しています。
ハラレ宣言は、それまでの英連邦の歴史と進歩を認識し、加盟国間の協力を促進することを目的としています。宣言には、以下のような基本原則が含まれています。
- 民主主義: 民主主義的な制度と選挙による政府選出の重要性を強調しています。
- 人権: 個人の権利と尊厳の尊重、およびすべての人々に対する差別の撤廃を求めています。
- 法の支配: 公正で効率的な司法制度の樹立と、法の支配を尊重することを強調しています。
- 良好な統治: 透明性、責任、公正さを基本とした良好な統治の重要性を強調しています。
ハラレ宣言は、英連邦加盟国が自由で平和的な社会を築くために団結し、人権や民主主義の価値を守るために協力することを目指すものです。この宣言は、英連邦の核心的価値観を定める重要な文書となっており、英連邦憲章(Commonwealth Charter)の制定にも大きな影響を与えました。
ANCはハラレ宣言を南アフリカ政府に提案し、南アフリカの非暴力的民主化を目指すための前提条件として提案していました。マンデラのこの要求は、南アフリカ政府に対してアパルトヘイト制度の完全撤廃や民主化への取り組みを加速させることを目的としてたのです。
また、マンデラは先進諸国に対して、これらの条件が実現されるまで世界に対南アフリカ経済制裁を継続することを訴えました。南アフリカ政府に対する国際的な圧力を維持し、アパルトヘイトの終焉と民主化への道を確実にすることを求めたのです。
マンデラの自伝「自由への長い道 – The Long Walk to Freedom」
マンデラが独房内で密かに執筆した自伝「自由への長い道 – The Long Walk to Freedom」では、彼が1990年に27年間の獄中生活を終えて家族の元へ戻った瞬間の心境が描かれています。オーランドウエストにある8115の家への帰還は、彼にとって監獄からの解放と自由を実感する瞬間でした。マンデラにとって、その家は彼の世界の中心であり、精神的にも非常に重要な地点であったと述べています。
この自伝は、刑期を終えた受刑者に託され、後に多くの人々に読まれることになりました。マンデラの闘いや哲学、そして彼が直面した困難や犠牲を通じて、読者は自由と平等を求める彼の精神を理解し、共感することができます。「自由への長い道 – The Long Walk to Freedom」は、今も多くの読者の心を揺さぶり続けている一冊です。
ネルソン・マンデラの生涯 ⑤ ── マンデラの釈放から総選挙までの闘い