南アフリカのアパルトヘイト制度下で、人種差別と闘ったネルソン・マンデラが、ロベン島刑務所に収監された長い期間。自己啓発や教育活動を通じて、仲間たちとともに人道的な環境の改善を求める運動を続け、その行動が世界中の人々に大きなインスピレーションを与えた。マンデラの人生を変えた収監期間に迫る。
ネルソン・マンデラの生涯 ② ── 南アフリカ反アパルトヘイト運動の歴史
Prison King “Nelson Mandela”
刑務所のキング「ネルソン・マンデラ」
1962年8月5日、ネルソン・マンデラは南アフリカに戻った後すぐに逮捕され、ヨハネスブルクの刑務所に収監されました。しかし、彼を支持する家族や人々から離れる必要があると判断され、政府は彼をプレトリアの刑務所に移送しました。
裁判が始まり、マンデラは再び自らの弁護を担当しました。判決前に、彼は以下のように訴えました。
「告発された罪に対し、裁判長がどんなに長い刑を申し渡されたとしても、その刑期が終了したとき、わたしはやはり、人間が常にそうであるように、自分の良心に従って行動するでしょう。出所したあとも、わが民衆に対する人種差別への憎しみにつき動かされて、そういう不正を取り除くための闘争に再び加わり、差別の根絶に向けて、力のかぎり闘うでしょう。わたしは、わが民衆と南アフリカに対して、自分の義務を果たしてきました。自分が無罪であることを、そして、ほんとうにこの法廷に引き立てられるべき犯罪者は、政府の面々であると、いずれ立証されることを、わたしは疑いません。」
この裁判の判決は、執行猶予なしの懲役5年となり、マンデラの長い刑務所での生活が始まることになりました。
南アフリカ政府の右傾化とANC指導者の逮捕
1963年、南アフリカ政府は右傾化し、極右政治家ジョン・フォルスターが司法大臣に就任しました。彼の下で政府は「九十日拘留法」を制定し、警察は逮捕状なしで怪しい人物を拘留できるようになりました。しかし、この法律に対抗して反政府組織によるテロ行為が増加し、政府はマンデラの脱獄の可能性を恐れ、重要な人物たちをロベン島の刑務所に移送しました。
1963年7月11日にリリーズリーフ農場の存在が発覚し、警察は家宅捜索を実施しました。マンデラを含むアフリカ国民会議(ANC)指導者ら10名が速やかに拘束されました。
捜索の結果、ゲリラ戦の計画に関する書類が発見され、服役中のマンデラはさらに国家破壊活動の罪で裁判にかけられました。
【伝説】リヴォニア裁判での最終陳述
1963年10月9日に始まったその裁判で、彼らがもし有罪となればいよいよ死刑の可能性も高いと予想されました。
同じ頃、警察が押収したANCメンバーがリスト化された書類に基づき、3624人のメンバーが逮捕され、124人に死刑判決が出されていました。こうした当時の非常に厳しい状況を見て、誰もがANC指導者10名にも「死刑」が下されると信じて疑いませんでした。
この裁判は後に「リヴォニア裁判」と呼ばれることになります。しかし、この自らの命がかかった裁判の被告人の最終陳述で、マンデラは自らの弁護をするのではなく、自分の見解を演説することを選択しました。
被告席から世界に語りかけた4時間に及ぶ大演説
マンデラは被告席から証言し、4時間以上にわたる演説を行いました。この戦術は、判決には反映されず、有罪宣告の可能性が高まるリスクがありましたが、マンデラはそれを受け入れました。
演説の最後は「私は白人の支配に対して戦い、黒人の支配に対しても戦ってきた。私は、すべての人が調和し、平等な機会を持って共に暮らしていく、民主的で自由な社会という理想を抱いてきた。私はその理想のために生き、それを成し遂げることを望んでいる。しかしもし必要であれば、その理想のために死ぬことも恐れない。」と締めくくりました。
演説が反アパルトヘイト運動のマニフェスト
この演説は、法廷にいる人々や、南アフリカを支配する白人だけでなく、全世界の人々の心を打ちました。マンデラは、同じ信念を共有する人々に強い影響を与え、自由を求める闘いのシンボルとなりました。
そしてこの演説が、反アパルトヘイト運動のマニフェスト(宣言)になりました。
これは27年後、後にマンデラが釈放された直後の演説でも再び聞かれることになります。
マンデラの終身刑判決からはじまった新たな闘い
1964年6月12日、「リヴォニア裁判」の判決が下され、ネルソン・マンデラは終身刑を宣告されました。世界中の世論が彼に味方したため、死刑宣告は回避されました。しかし、もし死刑判決が下されていたとしても、マンデラは控訴せず、殉教者として運動を盛り上げることを選んだと言われています。彼は再びロベン島の監獄に戻されました。
投獄されたマンデラは、反アパルトヘイト運動の国際的な象徴となりました。彼は正義と平等のための戦いで果たした役割のために投獄されたこともあり、多くの支援者から親愛の情と共に「国民の母」として称されました。マンデラの名声は、南アフリカ国内外でアパルトヘイト撤廃を求める運動を強化し、彼の勇敢な行動が後の南アフリカの歴史や世界中の人々にインスピレーションを与えることになりました。
Today marks the 54th anniversary since a life sentence was handed down on central figures in the Rivonia Trial such as late President Nelson Mandela, Walter Sisulu, Govan Mbeki, Raymond Mahlaba, Elias Motsoaledi, James Kantor, Andrew Mlangeni, Ahmed Kathrada & Dennis Goldberg. pic.twitter.com/hQEKJBDdL0
— Min. Nathi Mthethwa (@NathiMthethwaSA) June 12, 2018
ロベン島の投獄と反アパルトヘイト運動
ロベン島の周辺海域は、海流が激しく脱出が困難なことから、オランダの植民地時代の17世紀から流刑地となり、ハンセン病患者の隔離施設としても使われてきました。その後、共和国時代の1948年にアパルトヘイトが法制化されると、抵抗する多くの黒人活動家が政治犯として捕えられ収監されていました。
囚人番号「46664」
収監されたマンデラは囚人番号「46664」(フォア・ダブル・シックス・シックス・フォア)で呼ばれます。先年、この番号を冠にした国際エイズ撲滅コンサートが大々的に開催されたのを覚えておられる方もあるでしょう。そんな中でも、180センチ以上の長身だったマンデラは、姿勢もよくて手も大きく、刑務所内でも、王のような風格があったという。
ロベン島の王者、ネルソン・マンデラの風格
180センチ以上の長身だったマンデラは、姿勢もよくて手も大きく、刑務所内でも、王のような風格があったという。
ロベン島の過酷な環境と囚人たちの生活
ネルソン・マンデラがこの島に到着した1964年の冬に、マンデラが直面した状況は過酷なものでした。囚人たちは、就寝用のマットとバケツのトイレだけの小さな牢屋に閉じ込められ、毎朝5:30に起き、バケツを空にしてから一日の重労働を始めました。
黒人の囚人たちは、白人やカラードの囚人たちと比べると、粗末な食事を与えられていました。さらに残酷なことに、彼らは家族との接触も禁じられ、一年に一度だけ30分間の面会とたった二通の手紙のみに制限されていました。
さらに毎日石灰岩採掘場での労働が強制されました。マンデラは強烈な陽光と石灰岩の埃によって目にダメージを受け、その影響は一生涯続く続くことになりました。しかしこの採掘場は、収監者たちにとって政治的な議論や情報交換ができる貴重な場でもありました。
マンデラら政治犯たちが築いた「ロベン島大学」の物語
投獄生活の中で、次世代の南アフリカの政治指導者たちが討論や話し合いに多くの時間を費やしました。マンデラはウォルター・シスル、ゴヴァン・ムベキ、アーメッド・カスラダなどの仲間と共に、家族や友人から隔離され、自分たちが鋼のように強く、新しい南アフリカへの希望を絶対に諦めないことを誓いました。
この囚人たちの精神力と努力により、ユネスコの世界遺産委員会はロベン島を「人間の精神の勝利」の地として世界遺産に登録しました。マンデラは仲間の収監者の自己啓発を願い、さまざまなトピックで秘密に講義をたびたび開きました。この刑務所は、収監者たちの間で「ロベン島大学」として知られるようになり、後には「ネルソン・マンデラ大学」という異名をとりました。このような教育活動は、囚人たちが自己改革と知識の獲得を通じて、アパルトヘイト制度の撤廃に向けての闘いを続ける力となりました。
民族の槍と南アフリカ周辺地域での闘い
1967年、ANCの元代表でノーベル平和賞受賞者のルツーリ首長が死去しました。彼は平和的な反政府活動の中心人物であり、彼の死は時代の変化を象徴するものでした。その後、反政府活動は過激さを増し、民族の槍もその流れに従いました。
民族の槍は南アフリカ国内での活動だけでなく、隣国ジンバブエでも白人支配に抵抗する反政府活動に参加しました。ジンバブエでも状況は似ており、白人による支配が続いていました。民族の槍はジンバブエでの反政府活動に参画し、戦闘にも加わるようになりました。
このようにして、南アフリカとその周辺地域での反アパルトヘイト運動は、次第に過激さを増していきました。この過程で、多くの活動家たちが犠牲となり、国際社会の注目を集めるようになります。
権力との関係を変えた男
その頃、収監中のマンデラはANCの内部組織を設立し、刑務所内での待遇改善を求め、様々な抗議運動を展開しました、すべてが上手くいったわけではありませんでした。
しかしその中で権力とその元で働く普通の人々との関係に気づき、彼らの心をつかむ方法を考えました。マンデラは刑務所内での経験を通じて、「ロベン島に変革をもたらすのにいちばんいい方法は、公式にではなく、個人的に、職員たちを感化していくことだった」と気づいたのです。
それからは待遇改善のために、刑務所の職員たちと個人的に接触し、彼らを感化することに力を注ぎました。この方法は後の彼の政治家としての手法にも大きな影響を与えました。
また、刑務所外の問題は、正確な情報が入ってこないため外にいるメンバーに任せていました。
社会の変化が刑務所の待遇改善につながる
1969年、刑務所内部の待遇が急激に改善され始めました。これは外部の社会状況が変化していたことを反映していたと考えられてます。
ロベン島における南アフリカの政治指導者たちの形成
1971年、「小リヴォニア裁判」が行われ、数多くの政治犯がロベン島に送られてきました。
反逆罪で逮捕された「民族の槍」の若者たちが次々とロベン島に送られてきました。彼らの多くは、バンツー教育法のもとで、教育を受けることなく育った子供たちで、民族の槍のメンバーやギャングだった若者も多くいました。そのため、マンデラらの首脳陣は若者たちのために教育機関を組織しました。
若者たちは、英語、アフリカーンス語、美術、地理、数学などの学問に加え、南アフリカにおける解放運動の歴史や「マルクス主義」、「インドの独立闘争史」などを学びました。また、マンデラ自身も彼らから学ぶことがありました。
ロベン島での教育活動は、若者たちに希望を与え、彼らの人生に大きな影響を与えることになりました。この教育活動は、後の南アフリカの政治指導者たちの形成にも寄与しました。また、マンデラ自身も若者たちとの交流を通じて、彼らの意見や考えを理解し、彼らとともに運動を進めていく力となりました。
マンデラが自伝の執筆を始めたのも、ちょうどこの頃でした。しかし、この当時最初に書かれた回想録は刑務所内から持ち出す前に発見されてしまい、一部が持ち出しに成功したものも結局失われてしまいました。
南アフリカ政府の妥協案を拒否したマンデラの覚悟
1976年、南アフリカ国民党の閣僚シミー・クルーガーがロベン島を訪れ、ネルソン・マンデラに対して刑期を短縮する条件として、バンツースタン政策に協力するよう提案しました。バンツースタン政策は、南アフリカ政府がアパルトヘイト体制の一環として推進していたもので、黒人を地域に分離し、人種間の接触を最小限に抑えることを目的としていました。
マンデラはこの提案を拒否しました。彼はアパルトヘイト体制の撤廃と人種平等の実現を目指しており、バンツースタン政策に協力することは彼の理念に反するものでした。この事件は、南アフリカ政府が国内外の圧力や抗議活動によって追い詰められつつあることを示しており、アフリカ民族会議(ANC)側にとっては、状況が徐々に変わり始めていることを示すものでした。
「ソウェト蜂起」
1976年6月16日に南アフリカのソウェト地区で大規模な抗議活動が始まりました。この抗議活動はソウェト蜂起と呼ばれ、アパルトヘイト政策に対する若者たちの抗議として始まり、数週間にわたって続いた暴力的な衝突に発展しました。ソウェト蜂起は、南アフリカのアパルトヘイト体制に対する国内外の抗議の激化を促し、国際的な注目を集めることになりました。
ソウェト蜂起の引き金となったのは、南アフリカ政府が導入したアフリカーンス語(オランダ系南アフリカ人の言語)を公立学校の教育言語とする政策でした。この政策は、黒人の子どもたちにアフリカーンス語で教育を受けさせることを強制し、彼らの英語教育の機会を制限するものでした。多くの黒人学生と教師は、この政策に反発し、6月16日に1万5000人の中学生が抗議デモをおこしました。
当初は平和的なデモでしたが、やがて暴力がエスカレートし、警察が発砲するなど、デモ参加者の間で衝突が起こりました。この衝突で何百人もの子供たちが死亡し、さらに多くの人々が逮捕され、負傷しました。
アパルトヘイト体制に対する不満と抵抗が高まるきっかけとなった
この事件をうけ、全土で暴動が発生し、南アフリカは大混乱に陥ります。
地域にも広がり、アパルトヘイト体制に対する国民の不満と抵抗が高まるきっかけとなりました。
ソウェト蜂起の影響は広範囲に及び、国際社会からの南アフリカへの制裁や圧力が強まりました。また、アパルトヘイトに反対する国内の活動家たちや組織、特にアフリカ民族会議(ANC)にとって、ソウェト蜂起は南アフリカの政治状況を変える重要な出来事となりました。
ロベン島の若者たちに与えた影響と将来のリーダーたちへのマンデラ教育
ソウェト蜂起で逮捕された若者たちはロベン島に送られることになり、マンデラは彼らに対しても教育的な役割を果たすことになりました。彼は彼らにANCの歴史やその理念を伝え、アパルトヘイトの撤廃に向けた彼らの闘いを励ましたとともに、暴力行為やテロ活動だけでは問題は解決されないことを説いたのです。
マンデラは、抵抗運動において政治的な対話や交渉が重要であると強調しました。彼の教えは、ロベン島に収監されていた若者たちに大きな影響を与え、後の南アフリカの政治家や活動家たちに対する指導原則となりました。マンデラの教育活動は、彼らに平和的な手段での抵抗運動の重要性を認識させるだけでなく、将来のリーダーたちに対する啓蒙活動としても大きな意義を持っていました。
マンデラの自己鍛錬と敵を理解する勉強
1977年に刑務所内での強制的な肉体労働が廃止されたことで、マンデラは自分で身体を鍛えるためにさまざまな運動を始めました。彼はロードワーク、テニス、畑作りといった農作業などで体力を維持していました。狭い独房の中で、毎朝5時に起きて約1時間もの腕立て伏せ、スクワットを欠かさず、自分の体と忍耐を鍛え続けます。
理不尽な看守の態度に対し、反撃することも、屈することもしませんでした。一方で、苦しい環境の中で自分に負けてしまう同胞の囚人達の弱さにも、十二分に理解を示しました。妻のウィニーが白人警察からひどい拷問にあったり、息子テンビが事故で死亡した、といったニュースを聞くたびに何度も込み上げる怒りをぐっと鎮め、堪えました。
そのかわり、刑務所内の図書館で唯一閲覧が許されたアフリカーナー(当時の南アフリカ白人)に関する本を読み、敵の言語や歴史、文化の深い理解に努めました。マンデラは、敵を理解することが対話や和解への道を開くと考えており、この勉強が後に彼が白人政府との交渉に成功する大きな要因となりました。
収監中のマンデラが国際的に高く評価
1979年には、ロベン島刑務所内でアフリカ人、カラード、インド人の食事が同じ内容に統一されることになり、これによって刑務所内の人種間の不平等がいくらか緩和されました。
同じ年、マンデラはインドのジャクラル・ネール人権賞を受賞しました。この賞は、世界的な平和と人権のために尽力した人物に与えられる賞であり、マンデラの活動が国際的に高く評価されていたことを示しています。
外部との接触が増し、刑務所内の環境に変化が生じる
そして、1980年には刑務所内で新聞の購読が可能になりました。これによって、マンデラと他の収監者たちは外部の情報にアクセスできるようになり、世界の情勢や南アフリカ国内の状況についてより詳しく知ることができました。これらの改善は、ロベン島刑務所内の環境が少しずつ人道的なものに変わっていく過程を示しています。