【アフリカ最大の英雄】ネルソン・マンデラの生涯③「運命の判決の時」
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Prison King “Nelson Mandela”
刑務所のキング「ネルソン・マンデラ」
懲役5年の判決を受ける
1962年8月5日、故国にもどった彼はすぐに逮捕され、ジャハネスバーグ刑務所に収監されます。しかし、家族だけでなく彼を支持する人々から引き離す必要性から、政府は彼をプレトリアの刑務所に移送します。
ネルソン・マンデラ Nelson Mandela (後編)/ポップの世紀
この裁判の判決は、執行猶予なしの懲役5年となり、ここから彼の長い長い刑務所での生活が始まることになります。
ネルソン・マンデラ Nelson Mandela (後編)/ポップの世紀
「リリーズリーフ農場」でANC幹部が逮捕
翌1963年7月11日、リリーズリーフ農場の存在が発覚し、警察の家宅捜索を受ける。
マンデラ氏が反アパルトヘイト抗争を練っていた農場が博物館に、一般公開始まる/AFPBB News.2008
さらに“国家反逆罪”でマンデラが再び裁判にかけられる
あっという間に身柄を拘束された17名の幹部のうち、マンデラとANC指導者を含めた10名が、リヴォニア裁判で反逆罪と破壊工作の罪で裁判にかけられました。
【今日から知るマンデラ:第11話】減刑よりも広報を:裁判はひとつの闘争のかたち/愛すれば、愛おしくなる
捜索中、ゲリラ戦の計画に関する書類が見つかったとして、服役中のマンデラ氏は国家破壊活動の罪で裁判にかけられた。
マンデラ氏が反アパルトヘイト抗争を練っていた農場が博物館に、一般公開始まる/AFPBB News.2008
マンデラが死刑に!?「リヴォニア裁判」
同じ頃、警察が押収したANCメンバーがリスト化された書類に基づき、3624人のメンバーが逮捕され、124人に死刑判決が出されていました。こうした当時の非常に厳しい状況を見て、誰もがANC指導者10名にも「死刑」が下されると信じて疑いませんでした。
【今日から知るマンデラ:第11話】減刑よりも広報を:裁判はひとつの闘争のかたち/愛すれば、愛おしくなる
「伝説の演説」
マンデラ氏は被告人の最終陳述で、求刑に対する意見を述べる代わりに演説を行うことを選んだ。この演説は法廷内にいた人々ばかりか、南アフリカ、そして世界を感動に打ち震えさせた。
マンデラ大統領の同志、終身判決から49年目を語る 南ア/AFPBB News.2013
「私は白人の支配に対して戦い、黒人の支配に対しても戦ってきた。私は、すべての人が調和し、平等な機会を持って共に暮らしていく、民主的で自由な社会という理想を抱いてきた。私はその理想のために生き、それを成し遂げることを望んでいる。しかしもし必要であれば、その理想のために死ぬことも恐れない。」
人権の擁護者たちネルソン・マンデラ(1918年~)/ユース・フォー・ヒューマンライツ オーガニゼーション
政治評論家のザミカヤ・マセティ(Zamikhaya Maseti)氏は「被告席からのマンデラ氏の演説は、南アフリカを支配する白人たちに向けられただけではなかった。全世界に向けられたものだった」という。「マンデラ氏は(投獄によって)何十年も姿を消すことになる前に、世界の注目を集めることに成功した」
マンデラ大統領の同志、終身判決から49年目を語る 南ア/AFPBB News.2013
マンデラは証人台には立たず被告席から語りかけた
1963年に始まった公判で、被告側弁論準備を主導したマンデラは「最初から、この裁判を、法の審判を受ける場ではなく、信念を世に広く知らせる舞台として利用するつもりであった」[マンデラ1996b, 80-82, 一部改訳]。その目的のために、マンデラは証人台からではなく、被告席から証言する、という方法を採用した。被告席から行う声明は反対尋問や判事の質問に答える必要がないため、自らの主張を自由に展開できるが、その内容は判決には反映されず、有罪宣告の可能性が高まる。それでも、法廷を「舞台として利用する」戦術は4時間超にわたって繰り広げられ、「私は生涯を通じて、白人支配にも、黒人支配にも闘ってきました」[マンデラ1996b, 92, 一部改訳]という、27年後に釈放直後の演説で再び聞かれることになる主張で締めくくられたのである。
時事解説: 弁護士マンデラのプラグマティズムと真実和解委員会/ジェトロ・アジア経済研究所
反アパルトヘイト運動のマニフェストに!
このとき裁判でマンデラ氏が行った演説は、反アパルトヘイト運動のマニフェスト(宣言)となった。
「虹の国」の父、ネルソン・マンデラ氏 獄中から大統領に/AFPBB News.2013
終身刑を宣告される
しかし彼らの活動を危険視した当局に捕えられ、1964年、終身刑の判決を言い渡される。
マンデラ生誕100年。伝説の指導者が残した偉大な功績を振り返る。ビジュアル愛蔵版『ネルソン・マンデラ その世界と魂の記録』10/31発売!/PR TIMES.2018
終身刑を宣告され投獄されたネルソン氏からバトンを受け取るようにして、マンデラ氏は反アパルトヘイト運動の国際的な象徴となった。マンデラ氏自身も、正義と平等のための戦いで果たした役割のために、投獄されたこともあった
ウィニー・マンデラ氏死去、81歳 南アの反アパルトヘイト運動家/BBCニュース.2018
支援者からは、マンデラ氏は親愛の情と共に「国民の母」として知られる存在となった。
ウィニー・マンデラ氏死去、81歳 南アの反アパルトヘイト運動家/BBCニュース.2018
Today marks the 54th anniversary since a life sentence was handed down on central figures in the Rivonia Trial such as late President Nelson Mandela, Walter Sisulu, Govan Mbeki, Raymond Mahlaba, Elias Motsoaledi, James Kantor, Andrew Mlangeni, Ahmed Kathrada & Dennis Goldberg. pic.twitter.com/hQEKJBDdL0
— Min. Nathi Mthethwa (@NathiMthethwaSA) June 12, 2018
ロベン島の刑務所に収監
ネルソン・マンデラ氏は1964年、政府に対してゲリラ戦を企んだとして告訴され、ロベン島に収監されました。
ネルソン・マンデラ氏の足取りをたどる/KLM 旅行ガイド
ロベン島って?
ロベン島の周辺海域は、海流が激しく脱出が困難なことから、オランダの植民地時代の17世紀から流刑地となり、ハンセン病患者の隔離施設としても使われてきました。その後、共和国時代の1948年にアパルトヘイトが法制化されると、抵抗する多くの黒人活動家が政治犯として捕えられ収監されました。
ロベン島|アフリカ 世界遺産|阪急交通社
囚人番号「46664」
その間マンデラは囚人番号「46664」(フォア・ダブル・シックス・シックス・フォア)で呼ばれます。先年、この番号を冠にした国際エイズ撲滅コンサートが大々的に開催されたのを覚えておられる方もあるでしょう。
歴代大使コラム/在大韓民国日本国大使館
刑務所のキング
180センチ以上の長身だったマンデラは、姿勢もよくて手も大きく、刑務所内でも、王のような風格があったという。
Nelson Mandela ネルソン・マンデラ(南アフリカ)/ラグビーリパブリック.2014
超過酷!ロベン島刑務所での生活
ネルソン・マンデラがこの島に到着した1964年の冬に、彼が直面した状況は過酷なものでした。囚人たちは、就寝用のマットとバケツのトイレだけの小さな牢屋に閉じ込められ、毎朝5:30に起き、バケツを空にしてから一日の重労働を始めました。黒人の囚人たちは、白人やカラードの囚人たちと比べると、粗末な食事を与えられていました。さらに残酷なことに、彼らは家族との接触も禁じられ、一年に一度だけ30分間の面会とたった二通の手紙のみに制限されていました。
英雄たちが過ごした歴史的遺産 ロベン島/ 南アフリカ観光局
石灰岩採掘場で体にダメージを受けた
収監中、マンデラ氏は、しばしば石灰岩採掘場で労働を強制されました。
ネルソン・マンデラ氏の足取りをたどる/KLM 旅行ガイド
マンデラは、まぶしい陽光と埃で目を痛めたという。
独居房、N・マンデラの足跡/ナショナルジオグラフィック.2013
収監者同士が討論する場所の役割
マンデラ氏の目は、強烈な光と石灰岩の微粒子で弱り、一生回復することはありませんでした。採掘場は、収監者が政治について語り合い、情報を交換する場でもありました。
ネルソン・マンデラ氏の足取りをたどる/KLM 旅行ガイド
ロベン島大学 a.k.a ネルソン・マンデラ大学
そんな投獄生活の中、次世代に南アフリカの政治指導者となる囚人たちが、討論と話し合いに多くの時間を費やしました。家族や友人から隔離されたマンデラを筆頭に、ウォルター・シスル(Walter Sisulu)、ゴヴァン・ムベキ(Govan Mbeki)、アーメッド・カスラダ(Ahmed Kathrada)らの多くの囚人たちは、自分たちは鋼の男であり、新しい南アフリカへの希望を絶対に諦めないことを誓いました。このことから、ユネスコの世界遺産委員会は、この場所を「人間の精神の勝利」の地として世界遺産に登録しました。
英雄たちが過ごした歴史的遺産 ロベン島/南アフリカ観光局
マンデラ氏は、仲間の収監者の自己啓発を願い、さまざまなトピックで秘密に講義をたびたび開きました。そして、この刑務所は収監者の間で「ロベン島大学」、後に「ネルソン・マンデラ大学」の異名を取ることになります。
ネルソン・マンデラ氏の足取りをたどる/KLM 旅行ガイド
刑務所の中で反対運動を主導
マンデラはまた、アフセル当局にロベン島の状況改善を余儀なくされた刑務所での反抗運動を引き続き主導した。
ネルソン・マンデラが南アフリカの人々の傷を癒したとき/VOI.2020
『自由への長い道』
独房内でマンデラが密かに執筆した自伝『自由への長い道』は、先に刑期を終えた受刑者に託され、今も多くの読者の心を揺さぶっている。
独居房、N・マンデラの足跡/ナショナルジオグラフィック.2013
ポルスモア刑務所に移監
ロベン島に収監されてから18年後の1982年、マンデラ氏はケープタウンのポルスモア刑務所に移監されました。
ネルソン・マンデラ氏の足取りをたどる/KLM 旅行ガイド
ポルスモア刑務所は、マンデラ氏が27年間の獄中生活の大半を過ごし、現在は博物館となっているロベン島(Robben Island)のような観光地ではない。南アフリカの中でも最も過酷な刑務所の1つだ。
ウエーターは元泥棒、南アフリカの刑務所レストラン/AFPBB News.2016
「戦いは我が人生
ロベン島監獄で20年、次いでポルスモア刑務所で7年半、その獄中記「戦いは我が人生」は涙なくしては読めない。その監獄島や刑務所の建物を現実に見て、この戦いのすざましさに泣けてきた。
村上空山の旅(南アフリカ編)/村上空山のホームページ(天空通信)
ボータ大統領からの“条件付きの釈放”を拒否
1985年1月31日、南アフリカ共和国のP・W・ボータ大統領は国会で、獄中のネルソン・マンデラが「政治的武器としての暴力を無条件に放棄する」ならば彼を釈放する用意がある、と発表した。ボータがこのような提案をするのはこれが初めてではなく、以前は、さらに「マンデラがトランスカイに自主退去すること」という条件もつけていた。トランスカイとは、ボータ政権が黒人の居住指定地域として設けた自治区「バントゥースタン(別名ホームランド)」の1つである。
政府との取引を拒否し、獄中生活を選ぶ ネルソン・マンデラの決断/ナショナルグラフィック.2020
マンデラは「交渉が許されているのは自由な人間だけです。囚人は契約を結ぶことができないのです」と続けた。そして、誰も誤解しようのない言葉で自身の立場を示した。「私にも皆さんにも自由が与えられていない今、私は政府に対してどのような約束もできないし、することはありません」
政府との取引を拒否し、獄中生活を選ぶ ネルソン・マンデラの決断/ナショナルグラフィック.2020
自宅に軟禁
マンデラはまた、アフセル当局にロベン島の状況改善を余儀なくされた刑務所での反抗運動を引き続き主導した。1982年、マンデラはポールスムーア刑務所に移送され、1988年にコテージに送られ、自宅軟禁された。
ネルソン・マンデラが南アフリカの人々の傷を癒したとき/VOI.2020
ビクター・フェルスター刑務所に収監
1988年、彼はケープタウンの北東50キロにある町パールへ、そこにあるヴィクター・フェルスター刑務所へと再び移送されます。そこに用意された彼のための施設は、なんとプールがついていて、白人シェフもいる豪華な一軒家でした。しだいに自由になれる日が見えてきた中、交渉は続けられますが、お互いに不信感を拭い去ることができないまま時間が過ぎていました。
ネルソン・マンデラ Nelson Mandela (後編)/ポップの世紀
a.k.a ドラケンスタイン刑務所
現在この刑務所はドラケンスタイン刑務所と呼ばれています。彼は収監中もずっと、有力な政治家や活動家の訪問を受けました。
マンデラ氏の歩み/Google Earth
服役中に鍛錬を積み重ねていた!?
この収監は27年間続きました。この時マンデラ氏は結核をはじめとする呼吸器疾患、加えて重労働により目を傷めるなど、体調を崩しました。しかしそんな獄中でも勉学を続けて、法学士号を取得しました。
信念を持ち続けた男、ネルソン・マンデラ その生涯にわたって訴え続けたもの、終身刑を受けながらも訴え続けたこと/セミナー情報ドットコム
マンデラ氏はあるとき、親交の深かったクリントン大統領に語ったという。「はじめの11年間は憎しみで煮えくりかえっていたが、ある日ふと、こう思った。自分と家族はすべてを奪い取られたが、それをすべて受け入れよう。何をされようとも、自分の心と精神だけは奪い取ることはできないのだから。」
世界経済評論IMPACT/社団法人 世界経済研究協会.2013
狭い独房の中で、毎朝5時に起きて約1時間もの腕立て伏せ、スクワットを欠かさず、自分の体と忍耐を鍛え続けます。理不尽な看守の態度に対し、反撃することも、屈することもしませんでした。一方で、苦しい環境の中で自分に負けてしまう同胞の囚人達の弱さにも、十二分に理解を示しました。妻のウィニーが白人警察からひどい拷問にあったり、息子テンビが事故で死亡した、といったニュースを聞くたびに何度も込み上げる怒りをぐっと鎮め、堪えました。そのかわり、刑務所内の図書館で唯一閲覧が許されたアフリカーナー(当時の南アフリカ白人)に関する本を読み、敵の言語や歴史、文化の深い理解に努めました。
2015年6月15日世界のシステム・リーダー1 ネルソン・マンデラ氏 【前編】 「27年間の牢獄生活における自己マスタリー」/チェンジ・エージェント.2015
ラグビーが人種の壁を越える
アパルトヘイトを主導し、政治の世界で最大の権限を行使していたのはアフリカーナー(とくにオランダ系白人)だったため、敵に近づくために彼らが話すアフリカーンス語や歴史を学び、見回りに来る刑務所の少佐が熱烈なラグビーファンだと知ると、ラグビーを猛勉強した。
Nelson Mandela ネルソン・マンデラ(南アフリカ)/ラグビーリパブリック.2014
少佐は政治犯であっても、他の一般犯罪者と同じように容赦なく扱い、最初はとても対話などできるような状況ではありませんでした。そのような関係性をどうしたら超えられるか、どうしたら近づけるかを一生懸命に探った結果、少佐が唯一、夢中になっているものがあることに気づいたのです。それが、ラグビーだったのです。南アのラグビーチーム「スプリングボクス」は、白人政権時代の国旗を象徴する緑と黄色のユニフォームを身に着けており(故に黒人にとってスプリングボクスはアパルトヘイトの象徴であり、最も憎いものの1つでしたが)、その迫力あるプレーから白人の存在感を象徴する、アイデンティティーでもありました。
世界のシステム・リーダー1 ネルソン・マンデラ氏 【後編】 「共有ビジョン”虹の国”へ向けて」/チェンジ・エージェント.2015
マンデラの心は徐々に変化していった。白人への憎しみが白人への理解に代わった。あの、一生をかけて戦ってきたアパルトヘイトの白人にも人間の血が流れている。そうであれば心が通じないわけがない。
「赦しと和解」の伝道者・マンデラとグスマン(前篇)/WEDGE Infinity.2018
「敵を味方に変える」
相手に敬意を示す。練達の策士が考えた作戦は成功した。話術と笑顔でも魅了したマンデラは刑務所内で敵を味方に変え、磨かれた魔法は社会に出てから最大限の威力を発揮する。
Nelson Mandela ネルソン・マンデラ(南アフリカ)/ラグビーリパブリック.2014
刑務所で身に着けたこれらすべての力が、やがて白人看守との信頼関係を築くことに繋がり、刑務所内の生活環境が少しずつ改善され、刑務所長との対等な対話を実現します。そして、ついには白人の前大統領との交渉機会を得るに至ったのでした。
2015年6月15日世界のシステム・リーダー1 ネルソン・マンデラ氏 【前編】 「27年間の牢獄生活における自己マスタリー」/チェンジ・エージェント.2015
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