【アフリカ最大の英雄】ネルソン・マンデラの生涯②「公民権活動家時代」
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Civil Rights Leader Nelson Mandela
公民権運動リーダー「ネルソン・マンデラ」
南アフリカ初!!マンデラが黒人のための法律事務所を開設
1952年に弁護士事務所を開設する。これは、アフリカの黒人による黒人らのための唯一の会社であり、黒人の解放のための活動が始まった。
小松正之『私が見た世界』/小松正之.政策研究大学院大学.2013
ヨハネスブルグにあるウィットウォータースランド大学で法律を学んだのち弁護士試験に合格して、タンボと一緒に黒人のための初の法律事務所を開いた。ここから彼の大活躍が始まる。マンデラは知力体力を備えた、弁舌爽やかな、黒人たちにとってのスターだった。
時事解説: 和解の政治家、ネルソン・マンデラ/ジェトロ・アジア経済研究所
チャンセラーハウスとシャドーボクサー像
マンデラとタンボは1950年代にチャンセラー・ハウスで弁護士として活躍。この歴史的建造物の向側には芸術家マルコ・チャンファネリが手掛けたシャドーボクサーの像があります。
南アフリカとの出会いおすすめプラン/南アフリカ観光局
マンデラはボクシング経験者
マンデラはボクシングが好きで、若い頃にアマチュアボクシングをやっていました。身長も180センチ以上あるヘビー級で、大統領の任期中も「チャンピオンになりたかった」と茶目っ気をみせていました。
ネルソン・マンデラにまつわる逸話5つ!反アパルトヘイト運動に徹した政治家/ホンシェルジュ.2017
マンデラ氏は小さい時からボクシングが得意で、逮捕され獄中18年ののち大統領にならなければ、ボクシングの世界チャンピオンになっていただろうといわれている。
ヨハネスブルグ/私の芭蕉紀行
Nelson Mandela boxing —1953 pic.twitter.com/snqq8TKU1K
— Vala Afshar (@ValaAfshar) December 7, 2013
Did you know that Nelson Mandela was a great boxing fan and he even practiced boxing when he was young? #WBC #Boxing pic.twitter.com/2YW9a9Ey87
— World Boxing Council (@WBCBoxing) June 11, 2014
アフリカ民族会議青年同盟の活動家!
盟友オリバー・タンボ(Oliver Tambo)とともに弁護士事務所を開設したマンデラは、アフリカ 民族会議(African National Congress: ANC)青年同盟の活動家として頭角を現す。
ネルソン・マンデラの見果てぬ夢 (特集 ネルソン ・マンデラ — その人生と遺産)(p.21)/峯 陽一.日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所.2014
人種差別的な法律に対抗!不服従運動を指揮
1952 年にマンデラは人種差別的な法律を意図的に破る不服従運動(Defiance Campaign) を指揮した。
マンデラ生誕100周年を迎えた南アフリカ/牧野 久美子.The Author(s) 2018
1952年、マンデラは抵抗運動のリーダーとなったが、この運動では積極的に法に違反することが呼びかけられた。マンデラを含め8000人以上が、夜間外出禁止令への違反や身分証明書の不携帯などで逮捕された。
ネルソン・マンデラの生涯、終わりなき人種差別との闘い/ナショナルジオグラフィック.2020
On this day, 30 July 1952 Nelson Mandela was arrested for his role in the Defiance Campaign and charged under the Suppression of Communism Act pic.twitter.com/smaJ91YoQ5
— NelsonMandela (@NelsonMandela) July 30, 2020
On this day, 26 August 1952 Nelson Mandela and others appeared in the Johannesburg Magistrates’ Court for the Defiance Campaign pic.twitter.com/FVM2s2nrpu
— NelsonMandela (@NelsonMandela) August 26, 2020
人種差別反対!「人民会議」開催
1955年6月26日、ANCは人種差別に反対する多人種の「人民会議」の開催を呼びかけ、ジョハネスバーグ近郊のクリップタウンで、人種差別の無い民主南アフリカを目指す、「自由憲章(フリーダム・チャーター)」を採択しました。自由憲章はANCの基本政策として長らく支持されていきます
第3回 【アフリカ民族会議(African National Congress: ANC)】-前編-/鯨井 幸一.南アフリカをもっとよく知るための用語解説
「南アフリカは、黒人も白人も、そこで暮ら すすべての者に属する」。この表現で始まる自由憲章は、南アフリカの解放運動の目標を示すマニ フェストとなった。南アフリカから白人を追い出せ、というわけではない。目指すべきは、すべ ての人種、民族集団の平和的な共存である。
ネルソン・マンデラの見果てぬ夢 (特集 ネルソン ・マンデラ — その人生と遺産)(p.21)/峯 陽一.日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所.2014
マンデラが反逆罪裁判で勝利
1956年に始まった反逆罪裁判では、マンデラはじめANCの論客は法廷論争で政府に勝利している。
時事解説: 和解の政治家、ネルソン・マンデラ/ジェトロ・アジア経済研究所
非人道的な大事件「シャープヴィル虐殺事件」
1960 年 3 月 21 日、南アフリカ連邦トラン スヴァール州ヨハネスブルク郊外のシャープヴィルで、南アフリカの非 白人の移動を制限するパス法に抗議する数千人のアフリカ人に対し、現地警察が発砲する事件が起こった。後にシャープヴィル虐殺事件と呼ば れるこの事件は 69 名の死者とその他多くの負傷者を生み、国際社会に激震が走った。
オーストラリアとコモンウェルスの変容――南アフリカ脱退の衝撃――(p.93)/生尾和弘
女性や子どもも背中から撃たれていた。
虹は消えた マンデラの死の意味/木村正人.Yahoo!ニュース.2013
南アフリカは非常事態を宣言
この事件を受けて南アフリカ全土で抗議活動が勃発、18,000人以上の市民が拘束され、南アフリカ政府は非常事態を宣言することになった。
3月21日は「シャープビル虐殺」が起こった日! 南アフリカ政府による市民大量虐殺…/TOCANA.2021
直後、南アフリカ政府は非常事態宣言を発し、アフリカ民 族会議(African National Congress)などの黒人組織を非合法化した。
オーストラリアとコモンウェルスの変容――南アフリカ脱退の衝撃――(p.93)/生尾和弘
パス法って?
1952年、当時の南アフリカ政府によるアパルトヘイト(後述)の一環として、一定の年齢以上の黒人にだけ身分証明書の携帯を義務付けた(もし身分証明書を持たずに外出した場合は身柄を拘束された)「パス法」が制定されました。
【今日は何の日?】3月21日: 国際人種差別撤廃デー / International Day for the Elimination of Racial Discrimination/ftcj.org | 特定非営利活動法人フリー・ザ・チルドレン・ジャパン
この法律によって、16 歳以 上のアフリカ人には出生地、民族名、現住所、写真、指紋、雇い主の署名など、必要事項が記 入された証明書の携帯が義務付けられた。したがって、証明書の不携帯や指定された居住地を はなれることは、身柄の拘束を覚悟しなければならなかった。職を求めて地方から都市へ移動 するアフリカ人には常に拘束の危険性があった。
新生南アフリカの経済事情 (p.134)/北川 勝彦(アフリカ経済・環境研究班研究員関西大学経済学部教授).第 214 回産業セミナー
アパルトヘイトの下で、パス法は黒人アフリカ人の動きを制御するように設計されており、南アフリカ政府がアパルトヘイトを支援するために使用した最も悲惨な方法の1つと見なされています。
南アフリカのアパルトヘイト時代のパス法を理解する/Greelane.com – 世界最大の教育リソース.2020
アパルトヘイトを進めるため!「南アフリカ共和国」建国
アパルトヘイト(人種隔離政策)は、非人道的な差別政策として、国内の反対運動だけでなく、国際的な批判を受け、本国イギリスも圧力を加えるようになった。そのため、1961年には南アフリカのアフリカーナー系白人からなる政府は、イギリス連邦から離脱して南アフリカ共和国とすることを一方的に宣言した。
南アフリカ連邦/南アフリカ共和国/世界史の窓
「もはや武力で……」武装組織“民族の槍”設立!
1960年に シャープヴィル虐殺事件が起こったこともあり、1961 年にアフリカ民族会議内に武装組織ウムコント・ウェ・シズウェが設立される。マンデラはその設立に尽力した。
革命の思想/三省堂WORD-WISE WEB
キューバ革命(1958~59年)に触発されたマンデラは1961年、軍事組織ウムコント・ウェ・シズウェ(Umkhonto we Sizwe:民族の槍)を創設、毛沢東やチェ・ゲバラのゲリラ戦術をヒントに、白人政権への直接的な攻撃を開始した。
ネルソン・マンデラ、自由への闘争/ナショナルジオフラフィック.2013
「民族の槍」は、「政府は運動の穏やかさを弱さと解した。民族の非暴力方針は、政府が暴力をふるうことに対する青信号と受けとられた。われわれは、この国の人民解放のための新しい道をたどって出撃する」と宣言した。
虹は消えた マンデラの死の意味/木村正人.Yahoo!ニュース.2013
「……政府もアパルトヘイトをあきらめる」
南アを内戦ぎりぎりにまで追い込めば、政府もアパルトヘイトをあきらめる。それが武力闘争の狙いだった。
虹は消えた マンデラの死の意味/木村正人.Yahoo!ニュース.2013
ANCの秘密基地「リリーズリーフ農場」
1961年8月アパルトヘイト反対運動の本部をおくために南アフリカ共産党が購入したリリーズリーフ・ファームは、その後ANCの指導者や南アフリカ共産党員の秘密の会合場所となりました。表向きにはGoldreichファミリーという白人の家族が経営する農場に見せかけており、ネルソン・マンデラ元大統領自身もDavid Motsamayiという偽名を使い、作業着を来て料理人兼庭師という労働者を装っていたと言われています。
自由のために戦った指導者たちのアジト リリーズリーフ・ファーム/南アフリカ観光局
マンデラ氏や仲間たちがここに身を隠すことができたのは、ANCと同様、当時は非合法組織であった共産党員たちのサポートがありました。農場のオーナーも、白人の共産党員でした。
マンデラ氏が武力闘争作戦を練っていた農場‐Liliesleaf farm(リリーズリーフ ファーム)/ima(今) 海外リポーターが伝える世界の生活情報サイト.2014
マンデラは偽名で暗躍!
62年1月から7月まで、「デビッド・モツァマイ(David Motsamayi)」の偽名で新たに独立したアフリカ諸国を訪問し、支持と資金を集めた。
アパルトヘイト時代の南アフリカ、マンデラ氏が「テロリスト」になった日/AFPBB News.2013
マンデラ氏は当時、非合法化されていたアフリカ民族会議(ANC)の抵抗運動を主導。逮捕時には同国の最重要指名手配者だった。しかし、何度も拘束を逃れ、「黒いピンパーネル」のあだ名が付けられた(訳注:フランス革命時に貴族亡命を支援した英国の秘密結社「スカーレット・ピンパーネル(紅はこべ)」が由来)。
マンデラ氏の1962年逮捕、米CIAが情報提供 英報道/BBCニュース.2015
国外で軍事訓練を受ける
(前略)1962年6月26日、反アパルトヘイト(人種隔離)活動家だったネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)氏は、ハイレ・セラシエ(Haile Selassie)皇帝の統治下にあったエチオピアに、ある目標を胸に入国した――武装組織の司令官として軍事訓練を受けることだ。
アパルトヘイト時代の南アフリカ、マンデラ氏が「テロリスト」になった日/AFPBB News.2013
自動小銃と拳銃の撃ち方や、迫撃砲の取り扱い、爆弾や地雷の製造に加え、こうした武器を回避する方法も習得した。
アパルトヘイト時代の南アフリカ、マンデラ氏が「テロリスト」になった日/AFPBB News.2013
マンデラ氏の回顧録によると「プログラムは骨の折れるものだった。午前8時から午後1時まで訓練を受け、シャワーと昼食の休憩時間の後、午後2時から4時までまた訓練があり、4時から夜にかけては軍事科学の講義を受けた」、「自分が兵士に変わっていく感覚があり、兵士のように思考するようになった。政治家とは全く異なる思考だった」という。
アパルトヘイト時代の南アフリカ、マンデラ氏が「テロリスト」になった日/AFPBB News.2013
イスラエル諜報機関「MOSSAD(モサッド)」の関与?
南アフリカの故ネルソン・マンデラ元大統領の葬儀式典および埋葬から一週間(イスラエル政府高官らは同式典を欠席)、イスラエル紙「ハアレツ」は金曜日(20日)にある機密文書を公開した。その機密文書は、1950年代に祖国の人種隔離体制と闘ったマンデラ元大統領が、1962年エチオピアでモサド工作員による軍事訓練を受けていたことを証明するものだった。これは、マンデラ氏が南アフリカで逮捕される数か月前のことだったという。
イスラエル:マンデラ元大統領、過去にモサドから軍事訓練 2013年12月21日付 al-Hayat紙/News from the Middle East 日本語で読む中東メディア.2013
同文書の言及する期間が、マンデラ氏がイスラエルの同盟国であった南アフリカの反アパルトヘイトの闘士であった期間と重なることは確かだ。しかし、文書の詳細内容から、パレスチナ問題についてパレスチナ側に立っていたマンデラ氏が、モサドに対し身元を明かしていなかったことは明らかになっている。
イスラエル:マンデラ元大統領、過去にモサドから軍事訓練 2013年12月21日付 al-Hayat紙/News from the Middle East 日本語で読む中東メディア.2013
同紙は、この文書が1962年11月11日に、モサドからイスラエル外務省および当時の在エチオピア・イスラエル大使であったシュムエル・デュポン大使に向けて送られたものであったと報じた。
イスラエル:マンデラ元大統領、過去にモサドから軍事訓練 2013年12月21日付 al-Hayat紙/News from the Middle East 日本語で読む中東メディア.2013
南アフリカの検問所でマンデラが逮捕!
マンデラが逮捕されたのは1962年、彼が44歳のときだった。
時事解説: ネルソン・マンデラの見果てぬ夢/アジア経済研究所
マンデラ氏は1962年に、運転手のふりをして南アフリカ東部ダーバン近郊を通行しようとしたところ、検問所で警察に拘束された。
マンデラ氏の1962年逮捕、米CIAが情報提供 英報道/BBCニュース.2016
マンデラ氏は当時、非合法化されていたアフリカ民族会議(ANC)の抵抗運動を主導。逮捕時には同国の最重要指名手配者だった。しかし、何度も拘束を逃れ、「黒いピンパーネル」のあだ名が付けられた(訳注:フランス革命時に貴族亡命を支援した英国の秘密結社「スカーレット・ピンパーネル(紅はこべ)」が由来)。
マンデラ氏の1962年逮捕、米CIAが情報提供 英報道/BBCニュース.2016
マンデラは拘束されるまでの17カ月間、アパルトヘイトの工作員による追跡を逃れつつ、アフリカ国民会議(ANC)の議長を務めるアルバート・ルツーリを訪ね、アフリカ遍歴の報告をするとともに支援を要請していました。
クワズールー・ナタール州 ネルソン・マンデラ・キャプチャーサイト/南アフリカ観光局
CIAが逮捕するために暗躍?
南アフリカの故ネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)元大統領がアパルトヘイト(人種隔離)時代に逮捕され、27年間に及ぶ獄中生活を強いられることになったきっかけは、米中央情報局(CIA)のスパイが当時の南ア当局に提供した機密情報だった――。英紙サンデー・タイムズ(Sunday Times)が15日、報じた。
故マンデラ氏逮捕のきっかけはCIAの情報提供、米元スパイが暴露/AFPBB News.2016
CIAがマンデラ氏を追跡していたと長年うわさされてはいたが、CIAは逮捕への関与が明らかになるのを避けようとしてきた。リカード氏が認めたことで、当時の機密資料を公表するよう求める声が強まるだろう。
マンデラ氏の1962年逮捕、米CIAが情報提供 英報道/BCCニュース.2016
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