ネルソン・マンデラの生涯 ② ── 南アフリカ反アパルトヘイト運動の歴史

この記事は、南アフリカの反アパルトヘイト運動の中心人物であるネルソン・マンデラの人生と活動について述べたものです。

マンデラがANCの副議長に就任し、政府による弾圧を受ける可能性を予測して、組織の再編成に向けた準備を始めたことや、弁護士試験に合格したマンデラが、南アフリカでは初めてアフリカ人弁護士だけからなるマンデラ&タンボ法律事務所を設立したこと、そして、マンデラが逮捕されるまでの間に行ったアフリカ遍歴やアフリカの独立運動の指導者たちとの交流についても触れられています。

さらに、南アフリカの歴史上最も衝撃的な事件であるシャープビル虐殺についても取り上げられ、マンデラが新憲法への署名を行なった場所であることから、この事件がマンデラにとってどのような意味を持ったのかも解説されています。南アフリカの歴史に興味のある方、反アパルトヘイト運動について学びたい方にとって、興味深い記事となっています。

ネルソン・マンデラの生涯 ① ── 南アフリカの自由と平等を求めた男
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何に人生を賭すか。大統領就任の歴史的瞬間に立ち会い、人生と勇気について語り合い、寝食を共にした3年間。書き綴った2万語の日記から生まれた、タイム誌編集長によるマンデラ珠玉の人生論。(「BOOK」データベースより)

Civil Rights Leader Nelson Mandela

公民権運動リーダー「ネルソン・マンデラ」

Nelson Mandela Statue - South African Embassy 34017

「アパルトヘイト」政策に対抗するため、ANCは外部の組織を巻き込んだ大衆運動を選択し、政府に対抗する道へと歩み始めました。1950年に「言論の自由を守る会議」が開催され、様々な組織が参加しました。

1952年には、不平等な法律を廃止させるための全国的な不服従運動が実行されました。この運動では、アパルトヘイト政策の禁止事項をあえて無視し、抗議の姿勢を示すために敢えて逮捕されました。この抗議活動は、実質的な成果は生み出せなかったものの、ANCの知名度が一気に上がり、会員数も増加しました。

この頃、ネルソン・マンデラはANCの副議長に就任し、政府による弾圧を受ける可能性を予測して、組織の再編成に向けた準備を始めました。彼が提案した計画は、発案者の名前をとって「M計画」と名づけられました。

M計画の目的は、組織が地下に潜っても活動を続けられるようにすることでした。マンデラは、弾圧に耐えるためには、ANCの組織構造を分散させ、セル状の小さな単位に再編成する必要があると考えました。これにより、もし一部が摘発されても、他の部分が機能し続けることができるという狙いがありました。

M計画は、ANCの活動の継続と組織の存続に大きく寄与しました。この計画のおかげで、ANCは地下での活動を続けることができ、アパルトヘイト政策に対する抵抗を継続することができました。そして、その後の南アフリカの歴史において、アパルトヘイトの撤廃と民主化への道を切り開くための重要な役割を果たすことになりました。

アフリカの解放への道、マンデラ&タンボ法律事務所の設立

この年の8月、弁護士試験に合格したマンデラは後に自分と同じようにANCの指導的人物となるオリバー・タンボとともにヨハネスブルクの中心部に、南アフリカでは初めてアフリカ人弁護士だけからなるマンデラ&タンボ法律事務所がスタートしました。これは、文字通りアフリカの黒人による黒人らのための唯一の会社であり、黒人の解放のための活動が始まった。

ここから彼の大活躍が始まる。マンデラは知力体力を備えた、弁舌爽やかな、黒人たちにとってのスターだった。

シャドーボクサー像と、マンデラのボクシングへの情熱

この歴史的建造物の向側には芸術家マルコ・チャンファネリが手掛けたシャドーボクサーの像があります。

マンデラは小さい時からボクシングが得意で、若い頃にアマチュアボクシングをやっていました。身長も180センチ以上あるヘビー級で、逮捕され獄中18年ののち大統領にならなければ、ボクシングの世界チャンピオンになっていただろうといわれていました。大統領の任期中も「チャンピオンになりたかった」と茶目っ気をみせていました。

アフリカ人の教育を制限する政府の政策に反発したANCの運動

1953年、南アフリカ政府は西部地域移転計画を発表しました。この計画では、6万人から10万人のアフリカ人を市街地から20キロ離れたメドーランドに人種ごとに移住させることを目指していました。同時に、政府はANCに対して従来とは異なる方法で締め付けを開始しました。

政府が制定した「共産主義弾圧法」をANCにも適用することで、マンデラはANCからの脱退や行動範囲の制限などの命令を受けました。また、この法律によって新聞はANCの見解を掲載できなくなり、印刷会社もANCの印刷物を作成できなくなり、集会を開催することも困難になりました。

この年、アフリカ人向けの学校教育が教育省から原住民問題省に移管されました。これにより、政府が直接アフリカ人向けの教育を行うことになり、私立学校や教会によって提供されていた平等な教育は不可能になりました。さらに、学校ではアフリカーンス語が公用語とされ、アフリカ人たちの言語の使用が禁止されました。

この「バンツー教育法」と呼ばれる法律に反発したANCは、学校に対するボイコット運動を実施し、独自の教育組織を立ち上げましたが、これは長続きせず失敗に終わりました。

しかし、バンツー教育法のもとで育てられた子どもたちや、その枠に収まらなかった子どもたちは政府への反発心を強く持ち続け、彼らは新たな反政府活動の担い手となっていきました。このような状況は、後のアパルトヘイト政策への抵抗運動や、政府に対する不満を煽る要因となりました。

南アフリカにおける歴史的な人民会議

1955年6月25日と26日に、ANCの呼びかけでヨハネスブルク近郊のクリップタウンにおいて、さまざまな組織や団体が参加する人民会議が開催されました。この会議には白人団体も参加し、新しい南アフリカの土台となる原則を作り上げることを目的としていました。

自由憲章と民主化運動

この人民会議で、「自由憲章(フリーダム・チャーター)」が採択されました。自由憲章は、人種や階級を超えた平等で公正な社会を求める様々な要求が盛り込まれた文書で、以下のような原則が含まれていました。

  1. 南アフリカの土地と富はすべての住民に属するべきである。
  2. 人種差別とアパルトヘイト政策の撤廃。
  3. すべての市民に平等な権利と機会を与える。
  4. 労働者の権利と福祉の向上。
  5. 全国民のための無料で質の高い教育と医療の提供。

自由憲章はANCの基本政策として長らく支持され、後の南アフリカの民主化運動や、1994年の民主選挙での政権交代後の新憲法の策定にも大きな影響を与えました。

SABC News/YouTube

マンデラの逮捕と私生活の変化

1956年12月5日、ネルソン・マンデラは反逆罪で逮捕されました。この日、彼と同じように全国で156人の活動家が逮捕されました。これにより、ヨハネスブルクの刑務所には、様々な部族や考え方のグループの指導者たちが収監されることになり、反政府活動グループの全国大会的な様相を呈しました。この反逆罪裁判では、マンデラはじめANCの論客は法廷論争で政府に勝利しました。

さらに、この年マンデラは「エホバの証人」に入信、それがきっかけでエブリンとの結婚生活がうまくいかなくなり、最終的に離婚に至りました。しかし、同じ頃、黒人初のソーシャルワーカーとして活躍していた女性ウィニー・マディキゼラ(Winnie Madikizela)と出会い、二人は1958年に結婚しました。ウィニー・マディキゼラ・マンデラは、後に南アフリカの政治活動家として重要な役割を果たし、マンデラの支えとなりました。

身分証明パス制度に対する反対運動

1957年、南アフリカ政府は女性にも身分証明のためのパスを携帯することを義務付けました。この措置に対して、女性たちから強い抗議活動が起こりました。彼女たちはパス制度に反対し、パスの交付所を占拠する抗議行動を行いました。この結果、数百人の女性が逮捕されるという事件が発生しました。

「ANCとPAC」南アフリカにおける政治的対立

1959年、ANCに対立する、過激な思想を持つアフリカ人政治組織パンアフリカニスト会議(PAC)が設立されました。ロバート・ソブクウェ議長は「アフリカ人のアフリカ人によるアフリカ人のための政府」を目指すと主張しました。

彼らは白人だけでなくインド人などの有色人種も排斥しました。PACはANCに対して反発を続け、南アフリカの反アパルトヘイト運動において異なるアプローチを採用しました。両組織は共通の目標を持ちながらも、方法論や思想の違いから競合し、南アフリカの政治状況をさらに複雑なものにしました。

「バンツー自治促進法」 アパルトヘイト政策の新たな段階

1960年、南アフリカ政府はバンツー自治促進法(Promotion of Bantu Self-Government Act)を採択しました。この法律は、アパルトヘイト体制の下で、アフリカ系住民を人種別に分け、それぞれの民族に対して自己統治権を与えるという名目で制定されました。しかし、実際にはこの法律は、南アフリカの非白人住民をさらに弾圧し、彼らを貧困で遠隔地のホームランドと呼ばれる土地に押し込めることを目的としていました。

バンツー自治促進法による人権制限

バンツー自治促進法は、アパルトヘイト政策の一環として制定された法律の一つであり、黒人アフリカ人の動きを制限する目的で設計されました。この法律によって、16歳以上のアフリカ人には身分証明書の携帯が義務付けられ、その証明書には出生地、民族名、現住所、写真、指紋、雇い主の署名などが記載されていました。

証明書を持たずに外出した場合や、指定された居住地を離れることは、逮捕や拘束のリスクが伴うことになりました。このため、地方から都市へ移動して仕事を求めるアフリカ人にとっては、常に拘束される危険性があったのです。

バンツー自治促進法は、アパルトヘイト政策を維持し、強化するために南アフリカ政府が制定した法律の一つであり、その悲惨な結果から、アパルトヘイトを支持するために使用された最も厳しい方法の一つと見なされています。

アパルトヘイトを支持するために使用された最も厳しい方法の一つと見なされています。この法律は、南アフリカの人種間格差をさらに深めることにつながり、非白人住民の人権が一層制限される結果となり、各地で抗議デモが行われました。

「シャープビル虐殺」アパルトヘイトに対する最悪の暴力事件

1960年3月21日、南アフリカのシャープヴィルで、バンツー自治促進法に抗議するデモが行われました。このデモは、PACが主催し、数千人のアフリカ人が参加しました。身分証を持たずに警察前に集まったデモ参加者たちは、5,000人から7,000人にも上る大勢でした。

警察はデモ隊に解散を命じましたが、逮捕されることを覚悟した参加者たちは解散しませんでした。すると警察は発砲を開始し、69人が死亡し、180人以上が負傷するという大惨事となりました。この事件は後に「シャープビル虐殺」と呼ばれるようになり、国際社会に衝撃を与えました。

シャープビル虐殺は、それまで無名だったPACの名前を一躍広めるきっかけとなり、運動の分裂が始まることにつながりました。より民族主義的な活動が活発化し、南アフリカの反アパルトヘイト運動は新たな局面を迎えました。

Movieclips Coming Soon/YouTube
国内外で衝撃を与えた大惨事

シャープビル虐殺事件を受けて、南アフリカ全土で抗議活動が勃発し、18,000人以上の市民が拘束されました。南アフリカ政府はこの状況を収拾するために非常事態を宣言しました。

国際社会はこの事件に対して非常に懸念を示し、国連安全保障理事会は決議134を可決して南アフリカ政府の「シャープビル虐殺」を非難しました。この結果、南アフリカは国際社会からの孤立を余儀なくされました。

国際的な注目を浴びた虐殺事件から生まれた運動

そして1966年の国連総会で、「シャープビル虐殺」の起きた3月21日を「国際人種差別撤廃デー」とすることが決議され、南アフリカでも1994年以降は3月21日を「人権の日」とした。

 この世界的にも国民的にも忘れることができなくなったシャープビルの悲劇を乗り越え、1996年に黒人初の南アフリカ大統領に就任したネルソン・マンデラは、虐殺の地であるシャープビルで新憲法への署名を行なった。

 それは、南アフリカ史以来最大の《悲劇》の舞台を忘れぬために《未来への出発点》に塗り替えるという、素晴らしい発想であった。

さらに、国連は3月21日を「国際人種差別撤廃デー」として指定し、人種差別の撤廃を求める国際的な意識を高めることを目指しています。このような国際的な圧力の結果、南アフリカは将来的にアパルトヘイト政策の廃止への道を模索せざるを得なくなりました。

マンデラの逮捕と政府の弾圧

同じ頃、マンデラを含む29人が反逆罪で逮捕されていましたが、マンデラは自らの弁護を行うことを選択しました。一方、南アフリカ政府は非常事態宣言の中で、民主的な対応では反政府活動を押さえ込むことが困難だと考え、ANCとPACなどの黒人組織を非合法組織に指定しました。これにより、これらの組織の活動は法的に規制を受けることになりました。

南アフリカ政府のイギリス連邦離脱

1961年、南アフリカ政府のアパルトヘイト政策は国内外から非人道的な差別政策として批判され、イギリスも圧力を加えるようになりました。そのため、南アフリカ政府は、イギリス連邦から離脱し、南アフリカ共和国を一方的に宣言しました。

マンデラらの反逆罪裁判の判決は全員無罪

1961年3月29日、マンデラらの反逆罪に関する裁判は全員無罪となりました。これは、白人の裁判官たちが人種的な偏見を持たずに公平な判断を下した結果でした。イギリスの司法制度の伝統を受け継いだ南アフリカの司法システムは、この時点でも機能していたと言えます。ただし、その結果、政府はANCに対してより厳しい対抗措置を取ることが予想されました。そのため、釈放されたマンデラは地下に潜り、反政府活動を続けることになりました。

「もはや武力でしかない!?」武装組織“民族の槍”の設立!

eNCA/YouTube

マンデラはキューバ革命に触発され、1961年にANC内に武装組織・民族の槍(ウムコント・ウェ・シズウェ:Umkhonto we Sizwe)を創設しました。彼らは、「政府は運動の穏やかさを弱さと解した。民族の非暴力方針は、政府が暴力をふるうことに対する青信号と受けとられた。われわれは、この国の人民解放のための新しい道をたどって出撃する」と宣言しました。

「民族の槍」は毛沢東やチェ・ゲバラのゲリラ戦術を参考に、白人政権への直接的な攻撃を開始しました。彼らの狙いは、南アフリカ全土を内戦の瀬戸際にまで追い込むことで、政府がアパルトヘイト政策をあきらめるようにすることでした。

武力闘争によって、マンデラと彼の仲間たちは南アフリカ政府に対してより強いプレッシャーをかけ、アパルトヘイトの撤廃に向けた変革を促進しようと試みたのです。

「リリーズリーフ農場」ANCの隠れ本部

1961年8月、南アフリカ共産党はアパルトヘイト反対運動の本部としてリリーズリーフ・ファームを購入しました。その後、この農場はANC指導者や南アフリカ共産党員たちの秘密の会合場所となりました。表向きはGoldreichファミリーという白人の家族が経営する農場に見せかけられていました。

ネルソン・マンデラは、David Motsamayiという偽名を使って、作業着を着て料理人兼庭師という労働者のふりをしていました。

マンデラや彼の仲間たちがリリーズリーフ・ファームで身を隠すことができたのは、当時非合法組織であったANCと同様に、南アフリカ共産党員たちのサポートがあったからです。また、農場のオーナーも、白人の共産党員であったことが役立ちました。

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マンデラが偽名を使ってアフリカ諸国で暗躍!

1962年、ANCがパンアフリカ自由運動の会議に招待されました。

パンアフリカ自由運動(Pan-Africanism)は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて生まれた、アフリカ全土の政治的および文化的統一を目指す思想や運動です。パンアフリカ主義は、アフリカの民族や国家を超えて団結し、植民地支配からの解放やアフリカ人の自立を目指すものであり、アフリカの連帯と協力を重視します。

パンアフリカ自由運動は、アフリカ諸国の独立運動とともに広がり、アフリカの植民地支配からの脱却や発展のために、アフリカ諸国が協力して行動することを提唱しました。また、アフリカ系ディアスポラ(アフリカの移民とその子孫)の利益や権利も重視し、人種差別や不平等の撤廃を求めて活動しました。

パンアフリカ主義は、多くの政治家や知識人、活動家に影響を与えました。ネルソン・マンデラやクワメ・エンクルマ、ジュリウス・ニエレレなど、アフリカの独立運動の指導者たちは、パンアフリカ主義の理念を掲げて、アフリカの民族や国家の団結と協力を促しました。

「黒いピンパーネル」ネルソン・マンデラの密使活動

ネルソン・マンデラは「デビッド・モツァマイ(David Motsamayi)」の偽名を名乗り、密出国して会議の開催地であるアジスアベバに向かいました。

マンデラはそれだけではなく、1月から7月まで、偽名を使い新たに独立を果たしたアフリカの国々を回り、運動のための支持と資金を集めるための交渉を行って、アフリカ諸国からの支援を確保していきました。

当時、マンデラは非合法化されたANCの抵抗運動を主導し、南アフリカ国内で最重要指名手配者となっていました。しかし、彼は何度も拘束を逃れ、「黒いピンパーネル」というあだ名が付けられました。

「黒いピンパーネル」の由来である「スカーレット・ピンパーネル(紅はこべ)」は、フランス革命時に貴族の亡命を支援した英国の秘密結社です。彼らは、機敏で狡猾な手段を使ってフランス政府の追跡をかいくぐり、貴族たちを救出していました。

このスカーレット・ピンパーネルの名声や活動から、ネルソン・マンデラが「黒いピンパーネル」というあだ名がつけられました。

武装組織の司令官としてエチオピアで厳しい軍事訓練を受ける

1962年6月26日、マンデラはエチオピアに入国しました。ここでの目的は武装組織の司令官として軍事訓練を受けることをでした。ハイレ・セラシエ皇帝の統治下にあった当時のエチオピアは、アフリカの新たな独立国家として、アパルトヘイト反対の闘争を支援する立場にありました。

マンデラはエチオピアで厳しい訓練を受けました。自動小銃や拳銃の扱い、迫撃砲の操作、爆弾や地雷の製造など、さまざまな武器の使い方を学びました。また、これらの武器を回避する方法も習得しました。マンデラの回顧録によれば、訓練は非常に過酷で、午前8時から午後1時まで訓練を受け、休憩後にはさらに午後2時から4時まで訓練が続き、夜には軍事科学の講義を受けるというスケジュールでした。

この訓練を通じて、マンデラは自分が兵士に変わっていく感覚があったと述べています。彼は兵士のように思考するようになり、それは政治家としての彼の考え方とは大きく異なるものでした。この経験は、後に彼が南アフリカのアパルトヘイト制度に対する闘いを指導する際に、非常に重要な役割を果たすことになりました。

On Demand News/YouTube

マンデラ、17ヶ月に渡る追跡を逃れるもついに逮捕

1962年8月5日、44歳のネルソン・マンデラは南アフリカの東部ダーバン近郊で運転手のふりをしていたところ、検問所で警察に拘束されました。彼は、その時まで17ヶ月間、アパルトヘイトの工作員による追跡を逃れながら活動を続けていました。

マンデラは、逮捕されるまでの間、アフリカ国民会議(ANC)の議長であるアルバート・ルツーリを訪ね、アフリカ遍歴の報告を行いながら、支援を要請していたのです。彼は南アフリカのアパルトヘイト制度に対する闘いを続けるため、ANCとともに国際的な支援を求めていました。しかし、その活動はついに警察によって発覚し、彼は逮捕されることになりました。

「CIAがマンデラ逮捕に関与?」 英紙が元CIA工作員の告白を報じる

1962年、ネルソン・マンデラの逮捕が実現した背後には、米中央情報局(CIA)の関与があったことが報じられています。英紙サンデー・タイムズによると、元CIA工作員で南ア・ダーバンの米領事館で副領事を務めていたドナルド・リッカードが、マンデラ逮捕に関与していたことを英映画監督ジョン・アーヴィンに明かしたとされています。

当時、米国ではマンデラがソビエト連邦の支配下にあると信じられており、逮捕は必要な措置とされていました。リッカード氏は、マンデラの扇動によって南アフリカで戦争が勃発し、米国が巻き込まれる恐れがあったため、最悪の事態を回避するために彼の逮捕が必要だったと説明しています。

CIAがマンデラの逮捕に関与していたという噂は長年存在していましたが、公式に認められることはなく、CIAは関与が明らかになるのを避けてきました。リッカードの告白によって、当時の機密資料が公開されるよう求める声が高まることが予想されます。

アフリカ国民会議(ANC)のジジ・コドワは、CIAが現在も南アフリカの内政に介入しており、「体制転換」を望む勢力と協力していると主張しています。

The Times of India/YouTube
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