この記事では、南アフリカの人権活動家であり政治家でもあるネルソン・マンデラ氏について詳しく紹介しています。彼は南アフリカの初の黒人大統領であり、人種隔離政策の撤廃に尽力しました。
また、彼の生い立ちや教育、政治活動についても触れています。南アフリカの歴史やアパルトヘイト政策についても紹介しており、彼がどのような状況の中で活躍したかを理解することができます。彼の人生や活動に興味がある方や、南アフリカの歴史に興味がある方にとって、必読の記事です。
Birth of Nelson Mandela
アメリカ最大の英雄「ネルソン・マンデラ」誕生
ネルソン・マンデラ(ネルソン・ホリシャシャ・ダリブンガ・マンデラ)は、南アフリカの人権活動家、政治家、そして南アフリカ初の黒人大統領であり、人種隔離政策の撤廃に尽力しました。彼の生涯は、闘争、勇気、そして平和を求める姿勢を体現しており、今なお世界中の人々にインスピレーションを与えています。
【南アフリカの歴史】白人移民と植民地支配からアパルトヘイトへの道
南アフリカ共和国は、19世紀から英領の一部であり、1961年まで英連邦に属していました。しかし、白人対非白人の対立が生まれたのは、17世紀にオランダがケープ植民地を設立したことに始まります。
ケープ植民地の設立
17世紀、オランダはヨーロッパで海洋貿易や植民地獲得を拡大していました。その一環として、1652年にオランダ東インド会社がケープ植民地を設立しました。ケープ植民地は、アフリカ南端の戦略的な位置にあり、オランダ船がアジアへの航路で補給するための拠点となりました。
オランダからの白人移民が増加した理由は、以下の通りです。
- 土地の豊かさ:ケープ地域は肥沃な土地であり、農業や牧畜に適していました。これにより、オランダ人移民たちは新しい生活を築くことができました。
- 宗教の自由:当時のオランダは、宗教的寛容が特徴であり、多くの宗教難民がオランダに流入していました。ケープ植民地では、宗教の自由が保障されていたため、移民にとって魅力的な場所でした。
- 貿易の拡大:オランダ東インド会社は、ケープ植民地を拠点にアフリカとアジアの間で貿易を拡大しました。これにより、ケープ地域は繁栄し、さらなる移民を呼び込むこととなりました。
これらの理由から、17世紀以降、オランダからの白人移民がケープ植民地に増加しました。彼らは、先住民族との交流や混血を経て、独自の文化と言語を築き上げ、アフリカーナーと呼ばれるようになりました。
英国との統治権をめぐる戦い
英国は、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、オランダとの間でケープ植民地の統治権をめぐる戦いを繰り広げました。これは、以下のような理由がありました。
- ナポレオン戦争の影響:1795年、フランス革命戦争の中で、フランスはオランダを征服しました。英国は、フランスがケープ植民地を支配することを懸念し、同年中にケープ植民地を占領しました。しかし、1802年のアミアンの和約でケープ植民地はオランダに返還されました。その後、1806年に再び英国がケープ植民地を占領し、1814年のウィーン会議で正式に英国領となりました。
- ケープ植民地の戦略的価値:ケープ植民地は、アフリカ南端に位置し、ヨーロッパとアジアの間の海上交通の要所でした。英国は、この地域を支配することで、インドへの航路を確保し、世界的な貿易を拡大しようとしていました。
- アフリカ大陸への進出:英国は、アフリカ大陸への進出を目指しており、ケープ植民地はその拠点となりました。ケープ植民地の占領により、英国は南アフリカの内陸部への進出を進めることができました。
英国がケープ植民地の統治権を獲得したことで、英国からの移民が増加しました。
ズールー戦争とボーア戦争
オランダ系移民を中心とするボーア人(またはアフリカーナー)たちと英国との戦い。
- ズールー戦争(1879年) ズールー戦争は、英国とズールー王国(現在の南アフリカ北東部)との間で行われました。英国は、南アフリカの植民地支配を拡大するためにズールー王国を征服しようとしました。最終的に英国が勝利し、ズールー王国は英国の植民地となりました。
- 第1次ボーア戦争(1880-1881年) 第1次ボーア戦争は、英国とトランスヴァール共和国(現在の南アフリカ北部)のボーア人(オランダ系移民の子孫)との間で行われました。英国は、トランスヴァール共和国を併合しようとして戦争が勃発しましたが、ボーア人の抵抗に遭い、英国は敗北しました。
- 第2次ボーア戦争(1899-1902年) 第2次ボーア戦争は、英国とトランスヴァール共和国およびオレンジ自由国(現在の南アフリカ中部)のボーア人との間で行われました。戦争の原因は、英国が南アフリカの植民地支配を強化しようとする一方、ボーア人が独立を維持しようとしたためです。戦争は総力戦の様相を呈しましたが、最終的に英国が勝利を収めました。
これらの戦争の結果、英国は南アフリカの植民地支配を強化しました。しかし、戦争はボーア人と英国人の対立を激化させ、後のアパルトヘイト政策の背景となってしまいました。
オレンジ自由国とトランスヴァール共和国の併合
第2次ボーア戦争(1899-1902年)の結果、英国はオレンジ自由国とトランスヴァール共和国を征服しました。戦争終結後の1902年に締結されたヴェレニギング条約により、両国は正式に英国に併合されました。
併合後、オレンジ自由国はオレンジ川植民地(Orange River Colony)と改称され、トランスヴァール共和国はトランスヴァール植民地(Transvaal Colony)と改称されました。これらの植民地は英国の直接統治下に置かれ、英国の法律や行政システムが導入されました。
1906年と1907年には、トランスヴァール植民地とオレンジ川植民地は自治植民地となり、一定の自治権が認められました。そして1910年、これらの植民地はケープ植民地とナタール植民地とともに統合され、南アフリカ連邦(後の南アフリカ共和国)が成立しました。
南アフリカ連邦の発足
1910年に成立した南アフリカ連邦は、ケープ植民地、ナタール植民地、オレンジ川植民地(旧オレンジ自由国)、トランスヴァール植民地(旧トランスヴァール共和国)の4つの地域が統合されて成立しました。これらの地域はそれぞれ異なる歴史的背景を持っており、連邦結成まで複数の地域が分立する状況にありました。
ケープ植民地は、1652年にオランダ東インド会社がケープタウンを建設して以来、南アフリカにおける白人開拓者の最初の入植地でした。1795年にイギリスがケープを占領し、1814年に正式にイギリス領植民地となりました。以降、ケープ植民地は南アフリカにおけるイギリス植民地支配の中心となり、イギリス領植民地として最長の歴史を持つ地域となりました。
南アフリカ連邦の成立は、これらの地域が統一された政治体制のもとで運営されるようになり、政治や経済の発展を促進しました。しかし、先住民族の権利が無視される一方、白人支配層によるアパルトヘイト政策が始まることとなり、長い間、国内で人種間の緊張が続くこととなりました。
ネルソン・マンデラの幼少期と生い立ち
マンデラは、1918年7月18日に南アフリカの東ケープ州のトランスカイ地域にあるムヴェゾ村で生まれました。彼の父親は、地域の有力者であり、コーサ族系のテンブ部族の王の相談役を務めていました。マンデラは幼いころから、父親の後を継いで王の相談役になることが期待されていました。
彼の幼少期は、他のアフリカの子どもたちと同様に、自然に囲まれた環境でのびのびと過ごしていました。友達と一緒に草原で駆け回り、楽しい時間を過ごしていました。
彼が生まれたときに父親がつけた名前の「ホリシャシャ」は、コーサ族の言葉で「木の枝を引っ張る」という意味であり、話し言葉では「問題を引き起こす者」という意味でした。この名前は、後の彼の人生で重要な役割を果たすこととなる南アフリカの闘士としての運命を示唆していたかもしれません。
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マンデラの父と南アフリカの植民地支配
マンデラの父親は、南アフリカで二番目に人口の多いコーサ民族の一部であるテンブ族の首長でした。しかし、英国の行政官に抵抗したことで、彼は首長としての地位や土地を失いました。このため、マンデラ一家は生活の維持が困難となり、ムヴェゾ村を離れて母の故郷であるクヌ村に引っ越すことを余儀なくされました。
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マンデラの英語名「ネルソン」と、アフリカ名としての「ホリシャシャ」
「ホリシャシャ(マンデラ)」は、父と同じくアイデンティティを奪われる経験をしました。彼が黒人専用の小学校に入学した日、教師から英語の名前を与えられました。それが「ネルソン」でした。アフリカ名「ホリシャシャ」は、英語圏の白人にとって発音が難しかったため、英語名が与えられたのです。
マンデラは自伝『自由への長い道』で、この慣例が「アフリカ名を発音できない、またはしようと思わない、そしてアフリカ名を持つことを未開とみなすような」白人支配社会において一般的であったと語っています。このような経験は、彼にアフリカのアイデンティティと自尊心がどのように侵害されているかを痛感させるものでした。後に彼がアパルトヘイト撤廃のための闘いを展開する際、こうした経験が彼の意識を大きく形作り、彼の行動の根底にある原動力となりました。
父の死と王宮での成長
1927年のある晩、マンデラの耳に父の激しいせきの音が聞こえてきました。数日前からたびたびせきの発作に襲われていた父でしたが、その晩、容態が急変し、父は急逝してしまいます。
養父から受けた特別なしつけと、歴史と平等について学んだ経験
父親が急逝したため、マンデラはムケケズウェニの王宮に預けられ、幼児期のサバダ王の摂政役である養父・ジョンギンタバ・ダリンディエボのもとで特別な階級のしつけと教育を受けました。
マンデラがムケケズウェニの王宮で養父・ジョンギンタバ・ダリンディエボの元で育てられたことは、彼の人生に大きな影響を与えました。王宮での生活を通して、彼は部族会議の民主的で公平な性質を目の当たりにし、これが彼の政治哲学の基盤を形成する大きな要素となりました。
また、マンデラは王宮で、自分の部族の歴史だけでなく、南アフリカ全体の歴史についても学ぶ機会を得ることができました。これは彼が後に南アフリカの民主化運動を指導する際に役立つ知識となりました。マンデラはこの経験を通して、人々が平等に扱われるべきであるという信念を強く持つようになり、その信念は彼の政治活動や反アパルトヘイト運動への情熱に繋がりました。
コーサ族の首長から受けた言葉
1934年に16歳になったマンデラは割礼を受け、「ダリブンガ」という新たな名前を与えられました。この名前は、トランスカイ地方の古くから存在する統治機関「ブンガ」の創設者を意味していました。この時、コーサ族の首長メリグリキは若者たちに重要な言葉を語りました。
メリグリキは、コーサ族や他の黒人南アフリカ人が征服された民であり、自分たちの国で奴隷や小作人となったことを述べました。当初、マンデラはその言葉の真の意味を理解できませんでしたが、後にマンデラはその重要性に気づかされました。
アフリカのエリートを育成した大学でのマンデラの学びとその後の影響
1939年、マンデラはミッションスクール(修道会・宣教会が設立した学校)を卒業し、当時黒人が通うことのできた唯一の大学であるフォートヘア大学に入学しました。
南アフリカで最初の黒人大学
フォートヘア大学(University of Fort Hare)は、南アフリカ共和国東ケープ州アリスにある南アフリカで最初の高等教育機関で、1916年に設立されました。当初から主に黒人を対象とする大学として機能し、1959年まで南アフリカだけでなく、サハラ以南のアフリカ全域の学生に西洋式の学術教育を提供しました。このため、フォートヘア大学は多くの黒人アフリカのエリートを育成しました。
大学では、マンデラは法学や政治学、経済学などの幅広い分野を学び、アフリカの植民地支配や人種差別、アパルトヘイト制度に対する理解を深めました。
フォートヘアの卒業生たちは、その後のアフリカ各国の独立運動や新政府の形成において重要な役割を果たしました。ネルソン・マンデラをはじめとする多くの指導者や活動家が、この大学で学んだ経験を持っています。そのため、フォートヘア大学はアフリカの歴史や政治に大きな影響を与えてきたと言えます。
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ANCとの出会と退学処分
1940年、マンデラは学校でアフリカ民族会議(ANC)のメンバーであるニャティ・コンギサと親しくなりました。ANCは、南アフリカの政治組織で、非白人の権利と自由を求めて活動していました。マンデラは、それまで知らなかったANCという組織について初めて知り、彼らの目標に共感しました。
マンデラは、学生ストライキや抗議活動に参加し、その先頭に立ちました。マンデラは法律家(弁護士)を目指していましたが、その活動が大学側から問題視され、結果的に退学処分を受けることとなりました。
退学処分や見合い結婚の強要に抗い、マンデラが逃れた場所
1941年、ネルソン・マンデラは故郷の東ケープ州の小さな村に戻りましたが、彼の人生は簡単ではありませんでした。
養父に復学を求められたものの、学校側との調整が難航し、結局復学は叶いませんでした。さらに、退学の罰として摂政の後継者である従兄弟とともに見合い結婚をするよう迫られました。
これに反発したマンデラは、自分の人生を自分で決めるため、従兄弟と共にヨハネスブルクのソウェト地区へ逃れることを決意しました。ソウェトは、当時南アフリカ最大の黒人居住区であり、そこで彼は新たな人生を歩むことになります。
クラウン鉱山からスラムへ、そして共産主義との出会い
ソウェットに移住後、クラウン鉱山のまるで刑務所のような鉱山労働者宿舎の夜警として働き始めます。しかし、祖父に見つかり家に帰るようにという電報が届き解雇されてしまいました。働き口を失なった二人は再び逃亡。
ヨハネスブルクのスラムが街にもぐこみ、マンデラは自らの能力を生かして、白人の弁護士事務所で働きながら弁護士資格をとることになります。その事務所には白人、黒人様々な人々が働いており、そこで彼は白人の実習生ナット・ブレグマンから共産主義について学ぶことになりました。
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反アパルトヘイト運動家、シスルとマンデラの親友関係
ウォルター・シスル(Walter Sisulu)は、南アフリカの反アパルトヘイト運動家であり、アフリカ民族会議(ANC)の重要な指導者の一人でした。彼とネルソン・マンデラの出会いは、1941年にヨハネスブルクで起こりました。当時、マンデラはヨハネスブルクで生活しており、法律の勉強をしていました。
シスルは不動産業を営んでおり、マンデラは彼の経営する不動産会社で働くことになりました。二人はすぐに親友となり、その後も一緒に政治活動を行うようになりました。シスルはマンデラにANCへの参加を勧め、彼の政治的なキャリアに大きな影響を与えました。
On this day, 17 May 2003 At Walter Sisulu’s funeral Nelson Mandela called him ‘my friend, my brother, my keeper, my comrade’https://t.co/OgFwpjyur9 pic.twitter.com/WIHMHdq7Ax
— NelsonMandela (@NelsonMandela) May 17, 2020
マンデラの人種問題への理解とANCへの道
1942年、マンデラは家賃を節約するために、労働者募集機関WNLA(ウィットウォーターズランド原住民労働協会)の本部に住むことになりました。ここで様々な部族の首長と出会い、自分が南アフリカの人種問題にどれほど無知であるかを痛感しました。白人政権による人種分離政策が、他の民族を誤解させ、対立を引き起こすことについても理解を深めました。
彼は法律事務所で働く同僚ガウル・ラデベと親しくなり、彼からアフリカ民族会議(ANC)という民族組織について詳しく知ることになりました。
アフリカ民族会議(ANC)の歴史と闘争方針
アフリカ民族会議(ANC)は、1912年1月8日に設立されたアフリカ大陸で最も古い歴史を持つ政治団体(政党)で、結成当時は南アフリカ原住民民族会議(SANNC)という名称でした。この組織はアフリカ人の解放と平等を目指す政治的組織であり、法律家、教員、聖職者、ジャーナリストなどの少数のアフリカ人エリート層が主要な担い手でした。
ANCの運動方針は当初、非暴力による運動でアフリカ人と白人の平等を実現しようとするものでした。しかし、経年とともにアパルトヘイト政策が強化され、非暴力による抵抗が効果を上げられない状況が続く中、ANCは戦術を変更しました。1961年、ANCは武装闘争組織「槍の国(Umkhonto we Sizwe)」を設立し、反アパルトヘイト闘争をより積極的に展開するようになりました。
南アフリカ大学で学士学位を取得し、法律家としての道を拓く
ネルソン・マンデラは、努力と献身により、自身の教育を継続することができました。1943年には、南アフリカ大学(University of South Africa)の通信教育課程を通じて学士学位(B.A.)を取得しました。この達成は彼の法律家としてのキャリアへの道をさらに開いていきました。
ウィットウォーターズランド大学での学び
学位を取得したマンデラは、1943年に、弁護士資格をとるためウィットウォーターズランド大学に入学しました。
ウィットウォーターズランド大学での経験は、マンデラにとって非常に重要でした。マンデラは法学部で唯一の黒人学生であり、そのような環境は大きなプレッシャーを感じており、学業の成績が上がらず、最終的に法律の学士号は取得できませんでしたが、この期間に、マンデラは多様な人種と文化を持つ友人たちと出会いました。
これにより彼は広い視野を持つことができ、異なる文化や価値観に触れることができました。これは彼が南アフリカの平等と自由を求める闘いを続ける原動力となりました。
また、この期間にマンデラは政治的関心を深め、アフリカ民族会議(ANC)の活動に関与し始めました。
「アパルトヘイトへの闘い」ネルソン・マンデラとアフリカ民族会議の取り組み
ネルソン・マンデラは、1944年にアフリカ民族会議(ANC)に参加し、アパルトヘイト政策を廃止するために積極的に活動しました。マンデラは国民党政権に対抗し、平等で民主的な南アフリカの実現を目指しました。
マンデラの家庭生活と政治活動
同年、ネルソン・マンデラはエブリン・ムアセ(Evelyn Mase)と結婚しました。エブリンは、南アフリカのイースタンケープ州出身の看護師で、ウォルター・シスル(Walter Sisulu)のいとこでした。この結婚により、マンデラはシスル家とより深いつながりを持つことになりました。ウォルター・シスルは、後にANCの指導者としてマンデラと共に重要な役割を果たすことになります。
マンデラとエブリンの間には、4人の子どもが生まれました。しかし、マンデラの政治活動による家庭への影響が次第に大きくなり、次第に結婚生活に亀裂が入っていきました。
1946年の鉱山ストライキとインド人抵抗運動
1946年、南アフリカの歴史上最大規模のストライキが鉱山で行われ、警察の発砲により12人の鉱山労働者が死亡する惨事が起こりました。
同じ年に制定された「アジア人土地保有法」により、インド人の権利が制限されました。これに対して、南アフリカ在住のインド人は2年間にわたる非暴力抵抗運動を展開しました。この運動は、マハトマ・ガンジーが若いころ南アフリカに住んでいた時代に行われた反政府運動を思わせ、多くの人々が参加しました。この団結ぶりがネルソン・マンデラに大きな影響を与えました。
1947年、ANC青年同盟のトップだったレンベデが病死し、ピーター・ムダが後継者になりました。ムダの影響により、ANCには白人やインド人など他の人種も参加することが可能になり、運動がより広範なものへと変化し始めました。
このような変化は、南アフリカの人種問題に対する多様な視点を持ち込み、運動の効果を高めました。これにより、ANCはアパルトヘイト政策に対する闘いを続ける中で、より多くの人々を巻き込むことができるようになりました。
南アフリカにおけるアパルトヘイト政策の始まり
1948年、南アフリカの総選挙で連合党がオランダ系(アフリカーンス)中心の右派国民党に敗れるという衝撃的な出来事が起こりました。ダニエル・マラン博士率いる国民党は、「アパルトヘイト」をスローガンに政権を発足させ、南アフリカの歴史において最も暗い時代が始まりました。
アパルトヘイトは、1910年の国家成立以前から存在し、今回の選挙によって法制として確立されたと言えます。
はじめは裕福なイギリス系住民に対抗するために、貧困層であったオランダ系白人入植者を保護する目的でした。しかし、この政策は次第に黒人住民に対する敵意と差別を増長させる結果となりました。
アフリカーナーと呼ばれるオランダ系白人入植者は、自分たちの立場を保護し強化するために、黒人住民を社会的、経済的、政治的に抑圧する政策を推進しいったのです。
南アフリカにおける人種差別政策の原点
オランダ改革派教会の基本思想によれば、オランダからの移民の子孫である「アフリカーナー」は、神に選ばれ、黒人を支配する役目を与えられているとされていました。このような危険思想の人々が政権を握ったことで、「アパルトヘイト」の時代が始まったのです。
アパルトヘイトとは
アパルトヘイトとは、アフリカーンス語で「分離」「隔離」を意味し、南アフリカ共和国でかつて実施されていた人種隔離政策を指します。白人支配層が人口の2割に満たないにも関わらず、政治、経済、文化などあらゆる分野で残り8割以上の非白人を差別しました。この政策の最終目標は、人口の約7割(現在は8割)を占めるアフリカ人を国土の13%のホームランドに閉じ込めることでした。
アフリカ人は、ホームランドから白人地域の鉱山や工場に出稼ぎに出ましたが、参政権・言論の自由・土地所有権・移動の自由すらない、二級市民としての扱いを受けました。
当時、トイレや公園などの公共施設は「White」(白人用)と「Non White」(白人以外用)に区別され、黒人が白人専用の場所に立ち入った場合は逮捕されました。
アパルトヘイト政策は徐々にエスカレートし、異人種間での恋愛や結婚も禁止になると、国際社会は「人類の人類に対する犯罪」と厳しく非難しました。しかし、南アフリカ政府はこれを「人種ごとの分離発展のため」として、改めようとはしませんでした。
ネルソン・マンデラの人種差別に立ち向かう闘い
ネルソン・マンデラは、このアパルトヘイト政策のすべてを目の当たりにしました。マンデラは、アフリカ国民会議(ANC)に参加し、アパルトヘイト政策の撤廃を目指して活動を続けました。
ネルソン・マンデラの生涯 ② ── 南アフリカ反アパルトヘイト運動の歴史