ガザ地区の歴史は、ハマスの実効支配という新たな局面を迎えました。この変化は、ガザの政治的風景を根底から揺るがし、イスラエルとの長い対立に新たな次元をもたらしました。
ハマスの台頭は、緊張を高め、敵対行動を激化させる一方で、平和と安定への道筋をより複雑にしました。この記事では、ガザとイスラエルの関係がどのようにエスカレートしていったのか、その背後にある力学を明らかにしていきます。
【ガザの歴史(1)】「イスラエル vs パレスチナ」ガザ地区の複雑な歴史を解き明かす
The Hamas-controlled
変動のガザ地区「ハマスの実効支配」
「オスロ合意」に基づき、パレスチナ立法府はガザ、ヨルダン川西岸、東エルサレムにおいて部分的な統治権を持っていました。
2006年まで、パレスチナ自治政府(PA)は世俗的なファタハ党が支配しており、イスラエル国家を承認し、武力抵抗を放棄した後、イスラエルとの交渉路線を追求していました。
しかし、同年の選挙でハマスが勝利すると、状況は劇的に変わることになりました。
ハマスはイスラエルとの長年の武力衝突の歴史を持ち、イスラエル国家の破壊を目的としているため、国際社会はハマス主導の政府を承認しなかったのです。
「ハマス」の創設
1987年12月、ハマス(HAMAS)はガザ地区での社会福祉活動を行っていた団体が、第一次インティファーダ(イスラエルへの抗議運動)の勃発を受け、イスラム国家樹立を目指す政治運動として姿を現しました。
この運動は、同地区のムスリム同胞団の最高指導者であるシャイク・アフマド・ヤシンが組織したもので、イスラエルに対するパレスチナ住民の広範な反抗でした。
ハマスは第一次インティファーダの中で、実力行使部隊を持つ武装組織へと変貌していきました。
パレスチナ解放機(PLO)と対立
1990年代から2000年代初頭にかけて、ハマスはこれまでガザを指導していたパレスチナ解放機(PLO)と異なる政治方針を取り、イスラエルとの和解や共存を目指すパレスチナ解放機のアプローチに批判的な立場を示しました。
ハマスはより過激な姿勢をとり、直接行動を起こし抵抗するべきと訴えたのです。
過激な活動によりテロ組織認定
そして、実際にハマスはイスラエルに対する武装抵抗を展開し、ロケット攻撃だけではなく自爆攻撃を戦術として導入。
2000年代の第二次インティファーダの期間、ハマスは自爆攻撃を頻繁に実行しました。イスラエルの市民と兵士を対象としたこれらの攻撃により、イスラエル側は多くの犠牲者を出しました。
ハマスの自爆攻撃はイスラエルによってテロ行為と強く非難され、国際社会からもテロ組織として見なされるようになりました。
また、これらの攻撃はパレスチナ社会においても議論の的となり、抵抗の方法としての倫理的な正当性が問われることになりました。
ハマスがパレスチナ自治区の選挙で大勝利
2004年にパレスチナ自治区を一つにまとめていたアラファト議長亡くなると、ハマスはさらに活発に動くようになっていきました。
2005年9月のユダヤ人の入植者の撤退の後、ハマスはガザ地区でのインフラ整備を進め、教育や医療施設の設立を含む社会サービスの提供を推し進めました。
これにより、ハマスは地元住民からの支持を大きく集めることに成功しました。
その結果、2006年1月のパレスチナ立法評議会選挙で過半数の議席を獲得するに至りました。
ハマスを警戒した国際社会の圧力が強まる
選挙に勝利したハマスに対し、国際社会はテロの批判と、過去のパレスチナ・イスラエル間の合意への承認、さらにイスラエルの正式な認知を要求しましたが、ハマスはこれらの要求に対して沈黙で答えました。
この反応は国際社会を警戒させることに繋がり、以降ハマスは国際的な政治、外交、経済から切り離されることになりました。また、イスラエルはガザ地区の封鎖を強め、米国と共にパレスチナ人への援助を打ち切りました。
ハマスが選挙で勝利後、初の空爆
2006年6月25日、ハマスはイスラエル軍兵士ギラド・シャリットを誘拐し、ガザに連行しました。イスラエルは対抗措置として、ガザ地区への空爆を開始しました。
シャリットは、2011年にパレスチナの捕虜交換によって釈放されました。
「2007年のパレスチナ内戦」ハマス vs ファタハ
2007年3月、国際社会の制裁により経済危機に追い込まれたハマスは、ファタハ(PLOの主流派)と協力してパレスチナ自治区を統治をするために連立内閣を発足。
しかし、これまでも対立してきた両者の協力体制はすぐに崩壊することになります。
この頃、ハマスの台頭に危機感を募らせたアメリカは、ハマスを失脚させるために暴力によるクーデターを密かに計画し、ファタハの司令官モハメド・ダーランに対して軍事援助することを約束しました。
そして2007年6月、ついにハマスとファタハはガザ地区で武力衝突。これによりパレスチナ自治区は内戦状態に陥りました。
勝利したハマスがガザ地区実効支配
この衝突の結果、ハマスが武力でファタハを打ち破り同連立政権は崩壊、ガザ地区を掌握し実効支配を開始ました。
ハマス(ガザ)とファタハ(ヨルダン川西岸)
一方、この戦いに敗れたファタハはヨルダン川西岸の支配を維持していくことになりました。こうして、パレスチナ自治区は二つの組織により政治的に二分された状態となりました。
ハマスが支配するガザ地区は国際政治の舞台からの孤立
ガザ地区を実効支配するようになったハマスでしたが、国際的には孤立しており、外交的な活動はエジプトを介してのみ行われるようになりました。
2006年のレバノン紛争
2006年にはレバノンでも紛争が発生し、ヒズボラがイスラエル兵士を攻撃し、イスラエルはレバノン南部で限定的な地上侵攻を行いました。
ヒズボラはイスラエル北部へのロケット攻撃で応戦し、紛争は両国民間人の大量避難と死傷者をもたらしました。
この紛争は、レバノンのヒズボラパレスチナ人の大義を前進させるという名目のもと、イスラエル兵士を攻撃したことから始まりました。
これに対してイスラエルはレバノン南部での限定的な地上侵攻を実施し、ヒズボラの拠点に対する空爆を行いました。
米国によってテロ組織と指定されているヒズボラはイスラエル北部の都市にロケット弾を発射し、激しい報復を行いました。
この集中砲火は1ヶ月間続き、多数の死傷者と民間人の避難をもたらしました。
最終的に、戦闘は国連決議によって終結し、レバノン軍と国連平和維持軍がヒズボラの再武装を阻止するためにレバノン南部に展開しました。
「アイアンドーム」の開発
この紛争を受けて、イスラエルはその後アイアンドームミサイル防衛システムの開発に着手しました。
このシステムは短距離のロケット弾や砲弾を迎撃する目的で設計され、イスラエル国内の安全を確保するための重要な防衛策となっています。
ガザ紛争 (2008年-2009年)
2008年6月、エジプトの仲介のもとでハマスとイスラエルは6ヶ月間の停戦合意に達しました。
しかし、ガザ地区に対する経済封鎖の緩和は実現しませんでした。
11月4日、イスラエル軍はガザ地区中部に侵攻し、ハマスによる越境攻撃用のトンネルを破壊し、空爆を実施してハマスの戦闘員を殺害しました。
これに対する報復としてハマスはイスラエル南部へのロケット攻撃を再開しました。
イスラエル政府はこれを受けてガザ地区の全ての検問所を封鎖し、食料や燃料の搬入を完全に停止しました。
これにより、国連が行っていた難民への食料配給も途絶え、11月13日には国連の食糧備蓄が底をつき、食糧配給が停止される状況に追い込まれました。
ガザ地区の火力発電所への燃料搬入が禁止された結果、電力需要の四分の一を賄う施設での停電が続きました。
また、イスラエル当局はガザ地区へのジャーナリストの立ち入りも禁止し、ガザ地区の実情が外部に伝わることを阻んでいます。
この一連の動きは、ガザ地区での人道的な危機をさらに深刻化させ、国際社会からの非難を集める原因となりました。
2008年の停戦終了と「鋳込まれた鉛」作戦
2008年12月18日、ハマスは停戦の延期を拒否し、その理由としてイスラエルが義務を遵守していないことを挙げました。この声明は、停戦終了後の緊張の高まりを予告するものでした。
一方、イスラエルは停戦がパレスチナ人の利益になるとして、その無期限の継続を主張していました。
停戦終了から10日も経たないうちの12月27日、ガザ地区からイスラエル南部の町スデロットへのロケット弾が発射されました。
この攻撃に対し、イスラエル軍はガザからのロケット攻撃を止めることを目的とした軍事作戦「鋳込まれた鉛(キャスト・レッド・Cast Lead)」を開始し、ガザ中心部に対して大規模な空爆を行いました。
2009年 地上侵攻を開始
2009年1月3日には、イスラエル軍の地上部隊がガザ地区への侵攻を開始しました。
「テロとの戦争」アメリカとイスラエルの矛盾
当時のアメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュは「中東の民主化」を外交・軍事戦略の重要な柱として推し進めていましたが、実際には矛盾したものになっていました。
アメリカはイスラエルと共に、ハマスの過去のテロ活動を理由に、民主主義の象徴である選挙によって選出されたハマスを支持せず、ガザ地区への経済封鎖と国際援助の停止を維持していたのです。
このような背景のもとで、イスラエルは「テロとの戦い」という大義名分を掲げガザに侵攻しました。
しかし、この「テロとの戦争」は、女性や子供を含む多くの無実の民間人の死傷者を出しました。
また、難民キャンプやその中にある国連運営学校や、国連難民救済機関の施設も攻撃の対象になりました。
イスラエルは国連施設への攻撃を正当化し、「私たちを狙ったミサイル攻撃が、同校から発射されたことに対する正当な反撃であり、ハマスのを狙ったものだ」と説明しました。
多くの民間人の死傷したことに関しても、イスラエル政府は「テロリストと民間人とを区別して攻撃を行っている」と主張し続けました。
しかし、国際社会からは、これらの行動に対する批判と懸念が寄せられました。
国連による停戦決議
2009年1月8日、国際社会の圧力を受け、国連安全保障理事会はガザ地区での即時停戦を求める決議案を提出しました。
イスラエルの最大の支援国であるアメリカが拒否権を行使せずに棄権したため、アメリカを除く全理事国の賛成により決議案は採択されました。
イスラエルとハマスが停戦を宣言
1月16日、コンドリーザ・ライス米国務長官とツィッピ・リブニイスラエル外相は、ガザ地区への武器密輸阻止を目的とした協定に署名しました。
そして1月18日、エフード・オルメルトイスラエル暫定首相は、ハマスの統治能力や軍事力に大きな打撃を与えたと宣言し、「我々は目標を達成した」としてガザ地区での軍事作戦の一方的な停止を宣言しました。
ハマスはイスラエル軍の撤退を可能にするため1週間の停戦を発表し、直ちに実行に移しました。
そしてバラク・オバマ米大統領の就任に合わせるかのように、1月21日にはイスラエル軍がガザ地区からの撤退を完了し、実質的な戦闘行動は終了しました。
ガザ侵攻の犠牲と損害
イスラエルによる22日間の軍事作戦は、ガザ地区に甚大な損害をもたらしました。
この期間に、1,400人を超えるパレスチナ人が命を落とし、約4,000人が負傷したと報告されています。犠牲者の中には多くの子供や女性を含む民間人が含まれており、国際社会からの非難の声が高まりました。
物的な損害においても、パレスチナ自治政府中央統計局によると、4,100棟の家屋が完全に破壊され、1万7,000棟が損傷しました。
さらに、食糧、水、建設資材などに関わる非軍事施設も多数が被害を受け、損害額は約19億ドルに達すると推定されています。
一方で、イスラエル側の死者は13人(市民3人、兵士10人)であり、死者数の比率はパレスチナ側と比較して約1対100という極端な差がありました。
この大きな死傷者数の差は、軍事作戦の正当性に関する議論をさらに激化させる要因となりました。
ハマスの勝利宣言
イスラエルによる厳しい軍事作戦を生き延びたハマスは、組織の存続を「歴史的な勝利」と位置づけ、自らの抵抗を正当化しました。
この主張は、アラブ諸国やイスラム諸国の一部において称賛され、イスラエル軍に対する強固な抵抗の象徴として祝賀されました。
特にハマスを支持するイランを含む一部の国々では、戦勝行事が開催され、ハマスの「勝利」が祝われました。
しかし、ガザ地区およびヨルダン川西岸のパレスチナ人の間では、そのような戦勝の祝福はなく、戦争の破壊による深刻な現実に直面していました。停戦を仲介したエジプトも、戦勝騒ぎからは距離を置いていました。
イスラエル軍の侵攻目標はガザからのロケット弾の阻止でしたが、この目標は完全には達成されませんでした。
イスラエル軍は、必要に応じて再攻撃を行う体制を維持していますが、一方でガザの住民は国境の閉鎖と経済制裁の継続により、緊急支援の到着を待ちわびています。
このように、ハマスの名目上の勝利は、ガザ地区の厳しい現実を変えるものではありませんでした。
破壊されたインフラの再建、経済的な再活性化、そして何よりも民間人の生活と安全への恒久的な保障は依然として未解決のまま残されており、この状況はガザ地区の将来に深刻な影響を及ぼし続けていました。
ガザ侵攻における国連報告と両当事者の対応
国連当局者は、イスラエル軍がガザ侵攻中に大量破壊兵器に属する白リン弾の使用や、民間人を意図的に標的にした疑いがあると発表しました。
これらの行為は戦争犯罪や人道に対する罪にあたる可能性がありましたが、イスラエル政府は今回侵攻を自国民の防衛のための正当な軍事行動と位置づけています。
しかし、国際社会は民間人の大量死につながった結果に対して、ジェノサイドとの比較を引き起こすほどの憂慮していました。
それでも、イスラエル国内の一部の市民からは停戦が早過ぎたとの声も上がり、ハマスに対するより徹底的な軍事行動が求められました。
裁かれない戦争犯罪
国連はハマスに対してもイスラエル民間人を標的にしたロケット攻撃を行い、これもまた戦争犯罪に該当すると指摘しています。
しかし、イスラエルとハマスのどちらも、これらの疑惑に対する適切な調査や責任追及を行っていないのが現状です。
多くの民間人の死や人権侵害が何の処罰もないまま放置されており、正義と説明責任の原則が蔑ろにされている状況が続いています。
エジプトの役割と壁
ガザ地区最南端に位置しており、唯一イスラエル以外の国であるエジプトと国境を接している町ラファでは、人口の大半はパレスチナ難民という過酷な状況になっていました。
2004年のイスラエル軍の攻撃により、多くの住宅が破壊されました。その結果、多数の住民が家を失っていたのです。
さらに、国境沿いの住宅はイスラエル側の安全保障を理由に破壊され、100メートルを超える幅の瓦礫の広がる更地が作られました。
エジプトはパレスチナ問題において長年にわたり調停役を果たしてきましたが、2007年ハマスがガザ地区を掌握して以来、エジプトはガザの封鎖を支持し、人と物資の往来を厳しく制限しました。
この対応は、ハマスの戦闘員が民間人に紛れて国境を越えたり、武器の流入により紛争がエジプト内に拡大するのを防ぐためでした。
さらに2008年には、ハマスによるラファの国境施設の爆破事件が発生し、数十万人のパレスチナ難民がシナイ半島に流入しました。
この事件に危機感を抱いたエジプトは、自国の安全のために地下20メートルに達する鉄筋コンクリート製の壁を建設しました。
この壁は、ガザ地区からエジプトへの密輸や武装勢力の侵入を防ぐことを目的としていますが、これによりガザ地区の経済的および社会的孤立がさらに進んでいるとの指摘もあります。
イスラエルの海上封鎖の強化、船舶の拿捕
2008年から2009年のガザ紛争前には、限られたが船舶による物資の輸送が許可されていました。
しかし、紛争が激化したことを受けて、イスラエルはガザ地区に対する海上封鎖を強化しました。この封鎖により、船舶によるガザへの入港が一切禁止され、海岸線沿いの監視が強化されました。
また、イスラエル軍の軍艦はガザ地区の沖合を巡航し、パレスチナの漁師たちの活動範囲を大幅に制限しました。
「ガザ小艦隊襲撃」
2010年5月、自由ガザ運動とトルコ人権・自由・人道救援財団(İHH)によって組織された船団がガザ地区への封鎖を打破し、人道援助物資と建設資材を輸送するため出航しました。
この試みは通常、イスラエルによる検査を経てガザに物資が送られる通常の手続きを迂回するものでした。
キプロスで集結した6隻の支援船団には、貨物船4隻と600人を乗せたİHHチャーターの客船が含まれており、水浄化セット、医療機材、プレハブ住宅、セメントなど合計1万トンの積荷を搭載していました。
自由ガザ運動にとってこれは9回目の試みでした。
イスラエル海軍はこの船団に対し、国際法違反であると主張しており、「必要なあらゆる措置」を講じると警告しました。
2010年5月31日、イスラエル軍は地中海の公海上で船団を拿捕しました。
乗客たちは甲板上で人間の鎖を作り、イスラエル兵の進路を妨害しましたが、軍はペイントボール銃、ゴム弾、プラスチック弾で応戦しました。
一部の乗客は抵抗を試み、イスラエル兵に対する身体的な攻撃や言葉による虐待があったと報告されています。
中でも「マビ・マルマラ」号の襲撃は特に激しい衝突に発展しました。
このトルコ船籍の船には約600人が搭乗しており、イスラエル軍の実弾発砲により、トルコ国籍の9名が死亡し、アメリカとの二重国籍者も含まれていました。また、多くの活動家が負傷し、イスラエル兵7人も負傷しました。
拘束と国際社会の反応
船はイスラエルのアシュドッド港に曳航され、その後ハイファ港に移されました。
乗船していた活動家らはイスラエルで拘束され、約一週間後の6月6日に国外追放されました。船舶は所有者に返還され、船に積まれていた援助物資は国連の監督の下で6月17日にガザ地区に届けられました。
この事件は国際社会からの広範な非難を受け、国連をはじめとする複数の機関による調査が行われました。
イスラエルとトルコの関係は大きく悪化し、この事件を契機にイスラエルはガザ地区への封鎖を緩和する措置を取りましたが、封鎖自体は続けられました。
2012年ガザ紛争
2012年11月10日、ハマスはイスラエルに対するロケット弾の攻撃を開始しました。
これを受けて、イスラエルは11月14日にハマスの指導部とロケット発射基地を標的とする軍事作戦「防衛の柱」を開始しました。
作戦の初日にイスラエルの空爆により、ハマスの軍事司令官アハメド・ジャバリが暗殺されました。
イスラエルの治安当局によれば、ジャバリは過去10年にわたるガザからの反イスラエルテロ活動の主要な責任者であり、数々の攻撃や拉致事件に関与していたとされています。
ジャバリの暗殺はハマスの激しい反発を呼び、イスラエルに対するロケット攻撃をさらに強化する結果となりました。
暗殺後の短期間で275発以上のロケット弾がイスラエル側に向けて発射されました。この激しい攻防は、ガザ地区の住民とイスラエルの国境地域の住民の両方に大きな影響を与え、緊張を高めました。
エジプトの積極的介入と和平への努力
11月16日、エジプトのヒシャム・カンディル首相は、「エジプトはこの侵略を阻止し、永続的な停戦を達成するために努力を強化し、犠牲を払うことを躊躇しない」と述べと述べ、にガザ地区への短期訪問しました。
この訪問に対して、イスラエルはカンディル首相が訪問中、ハマスに対する軍事作戦の一時停止を約束しました。
その後、カンディル首相はガザの病院を訪れ、「この悲劇を黙って終わらせることはできない。世界は責任を持ってこの侵略を阻止すべきだ」とイスラエルを強く非難しました。
イスラエルの停戦期間中の軍事行動
しかし、イスラエルは軍事作戦の一時停止の約束を破り、ハマスの司令官宅へ攻撃を開始しました。ガザ北部のジャバリア難民キャンプの住居に対するイスラエルの空爆の報告もありました。
また、ハマス所属の内務省の建物もミサイルによる攻撃を受け、大部分が瓦礫と化しました。
これに対して、イスラエル政府報道官は、自分たちは停戦をしていたにもかかわらず、武装勢力がイスラエルにロケット弾を発射し続けているとハマスを非難しました。
イスラエル警察は、パレスチナ側がガザから発射したロケット弾が11月16日にテルアビブ近くの地中海に着弾したと発表。停戦中にイスラエルは攻撃を続けたというパレスチナ側の主張を否定しました。
イスラエル・ハマス衝突における戦争犯罪の疑惑
2012年のイスラエル軍とハマスおよびその他パレスチナ武装グループとの間の衝突中、両方の行為が戦争犯罪である可能性が指摘されています。
イスラエル空軍による居住区域への爆撃やミサイル攻撃は、多数の民間人の死傷者を出し、軍事目標と民間施設の区別を怠ったとされる行為が見受けられました。
例えば11月18日には、ガザ市内のアル=ダル家が自宅を攻撃され、子どもや女性を含む家族10名と隣人2名が死亡しました。
イスラエル軍の報道官は攻撃の偶発性や戦闘員を狙ったと主張しましたが、証拠は提供されていません。
さらに翌日には、イスラエル軍の空爆により5歳のモハメド・アブ・ズール少年が叔父2名と共に死亡し、家屋が破壊され、多数の負傷者を出しました。
これらの攻撃は、民間人の安全を確保するための国際法の要求を無視した無差別砲撃と見なされています。
ハマスのイスラエルの民間人を狙った無差別ロケット攻撃
一方で、ハマスはイスラエルの民間地域を対象としたロケット弾攻撃を大幅に強化していました。
紛争中には、1,506発のイラン製の長距離ファジル5ロケット弾がイスラエル南部の民間人に向けて放たれました。
このロケット弾は、テルアビブやエルサレムといった主要都市にも到達し、イスラエルの人口の約半数が攻撃のリスクに直面することになりました
テルアビブへの攻撃は、1991年の湾岸戦争以来初めての出来事であり、イスラエル国内で広範な警戒と不安を引き起こすことになりました。
エジプトの仲介により停戦成立
2012年11月のイスラエルとハマス間の激しい衝突は、エジプトと米国の仲介によって11月21日に停戦合意に至りました。
この短期間の衝突で、パレスチナ側からは約150名の死者が出ました。これには30名を超える子どもと約70名の一般市民が含まれていました。
一方、イスラエル側では6名が死亡し、その中には4名の民間人が含まれていました。
また、停戦合意後もガザの境界区域では依然として緊張が続き、イスラエルが立入禁止とするエリアで、ハマスの兵士がパレスチナ市民に対して発砲し、4名が死亡、2歳の子どもたちを含む複数の負傷者が出ました。
国際社会の反応
世界の指導者たちは、ガザとイスラエルでの暴力の激化に様々な反応を示しています。
欧州連合(EU)の外交政策責任者キャサリン・アシュトンは、民間人の死に深い懸念を表明し、ガザからのロケット弾攻撃を「全く容認できない」と述べ、イスラエルには自国民を守る権利があるとしつつ、その対応が適切であることを求めました。
ドイツ首相アンゲラ・メルケルの報道官は、暴力の責任はハマスにあると指摘しました。
イギリスは今回危機に対する主な責任はハマスにあるとした上で、冷静さを求めました。
トニー・ブレア中東特使はハマスに対してイスラエルの町への攻撃を停止するよう促しました。
アメリカはハマスによるロケット弾攻撃に正当性はないと述べ、暴力の爆発はハマスの責任であるとしました。また、エジプトに対し、地域での影響力を行使して暴力を止めるよう要求していました。
アラブとイスラム世界ではイスラエルの行動に対する怒りが高まり、イランはイスラエルを「組織的テロリズム」で非難し、カタール首相はイスラエルの空爆を「無罰では通過できない」と述べました。
ロシアはイスラエルの「不当な」武力行使を非難しました。
国連人権高等弁務官ナビ・ピレーは、イスラエルの空爆とハマスによるロケット弾発射の両方を非難し、双方に緊張を和らげるよう呼びかけました。
これらの声明は、国際社会が紛争解決に向けた具体的な動きに苦慮していることを示しています。
イスラエルとハマス間の衝突背景の複合要因
今回、イスラエルとハマス間の衝突に至った背後には、複数の複雑な要因が絡み合っていました。
イスラエルにおける2013年1月の選挙を前に、ネタニヤフ首相率いる政権が強硬姿勢を国内外に示す必要があったとの見方が存在します。
これが行動に出る一因とされていますが、これは多くの要因のうちの一つに過ぎません。
さらに、アラブの春により2011年に崩壊したムバラク政権との緊密な関係を背景にエジプトが中東和平の仲介者としての影響力を失ったことも、交渉が困難になった理由として挙げられます。
新たな政権下でのエジプトの動向はイスラエルにとって不確かな要素となっていました。
また、イランの影響を受けているとされるハマスやヒズボラの動向もイスラエルの懸念材料です。
ハマスが使用する武器や弾薬がイラン製であるとの見方が強まっており、イスラエルはイランの核開発問題がさらに緊張を高める前に、ハマスの弱体化を図りたいと考えていました。
レバノンのヒズボラからの軍事的挑発の兆候もあり、ガザでの衝突はイスラエルにとってイランとのより広範な地政学的問題と密接に関連していました。
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