地中海の青い水辺に面し、その豊かな歴史が四千年以上もの時を超えて流れるガザ地区は、かつて交通の要衝として、また繁栄する商業の中心として栄えました。
しかし、現代におけるガザは、「天井のない監獄」と形容されるような過酷状況に直面しています。
今回は、ガザの豊かな過去から現在までの歴史を振り返り、封鎖された地域が直面している現実に迫ります。
Open Air Prison
「天井のない監獄」封鎖されたエリア、ガザの歴史
ガザ地区は地中海に面した、約40キロメートルの海岸線を持つ細長い地帯です。
北と東はイスラエル、南西はエジプトと接し、その戦略的な位置から4000年以上にわたる歴史の中で、多くの異なる王朝や帝国に支配されてきました。
現在、この地域は約200万人のパレスチナ人が居住しており、高い人口密度を特徴としています。
しかし、イスラエルによる長期にわたる封鎖と領土の分断は、経済的、社会的、人道的な多くの課題を引き起こしており、地域の住民は日々の生活で著しい困難に直面しています。
パレスチナの古代文明
紀元前1万2500年から紀元前9500年にかけてのパレスチナにはナトゥーフ文化が存在しました。この文化の人々は、現代の農業社会に移行する前の狩猟採集民でした。ナトゥーフ人は野生の穀物を収集し、石造りの家や穀倉を建設するなどの定住生活を始めていました。
パレスチナ地方の古都「エリコ」
紀元前8500年頃のエリコは、農耕社会への移行の証拠として知られています。
エリコは、人類史上最も古くから定住が行われていた場所の一つとされており、そこから発見された火打石製の鎌は、野生小麦の収穫用に特化していました。
当時、野生小麦は多くの草種の一つにすぎませんでしたが、時間をかけて栽培されることで、今日の小麦の祖先が形成されました。
エリコの集落は、紀元前8500年頃には数百人の小さな共同体でしたが、紀元前6000年には、8から10エーカーの敷地に約3000人が居住する農業用の城壁都市に成長していました。
女性は小麦を粉砕するために重い石器を使用し、男性は粘土を成形してレンガを作成していました。これらのレンガには時に作り手の拇印が残されていることがあります。
ガザに人間が定住
ガザに人間が定住していた証拠は紀元前6000年頃に遡ります。
これは、パレスチナ地域が古代から人間の活動の中心であったことを示しており、ナトゥーフ文化をはじめとする多くの古代文明がこの地で発展していたことを示唆しています。
古代エジプトの支配下
紀元前3000年頃、ガザ地区は古代エジプトの支配下にありました。紀元前2700年には、聖書に記述されているカナン地方の一部として知られていました。
ガザ地区は主要都市の一つ
紀元前12世紀頃から、海の民の一派であるペリシテ人(フィリスティア人)がこの地に定住し始め、この地域はペリシテ人の土地「パレスチナ(Palestina)」と呼ばれるようになりました。
その中で、ガザ地区は主要都市の一つとなりました。
ペリシテ人はヘブライ人、つまりユダヤ人と何度も対立しましたが、その過程で現在のガザ地区に住むアラブ人の祖先となったとされています。
イスラエル王国時代
紀元前9世紀のイスラエル王国時代には、ガザ地区の南部がイスラエルの支配下に入りましたが、紀元前8世紀に王国が分裂した後、この地域はエジプト、アッシリア、バビロニア、そしてマケドニア王国などの強大な勢力による争奪の対象となりました。
バビロン捕囚から多くのイスラエル人が戻った後の紀元前6世紀、ガザ地区の北半分はユダヤ地方の一部と見なされました。
その後、紀元前140年から紀元前37年までの期間、ハスモン朝と呼ばれるイスラエル人の王家によってこの地域は統治されていました。
ローマ帝国時代のガザの交易と文化的重要性
紀元前1世紀、イスラエル王国は共和政ローマとその後の帝政ローマの支配下に入り、この時代にユダヤ属州の一部となりました。
ローマの支配の下、ガザはその地理的な位置から繁栄を極め、中東とアフリカを結ぶ貿易ルートの中心地として発展しました。
ポンペイウス・マグヌスによる征服後、ガザは執政官アウルス・ガビニウスによって再建され、その後6世紀にわたって比較的な平和と繁栄の時期を享受しました。
ガザが古代から地政学的に重要な位置を占めてきたことが、その歴史を通じて明らかになります。この時代のガザは、交易で栄え、多文化が共存する都市としての地位を築きました。
この時代は、イエス・キリストの誕生と活動があった時期と重なります。
イエスはユダヤ教の慣習に挑戦し、その教えは広く伝わりましたが、最終的にはローマの属州総督の命によって処刑されました。
その後、イエスの墓とされる場所に聖墳墓教会が建立され、これはキリスト教の重要な聖地となりました。
ユダヤ人が世界へ離散
イエスの死後から約100年が過ぎた頃、ローマ帝国によるパレスチナ支配が厳格化しました。それに対して、ユダヤ人はローマに対して幾度となく反乱を起こしました。
これらの反乱の中でも特に大規模だったのが紀元66年から70年に起きた「ユダヤ戦争」であり、この戦いでエルサレムの神殿がローマ軍によって完全に破壊されました。
破壊された神殿の残骸は、現在「嘆きの壁」として知られています。
その後もユダヤ人の反乱は続き、紀元132年から135年にかけてバルコホバの指導のもとで行われた戦争では、ユダヤ人は再びローマ軍に敗北し、エルサレムから追放されました。
この敗北後、ユダヤ人はローマ帝国内で散り散りになり、「ディアスポラ(離散)」と呼ばれる散在生活を余儀なくされることになります。
これによりユダヤ人社会は祖国を失い、世界各地に広がることとなったのです。
約1200年間のイスラムの時代
661年に最初のイスラム国家ウマイヤ朝が建国されました。
ウマイヤ朝はパレスチナを征服し、エルサレムに預言者ムハンマドの昇天の地とされる「岩のドーム」を建設し、このモスクはイスラム教の重要な聖地の一つとなり、世界中から信仰を集める場所となりました。
11世紀末には、ヨーロッパのキリスト教勢力が聖地エルサレムの奪還を目的として十字軍を結成し、エルサレムを征服。
この地に十字軍国家を建立しましたが、12世紀後半にイスラム側の指導者サラディンによってエルサレムは奪還されました。
以後、パレスチナはファーティマ朝やマムルーク朝、そしてオスマン帝国といったイスラム勢力によって統治されることになります。
オスマン帝国時代のパレスチナとアラブ独立運動
16世紀以降、パレスチナはオスマン帝国の支配下にあり、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が共存していました。
その中ではアラブ人が多数派を占め、ユダヤ人は少数派の一つでした。また、この時期にはパレスチナには他の少数民族も存在していた。
20世紀初頭には、アラブ民族主義が高まり、オスマン帝国からの独立を目指す動きが強まっていました。
第一次世界大戦が1914年に勃発すると、オスマン帝国はドイツなどの同盟国に加わり、イギリスと敵対関係になりました。一方、イギリスはオスマン帝国を弱体化させるため、様々な陰謀を画策しました。
「バルフォア宣言」パレスチナにユダヤ人の国を!
第一次世界大戦末期の1917年11月、英国はバルフォア宣言を通じてパレスチナに「ユダヤ人の国民の故郷」の建国を一方的に支持する姿勢を明らかにしました。
当時、ユダヤ人はパレスチナの人口の15パーセント未満を占めていましたが、この宣言は国際的な政治動向に大きな影響を及ぼしました。
宣言は非ユダヤ人コミュニティの「市民的および宗教的権利」を損なわないことを約束しましたが、これらのコミュニティの権利が具体的に何を含むのか、またその保護がどのように実現されるのかについての詳細は示されませんでした。
さらに、非ユダヤ人コミュニティの土地利用に対する考えや願望も、このプロセスにおいては充分には考慮されていなかったとされます。
英国の中東政策とその矛盾「三枚舌外交」
第一次世界大戦中、英国は複数の前線で政治的に活動しており、同時期に別の約束をしていました。
オスマン帝国からの独立を目指すアラブ民族主義者たちに対しては、メッカの太守であるフセイン・ビン・アリに対し、フセイン・マクマホン協定を通じてイギリスへの協力の見返りにアラブの独立を支持すると約束しました。
これは、アラブ民族主義者たちがオスマン帝国に対して反旗を翻す動機付けとなりました。
しかしながら、英国は同時にフランス・ロシアと秘密裏に「サイクス・ピコ協定」を結び、戦争終結後に中東地域を3国で分割支配することに合意していました。
これらの約束の矛盾は、後の中東地域の政治状況に深刻な影響を与え、特にパレスチナ地域においては、異なる民族や宗教コミュニティ間の紛争の火種となりました。
イギリスの委任統治時代
第一次世界大戦中、バルフォア宣言により、イギリスはユダヤ人に対し「パレスチナにおけるユダヤ人の国家の故郷」の樹立を支持すると表明しました。
しかし、戦後の地政学的再編において、イギリスはユダヤ人とアラブ人双方に対して行った約束を完全には守りませんでした。
新たに設立された国際連盟は、「サイクス・ピコ協定」に基づき、オスマン帝国の旧領土の一部を委任統治領としてイギリスとフランスに分配しました。
これによりイラクとパレスチナはイギリスの、レバノンとシリアはフランスの管理下に置かれました。一方、ロシアは1917年の革命によってこの協定から離脱しました。
多くのユダヤ人が裏切られたと感じながらも、パレスチナにユダヤ国家建国の夢を追い続けました。
その後、イギリスはパレスチナへの移民政策を採用、今後数十年にわたるユダヤ人移民を奨励しました。これが追い風となりこの期間に、10万人以上のユダヤ人がパレスチナに移住していきました。
ユダヤ人への迫害とナチス
ユダヤ人は長い間、ヨーロッパで迫害を受けてきましたが、1900年代初頭には反ユダヤ主義が特にヨーロッパ全体、特にドイツで激化しました。
1930年代には、反ユダヤ主義がナチスの公式政策となり、ナチス党がドイツ政府を掌握すると、ユダヤ人に対する弾圧が強化されました。
ナチスはユダヤ人をさまざまな職業から締め出し、ユダヤ人と「ドイツ人またはドイツ関連の血を持つ者」との結婚を禁止し、市民権の取得や生計の維持を妨げ、ユダヤ人の財産を没収しました。
ナチスの目的は、ユダヤ人を非常に困難な状況に追い込み、彼らを国外に追い出すことでした。1938年までに、ドイツ国内のユダヤ人の約4分の1が出国しました。
第二次世界大戦前に、ナチスはオーストリアを併合し、そこに住むユダヤ人もその支配下に置きました。
多くのユダヤ人は逃亡を希望しましたが、受け入れ先がほとんどなく、1938年には32カ国の代表者がフランスのエビアンでユダヤ人難民の第三国への受け入れについて話し合いましたが、多くの国が受け入れを拒否しました。
「パレスチナへ移住しよう」シオニズム運動
その中で、シオニスト(ユダヤ人国家建設を支持する運動の活動家)はパレスチナへの移住(シオニズム)を奨励し、シオニストたちはユダヤ人国家の建設を求める運動を長年にわたり展開してきました。
レスチナは宗教的、歴史的に重要な地域であり、多くのユダヤ人がそこに移住しました。これにより、パレスチナの地域における政治的な緊張が高まり、衝突が発生しました。
ホロコーストの生存者がパレスチナに移住
第二次世界大戦後、シオニズム運動は強化され、数万人のホロコースト生存者がパレスチナに移住し始めました。これはパレスチナ問題における一層の複雑化をもたらし、中東地域の政治的な紛争の要因の一つとなりました。
国連パレスチナ分割決議その後の争い
1947年、国連はパレスチナ問題に対する一つの解決策として、パレスチナをユダヤ人とアラブ人のための二つの独立した州に分割することを提案しました。
この計画ではエルサレム市は国際機関の管理下に置かれる特別地域とされました。しかし、この分割決議はアラブ住民や周辺アラブ諸国から不公平と受け止められ、強い反発を引き起こしました。
第二次世界大戦前後の時期は、シオニスト民兵による暴力行為が増加するなど、地域全体が極度の暴力に見舞われました。
パレスチナでイスラエルが建国を宣言
これらの状況を背景に、英国軍は1948年にパレスチナからの撤退を決定し、直後の1948年5月14日にはイスラエルが建国を宣言しました。
この出来事はアラブ・イスラエル紛争の勃発に繋がり、中東地域における長期的な緊張と衝突の始まりを告げるものとなりました。
パレスチナ分割決議は、当時の国際社会が抱えていた複雑な問題へのアプローチを示すものであり、今日に至るまでその影響は中東地域の政治的な状況に深く根ざしています。
「第一次中東戦争」
1948年5月15日、イスラエルの独立宣言を受けて、エジプト、イラク、ヨルダン、レバノン、シリアを含むアラブ諸国がイスラエルに対して戦争(第一次中東戦)を開始しました。
アメリカ合衆国はイスラエルの新暫定政府を速やかに承認しましたが、戦争そのものには軍事介入しませんでした。
戦争に勝利したイスラエルが、パレスチナの領土を拡大統治
戦争の結果、イスラエルは勝利し、国連がアラブ人に割り当てる予定だった土地を含む、元のパレスチナ委任統治領の大部分を獲得しました。
「ナクバ」忘れられない悲劇
この戦争の間、そしてそれに先立つ期間の民兵組織による攻撃により、パレスチナ人社会に大きな悲劇が生じました。パレスチナ人はこれを「ナクバ」と呼び、「大惨事」を意味します。
第一次中東戦争とガザ地区への難民の流入
戦争の結果、約1万5000人が命を落とし、住む場所を失った70万人以上のパレスチナ人が難民となり、多くの人々がガザ地区を含む近隣地域へと逃れました。
これにより、ガザ地区には大量の難民によって、人口は5倍に膨れ上がりました。
この人口急増は、ガザ地区の社会経済的な構造に深刻な影響を及ぼし、難民キャンプでの厳しい生活の始まりとなりました。
この出来事はパレスチナ人のアイデンティティと歴史認識に深く刻まれ、絶対に忘れてはいけない記憶として引き継がれていきました。
「ラボン事件」イスラエルの偽旗作戦の失敗
1954年にイスラエルはエジプトに対して秘密作戦「スザンナ作戦」を試みました。
この作戦ではイスラエルのエージェントがエジプト、アメリカ、イギリスの施設に爆弾を仕掛け、ムスリム同胞団の犯行に見せかける計画でした。
この目的は、英国にエジプトに留まるよう圧力をかけることであり、特にスエズ運河の英国撤退が交渉されている時期に、偽旗作戦により戦争の大義名分を作り出し、この地で紛争を引き起こすことでした。
しかし、この計画は失敗し、イスラエルのエージェントが捕らえられ、死刑または長期の懲役刑に処されました。この出来事は「ラボン事件」と呼ばれ、その後エジプトはイスラエルに対する軍事的な対策を強化していきました。
エジプトの軍事援助要請を米国と英国は拒否したため、エジプトはソ連に支援を求めました。
そして、1956年に西側諸国はエジプトのアスワン・ダム計画の資金提供を撤回すると、エジプトはスエズ運河を国有化で対抗、これによってスエズ危機が勃発しました。
「第二次中東戦争(スエズ危機)」
スエズ運河はエジプト北東部に位置する重要な人工水路で、ヨーロッパとアジアを結ぶ最短航路の一部として多くの船舶に利用されています。
この運河が利用できない場合、船はアフリカ大陸を大回りして喜望峰を通過しなければならず、これは時間とコストの大幅な増加を意味します。
エジプトによるスエズ運河の国有化宣言は、特にイギリスにとって大きな危機感を引き起こしました。
イギリスは長年にわたり運河の実質的な支配者であり、その地位を維持することは貿易と軍事戦略にとって不可欠でした。国有化によってイギリスが運河の使用権を失う可能性があったため、この動きを阻止する必要がありました。
フランスもイギリスと同じように運河に対する権益を持っており、この動きに危機感を抱いていました。
また当時のフランスはアルジェリアでの独立戦争に手を焼いており、アルジェリア側を支援しているとエジプトのナセル大統領が邪魔だと考えていました。
利益が一致した両国は、イスラエルと共にエジプトに対する軍事介入を計画。
1956年10月29日にイスラエルがシナイ半島に侵攻を開始、エジプトが撤退勧告を拒否すると、イギリスとフランスはスエズ地区に軍を派遣しエジプト国内への攻撃を開始しました。
結果、このスエズ危機はアメリカと国連の圧力により、侵攻軍の撤退に終わりました。
ナセル大統領は権力を維持し、エジプトとイスラエル間の緊張は続いたため、国連は平和維持軍を駐留させることで緊張緩和を図りましたが、根本的な和平条約は締結されませんでした。
「第三次中東戦争」
1967年に発生した第三次中東戦争、通称「六日間戦争」は、イスラエルとアラブ諸国間の緊張が爆発した戦争です。
この紛争は、イスラエルとアラブ諸国間の水利権を巡る対立と、エジプトによるティラン海峡の封鎖に端を発しました。海峡の封鎖はイスラエルの航海の自由を脅かし、戦争の引き金となりました。
シリアはゴラン高原での領土紛争を抱え、イスラエルへの攻撃を行うパレスチナゲリラを支援していました。
また、ヨルダンはエジプトと防衛協定を結び、アラブ諸国との団結を示し、過去の戦争で失った領土の回復を目指していました。
ガザ地区がイスラエルの占領下
戦争の結果、イスラエルはガザ、シナイ半島、ヨルダン川西岸、東エルサレム、ゴラン高原を占領し、地域における自国の地政学的地位を強化しました。
イスラエルはエジプトの空軍を地上で破壊し、空軍の優位性を確立することで、地上戦での優位を保ちました。
アメリカとイスラエルの蜜月
この戦争において、米国は中東におけるソ連の影響力拡大を深く懸念していました。
米国は、エジプトを含むこの地域でのソ連の存在が増すことに脅威を感じ、この戦争が冷戦の代理戦争へと発展することを恐れていたのです。
また、この時期の米国はベトナム戦争において軍事的、政治的資源を大きく消費しており、中東における直接的な軍事介入は困難な状況でした。
イスラエルはこの戦争に早期に決着をつけることで、米国にとって魅力的な同盟国としての地位を築くことになります。米国は共産主義の拡大を抑えることを外交政策の優先事項としていたため、イスラエルとの相性がよかったのです。
戦争終結後、米国とイスラエルの間の関係はさらに強化され、イスラエルは米国の緊密な同盟国としての地位を確立しました。
以降、中東政策においてイスラエルの後ろ盾に米国がいる形となり、両国間の軍事的、経済的な結びつきも強固なものになっていきました。
国連決議242とその後の中東の展開
戦争終結後の1967年11月に国連は決議242を採択しました。
この決議はイスラエルに対するアラブ諸国の脅威を終わらせ、平和に暮らす権利を確立すると共に、イスラエルによる占領地域からの撤退を求める内容でした。
エジプト、ヨルダン、そしてイスラエルはこの決議を受け入れたものの、完全な履行には至りませんでした。それにも関わらず、決議242は以降の数十年間の和平交渉の基礎となりました。
しかし、この決議はパレスチナ武装勢力には受け入れがたいものでした。
武装勢力はその後の10年間でイスラエルに対するテロ行為を展開し、国際的な注目を集める事件を引き起こしました。その中には、1972年のミュンヘンオリンピックでの「黒い九月」によるイスラエル選手団への攻撃があります。
一方、イスラエル側も撤退せず、占領地域において支配的な軍事力を維持しました。
この頃の、イスラエル占領下のガザ地区では、パレスチナ人の基本的人権が侵害され、社会や経済の発展が大きく阻害されていました。
特に難民キャンプでは、基本的な生活インフラの整備がなされず、住民は劣悪な条件の下で生活を余儀なくされました。
「ヨム・キプール戦争」
1973年10月6日、エジプトとシリアはイスラエルに対して同時奇襲攻撃を開始しました。
この攻撃は、イスラエルが占領していたシナイ半島とゴラン高原を返還させるため、交渉のテーブルに着かせることを目的としていました。
ヨム・キプールの日に行われたため、この紛争はヨム・キプール戦争と呼ばれています。
イスラエルにとっては、六日間戦争での圧倒的な勝利からほどなくして起こったこの攻撃は、準備不足の中で迎えた予期せぬ衝撃でした。
イスラエルが軍需品を急速に消耗した後、米国はイスラエルに対して物資と装備の支援を行いました。
これはソ連がエジプトとシリアに対して補給を行っているとの情報があり、米国の関与を促す要因となり、数週間の戦闘の後、国連の仲介で停戦が成立しました。
しかし、エジプトとイスラエルが永続的な平和に到達したのは、1978年のキャンプ・デービッド合意を経てのことでした。
当時の米国大統領ジミー・カーターの支援のもと、この合意によって両国は平和条約に署名し、イスラエルはシナイ半島からの撤退を行い、エジプトはスエズ運河をイスラエル船舶に開放しました。
「入植地」イスラエルが領土を拡大
1970年代に入り、イスラエルはガザ地区とヨルダン川西岸に「入植地」の建設を進めました。
この政策は1990年代までには25万人を超えるユダヤ人がこれらの地域に居住し、パレスチナ人社会に大きな緊張と危機感をもたらすことになります
この頃、イスラエルはヨルダン川沿いに緩衝地帯を設け、パレスチナ人の土地利用や水資源のアクセスを制限しました。これにより、パレスチナ人は自らの土地での農業活動を行うことが困難になりました。
緩衝地帯の設定
1979年、エジプトはアラブの国と帝初めてイスラエルと平和条約の締結、この条約はガザ地区においても大きな影響を及ぼしました。
特に、ガザとエジプトの間に設けられた「フィラデルフィア・ルート(緩衝地帯)は、長さ約20kmに及び、ガザ地区のラファとエジプト領を結ぶ重要な交通路となっています。
このルートにあるラファ検問所は、ガザ地区への支援物資の主要な入口となっており、国際社会からの人道支援にとって不可欠な存在になっています。
しかし、フィラデルフィア・ルートは、武器の密輸経路としても利用されることがあり、イスラエル軍による厳重な監視が行われています。
レバノンにおけるPLOの影響とイスラエルの軍事介入
1980年代、パレスチナ解放機構(PLO)はレバノン国境沿いでイスラエル軍との銃撃戦に関与するパレスチナ民族主義者の連合でした。
PLOはレバノンをパレスチナ亡命者の拠点として活用していましたが、レバノン政府とは無関係の存在でした。
1982年、PLO内の過激派グループであるアブ・ニダル・グループが駐英イスラエル大使の暗殺未遂を企てました。
これを受けて、イスラエルはレバノンからのPLOの排除を目的とした軍事作戦を実行し、レバノン南部への侵攻を開始しました。
その結果、ベイルートは長期にわたる包囲攻撃に見舞われ、市民に多くの犠牲者が出ました。
特に国際社会から強い非難を受けたのは、イスラエル軍によるベイルートのサブラとシャティーラ難民キャンプの包囲と、そこで起きたキリスト教民兵による何百人もの民間人が犠牲になった虐殺事件でした。
1983年にアメリカの仲介により戦争は正式に終結し、PLOはチュニジアへの移転を余儀なくされましたが、レバノンは引き続き不安定な状態にありました。
同年に起きたアメリカとフランスの平和維持軍を狙ったベイルート兵舎爆破事件の後、西側諸国の軍は撤退しました。
イスラエルも1985年からレバノンからの段階的な撤退を開始し、安全地帯を設けて長期にわたり影響力を保持しましたが、この地域はヒズボラによる抵抗活動の中心地となりました。
「第一次インティファーダ」難民キャンプの怒り
1987年、レバノン戦争の余波、新たなイスラエルの入植地建設、そしてイスラエル治安部隊によるヨルダン川西岸とガザでの弾圧の増加が、パレスチナ人の不満を募らせ、最終的に「第一次インティファーダ(蜂起)」と呼ばれる抵抗運動に火をつけました。
この運動はガザ地区の難民キャンプから始まり、デモ、ストライキ、子どもたちによる投石、イスラエル製品の不買運動といった形で、占領下での困難な生活状況を世界に向けて訴えました。
「オスロ合意」イスラエル軍の占領が終了、和平の道が開かれる
インティファーダはイスラエル治安部隊との暴力的な対立に発展し、1990年代初頭まで続いたこの衝突で約2,000人が命を落としました。
この衝突受けて、米国をはじめとする国際社会の支援を受け、イスラエルとパレスチナの指導者たちは紛争の平和的な終結に向けた交渉を開始しました。
1991年にはマドリッド和平会議が開催され、米国とソ連の主導のもと、イスラエルとアラブ諸国の代表が集まり、和平プロセスのための枠組み作りの交渉が行われました。
1992年、イスラエルのイツハク・ラビン首相はガザ地区の未来について憂慮を表明し、「ガザが海に沈むことを望む」という比喩を用いながらも、実際には持続可能な解決策を見出さなければならないという意志を示しました。
これはイスラエル政府がガザ地区の問題を無視することはできないという現実を受け入れた重要な瞬間でした。
「オスロ合意」イスラエルがガザヨルダン川西岸から撤退
その後の1993年、歴史的な「オスロ合意」がイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の間で調印されました。この合意により、イスラエルはガザ地区とヨルダン川西岸地区から治安部隊の撤退に同意しました。
一方、PLOはイスラエル国家と国民の平和的な共存の権利を認めることになりました。
1994年5月、オスロ合意の実施に基づき、イスラエルは政府権限をパレスチナ人に段階的に移譲し、ガザ地区とヨルダン川西岸地区の一部をパレスチナ自治区として認識するようになりました。
イスラエル軍はガザ市を含む都市部から撤退し、パレスチナ自治政府が管理と警察業務を引き継ぎました。これはパレスチナ人による自己統治の実現への重要な一歩と見なされました。
パレスチナ自治政府の設立
その後、ヤセル・アラファト大統領率いるパレスチナ自治政府は、ガザ市を国家本部として選び、自治区の中心としました。
この行動は、ガザ地区の政治的および管理上の重要性を強調するとともに、パレスチナの国家としてのアイデンティティを確立する試みでした。
「オスロ合意 II」パレスチナ自治政府の自治が拡大
1995年9月には、イスラエルとパレスチナ解放機によって「オスロ合意II」に署名されえました。これによりパレスチナ自治区はヨルダン川西岸のほとんどの町に拡大されました。
この協定は、パレスチナ自治政府による自己統治範囲の拡大と、より広範な自治を実現するための重要なステップでした。
順調に和平の道を歩むように見えましたが、オスロ合意は、イスラエル・パレスチナ紛争を5年以内に二国家解決に向けた準備を整えるはずだった。
しかし、その解決策は決して実現しませんでした。
パレスチナ自治区の境界に壁を建設開始
1994年から1996年にかけて、イスラエルの治安を強化する目的でパレスチナ自治区との境界に物理的な壁を設けました。
これは、両地域間の緊張を象徴するとともに、パレスチナ側からの攻撃に対する防衛策とされました。
「第二次インティファーダ」イスラムの聖地に乗り込んだことへの怒り
2000年のキャンプデービット会議は、パレスチナのヤーセル・アラファト議長とイスラエルのエフード・バラク首相との間で行われ、和平に向けた大きな期待を集めましたが、決裂に終わり、パレスチナ人に大きな失望をもたらしました。
この会議の失敗は、イスラエルとパレスチナの間で長期にわたる紛争解決に向けた進展がないという事実を象徴する出来事になったのです。
同年9月にはイスラエルの右派アリエル・シャロンが、武装した警察を引き連れ、エルサレムにあるイスラム教聖地「アルアクサ.モスク」へ訪問したことがパレスチナ人の逆鱗に触れ、抵抗運動「第二次インティファーダ」が勃発しました。
和平への道が頓挫
当初、第二次インティファーダは、パレスチナ人による平和的な抗議活動として始まりましたが、イスラエルの治安部隊がゴム弾や実弾を使用し、戦車やヘリコプターを投入するなどの強硬な対応をとったため、暴力的な抵抗に発展しました。
2002年4月には、イスラエルはパレスチナ自治区に対して前例のない規模の武力攻撃を開始し、戦車や戦闘機を大量に投入しました。イスラエル軍はガザとヨルダン川西岸への再び侵入しました。
パレスチナ側も自爆攻撃やその他の武力行使により対抗し、この相互の暴力は両地域間の緊張と敵意を悪化させました。抗議活動は国際的に認められたイスラエル国境内での自爆テロや銃撃にまでエスカレートしました。
2003年に停戦が宣言されるまでに、4,300人以上が死亡し、その大多数がパレスチナ人でした。
インティファーダは数十億ドルの経済的損害を引き起こし、この期間に試みられたミッチェル報告書、テネット計画、和平へのロードマップなどの和平交渉の試みはすべて失敗に終わりました。
壁が破壊され、緩衝地帯がさらに拡大
第二次インティファーダの激しい衝突期間中、イスラエルによって建設された防衛壁の多くが破壊されました。
これらの壁は、イスラエルがパレスチナからの攻撃に対する自国の安全を図るために建設したものでしたが、パレスチナ人による破壊活動は、彼らの抵抗の象徴として祝されました。
さらなる安全対策として、イスラエルはガザ地区に設置されていた緩衝地帯を、当初の50メートルから150メートルに拡張しました。
この措置は、イスラエル領内へのロケット攻撃や潜入を阻止するためのもので、イスラエルとガザ地区の境界線における緊張を一層高める結果となりました。
国際社会から非難が集中
イスラエルによる軍事攻撃は、多くの非武装市民の死傷者を出す結果となりました。
この軍事行動は、パレスチナ社会における人道的、社会的な危機をさらに深刻化させ、国際社会からの強い非難を招きました。
「ヨルダン川西岸」に壁を建設
2002年以降、イスラエルは「安全を確保する」という名目でヨルダン川西岸に壁を建設を開始しました。
この壁は、西岸とイスラエルを隔てるコンクリートや鉄条網の壁で、パレスチナ人の日常生活に重大な影響を与えています。
この壁は1949年の停戦ラインを越えて建設され、ユダヤ人入植地や専用ハイウェイを含む形で進められました。
これにより、パレスチナ自治区は飛び地状態となり、多くの村や町が分断され、日常生活に必要な施設へのアクセスが制限されました。
国際司法裁判所の裁定
国際司法裁判所は、隔離壁がパレスチナの自治権を侵害し、生活圏を分断するものであり、国際法に違反するとの裁定を下しました。
しかし、イスラエルはこの裁定を無視し、壁の建設を続行しました。この壁によって西岸は周囲を取り囲まれる形となり、住民の自由な移動が大きく制限される結果となりました。
ガザでの過酷な経済状況
この困難な状況の中で、ガザの経済は一部のパレスチナ人がイスラエルでの3K(きつい、汚い、危険)労働に従事することや、イスラエル軍が管轄する工業団地での就業を許可されることにより支えられていました。
しかし、この経済的依存は、イスラエルの政策に逆らうことができないという状況を生み、パレスチナ人の雇用とガザの経済はイスラエルの影響下に置かれてしまいました。
つまり、イスラエルに対する協力が途絶えれば、失業率は急激に上昇し、ガザの経済は破綻の危機に瀕する可能性があったのです。
イスラエルがガザから撤退
2001年に首相に就任したアリエル・シャロンは、当初武力を用いた強硬な姿勢でパレスチナ人との対立に対処していました。
しかし、2005年に彼の政府はガザ地区からイスラエルの入植者と軍隊を完全に撤退させるという歴史的な決定を行いました。
この一方的な撤退計画には、約8,500人のイスラエル人入植者の移動が含まれ、多くは補償を受けましたが、中には抵抗を続けた人々もいました。
イスラエルはガザの支配権をマフムード・アッバス大統領が率いるパレスチナ自治政府に譲渡し、ヨルダン川西岸の入植地4か所も明け渡しました。
撤退の主な目的は、イスラエルの安全性を向上させ、持続可能な平和の基盤を築くことでした。イスラエル政府は、この措置が紛争を緩和し、実質的な和平交渉を可能にすると考えていました。
しかし、この撤退は紛争の根本的な解決にはつながらず、その後も緊張と暴力が続く中東の複雑な状況において、和平への道は依然として遠いものでした。
イスラエルによる封鎖と経済的影響
ガザ地区からのイスラエルの撤退後も、イスラエルはガザ地区の国境に軍を配置し、人や物資の出入りを厳しく制限しました。
エジプトとの国境も長らくイスラエルが管理しており、パレスチナ人の自由な行き来は制約されていました。この封鎖は安全保障を理由に行われていますが、その結果、ガザ地区の経済と住民の生活に深刻な影響を及ぼしました。
物資の流通が制限された結果、ガザ地区では燃料、食料、日用品、医療品などが慢性的に不足し、これが地域経済の停滞と生産活動の妨害につながりました。
多くの住民は、生活を維持するために国連や支援団体からの援助物資に依存する状況となりました。
さらに、イスラエルを通しての援助物資だけでなく、エジプトからの援助物資もイスラエル側との調整なしには届けられない状況でした。
最低限の生活必需品ですら、あるかないかの深刻な状況になっていました。
【ガザの歴史(2)】ハマスの実効支配から激化するイスラエルとの対立