地球温暖化、気候変動、人口増加、農業生産性の低下、水不足、飢餓や貧困など、様々な要因が絡み合い、現代社会が直面する最も深刻な問題の一つが、食糧危機です。この中で、減反政策は市場価格を安定化するため、主に穀物の生産量を制限しますが、その制限によって食糧供給量が減少し、食糧危機を加速する可能性があります。
この記事では、食糧危機と減反政策について、その原因と影響について深く考察していきます。食糧危機は、私たちが直面する最も深刻な問題の一つであり、その解決には、食糧供給の増加や栄養価の高い食品の提供など、多角的なアプローチが必要です。一方、減反政策によって引き起こされる問題についても、その解決策を考える必要があります。私たちは、食糧危機を解決するために、減反政策を含め、多様なアプローチを用いて取り組むことが不可欠です。
【食糧危機③】日本人が知らなかった、植民地で生産された美味しいお米
The Modern History of Rice in Japan
「お米が食べたい…」戦前・戦後の日本における食糧事情
戦時中の日本では食糧が非常に不足しており、今とは比べられないほどの食糧難がありました。戦争で働く男性が減り、農作物も少なくなった結果、国内の人々には1日分のお米の量が決められていました。
戦争が長く続くと食料はさらに減り、玄米が配られるようになりました。玄米は容器に入れ、棒を使ってぬかを取り除いて白米にしていました。
戦後、食糧難を克服するために、食糧増産に力が入れられ、収穫量が大幅に増え、米が余るようになりました。飢餓に苦しんだ戦中・戦後の日本国民は、十分な食糧を生産してもらいたいと願っていたのです。
第一次世界大戦の好景気でお米が高値に!
第一次世界大戦が1914年に始まったことで、日本の国民生活に大きな変化がありました。大戦中、輸出が増加し、物価が上昇しました。特に農村でお米の価格が高くなり、地主層は好景気を享受しました。一方で、土地のない人々は都市へ移り、労働者として働くことが増えました。その結果、東京などの大都市の人口が急増しました。
1918年に政府がシベリア出兵を決定したことで、投機による米の買い占めが発生し、米価が急上昇しました。同年8月、富山県の漁民や主婦らが米の移出禁止と安売りを求めて行動を起こし、米騒動が始まりました。騒動は新聞報道などで全国に広がり、警察や軍隊が出動して鎮圧しました。
お米の投機に国民がキレる「1918年米騒動」
1918年には政府がシベリア出兵を決定したことで、投機による米の買い占めが発生し、米価が急上昇しました。同年8月、富山県の漁民や主婦らが米の移出禁止と安売りを求めて行動を起こし、米騒動が始まりました。
当時、米の売買は自由で、東京の深川と大阪の堂島に米の取引所があり、米相場が設定され、投機も行われていました。騒動は新聞報道などで全国に広がり、警察や軍隊が出動して鎮圧しました。
この米騒動をきっかけに1921年には米穀法が制定されます
米騒動を受けて国が間接的にお米を統制「米穀法・米穀統制法」
1921年に制定された「米穀法」は、日本政府が食糧流通に介入するきっかけとなりました。
この法律は、第一次世界大戦後の不安定な経済状況や米価の変動を受けて、農家の生活安定を図るために作られました。
政府はこの法律によって、米の生産・流通・価格に関する規制を設け、市場に介入することができるようにな、米価の急激な変動が抑制され、農家や消費者に対する安定した供給が期待されました。この法律は、後の日本の食糧政策の基礎となりました。
そして、昭和農業恐慌が激化した1933年には、米穀統制法によって統制がさらに強化されました。
戦争の時代…。国は戦時体制の元で経済統制が強化
日中戦争の勃発を受けて、日本は戦時体制に移行しました。昭和13年(1938)4月に公布された「国家総動員法」は、日本の全ての経済活動と国民生活を戦争遂行に集中させるために制定されました。
この法律によって、国家による経済統制が強化され、あらゆる産業や資源が戦争に利用されることとなりました。
国家総動員法のもとで、消費物資の統制が強化され、国民は食糧や衣料、燃料などの配給制度や、物資の統制によって耐乏生活を余儀なくされました。また、労働力も戦争遂行のために徴用され、国民全体が戦争のために働かされる状況となりました。
お米や生活物資は国から配給「配給制度」
太平洋戦争直前11941年4月から始まった配給制度は、太平洋戦争中の日本で物資不足に対処するための政策でした。家族の人数に応じて切符が交付され、物資が渡される仕組みで、お米やお酒、マッチ、木炭や石炭、衣料などが対象でした。
戦争が始まると物資不足が深刻化し、お米の配給でも麦や豆が混ざり、お米自体も玄米に近いものになりました。衣類も世帯単位で配られる切符と引き換えに商品を購入する仕組みでしたが、一度に手に入る量は限られ、回数も十分ではありませんでした。
戦時中の物資不足は、配給制度を通じてしか入手できない状況を生み出しました。終戦後もしばらくの間、物資不足が続いていました。
お米農家も飢えた最悪の時代
1944年(昭和19年)には、戦争の激化に伴い、日本の食糧事情は一層厳しくなりました。政府は、収穫前に作付面積に応じて供出が決められる制度を導入し、農家は決められた量の米を供出しなければなりませんでした。
不作の年でも、供出分の米を確保しなければならないため、農家にとっては非常に厳しい状況でした。
戦時中の日本は、農家であっても十分な米を確保することが難しく、農家以外の家庭も十分な米の配給を受けられない深刻な食糧不足の時代でした。このため、国民は雑穀や麦などを用いて食事を工夫し、飢餓と闘いながら生活していました。
味よりも量!!お米は国の統制化で増産体制「食糧管理法」
戦時中の食糧難時代である1942年に、「食糧管理法」が制定されました。これにより、従来の米穀統制法が廃止され、コメを中心とする主要食糧が政府の直接統制下に置かれました。戦争の影響で食糧不足が深刻化していたため、農家に主食生産に集中させ、生産量を増やすことが急務となりました。
この時代は、味や質よりも収穫量が重視され、とにかく多くの米を生産することが最優先事項でした。
国が生産者から米を購入 → 国民に安く売る「政府米」
米は原則として国が保有米(自家用米)を除く全量を買い上げ、それよりも安い価格で国民に米を売る「逆ザヤ」の時代が始まりました。赤字補填は税金で行われ、国に買い上げられた政府米は「標準米」や「徳用米」などの名称で流通しました。米の品種や生産地は消費者には分からず、手に入る米があるだけでありがたい時代でした。
配給を受けるためには通帳が必要「米穀配給通帳」
この厳しい状況を受けて、政府は食糧管理法を制定し、米穀配給通帳が各戸に配られました。これにより、米や麦類を自由に買うことができなくなり、配給制度が厳しく実施されました。
終戦の焼け野原の中で国民は飢えた
戦争が終わった後、海外から引き揚げてきた兵士や庶民が直面したのは、極度の食料不足と焼け野原でした。さらに1945年(昭和20年)には、米の収穫量が大きく落ち込み、明治以来の大凶作が発生しました。物資は圧倒的に不足し、人々は食料や生活必需品を求めて闇市に殺到しました。仕事もなく、町には失業者や孤児があふれました。
お米は貴重品
戦時中や戦後直後の日本では、食糧不足が深刻で、真っ白なご飯を食べることができるのは特別な祝い事の日だけでした。日常的には、お米に麦を2、3割混ぜたご飯が食べられるのが良い方でした。また、「おじや」や「すいとん」といった簡素な食べ物が主流でした。
「おじや」は、一握りのお米に野菜や芋を加えて煮込んだおかゆで、食材の量を増やす目的で作られました。「すいとん」はメリケン粉に水を加えて練った団子と野菜の切れ端が入ったスープで、これだけではすぐにお腹が空くため、干し芋や豆などで空腹を満たすことが一般的でした。
サツマイモが豊作だった時期には、連日サツマイモを食べることになりました。蒸かした芋、干し芋、芋ご飯、芋入りパンなど、さまざまな調理法でサツマイモを食べました。朝も昼も晩もサツマイモが主食でしたが、背に腹はかえられない状況でした。
お米があまる!?復興後にお米の収穫量も増加!
戦後の日本は荒廃した国土を復興し、工業の発展とともに農業も進歩しました。農業水利の改良や新しい栽培技術の展開などによりお米の収量水準が向上し、機械化の普及とともに水田経営も規模拡大の方向に進んでいきました。
戦後20年が経ってから、つまり1965年頃からは日本人が本当の意味でお米をいつでも食べられるようになりましたが、この頃から日本人の食生活が変化し始め、パンや麺類など、お米以外の食品も日常的に食べられるようになりました。その結果、お米の消費が減少し、米が余るようになったと言われています。
貧しさは昔?お米の量より味が求められる!「自主流通米制度」
1960年代までの日本では、米の自給を目標として国が米の生産と流通を管理し、安定して多くの収穫量を得られる品種が優先して栽培されていました。しかし、1967年に米の自給が達成されると、状況は一変しました。消費者の良質米に対する要求が高まるなどの背景から、1969年に自主流通米制度が発足し、米の民間流通への道が開かれました。
自主流通米制度の開始により、品質の良い米が高値で取引されるようになりました。これによって、消費者のニーズも変化し、米の品種や産地を選び、質の良いものを求める方向へと移りました。
美味しい“ブランド米”が続々と誕生!!
日本各地で新品種の開発が進み、ブランド米が次々と誕生したことで、消費者においしいお米を提供することが可能になりました。1950年代から1960年代にかけてハツシモ、コシヒカリ、ササニシキ、日本晴などのブランド米が登場し、お米の品質が向上しました。
また、ブランド米の普及を通じて、地域の名産品としての評価も向上し、地域経済にも貢献しました。ブランド米の普及により、消費者は自由にお米を選べるようになり、日本の食文化にも多様性が生まれました。
「ササニシキ」西のササニシキ・東のコシヒカリ
「ササニシキ」というお米は、宮城県で育成された品種で、東北地方で主に栽培されました。当初は品質や風味が評価され、自主流通米の流通量の大半を占めていましたが、コシヒカリの登場によりシェアが低下しました。ササニシキの栽培には倒れやすい性質や気温による品質低下のリスクがあったため、農家の収入が減ることもありました。
一方、コシヒカリはねばりが強く、消費者に好まれたため、日本全国で栽培されるようになり、ササニシキの地域性も薄れました。現在では、コシヒカリが日本全国で主流のお米となっています。
「日本晴」かつては日本一栽培されていたブランド米
「日本晴」というお米は、1963年に愛知県総合農業試験場で開発され、1970年から1978年にかけて日本の作付面積の第一位を占めました。栽培が容易で多収性に優れていたため、南の地方向けに開発され、愛知県をはじめ全国で広く栽培されました。
また、「くき」が強く、病気にも強い性質がありました。しかし、コシヒカリなど味の良いお米の登場や各県で次々と味の良い新品種が開発されたことで、日本晴の栽培面積は減少しました。
「コシヒカリ」お米の王様
「コシヒカリ」は、1944年に新潟県で農林22号と農林1号の交配が行われ、戦時中の人手不足により育成は中断されましたが、1946年に再開され、福井県農業試験場で「越南17号」という品種が誕生しました。
その後、全国22県で試験栽培が始められ、欠点を克服するための新しい栽培方法も検討されました。1956年に品種登録され、「コシヒカリ」と命名されました。1979年から作付面積1位を維持し、おいしいお米の基準とされるほどの地位を築いています。
「ハツシモ」幻のお米!?
「ハツシモ」は、1935年頃から岐阜県の美濃地方で栽培が開始されたお米の品種で、1996年には病気に強い「ハツシモ岐阜SL」が誕生しました。
岐阜県内では広く栽培され、多くの家庭で食べられていますが、県外では栽培がほとんどされておらず、希少性が高く幻の名産品と呼ばれています。そのため、岐阜県の特産品として親しまれ、旅行や贈答品としても人気があります。
生産者は政府は通さず“特定の業者”に販売OK!
自主流通米制度は、政府米と同様に国による需給管理の対象ではあったものの、流通ルートについては政府を経由せず、集荷業者から直接卸売業者などに販売することが可能になりました。これにより、より多様な品種や産地の米が消費者に届くようになり、市場における競争が促進されました。
品質や産地によってお米の価格が変動!
また、自主流通米の価格については、当初は政府米価格の動向を基に、JA全農等指定法人と全国卸売販売団体との交渉によって決定されていました。
しかし、1990年産米からは自主流通米価格形成機構(現コメ価格形成センター)での入札取引が導入されました。この自主流通米入札取引により、産地・銘柄別に需給動向や品質評価を反映した価格形成が行われるようになりました。
このような変化により、自主流通米の市場はより透明性が高まり、消費者のニーズに応じた品質の高い米が提供されるようになりました。また、生産者にとっても、品質や銘柄によって価格が適切に評価されることで、より良い品種の開発や品質向上に取り組むインセンティブが生まれました。
通帳があればどこでもお米が購入可能!
戦時中の配給制度の名残で、法的には通帳(米穀通帳)を持参しないと米を購入することができなかったのですが、自主流通米制度の新設や物価統制令からの米の適用除外が進んだことで、指定米穀店以外の場所(例えばスーパーマーケット)でも米が購入できるようになりました。
この結果、都市部を中心に米穀通帳の存在そのものがほとんど知られなくなっていた時期もありました。実際に、農林水産大臣までもが米穀通帳なしで米の購入をしている事実が明らかとなり、国会で問題となるほどでした。
このような状況が米市場の変化を象徴しており、自主流通米制度がもたらした市場の自由化や、消費者の選択肢の拡大が顕著になっていた時期であったと言えます。
お米を作るのを減らして価格を維持「減反政策」
日本政府は、米の生産量が消費量を上回ることに対処するため、減反政策を導入しました。1960年代に試験的に開始され、1971年に本格的に実施されました。
戦後の食料管理制度下で、政府はコメを国民の基本的な食料として位置付け、税金での買い取りを前提に農家に増産を促しました。
その結果、1960年には150キロ当たり10,405円だった生産者米価が、1968年には20,640円に上昇し、1969年には日本の農家だけでコメの自給が可能になりました。これにより、自給率100%が達成されました。
しかし、その後の食生活の変化やコメ消費の減少に伴い、政府は方針を転換。農家にコメの作付面積を減らし、代わりに別の作物を生産するよう促し、その取り組みに対して助成金を支払うことを提案しました、これが減反政策です。
減反政策は1960年代に試験的に開始され、1971年に本格的に実施されました。
配給制度が廃止!同時に通帳の発行も廃止「改正食糧管理法」
1982年(昭和57年)1月に改正食糧管理法が施行され、通常時の厳格な配給制度が廃止され、自主流通制度が法定化されました。この変更に伴い、米穀通帳の発行が廃止され、40年間続いたその歴史に終止符が打たれました。これにより、米の購入や販売が自由化され、消費者や事業者にとって取引が容易になりました。
外国から米を輸入するきっかけ①「ウルグアイ・ラウンド」
日本の食糧管理制度により、国内の米価は世界でも非常に高い水準に保たれていました。当時、日本では外国産米の輸入が許可されておらず、安価な外国産米が国内市場に流入しなかったため、価格競争が存在しませんでした。しかし、アメリカなどの諸外国は日本のこの姿勢を批判し、米の輸入を認めるよう要求しました。
1993年の米不足騒動では、日本は緊急事態としてタイ、中国、アメリカなどから米を輸入することになりました。これにより、米の輸入を完全に避けることは不可能となりました。そして、ガット・ウルグアイ・ラウンド(世界貿易機関の前身である一連の多国間貿易交渉)をきっかけに、日本はついに外国産米の輸入を認めることになりました。これにより、国際市場の競争にさらされることになり、国内の米市場が徐々に変化していくことになりました。
ウルグアイ・ラウンド交渉の妥協案「ミニマムアクセス米」
ミニマム・アクセス米とは、1993年のGATTウルグアイ・ラウンド農業合意によって日本が最低限輸入しなければならない量の外国産米です。「ミニマム・アクセス」は「輸入義務」を意味します。
この交渉では、日本にとって最も関心があったのは米の関税化でした。日本は多くのミニマム・アクセス米を認めることで関税化を回避しました。
ミニマム・アクセス米の輸入量は、1995年度の初年度には426,000トン(玄米ベース)でしたが、2000年度には852,000トンに増加しました。
しかし、ミニマム・アクセス米は輸出国にとって「努力なしに売れる保証」となり、国産米の在庫量がさらに増加しました。1998年10月末の在庫は344万トンで、適正在庫(150万~200万トン)を大幅に上回っていました。
ただし、ミニマム・アクセス米は加工や飼料用に限定され、主食用には流通させられないため、在庫が年々増加しています。消化しきれない状態で、海外への援助米として提供することが主な方法となっています。
外国から米を輸入するきっかけ②「1993年米騒動」
1993年の米不足は、日本がお米を外国から輸入するきっかけとなりました。その年、梅雨前線が長く日本に留まり、冷夏となったことでお米の収穫量が大幅に減少しました。消費者と卸売業者の混乱により、お米が店頭から消える事態が発生しました。
この事態に政府が世界各国からお米の緊急輸入を決定!
日本政府は、1993年9月に緊急輸入を決定し、11月にはタイからうるち米が輸入されました。翌年には、中国、アメリカ、オーストラリアからも米が輸入されましたが、輸入米の多くがインディカ米だった。
日本では主にジャポニカ米が食べられており、インディカ米とは味や食感が異なります。そのため、「こんなもんが食えるか!」と文句を言う人も中にはいました。結果として、約98万トンの輸入米が売れ残りました。
この経験から、日本では食育の重要性が再認識され、充実が求められるようになりました。翌年、1994年にはラニーニャ現象が発生し、猛暑となり、大豊作をもたらし、「1993年米騒動」は解消されました。
食糧管理法が廃止!お米の流通競争が激化「 食糧法」
1995年の食糧法制定により、コメの生産や流通に関する政府の規制が大幅に緩和され、市場原理が導入されました。これにより、計画外流通米(ヤミ米)が公式に認められるようになりました。また、これに伴って卸売や小売業者の新規参入が増え、コメ市場において激しい競争が始まりました。
この競争により、コメ業界では効率化やサービスの向上が求められるようになり、消費者にとっては選択肢が増え、価格が下がるというメリットが生まれました。しかし、一方で、農家や地域の経済に対する影響も懸念されました。
“自主流通米”と“政府米”は自由に販売OK!「計画流通制度」
995年の新食糧法施行により、計画流通制度が発足し、コメの流通が大きく変わりました。これにより、コメは計画流通米と計画外流通米に区分されました。
計画流通米には自主流通米と政府米が含まれます。自主流通米は生産者や流通業者が取引する米で、政府米は政府が関与する米です。
新制度により、これらの米については多様な流通ルートが認められ、業者間の取引も基本的に自由化されました。また、出荷取扱業者や販売業者は許可制から登録制に変更され、新規参入が容易になりました。
それ以外のお米は届出をすれば販売可能
一方、計画外流通米は、生産者が事前に販売数量を届け出ることで自由な販売が認められるようになりました。これにより、生産者は独自の販売戦略を立てることが可能になり、市場に新たな価値を提供できるようになりました。
政府は“減反政策”を使ってお米の価格を維持
新食糧法が施行され減反政策が必要なくなったと思いきや、廃止はされなかった。
減反政策が続行された主な理由は、高い米価を維持するためでした。政府買い入れ制度がなくなったことで、食糧管理制度の政府買入れ米価が消滅しました。この結果、政府は減反政策を利用して、米価を安定させることを目指しました。
減反政策によって、コメの生産量を調整することができ、需要と供給のバランスを維持することができます。この政策があることで、市場に出回るコメの量が制限され、米価が高止まりし続けることが期待されました。
ミニマムアクセスに耐えれない…。「お米の関税化」
日本政府はミニマムアクセス米の輸入圧力が大きく、不利と判断し、1999年に自主的に関税化に移行しました。これにより、関税率を非常に高く設定し、輸入を実質的に抑制できました。
生産者は全てのお米を自由に販売してOK!「改正食糧法」
2004年に改正食糧法が施行され、競争原理の導入をさらに進めることを目指しました。これにより、政府が主導する生産調整が廃止され、農業団体が主体となって決定する方式に変更されました。生産側では、売れるコメ作りが重要となり、前年の販売実績を加味して生産量が配分されるようになりました。
計画流通制度が廃止
また、「計画流通制度」も廃止され、計画流通米と計画外流通米の区別がなくなりました。代わりに「検査米」と「未検査米」で区別するようになり、出荷や卸、小売の登録制が廃止され、届け出制となりました。これにより、コメも一般食品同様、自由販売が可能な商品となりました。
生き残りをかけた競争時代に突入「減反政策が廃止」
2018年から減反政策が廃止され、農家自身がコメ生産を判断する自由競争時代が始まりました。減反廃止と減反補助金の廃止により、海外と競争できる美味しくて安いコメの生産が期待されています。
補助金が廃止されることで、小規模な農家が農地を貸し出すことが考えられます。その結果、大規模な農業経営を行う企業や農家に農地が集まり、効率的にコメが収穫できると期待されています。
生産コストを現在の4割下げる目標が掲げられており、品質を維持しながら低価格なコメを提供できれば、海外と競争する力を持つとされています。
【食糧危機⑤】荒れる農地、消える田園風景、日本農業崩壊