【食糧危機③】日本人が知らなかった、植民地で生産された美味しいお米

食糧不足や食料自給率向上という問題は、日本の歴史の中でも重要な要素の一つでした。特に、植民地米が日本の食糧事情に大きな影響を与えたことは見逃せません。

この記事では、戦前の朝鮮半島での日本米栽培や、戦時中の朝鮮や台湾からの食糧輸送、そして戦後の食料自給率向上の取り組みなど、植民地米が日本の食糧事情に与えた影響を探っていきます。

【食糧危機②】江戸時代の食料危機、食料自給率100%でも起こる現実と向き合う
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徹底した規制緩和で、食料関連の市場規模はこの30年で1・5倍に膨らむ一方、食料自給率は38%まで低下。農家の総収入は13・5兆円から10・5兆円へと減少し、低賃金に、農業従事者の高齢化と慢性的な担い手不足もあいまって、?農業消滅?が現実のものになろうとしている。人口増加による食料需要の増大や気候変動による生産量の減少で、世界的に食料の価格が高騰し、輸出制限が懸念されるなか、日本は食の安全保障を確立することができるのか。農政の実態を明かし、私たちの未来を守るための展望を論じる。(「Books」出版書誌データベースより)

The MEIJI period

明治時代「飢饉を減らすため!海外からお米を輸入」

4th of July in Yokohama

1853年、アメリカのペリー艦隊が日本に開国を要求して浦賀に来航し、それがきっかけで江戸幕府の支配体制が崩壊しました。その後、1867年に徳川慶喜が政権を天皇に返上する「大政奉還」を行い、明治政府が誕生しました。この時代の政治的変革を「明治維新」といいます。

開国後の日本の食糧問題と広東米の輸入

明治維新後も、日本は飢饉と向き合うことを余儀なくされました。開国直後の明治2年(1869年)には、日本は米の輸入を始めました。この時期には、新政府が中国から広東米を輸入し、凶作地に供給することで飢饉の緩和を図っていました。

明治時代は、日本の近代化が急速に進み、農業生産も向上しましたが、天候不順や伝染病などの要因によって、飢饉が完全になくなることはありませんでした。しかし、広東米の輸入や近代的な農業技術の導入により、飢饉の影響は徐々に緩和されていきました。

飢饉は明治時代を通じて繰り返されましたが、新政府の積極的な対策や近代化によって、食糧問題は徐々に解決へと向かいました。また、この時代には鉄道や道路の整備が進み、物流インフラが発展したことも、食糧の効率的な配分や輸送に寄与し、飢饉への対応力を強化しました。

「自給率100%を超える輸出品?」明治時代のお米の役割

明治政府政府は外貨獲得のために殖産興業と貿易促進に力を入れました。この中で、お米が重要な輸出品として位置づけられるようになりました。

これは、当時の日本はお米を中心とした食生活をしており、ほぼ食糧自給率100%(カロリーベース)を達成していたことが大きな要因とされています。

日本産のお米は品質が高く、英国、ドイツ、フランス、イタリアなどの欧州を中心に輸出されていました。欧州には、イタリアやスペインを中心に米料理を食べる文化があったため、日本産のお米も受け入れられていました。

大豆生田稔氏の著書「お米と食の近代史」によると、政府は1870年代から80年代末にかけて、国内で直接買い上げた総計三百数十万石の米を海外に輸出していました。当初は米価の下落を抑制することが目的でしたが、80年代以降は正貨を獲得することが目的となっていったとされています。

このように、明治時代前期はお米を海外に輸出して自給率が100%を超えていたのです。

このように明治時代の日本は、生糸やお茶などの輸出品以外にも、お米も海外に輸出し日本の貿易収支改善につなげていました。

そして、お米は日本にとっても重要な食糧であり、国内の需要も大きく、明治政府はその生産拡大にも力を入れました。

お米の輸出国から輸入国への転換

日本がお米の輸出国から輸入国へと変わったのは、突然のことでした。過去最高のお米の輸出量を記録した年の翌年、明治22年(1889年)には、悪天候による水害で収穫量が大幅に減少し、米価が急上昇しました。その結果、翌年には約29万トンのお米を輸入することになりました。

この変化の原因は、人口の増加と1人当たりの米消費量の増加でした。明治前期(1876~1885年)から20年後(1896~1905年)にかけて、人口は1.21倍、1人当たりの米消費量も1.21倍に増加していると推定されています。

以前は、農村地域では米以外の穀物やいも類を混ぜて食べるのが一般的で、実質の米食率は約50%でした。しかし、経済発展に伴い、農村の米食率が上昇し、同時に都市人口も増加しました。その結果、お米の消費量はわずか20年で約1.5倍に増加しました。

経済発展により、農村の米食率が上昇し、都市人口も増加したことで、お米の消費量が大幅に増えたのです。

「移民」が人口増加に対処する選択肢の一つ

明治時代から大正時代にかけて、日本では人口問題が真剣に議論されるようになりました。当時、日本はまだ工業化が十分に進んでおらず、多くの人々が農業に従事していました。

この時期、人口増加が問題となり、特に農家では食糧難が深刻な課題でした。長男は農家を継ぐことができましたが、次男以下は自分で生計を立てる必要がありました。

この人口増加に対処するための選択肢の一つが「移民」でした。明治維新直後の主な移民先は、未開拓の北海道でした。しかし、北海道は寒冷な気候で米作に適さないため、開拓が困難でした。

明治時代の中頃には、蒸気船を利用してアメリカ大陸に新しい土地を求める人々が現れました。そして、1908年には蒸気船「笠戸丸」がブラジルへの第1回移民を乗せて出航し、ブラジルへの移民が本格的に始まりました。これが、南米に多くの日系人がいる理由です。

TBSスパークル映像ライブラリー/YouTube

人口増加とコメ生産不足 明治時代の食料安全保障の課題

明治時代(1868-1912年)に入ると、日本は急速な近代化が進み、国民の生活も大きく変わりました。その中で、人口が増加し始めると、コメの生産が人口の増加に追いつかなくなり、食料供給が問題となりました。これに対処するため、日本政府はいくつかの政策を実行しました。

一つ目の政策は、湿地帯や原野の開拓です。これにより、農耕地が拡大し、より多くのコメが生産されるようになりました。新たな農地の開発や土地改良が行われ、従来の農地でも生産性が向上しました。

二つ目の政策は、農業技術の改良です。欧米からの知識や技術の導入が積極的に行われ、新たな農業技術が普及しました。これにより、コメの単収(単位面積あたりの収量)が向上し、食料生産が効率化されました。また、農業機械の導入や肥料の使用が増加し、農業の近代化が進みました。

これらの施策によって、国内の人口増加に対する食料供給はなんとかクリアされました。しかし、食料自給率は完全には回復せず、食料輸入に頼る部分も増えました。

このような状況が、日本が戦後に向けて食料安全保障を重視するきっかけとなり、さらなる食料生産の向上に繋がりました。

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いま日本で暮らす日系ブラジル人の数は31万人を超えるといわれています。私たちは彼らとどのような社会をつくっていけばよいのでしょうか。本書では、かつて日本から南米大陸に渡った移民たちの足跡をたどり、その歴史を学ぶと同時に、異なる文化をもつ人々と今後、共に生きていくための道を探ります。(「BOOK」データベースより)

輸入米に頼る国となった理由「人口増加」

実際に、明治時代後半には、日本の米の需要が国内生産だけでは賄い切れなくなっていました。明治20年代(1887-1896年)には、朝鮮半島からの米の輸入が始まりました。また、日本は中国からも米を輸入していました。これにより、日本は明治30年代(1897-1906年)以降、ますます米の輸入に頼る国となっていったのです。

しかしながら、日本は完全な米の輸入国というわけではなく、国内での米生産も続けられていました。しかし、その生産量は人口増加に追いつかず、輸入米が市場で重要な位置を占めるようになりました。また、輸入米は価格が安いため、国内の農業生産者にとっては競争力が弱まる問題も生じました。

このような状況は、日本の食料自給率が低下し、食料安全保障に対する懸念が増す要因となりました。このため、日本政府は農業振興政策や食料自給率向上策を実施し、国内の農業生産を改善しようと努めました。

NASS/YouTube

植民地支配下でのコメ生産と輸入

近代日本は、1895年(明治28年)に台湾を植民地として領有し、1910年に韓国を併合することで、アジア地域に影響力を持つ植民地帝国となりました。このような状況は、1945年までの約半世紀にわたり続きました。

大正時代に入ると、日本の人口はさらに増加し、コメの供給量と需要量のバランスが崩れることがありました。その結果、コメの値段が暴騰することも起こりました。大正7年(1918年)には、富山県で起こった米騒動が全国に波及し、政府に大きな影響を与えました。

慢性的なコメ不足に対処するため、政府は朝鮮半島や台湾などの植民地からコメを移入(輸入の代わりに使用)することになりました。

さらに、東南アジアなどから外米を輸入することも行われました。大正14年(1925年)には、国民のコメ消費量は内地米が82%、朝鮮・台湾からの移入米が12%、外米が6%という割合でした。

このような政策は、日本の食料安全保障に寄与しましたが、同時に植民地の人々に様々な影響を与えました。

植民地からの米が支えた日本の戦時下

戦時中の日本では、国民の食料供給に植民地からの移入米(植民地米)が大きく寄与していました。実際、その時期の日本内地の米消費量のほぼ半分が植民地(朝鮮半島や台湾)からの移入米でまかなわれていました。

実は、お米が主食となったのは日本の歴史の中で比較的新しい時代、大正時代の末頃からです。それ以前は、麦(ムギ)、稗(ヒエ)、粟(アワ)などの雑穀が主要な食糧源でした。

満州や朝鮮半島から食糧を輸入(当時は強制的に移送)するようになったことで、日本人は初めてお米を主食にすることができるようになりました。植民地からの食糧輸入が増えたことで、日本国内でのお米の普及が進み、それが今日のお米を中心とした食生活に繋がっています。

植民地産のお米は、その品質や嗜好性から高価で取引されており、一部では嗜好品に近い高値で売買されていました。そのため、都市部の労働者や庶民の多くは、比較的安価な朝鮮米や台湾米を日常の食事に使用していました。

朝鮮米の恵みと日本のお米農家

朝鮮半島の米は、日本軍の食糧需給を満たすために重要でしたが、その一方で、輸入される朝鮮米が日本本土の農業に影響を与えることもありました。朝鮮米が大量に市場に流通することで、日本本土の米価格が下落し、日本のお米農民が経済的な苦境に陥っていきました。

そして1931年(昭和6年)と1934年(昭和9年)の2回にわたり東北地方で大凶作が発生しました。さらに、世界恐慌の影響も受け、日本のお米農家は深刻なダメージを受けました。このような様々な現象が重なり、日本のコメ供給は一気に危機的状況に陥りました。

日本政府はこの問題に対処するため、1934年に朝鮮でのお米の増植計画を打ち切り、日本本土の農業の成長を促すよう努力しました。

「食糧と資源のために、中国大陸へ進出せよ」その果てに待つのは…

このような状況下で、日本は食料供給の一部を中国大陸(満州への開拓)に求めることになります。

1931年の満州事変をきっかけに、日本は満州国を建国し、事実上の植民地として支配しました。満州は農業に適した広大な土地を持ち、日本はここでの食糧生産を拡大しようと試みました。また、満州は豊富な鉱物資源や石油も有しており、これらの資源確保が日本の軍事力や経済力の拡大に寄与しました。

さらに、日本は中国大陸への進出を進めることで、自国の食糧事情や資源不足問題の解決を試みました。しかし、これらの試みは、日中戦争(1937-1945)や第二次世界大戦(1939-1945)といった大規模な戦争を引き起こし、結果的に日本の敗戦につながりました。

食料供給の問題は、日本の歴史において重要な要素であり、その対応が国家の運命にも大きく関わっていたことがわかります。

TBSスパークル映像ライブラリー/YouTube

日本軍が食べた戦地の主食は「朝鮮米」

日本人が中国戦線(満州国、関東州、台湾、香港を除く)に進駐した際、彼らは軍人や民間人問わず、日本米を好んで食べました。日本人は食に保守的で、占領地で生産された小麦などを主食として食べませんでした。彼らはどんな状況でも日本米を食べようとしました。

しかし、戦争の長期化と拡大によって、日本米の状況が変わりました。多くの働き盛りの男性が兵役に就くことで、農村部の労働力が減少しました。

一方で、米の需要は増えました。日本内地の人々だけでなく、戦地にいる軍隊にも米を供給しなければならなかったためです。その結果、米の不足が生じ、朝鮮や台湾などの植民地から米を移入して補わなければなりませんでした。また、戦地にいる兵士や民間人に送る米も不足しました。

日本米と同じ味が朝鮮でも?朝鮮米と日本米の関係性とは

その不足を朝鮮米で補うことになりました。日本は朝鮮で日本米と同じ品種(ジャポニカ米)を栽培させました。そのため、朝鮮米は日本米と同じものとみなされました。

戦争中、朝鮮米が多く戦地に送られました。戦地での軍人や民間人は、送られてきた朝鮮米を日本米と同じように楽しんで食べました。つまり、戦時中、朝鮮米は戦地での日本軍人や民間人の主食となりました。

朝鮮米不足が引き起こした白米飢饉

しかし、朝鮮米の供給が滞ることがありました。1938年には朝鮮南部で大旱魃が起こり、朝鮮米の生産が大幅に減少しました。このため、日本内地や中国戦線への朝鮮米の供給が半減しました。

1939年に朝鮮総督府が朝鮮米の輸出を禁止し、軍隊への供給を続ける一方で民間人への供給が制限されました。これにより、民間人は白米飢饉に苦しむことになり、代わりに台湾米や上海米を食べることになりました。しかし、これらのお米はインディカ米であり、日本人の口に合わない独特の風味がありました。

美味しい米を作る朝鮮人が飢える日々

第二次世界大戦末期、日本が敗戦に向かう中で、朝鮮半島や他の植民地からの食糧輸送が困難になると、日本軍の食糧事情はさらに悪化しました。

日本本土でも食糧不足が深刻化し、高粱、粟、とうもろこし等が配給され、国民は飢えに耐えましたが、これは短期間に限られた状況でした。

それに対して、朝鮮では早い段階から食糧不足が続いていました。朝鮮半島が日本の植民地であったため、日本軍が戦争のために優先的に米を押収していたことが原因でした。

つまり、朝鮮人は美味しい米を作っていたものの、ほとんど食べる機会がなく、生き延びるために山菜や蕎麦の実、栗などを集めて食べる生活を送っていました。このような状況は、朝鮮半島の人々にとって長期間にわたる苦難でした。

戦時中は、食料の不足や配給制度が敷かれる中で、国民はさまざまな苦労を強いられました。植民地からの輸入したお米は、当時の日本国民の食料需要を満たす上で重要な役割を果たしましたが、その一方で、植民地の農業や経済にも大きな影響を与えていたことを忘れてはなりません。

植民地を失った日本の食糧難

敗戦後、日本は朝鮮半島や台湾といった植民地を失い、自国でお米を生産する必要が生じました。この結果、日本は深刻な食料難に直面しました。

Hiroshima
米不足でパンが普及した理由とは?

米不足の状況の中で、給食ではパンが主流となりました。これは、米が不足している日本と、小麦が余っているアメリカという構図が背景にあったと考えられます。米の自給率向上を目指す一方で、アメリカから輸入した小麦を活用し、パンを主食とする文化が広がっていったのです。

米が減るから増やす、米が余るから減らす?

戦後、日本政府は食料自給率の向上を目指し、増産体制を推進しました。その結果、1965年には食料自給率が73%にまで達しました。

しかし、米の増産に力を入れすぎたことと、パン消費の増加により、昭和40年代には自給率が100%を超えるほど米が余ってしまいました。この米余りの状況を解決するために、政府は減反政策という、これまでの増産方針とは真逆の政策を実施することになりました。

減反政策は、農地を減らして米の生産量を抑制し、市場の需給バランスを調整することを目的としていました。

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徹底した規制緩和で、食料関連の市場規模はこの30年で1・5倍に膨らむ一方、食料自給率は38%まで低下。農家の総収入は13・5兆円から10・5兆円へと減少し、低賃金に、農業従事者の高齢化と慢性的な担い手不足もあいまって、?農業消滅?が現実のものになろうとしている。人口増加による食料需要の増大や気候変動による生産量の減少で、世界的に食料の価格が高騰し、輸出制限が懸念されるなか、日本は食の安全保障を確立することができるのか。農政の実態を明かし、私たちの未来を守るための展望を論じる。(「Books」出版書誌データベースより)
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