
【食糧危機③】「お米が食べたい…。」農家も飢えた最悪の時代…。お米と辿る戦前・戦後史
The Modern History of Rice in Japan
お米の近代史
戦時中、日本では食糧の蓄えは乏しく、現在では考えられないような食糧難でした。
戦中・戦後の食事を再現したレシピ/松戸市.2017
戦争中は、働き手の男性が少なくなって農作物が減ったため、国内に残った人達には一日のお米の割り当て量が決められていました。戦争が長引くとさらに食料は減ってきたため、玄米が配給されました。配給された玄米はこのびんに半分くらい入れ、びんの口から棒を入れて上下に動かし、まわりのぬかを取り、白米にしました。
家の中/中央区
戦後の食糧難の時代を経て、干拓事業など食糧の増産に力が注がれました。その結果、増産の努力が実って収穫量が飛躍的に伸び、米が余るようになります。
米あまりの時代/NHK for School
(前略)「余るほど」米を、食料を生産してもらいたい、これは飢餓に苦しんだ戦中戦後の経験をもつ日本国民すべての願いだったのである。
米過剰問題の生成【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第179回/JAcom 農業協同組合新聞
第一次世界大戦の好景気でお米が高値に!
1914年(大正3年)に勃発した、第一次世界大戦とそれにともなう好景気は、国民の生活を大きく変えました。農村では好景気のなかでお米が高値になり、地主層は景気が良くなりました。一方、土地を持たない人々が都市に出て労働者になるケースが増えました。そのため、東京をはじめとする大都市では人口が急増しました。
明治・大正・昭和・平成令和時代 – 稲作の歴史/クボタ
お米の投機に国民がキレる「1918年米騒動」
第1次世界大戦中には、輸出激増に伴い物価、特に米価が高騰しましたが、大正7年(1918)に政府がシベリア出兵の方針を固めたことを背景に、投機目当ての米買い占めが起こり、米価が急騰しました。同年8月富山県の漁民・主婦などが米の移出禁止と安売りを求めて行動に出ました。米騒動の始まりです。新聞の報道などにより、騒動は全国に急速に広がり、警察だけでなく軍隊が出動して鎮圧にあたりました。
大正7年(1918)8月|米騒動が全国に広がる/国立公文書館
米騒動を受けて国が間接的にお米を統制「米穀法・米穀統制法」
まず1921年の米穀法の成止ですが,これは1918年の米騒動の結果です。それまでは米の売買は自由であり,東只の深川と大阪の堂島に米の取引所があって米相場が立ち,米の投機も行われていました。ところが,米価の暴騰によって発生した米騒動によって,社会不安が激化すると,政府は米穀法によって米の間接的な統制に乗り出します。そして,昭和農業恐慌の激化する1933年には,米穀統制法によって統制を強化します。
米の輸入自由化と食管制度(pp.224-225)/大藪 輝雄.立命館大学経済学部 論文検索
戦争の時代…。国は戦時体制の元で経済統制が強化
日中戦争の勃発による戦時体制のもとで、昭和13年(1938)4月に「国家総動員法」が公布された。この法律は、あらゆる経済活動、国民生活を戦争遂行の一点にふり向けるために、国家による経済統制を図ろうとしたもので、消費物資の統制が強化され、国民は耐乏を強いられることになった。
国家総動員法と経済統制/奈良県立図書情報館
お米や生活物資は国から配給「配給制度」
太平洋戦争直前の同16年4月から始まった配給制度は、各世帯の人数に応じた切符をあらかじめ交付して、それと引き換えに物資を渡す制度のことで、お米やお酒、マッチ、木炭や石炭、衣料などが対象となりました。
余市町でおこったこんな話 その161「配給」/北海道余市町ホームページ
太平洋戦争が始まって物資不足はますます深刻化します。お米の配給ではだんだんと麦や豆がまじり、お米自体も玄米に近いものになりました。
余市町でおこったこんな話 その161「配給」/北海道余市町ホームページ
食料は家族の人数により、買える量が決められ、衣類は世帯単位で配られる切符と引き換えに商品を買う仕組みですが、一度に手に入る量は限られ、その回数も十分ではありませんでした。
人々の暮らし|配給制度/札幌市平和バーチャル資料館
やがて食糧や生活必需品は配給を通じてしか入手できなくなり、物資不足は終戦後もしばらくの間続きました。
平成20年度 戦中・戦後の食糧事情と配給制度/中央区.2021
お米農家も飢えた最悪の時代
農家は、自分の家で消費する米以外の全量を供出していました。しかし、この自家消費米も厳しく査定されました。
「戦争を知る」戦時中の食糧難!お米十粒ほどの雑炊/tenon.site.2017
そして、昭和19年産米からは、一層厳しくなり、収穫前に作付面積に応じて供出が決められていました。たとえ不作でも、決まった量の米を供出しなくてはならないのですから、農家にとっては、ますます厳しい状況になっていたと思われます。
「戦争を知る」戦時中の食糧難!お米十粒ほどの雑炊/tenon.site.2017
つまり、戦時中は、たとえ農家であっても米はなく、農家以外の家庭も十分な米の配給を受けられない、深刻な食糧不足の時代であったのです。
「戦争を知る」戦時中の食糧難!お米十粒ほどの雑炊/tenon.site.2017
味よりも量!!お米は国の統制化で増産体制「食糧管理法」
食糧難時代の1942年、コメを中心とする主要食糧の政府管理を目指し、従来の米穀統制法を廃止し「食糧管理法」が制定され、流通するコメの全量が政府 の直接統制下に置かれた。
2月21日。今日は食糧管理法公布記念日/日本食糧新聞
戦中の1942年に制定された「食糧管理法」をもとに、とにかく農家を主食生産に集中させ、生産量を増やすことが急務だった
のです。国民に、等しく米を行きわたらせることで、社会を安定させる必要がありました。そんな「米の大増産時代」に求められたのは、とにかく安定して多く収穫できる品種です。味や質は二の次、三の次です。
米の新品種がぞくぞく登場! “米の戦国時代”がやって来た!/ファイナンシャルフィールド.2019
国が生産者から米を購入 → 国民に安く売る「政府米」
米は原則、国が保有米(自家用米)を除く全量を買い上げ、それよりも安い価格で国民に米を売るという「逆ザヤ」の時代がやってきます。もちろん、米価の赤字補填は税金でした。国に買い上げられた政府米は、「標準米」、「徳用米」などの名称で流通し、米の品種や生産地は消費者にはまったく分かりませんでした。飢えた記憶がまだ残る時代には、米が手に入り、食べられるだけで有りがたかったのです。
米の新品種がぞくぞく登場! “米の戦国時代”がやって来た!/ファイナンシャルフィールド.2019
配給を受けるためには通帳が必要「米穀配給通帳」
太平洋戦争開戦翌年に食糧管理法が制定されて米穀配給通帳が各戸に配られ、米や麦類を自由に買えなくなった。
岩手日報×#あちこちのすずさん|“カデ飯“で飢えしのぐ/NHK | 日本放送協会
終戦の焼け野原の中で国民は飢えた
戦争が終わり、命からがら海外から日本に引き揚げてきた兵士や庶民らを待っていたのは、極度の食料不足と焼け野原だった。
2章 焼け野原から復興-ビジュアル年表(戦後70年)/朝日新聞デジタル
1945(昭和20)年、米の収穫量は大きく落ち込み、明治以来の大凶作になった。物資は圧倒的に足りず、人々は食料や生活必需品を求めて闇市に殺到した。仕事もなく、町には失業者や孤児があふれた。
2章 焼け野原から復興-ビジュアル年表(戦後70年)/朝日新聞デジタル
お米は貴重品
真っ白いご飯なんて、特別な祝い事がある日しか食べられなかった。
戦後75年茂くんの夏 戦後の食糧事情 毎日、3食がサツマ芋/中日新聞Web.2020
「おじや」「すいとん」
お米に麦を二、三割まぜたご飯があれば良い方で、「おじや」や「すいとん」が主な食べ物だった。「おじや」は、量を増やすために、ほんの一握りのお米に、野菜や芋などを一緒に煮込んだ「おかゆ」である。
戦後75年茂くんの夏 戦後の食糧事情 毎日、3食がサツマ芋/中日新聞Web.2020
「すいとん」はメリケン粉に水を加えてよく練り、「だんご」にしたものと、菜っ葉など野菜の切れ端がプカプカ浮いているだけの「スープ」である。これだけではすぐにおなかがすくので干し芋や、いった豆などで空腹を満たした。
戦後75年茂くんの夏 戦後の食糧事情 毎日、3食がサツマ芋/中日新聞Web.2020
サツマ芋が大豊作だった時は連日、サツマ芋、サツマ芋。サツマ芋ばかり、嫌になるほど食べさせられた。まずは「蒸(ふ)かした芋」、薄く切って干した「干し芋」、細かく角切りにしてご飯に入れた「芋ご飯」、パン焼き器で「芋入りパン」も焼いた。毎日、朝も昼も晩も、サツマ芋だったが、おなかがすけば何でも食べられた。
戦後75年茂くんの夏 戦後の食糧事情 毎日、3食がサツマ芋/中日新聞Web.2020
お米があまる!?復興後にお米の収穫量も増加!
その後、日本は、荒廃した国土を復興させ、世界の歴史上まれにみる奇跡的な経済成長を遂げました。
日本が「心の焼け野原」から復興するために、「高度精神成長期」をスタートさせよう!/五十嵐ゆういち 公式ブログ.2019
1955年(昭和30年)以降は、工業の発展にともない、農業水利の改良、ほ場整備事業が進みます。新しい栽培技術も展開されたことによって、お米の収量水準は向上しました。機械化の普及と相まって、水田経営は規模拡大の方向に見直されるようになります。
明治・大正・昭和・平成令和時代 – 稲作の歴史/クボタ
日本人の主食といわれながら、本当の意味で日本人がお米をいつでも食べられるようになったのは戦後20年も経ってから、つまり1965年(昭和40年)頃からです。その頃は、さまざまな分野で近代化が進み、農業では機械化やカントリーエレベーター(乾燥・貯蔵施設)の登場などによって、米の生産は拡大していきました。
明治・大正・昭和・平成令和時代 – 稲作の歴史/クボタ
しかし、今度は米があまるようになりました。食生活が変化したためです。
いつから米の生産調整が始まったのかおしえてください。/農林水産省
貧しさは昔?お米の量より味が求められる!「自主流通米制度」
1960年代までの日本では、米の自給を目標として国が米の生産と流通を管理し、安定して多くの収穫量を得られる品種が優先して栽培されていました。ところが、1967年に米の自給を達成すると状況は一変。
いま次々と登場する新しいブランド米、増えた理由とは?/SMART AGRI.2021
消費者の良質米に対する要請の高まりなどを背景に、1969年に米の民間流通への道を開く自主流通米制度が発足した。
自主流通米/ルーラル電子図書館―農業技術事典 NAROPEDIA
昭和44(1969)年に自主流通米制度が始まると、品質の良い米が高値で取引されるようになり、消費者のニーズも、米の品種や産地を選び、質の良いものを求める方向へと変化していきました。
新潟米、勢揃い。 多彩な魅力を総まとめ。(p.21)/新潟県ホームページ
美味しい“ブランド米”が続々と誕生!!

昭和44年(1969)の自主流通米制度の発足を契機に各地で開発された新品種が続々と発表され、数多くのブランド米が誕生しました。
江刺金札米100周年記念博物館 豊穣を拓く―江刺金札米の往古来今―/江刺開発振興株式会社
おいしいお米を求める消費者の嗜好に合わせ、1950年にハツシモ(岐阜県)、1956年にコシヒカリ(新潟県)、1963年にはササニシキ(宮城県)や日本晴(愛知県)と、ブランド米の黎明期を支えるお米が各地から登場。国が管理して供給するものだったお米が、産地や品種の好みで消費者が自由に選べるようになりました。
ブランド米 新時代!/Trace.2014
「ササニシキ」西のササニシキ・東のコシヒカリ
先行したのは宮城県で育成された「ササニシキ」だった。主に東北地方で作付けを増やし、この年の自主流通米の流通量はササニシキの37・5%に対し、新潟コシヒカリはわずか3・8%。知名度でも水をあけられていた。
新潟)なぜ「幻のコメ」に コシヒカリの苦肉の策とは/朝日新聞デジタル.2020
「ササニシキ」は、「くき」が細くて弱いため、倒れやすいという性質があります。お米がじゅうぶん実る前に倒れると、お米の品質が落ちてしまい、味の良いお米ができません。これでは、高く売ることができなくなり、農家の収入が減ってしまいます。
「ササニシキ」「日本晴(にっぽんばれ、と読みます)」の人気が落ちていった理由と、今の品種が作られるようになった理由を教えてください。 /やまがたアグリネット
また、花がさいてから、お米が実るまでの間に、気温が高い年は、未じゅくなお米が多くなり、きれいなお米が少なくなります。「ササニシキ」は、暑さに弱くて、すぐ夏バテしてしまうのです。
「ササニシキ」「日本晴(にっぽんばれ、と読みます)」の人気が落ちていった理由と、今の品種が作られるようになった理由を教えてください。 /やまがたアグリネット
「ササニシキ」の味は昔と変わらず、今でも大変おいしいお米なのですが、お米を買って食べる「消費者(しょうひしゃ)」があっさりとした味の「ササニシキ」より、ねばりの強い「コシヒカリ」を好むように移り変わってきました。
「ササニシキ」「日本晴(にっぽんばれ、と読みます)」の人気が落ちていった理由と、今の品種が作られるようになった理由を教えてください。 /やまがたアグリネット
また一昔前は東のコシヒカリ、西のササニシキだったが、現在日本全国コシヒカリが主流になっています。
やっぺす通信Vol.24/石巻進化躍進応援バザール「うんめえもん市」.2013
「日本晴」かつては日本一栽培されていたブランド米
1963年(昭和38年)に、「幸風」と「ヤマビコ」の交配によって愛知県安城市にある愛知県総合農業試験場で開発・育成されました。1970年(昭和45年)から1978年(昭和53年)では日本の作付面積の第一位を占めており、栽培が容易で多収性に優れているので昭和後期では最も多く栽培された米として非常に有名です。
「日本晴」とは? 特徴からおすすめを紹介 | 滋賀米/お米ふぁん.2020
「日本晴」は、愛知県の農業試験場で開発された、南の地方向けの品種です。滋賀(しが)県や山口県・兵庫県などで作られています。
「ササニシキ」「日本晴(にっぽんばれ、と読みます)」の人気が落ちていった理由と、今の品種が作られるようになった理由を教えてください。 /やまがたアグリネット
「くき」が強く、病気にも強いことから、関東から九州まで広く作られました(最大で昭和51年に36万ヘクタール)が、「コシヒカリ」というもっと味の良い米が出てきたことや、「ひとめぼれ」など、各県で次々と味の良いお米の新品種が開発されたために、減ってしまいました。
「ササニシキ」「日本晴(にっぽんばれ、と読みます)」の人気が落ちていった理由と、今の品種が作られるようになった理由を教えてください。 /やまがたアグリネット
「コシヒカリ」お米の王様
「コシヒカリ」の歴史は戦時下の1944年に始まります。新潟県で「農林22号」と「農林1号」の交配が行われました。病気に強い「農林22号」と収量が多く食味に優れた「農林1号」、両方の特徴を合わせ持つ品種の開発が目的でした。
「コシヒカリ」ってどんなお米? 特徴や産地のおすすめは?【お米の銘柄紹介】/SMART AGRI FOOD.2021
その後、戦時中の人手不足により一時的に育成が止まり、種は保存されます。昭和21年に良い種を選別する系統選抜が再開され、翌年に福井県農業試験場が育成を引き継ぎ、後のコシヒカリ「越南17号」が誕生しました。
お米の王様「コシヒカリ」の誕生秘/ツナギのお米マガジン
全国22県で試験栽培が始められ、倒伏しやすく、病気に弱いという欠点を克服するための新しい栽培方法も同時に検討が進んでいきました。
お米の王様「コシヒカリ」の誕生秘/ツナギのお米マガジン
そして、昭和31年当時の農林省は農林100号として品種を登録し、「越の国に光り輝く品種」となる願いを込めて、コシヒカリと命名されました。
お米の王様「コシヒカリ」の誕生秘/ツナギのお米マガジン
1979年、前年まで9年連続で作付面積1位だった多収品種「日本晴」が2位に転落。王座を奪った「コシヒカリ」は、以来40年以上もの間順位を譲らず、今や「おいしいお米」の基準となるほどの一時代を築いています。
いま次々と登場する新しいブランド米、増えた理由とは?/SMART AGRI FOOD
「ハツシモ」幻のお米!?
(前略)岐阜県の美濃地方で1935年あたりから栽培が開始されたハツシモという品種は、県内においては幻の名産品と言われています。栽培が始まったのは1935年ごろですが、品種改良などが行われて1950年には奨励品種として登録され、1996年には更なる品種改良によって病気に強い品種として、ハツシモ岐阜SLという品種が誕生しています。
岐阜で作られる幻の名産品、ハツシモはどんな品種?/森ライス
ハツシモの大きな特徴は、岐阜県内における作付面積は広いのですが、県外ではほとんど栽培されていないという点です。そのため、生産量もそれほど多くはなく、幻の名産品と呼ばれるようになったのです。県外の人にとっては幻でも、県内ではハツシモは広く普及していて、県内の家庭では多くが毎日の食卓でハツシモをいただいています。
岐阜で作られる幻の名産品、ハツシモはどんな品種?/森ライス
生産者は政府は通さず“特定の業者”に販売OK!
自主流通米は政府米と同様に国による需給管理の対象であったが、流通ルートについては政府を経由せず集荷業者から直接卸売業者などに販売することが可能となった。
自主流通米/ルーラル電子図書館―農業技術事典 NAROPEDIA
品質や産地によってお米の価格が変動!
また、当初は政府米価格の動向等をもとにJA全農等指定法人と全国卸売り販売団体との交渉で価格が決定されていたが、1990年産米からは自主流通米価格形成機構(現コメ価格形成センター)での入札取引が始まり(自主流通米入札取引)、産地・銘柄別に需給動向や品質評価を反映した価格形成が行なわれるようになった。
自主流通米/ルーラル電子図書館―農業技術事典 NAROPEDIA
通帳があればどこでもお米が購入可能!
戦時中の配給制度の名残で、法的には通帳を持参しないと米を購入する事ができなかった。しかし、自主流通米制度の新設や物価統制令からの米の適用除外などが進み、指定米穀店以外の、いわゆるスーパーマーケットなどでも米が買えるようになると、都市部を中心に存在そのものがほとんど知られなくなっていた。それは、農林水産大臣までもが米穀通帳なしで米の購入をしている事実が明らかとなり国会で問題となるほどであった。
【新着資料展】米穀通帳/活動日誌 – ココログ
お米を作るのを減らして価格を維持「減反政策」
米の生産量が消費量を上回るようになると日本政府は、減反政策を始めました。
減反(げんたん)/ NHK for School
1960年代から試験的に実施されていましたが、1971年に本格的に導入されました。
減反政策とは? 廃止から4年、米農家の現状と今後の展望を考える/minorasu.2022
戦後、政府はコメを日本国民の基本的な食料と位置付けた食料管理制度のもと、税金での買い取りを前提に農家に増産を求めました。この結果、60年には150キロ当たり10,405円だった生産者米価が68年に20,640円となり、翌69年には日本の農家の力だけで初めてコメの自給が可能となりました。つまり自給率100%が達成できたのです。
農民作家・山下惣一さんに聞く「コメの生産調整」はやめるというが――/生活クラブ連合会.2018
それが一転、もはやコメをたくさん作る必要はないとなり、コメの作付面積を減らして、別な作物を生産すれば、助成金をお支払いしますとなったのです。
農民作家・山下惣一さんに聞く「コメの生産調整」はやめるというが――/生活クラブ連合会.2018
配給制度が廃止!同時に通帳の発行も廃止「改正食糧管理法」
1982 (昭和57)年1月、改正食糧管理法が施行されると、通常時の厳格な配給制度が廃止され、自主流通制度の法定化がなされました。 この時、米穀通帳の発行は廃止となり、40年間に渡る長い歴史に幕を閉じました。
お米を買うのに通帳が必要だったの?/アジア歴史資料センター
外国から米を輸入するきっかけ①「ウルグアイ・ラウンド」
食糧管理制度によって手厚く保護されていた日本の米価は、世界でも飛び抜けて高いものになっていました。当時はお米の輸入は一切認められておらず、外国の安いお米は日本国内に入ってこなかったため価格競争も起こりませんでした。
お米の輸入 ― 外国のお米も食べられる時代へ/お米とごはんの基礎知識
しかし、そんな日本の姿勢に対してアメリカをはじめとする諸外国は批判を強め、お米の輸入を認めるよう要求しました。また1993年の米不足騒動の際には一転してタイや中国、アメリカなどから緊急輸入を行ったこともあり、お米の輸入は避けて通れなくなりました。そしてガット・ウルグアイ・ラウンドをきっかけに、ついに日本も外国からお米を輸入することを認めたのです。
お米の輸入 ― 外国のお米も食べられる時代へ/お米とごはんの基礎知識
ウルグアイ・ラウンド交渉の妥協案「ミニマムアクセス米」
ミニマム・アクセス米とは、1993 年に、GATT ウルグアイ・ラウンド農業合意において日本が
PARC ビデオ 『お米が食べられなくなる日』 資料集(p.8)/PARC NPO法人アジア太平洋資料センター
受け入ると決定した、最低限輸入しなければならない量の外国米。「ミニマム・アクセス」とは
「輸入義務」を指す。
ウルグアイ・ラウンド交渉で、日本にとって最も関心があったのは、米の関税化でした。抵抗に抵抗を重ねて、一旦はミニマム・アクセス米を大量に認めることを代償に関税化を回避しました。
GATT/WTO体制と農業/NPO法人近畿アグリハイテク
初年度の95年度426千トン(玄米ベ-ス)から年々増量させ、2000年度には852千トンになる。ところが、このミニマムアクセスは日本に課せられた「義務」という性格から、輸出国にとっては「努力なしに売れる保証」となり、ただでさえあまり気味の国産のコメに拍車をかける形で在庫量を増やすことになった。1998年10月末の在庫は344万トンで、適正在庫(150万~200万トン)を大幅に上回っている。ただし、ミニマムアクセス米は、用途を加工、飼料用に限定し、主食用には流通させられないので、年々在庫が増えている。海外への援助米としてさばくほか消化しきれない状態である。
4-1. 米の現状 -米の自由化、ミニマムアクセス、関税 化、減反政策、自給率の変化と備蓄米、農業従事 者の問題-/甲南大学
外国から米を輸入するきっかけ②「1993年米騒動」
日本がお米を外国から輸入するようになった大きなきっかけの1つが1993年に起きた米不足でした。
1993年の米騒動 ― 平成の日本に起こった米不足問題/お米とごはんの基礎知識
天候不良で記録的不作
事の発端は1993年(平成5年)の天候不順でした。梅雨前線が非常に長く日本列島に留まって記録的な冷夏となり、お米の収穫量が例年の7割程度にまで落ち込んでしまいました。日本全体での消費量よりも少ない量のお米しか獲れなかったのです。
1993年の米騒動 ― 平成の日本に起こった米不足問題/お米とごはんの基礎知識
お米が店頭から消える
不安になった多くの消費者が買いだめしただけでなく、卸売業者の側でも売り惜しみをするなど混乱が起きました。スーパーやお米屋さんの店頭からお米が消えてしまう事態になったのです
1993年の米騒動 ― 平成の日本に起こった米不足問題/お米とごはんの基礎知識
この事態に政府が世界各国からお米の緊急輸入を決定!
1993年9月30日、日本政府はタイなど世界各国からコメを緊急輸入すると発表した。冷夏による記録的な不作で消費者の間でも不安が高まり、「平成のコメ騒動」が起きかねないとも懸念されたためだ。当時、コメは「聖域」として輸入が自由化されていなかったが、国産米の深刻な供給不足が見込まれたことから「特例措置」として実施を決めた。
1993年9月30日 コメの緊急輸入決定、冷夏で記録的不作/日本経済新聞.2020
外国産のコメが輸入される
米が不足すると、価格が高騰します。これを回避すべく、外国から米の緊急輸入を進めました。まず1993年11月にタイからうるち米が輸入され、翌年には他国からも米が輸入されました。
日本人が絶対忘れてはならない「平成の米騒動」とは?/ダイヤモンド・オンライン.2021
内訳は中国から108万トン、タイから77万トン、アメリカ合衆国から55万トン、オーストラリアから19万トンでした。
日本人が絶対忘れてはならない「平成の米騒動」とは?/ダイヤモンド・オンライン.2021
「こんなまずい米が食えるか!」文句を言う人の姿
元々、米を自給していた日本に対して、輸出用の米を品質、量ともに生産していた国などありませんでした。輸入によって量的不足は解消されますが、輸入米の多くがインディカ米であったため、日本人の中には「こんなまずい米が食えるか!」と輸入米に対して文句を言う人もいました。
日本人が絶対忘れてはならない「平成の米騒動」とは?/ダイヤモンド・オンライン.2021
結局、輸入米のうちおよそ98万トンが売れ残りました。苦しい状況を助けてもらっておきながら、この態度です。日本ではもっと「食育」を充実させる必要がありそうです。
日本人が絶対忘れてはならない「平成の米騒動」とは?/ダイヤモンド・オンライン.2021
翌年は猛暑となり米不足は解消
この「平成の米騒動」は翌年には解消されました。1994年はラニーニャ現象が発生し、一転して猛暑となったことで大豊作となったのです。
日本人が絶対忘れてはならない「平成の米騒動」とは?/ダイヤモンド・オンライン.2021
食糧管理法が廃止!お米の流通競争が激化「 食糧法」
1995年には、コメを生産や流通など各段階でコントロールしてきた「食糧管理法」が廃止され、食糧法が制定されました。
外圧と不作で市場開放【1993(平成5)年12月14日】/トウシル.2022
コメ の価格や生産、流通などで政府規制が大幅に緩和され、市場原理が導入されると同時に、ヤミ米が計画外流通米として公式に認められた。その一方で卸や小売に新規参入が増加し、コメ流通は激しい競争時代に突入した。
2月21日。今日は食糧管理法公布記念日/日本食糧新聞
“自主流通米”と“政府米”は自由に販売OK!「計画流通制度」
1995年の新食糧法の施行により、米流通の新たな制度として計画流通制度が発足した。計画流通制度では、米は計画流通米と計画外流通米に区分される。このうち計画流通米には自主流通米と政府米があり、多様な流通ルートが認められるとともに業者間の取引も基本的に自由化され、出荷取扱業者や販売業者も許可制から登録制となった。
計画流通米/ルーラル電子図書館
それ以外のお米は届出をすれば販売可能
また、計画流通米以外の米は計画外流通米とされ、生産者が事前に販売数量を届け出れば自由な販売が認められるようになった。
計画流通米/ルーラル電子図書館
政府は“減反政策”を使ってお米の価格を維持
米の政府買い入れ制度がなくなったので、減反政策は廃止してもよいはずなのに、そうはならなかった。
なぜ国産米をいじめ、海外小麦を優遇するのか…国民にとって最悪の政策「減反」が続いてしまうワケ/PRESIDENT Online.2022
食糧管理制度の政府買入れ米価がなくなった代わりに、減反政策を高米価維持のために使うようになったのである
なぜ国産米をいじめ、海外小麦を優遇するのか…国民にとって最悪の政策「減反」が続いてしまうワケ/PRESIDENT Online.2022
ミニマムアクセスに耐えれない…。「お米の関税化」
日本はミニマムアクセス米の輸入圧力が大きくて不利だと判断、期限を迎えるより前の1999年に自主的に関税化に移行した。関税率を極めて高く設定でき、輸入を実質的に抑えられるからだ。
コメに依存する韓国農業の苦悩/asahi.com : 国際 : AAN
関税化によって、コメの輸入義務は 2000 年で 76.7 万ト ンに抑制され、関税化猶予を続けた場合より 8.5 万トン少なくてすんだ。また、関税 相当量は輸入禁止的に高く設定され、2000 年以後 341 円/kg となっている。
グローバル化と食料・農業:日本農業の国際化対応(p.4)/NIRA総合研究開発機構.2008
生産者は全てのお米を自由に販売してOK!「改正食糧法」
その後さらなる競争原理導入を目指し「売れるコメ作り」を基本に置いた生産体制の刷新を柱に04年、「改正食糧法」が施行。政府が主体となって減反面積を決める「生産調整」が廃止され、農協に代表される農業団体が主体となって決定する方式を採用。 前年販売実績を加味して生産量が配分されるため、生産側では売れるコメ作りが必須となった。
2月21日。今日は食糧管理法公布記念日/日本食糧新聞
計画流通制度が廃止
同時に「計画流通制度」も廃止。自主流通米と政府米(備蓄米)からなる「計画流通米」と、自由に流通する「計画外流通米」の区別がなくなり、「検査米」と「未検査米」だけで区別するようになった。また出荷や卸、小売の「登録制」が廃止され「届け出制」となり、コメも一般食品同様、自由販売できるよう商品になった。
2月21日。今日は食糧管理法公布記念日/日本食糧新聞
生き残りをかけた競争時代に突入「減反政策が廃止」
国がブランド米や業務用米など主食用米の生産数量目標を配分する「生産調整(減反)」が2018年産から廃止され、農家自らがコメ生産を判断する自由競争時代に入る。
クローズアップ2018:減反廃止、農家二極化へ 「規模拡大か離農か」 18年産から自治体が目安/毎日新聞.2018
「減反廃止」「減反補助金の廃止」で期待されているのは、海外と競争できる美味しく、安いコメの生産です。補助金が廃止されれば、小規模な農家が農地を貸し出すことが考えられます。大規模な農業経営を行うところに農地が集まれば、効率的にコメが収穫できると考えられています。生産コストを現在の4割下げる目標を掲げており、それでいて品質を維持することができれば、高品質・低価格なコメをもって、海外と競争することができるというわけです。
コメの減反補助金の廃止による日本の農業への影響/株式会社カクイチ