江戸時代の日本は、食料自給率100%であったが、それでも何度かの飢饉に見舞われ、多くの人々が飢え死にするなど苦しい時期を経験しています。この記事では、江戸時代の食糧危機について、その背景や対策、社会的な支援体制について紹介していきます。
【食糧危機①】食糧危機が招く未曽有の危機、あなたは準備できているか?
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食料自給率100%でも飢饉が襲う深刻な危機とは?
1603年(慶長8年)に、徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。これにより、長い戦乱の時代が終わり、日本は265年にわたる幕府政治に支配されるようになりました。
政治が安定し、厳しい大名統制によって経済も発展し、文化も発展しました。当時の日本の総人口は約3,000万人で、江戸は約100-125万人の人口を持ち、世界最大の都市でした。
安定した時代で産業が発展
江戸時代には、農業や多くの産業が発展しました。幕府や藩が土地開発を行い、新しい田畑が開墾されました。農業技術の向上により、生産力も上がり、新しい作物が栽培されるようになりました。
また、鉱山の開発も進み、佐渡金山や石見銀山から産出された金や銀は、金座や銀座で加工され、全国に流通しました。漁業や林業も発展し、地域ごとに特産品が生産されるようになりました。
交通網も整備され、五街道をはじめとする陸路や海路、港町や宿場町が栄え、菱垣廻船や樽廻船が定期的に行き来し、水運も発展しました。また、東北や北陸の年貢米を運ぶための西回り航路や東回り航路も開設されました。
鎖国時代!!当然食料自給率100%!
江戸時代には、日本は食料自給率100%の状態であり、鎖国政策により外国からの食料輸入は禁止されていました。この時代には、大規模な新田開発が行われ、耕地面積が増加し、人口も増えました。
幕府の統治の妨げのため!
江戸時代初期には、日本は外国との貿易を行っており、キリスト教も受け入れられていました。しかし、このことには幕府が不都合を感じるようになりました。
まず、キリスト教が広まることによって、信者が主君よりも神を敬うようになることが懸念されました。また、信者たちが団結して一揆を起こす可能性があることも、幕府にとっては脅威でした。
さらに、貿易によって利益を得ることができるようになったことで、大名たちの力が大きくなることも問題視されました。これらのことが、幕府が鎖国体制をとる決断を下す要因となりました。
最初は、中国・オランダ・ポルトガルの船のみ来日を許可していましたが、1639年にはポルトガル船の来航を禁止しました。
海外との貿易による利益や情報は貴重でしたが、貿易に伴ってキリスト教の布教が進んで、キリスト教徒が増えたことから、幕府は外国との交際を制限することを決めました。
実際は政府の管理下で限定的に貿易を行っていた
「鎖国」という言葉は、日本が外国と完全に断交した状態を想像させますが、実際にはそのような状態ではありませんでした。
江戸時代の日本は、長崎、対馬、薩摩、松前の「四つの口」を通じて外国と交流を維持していました。ただし、この交流は幕府の管理下で行われており、貿易は一部の場所に限定された「海禁政策」に基づいて管理されていました。
つまり、日本は外国との民間の自由な貿易を禁じ、国家が貿易を管理する体制を取っていたのです。
食料自給率100%の江戸時代!それでも深刻な飢饉(ききん)
江戸時代の日本の人口は、約3,000万人から4,000万人と言われています。当時の日本は、食料自給率が100%とされていますが、一方で庶民の食事は貧しく、畜産物は食卓にはあまり出てこなかったとされています。
さらに、飢饉が何度も発生していて、多くの人が栄養失調で死亡していました。このように食料自給率が100%であっても、食料の安全保障は確保されていなかったのです。
日本の暮らしと切っても切れない飢饉
「飢饉」とは、直訳すれば「人々が飢え苦しむこと」を指します。異常気象が続くと、農作物が不作となり、食料が不足することになります。日本においては、米作が弥生時代から伝わっており、日本人の生活とは切り離せない関係にありました。
飢饉(きが)も頻発!
また、江戸時代には、飢餓という問題もありました。飢餓とは、飢饉とは異なり、食料自体があるにもかかわらず、その配分が不十分であることによって、多くの人々が栄養失調や病気で命を落とす状況を指します。江戸時代においては、飢餓が頻繁に起こっており、特に庶民の食生活は貧しく、飢餓による被害が大きかったとされています。
「突発的な飢饉」と「慢性的な飢餓」
飢餓は「突発的な飢饉」と「慢性的な飢餓」の2つのタイプに分類されます。
- 突発的な飢饉: 突発的な飢饉は、通常、自然災害(干ばつ、洪水など)や戦争、政治的混乱などの突発的な出来事によって引き起こされます。これらの状況は、食料生産や流通を妨げ、一時的に大量の人々が食料不足に陥ることがあります。このタイプの飢餓は短期間に多くの人々が栄養不良や飢餓によって苦しむことが特徴です。
- 慢性的な飢餓: 慢性的な飢餓は、長期にわたって栄養不良や食料不足が続く状況を指します。これは、貧困、教育の不足、劣悪な衛生状況、不適切な農業政策、インフラの欠如などの構造的な問題が原因となります。慢性的な飢餓は、特定の地域や国において根深い問題となり、長期間にわたって多くの人々が健康や生活の質の低下を経験します。
飢饉が発生すると、食料不足によって多くの人々が栄養失調や病気で命を落とす悲惨な状況が起こります。しかし、飢饉の本質は、食料があるにもかかわらず、その配分が不十分であることにあります。
凶作によって食料が得られず、その結果として人が飢えるという飢饉の構図は、誰もがわかっているものです。現在、アフリカを中心に飢餓が発生していますが、このような状況も同様であり、飢餓は明らかに人災であると言えます。
「江戸四大飢饉」
江戸時代には、35回もの全国的な飢饉が発生しました。特に、寛永19~20年(1642~43)、享保17年(1732)、天明3~7年(1783~87)および天保7~8年(1836~37)の飢饉は大規模で、江戸四大飢饉と呼ばれています。
<寛永の大飢饉>牛疫と噴火!さらに異常気象が頻発
寛永の大飢饉は、1630年代から1640年代にかけての一連の異常気象によって引き起こされた飢饉です
1638年には九州で牛の疫病が流行し、多くの牛が死んでしまいました。1640年には北海道で山が噴火し、灰が降り注ぐことで青森などで被害が出ました。
また、1641年の夏には西日本で日照りが続き、干ばつが起こりました。秋には北陸地方で大雨が降り、冷風などの被害がありました。この年は異常気象が続き、洪水や虫害も起こりました。この異常気象は翌年まで続きました。
寛永の大飢饉では、九州での牛疫の流行や蝦夷駒ヶ岳の噴火、日照りや大雨などの天候不順、洪水や虫害などが原因で、全国で約50,000から100,000人の餓死者が出たと推定されています。
<享保の飢饉>害虫による大凶作
享保の飢饉は1732年に起きた西日本最大の飢饉です。この飢饉は、冷夏と「ウンカ」という稲の害虫の大発生が原因です。
当時の人々は、ウンカが中国や南の国から季節風に乗って海を渡って日本にやってくることが分かっていなかったため、突然ウンカの群れが稲田を覆い、全ての養分を吸い尽くすまでになりました。
この虫害により、美しい青田が枯れてしまい、西日本の稲が全滅に追い込まれました。ウンカは一晩で数万人の稲を食べ尽くしたといわれています。
「享保の飢饉」によって幕府が掌握したところでは、約12,000人以上が餓死しました。また、死んだ牛や馬も1万4千頭を超え、約200万人が飢えに苦しんだといわれています。筑前福岡藩領だ6万~7万人が餓死したという説もあり、実際の餓死者の数はこれをはるかに上回っていた可能性があります。
「享保の打ちこわし」
享保の大飢饉では西日本で大きな被害が出ましたが、そのため江戸幕府は西日本で飢えに苦しむ人々を助けるためにコメを分け与えました。しかし、このことが原因となり、江戸ではコメの価格が約5倍に値上がりしました。この中で、米問屋の高間伝兵衛は八代将軍徳川吉宗と協力し、コメの価格の安定化を図ろうと努力しました。
フェイクニュース「高間伝兵衛による米の買い占め」
しかし、民衆は高間伝兵衛がコメを買い占めて価格を釣り上げていると勘違いし、彼を襲いました。これが「享保の打ちこわし」事件です。この事件には1700人以上の民衆が参加し、高間伝兵衛の家財道具や米俵が川に捨てられました。しかし、高間伝兵衛は打ちこわしの被害にもかかわらず、自身の所有する多量のコメを放出して米価の安定に努めました。
この飢饉を救った作物「サツマイモ」
サツマイモは飢饉や凶作の時に栄養を補うために栽培される作物として、古くからありました。享保の大飢饉の時、西日本でサツマイモを栽培していた地域は大きな被害を免れました。そのため、江戸幕府は青木昆陽(あおき こんよう)に、関東地方でサツマイモを栽培するよう命じました。
サツマイモは青木昆陽の普及活動もあり全国に広がり、後の天明の大飢饉で多くの命を救うことになりました。
<天明の大飢饉>地獄絵図…。江戸時代最悪の飢饉
天明の大飢饉は、東日本を中心に1782年から1783年にかけて発生した飢饉です。江戸時代で最も深刻な飢饉です。
天明2年から天候不順が続きましたが、天明3年は冷害、長雨、洪水が続き、春は晴れの日が少なく、夏も冬の着物が必要なほど寒かったといわれています。
浅間山の噴火が追い討ち!
7月には浅間山の噴火があり、降灰によって田畑が埋まり被害が拡大しました。この噴火によって、関東や東北では日照時間の減少や低温などがあり、秋になっても収穫がなかったといわれています。東北地方は特に惨憺たる状況でした。
疫病が大流行
疫病は、単独の流行だけでなく、他の災害と組み合わさって複合的な災害となることがあります。徳川時代の日本は、内乱や戦争のない時期が長かったため、比較的平和でした。
しかし、この時代の社会は、農業を基盤としていたため、天候不順などの気象災害によって大凶作となることがあり、飢えが深刻化し、飢饉となることもありました。天明の飢饉や天保の飢饉は、その代表例であり、疫病も伴う飢饉でした。
天災含むと 死者は100万人超
の大飢饉によって、30万人から50万人が餓死したと言われています。さらに、同時期に噴火や洪水などの天災が発生したため、それらの被害による死者の数を合わせると100万人を超えたとも言われています。
当時の日本の人口は2800万人から2900万人と推定されており、大まかに計算すると、30人に1人が亡くなったことになります。
飢えをしのぐため…。地獄のような状況
天明の大飢饉の時期には、多くの人々が飢えによって命を落としました。しかし、生き残るためには、極限状態に追い込まれた人たちが、餓死してしまった人々の肉を食べるという極端な行為に出ることもあったと伝えられています。
人災!?
この災害の背後には、”領国経営のミス”という人災的な側面もありました。
当時の老中・田沼意次は、政治思想として「何よりも貨幣経済を最優先する」というものを掲げ、商業中心の政策を推進し、作物を売買して貨幣を手に入れることを奨励しました。
それに従って各藩は米を売却して貨幣に替えていたわけですが、消費文化が浸透すると、やがて”浪費”に貨幣が回っていくようになりました。
そしてその風潮が広がっていくと、東北地方の諸藩は財政難に陥り、最終的には藩が備蓄していた米すら江戸や大阪に送り貨幣に換金するようになりました。
その時に、大凶作が襲来しました。急速に米価は上昇し、米が手に入りにくくなり、飢饉は全国に広がっていったのです。
<天保の飢饉>“天明の飢饉”と同様の飢饉が広範囲かつ長時間継続
天保の大飢饉は、天保4年(1833年)から天保10年年まで続いた飢饉です。
天明の飢饉と同様に餓死、疫病、流亡などの惨状をもたらしました。天明の飢饉が比較的短期間に集中して発生したのに対して、天保の飢饉は広い範囲で長期間にわたり、慢性的な被害をもたらしたため、全国的な米価高騰が起こりました。
この慢性的な飢饉状況により、一揆や村役人、穀商、質屋に対する打ちこわしや騒動が激化しました。天保7年には幕府直轄領だった甲斐で大規模な百姓一揆(天保騒動)が起こりました。
「天保の飢饉」による死者は、全国で餓死や疫病死を含めて20~30万人に達したと推定されています。特に、現在の東北地方にあたる地域では、大きな被害が発生し、多くの人々が亡くなりました。
大塩平八郎の乱
天保の飢饉への奉行所や幕府の対応に不満を抱いた民衆は、一揆や打ちこわしを多数起こしました。そして、1837年には大阪奉行所の元与力であった大塩平八郎が反乱を起こしました。
大塩平八郎は、天保の大飢饉の被害に苦しむ人々を救うため、大坂を中心に蜂起したとされています。彼は飢餓救済を主張し、金銭的援助や物資の提供、また借金の帳消しや租税の免除を求めました。しかし、幕府は彼の要求に応じず、大塩平八郎は最終的に捕らえられ、処刑されることになりました。この反乱は、大塩が元与力であるということもあり、幕府にとっては大きな衝撃となりました。
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