【食糧危機②】解決方法の1つは“お米”の輸入…。食料自給率100%の江戸時代も飢えに苦しんだ日本

【食糧危機②】解決方法の1つは“お米”の輸入…。食料自給率100%の江戸時代も飢えに苦しんだ日本

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【食糧危機①】日本国民が大量に餓死!?危機的状況のまま進む日本の食料安全保障
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徹底した規制緩和で、食料関連の市場規模はこの30年で1・5倍に膨らむ一方、食料自給率は38%まで低下。農家の総収入は13・5兆円から10・5兆円へと減少し、低賃金に、農業従事者の高齢化と慢性的な担い手不足もあいまって、?農業消滅?が現実のものになろうとしている。人口増加による食料需要の増大や気候変動による生産量の減少で、世界的に食料の価格が高騰し、輸出制限が懸念されるなか、日本は食の安全保障を確立することができるのか。農政の実態を明かし、私たちの未来を守るための展望を論じる。(「Books」出版書誌データベースより)

The EDO period

江戸時代「食料自給率100%」

Edo museum

1603年(慶長8年)、「徳川家康」が征夷大将軍に任命され「江戸幕府」を開きました。 江戸幕府は、室町時代から続いてきた戦乱の世に終わりを告げ、265年におよぶ長期政権として君臨します。 厳しい大名統制により政治が安定したことで経済も発展し、文化も成熟。 

江戸幕府とは/刀剣ワールド

(前略)日本の総人口は3,000万人ぐらいで、2世紀半ものあいだ、ほぼ人口が安定していました。日本の首都であった江戸の人口は、約100-125万人で、世界最大の都市でした。

日本の江戸時代は循環型社会だった(後編)/JFS ジャパン・フォー・サステナビリティ.2003

安定した時代で産業が発展

江戸時代には農業や様々な産業が発達しました。幕府や藩は土地を開墾したり、海や沼地を埋め立てて、新田を開発しました。農業技術の進歩で生産力も上がり、新しい作物も栽培されました。佐渡金山や石見銀山など鉱山の開発も進み、そこで採取された金や銀は、金座や銀座で金貨、銀貨になり全国に流通しました。林業や漁業も発展した他、酒やしょうゆ、磁器、和紙など、各地で特産物がつくられるようになりました。

江戸時代の政治と三大改革/スタディピア

家康は江戸幕府を開いた時に、五街道(ごかいどう)の整備を行ないましたが、これ以外にも陸や海の交通網が各地で整備され、港町や宿場町は大勢の人たちでにぎわいました。特に江戸と大坂の間には菱垣廻船(ひがきかいせん)や樽廻船(たるかいせん)が定期的に行き来して、流通面で大きな役割を果たしていました。東北や北陸の年貢米を運ぶための西回り航路と東回り航路も開設され、河川を使った水運も発達しました。

江戸時代の政治と三大改革/スタディピア

鎖国時代!!当然食料自給率100%!

日本の歴史の中で、食料自給率が 100%であった時代は鎖国制度の下で外国から食料を輸入していなかった江戸時代である。

日本の食料自給率と食料安全保障/神戸大学 名誉教授 加古敏之.九州大学-農学部 大学院生物資源環境科学府 大学院農学研究院

大規模な新田開発によって耕地面積は1600年頃から1720年頃にかけて1.3~1.8倍に増えたと言われており、耕地が増加した分、多くの人口を養えるようになりました。

その3:お米の自給率/農林水産省ホームページ
幕府の統治の妨げのため!

江戸時代のはじめ、外国との貿易やキリスト教を受け入れてきましたが不都合が生じるようになりました。
・信者が主君(大名や幕府)よりも神を敬うようになったこと
・信者が団結して一揆を起こす可能性があること
・貿易によって利益を得て、大名の力が大きくなること
などが、国内支配の妨げになると幕府が判断して、鎖国体制をとることになります。

江戸幕府が行なった海外に対する政策は、本当に鎖国と言えたのでしょうか?/ターンナップ

鎖国体制のはじめは、中国・オランダ・ポルトガルの船のみ来日を許可していました。

江戸幕府が行なった海外に対する政策は、本当に鎖国と言えたのでしょうか?/ターンナップ
キリスト教が脅威だった

1639年,江戸幕府は,鎖国政策のためにポルトガル船の来航を禁止しました。
海外との貿易で得られる利益や情報は貴重でしたが,貿易にともなってキリスト教の布教が進んで,キリスト教徒が増えました。キリスト教の教えは幕府の身分制度に反するため,幕府は外国との交際を制限したのです。

【社会】なぜ日本は鎖国をすることになったのか/ベネッセ教育情報
実際は政府の管理下で限定的に貿易を行っていた

「鎖国」という言葉には、なんとなく海外諸国と完全に断交したようなイメージがありますが、当時の日本は完全に国を閉ざしていたわけではありませんでした。

江戸時代、幕府に「鎖国」という言葉は存在しなかった/Jpress.2021

 日本は、長崎、対馬、薩摩、松前の「四つの口」を通じて海外とつながっており、そこを窓口に幕府の管理下で貿易が行われていました。

江戸時代、幕府に「鎖国」という言葉は存在しなかった/Jpress.2021

 対外交易を一部の場所だけに限定する「海禁政策」は、実は当時のアジアでよく見られたものでした。要するに、民間の自由な貿易を禁じ、国家が貿易を管理する体制だったのです。

江戸時代、幕府に「鎖国」という言葉は存在しなかった/Jpress.2021

庶民が白米を食べれたのは江戸時代から!

ちなみに、白米を食べるようになったのは奈良時代といわれていますが、あくまで特権階級の人たちだけでした。庶民が白米を口にするようになったのは江戸時代。それでも地方の農村部では分づき米に雑穀などを混ぜて食べており、農村地帯で白米を食べるようになったのは明治に入ってからといわれています。

日本人の主食・お米の話 其の一 ~お米の歴史~/MOKU.2020

食料自給率100%の江戸時代!それでも深刻な飢饉

(前略)江戸時代の日本の人口は3千万人から4千万人といわれているが、食料自給率は100%だった。ただし庶民の食事は貧しく、畜産物はまったく食卓にはあがらない「一汁一菜」が基本だった。

「食料自給率100%」を考える(加倉井 弘)2009年8月/日本記者クラブ

江戸時代には、不作で食料生産が減少し飢饉が何度も発生して、多くの 人が栄養失調で死亡している。食料自給率が 100%であっても、食料の安全保障は確保されていなかった。

日本の食料自給率と食料安全保障/神戸大学 名誉教授 加古敏之.九州大学-農学部 大学院生物資源環境科学府 大学院農学研究院
日本の暮らしと切っても切れない飢饉

飢饉とは直訳すれば「人々が飢えて苦しむこと」、異常気象が続けば農作物が不作となってしまい、食べ物がなくなってしまいます。

禁じられた田畑の売買「田畑永代売買禁止令」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説/Study-Z ドラゴン桜と学ぶ学習サイト

日本に米作が伝わった弥生時代からすでに存在しており、日本の暮らしと切っても切り離せない関係でした。

空腹のあまり人肉を喰らう人も!史上最悪と呼ばれる江戸時代「天明の大飢饉」はどのようなものだったのか/Japaaan.2022
「飢饉」と「飢餓」の違い

そして飢餓には、「突発的な飢饉」と「慢性的な飢餓」があります。 「突発的な飢饉」とは、干ばつや洪水などの自然災害、紛争などの突発的な原因によって発生します。

食糧問題の現状と解決策とは?飢餓で苦しむ子どもたちのために何ができる?/gooddo

一方、慢性的な飢餓は政治や経済、農業の生産性などが原因で、食糧支援だけでは根本的な解決になりません。

なぜ飢餓問題は解決されない? 突発的/慢性的な飢餓/ HugKum

 凶作によって食料が得られず、その結果として人が飢えるという飢饉の構図は、誰もがわかったつもりでいる。しかし、実際には食料があるものの、それが配分されてこないというのが飢饉の本質である。今、アフリカで起こっている飢餓も同じである。凶作は自然災害といえても、飢餓は明らかに人災なのである。

ルランド ジャガイモ飢饉が示す不平等 飢饉の本質とはなにか 『食で読み解くヨーロッパ』/じんぶん堂.2021
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いま日本で暮らす日系ブラジル人の数は31万人を超えるといわれています。私たちは彼らとどのような社会をつくっていけばよいのでしょうか。本書では、かつて日本から南米大陸に渡った移民たちの足跡をたどり、その歴史を学ぶと同時に、異なる文化をもつ人々と今後、共に生きていくための道を探ります。(「BOOK」データベースより)

Four great famines in the Edo period

「江戸四大飢饉」

norisuke/YouTube

江戸時代には、全国的な飢饉が 35 回もあったそうです。なかでも、寛永 19~20 年(1642
~43)、享保 17 年 (1732)、天明3~7年(1783~87)および天保7~8年(1836~37)の
飢饉が特に大きく、これらを江戸四大飢饉と呼びます。

お米のはなし/JAICAF 公益社団法人 国際農林業協働協会

<寛永の大飢饉>牛疫と噴火!さらに異常気象が頻発

1638年、九州にて牛疫と呼ばれる疫病が流行、西日本では牛が大量に死亡する事態となります。1640年には北海道にて蝦夷駒ヶ岳が噴火、降り注ぐ灰の影響で青森などでは凶作となりました。さらに、1641年の夏には西日本にて日照り続きによる干ばつが発生。

禁じられた田畑の売買「田畑永代売買禁止令」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説/Study-Z ドラゴン桜と学ぶ学習サイト

そして、同年の秋には北陸地方にて大雨によって冷風などの被害が起こります。この年はまるで呪われているかのように次々と異常気象が起こり、洪水や虫害なども発生しました。しかも、この異常気象は翌年まで続くことになり、これが江戸四大飢饉の1つに数えられる寛永の大飢饉です。

禁じられた田畑の売買「田畑永代売買禁止令」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説/Study-Z ドラゴン桜と学ぶ学習サイト
死者 5〜10万人

寛永の大飢饉では,九州での牛疫の流行により牛の大量死が起き,蝦夷駒ヶ岳が噴火し,日照りや大雨などの天候不順や洪水,また虫害の発生などにより,全国でおよそ5~10万人の餓死者を出したと推定されている。

現代「棄民」研究 ─(1)江戸三大飢饉と新自由主義的「選択と集中」─(p.14) /景井 充.立命館大学

<享保の飢饉>害虫による大凶作

享保の飢饉は、享保17年(1732年)に起きた江戸時代の西日本最大の飢饉であり、虫害という特異的な背景を持つ。

享保の飢饉は、何故起きたか?:樹木年輪同位体比から見た小氷期の東アジアにおける大気循環の特異性/CiNii Research – 国立情報学研究所
「ウンカ」の大発生

享保の大飢饉は、冷夏と稲の害虫「ウンカ」の大発生が原因でした。今でこそウンカは、中国や南の国から季節風にのって海を渡り、日本にやってくることが分かっていますが、三百年も昔の江戸時代の人々が、そんなことを知るはずもありませんでした。

享保の大飢饉について/山形米通販サイト.2018

ある日突然空一面を真っ黒に覆い、不気味な羽音をたてながら稲田めがけて雨のように降り注ぐ虫の群れ。あっという間の、世にも恐ろしい出来事にお百姓さんたちは、ただうろたえ泣き叫ぶばかりでした。ウンカの大群は盛り上がるばかりに群れ集まって穂を出すばかりに成長した稲の葉といわず、茎といわず、全ての養分を吸いつくしました。美しい青田はみるみる白茶けた枯れ田に変わり果てていきました。

享保の大飢饉について/山形米通販サイト.2018

ウンカは九州で発生し、あれよあれよといううちに中国、四国、近畿の全域をのみ込み、西日本の稲を全滅に追い込みました。その凄まじさはたった一晩で数万人の稲を食べ尽くしたといいます。

享保の大飢饉について/山形米通販サイト.2018
死者 1万2000人超

「享保の飢饉」の被害者は、幕府が掌握しているだけで餓死者1万2千人余。たおれ牛馬(死亡した牛馬)も1万4千頭を超え、200万近い人が飢えに苦しんだということです。もっとも筑前福岡藩領だけで6~7万人が餓死したという推計もあり、実際の餓死者の数はこれをはるかに上回っていたと思われます。

天明の大飢饉ってなんのこと?/幕末トラベラーズ
「享保の打ちこわし」

享保の大飢饉による被害は、西日本を中心に発生していましたが、享保の大飢饉が原因となった「享保の打ちこわし」は、1733年(享保18年)に江戸で起こりました。 「打ちこわし」とは、都市に住む貧しい人が米価の引き下げを求めて、商人を襲う民衆運動のことを言います。

享保の大飢饉/刀剣ワールド
フェイクニュース「高間伝兵衛による米の買い占め」

江戸幕府は、享保の大飢饉で被害がひどかった西日本地域において、飢餓に苦しむ人々を助けるために、コメを分け与えました。しかし、皮肉なことにこれが原因となり、江戸では、コメの価格が約5倍にも値上がりしてしまいます。

お米のはなし/JAICAF 公益社団法人 国際農林業協働協会
米の価格安定に尽力!逆に価格釣り上げと勘違いされ大衆に襲われる

そんな中、米問屋の高間伝兵衛は、八代将軍徳川吉宗に協力し、コメの価格の安定化を図るべく尽力していました。ところが民衆には、高間伝兵衛がコメを買い占めて、価格を釣り上げていると勘違いされ、襲われてしまいます。これが、「享保の打ちこわし」事件です。この打ちこわしに加わった民衆の数は1700人にも上り、高間伝兵衛の家財道具や米俵は、川に捨てられてしまいました。

お米のはなし/JAICAF 公益社団法人 国際農林業協働協会
被害に遭っても米の価格安定のために勤めた

しかし、打ちこわしの被害に遭いながらも、高間伝兵衛は自身が所持していた多量のコメを放出し、米価の安定に努めました。

お米のはなし/JAICAF 公益社団法人 国際農林業協働協会
この飢饉を救った作物「サツマイモ」

意外に思われるかもしれませんが、サツマイモはもともと、凶作や飢饉(ききん)に備えて育てられる救荒作物として、その栽培が広がりました。

おいしいだけじゃない!サツマイモの意外な功績/teniki.jp.2016

享保の大飢饉の際、西日本でサツマイモを栽培していた地域では、大きな被害を免れました。そこで幕府は青木昆陽(あおきこんよう)に命じて、関東地方でサツマイモを試作させました。

おいしいだけじゃない!サツマイモの意外な功績/teniki.jp.2016

青木昆陽は、小石川薬園(小石川植物園)や、下総加村(千葉県千葉市)、上総不動堂村(千葉県九十九里町)などで試作を重ね、その栽培方法などを記した『蕃薯考』を八代将軍吉宗に献上し、関東地方でも栽培が広がったと言われています。青木昆陽は自分のお墓を生前から建てて、そこに自ら希望して「甘藷先生」と彫ったそうです。

おいしいだけじゃない!サツマイモの意外な功績/teniki.jp.2016

<天明の大飢饉>地獄絵図…。江戸時代最悪の飢饉

天明の大飢饉は、天明年間に東日本を中心に発生した、江戸時代最悪と言われた飢饉のこと。

天明の大飢饉ってなんのこと?/幕末トラベラーズ

東日本では天明2年(1782年)から天候不順がすすんでいましたが、翌天明3年になって冷害、長雨、洪水がつづき、春から晴天の日がほとんどなく、夏でも冬の着物が必要なほどの寒さだったといいます。

天明の大飢饉ってなんのこと?/幕末トラベラーズ

なかでも東北地方の状況は悲惨そのもので、天候不順に領主側の判断ミスも重なり、多くの餓死者が出ました(津軽藩だけで死者10数万人に達したとか)。

天下大変-飢饉/国立公文書館

さらに天明3年7月には浅間山の大噴火による降灰で田畑が埋まって被害が拡大しました。

天明の大飢饉ってなんのこと?/幕末トラベラーズ
浅間山の噴火が追い討ち!
浅間山

 天明3(1783)年7月、浅間山が噴火し、3日間続いた。大爆発とともに、溶岩流が火口北側から東北方向へ流れ出し、近傍の民家を倒壊させ、人畜・家屋・田畑に多大な被害を与えた。吾妻川には堰堤(えんてい)ができ、泥流は利根川に流れ込んだ。火炎をまじえて立ち上る黒煙は、江戸にまで降灰させたという。

【老中首座前夜(上)】 天明の飢饉で救済策/福島民友新聞社 みんゆうNet

 浅間山噴火は、天明2年の全国的凶作の翌年であった。天明の飢饉は、享保の飢饉、天保の飢饉と合わせ江戸期の3代飢饉の1つである。

【老中首座前夜(上)】 天明の飢饉で救済策/福島民友新聞社 みんゆうNet

 なかでも天明3年は、4月に雨が少なく、5月から8月にかけて多雨となって河川が氾濫(はんらん)し、7月に噴火という大惨事が追い打ちをかけた。黒煙による日照時間の減少や降灰による低温などにより、関東、東北は秋になっても収穫がなかった。東北の陸奥・陸中・陸前は惨憺(さんたん)たるものであった。

【老中首座前夜(上)】 天明の飢饉で救済策/福島民友新聞社 みんゆうNet
疫病が流行

疫病はそれ自体の単独の流行としてだけではなく、他の災害に伴って発生し、複合的な災害となることも歴史上には存在してきた。「徳川日本」はおおむね内乱や対外戦争のない時期が長く続いたので、そのは幸いしたが、稲作を基盤とした農業社会は気象災害にさらされ、大凶作ともなれば飢えが深刻化し、飢饉となることもあった。天明の飢饉や天保の飢饉などはそうした飢饉の最たるもので、疫病を伴う飢饉であった。

飢饉に伴う疫病ー仙台藩の場合―/菊池 勇夫.宮城学院女子大学 – 愛のある知性を。
天災含むと 死者は100万人超

天明の大飢饉による餓死者は30万人~50万人とも言われ、同時に起こった噴火、洪水などの天災で亡くなった方の人数を合わせると100万人を超えるとも。

空腹のあまり人肉を喰らう人も!史上最悪と呼ばれる江戸時代「天明の大飢饉」はどのようなものだったのか/Japaaan.2022

1700年代の日本の人口は2800万人~2900万人と想定されており、大まかに計算しても30人に1人が亡くなっているこことが分かります

空腹のあまり人肉を喰らう人も!史上最悪と呼ばれる江戸時代「天明の大飢饉」はどのようなものだったのか/Japaaan.2022
飢えをしのぐため…。地獄のような状況

天明の大飢饉では、飢えによって多くの人が亡くなりましたが、一部の人たちは飢えをしのぐために餓死をした人の人肉を食べていたといわれています。

天明の大飢饉と数十万人の餓死者~人の肉まで食べた!?/江戸時代のちょっとびっくりな文化や生活
要因の1つに幕府の経営ミス!?

しかし、これを”天災”と言って片づけることはできない。なぜならその背後には”領国経営のミス”という人災的側面もあったからだ。

領国経営 影の実力者たち #8 江戸飢饉を生き抜いたリスクマネージメント 松平定信 上杉鷹山 渡辺崋山/三鬼商事株式会社

当時の老中・田沼意次の政治思想は「何より貨幣経済最優先」というもので、商業中心の政策を打ち出し、作物を売買して貨幣を手元に置くことを推奨した。それに順じて各藩は米を売却して貨幣に替えていたわけだが、消費文化が根付いてくると、やがて”浪費”に金銭が回っていくようになる。そしてその風潮が拡大してゆくと、東北地方の諸藩は財政難に陥り、とうとう藩が備蓄していた米すら江戸や大坂に送り貨幣に換金するようになった。そこを大凶作が襲ったのだ。みるみる米価は上昇し、米が手に入りにくくなり、飢饉は全国に拡大していった。

領国経営 影の実力者たち #8 江戸飢饉を生き抜いたリスクマネージメント 松平定信 上杉鷹山 渡辺崋山/三鬼商事株式会社

<天保の飢饉>“天明の飢饉”と同様の飢饉が広範囲かつ長時間継続

天保の大飢饉は、天保4年(1833)に始まり、天保10年まで続き、天明の飢饉と同様に餓死、疫病、流亡などの惨状を呈した。天明の飢饉は比較的短期間に集中して餓死者や被害を出したのに対して、天保の飢饉は北陸、四国、九州を除く広い範囲で長期間にわたり、慢性的な被害を出した。

その4、天保の大飢饉/愛知千年企業-江戸時代編

全国的な米価の高騰が起こり、飢饉状況が慢性化したため、一揆や村役人、穀商、質屋に対する打ちこわしや騒動が激発した。天保7年6月には幕府直轄領だった甲斐で大規模な百姓一揆(天保騒動)が起きた。

その4、天保の大飢饉/愛知千年企業-江戸時代編
死者 20〜30万人

「天保の飢饉」による死者は、餓死・疫病死とりまぜて全国で20~30万人に達したと推定されています。

天下大変-飢饉/国立公文書館

特に現在の東北地方にあたる地域における被害は甚大であり、多くの死者を出したのです。

天保の大飢饉/【刀剣ワールド】
一揆や打ちこわしが多発!

天保の飢饉への奉行所や幕府の対応に不満をもった民衆によって一揆や打ちこわしも多発し、1837年には大阪奉行所の元与力大塩平八郎が反乱を起こします。 元与力による反乱ということもあり、幕府は大きな衝撃を受けました。

天保の改革が行われた時代背景/ベネッセ 教育情報サイト
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いまそこに迫る世界食糧危機、そして最初に飢えるのは日本、国民の6割が餓死するという衝撃の予測……アメリカも中国も助けてくれない。 国産農業を再興し、安全な国民生活を維持するための具体的施策とは?(「Books」出版書誌データベースより)

The MEIJI period

明治時代「飢饉を減らすため!海外からお米を輸入」

4th of July in Yokohama

1853年(嘉永6年)、アメリカの「ペリー」率いる艦隊が、日本に開国を求めて浦賀に来航したことを発端に、徳川家による江戸幕府の統治体制が崩壊。1867年(慶応3年)、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は、政権を天皇に返上する「大政奉還」を行い、1868年(慶応4年/明治元年)に、天皇を中心とする中央集権国家を目指した明治政府が誕生しました。この幕末の動乱から明治政府が成立するまでの政治的革命が「明治維新」(めいじいしん)です。

明治時代「明治維新とは」/【刀剣ワールド】

 明治以降も飢饉がなくなることはなく、開国直後の明治2年(1869年)には米の輸入を始めた。新政府が中国から広東米を輸入して、凶作地に振り向けたのである。明治20年代には朝鮮からも米の輸入を始め、明治30年代以降の日本は完全な米の輸入国になっていた。昭和期にも東北地方は大凶作に見舞われた。

食料危機の到来 飢餓を忘れていた「幸福な時代」も終わりを告げようとしています。(市民セクター政策機構 専務理事 白井和宏)/市民セクター政策機構.2016

なくならない飢饉…。新政府がお米の輸入をスタート!

 明治以降も飢饉がなくなることはなく、開国直後の明治2年(1869年)には米の輸入を始めた。新政府が中国から広東米を輸入して、凶作地に振り向けたのである。

食料危機の到来 飢餓を忘れていた「幸福な時代」も終わりを告げようとしています。(市民セクター政策機構 専務理事 白井和宏)/市民セクター政策機構.2016

実は明治前半は輸出もできるぐらいお米を生産していた!

明治時代に入り、新政府は、外貨獲得のため殖産興業と貿易促進に力を入れていましたが、生糸やお茶に並んで重要輸出品に位置付けられていたのが実はお米です。

その3:お米の自給率/農林水産省ホームページ

輸出先は、主に英国、ドイツ、フランス、イタリアなどの欧州で、日本産米は品質が高く評価されていました。欧州でもイタリアやスペインを中心にお米が生産されており米料理を食べる文化があったのです。

その3:お米の自給率/農林水産省ホームページ

大豆生田稔氏の著書「お米と食の近代史」(吉川弘文館)によると、

「政府は1870年代から80年代末にかけて、国内で直接買い上げた総計三百数十万石の米を海外へ輸出した。…政府が米の輸出を行う目的は当初は…米価の下落を抑制することであったが、80年代からは正貨を獲得することへと推移していった」とあります。

おにぎり協会クイズ【お米を知ろう!】Vol.38/おにぎりJapan – 一般社団法人おにぎり協会.2015

このように、明治時代前期はお米を海外に輸出して自給率が100%を超えていたのです。

その3:お米の自給率/農林水産省ホームページ
順調に輸出を続けていたが突然の凶作!お米を大量に輸入

お米の輸出国から輸入国への転換はあるとき突然やってきました。

その3:お米の自給率/農林水産省ホームページ

お米の輸出量が過去最大となった年の翌年、明治22(1889)年に暴風雨による水害で収穫量が前三か年平均の85%まで落ち込むと、米価が暴騰し、翌年には不足分を賄うため193万石(約29万トン)のお米を輸入することになりました。

その3:お米の自給率/農林水産省ホームページ

いったい何が起こったのでしょうか。原因は、人口の増加と1人当たり米消費量の増加でした。明治前期(1876~1885年)に比べて20年後(1896~1905年)には人口が1.21倍、1人当たり米消費量も1.21倍に増えたと推計されています。それまで、農村では米だけを主食とする(できる)人は少なく、米に麦・雑穀・いも等を混ぜるのが一般的で、実質の米食率は5割程度でした。好景気によって、農村の米食率が上昇するとともに米食中心だった都市の人口が増大したことで、お米の消費量はわずか20年で約1.5倍に増えたのです。

その3:お米の自給率/農林水産省ホームページ

人口増加の食糧難を解決するため「海外移民」

TBSスパークル映像ライブラリー/YouTube

 日本において人口問題が真剣に議論され始めたのが、明治時代から大正時代にかけてです。当時の日本は工業化がさほど進展しておらず、まだ日本人の大半は農業を主業とする第1次産業の従事者でした

なぜ、人口は増えても減っても「諸悪の根源」とされるのか/日経ビジネス.2020

 ここで問題になったのが、人口増加です。長男は農家を継ぐことができます。しかし、農地の新規開拓には物理的な限度があります。次男以下は家を出て自分で稼ぐ必要に迫られました。人口増加による食糧難が日本各地の農家の最大の問題となりました。

なぜ、人口は増えても減っても「諸悪の根源」とされるのか/日経ビジネス.2020

 当時の日本において、農家の次男問題を解決するために取られた1つの選択肢が「移民」でした。明治維新直後の主な移民先は「北海道」という未開拓の土地でした。北海道は極寒の地で米作に適さないことから、開拓使は非常な困難を強いられました。

なぜ、人口は増えても減っても「諸悪の根源」とされるのか/日経ビジネス.2020

 明治時代半ばに入ると、蒸気船で海を渡って、アメリカ大陸に新天地を求める人々が出現しました。1908年に蒸気船「笠戸丸」がブラジルへの第1回移民を乗せて出航し、ブラジルへの移民が本格化します。

なぜ、人口は増えても減っても「諸悪の根源」とされるのか/日経ビジネス.2020

 南米に日系人が多いのは、日本での人口爆発のため、日本国内では養えないという事情があったためです。

明治から100年間近く、米輸入国だった日本/東洋精器工業株式会社

「農地の拡大+農業技術の改良」なんとか食料供給を確保

明治時代になって日本の人口が増加し始めると、人口の増加にコメの生産が追いつかなくなり、これを埋めるための政策が打ち出される。一つは湿地帯や原野の開拓であり、農耕地の拡大が進められた。二つ目は農業技術の改良であり、欧米の知識や技術の導入が積極的に行われ、コメの単収(単位面積あたりの収量)が向上した。これらの施策によって、国内の人口増加に対する食料供給をなんとかクリアした。

水田稲作と土壌肥料学(2) (情報:農業と環境 No.106 2009.2)/農研機構.2009
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いま日本で暮らす日系ブラジル人の数は31万人を超えるといわれています。私たちは彼らとどのような社会をつくっていけばよいのでしょうか。本書では、かつて日本から南米大陸に渡った移民たちの足跡をたどり、その歴史を学ぶと同時に、異なる文化をもつ人々と今後、共に生きていくための道を探ります。(「BOOK」データベースより)

Colonial Rice

お米の輸入国になった日本「戦争と植民地米」

NASS/YouTube

明治20年代には朝鮮からも米の輸入を始め、明治30年代以降の日本は完全な米の輸入国になっていた。

食料危機の到来 飢餓を忘れていた「幸福な時代」も終わりを告げようとしています。(市民セクター政策機構 専務理事 白井和宏)/市民セクター政策機構.2016

 明治元年に3400万人だった日本の人口が、1億人を超えたのは1970年頃のことである。これほどの人口増にもかかわらず、飢餓に苦しむことなく、飽食を楽しむことができたのは、世界中から大量の食料を買い集めてきたからだ。

食料危機の到来 飢餓を忘れていた「幸福な時代」も終わりを告げようとしています。(市民セクター政策機構 専務理事 白井和宏)/市民セクター政策機構.2016

コメ不足を補うため植民地からコメを移入(輸入)

近代日本は、1895(明治28)年に台湾を植民地として領有することにはじまり、1910年の韓国併合を経て、1945年までのほぼ半世紀におよぶ期間にわたって、植民地帝国としてアジアに君臨しつづけた。

【書評】「植民地官僚の政治史 朝鮮・台湾総督府と帝国日本」岡本真希子著/東京財団政策研究所

大正時代になると、日本の人口はますます増加し、コメの供給量と需要量との間でミスマッチが生じ、コメの値段が暴騰(ぼうとう)することもあった。大正7(1918)年に富山県で起こった米騒動はたちまち全国に波及し、当時の内閣が倒れるほどの大争乱となった。

水田稲作と土壌肥料学(2) (情報:農業と環境 No.106 2009.2)/農研機構.2009

慢性的なコメ不足を補う手段として、政府は朝鮮半島や台湾などの植民地からコメを移入(輸入ではなく、この言葉が使われた)するとともに、東南アジアなどから外米を輸入することになる。たとえば、大正14(1925)年の国民のコメ消費量は、内地米82%、朝鮮・台湾からの移入米12%、外米6%となっている。

水田稲作と土壌肥料学(2) (情報:農業と環境 No.106 2009.2)/農研機構.2009
「朝鮮米」「台湾米」

戦時中の日本内地の米消費量のほぼ半分が、外地からの移入米であったことを、現在知る人はほとんどいないであろう。内地産米は高価で嗜好品に近い高値で取引されていたため、都市労働者の多くは朝鮮米や台湾米を常食としていたのである。

自己なるコメと他者なるコメ近代日本の〈稲作ナショナリズム〉試論(P.395)/山内明美.HERMES-IR(一橋大学機関リポジトリ)

安定した食料を求め満州に進出!日本はさらに戦争に突入していく…。

TBSスパークル映像ライブラリー/YouTube

昭和の時代が始まると、6(1931)年、9(1934)年の2回にわたって東北大凶作が襲来し、また経済恐慌の影響も受けて、日本のコメ供給は危機に直面する。その後は、日本は食料の供給の一部を中国大陸(満州開拓)に求めることになるが、その失敗が一因となって、無謀な戦争への道を突き進むことになってしまうのである。

水田稲作と土壌肥料学(2) (情報:農業と環境 No.106 2009.2)/農研機構.2009
軍人のためのコメ不足を補うため「朝鮮米を戦地に送る」

中国戦線(満州国、関東州、台湾および香港を除く)にやってきた日本人は、軍人、民間人を問わず、これまで口になじんでいる日本米にこだわった。日本人は「食」に対して保守的であって、軍事占領地域で生産される農作物(小麦など)を主食として食べなかった。彼らは占領地域においても、日本米を食べ続けようとした。

【2】 朝鮮米輸出禁止令による白米飢饉の発生/ピースあいち

 戦争の長期化と拡大は、日本米をめぐる状況を変える。働き盛りの男性が多く兵隊に召集された結果、農村部の労働人口は減少した。他方、米の需要は増大する。生産された米は、日本内地にいる人たちだけでなく、満州国や中国戦線などで戦っている軍隊にも供給せねばならなかったからである。

【2】 朝鮮米輸出禁止令による白米飢饉の発生/ピースあいち

 このため、次第に米が不足してくる。やむなく、米を生産している植民地である朝鮮や台湾から、米を移入して、不足を補った。米の不足は日本内地だけではなかった。戦地にいる兵隊や民間人に送る米も不足した。その不足を朝鮮米で補った。日本は、日本内地でとれる米と同じ品種を朝鮮で栽培させた。だから、朝鮮米は日本米と同じものと見なしえた。

【2】 朝鮮米輸出禁止令による白米飢饉の発生/ピースあいち

 こうして、戦争の時代、朝鮮米が多く戦地に送られた。戦地に進駐・移住していた軍人・民間人は送られてきた朝鮮米を、日本米と同じような感覚で賞味した。要するに、戦争の時代、朝鮮米が戦地における日本の軍人・民間人の主食になった。

【2】 朝鮮米輸出禁止令による白米飢饉の発生/ピースあいち

(前略)実は、お米を主食にすることができた歴史は、とても浅いのです。大正の末くらいからです。それまではムギやヒエ、アワなどの雑穀が重要な食糧源でした。満州や朝鮮半島から食糧を輸入(当時は強制的移送)するようになって、日本人ははじめてお米を主食にすることができました。

日本は何人養える?(2004.6.17)/イーズ 未来共創フォーラム.2005

敗戦後の植民地を失った日本は食糧難!

Hiroshima

敗戦後、植民地を失った日本は深刻な食料難に見舞われた。

戦争と国民-権力者が引き起こす飢餓(季刊『社会運動』編集長 白井和宏)/市民セクター政策機構

 戦後、朝鮮半島の独立、台湾の独立に伴い、日本は国内での米増産を行わざる得ないようになりました。

明治から100年間近く、米輸入国だった日本/東洋精器工業株式会社
コメが食べれない時代にパンが普及!?日本人の食生活が変化

 給食でパンが主流になったのは、米が不足している日本。小麦が余っているアメリカという構図があったと思われます。

明治から100年間近く、米輸入国だった日本/東洋精器工業株式会社

必死に増産!今度は米が多すぎる…。政府は減らすために減反政策を実施

政府は増産体制を推進し、1965年の食料自給率は73パーセントに到達した。

戦争と国民-権力者が引き起こす飢餓(季刊『社会運動』編集長 白井和宏)/市民セクター政策機構

 しかし戦後、米の増産を頑張りすぎた上、パン食の増加に伴い、昭和40年代には自給率100%を超え、今度は米余りのため減反政策という真逆の事を行うようになりました。

明治から100年間近く、米輸入国だった日本/東洋精器工業株式会社
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徹底した規制緩和で、食料関連の市場規模はこの30年で1・5倍に膨らむ一方、食料自給率は38%まで低下。農家の総収入は13・5兆円から10・5兆円へと減少し、低賃金に、農業従事者の高齢化と慢性的な担い手不足もあいまって、?農業消滅?が現実のものになろうとしている。人口増加による食料需要の増大や気候変動による生産量の減少で、世界的に食料の価格が高騰し、輸出制限が懸念されるなか、日本は食の安全保障を確立することができるのか。農政の実態を明かし、私たちの未来を守るための展望を論じる。(「Books」出版書誌データベースより)

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【食糧危機③】「お米が食べたい…。」農家も飢えた最悪の時代…。お米と辿る戦前・戦後史
“https://diggity.info/society/food-crisis-3/”
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