《昭和の三大台風》防災意識が希薄だった昭和9年の教訓!「室戸台風」の惨禍【気象】

日本を襲った昭和時代の三大台風の一つである「室戸台風」。その被害は日本全国に及び、多くの人々が犠牲になりました。この記事では、室戸台風が起こった経緯や被害の様子、そして現在も行われている慰霊行事について紹介しています。

また、室戸台風がきっかけとなって防災意識が高まった経緯にも触れており、未来の災害から身を守るために必要なことについて考えさせられる内容となっています。

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室戸台風は、関西の多くの学校をぱたぱたと倒壊させ、高潮で洗った。構想20数年、“学校災害”という視点から77年前の大災害を鮮烈に描き出した本書は、非常時における人間の真実を伝えて21世紀の今に警鐘を鳴らす。(「BOOK」データベースより)

1934.9.21 Muroto Typhoon

昭和の三大台風の中で最強の台風!「室戸台風」

朝日新聞社/YouTube

昭和の三大台風とは、昭和時代に襲来した「1934年室戸台風」、「1945年枕崎台風」、「1959年伊勢湾台風」の3つの台風を指します。これらの台風は、それぞれ甚大な被害をもたらし、台風対策の重要性が改めて認識されるきっかけとなりました。

ここでは、1934年(昭和9年)に発生した「室戸台風」について紹介します。

1934年の室戸台風の進路と影響

室戸台風は1934年9月12日に南太平洋のパラオ諸島とチューク諸島(旧トラック諸島)の間で発生し、当初は南下していました。しかし、9月13日に北上に転じ、発達しながら沖縄本島に向かって北西方向へ進んでいきました。

9月19日の夜には、沖縄本島南方で台風の進路が北北東に変わり、これにより本州への上陸が確実なものとなりました。9月20日の午前6時には、台風の中心が沖縄の南東方約300キロメートル海上に達し、中心から300キロメートルの範囲で暴風雨を引き起こしながら北北東に進行しました。

同日午後6時には、台風は九州南方の約300キロメートルの洋上にまで迫り、その時点で中心気圧は960ヘクトパスカルに達しており、非常に強烈な台風となっていました。

恐怖の室戸台風がもたらした影響

神戸測候所では21日7時44分から5分間、風雨ともに小康状態となり、一時的に空が明るくなり、台風の眼に入っています。阪神地方は、前方に四国や紀州の山脈を控えていることもあって、しっかりした眼を持ち発達したままの台風がそのまま襲来することは希なことです。そしてこの発達したままの台風は大阪湾などに高潮を引きおこし、大惨事が発生しました。

日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士は、昭和40年の素粒子についての国際会議の講演で、「室戸台風の風が、非常に恐ろしく、ショックを受けたが、このショックが中間子理論を発見させたのではないか」と述べています。天才が考えに考えた蓄積があり、そこに室戸台風の刺激があってのことと思いますが、湯川博士の住んでいた西宮市は、室戸台風の直径約25kmの眼の中に入っています。

世界最低気圧を更新した室戸台風の猛威

9月21日の午前5時、室戸台風は高知県室戸市の室戸岬の西方に上陸しました。室戸岬測候所では、同日の5時10分に911.6hPaの最低気圧を観測しました。この気圧は、明治18年(1885)にインドのカルカッタ南西のフォルスポイントで観測された当時の世界最低気圧である919hPaを、なんと7hPaも更新するものでした。室戸岬では、最大瞬間風速60m/sを記録した後、計測器が破損し、正確な数値は不明となっています。

上陸後の室戸台風は、午前8時ごろに淡路島から神戸市付近を通過し、続いて北東に進みました。その後、台風は富山湾を通過し、日本海に抜けて東北地方を横断しました。

台風史に残る「室戸台風」の名前の由来と特異性

この台風は、その世界最低気圧を更新した地名にちなんで「室戸台風」と名付けられました。多くの報告書や資料で取り上げられたこの台風は、日本の台風史において重要な位置を占めています。

気象庁は、昭和29年(1954年)の洞爺丸台風以降、顕著な災害を引き起こした自然現象に名前を付けるようになりましたが、室戸台風はその例外で、洞爺丸台風以前に正式に名前が付けられた唯一の台風です。

室戸台風による大惨事と被害の拡大

室戸台風の被害は日本全国に及び、死者・行方不明者は合わせて3,036人、負傷者は14,994人に上りました。特に四国地方、九州地方、中国地方、関西地方などの広範囲で甚大な被害が発生し、農業、漁業、交通網、住宅、産業など多岐にわたる分野に大きな打撃を与えました。

台風通過後に岡山市を襲った濁流と大洪水

岡山市では、旭川の上流で降った雨が半日後に流れ込み、徐々に増水しました。そして台風が通過した後についに堤防を越え、濁流が市街地を襲いかかり、岡山市内は大洪水に見舞われました。建物の全半壊は4,560棟に達し、死者145名、負傷者348名が出るという深刻な被害が発生しました。また、冠水面積は19,790ヘクタールにも及びました。

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関西地方を中心に被害をもたらした「関西風水害」

室戸台風は、特に関西地方を中心に広範囲な被害をもたらし、その被害状況から「関西風水害」とも呼ばれることがあります。それは、内陸部での風害だけでなく、大阪湾沿岸部では高潮災害も発生したからです。

大阪湾の高潮が引き起こした浸水と被害の深刻さ

猛烈な風で送電線が曲がり、大阪湾では大規模な高潮が発生しました。その結果、海水が8kmも内陸の大阪城にまで遡上し、市域のおよそ27%が浸水しました。地盤沈下が進んでいたことも被害を拡大させる要因となりました。

特に被害が大きかった地域には、破壊された大桟橋がある築港地域、倒壊した木造校舎が多い小学校、そしてハンセン病療養施設の外島保養院(西淀川区)などがあり、177名の患者と職員が亡くなりました。

全国で死者・行方不明者は3036人にのぼり、そのうち大阪府内の犠牲者が6割を占めました。

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台風接近中にもかかわらず児童が普通に学校に登校

不幸にも、台風の通過時刻が小学校に通う児童の登校時刻と重なり、突風や大雨の中で子供たちが登校しようとする状況が生じました。その結果、学校の建物が倒壊するなどの事故が発生し、多くの児童や教職員が犠牲となりました。

1934年の予報システムの限界

1934年の室戸台風当時、気象観測技術や予報システムは現代に比べて大幅に劣っていました。大阪の測候所や東京の中央気象台は、非常に強い台風が接近していることを十分に把握していませんでした。

暴風警報が20日午後に出されましたが、1m程度の高潮の恐れがあるとされていたため、強く警告するというニュアンスのものではありませんでした。徳島付近にあった午前6時頃、大阪の風速はまだ6m/sしかなく、いつもより多少風が強い程度の感覚で、児童たちは学校へと登校して行きました。

多くの児童と先生が犠牲になった

大阪市内では、室戸台風が最も勢力が強かった午前8時頃に登校時間が重なり、悲劇的な状況が発生しました。学校の教職員や児童、保護者までも校舎の倒壊に巻き込まれ、多数の死傷者を出しました。

大阪市内の小学校244校のうち、被災を免れたのは鉄筋コンクリート造や当時の昭和3年以降の耐震基準で建設されていた校舎のみでした。

室戸台風で犠牲となった教員たちの勇気と犠牲

大阪府に残された資料から、室戸台風によって殉職した教員の一人が吉岡藤子さんであることが分かりました。彼女は当時27歳で、担任していた1年生の教室が1階にあった木造校舎が強風で倒壊しました。がれきを取り除くと、吉岡さんがうつぶせで絶命していましたが、彼女の腕に抱えられた女の子5人の命が救われたとされています。

また、味原小学校の細川大造先生(39歳)も犠牲となりました。彼は逃げ遅れた児童の救出に向かい、最後の一人を逃がした後、下敷きになって命を落としました。さらに、三宝小学校の粟山優先生(28歳)も、避難させた生徒の数が足りないと気付いて引き返したところ、波に飲まれて亡くなりました。

朝日新聞社/YouTube

学校建築への影響

この災害による学校での被害の深刻さは社会に大きな衝撃を与え、以後の学校建築は鉄筋コンクリート造が主流となりました。これにより、校舎の耐震性が向上し、将来の災害に対する備えが進められるようになりました。

犠牲者の命を後世に伝え、災害への備えを促す

また、室戸台風で亡くなった犠牲者を追悼し、慰霊するため、多数の記念碑が建立されました。これらの記念碑は、犠牲者たちの命を偲び、今後の災害への教訓として、後世に語り継がれることが大切だというメッセージを伝えています。記念碑は、地域社会において防災意識の向上や、災害に対する備えを促す役割も果たしています。

木造校舎が多かった京都府での被害「師弟愛の像」

京都府でも室戸台風によって甚大な被害が発生しました。倒壊家屋は3,151戸、死者は185名、負傷者は849名にのぼります。特に、京都市内では木造校舎が多く、暴風によって多くの校舎が倒壊しました。その結果、京都市下では児童112名、教員3名が犠牲となりました。

中でも、西陣小学校では41名の犠牲者が出たほか、淳和小学校(西院校)でも32名が犠牲となりました。淳和小学校(西院校)の校舎倒壊時、訓導の松浦寿恵子先生は、自らの体を盾にして児童7名を守りました。児童は無事助かりましたが、先生は残念ながら亡くなりました。彼女はわずか31歳でした。

松浦先生の献身的な行動は多くの人々の心を打ち、その子弟愛への思いや慰霊の意味を込めて、京都市東山区の知恩院山門前に「師弟愛の像」が建立されました。また、京都市内には他にも多くの慰霊碑や記念碑が建てられており、これらは今後の災害への教訓として、後世に語り継がれることが大切だというメッセージを伝えています。

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毎年慰霊式を行う学校が目指す防災教育

昭和9年(1934年)9月21日に発生した室戸台風は、歴史に残る大規模な災害のひとつで、多くの人々が犠牲となりました。その中でも、ある学校では、木造校舎が倒壊し、児童17名と教師1名が亡くなり、児童129名と教師4名が重傷を負う痛ましい事態が起こりました。

この学校では、毎年9月21日に慰霊式を行い、犠牲者の霊を慰めるとともに、防災意識を高めることを目的とした意義深い行事としています。また、この行事を通じて、「自分と他人の命の大切さ」「困難に直面したときの冷静な判断と行動力」「心温かい励ましや支援」など、人間として大切な価値観を考え、感じ取ることができます。

この学校は、慰霊式を通じて、「人に優しく、自分に負けない子になろう」という教育目標に繋げており、子供たちにとって、自分自身や周囲の人々を大切にする心を育む良い機会となっています。室戸台風を忘れず、犠牲者の方々を偲びつつ、防災意識を高め、未来の世代に災害から身を守る力を伝えることが、この学校の行事の目的でもあります。

命の守り抜いたケヤキ「命の木」

室戸台風が直撃した際、上級生がケヤキに綱をくくり付け、下級生に持たせることで身の安全を守ったとされています。このケヤキの一部が「命の木」として、現在も体育館に展示されています。台風当時の体験者は、「先生の誘導で避難しようとしたが、校舎が激しい風で倒壊し、木にしがみつくことで助かった子どもたちもいた」と語っています。

慰霊式では、児童代表が参加し、他の児童は教室で中継映像を視聴しました。黙とう後、代表者が献花台に花を供え、6年生の児童2人が「つらい出来事を忘れてはいけない」と誓いの言葉を述べました。教頭は当時の体験者の話を読み上げ、児童たちは倒壊した校舎から逃げる様子を思い描きました。

室戸台風の犠牲者を追悼する教育祭と防災意識の向上

1934年の室戸台風で亡くなった子どもや教育関係者を追悼するために始まった教育祭は、その後も毎年開催され、新たな犠牲者を含めて追悼を続けています。室戸台風の被害を受けたことを受けて、文部省は翌月の10月31日に訓令「非常災害ニ対スル教養ニ関スル件」を出し、防災意識の向上、建築の整備、実地訓練の必要性などについての方針を示しました。

また、御真影を持ち出そうとして亡くなった校長や、自身を犠牲にして児童を守った教師たちの行動は美談として語り継がれています。大阪には、こうした殉職教員を祀るための「教育塔」が建設されました。

biwakoemachi/YouTube

室戸台風がもたらした気象予報と防災対策の改善

室戸台風は、気象予報の改善や防災対策の必要性を強く認識させる契機となりました。この台風を受けて、気象台は気象特報(現在の気象注意報)の発表を開始し、より正確でタイムリーな気象情報を提供するようになりました。

また、海難防止を目的として開発されていた暴風警報も、台風やその他の気象災害の襲来時に発表すべきものとして改正されました。これにより、台風の接近や発生に伴う高潮、暴風雨、強風などの危険性に対して、事前に適切な警報を発することが可能となり、住民や関係機関が早期に適切な対策を取ることができるようになりました。

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室戸台風は、関西の多くの学校をぱたぱたと倒壊させ、高潮で洗った。構想20数年、“学校災害”という視点から77年前の大災害を鮮烈に描き出した本書は、非常時における人間の真実を伝えて21世紀の今に警鐘を鳴らす。(「BOOK」データベースより)

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