《昭和の三大台風》無慈悲すぎる。被爆地を襲った「枕崎台風」【気象】

1945年の枕崎台風は、日本史上最も激しい台風の一つとして知られています。戦争が終わったばかりの日本に壊滅的な被害をもたらし、その後の復興に大きな影響を与えました。

この記事では、枕崎台風が広島県に及ぼした甚大な被害や、台風の襲来が原爆投下からわずか1ヶ月の広島市に与えた影響など、その被害を解説しています。自然災害と社会の関わりに興味がある方や、広島市の歴史に興味がある方は必見の記事です。

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昭和20年9月17日。敗戦直後に襲った枕崎台風は、死者不明者三千人超の被害を日本にもたらした。その内二千人強は広島県。なぜ同地で被害は膨らんだのか?原爆によって通信も組織も壊滅した状況下、自らも放射線障害に苦しみながら、観測と調査を続けた広島気象台台員たちの闘いを描く傑作ノンフィクション。(「BOOK」データベースより)

1949.9.17 Makurazaki Typhoon

「枕崎台風」

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1945年の枕崎台風(台風16号)は、日本史上最も激しい台風の一つとして記憶されています。この台風は、戦争が終わったばかりの日本に大きな被害をもたらし、その後の復興にも大きな影響を与えました。

その被害の大きさから枕崎台風は昭和の三大台風 室戸台風、伊勢湾台風と並んで昭和の三大台風のひとつに数えられる。

「枕崎台風」の被害とその進路

枕崎台風は、昭和20年(1945年)9月12日にマリアナ諸島北緯13度、東経148度付近で確認され、その後発達しました。同年9月17日14時35分頃には、鹿児島県枕崎市付近に上陸しました。この台風は、九州を北東方向に進み、周防灘を経て広島の西方に再上陸し、日本海に到達しました。その後、能登半島沖合を通り東北地方を横断した後、徐々に消滅しました。

「枕崎台風」の異常な勢力!最低気圧 916hPa

枕崎台風は、枕崎で観測された最低海面気圧が687.5mmHg(現在の表記では916.1hPa)という驚異的な低さでした。これは、室戸台風に次ぐ低い値であり、日本の台風史上でも非常に珍しい数値となります。この低い気圧は、台風の勢力が非常に強いことを示しています。

最大風速51.3m/sを観測!

枕崎台風は、全国的に強い風が吹き荒れ、風速20m/s以上の暴風雨が発生しました。特に、宮崎県細島(灯台:海上保安庁)では最大風速51.3m/s(最大瞬間風速75.5m/s)が観測され、枕崎では40.0m/s(同62.7m/s)、広島では30.2m/s(同45.3m/s)という猛烈な風が吹いたことが記録されています。

降り注いだ豪雨は200mmを超え

枕崎台風による期間降水量は、九州や中国地方では200mmを超える地域がありました。また、雨が最も強かったのは、9月17日の21時7分から22時7分までの間で、57.1ミリメートルが観測されました。

呉地方での猛威!4時間で降水量113.3mmに!

呉地方では、枕崎台風によって16日の9時ごろから雨が降り始め、16時ごろには本格的な降り方となり、風も相当強くなりました。17日早朝には雨は依然として降り続いていましたが、風は一時的に弱まりました。しかし、10時ごろに再び風が出始め、午後になると雨と風がさらに強さを増しました。18時から22時にかけての4時間の降水量は、113.3ミリメートルに達しました。

梅雨前線との複合効果で被害拡大

枕崎台風が襲来する前に、日本列島には梅雨前線が存在していました。この梅雨前線により、連日降雨が続いていたため、土壌はすでに飽和状態にあったとされています。この状況に台風による大雨が加わったことで、土石流や土砂災害が発生しやすくなりました。

枕崎台風による広島県での死者数のおおよその割合は、土石流を含む土砂災害が2/3、洪水災害が1/3となっています。このことから、土砂災害が枕崎台風の被害の主要な原因であったことがわかります。

戦後間もない日本に大きなショックを与えた災害

枕崎台風は、1945年9月に発生した非常に強力な台風であり、その被害は日本全国に広がりました。死者2,473人、行方不明者1,283人という大規模な人的被害が発生し、戦後間もない時期の日本に大きなショックを与えました。また、被災家屋は360,000棟以上に上り、多くの家屋が倒壊しました。

この広範囲にわたる被害により、生活用品や食料品の不足が生じ、人々の生活に深刻な影響が及びました。戦争による混乱や疲弊が残る中での大規模な自然災害は、国民の生活をさらに困難にしました。また、インフラや農業、漁業などの産業にも大きな打撃を与え、復興に時間がかかることとなりました。

枕崎台風の被害が拡大した要因

枕崎台風がもたらした被害が拡大した要因として、以下の点が挙げられます。

  • 台風自体が超大型であったこと
  • 秋雨前線の活動と台風の来襲が重なったこと
  • 終戦からわずか1カ月余り後の社会混乱の最中に来襲したこと
  • 長い間の戦争で国土が荒廃していたこと
  • 観測通報組織が回復していなかったこと

戦後の焼け野原に追い打ちをかけた、枕崎台風の記憶

枕崎台風は、経済的な影響ももたらしました。1945年当時の枕崎は軍港の色合いがあり、1月以降空襲により徹底的に焼き尽くされていました。終戦直後の9月17日に台風16号(枕崎台風)が襲来し、さらなる打撃を受けたことで、1956年に枕崎市は財政再建団体になりました。

広島原爆からわずか1ヶ月

枕崎台風は、特に広島県に甚大な被害をもたらしました。原爆投下からわずか1ヶ月の広島市は、台風が引き起こす土砂災害や洪水の影響によって再び大きな痛手を受けたのです

被害は広島県全域に及び、山沿いの集落は土石流に襲われ、住民たちは自らの命と家を守るために苦闘しました。しかし、多くの場合で防ぎきれず、家屋が流されるなどの被害が発生しました。

広島県内だけで、死者行方不明者2,012人、家屋全半壊・流失計6,832戸に上る被害を及ぼした。

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呉市を襲った土石流の悲劇

呉市では、1945年9月17日の午後、風と共に雨が激しさを増し、各河川渓流が著しく増水しました。同日18時から22時までに降った雨の量は113.3ミリメートルにも達し、大小全ての渓流が氾濫しました。山腹の崩壊が相次ぎ、二河川の堤防決壊をはじめとして各谷間から土石流が急斜面を押し流れました。

この災害により、あっという間に1,162戸の家屋が流失し、792戸が半壊しました。そして、死者は1,154名にものぼり、大惨事となりました。

宮島、土石流の恐怖に襲われた悲劇

世界遺産・宮島でも、紅葉谷川をはじめとする複数の河川で土石流が発生し、上流部から流出した巨石と大量の土砂が、当時の砂防堰堤を破壊し、周辺の旅館や家屋を巻き込み、紅葉谷川の下流部に位置する厳島神社の社殿を蹂躙した。境内に流れ込んだ土砂は、約18,000m3にも及んだといわれている。

被爆者たちを襲う枕崎台風の惨劇

枕崎台風は、被爆者たちが避難していたバラックや防空壕に大きな影響を与え、彼らの生活をさらに困難にしました。

広島市内を流れる太田川が氾濫し、可部から市内までのほとんどの地域が浸水しました。バラックや防空壕で暮らしていた被爆者たちは この水害によって再び住む場所を失いました。

このような状況は、被爆者たちの心身にさらなるストレスを与え、彼らの回復を遅らせる要因となりました。

被爆後の広島気象台、台風対策の限界

当時の天気図は、中央気象台(現在の気象庁)によって作成され、各地の気象台に天気図の概要や防災に関する情報が送られていました。広島の気象台の職員は、中央気象台からの情報や広島の観測データをもとに、台風の接近を把握しており、防災に関する情報も提供していました。

しかし、原爆によって壊滅的な被害を受けた広島市中心部では、気象台の観測や通報体制が十分に回復しておらず、防災・警戒対策がほとんど取られていませんでした。そのため、市民はラジオでの情報収集ができず、事前に台風に備えることが困難であったことが指摘されています。これにより、被害がさらに大きくなったと考えられています。

豪雨が引き起こした山津波、大野陸軍病院の悲劇

大野陸軍病院は、広島県の大野浦駅西の丘陵地に位置しており、もともと陸軍の結核療養所でした。原爆投下時、病院には約100名の被爆者が入院し、近くの大野国民学校には約1,500人の被爆者が収容されていました。

1945年9月17日の夜、広島地方は台風による豪雨に見舞われました。この豪雨が山津波を引き起こし、大野陸軍病院の裏山が崩れ、本館や病棟が海に押し流されました。この惨事により、医学部研究班8名、理学部研究班3名を含む、収容治療中の被爆者のほぼ全員と病院関係者の合計156名が犠牲となりました。

「戦争や森林伐採の影響」広島市を襲った災害の真相

枕崎台風の被害は、自然的要因と社会的要因が重なり、歴史的な破壊力を持った台風となりました。自然的要因として、非常に強い台風であったことが挙げられます。また、広島市では短時間で大量の降水があったことが、被害を拡大させました。

社会的要因として、戦争や人為的な要因が影響しています。戦時中の森林伐採や土砂崩れのリスクが高まり、河川の堤防も機能を失っていました。また、戦争により技術者が不足し、水害対策が遅れたことも影響しました。

これらの要因が重なり、枕崎台風による広島市の被害が甚大なものとなりました。

自然と社会の要因が重なった歴史的災害

枕崎台風の被害は、自然的要因と社会的要因が重なり、歴史的な破壊力を持った台風となりました。

自然的要因として、枕崎台風は20世紀で二番目に大きい規模の台風であり、上陸時の気圧や風速が非常に高かったことが挙げられます。特に広島市では、短時間で大量の降水があり、太田川上流域で記録的な降雨があったことが特徴です。加えて、8月末からほぼ毎日雨が降っていたため、台風襲来時の河川水位も通常より高かったことが、堤防決壊の原因となりました。

社会的要因としては、1943年の洪水や原爆の影響で河川の堤防が機能を失っていたことが挙げられます。この状況が、降水量200mmという量が市全体の堤防を決壊させる要因となりました。

戦争と森林破壊の影響

もう一つの忘れてはいけない要因が戦争です。

戦時を通じて市を囲む山々の木々が失われ、水害が以前より激甚となる条件が醸成されていました。江戸期以来、広島の山々は人口過密と過剰な開拓により森林が減少していました。明治時代に入り、社会制度や法律が大きく変わり、過去の規制が無効とされたため、市民は自由に森林を伐採しました。

20世紀初頭には日本政府が植林計画を進めましたが、広島が軍事産業都市として急速に発展していたため、ほとんど成功しませんでした。第一次世界大戦も森林破壊を加速させました。太田川上流で無許可の伐採が増え、山の保水能力は大幅に低下しました。水害のリスクが年々高まり、河床は土砂に埋もれました。

1920年代には、広島県が水害対策として植林事業に積極的な姿勢を見せましたが、1930年代半ばからの戦時体制で河川事業の技術者が戦争に動員され、事業が遅延しました。また、終戦時の食糧不足で人々は森林を過剰に伐採せざるを得ませんでした。

過剰な伐採で山の保水力が弱まっていたところに枕崎台風が襲来したことで、多くの場所で土砂崩れが引き起こされました。市民は洪水が再建中の多くの家を飲み込み、山が突然高速で滑り落ち、谷間の建物が一瞬で消失する様子を目の当たりにしました。

複合的要因がもたらした甚大な災害

これらの要因が重なり、枕崎台風による広島市の被害が甚大なものとなったと言われています。

実際に大野陸軍病院があった場所は、大野浦を見下ろす斜面上に位置していました。さらに戦争中、松脂採取のために山を掘り起こし、土砂がむき出しになっていた箇所がありました。これにより、土石流が発生しやすい状態になっていました。これが被害を甚大にした原因だと考えられています。

枕崎台風を契機に始まった復興と防災の取り組み

昭和初期から計画されていた太田川の治水事業は、戦時中に工事が中断されていました。しかし、枕崎台風で大きな洪水被害が発生し、その後の復興と防災対策の必要性が強く認識されたことから、1951年(昭和26年)に工事が再開されました。この治水事業は、河川改修や放水路の整備、堤防の強化などを含んでいました。

そして、1967年(昭和42年)に太田川放水路が完成し、治水事業が完了しました。太田川放水路は、大雨や台風などの際に、太田川から洪水を迅速に排水し、河川の水位を下げることで広島市内の水害を防ぐ役割を果たしています。

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昭和20年9月17日。敗戦直後に襲った枕崎台風は、死者不明者三千人超の被害を日本にもたらした。その内二千人強は広島県。なぜ同地で被害は膨らんだのか?原爆によって通信も組織も壊滅した状況下、自らも放射線障害に苦しみながら、観測と調査を続けた広島気象台台員たちの闘いを描く傑作ノンフィクション。(「BOOK」データベースより)

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