「海ゆかば」とは、日本の戦前から戦中にかけて広く歌われた軍歌であり、第二の国歌とも言われました。この曲は、作曲家の信時潔が放送協会からの依頼によって作曲され、賛美歌風で「高貴」で「崇高」な旋律が特徴的であるため、国民の戦闘意欲を高めるために作られました。
この記事では、「海ゆかば」がどのような背景で作られ、日本の戦争への道を歩む原因となった国家神道や、終戦後にGHQが進めた政教分離についても触れられています。
また、現在でも建国記念の日に反対する集会が開かれるなど、政治的偏向が根強いことが紹介されています。この記事を読むことで、日本の歴史や文化について深く理解することができます。
Umi Yukaba
「海ゆかば」
『海ゆかば』は、かつて大日本帝国政府が国民精神総動員強調週間を制定した際に作られた、当時の日本の代表的な歌曲である。この曲は、放送協会からの依頼によって作曲家の信時潔によって作られたものである。
元々の目的としては、国民の戦闘意欲を高めるために作られた曲であったが、賛美歌風で「高貴」で「崇高」な旋律が特徴的であるため、第二の国歌として親しまれていた。
戦時中、ラジオ放送で大本営発表の冒頭に流されたことから、戦争との印象が強くなってしまいました。そのため、戦後になると事実上の封印状態となり、現在まであまり歌われることはなくなってしまっています。
しかし、その美しいメロディは、日本の音楽史に名を刻んでおり、今もなお多くの人々に愛され続けています。
「海ゆかば」を作曲した音楽家「信時 潔」
信時潔(1887-1965)は、日本の作曲家であり、東京音楽学校(現・東京芸術大学)からドイツに留学後、母校の作曲科教授として活躍しました。
彼は、慶応義塾塾歌、学習院院歌、開成学園校歌、帝京中学校・高等学校校歌など数多くの校歌や社歌を手がけ、また、片山潁太郎、下総皖一、坂本良隆、橋本國彦、呉泰次郎、細川碧、高田三郎といった作曲家たちを育てました。
信時潔の主な作品には、交声曲『海道東征』、歌曲集『沙羅』、戦時歌謡(国民唱歌)『海ゆかば』(大日本帝国海軍の将官礼式用儀制曲『海ゆかば』とは同名異曲)、ピアノ組曲『木の葉集』、合唱曲『紀の国の歌』、『鎮魂歌』などがあります。また、芸術音楽のみならず、文科省唱歌『電車ごっこ』なども作曲しました。
信時潔は、戦前戦後を通じて学校の音楽教科書の編纂や監修にも力を注ぎ、1964年に勲三等旭日中綬章を叙勲されました。彼は1965年8月1日に逝去しましたが、日本音楽史に名を刻む作曲家として、今なお多くの人々に愛され続けています。
「海ゆかば」の歌詞は万葉集の中から抜粋
『海ゆかば』は、信時潔作曲による歌で、歌詞は奈良時代の歌人・大伴家持(おおとものやかもち)による『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」から抜粋されています。大伴家は宮廷の警護と軍事を司る家柄であり、自己を顧みず、お務めに徹することを歌ったものです。
歌は聖武天皇への忠誠心
歌詞: 海行かば 水漬く屍(かばね) (海を行けば、水に漬かった屍となり) 山行かば 草生す屍(かばね) (山を行けば、草の生える屍となって) 大君の辺(へ)にこそ死ねめ (天皇のお足元にこそ死のう) かへりみはせじ (後ろを振り返ることはしない)
この歌の中の「我が大君」とは聖武天皇のことを指しています。歌は、たとえ死体が水に浮くことになっても、草が生えるようになっても、大君の側で死のうとし、自分のことを顧みないようにしようという意味が込められています。
日本の歴史を繋いだ名曲
昭和12年(1937年)、作曲家・信時潔は、古い日本の歌人・大伴家持による『万葉集』の一節「言立」に曲を付けた「海ゆかば」を作曲しました。これは戦前の日本で最も深い音楽とされていました。信時潔はまた、交声曲「海道東征」も手がけています。
「海ゆかば」は遥かな『万葉集』の時代から昭和の戦前までの日本の歴史を貫く響きを持ち、国民の精神を高揚するために使用されました。
『海ゆかば』に対する久世光彦の評価
『海ゆかば』に対する評価として、俳優であり詩人でもある久世光彦が独自の見解を述べている。彼は、「日本で生まれ日本で育った者の魂から春、草が萌え出るように、花がほころぶようにわき起こった歌である。過去の歌として葬ってしまうには、あまりにも口惜しいうたではないだろうか」とコメントし、この曲の美しさや重要性を強調している。
さらに久世光彦は、「この曲の中に、人の命が見える。親から受け、子に伝える血脈が見える。人はどこからきてどこへいくという永遠の質問さえほのかに見えてくるような気がする」と付け加え、『海ゆかば』が持つ独特の感情や哲学的な側面に言及している
このように、久世光彦は『海ゆかば』の普遍性と深い意味を評価し、過去の歌として捨てることには惜しいという意見を持っている。その評価は、この曲が持つ日本の文化や精神性への賛辞となっている。
新保祐司の見解『海ゆかば』は日本人の心に響く崇高な曲
文芸評論家の新保祐司は、『海ゆかば』について「この歌を知らない人は日本人ではない」と断言し、その重要性を強調しています。彼はさらに、「海ゆかば」は義の音楽であり崇高な曲であると語っています。新保さんにとって、この曲は日本人の心に根ざした重要な音楽作品であるということです。
また、、「海ゆかば」には日本の将来においても「その民のうちに強く義を愛する者がある」という希望が響いていると感じています。この曲が持つ普遍的なメッセージは、日本人の精神や美意識を反映しているといえるでしょう。
芥川賞作家・阪田寛夫の『海ゆかば』に対する感想
芥川賞作家の阪田寛夫は、『海道東征』という著書において、『海ゆかば』に対する感想を語っています。彼は初めて聴いた時の印象を、「私には讃美歌のように響いた。大伴家持の歌だのに、旋律も和声も堂に入って西洋風で、そのことが嬉しかった。……日本にもこんな歌ができるようになったのかと、心強く思ったことを覚えている」と述べています。
阪田寛夫は、この曲が持つ讃美歌のような響きや、大伴家持の歌でありながらも西洋風の旋律と和声に感銘を受けていました。そのことから、日本の音楽もここまで進化し、世界に通用する美しい歌が作られることに心強さを感じた様子が伺えます。
喜多由浩が訴える『消された唱歌の謎を解く』
『消された唱歌の謎を解く』(産経新聞出版)の著者・喜多由浩は、戦後75年経った現在でもGHQの意向で「オクラ入り」にされた戦時歌謡や唱歌を一括りにしてアンタッチャブルにしておくことに疑問を呈しています。彼は、「消された歌」の封印を解くのは、誰でもなく日本人自身であると訴えています。
喜多由浩は、唱歌や童謡が日本の大事な伝統文化であり、次代に残す努力や工夫があってこそだと主張しています。
「海ゆかば」は戦争の時代に作られた
1937年、日中戦争のきっかけとなる盧溝橋事件が起こると、日本では文化領域の人員や作品が戦意高揚や啓発宣伝活動に動員されました。同年8月、コロムビアは戦意高揚を目的とした『露営の歌』を懸賞募集によって発売しました。
また、日本放送協会は、国民精神総動員運動強調週間のラジオ放送のテーマ曲として、信時潔に『海ゆかば』を委嘱しました。さらに、内閣情報部は『愛国行進曲』を公募を通じて作成しました。
国民精神総動員強調週間と儀礼歌『海ゆかば』
太平洋戦争開戦前の日本では、国民精神総動員強調週間が行われ、国家への忠誠心を高めることを目的としていました。この期間中、ラジオ放送で信時潔作曲の儀礼歌『海ゆかば』が流されました。
『海ゆかば』は、国民の戦闘意欲高揚を意図して制作された曲であり、賛美歌風の「高貴」「崇高」な旋律が特徴です。この曲は、改まった席で歌われる儀礼歌という位置付けで、国民精神総動員強調週間において、国家への忠誠心を鼓舞する役割を果たしていました。
しかし、その後戦争が激化する中で、『海ゆかば』は戦時中のラジオ放送で、大本営発表の冒頭に流されたことから、戦争の印象が強くなり、戦後は事実上の封印状態が続いています。
「太平洋戦争のはじまり」1941年12月7日 真珠湾攻撃
1941年12月7日午前7時55分(日本時間8日午前3時35分)に、太平洋戦争の幕開けとなる歴史的な瞬間が訪れました。日本軍はアメリカのハワイにある真珠湾の海軍基地を攻撃し、アメリカ本土に対する初の大規模な攻撃を行いました。
この攻撃により、真珠湾に停泊していたアメリカの戦艦や航空機が大きな被害を受け、アメリカは翌日、日本に対して宣戦布告を行いました。
真珠湾攻撃は、日本とアメリカの間で緊張が高まっていた時期に行われました。その背後には、アジア太平洋地域での植民地獲得や資源の確保を目指す日本と、それに対抗するアメリカの利益がぶつかり合っていました。
真珠湾攻撃は太平洋戦争の始まりであり、世界史に名を刻む出来事となりました。
大本営発表とテーマ曲「海ゆかば」
この戦争勃発を日本国民に伝えるため、大本営陸軍報道部長が臨時ニュースを発表しました。この発表には、NHKのアナウンサーによる読み上げと、陸海軍の報道部長による読み上げの2種類がありました。
ラジオ放送では、大本営発表の際にテーマ曲が流れていました。このテーマ曲は、1941年12月8日から使用され始めました。陸軍では「観兵式行進曲」、海軍では「軍艦行進曲」がテーマ曲として用いられ、陸海軍共同の場合には「敵は幾万」が流れました。
「玉砕ミュージック」 として使用
さらに、1937年3月6日の特殊潜航艇によるハワイ攻撃を行った特別攻撃隊員戦死の発表の際には、信時潔作曲の「海ゆかば」が使用されました。
この「海ゆかば」は、1943年5月にアップ島での玉砕(敵前の全滅)が報じられた際にも流され、以降「玉砕ミュージック」と呼ばれるようになりました。
“学徒出陣”と「海ゆかば」が流される
1943年10月21日、明治神宮外苑競技場(現在の新国立競技場の場所)で、「学徒出陣壮行会」が開催されました。このイベントは、文科系学生の徴兵猶予が停止される直前に行われ、彼らが在籍のまま陸海軍に入隊し、戦争に参加することを祝っていました。
壮行会では、行進に合わせて軍歌が演奏され、最後に「海ゆかば」が流れました。これは、日本の国家に対する忠誠心を高める歌であり、学徒たちが戦場で戦うことへの覚悟を示すものでした。壮行会の模様は2時間にわたりラジオで中継放送され、当時の国民に伝えられました。
25,000人の学徒たちが出陣し、そのうち約7,000人が戦死したといわれています。
敗戦へ突き進む日本の中で「海ゆかば」は鎮魂歌
「海ゆかば」は、もともと儀礼歌として作られたものでしたが、太平洋戦争が進行するにつれ、その使われ方は変化しました。真珠湾特別攻撃隊の戦死や山本五十六の戦死など、深刻な戦況を伝える大本営発表の際にも流されるようになり、戦争の悲劇を象徴する音楽として認識されるようになりました。
太平洋戦争が終盤に差し掛かり、日本の敗北が目前に迫るにつれ、「海ゆかば」は「君が代」以上に歌われるようになりました。この曲は、戦死した兵士たちを悼むとともに、生き残った者たちの故郷への思いや決意を表現するもので、まさに日本の鎮魂歌(レクイエム)であると言えます。
“マッカーサー”が日本軍の心理を理解
マッカーサー将軍は、フィリピンの軍事顧問時代に、「海ゆかば」の歌詞を通して日本軍の戦闘心理を理解したという逸話が残っています。
この歌は、日本の武士道精神や忠誠心を表現しており、戦場での覚悟や自己犠牲の精神を強調していました。マッカーサー将軍はこの歌詞を理解することで、日本軍の献身的な戦闘姿勢や、死をも恐れない覚悟を把握することができました。
これにより、日本軍との戦いにおいて、相手の戦術や心理面をより深く理解し、対策を立てることができたと言われています。この逸話は、歌や文学が異文化間の理解に役立つ一例を示しています。
GHQによって「海ゆかば」は封印されてしまった
敗戦後の日本では、国民の間で戦争を否定し反省する気運が高まりました。「海ゆかば」は、戦争を煽動し戦意高揚に寄与した曲の一つであるため、悪夢の時代のシンボルとして封印されることになりました。
戦後の日本は、GHQの占領下に置かれ、特にアメリカの指導のもとで民主主義と平和主義の精神が導入されました。この新たな時代の価値観により、戦争を美化するような歌はタブー視され、避けられるようになりました。
それに伴い、「海ゆかば」のような軍歌は、公の場で歌われることがなくなり、教育現場でも教えられなくなりました。
「神道はカルト!?」背景にはGHQによる占領政策
終戦後、GHQは日本の国家神道を狂信(カルト)とみなし、公的な場から神道を追放することを決定しました。これは、神道指令と呼ばれ、政教分離を目指すものでした。
国家神道とは?
明治時代に生まれた国家神道は、日本国内の神道を統一し、政治と密接に結びついた形で再構築されました。国家神道は、伊勢神宮を頂点とし、天皇家や皇室祭祀を重視する形で神社神道が組み込まれました。これは、日本の多くの国民の精神生活に大きな影響を与えました。
明治政府は、国家神道を宗教ではなく、国家の象徴として位置づけ、神道を権威付けるために積極的に推進しました。その一環として、天皇制を強化し、天皇が神の子孫であるという神性を強調しました。このような変化により、日本の神道信仰は国家と一体化し、国民の道徳や倫理に深く関与するようになりました。
国家神道は、日本の国民に忠誠心や愛国心を植え付ける役割も果たしました。これにより、国民は国家と天皇に対する絶対的な忠誠を誓うことが期待されるようになりました。このような状況は、日本の戦前の歴史において、国家や天皇への忠誠心を強め、戦争への道を歩む原因となる側面もありました。
「神社を破壊すべき」
終戦後、GHQによる神道指令が政教分離を徹底し、国家神道は廃止されました。この指令は、神社神道という宗教組織と国家の分離に焦点を当てたものでした。GHQは、天皇を頂点とした精神的な団結力が日本人を戦争に突き動かしたという考えから、日本の非軍事化・民主化を進めました。
この時期、神道は邪教と見なされ、一部では神社を破壊すべきだという過激な意見もありました。しかし、これは西洋だけでなく、戦後の日本人自身も神道を否定的に捉えるようになったためです。神社への公費支出が違憲に問われることがあり、公教育の場から神道や神話が姿を消しました。
このような状況の中で、日本の精神文化や伝統的な価値観が変化し、現代の日本社会に影響を与えました。しかし、神社や神道が完全に失われたわけではなく、今でも多くの日本人が神社を訪れ、神道に基づく行事や祭りが行われています。神道は、日本の歴史や文化の一部として、現代日本にも息づいています。
祝日も変更させられた
戦前の日本の祝祭日は、神道や天皇制と密接に結びついていました。戦争が終わる前からアメリカは戦後の日本の改革案を練っており、日本の教育制度もその対象でした。
1944年にまとめられた文書は、日本の教育の目的は命令に服従する国家の構成員を作り出すことであると指摘し、祝祭日も国民教化のために使われていると見なしていました。そのため、祝祭日に生徒を遠ざけるよう提案していました。
神武天皇の即位の日である2月11日は、もともと紀元節として祝われていました。戦後、GHQは日本の祝祭日を見直させ、それらが本来持っていた宗教色が薄められることになりました。紀元節の復活は認められませんでした。
その後、建国記念の日は昭和42年(1967年)にようやく祝日として復活しましたが、独立後も左派などが反対しました。
現在も、建国記念の日に反対する集会が2月11日に開かれるなど、政治的偏向は根強いままです。これらの経緯からわかるように、戦後の日本の祝祭日は、国家神道からの距離を置くことを意図して改編されてきました。