「上を向いて歩こう」は、永六輔が作詞、中村八大が作曲した日本の代表的な楽曲の一つです。坂本九の歌唱で大ヒットし、彼の代表曲となりました。この曲が生まれた背景や、作詞作曲家たちのエピソード、坂本九の生涯や活躍など、多岐にわたる情報が紹介されています。
また、この曲が誕生した時期に起こった「60年安保闘争」など、当時の社会情勢についても触れられています。音楽ファンはもちろん、歴史や文化に興味のある人にもおすすめの記事です。
Ue o Muite Arukou
「上を向いて歩こう」
「上を向いて歩こう」は、1961年7月21日に日本で発売された楽曲で、永六輔が作詞、中村八大が作曲を手がけました。歌詞は、失恋した男性が自分を奮い立たせるために歌う歌で、前向きなメッセージが込められています。曲調も明るく、親しみやすいものでした。当時、坂本九はまだ無名の新人歌手でしたが、この曲の大ヒットにより一躍有名になりました。
1960年代の音楽シーン
1960年代は、音楽の歴史において、革新的な時代でした。
この時代には、他にも、ビートルズやローリング・ストーンズといったイギリスのロックバンドが世界中で大きな影響力を持ち、日本でも多くのファンを獲得しました。また、アメリカのフォークシンガー、ボブ・ディランの影響を受けたフォークソングや、アングラ系の音楽も生まれ、多様な音楽シーンが広がっていました
1960年代の日本の音楽シーンでは、アメリカやイギリスのロックンロールやポップスの影響が強く、日本独自の音楽スタイルも次々と誕生しました。
この時代に活躍したアーティストの中には、ザ・タイガース、ザ・ピーナッツ、ザ・スパイダース、ザ・ドリフターズなどがいます。これらのグループは、アメリカやイギリスのバンドに影響を受けつつ、日本独自の要素を取り入れた音楽を生み出し、日本のポップスやロックシーンの発展に大きく寄与しました。
また、1960年代には、フォークソングも大変人気がありました。その中でも、吉田拓郎、加藤和彦、荒井由実(現在の松任谷由実)などのアーティストが、日本独自のフォークソングを創り上げ、多くのファンを魅了しました。
さらに、坂本九の「上を向いて歩こう」をはじめとする永六輔と中村八大による楽曲も、日本の音楽史に名を刻む作品となりました。この時代の音楽は、後の世代に多くの影響を与え、日本のポップカルチャーの礎を築いたと言えます。
1960年代は、日本の音楽史において非常に重要な時代であり、多くの革新的なアーティストや楽曲が生まれました。この時代がもたらした文化的な影響は、今もなお日本の音楽シーンに息づいています。
このような時代背景の中で、革新的な音楽が生まれ、多くの人々に支持されました。それらの音楽は、今でも多くの。
「六・八・九トリオ」永六輔・中村八大・坂本九
「上を向いて歩こう」は永六輔が作詞、中村八大が作曲、坂本九が歌を担当した「六・八・九」トリオの作品です。
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<六>作詞:永 六輔
永六輔は1933年に東京で生まれました。彼は第二次世界大戦中、学童疎開で地方へ移り、終戦を迎えました。自分自身が戦争を体験したことから、永は生涯を通じて平和主義を掲げ、反戦を貫きました。
早稲田大学在学中に作詞・作曲家の三木鶏郎氏の「冗談工房」に入り、放送作家として活躍しました。NHKの人気番組「夢であいましょう」の台本を担当するなどし、また、自らラジオ番組の司会者として出演し、視聴者から高い支持を得ました。永氏が長年にわたり担当したラジオ番組「永六輔の誰かとどこかで」は、2013年9月まで46年間続いた全国番組として最長の記録を持っていました。
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TV番組の台本や様々な名曲の作詞を担当!
NHKの番組「夢であいましょう」だけでなく、数々の音楽番組やバラエティ番組の台本も手がけ、その才能を広く発揮しています。また、「上を向いて歩こう」や「遠くへ行きたい」以外にも、「こんにちは赤ちゃん」や「女のみち」など、多くのヒット曲の作詞も手がけ、昭和時代を代表する作詞家として高い評価を受けています。
早大同級生に作曲家「中村 八大」
早稲田大学在学中の永六輔さんは、同じ早稲田大学出身の中村八大さんの熱烈なファンで、中村八大さん達のジャズ・バンド”ビック・フォー”(ピアノ:中村八大、ドラムス:ジョージ川口、テナーサックス:松本英彦、ベース:小野満)の”追っかけ”をしていたことでも知られています。また、大橋巨泉とは後に親交を深め、永六輔さんが出演したテレビ番組「花王名人劇場」では大橋巨泉が司会を務めていたこともありました。
忙しくなり大学に行けなくなり、同じく忙しかった中村八大と共に「学費滞納」で掲示板に貼り出されたエピソードがります。
中村八大と永六輔の「86コンビ」が誕生
昭和34年、大学の先輩でである、中村八大から映画の挿入歌の作詞を頼まれ、書き上げたのが「黒い花びら」でした。この曲は水原弘が歌って大ヒットし、第1回レコード大賞を受賞しました。同じ年にスタートしたバラエティ番組「夢で逢いましょう」では「八大・六輔」の「86コンビ」として活躍し、次々にヒット曲を生み出しました。
中村八大さんと永六輔さんのコンビは、軽快で奔放な、踊りやすいメロディーを作り、永さん自身が詩を書いていました。彼らは、日本のポップス界に、一大革命を起こしました。
「上を向いて歩こう」は60年安保闘争の影響
永六輔さんが「上を向いて歩こう」を作ったのは、失恋で落ち込んだと思われるという説があります。永さんが失恋して泣きじゃくった時、中村メイコさんが結婚することを心から祝福したメイコさんのお父さんが「涙がこぼれないように上を向いて歩きなさい」と慰めてくれたというエピソードが歌になっていることで、この曲が誕生したといわれています。
他に60年安保闘争で落ち込んだ時という説があります。
1960年の日米安全保障条約改定により、日本国内にアメリカ軍が駐留することに反発した反対運動が起こり、大規模なデモや暴動が発生したことを指す「60年安保闘争」は、激しい衝突や多数の被害者を出し、日本の民主主義の発展に大きな影響を与えた。
実際に、永さんは自身のラジオ番組で、「60年安保闘争に敗北したことは本当に悔しかった」と尋常ならぬ悔しさをにじませて語っていました。このように、社会情勢や時代背景が音楽や詩に反映されることがあるのです。
【編集日誌2】1960年の改定日米安保条約の調印から、本日で60年。米軍の日本防衛義務が明記された半面、日本は基地提供の義務を負い、沖縄などの長く続く苦難の要因にもなりました。国会での強行採決は6月。安保闘争の渦中で、樺美智子さんが亡くなったのもこの年でした。 pic.twitter.com/j2rgkozoi8
— 東京新聞編集局 (@tokyonewsroom) January 18, 2020
「上を向いて歩こう」は忌野清志郎も認める最高のロックナンバーと評価
「上を向いて歩こう」は、かつて忌野清志郎が「日本でもっとも有名なロック・ナンバーです」と紹介した。
忌野清志郎氏は「上を向いて歩こう」を愛唱し、ライブでも何度も歌いました。彼がこの曲を歌うと、会場中の人々が一緒に歌い、盛り上がる様子がよく伝わっています。彼のカバーは、この曲が日本のポップス史上不朽の名曲であることを証明するものの一つとなっています。
忌野清志郎さん歌う「上を向いて歩こう」、阿部サダヲ主演映画主題歌に(写真 全3枚) #映画 #RCサクセション #忌野清志郎 #阿部サダヲ #音楽 #ニュース https://t.co/KsAKRlTIxT pic.twitter.com/fksV6DXXWi
— ORICON NEWS(オリコンニュース) (@oricon) March 8, 2016
<八>作曲:中村 八大
「上を向いて歩こう」の作曲家、中村 八大は1939年に中国の青島で生まれ、幼少期から姉の習うピアノの音色に親しんでいました。小学4年生の時に単身で2年間の「東京留学」を経験し、その後も音楽に親しむ生活を送りました。太平洋戦争が勃発し、表現の自由が制限される中で、彼は音楽によって自己表現を試みるようになりました。
青島に帰った後、中村八大はローゼフ・ローゼンストック氏とダ・カール・ヘルス氏の手ほどきを受けることができました。ヘルス氏はナチスドイツのユダヤ人迫害から逃れて青島にやってきていたのです。中村八大は常にヘルス氏に畏敬の念を抱きながら音楽表現の美しさや素晴らしさを学んだといいます。中村八大音楽が形成された原点は、このヘルス氏にあるといっても過言ではありません。
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「天才的なジャズ・ピアニスト」と言われた
昭和25年(1950年)に早稲田大学第一文学部に入学した中村八大は、兄の中村二大を通して渡邊晋(渡辺プロダクション創業者)と出会い、当時のジャズブームの背景もあって、テナーサックス奏者の松本英彦らと「シックス・ジョーズ」を結成しました。この時既に中村八大は天才的なジャズピアニストとして高く評価されていました。「その年の夏休みには、早速ジャズピアノのアルバイトを始め、夏休みの一カ月間を大阪のキャバレー“赤玉”で、ピアノを弾いていた」といいます。
在学中にジャズピアニストとしてデビュー!!
中村八大はその後、「ビッグ・フォア」というジャズバンドに参加しました。ビッグ・フォアは、日本のジャズシーンにおいて非常に人気があり、そのメンバーは熟練したプロのミュージシャンたちで構成されていました。中村八大はピアニスト兼アレンジャーとしてこのバンドに加入し、その才能を発揮しました。
ビッグ・フォアでの活動を通じて、中村八大は一気に人気を集め、その名声は広がりました。
音楽の流行はジャズからロカビリー移っていった
時代がジャズからロカビリーブームに移る中、東宝映画の企画でロカビリーを取り入れた映画が2本計画され、中村八大はその音楽監督に起用されました。彼の卓越した才能と経験が評価され、映画業界でも活躍の場を広げていったのです。
渡辺晋からは、映画のために一晩で歌う曲を作るように依頼されたと伝えられています。中村八大はその依頼に応え、短期間で素晴らしい楽曲を提供しました。これは彼の作曲家としての才能の高さを示すエピソードであり、映画音楽においても大きな影響力を持つことになりました。
八六コンビ「永六輔との偶然の出会い」
翌日までに10曲仕上げて欲しいという要求に困り果てた中村八大は、ある日有楽町の路上で同じ早稲田大学の永六輔と偶然出会います。永は中村の悩みを聞き、一緒に考えることになりました。そしてなんと「黒い花びら」や「黄昏のビギン」を含む楽曲を一晩で書きあげたのです。
この出会いがきっかけで、中村八大と永六輔はタッグを組むことになります。二人の才能が結集したことで、彼らは瞬く間に日本の音楽シーンで大きな影響力を持つ存在となりました。
『日本レコード大賞』第1回受賞曲
映画『青春を賭けろ』のために依頼されたオリジナル曲の一つであった「黒い花びら」は、後に水原弘によって歌われ、『日本レコード大賞』の第1回受賞曲に輝きました。この楽曲は、中村八大と永六輔のコラボレーションの結果生まれた名曲であり、彼らの才能が評価されるきっかけとなりました。
坂本九との運命的な出会い!
坂本九が映画『青春を賭けろ』の出演者として登場しており、中村八大はすぐに坂本九のファンになりました。
1961年には自身の三回目のリサイタルのため曲を制作。それに坂本九抜擢した。これが名曲「上を向いて歩こう」の発表になった。
中村八大は当時既にジャズピアニストとして活躍していましたが、永六輔は放送作家として売り出し中であり、坂本九はロカビリーで人気を集め始めた歌手でした。それぞれが異なる分野で活躍していたことから、彼らが出会い、協力することで、新しい音楽的な作品が生まれたと言えます。
中村八大は様々な名曲を世に送り出している
中村八大氏は国民的作曲家のひとりであり、数多くの名曲を生み出しました。彼は70年に催された日本万国博覧会のテーマ曲「世界の国からこんにちは」や、『笑点』のテーマ音楽なども手がけています。
また、大学の後輩である永六輔氏とともに音楽バラエティー番組「夢であいましょう」から、「上を向いて歩こう」「遠くへ行きたい」「こんにちは赤ちゃん」など数々のヒット曲を生み出しました。
中村八大は1992年に61歳で亡くなりましたが、彼の作品は今も多くの人々に愛され続けています。1999年には、4枚組のCD「中村八大作品集-上を向いて歩こう」が発売され、その軌跡をたどることができます。また、長年親交のあった黒柳徹子からは、「あなたは天才でした」という自筆文が寄せられています。彼の曲は今も多くの人々に愛され、語り継がれています。
<九>歌:坂本 九
坂本九は、本名を大島久といい、九男だったことから「九ちゃん」と呼ばれていました。
戦時中、坂本九は母親の故郷である茨城県笠間市に疎開していました。自然豊かな環境で過ごした少年時代が、彼の音楽的才能を育んだと言われています。こうした環境は、彼が音楽に対する感性を磨くのに大いに役立ちました。
また、坂本九は明るく元気な性格で、いたずらも好きな少年だったそうです。彼の陽気でポジティブな性格は、後の音楽活動においても大きな影響を与え、彼が歌う楽曲にもそのエネルギーが感じられました。
そんな坂本九が、中村八大と永六輔と出会い、「上を向いて歩こう」という名曲を生み出すことになりました。
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エルヴィス・プレスリーの影響
坂本九は無名時代、エルヴィス・プレスリーの歌マネが得意で、それでチラッとテレビに出たこともあったとされています。彼はエルヴィス・プレスリーの影響を受けており、そのスタイルや歌唱法を学んでいました。
1958年の夏、坂本九は日劇ウエスタンカーニバルの舞台に立ち人気を確立しました。この時、彼は既にバンドボーイとして活動しており、米軍キャンプやジャズ喫茶でのライブでも経験を積んでいました。彼の才能は徐々に認められ始め、音楽業界での地位を築くことになります。
あの「ザ・ドリフターズ」に加入も脱退
そして、日劇ウエスタンカーニバルでのパフォーマンスがきっかけとなり、ザ・ドリフターズに加入し、ボーカルを担当してデビューしました。
ザ・ドリフターズは、メンバーには志村けんや加藤茶などがいたことでも知られている、1952年に結成された日本のコメディアン集団で、音楽活動も開始しており、1960年代には大ヒット曲を連発して一世を風靡していました。
坂本九は第3回日劇ウエスタンカーニバルに初出演し、新人賞を受賞すると、その半年後にはドリフターズを脱退してしまいました。
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「上を向いて歩こう」に抜擢され一躍時の人に!
1959年(昭和34年)にビクターから再デビューを果たした坂本九は、「ステキなタイミング」や「カレンダー・ガール」など1950年代後半から1960年代前半にかけてヒット飛ばしたものの、世の中的には全く無名の状態が続いていました。
そんな中、中村八大のリサイタルで「上を向いて歩こう」が初めて演奏された際、坂本九がこの曲の歌唱を担当し、大きな反響を呼ぶことになりました。
坂本九の独特すぎる歌い方!
坂本九の歌の特徴のひとつに、キュートなファルセットボイスが挙げられます。ファルセットボイスは、声帯が震えながら発する高い声のことで、坂本九の歌にはその特徴的な高音が多用されていました。また、坂本九は独特のアドリブや早口での歌唱も得意としており、その歌唱力によって多くの人々を魅了しました。
「上を向いて歩こう」の録音の際、坂本九が「ウヘホムフイテ、アールコホゥホゥホゥ」と歌い出すと永六輔さんは一瞬自分の作った詞を歌っているのか、耳を疑ったそうです。そして、「おまえ、どこにホゥホゥホゥと書いてあるんだ」と叱った。それでも、なぜか一度聴いたら耳から離れない歌だった。
後に永さんは、坂本九が実家に訪れた時、母親から清元や小唄を仕込まれていたことを知り、彼の歌い方に日本の伝統が生きていたと気づき、感心した。
日本航空123便墜落事故に巻き込まれこの世を去った。
1985年8月12日、日本航空123便(JAL123)が群馬県上野村に墜落するという悲劇的な事故が発生しました。この事故は、死者520名を出す、一連の商業航空便事故の中で最も犠牲者が多い事故となっています。僅か4名の生存者がいるものの、多くの人が命を落とすこととなりました。
悲しいことに、坂本九もこの日本航空123便に搭乗しており、事故で亡くなりました。その時はまだ42歳でした。
坂本九は、普段から国内の移動は必ず全日空を使っており、妻も手配を必ず全日空で指定していたほどでした。しかし、当日はお盆と夕方のラッシュ時で全日空の手配ができず、やむを得ず日航機123便に乗ることになったということが判明しています。
さらに、坂本九は空港でジャズピアニストの世良譲と会っていました。酒好きの世良に「飲む量へらして下さいよ」と言って、手を振って笑顔でゲートに消えて行ったという。
坂本九の死は、日本だけでなく世界中のファンに衝撃を与えました。坂本九が生涯を通じて残した業績は、音楽史に名を刻むものであり、その死は多くの人々にとって大きな損失となりました。
坂本九の訃報を受けて、彼の楽曲や彼が関わった映画が再評価されることとなり、彼の名声はその後も継続して広がりました。彼の歌う「上を向いて歩こう」は、彼の死後も多くの人々に勇気と希望を与え続けています。坂本九の死は悲しい出来事でしたが、彼の遺した音楽は今もなお、世界中の人々の心に響き続けています。
【#今日は何の日】1985年8月12日、日本航空123便が群馬県の「御巣鷹の尾根」に墜落する事故が起きました。単独機での事故では航空事故史上最悪となる死者520人を出し、4人が重傷。「上を向いて歩こう」で知られる歌手の坂本九さんも搭乗していました。(?:時事通信) pic.twitter.com/BQMRAyKNLQ
— BuzzFeed Japan News (@BFJNews) August 11, 2017
坂本九さん日航機墜落事故死から34年 坂上忍が家族に直撃取材(写真 全6枚)https://t.co/yAGk3txApG
— ORICON NEWS(オリコンニュース) (@oricon) August 7, 2019
#坂本九 #坂上忍 #フジ
今も歌い継がれる坂本九の名曲の数々数々
坂本九は、1958年にデビューしてから、「見上げてごらん夜の星を」、「明日があるさ」、「幸せなら手をたたこう」などのヒット曲を連発しました。特に、「上を向いて歩こう」は、NHKの音楽バラエティ番組「夢であいましょう」で歌われ、大ヒットを記録しました。同年には、紅白歌合戦に初出場しました。さらに、この曲は「SUKIYAKI」というタイトルで全米でも発売され、全米ナンバー1を獲得しました。その後も、歌手、司会、俳優、チャリティー参加など、多岐にわたる活躍で、お茶の間を楽しませる存在となりました。
【映画】上を向いて歩こう
映画『上を向いて歩こう』は、坂本九が主演し、同名のヒット曲を中心に物語が展開される作品です。この映画は、彼の持ち前の明るいキャラクターと音楽性を活かした、感動的で楽しい物語を描いています。
坂本九は映画で、ハワイアン・シャツにジーンズといういでたちで、明るく元気な若者を演じています。彼の自然体で愛らしい演技は、観客に元気と勇気を与える力がありました。
映画の中で坂本九は、ハワイ旅行から帰国し、家族や友人たちとの交流を通じて成長していく姿が描かれています。彼が抱える悩みや困難に立ち向かいながら、周りの人々と支え合って前に進む様子は、多くの人々に共感を呼びました。