「Silent Night」の歴史に迫る!200年の軌跡と世界的なクリスマスソング誕生秘話

「Silent Night」、日本では「きよしこの夜」として広く知られるこの聖歌は、1818年にオーストリアの小さな村、オーベルンドルフで誕生しました。

ナポレオン戦争後の荒廃した社会状況の中、二人の神父が協力して作り上げたこの美しい曲は、世界中で愛され、平和と団結の象徴として知られています。記事では、この曲の誕生にまつわるエピソードや、作詞作曲者の経歴、そして現在でもその歴史を讃えて建てられた礼拝堂について紹介されています。クリスマスシーズンに読むと、より一層心温まる記事でになっています。

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一八一八年のクリスマスイブ。ザルツブルク近郊のオーベルンドルフ村で「きよしこの夜」が初めて披露されたとき、伴奏はギターだった。聖ニコラウス教会のオルガンが壊れていたからだ。このクリスマス聖歌が初めて演奏された時は、この曲が世界的に有名になり、一五〇もの国の言葉に翻訳されるとは誰も思いもしなかった…。世界一有名な歌の、知られざる物語。(「Books」出版書誌データベースより)

きよしこの夜

Silent Night a.k.a Stille Nacht

ThePianoGuys/YouTube

クリスマスの時期が近づくと、あちこちで美しいクリスマスキャロルが聞こえてきます。その中でも、「Silent Night(きよしこの夜)」は、元はドイツ語の讃美歌『Stille Nacht(シュティーレ・ナハト)』を原曲とするクリスマスキャロルで、世界中で愛されている曲です。

RTV Regionalfernsehen/YouTube

「Silent Night」の誕生地、オーベルンドルフの聖ニコラウス教会

「Silent Night」が生まれた場所は、オーストリアのザルツブルク市から北に30分ほど行ったところにある、オーベルンドルフという小さな村のはずれの緩やかな丘に立つ聖ニコラウス教会(the Nicola-Kirche)です。1818年に、ヨーゼフ・フランツ・モールが詩を書き、フランツ・クサーバー・グルーバーが曲をつけることで、「Silent Night」が誕生しました。

戦争の終結と国境再編がもたらした新しい時代

1818年は、ナポレオン戦争が終結した後のヨーロッパ大陸において、多くの変化が起こっていました。ナポレオン戦争は、1799年から1815年まで続いた一連の戦争で、フランス革命政府とその後のナポレオン帝国と、ヨーロッパの他の列強との間で繰り広げられました。

戦争が終わると、ウィーン会議(1814-1815年)が開催され、ヨーロッパの国境線が再編されました。ウィーン会議は、ヨーロッパの勢力均衡を回復することを目的としており、ナポレオン戦争の勝者たちが、国境や領土の再編を行いました。

ドイツの小さな町が直面した生活再建と文化の変化

オーベルンドルフは、オーストリアのチロル州にある小さな町です。チロル州はオーストリア西部に位置し、美しい山々や自然に囲まれています。

オーベルンドルフは、ドイツ南部のバーデン=ヴュルテンベルク州にある小さな町です。ナポレオン戦争の影響で、オーベルンドルフは他国の支配下に置かれ、住民たちは厳しい時代を過ごしました。戦争の影響でインフラが破壊され、経済が混乱し、食料や物資が不足する中、住民たちは生活の再建に努力しました。また、新たな支配国との調整によって、文化や言語、法律なども変化し、住民たちは多くの困難に直面していました。

はじまりは音楽家であり聖職者でもあった二人の出会い

ヨーゼフ・モールは、オーストリアのザルツブルグ出身の音楽家であり、聖職者でした。彼は貧しい家庭に生まれましたが、音楽の才能が認められ、幼少期にはザルツブルグ大聖堂の合唱隊で歌っていました。その後、音楽学校で学び、神学校へ進んで聖職者になりました。ヨーゼフ・モールは、1817年10月にオーベルンドルフの聖ニコラウス教会の助任司祭に赴任しました。

同年、モールはフランツ・クサーバー・グルーバーに出会いました。グルーバーは貧しい農家の生まれの中、小学校の教師として教会の管理人をしていました。

グルーバーはオーベルンドルフの聖ニコラス教会で聖歌隊の指揮者とオルガン奏者としての役割も担っていました。

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クリスマスの前夜、オーストリアの小さな村で起こったトラブル

1818年、戦争の影響で社会全体が暗い空気に包まれていた中、ヨーゼフは今年のクリスマスのミサを特別なものにしたいと考えました。しかし、前日の24日に大問題が発生しました。

その日の朝、グルーバーがパイプオルガンを弾こうとすると音が出ませんでした。調べてみると、ネズミがオルガンの中に入って、風袋(ふいご)を噛み切っていました。

最悪な事に、この村にはオルガンを修理を出来る人はいなかった、そのためチロル州から修理工が来るのを待つしかありませんでした。

それは最低でも2週間はかかり年明けになってしまいます。当然、オルガンが壊れているため、教会のミサには使えないだろうとモールは頭を抱えました。

修理不能なオルガンから生まれた新しいクリスマスソング

絶体絶命の状況の中で、2年前の1816年に赴任地であったザルツブルグ州マリアプファルで書いた6段落からなる歌詞を思い出しました。それはいつか、子供たちに歌わせることを考えて作った歌詞でした。

モールは、オルガンが故障している状況でも、自分の歌詞に曲を付けて歌えば何とかミサができるかもしれないと考えました。彼はグルーバーに歌詞を渡し、作曲を依頼しました。

依頼には、「今から24時間以内に完成させて欲しい」「ギターで歌える讃美歌として伴奏アレンジを仕上げて欲しい」という厳しい注文が付いていました。

当時、ギターは宗教行事で使われる楽器ではなかったため、グルーバーは「ギターは弾けないし、作曲は無理だ」と言いましたが、モールは諦めず、「ギターのコードは3つくらい知っているだろう?」と尋ねました。グルーバーがうなずくと、モールは「じゃあ、今夜、君の伴奏で新しいクリスマス讃美歌を歌おう!」と提案し、ヨーゼフの熱心な説得により、フランツは渋々これらの要求を受け入れました。

Boyce Avenue/YouTube
「Silent Night」の誕生

その後、ヨーゼフは一晩中作曲に励み、美しいメロディーを生み出しました。ヨーゼフとモールは、この讃美歌にハーモニーを加えてデュエットで歌い、そしてついに楽譜が完成しました。それはミサが始まるわずか30分前のことでした。

オルガンの代わりにギターが響く、初めて演奏されたクリスマスの夜

1818年12月25日の真夜中のミサで、この曲が初めて演奏されました。モール自身がテノールを担当し、グルーバーがバスを担当しました。残りの部分は2人の女性(四重唱)が歌い、そしてもちろん伴奏はギターでした。この時に演奏された曲は、今日こそが私たちが知っている「Silent Night(きよしこの夜)」でした。

その日、オーベルンドルフの聖ニコラス教会に集まった村人たちは、生まれて初めてギターの伴奏で礼拝を行いました。そして、ギターとともに聖歌隊が歌い上げるこの讃美歌に、皆深く感動したと伝えられています。その美しいメロディと歌詞は、聖なる夜の雰囲気を一層高め、心に深く響いたのでしょう。

オルガン修理職人が広めた美しいメロディと歌詞

この歌はすぐに村で評判となっていましたが、長い間村の外に広まることはありませんでした。

チロル州フューゲンからオルガン修理職人カール・マウラッヒャーがミサに訪れた時、彼はこの新しい讃美歌「Silent Night」を聴き、その美しいメロディと歌詞に感動しました。彼はモール神父から楽譜の写しをもらい、自分の故郷チロルに戻り、クリスマスのミサでその曲を演奏しました。

この美しい讃美歌はすぐにチロルの人々の心をつかみ、特に冬の間に出稼ぎで各地を旅しながら歌っていたチロルの歌手たちの間で大流行しました。

チロル地方で愛されたクリスマスソングが拡散した2つのルート

「Silent Night」が誕生したオーベルンドルフから150km離れたチロルで、この曲は大いに評判となりました。この地方出身の旅商人たちが、歌を交えた客引きを行う習慣があり、彼らの手によりこの曲は広まっていったのです。その拡散のルートには主に二つありました。

旅商人や音楽出版社の手によって広まったクリスマスソング

一つは、手袋やその他の布製品を扱う旅商人であるシュトラッセル家が関与したルートです。彼らは新製品の発表時にフォークソングを歌うことがあり、ドイツのライプツィヒで「Silent Night」を含む故郷の歌を歌って客引きを行っていました。これが注目され、クリスマスミサやコンサートでの演奏を求められるようになり、やがてこの曲はドイツ全土に広まっていったのです。

その後、ドレスデンの音楽出版社のアントン・フリーズがこの曲を偶然聴いて感動しました。さっそく聞き覚えた曲を書き起こし、出版しました。ただし、曲はチロル民謡として紹介され、作詞者や作曲者の名前は記されませんでした。

こうして、「Silent Night」は作詞者、作曲者不明のまま全世界に広がり、多くの人々に愛される曲となったのです。その中にはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム四世もおり、彼はこの曲を特に気に入っていたと伝えられています。

「Silent Night」の拡散に貢献した合唱団「ライナー家」

一方で、ライナー家という合唱団が、「Silent Night」の拡散にも大いに寄与しました。彼らは「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ一家のように世界中を旅しながら歌を披露していました。

1822年には、オーストリア皇帝フランツ一世とロシア皇帝アレクサンドル一世の前でこの歌を歌ったとされています。さらに、ドイツ、イギリス、ロシアでの公演を経て、1839年にはアメリカでも公演を行いました。

こうしてライナー家の手により、「きよしこの夜」は世界中に広まり、多くの人々から愛される曲となったのです。

忘れ去られた起源

その頃には、この曲の起源はほとんど忘れられていました。作詞者のモールは自分が作った歌が大流行していることを知らずに1848年に亡くなってしまいました。

また、作詞者と作曲者が無名であったため、長い間モールとグルーバーの名は忘れられていました。その結果、この曲はハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンの作品として紹介されることもありました。

長い間作者不明とされた名曲の真相

その頃、カトリックの修道会などが「きよしこの夜」の作者を特定するための調査を始めました。

初演から36年後の1854年、この曲の作者をフランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟、ヨハン・ミヒャエル・ハイドンだと推測したベルリンのプロイセン王立宮廷楽団が、ザルツブルクの聖ペーター・ベネディクト会修道院にオリジナルの楽譜が保管されていないかと照会しました。

ミヒャエル・ハイドンはモーツァルトの後任としてザルツブルクの宮廷と大聖堂のオルガニストに就任し、多くの教会音楽・聖歌を作曲していたため、この推測は必ずしも的外れではありませんでした。

しかし、当時、この修道院の少年合唱団にフランツ・グルーバーの息子、フェリックスが所属していました。彼は「きよしこの夜」が自分の父、フランツ・クサーバー・グルーバーの作品であると証言しました。

これを受けて、修道院の合唱団監督であったアンブロス・プレンシュタイナー神父は、フェリックスにベルリンの楽団に曲の真の起源を伝えるよう促しました。

フェリックスがこの事実を父親に伝えたことで、「Silent Night」の作詞・作曲の真実がついに明らかになったのです。

世界中を包むクリスマスソング

「Silent Night(Stille Nacht)」はその頃にはすでにドイツの教科書に取り上げられ、カトリック教会だけでなくプロテスタント教会でも歌われるようになりました。もともとはドイツ語の歌でしたが、すぐに英語版も現れました。

キリスト教の宣教師たちによって広められ、19世紀の終わりには世界の全大陸で歌われるようになりました。現在では、世界中の330以上の言語に翻訳され、社会的、宗教的、そして文化的な架け橋となっています。

当時の著作権の考え方や制度は、現在ほど厳格ではありませんでしたが、それ以上に、モーアとグルーバーの二人はとても謙虚でした。グルーバーがモーアより少し長生きしたため、この曲が広まったことを知ることができました。彼はそれを素直に喜び、誇りに思ったことでしょう。

しかし、彼が著作権を振りかざして財産を増やすことを考えることはなかったようです。彼らの目的は、美しい音楽を作り出し、人々の心に触れることであり、その目的は見事に達成されました。

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世界をつなぐ平和の歌

「Silent Night」は、戦争や困窮の時代に生きる人々に希望を与えることを願って作られました。モールが書いた誰もが理解できる詩と、グルーバーが作曲した誰もがすぐに歌えるメロディは、シンプルながらも多くの人々の心を動かしました。

オーストリアの町ハラインにあるケルト博物館には、「きよしこの夜」の最初の演奏で使われたギターが展示されています。この曲は世界中で歌われ、平和と団結の象徴として、2011年にオーストリアのユネスコ無形文化遺産に登録されました。

第一次世界大戦中のクリスマス休戦では、敵同士だったイギリス兵とドイツ兵が塹壕でこの歌を歌ったエピソードがあります。この出来事は、歌詞に込められた平和と平穏への願いを象徴しています。戦争が続く厳しい時代でも、この歌は人々に希望を与え、敵対する兵士たちの心をひとつにする力を持っていました。

オーストリアのオーバンドルフにある「静かな夜の記念礼拝堂」

「Silent Night」の初演の地、オーストリアのオーバンドルフには、その歴史を讃えて「静かな夜の記念礼拝堂」(Stille Nacht Kapelle)が建てられています。

モーアとグルーバーが歌った聖ニコラウス教会は、度重なる洪水のため、取り壊しを余儀なくされた。新しく安全な立地に橋が作られたため、オーベルンドルフの村自体が橋と共に移動し、教会も役割を終えた。

しかし、「Silent Night」の誕生地を記念する礼拝堂の建設が望まれ、1924年に聖ニコラウス教会の跡地に小さな礼拝堂が建てられました。祭壇にはキリストの誕生が描かれ、左右のステンドグラスにはモーアとグルーバー、そして当時の教会の姿が刻まれています。

また、クリスマス・イヴには特別な行事が開催され、人々は「静かな夜」を共に祝うために集まります。この美しい曲の誕生の地を讃えるこの礼拝堂は、音楽史やクリスマスの伝統に興味のある人々にとって、訪れる価値のある場所となっています。

Ja zu Oberndorf/YouTube

生誕の地で200年記念式典が開催!

2018年は、聖歌「きよしこの夜」が生まれてから200年目の年でした。

生誕200年を記念して、オーストリアのオーベルンドルフでは、2018年11月25日に記念式典が開かれました。オーケストラが聖歌を演奏し、曲の200年を振り返る動画も上映されました。また、オーベルンドルフの教会で、聖歌が初めて演奏された場所でもある聖ニコラス教会で、特別な演奏会も開かれました。

「きよしこの夜」は、クリスマスの伝統的な音楽として、世界中で歌われ続けています。その美しいメロディーと歌詞は、多くの人々に喜びと平和をもたらしています。

Bayerischer Rundfunk/YouTube
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一八一八年のクリスマスイブ。ザルツブルク近郊のオーベルンドルフ村で「きよしこの夜」が初めて披露されたとき、伴奏はギターだった。聖ニコラウス教会のオルガンが壊れていたからだ。このクリスマス聖歌が初めて演奏された時は、この曲が世界的に有名になり、一五〇もの国の言葉に翻訳されるとは誰も思いもしなかった…。世界一有名な歌の、知られざる物語。(「Books」出版書誌データベースより)

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