「きよしこの夜」はいつ日本に伝わった?──時を超えて変化する訳詞

日本の冬の風物詩として、あちこちで響く「きよしこの夜」。キャンドルの灯りが揺れる聖夜、教会や家庭でこの歌が歌われる時、多くの人々の心は温かな気持ちに包まれます。しかし、「きよしこの夜」が日本の土壌に根付くまでの歴史を知る人は意外と少ないのではないでしょうか。

この有名なクリスマスソングは、いったいいつ、どのような経緯で日本に伝わったのでしょうか。また、時間とともにどのような変遷を遂げてきたのか、歌詞の変化を通じてその背後にある日本の歴史や文化の変動を探る旅に出かけましょう。

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一八一八年のクリスマスイブ。ザルツブルク近郊のオーベルンドルフ村で「きよしこの夜」が初めて披露されたとき、伴奏はギターだった。聖ニコラウス教会のオルガンが壊れていたからだ。このクリスマス聖歌が初めて演奏された時は、この曲が世界的に有名になり、一五〇もの国の言葉に翻訳されるとは誰も思いもしなかった…。世界一有名な歌の、知られざる物語。(「Books」出版書誌データベースより)

Silent Night

「きよしこの夜」

Ruah Worship/YouTube

賛美歌として知られる「きよしこの夜」は、日本での長い歴史を通じて、多くの出来事や文化的背景に影響を受けながらも、変わらずに人々に愛され続けています。

「きよしこの夜」の日本での歴史とその変遷

1909年に出版された『讃美歌』第2編に、「きよしこの夜」が初めて収録されました。これが、日本におけるこの曲の最初の公式な収録となります。日本のキリスト教界において、この歌はすぐに広まりを見せ、クリスマスの時期に教会での礼拝や集会で歌われるようになりました。

教育現場への導入

1961年に、小学校6年生の音楽の教科書に「きよしこの夜」が採用されました。これにより、キリスト教徒でない家庭の子どもたちにも、この曲が知られるようになりました。この時期の日本では、西洋の文化や価値観が徐々に受け入れられるようになってきており、「きよしこの夜」もその一環として学校教育の中で紹介されました。

1961年から1988年まで、小学校の音楽の教科書に掲載され続けました。学校で習った子供たちは、家族や友人と共にこの歌を歌う機会が増え、徐々に宗教の枠を超えて広く受け入れられるようになりました。

全国的な普及

日本のクリスマスの風景は、オーストリアや他の欧米諸国とは異なる独自の形を取っていますが、共通して「きよしこの夜」が歌われることは変わりません。この歌は、日本の冬の風物詩として、多くの人々に親しまれてきました。

災害との絆

1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生し、多くの人々が犠牲となりました。震災の影響で全壊した神戸栄光教会は、9年間の復興期間中、テントでの礼拝を続けました。その中で、クリスマスの度に「きよしこの夜」が歌われ、人々の励ましとなりました。この事例を通じて、「きよしこの夜」がどれだけ人々の心に深く根付いているかが分かります。

由木康と「きよしこの夜」

今ではクリスマスが近づくと、日本の街角で「きよしこの夜」のあたたかなメロディが響きわたっています。この歌は誰もが一度は聴いたことがあるほど、日本人には馴染み深いものになっていますが、日本語の歌詞を手がけた由木康(ゆうき こう)の存在については、あまり知られていないかもしれません。

由木康の足跡

1896年、鳥取県西伯郡上道村に生まれた由木康は、クリスチャンであった養父のもとで、彼の宣教活動の影響を深く受け取りました。鹿児島、神戸、対馬と、宣教の都合で日本各地を転々とする中、由木は中学時代から詩の才能を発揮し始めました。

関西学院大学在学中には「日曜学校唱歌集」を出版。大学卒業後、養父の遺志を継ぎ、神戸聖書学校に入学。牧師の道を志す彼は、大正10年に東京へと上京。東中野教会の牧師として活動を始めました。

牧師として、そして賛美歌作家として

50年以上にわたる牧師としての生涯の中で、由木康は多くの学び舎で講師を務めるとともに、賛美歌の改訂作業に熱心に取り組みました。特に「きよしこの夜」をはじめ、100曲以上の賛美歌を手がけた彼は、日本の賛美歌界において圧倒的な存在感を放っていました。また、キリスト教関連の多くの著作や翻訳も手掛け、その知識と情熱は多くの人々に影響を与えました。

由木康の生涯は、賛美歌を通じてキリスト教の教えを日本の人々に伝えることに捧げられました。彼の作詞・翻訳した賛美歌は、多くの教会やキリスト教関連のイベントで今も歌われています。「きよしこの夜」をはじめとした彼の業績は、日本のキリスト教音楽文化に不可欠なものとして、これからも多くの人々に愛され続けることでしょう。

「きよしこの夜」の歴史的変遷と由木康と訳詞の変化

日本におけるクリスマスの賛美歌「きよしこの夜」は、数世紀にわたる変遷の中で様々な訳詞を経て現代に伝えられてきました。この賛美歌がどのように受容され、変化してきたのかを概観してみましょう。

初期の「きよしこの夜」

1927年にカトリックの『聖歌』に初めて掲載された「きよしこの夜」は、数年後の1931年にはプロテスタントの『賛美歌』にも取り入れられました。当初の訳詞は「みははのむねに」とされていましたが、その後の時代の変遷とともに訳詞も変わってきます。

訳詞の変更背景

1954年には「まぶねのなかに」という訳詞に修正されました。この変更の背景には、元の「みはは」がカトリック的で、特に聖母マリアを称える意味合いが強いと感じられたからです。実際、原曲の英語の歌詞には「round yon virgin mother and child」との表現があり、カトリックの信仰背景を強く感じさせるものでした。

賛美歌としての側面

この時代の「きよしこの夜」は、まだ主にクリスチャンの間で知られている”讃美歌”としての側面が強かったことも特筆すべきです。特にプロテスタント系の教会では、早くも1909年の「讃美歌第二編」に、異なる歌詞での収録が確認されています。

「きよしこの夜」の歌詞とその意味

「きよしこの夜」は、日本での歴史を持ちながらも、その背後には宗教、政治、文化の複雑な交錯があります。日本語の歌詞は、イエス・キリストの誕生を祝福し、その救世主としての役割を称賛する内容となっています。

「飼い葉桶の中に眠る乳飲み子」は、イエス・キリストが生まれたことを示す象徴的な言葉として用いられています。また、「すくいのみ子」は、救世主、つまりイエス・キリストの役割を指しています。これらの言葉は、キリストの誕生とその宗教的な意義を日本語で表現しています。

歌詞の節に関する変遷

日本で一般的に歌われる「きよしこの夜」は、3番までの歌詞が知られていますが、実際には6番までの節が存在しています。これは、当時の日本の政治的背景が影響しています。

戦時中の影響

戦時中の日本は軍国主義的な政策が推進されており、その中で「王様」「イエス」「救い主」といったキリスト教に関連する言葉は、歌詞から取り除かれることとなりました。日本の天皇を神聖視する軍国主義の下で、他の宗教に関連する言葉を公然と用いることは許容されていませんでした。そのため、6番の節から1、6、2節のみが順番を変えて採用されたのです。

より分かりやすい歌詞への変更の動き

ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇は、信仰をより多くの人々に伝えるため教義や慣習の見直しを推進しました。この流れは日本のキリスト教界にも影響を与えており、聖歌や賛美歌の歌詞の内容も、現代の人々に合わせて変更する動きが生まれました。

キリスト教の聖歌や賛美歌は、宗教的な教義や背景知識を持たない人々にとって、歌詞の内容が難解に感じられることがあります。現代の日本では、キリスト教徒以外の人々も多く、教会の外でのクリスマスの祝賀行事やイベントでも「きよしこの夜」が歌われることが多いため、歌詞をより分かりやすくする動きが出てきたのです。

キリスト教宗派による歌詞の違い

「きよしこの夜」はキリスト教の中でも、宗派によって歌詞が異なることが特徴的です。これは、キリスト教の各宗派が持つ独自の伝統や教えが反映されているためです。

プロテスタントの「きよしこの夜」

プロテスタントで最も知られている歌詞は「きよしこの夜 星は光り」で始まります。この歌詞は、イエス・キリストの生誕を祝うメッセージが込められており、多くのプロテスタントの教会や集会で歌われています。また、日本の多くのイベントやテレビ番組でのパフォーマンスでもこのバージョンが取り上げられることが多いです。

カトリックの「きよしこの夜」

一方、カトリック教会では「きよしこの夜」を「しずけき真夜中 貧しうまや」という歌詞で歌います。この歌詞もまた、キリストの誕生を讃える内容になっていますが、表現や言葉の選び方が異なる点が見受けられます。カトリックの教えや伝統に基づいた歌詞となっています。

宮越俊光さんによれば、カトリックの聖歌の中には、プロテスタントの賛美歌から取り入れられたものが多いとのこと。キリスト教が日本に伝わった際、さまざまな宗派が独自の文化や伝統を持ち込みながらも、一部の歌や教義は共有されてきた背景があると考えられます。

Musical Journey/YouTube

「きよしこの夜」の原題と湯谷磋一郎

「きよしこの夜」の日本語での曲のタイトルはもともとは別のタイトルでした。。初の日本語訳タイトルは「志ののめ(しののめ)」とされており、この言葉からは日本古来の雰囲気や厳粛さが伝わってきます。

この曲の日本語訳の歌詞を手がけたのは、湯谷磋一郎という実績のある人物です。彼は明治時代のキリスト教界で活躍し、同志社神学校を卒業後、牧師として多くの教会で説教を行いました。その後、彼の音楽への情熱と才能が認められ、日本音楽学校の教授としても活躍しました。

1894年(明治27年)に警醒社から発行された「クリスマス讃美歌」に「志ののめ(しののめ)」として収録されたこの曲は、湯谷磋一郎と納所辨次郎の編纂によって日本のキリスト教徒たちの間で歌い継がれてきました。

「しののめ」の背景とクリスマスの意義

「しののめ」という言葉は、日本の古典文学や和歌において特定の情景や感情を伝えるための重要なキーワードとして用いられています。主に、愛する人との別れを詠んだ詩や歌の中で使われ、その名前には深い情緒や哀愁が込められています。

この言葉を漢字で書くと「東雲」となりますが、これは文字通り「東の雲」を意味します。この表現は、夜明け前の空の様子、特に東の方角でわずかに明るくなり始める雲を指します。この「東雲」の背後には、さらに古くからの言葉「篠の目」があります。

古代の日本の住居においては、室内を照らすための明かり取りの部分を「目」と称していました。この「目」の部分には、篠竹を用いて編んだ網目状のものが使われていました。このため、「篠の目」という名前がつけられました。この「篠の目」の形状やその機能から、夜明け前の空の様子との類似性が見られ、この名前が使われるようになったとされています。

さて、クリスマスの意味について考えると、キリストの誕生を祝う日として広く知られていますが、実際のキリストの誕生日は聖書に明確に記されていないのです。キリストの誕生を祝うこの日は、第36代ローマ教皇・リベリウスによって設定されました。

しかし、キリストが生まれた具体的な時間に関しては、聖書の記述から夜明け前と推測されています。この点からも、「しののめ」という言葉は、キリストの誕生を象徴する表現として、ぴったりのものだったのです。

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一八一八年のクリスマスイブ。ザルツブルク近郊のオーベルンドルフ村で「きよしこの夜」が初めて披露されたとき、伴奏はギターだった。聖ニコラウス教会のオルガンが壊れていたからだ。このクリスマス聖歌が初めて演奏された時は、この曲が世界的に有名になり、一五〇もの国の言葉に翻訳されるとは誰も思いもしなかった…。世界一有名な歌の、知られざる物語。(「Books」出版書誌データベースより)

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