日本で初めて演奏されたベートーヴェンの交響曲第9番「第九」。その場所は、徳島県鳴門市にある坂東俘虜収容所だったということをご存知でしょうか。収容所での暮らしは厳しく、閉ざされた状況の中での生活は苦痛でした。しかし、収容所所長が俘虜たちにスポーツや農業、文学・音楽活動を許可したことで、彼らは希望を見出しました。
そして、演奏されたのが「第九」でした。当時の状況を考えると、演奏するためには多くの困難があったことでしょう。今も鳴門市では毎年「第九」演奏会が開かれ、その歴史を伝える施設もあります。この記事では、日本とドイツの交流を象徴する貴重なエピソードを紹介しています。
Kriegsgefangenenlager Bando
第九が演奏された俘虜収容所<板東俘虜収容所>
第一次世界大戦時、日本は巻き込まれ、戦局の一端を担うことになります。戦争が続く中、日本国内では多くの俘虜収容所が設けられ、戦争で捕らえられた敵国兵士が収容されました。中でも、青島(現在の中国・山東省)での戦闘で捕虜になったドイツ兵が多く送られてきたことで、日本国内の俘虜収容所は多国籍の兵士たちで賑わっていました。
俘虜(ふりょ)と捕虜
第一次世界大戦時、捕らえられたドイツ兵捕虜(戦争捕虜は公的には俘虜(ふりょ)と呼ばれた)に対して、日本は国際法遵守の精神で対応しました。
ハーグ条約による規定
これは、1907年10月18日にオランダのハーグで調印され、1912年1月13日に公布された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」(いわゆる「ハーグ条約」)に基づくものでした。ハーグ条約の第2章俘虜の項の第4条では、「俘虜ハ人道ヲ以テ取扱ハルヘシ」という条項が存在しました。これにより、捕虜を人道的に扱うことが求められました。
日本の国際的立場と文明国としての評価
日独戦争の10年前に起こった日露戦争で勝利を収めた日本は、欧米諸国から文明国として認められるように努力していました。そのため、収容所内での捕虜の虐待や強制労働は決して行われてはならないとされていました。
奇跡とよばれた収容所
その中でも、徳島県板東町(現・鳴門市)の「板東俘虜収容所」は、「奇跡の収容所」と呼ばれるほど特異な存在でした。収容所の所長は、陸軍歩兵中佐の松江豊壽(まつえとよひさ)でした。
「戦争の敵でも、人間としての尊厳を大切にした男」松江豊壽
松江豊壽は、明治政府ができた4年後の1872年6月6日に、会津に生まれました。会津藩は、幕末に徳川側に付いて明治の新政府と戦ったため、朝敵(天皇の敵)とされる歴史を持っています。新政府成立後、会津藩の武士たちは、岩手県の北側と青森県の一部を含む斗南への強制移住が命じられました。これは事実上の流刑地であり、飢えや寒さのために多くの死者が出ました。
生い立ちと人道主義的な考え方の形成
豊壽の父は、会津若松から斗南へ移住を強いられた武士の1人でした。豊壽が生まれたのは、父が会津若松に戻った直後であり、斗南での困難な状況を直接経験していませんでしたが、父から話を聞き、敗者の痛みを胸に刻んで育ちました。このような困難な状況は、豊壽に強い精神力と、後の収容所所長としての人道主義的な考え方を培わせることになります。
松江豊壽の軍歴と収容所長就任までの経緯
豊壽は、16歳で陸軍幼年学校に入学し、陸軍士官学校を卒業後、22歳で陸軍歩兵少尉に任官しました。彼は日清戦争と日露戦争に従軍し、1904年(明治37年)には韓国駐屯軍司令官の副官として活躍し、元老伊藤博文からも重用されました。しかし、3年後に少佐として浜松の第67連隊付きとなり、上官と意見が対立し軍法会議にかけられましたが、無罪となりました。
その後、豊壽は札幌の第25連隊大隊長に就任し、旭川の第7師団副官を経て、1914年(大正3年)に41歳で中佐に昇進し、徳島の歩兵第62連隊付きとなりました。同年、徳島俘虜収容所が開設されると、彼は所長に任じられました。そして1917年(大正6年)に板東俘虜収容所長となり、その職に就いていました。
板東捕虜収容所の人道的な取り組み
徳島県鳴門市の板東捕虜収容所では、約1,000人のドイツ兵が収容されていました。収容所長であった松江豊寿中佐(後に少将)は、敗者の苦しみを知る者として、ドイツ兵たちに寛容で暖かい態度を取りました。彼は「彼ら捕虜ではない。祖国のために精一杯戦った立派な戦士である」と繰り返し述べ、敵であっても敬意を払う武士道精神を持っていました。
松江豊壽の寛容さは言葉だけではなく、実際の捕虜たちの生活にも大きな影響を与えました。
その結果、収容所内では広大な運動場や菜園などが設置され、ドイツ人捕虜たちが食料品店なども運営するなど、充実した生活が送られていました。学習会、講演会、スポーツ大会、演劇、コンサートなどが開催され、ドイツ兵たちはそれぞれの特技を活かし、収容所内で商店街や工場を造ることで生産性を上げました。
捕虜たちは朝晩の点呼以外はほとんど自由に行動することができ、ドイツ兵は散歩や山登りを楽しむことができました。また、面会者には一切制限がなく、フリーパスで通すことができました。お小遣いが不足している捕虜には、アルバイトまで斡旋することがあったと言われています。
さらに驚くべきことに、松江所長はドイツ兵による新聞発行まで許可しました。これにより、捕虜たちは自分たちの声を発信し、収容所内外で情報交換や文化交流が活発化しました。
また、地元住民との交流を通じて、ドイツ兵は多くの技術や建築物を日本に伝えました。その例として、「メガネ橋」や「ドイツ橋」などの建造物、酪農技術、パン・ケーキ・ハム・ベーコン製造などが挙げられます。このような交流は、収容所周辺地域の住民がお遍路さんを受け入れる柔軟な態勢を持っていたことが良い影響を与えたとされています。
「ドイツさん!」ドイツ兵捕虜と地元住民の友情
地域の人々は彼らを「ドイツさん」と呼び、親しみを持って接しました。この環境では、ドイツ兵捕虜たちは地元の人々に音楽や文化を披露する機会があり、両者の間に友情と相互理解が生まれました。
板東俘虜収容所での温かい交流と、捕虜たちに対する松江豊壽所長の寛容な態度は、後に捕虜たちから高い評価を受けました。彼らは「世界のどこにバンドーのような収容所があっただろうか」や「マツエこそサムライだった」と語り、自らを「バンドー人」と称するほどの感謝の念を抱いていました。
板東捕虜収容所での音楽活動
音楽活動は特に盛んで、捕虜たちが所内でオーケストラや合唱団を結成し、多くの演奏会を開催しました。
1917年から1920年までの約3年間に、100回以上のコンサートが開催されたとされています。これらのコンサートは、収容所内の捕虜たちだけでなく、地元の日本人にも開放され、相互理解と友好関係を築く機会となりました。また、音楽活動は捕虜たちに心の慰めや日常生活への活力をもたらし、困難な状況下での精神的な支えとなりました。
歓迎の演奏
松山(愛媛県)から移動された89名の捕虜が収容所に到着すると、彼らは歓迎の演奏を聞くことができました。驚いた護送衛兵たちは捕虜に銃剣を突きつけましたが、収容所の所長松江が現れ、緊張を解消しました。
板東収容所があった集落の人々は信仰心が強く、他者を受け入れる温かさがありました。彼らは捕虜たちを「文明国から来た珍しいお客様」として歓迎しました。ドイツ兵捕虜たちは村人に最新の家畜技術や、チーズ、ソーセージ、ベーコン作りを教えました。その結果、地元でお菓子屋が誕生し、「ドイツ軒」という店が徳島で営業していると言われています。
捕虜と地元住民の国境を越えた交流を記念し、1972年に鳴門市はドイツ館を建設しました。そこには多くの品々が納められており、地元民の家で大切に保管されていたものが多いとされています。
ベートーヴェン『第九』のアジア初の全曲演奏会
捕虜収容所で多くの演奏会が開催され、その中心にはパウル・エンゲルが率いるエンゲル・オーケストラと、ヘルマン・ハンゼンが指揮を執る徳島オーケストラが存在していました。彼らは週に1度のペースで定期演奏会を開催し、約2年10カ月の間に100回以上、約300もの楽曲を演奏しました。
定期的に開催される演奏会は、ドイツ人捕虜たちにとって心の支えでもありました。彼らが精力的に音楽活動を続ける中、1918年6月1日に行われたのがベートーヴェン『第九』のアジア初の全曲演奏会でした。
捕虜たちの音楽がつないだ絆
捕虜たちは、松江所長と板東の人々への感謝を示すため、演奏会を開催することを申し出ました。ベートーヴェンの交響曲第9番を演奏するこの特別なコンサートには、板東の人々全員が招待されました。そして、この演奏はアジアで初めての第九全曲演奏となる歴史的な出来事となりました。
収容所には男性しかいなかったため、本来の女性パートであるソプラノ部分は男性用に編曲され、収容所にない楽器はオルガンで代用されるなど、さまざまな工夫が凝らされました。
異文化の架け橋
条件が整っていない状況下でも、ヘルマン・ハンゼン一等軍楽兵曹の指揮のもと、ドイツ人捕虜たち、松江大佐以下の日本軍警備兵、そして地元の有志たちが一体となって見事な演奏を実現しました。楽器が十分でなくても、合唱は感謝と友情に満ち溢れていました。
このコンサートは異文化の架け橋となり、「苦悩を突き抜けて歓喜へ!」と歌う合唱がすべての人々に友情と絆を感じさせました。敵国同士であっても、音楽を通じて人間同士のつながりが築かれた瞬間でした。この出来事は、音楽が普遍的な言語であり、国や文化の違いを超えて人々を結びつける力を持っていることを示しています。
徳川家と板東捕虜収容所での第九演奏
収容所内で行われた演奏は、板東町の人々には直接聴くことができなかったものの、徳川頼貞が2カ月後に収容所で第一楽章を聴き、感銘を受けたことを著書「薈庭楽話(わいていがくわ)」で明かしたため、1940年代頃から広く知られるようになりました。徳川頼貞はクラシック音楽のパトロンであり、貴族院議員も務めていました。
彼は板東捕虜収容所でのベートーヴェンの交響曲第9番の演奏についての噂を耳にし、再演を聴くために収容所を訪れました。感銘を受けた徳川頼貞は、捕虜たちの音楽活動を後援し、収容所内の音楽活動がさらに発展することとなりました。その結果、クラシック音楽が徳島県内で普及し、板東捕虜収容所での『第九』の演奏は歴史的な出来事として語り継がれるようになったのです。
「お別れの日」日本・ドイツの文化交流
板東俘虜収容所が開設されてから1年後、町の人々と1000人のドイツ兵捕虜は自然に共存していました。しかし、1918年にスペイン風邪が発生し、ドイツの戦況が悪化したため、収容所内に暗い悲しみが広がりました。捕虜たちは敗戦の不安に押しつぶされ、元々陽気で勤勉だった姿が影を潜めました。
そんな中、捕虜たちによって発行されていた新聞『ディ・バラッケ』が廃刊となりました。松江所長は捕虜たちに現実を受け止め、前を向くよう呼び掛けました。この新聞が再び発行されると、捕虜たちの士気が回復しました。
「ドイツの敗戦が確定」ヴェルサイユ条約
1919年6月にヴェルサイユ条約が調印され、ドイツの敗戦が決まりましたが、捕虜たちは心の準備ができていました。松江所長は捕虜たちに祖国へ帰り、国民生活を再建するよう励ました。その言葉は、日本の指導者からの心のこもったメッセージとして、捕虜たちに感動を与えました。
別れの日が近づくにつれ、地域住民と捕虜たちの絆は深まりました。ドイツ人捕虜たちは、その友情を形に残すため、後に「ドイツ橋」と呼ばれるめがね橋を建設しました。そして、ヴェルサイユ条約により捕虜の本国送還が行われました。
日本に残るドイツ人捕虜の姿
約170人のドイツ人捕虜が日本に残ることを選択し、収容所で培った技術を活かして様々な職業に就きました。彼らは肉屋、酪農、パン屋、レストランなどを営み、日本で新たな人生を歩み始めました。
一方、本国ドイツに帰国した捕虜たちは、戦後の荒廃した状況と貧困に苦しむなかで、“青島から帰還した英雄”として温かい歓迎を受けました。収容所で東洋文化に触れ、興味を持った者たちの中には、後にドイツで日本学者や中国学者となる人物もいました。彼らは日本語や中国語の教科書を出版し、ドイツ国内で東洋言語の普及に貢献しました。
この話は後に「バルトの楽園」として映画に!
映画「バルトの楽園」は、板東俘虜収容所を舞台にした映画で、第一次世界大戦中に徳島県の鳴門にあった板東捕虜収容所での出来事を描いています。この映画は、捕虜たちが音楽や文化活動を通じて互いの文化を理解し、友情を育む様子を感動的に描いており、日本とドイツの文化交流の物語でもあります。
映画の撮影は、実際の板東捕虜収容所があった場所やその周辺で行われました。これによって、映画は史実に基づいたリアルな雰囲気を再現することができ、観客により感動的なストーリーを届けることができました。映画「バルトの楽園」は、歴史的な出来事を通じて、異文化交流や平和の重要性を伝える作品として、多くの人々に親しまれています。
収容所の音楽が育てた地域文化
収容所での音楽活動は、周辺住民や徳島市民にも大きな影響を与えました。多くの演奏会が開催されることで、地域の人々は西洋音楽に触れる機会が増え、その魅力に取り憑かれるようになりました。また、楽団が徳島市の宿泊施設で音楽会を開催したことにより、より多くの市民が彼らの演奏に触れることができ、西洋音楽への興味が一層高まりました。
50回以上の演奏会が開かれた収容所内では、西洋音楽に触れることで地元住民や徳島市民の中にも、楽器を演奏したいという気持ちが芽生える人が増えました。
その結果、クラシック音楽は徳島県内で広く普及し、収容所での音楽活動は地域文化にも大きな貢献を果たしました。このような経緯を経て、板東捕虜収容所での『第九』の演奏は、音楽を通じた異文化交流や地域の音楽文化発展の象徴として、今も語り継がれています。
徳島エンゲル楽団<捕虜収容所で育まれた地元青年たちの音楽活動>
徳島エンゲル楽団は、捕虜収容所の外でプロのバイオリン奏者であるパウル・エンゲル二等海兵によって指導された徳島の青年たちが結成したオーケストラです。エンゲルは、青年たちのために音楽教室を開き、楽器の演奏法を教えました。彼はこのような状況で音楽を教える機会を大切にし、熱心に指導に当たりました。青年たちは、1918年頃に徳島エンゲル楽団を結成し、音楽活動を展開しました。
第九交響曲の日本初演を行ったドイツ兵の楽団は広く知られていますが、徳島の青年たちがドイツ兵エンゲルの指導を受けて市民オーケストラを結成したことは、あまり知られていません。板東捕虜収容所では捕虜たちに自由な活動が認められ、ドイツの技術や文化が徳島に伝わりました。
捕虜が地元住民と友好的な関係を築き、技術や文化を伝えたことは、戦争中の歴史において非常に珍しい事例であり、奇跡とも言える出来事です。徳島エンゲル楽団は、そんな時代を象徴する若者たちのオーケストラであり、その存在が徳島県内での音楽文化発展に寄与したことは間違いありません。このような音楽を通じた交流は、異文化理解や友好関係の構築にも貢献しました。
徳島エンゲル楽団の再生と日独友好関係
昭和初期に活動を停止した徳島エンゲル楽団ですが、その後第2次世界大戦中の徳島空襲で楽器や楽譜が焼失し、楽団の存在が徐々に忘れ去られていきました。しかし、長い空白期間を経て、日独友好関係が復活しました。
そのきっかけは、鳴門の高橋春枝さんが偶然見つけたドイツ兵の墓を継続的に手入れし続けたことです。この活動がドイツにも伝わり、日本とドイツの友好関係を深めることに繋がりました。
また、徳島エンゲル楽団に関しては、2000年に元中学校長の佐藤義忠氏が郷土史を調べる中で呼びかけ、音楽関係者が集まり再結成されました。復活した徳島エンゲル楽団は、ドイツ兵捕虜と徳島の人々との交流を再現演奏で伝えることを目的とし、ほぼ年1回のペースで音楽会などを開催して演奏活動を続けています。
鳴門市で続く『第九』の演奏会の歴史と伝統
現在も続く鳴門市での『第九』の演奏会は、1982年5月15日の鳴門市制施行35周年と鳴門市文化会館落成式記念行事で開催された第1回目のベートーヴェン『第九』交響曲演奏会がきっかけで毎年行われるようになりました。その後、市民からの「あの感動をもう一度」という声を受けて、演奏会が継続されることが決定されました。
以降、板東俘虜収容所で行われた『第九』のアジア初演の日にちなんで、6月1日を「『第九』の日」とし、毎年6月の第一日曜日に演奏会が開催されています。特に2018年は、アジアでの『第九』初演から100周年という記念すべき年であり、さらに多くの記念事業が行われました。
このように、鳴門市で毎年開催される『第九』の演奏会は、市民の熱い想いや文化への関心が続く限り、その伝統が受け継がれるでしょう。音楽を通じて国や文化の違いを超え、人々を結びつけるこの歴史的な演奏会は、今後も多くの人々に感動を与え続けることでしょう。
「『第九』里帰り公演」
『第九』の歴史は、日本だけでなくドイツでも語り継がれており、「『第九』里帰り公演」として定期的にドイツで開催されています。この公演は、第一次世界大戦中の板東俘虜収容所で日本とドイツ兵捕虜が交流した歴史を称え、音楽を通じて日独友好を深めることを目的としています。
ドイツ兵捕虜の子孫もこの演奏会に参加し、日本とドイツの文化交流が継続されています。その歴史を称えるとともに、国境や文化の違いを超えて人々をつなぐ普遍的な言語である音楽が、日本とドイツの友好関係をさらに強める役割を果たしています。
道の駅「第九の里」
「第九の里」という四国地方の72番目の道の駅が鳴門市西部にあります。地元の特産品の通信販売も行っており、観光客にも親しまれています。施設内には物産館、農作物直売所、軽食堂、ドイツ館、そして賀川豊彦記念館があります。物産館の建物は、「バラッケ」と呼ばれる兵舎を再現したものです。
物産館で販売されている商品は、「和」では特産品の鳴門金時芋を用いた商品が目立ちます。「独」ではドイツ製のソーセージ「ボックヴルスト」が人気です。他にも、「和」では半田手延べ素麺や阿波和三盆ドーナッツサブレなど、「独」ではザワークラウトやガーキン、ドイツビールなどが販売されています。
ドイツ館は、第一次世界大戦時のドイツ兵俘虜の生活を再現した施設で、ベートーベンの第九の演奏を聞くことができます。賀川豊彦記念館では、平和活動家でありノーベル平和賞候補にもなった賀川豊彦の業績が展示されています。
また、道の駅から約1キロの場所には、四国八十八カ所霊場巡りの第一番札所である霊山寺があります。これから巡礼の旅を始める人々が緊張の面持ちで受付を待っている姿を見ることができます。
今も日本に残るドイツの文化
板東俘虜収容所で過ごした日々は、その後も長い間、元ドイツ兵捕虜たちの心に残りました。ドイツでは、フランクフルトで「バンドウを偲ぶ会」が開催され、鳴門市にあるドイツ館が1972年にオープンしたというニュースが伝わったことで、かつての捕虜たちから当時の写真や手紙が寄せられました。
「私は第2次世界大戦にも召集を受け、運悪くソビエト連邦(ソ連)の捕虜となり、1956年に解放されましたが、ソ連のラーゲル(収容所)で冷酷と非情を嫌というほど思い知らされたとき、私の脳裏に浮かんできたのは、バンドウのことでありました。バンドウにこそ国境を越えた人間同士の真の友愛の灯がともっていたのでした。……私は確信を持って言えます。世界のどこにバンドウのようなラーゲルが存在したでしょうか。世界のどこにマツエ大佐のようなラーゲルコマンダーがいたでしょうか」ポールクーリー(リューデンシャイト市在住)
板東俘虜収容所の奇跡 – 知っておきたい日独の歴史のお話/ドイツニュースダイジェスト.2015
「懐かしきバンドウの皆様。私は今から47年前、貴町の俘虜収容所にいた元俘虜であります。バンドウラーゲルの5カ年は、歳月がどんなに経過しても、私たちの心の中で色あせることはありません。否、ますます鮮やかによみがえります。あの頃の仲間で、現在も生き残って西ドイツに住んでいる者のうち、連絡が取れる33人は、年に何回かフランクフルトに集まって「バンドウを偲ぶ会」をもう20数年続けております。会合のたびに、私たちはバンドウのめいめいの青春の日々を限りなく懐かしみ、はるかなる御地へ熱い思いを馳せているのです。……目をつむると今もまざまざと、マツエ大佐、バラック、町のたたずまい、山や森や野原などがまぶたに浮かんできます」エドアルド・ライポルト(コーブルク市在住)
板東俘虜収容所の奇跡 – 知っておきたい日独の歴史のお話/ドイツニュースダイジェスト.2015
元ドイツ兵捕虜の手紙から、バンドウでの生活が決して不幸なものではなかったことがわかります。今日、100年近く経った今も、ビールやソーセージ、バウムクーヘンをはじめとしたドイツの文化や技術は、日本でしっかりと根付いています。
このことから、国や文化の違いを越えて交流が行われた結果、互いの文化を尊重し合い、それぞれの国に新たな価値をもたらすことができることが分かります。今もなお、日本とドイツの友好関係は続いており、両国の人々が共に学び、成長し続けているのです。