交響曲第9番、通称『第九』は、ベートーヴェンの最後の交響曲として知られ、その感動的なメロディは世界中で愛されていますが、日本には知られざる歴史があります。
それが第一次世界大戦中、徳島の収容所で行われた『第九』の演奏です。
Kriegsgefangenenlager Bando
第九が演奏された俘虜収容所<板東俘虜収容所>
時代は第一次世界大戦、連合国の一員として参加した日本は戦局の一端を担うことになりました。戦争が続く中、日本国内では多くの捕虜収容所が設けられ、戦争で捕らえられた敵国兵士が収容されました。
中でも、青島(現在の中国・山東省)の戦いで捕になったドイツ兵が多く送られてきたことで、日本国内の捕虜収容所は多国籍の兵士たちで賑わっていました。
俘虜(ふりょ)と捕虜(ほりょ)
第一次世界大戦時、捕らえられたドイツ兵捕虜ですが、当時は俘虜(ふりょ)と呼ばれ、捕虜収容所も俘虜収容所(ふりょしゅうようじょ)と名付けられていました。
どちらも英語で “prisoner of war”(戦争捕虜)を意味しますが、若干の違いがあります。
- 俘虜(ふりょ): この言葉は、古い時代の日本語や文学に見られる言葉で、敵国の兵士を捕らえた状態を指します。しかし、現代の日本語ではあまり一般的ではなく、歴史的な文脈や特に古い文書で使用されることが多いです。
- 捕虜: これはもっと一般的な用語で、戦争や紛争の状況で敵方の兵士や関係者を捕らえた状態を指します。現代の報道や文書でよく使われる言葉で、国際法や戦争法における捕虜の扱いに関するルールなどに関連して使用されます。
簡単に言うと、「俘虜」はより歴史的または文学的な用語で、「捕虜」は現代的な、より一般的な用語です。
歴史的な文脈から以降の記事では俘虜と明記します。
ハーグ条約による規定
当時の日本は、俘虜を国際法遵守の精神で対応しました。
これは、1907年10月18日にオランダのハーグで調印され、1912年1月13日に公布された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」(ハーグ条約)にもとづくものでした。
ハーグ条約の第2章俘虜の項の第4条では、「俘虜ハ人道ヲ以テ取扱ハルヘシ」という条項が存在しました。これによって日本は俘虜を人道的に扱うことを求められたのです。
日本の国際的立場と文明国としての評価
日独戦争の10年前に起こった日露戦争で勝利を収めた日本は、欧米諸国から文明国として認められるように努力していました。
そのため、収容所内での俘虜の虐待や強制労働は決して行われてはならないとされていました。
奇跡の収容所「板東俘虜収容所」
その中でも、徳島県板東町(現・徳島県鳴門市)の「板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようし)」は、奇跡の収容所と呼ばれるほど特別な場所でした。
その時の収容所の所長は、陸軍歩兵中佐の松江豊壽(まつえとよひさ)でした。
「戦争の敵でも、人間としての尊厳を大切にした男」松江豊壽
松江豊壽は、明治政府ができた4年後の1872年6月6日に、会津に生まれました。会津藩は、幕末に徳川側に付いて明治の新政府と戦ったため、朝敵(天皇の敵)とされる歴史を持っています。
新政府成立後、会津藩の武士たちは、岩手県の北側と青森県の一部を含む斗南への強制移住が命じられました。これは事実上の流刑地であり、飢えや寒さのために多くの死者が出ました。
生い立ちと人道主義的な考え方の形成
豊壽の父は、会津若松から斗南へ移住を強いられた武士の1人でした。
豊壽が生まれたのは、父が会津若松に戻った直後であり、斗南での困難な状況を直接経験していませんでしたが、父から当時の話を聞き、敗者の痛みを胸に刻んで育ちました。
このような生い立ちが、豊壽に強い精神力と、後の収容所所長としての人道主義的な考え方を培わせることになりました。
松江豊壽の軍歴と収容所長就任までの経緯
豊壽は、16歳で陸軍幼年学校に入学し、陸軍士官学校を卒業後、22歳で陸軍歩兵少尉に任官しました。
豊壽は日清戦争と日露戦争に従軍し、1904年(明治37年)には韓国駐屯軍司令官の副官として活躍し、元老伊藤博文からも重用されました。
しかし、3年後に少佐として浜松の第67連隊付きとなり、上官と意見が対立し軍法会議にかけられましたが、無罪となりました。
その後、豊壽は札幌の第25連隊大隊長に就任し、旭川の第7師団副官を経て、1914年(大正3年)に41歳で中佐に昇進し、徳島の歩兵第62連隊付きとなりました。
同年、徳島俘虜収容所が開設されると、豊壽は所長に任じられました。そして1917年(大正6年)には収容所長となり、その職に就いていました。
板東俘虜収容所の人道的な取り組み
徳島県鳴門市の板東俘虜収容所では、約1,000人のドイツ兵が収容されていました。
収容所長であった松江豊寿は、敗者の苦しみを知る者として、ドイツ兵たちに寛容で暖かい態度を取りました。
「彼ら俘虜ではない。祖国のために精一杯戦った立派な戦士である」
敵であっても敬意を払う武士道精神を持っていた松江豊寿は、このように繰り返し収容所の職員に言い聞かせました。
松江所長の寛容さは言葉だけではなく、実際の俘虜たちの生活にも大きな影響を与えました。
収容所での充実した生活
収容所内では広大な運動場や菜園などが設置され、ドイツ人俘虜たちが食料品店なども運営するなど、充実した生活が送られていました。
学習会、講演会、スポーツ大会、演劇、コンサートなどが開催され、ドイツ兵たちはそれぞれの特技を活かし、収容所内で商店街や工場を造ることで生産性を上げました。
俘虜たちは朝晩の点呼以外はほとんど自由に行動することができ、ドイツ兵は散歩や山登りを楽しむことができました。また、面会者には一切制限がなく、フリーパスで通すことができました。
お金が不足している俘虜には、アルバイトまで斡旋することがあったと言われています。
さらに驚くべきことに、松江所長はドイツ兵による新聞発行まで許可しました。これにより、俘虜たちは自分たちの声を発信し、収容所内外で情報交換や文化交流が活発化しました。
また、地元住民との交流を通じて、ドイツ兵俘虜は多くの最新技術や建築物を日本に伝えました
それはやがて、「メガネ橋」や「ドイツ橋」などの建造物、酪農技術、パン、ケーキ、チーズ、ハム、ベーコン、の製造など、日本の文化に大きな影響を与えることになりました。
地域ではお菓子屋が誕生し、「ドイツ軒」という店が徳島で今も営業を続けています。
「ドイツさん!」ドイツ兵俘虜と地元住民の友情
このような交流は、収容所周辺地域には四国88ヶ所を巡るお遍路さんを受け入れる習慣があり、住民が柔軟な態勢をそもそも持っていたことが、このようなポジティブな出来事に繋がったといわれています。
実際に、地域の人々はドイツへ俘虜たちを「文明国から来た珍しいお客様」として歓迎、「ドイツさん」と呼んで、親しみを持って接していました。
このようなフレンドリーな環境の中で、ドイツ兵俘虜たちは地元の人々に音楽や文化を披露し、両者の間に友情と国境を超えた人同士の繋がりが生まれました。
板東俘虜収容所での音楽活動
板東俘虜収容所内での活動の中で、音楽活動は特に盛んで、俘虜たちが収容所内でオーケストラや合唱団を結成し、多くの演奏会を開催しました。
1917年から1920年までの約3年間に、100回以上のコンサートが開催されたとされています。
これらのコンサートは収容所内の俘虜たちだけでなく、地域住民にも開放され、まさに地域一体となってコンサートを盛り上げました。
このような音楽活動は俘虜たちに心の慰めや日常生活への活力ももたらし、困難な状況下での精神的な支えにもなっていました。
歓迎の演奏
板東俘虜収容所では、新たな不慮を歓迎するための演奏も行っていました。
ある日、松山市(愛媛県)から移送された89名の俘虜が収容所に到着したところ、板東俘虜収容所の不慮たちが歓迎の演奏を行いました。
これに驚いた護送衛兵たちは俘虜に銃剣を突きつけましたが、収容所の松江所長が現れて事の経緯を説明し、無事に事なきを得ました。
温かい待遇に感動したドイツ兵不慮たち
このような板東俘虜収容所での温かい交流と、俘虜たちに対する松江所長の寛容な態度は、戦後にも俘虜たちによって語り継がれる事になりました。
俘虜たちは「世界のどこにバンドーのような収容所があっただろうか」や「マツエこそ真のサムライだった」と語り、自らを「バンドー人」と称するほどの感謝の念を抱いていました。
ドイツ館を建設
そして俘虜と地元住民の国境を越えた交流を記念し、1972年に鳴門市はドイツ館を建設しました。そこには多くの品々が納められており、地元民の家で大切に保管されていたものが多いとされています。
ベートーヴェン『第九』のアジア初の全曲演奏会
板東俘虜収容所では多くの演奏会が開催されましたが、その中心にはパウル・エンゲルが率いるエンゲル・オーケストラと、ヘルマン・ハンゼンが指揮を執る『徳島オーケストラ』が存在がありました。
徳島オーケストラは週に1度のペースで定期演奏会を開催し、約2年10カ月の間に100回以上、約300もの楽曲を演奏しました。
定期的に開催されるこれらの演奏会は、ドイツ人兵不虜たちにとって心の支えでもありました。
そして、徳島オーケストラが精力的に音楽活動を続ける中で、1918年6月1日に行われたのが、ベートーヴェン『第九(交響曲第9番)』のアジア初の全曲演奏会でした。
地域の人々を全員招待した特別なコンサート
はじめに俘虜たちは、松江所長と地域の人々への感謝を示すため、演奏会を開催することを申し出ました。これによって、『第九』演奏することになる特別なコンサートには、地域の人々全員が招待されました。
女性パートや楽器の不足を工夫で補う
この曲を演奏するにあたり、収容所には男性しかいなかったため、本来の女性パートであるソプラノ部分は男性用に編曲され、収容所にない楽器はオルガンで代用されるなど、さまざまな工夫が凝らされ、本番を迎えました。
「苦悩を突き抜けて歓喜へ!」異文化の架け橋
条件が十分に整っていない状況下でも、ヘルマン・ハンゼン一等軍楽兵曹の指揮のもと、ドイツ人俘虜たち、松江大佐以下の日本軍警備兵、そして地元の有志たちが一体となって見事な演奏が実現しました。
楽器が十分でなくても、合唱は感謝と友情に満ち溢れていました。
このコンサートは異文化の架け橋となり、「苦悩を突き抜けて歓喜へ!」と歌う合唱が、この場にいるすべての人々に友情と絆、そして深い感動を感じました。
まさに敵国同士であっても、音楽を通じて人間同士のつながりが築かれた瞬間だったのです。
ある大物がこの演奏を噂を耳にする
アジア初の『第九』の演奏は板東収容所内で行われたため、板東の人々しか聴くことができませんでしたが、2カ月後、この噂を聞きつけたある大物が、再演を聴くために収容所に訪れました。
徳川家
それが徳川頼貞(とくがわ よりさだ)侯爵でした。
徳川家の一員とである徳川頼貞は、日本の華族(貴族階級)であり、日本の文化や芸術への寄与も大きく、特にクラシック音楽への支援を通じて、日本の音楽界に影響を与えました。
貴族院議員として、徳川頼貞は日本の政治にも関与していました。
当時の日本では、貴族院は貴族や皇族から成る議院で、日本の二院制国会の一角をなしていました。徳川頼貞はこのような背景の中で、政治的にも重要な役割を担っていたといえます。
再演を聴いて深く感銘
そんな徳川頼貞が、再演のためにはるばる徳島の板東収容所を訪れる事になりました。
そして待ちに待った『第九』(第1楽章のみ)の再演を聴いた、徳川頼貞は深く感銘を受けました。
徳川頼貞は、すぐに俘虜たちの音楽活動を後援し、収容所内の音楽活動がさらに発展していきました。
また、この時の事を徳川頼貞は自身の音楽的自叙伝「薈庭楽話(わいていがくわ)」で明かしたため、1940年代頃から『第九』と、この収容所の物語が日本で広く知られるようになりました。
「お別れの日」日本とドイツの文化交流
板東俘虜収容所が開設されてから1年経ち、この頃には町の人々と1000人のドイツ兵俘虜は、当たり前の様に仲良く暮らしていました。
しかし、1918年にスペイン風邪が発生してドイツの戦況が悪化したため、収容所内に暗い悲しみが広がりました。俘虜たちは母国の敗戦の不安に押しつぶされ、元々陽気で勤勉だった姿が見る影もなく影を潜めました。
そんな中、俘虜たちによって発行されていた新聞『ディ・バラッケ』も失意の中で廃刊となってしまいました。
この様子を見た松江所長は、俘虜たちに現実を受け止め前を向くよう叱咤激励しました。このことで、俘虜たちの士気が回復し新聞が再び発行されるようになりました。
「ドイツの敗戦が確定」それでも前を向く俘虜と所長の激励
1919年6月にヴェルサイユ条約が調印され、ドイツの敗戦こそ決まりましたが、その時には俘虜たちは心の準備ができていました。
それは、松江所長は俘虜たちに祖国へ帰り、国民生活を再建するように強く励ましていたからです。その言葉は、日本の指導者からの心のこもったメッセージとして、俘虜たちは心が震えたといいます。
別れを惜しむ地域の人々と俘虜の絆
別れの日が近づくにつれ、別れを惜しむ地域住民と俘虜たちの絆は一層深まりました。ドイツ兵俘虜たちは、その友情を形に残すため、後に「ドイツ橋」と呼ばれるめがね橋を建設しました。
そして、ヴェルサイユ条約のもとづいて俘虜の本国送還が始まりました。
日本に残り第二の人生を送るドイツ兵俘虜
しかし、約170人のドイツ兵俘虜は日本に残ることを選択、収容所で培った技術を活かして様々な職業に就きました。
彼らは肉屋、酪農、パン屋、レストランなどを営み、日本で第二の人生を歩み始めたのです。
帰国した俘虜の歓迎とその後の人生
一方、本国ドイツに帰国した俘虜たちは、戦後の荒廃した状況と貧困に苦しむなかで、“青島から帰還した英雄”として温かい歓迎を受けました。
収容所で東洋文化に触れ、興味を持った俘虜たちの中には、後にドイツで日本学者や中国学者となる人物もいました。
そして、彼らは日本語や中国語の教科書を出版し、ドイツ国内で東洋言語の普及に貢献しました。
収容所の音楽が育てた地域文化
板東収容所の音楽活動は、後の周辺住民や徳島市民にも大きな影響を与えました。
これは、多くの演奏会が開催されることで、地域の人々は西洋音楽に触れる機会が増え、その美しさに魅了されたためでした。
また、楽団が徳島市の宿泊施設で音楽会を開催したことにより、より多くの市民が彼らの演奏に触れることができ、西洋音楽への興味が一層高まりました。
徳島市で楽器の演奏が盛んに!
50回以上の演奏会が開かれた収容所内では、西洋音楽に触れることで地元住民や徳島市民の中にも、楽器を演奏したいという気持ちが芽生える人が増えました。
その結果、クラシック音楽は徳島県内で広く普及し、収容所での音楽活動は地域文化にも大きな貢献を果たしました。
『徳島エンゲル楽団』俘虜の指導によって生まれた音楽の絆
俘虜収容所の外で、当時俘虜だったプロのバイオリン奏者であるパウル・エンゲル二等海兵によって指導された徳島の青年たちはオーケストラも結成しました。それが『徳島エンゲル楽団』です。
エンゲルは、青年たちのために音楽教室を開き、楽器の演奏法を教えました。エンゲルは俘虜という状況で自身が愛する音楽を教えることができる事に感謝し、非常に熱心に指導に当たりました。
その指導の甲斐もあり、青年たちは1918年頃に『徳島エンゲル楽団』を結成して、音楽活動を始めました。
『第九』の日本初演を行ったドイツ兵俘虜の楽団は広く知られていますが、徳島の青年たちがドイツ兵俘虜エンゲルの指導を受けて市民オーケストラを結成したことエピソードは、実はあまり知られていません。
しかし、徳島エンゲル楽団のような事例は、戦争中の歴史において非常に珍しい事例であり、奇跡とも言える出来事です。
徳島エンゲル楽団の再生と日独友好関係
徳島エンゲル楽団は、昭和初期に活動を一時停止しました、その後の第2次世界大戦中の徳島空襲で楽器や楽譜が焼失し、楽団の存在が徐々に忘れ去られていきました。
しかし、長い空白期間を経て、この地とドイツの奇跡の絆がついに復活することになりました。
そのきっかけは、鳴門市の高橋春枝さんが偶然見つけたドイツ兵の墓を、一生懸命手入れし続けたことです。この活動がドイツにも伝わり、日本とドイツの友好関係を深めることに繋がりました。
さrない、2000年に元中学校長の佐藤義忠氏が郷土史を調べる中、徳島エンゲル楽団の再結成を呼びかけ、これに賛同した音楽関係者が集まり時代を超えて再結成されました。
復活した徳島エンゲル楽団は、ドイツ兵俘虜と徳島の人々との交流を再現演奏で伝えることを目的に活動しており、ほぼ年1回のペースで音楽会などを開催して演奏活動を続けています。
鳴門市で続く『第九』の演奏会の歴史と伝統
鳴門市では、現在も『第九』の演奏会が行われています。
この演奏会は、1982年5月15日の鳴門市制施行35周年と鳴門市文化会館落成式記念行事で開催された第1回目のベートーヴェン『第九』交響曲演奏会がきっかけで毎年行われるようになりました。
その後、市民からの「あの感動をもう一度」という声を受けて、演奏会が継続されることが決定されました。
以降、板東俘虜収容所で行われた『第九』のアジア初演の日にちなんで、6月1日を「『第九』の日」とし、毎年6月の第一日曜日に演奏会が開催されています。
特に2018年は、アジアでの『第九』初演から100周年という記念すべき年であり、さらに多くの記念事業が行われました。
「『第九』里帰り公演」
このような『第九』の歴史は、日本だけでなくドイツでも語り継がれており、「『第九』里帰り公演」として定期的にドイツで開催されています。
この公演は、第一次世界大戦中の板東俘虜収容所で日本とドイツ兵俘虜が交流した歴史を称え、音楽を通じて日独友好を深めることを目的として開催されています。
ドイツ兵俘虜の子孫もこの演奏会に参加し、今も日本とドイツの文化交流が継続されています。
道の駅『第九の里』
鳴門市の西部には、『第九の里』という四国の72番目の道の駅があり、地元の特産品の通信販売も行っており、観光客にも親しまれています。
施設内には物産館、農作物直売所、軽食堂、ドイツ館、そして賀川豊彦記念館があります。物産館の建物は、「バラッケ」と呼ばれる兵舎を再現したものです。
物産館で販売されている商品は、「和」では特産品の鳴門金時芋を用いた商品が目立ちます。「独」ではドイツ製のソーセージ「ボックヴルスト」が人気です。
他にも、「和」では半田手延べ素麺や阿波和三盆ドーナッツサブレなど、「独」ではザワークラウトやガーキン、ドイツビールなどが販売されています。
ドイツ館は、第一次世界大戦時のドイツ兵俘虜の生活を再現した施設で、ベートーベンの第九の演奏を聞くことができます。
賀川豊彦記念館では、平和活動家でありノーベル平和賞候補にもなった賀川豊彦の業績が展示されています。
また、道の駅から約1キロの場所には、四国八十八カ所霊場巡りの第一番札所である霊山寺があります。これから巡礼の旅を始める人々が緊張の面持ちで受付を待っている姿を見ることができます。
今も日本に残るドイツの文化
板東俘虜収容所で過ごした日々は、その後も長い間、元ドイツ兵俘虜たちの心に残りました。
ドイツでは、フランクフルトで「バンドウを偲ぶ会」が開催され、鳴門市にあるドイツ館が1972年にオープンしたというニュースが伝わったことで、かつての俘虜たちから当時の写真や以下のような手紙が寄せられました。
「私は第2次世界大戦にも召集を受け、運悪くソビエト連邦(ソ連)の捕虜となり、1956年に解放されましたが、ソ連のラーゲル(収容所)で冷酷と非情を嫌というほど思い知らされたとき、私の脳裏に浮かんできたのは、バンドウのことでありました。バンドウにこそ国境を越えた人間同士の真の友愛の灯がともっていたのでした。……私は確信を持って言えます。世界のどこにバンドウのようなラーゲルが存在したでしょうか。世界のどこにマツエ大佐のようなラーゲルコマンダーがいたでしょうか」ポールクーリー(リューデンシャイト市在住)
板東俘虜収容所の奇跡 – 知っておきたい日独の歴史のお話/ドイツニュースダイジェスト.2015
「懐かしきバンドウの皆様。私は今から47年前、貴町の俘虜収容所にいた元俘虜であります。バンドウラーゲルの5カ年は、歳月がどんなに経過しても、私たちの心の中で色あせることはありません。否、ますます鮮やかによみがえります。あの頃の仲間で、現在も生き残って西ドイツに住んでいる者のうち、連絡が取れる33人は、年に何回かフランクフルトに集まって「バンドウを偲ぶ会」をもう20数年続けております。会合のたびに、私たちはバンドウのめいめいの青春の日々を限りなく懐かしみ、はるかなる御地へ熱い思いを馳せているのです。……目をつむると今もまざまざと、マツエ大佐、バラック、町のたたずまい、山や森や野原などがまぶたに浮かんできます」エドアルド・ライポルト(コーブルク市在住)
板東俘虜収容所の奇跡 – 知っておきたい日独の歴史のお話/ドイツニュースダイジェスト.2015
このように、板東俘虜収容所の経験は、元俘虜たちにとって人生の重要な部分となり、その心に長く残る思い出となったのです。
この物語は映画にもなった!
この板東俘虜収容所の感動的な物語は、後に『バルト楽園』名前で映画化されました。
この映画は、俘虜たちが音楽や文化活動を通じて互いの文化を理解し、友情を育む様子を感動的に描いており、日本とドイツの文化交流の物語でもあります。
映画の撮影は、実際の板東俘虜収容所があった場所やその周辺で行われました。
これによって、映画は史実に基づいたリアルな雰囲気を再現することができ、観客により感動的なストーリーを届けることができました。
映画「バルトの楽園」は、歴史的な出来事を通じて、異文化交流や平和の重要性を伝える作品として、多くの人々に親しまれています。
読者の皆様へ
今日、私たちはこの感動的な出来事を通じて、平和への願いと、音楽の力が未来への道しるべとなることを改めて知ることができました。
徳島の収容所で響いた『第九』の旋律は、今も時を超えて平和と人間の連帯の大切さを語りかけているのです。