感動と希望を届けるクラシックの傑作!年末の風物詩『第九』の歴史と魅力【交響曲第9番】

この記事は、クラシック音楽の代表的な作品であるベートーヴェンの交響曲第9番「第九」について、その歴史や日本での演奏状況について詳しく解説しています。また、その普遍的なメッセージが人々に与える力強い影響についても触れられています。

さらに、日本の音楽界において「第九」が演奏されるようになった経緯や、戦後における「第九」演奏の意義についても紹介されています。クラシック音楽に興味のある方や「第九」について知りたい方にとって、非常に興味深い記事となっています。

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ベートーヴェンが1824年に完成させた『交響曲第九番』は世界中で演奏され、日本では毎年5万人以上が歌っている。 この『第九』がいかにして日本に受け入れられ、市民参加型の合唱として定着していったのか。そこにはシラーやベートーヴェンの自由や兄弟愛などへの思いに共鳴し、『第九』を演奏しようとする人びとの姿が見出される。またラジオやレコードといったメディアがこのブームを支えていたことにも気づかされる。(「Books」出版書誌データベースより)

infonie Nr. 9 d-moll op. 125

「年末の第九」

KYODO NEWS/YouTube

「第九(交響曲第9番)」は、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1824年に完成させた作品で、彼の交響曲の中でも最も有名であり、史上初めて合唱を取り入れた交響曲として知られています。最終楽章にはフリードリヒ・シラーの詩「歓喜の歌」が用いられており、「歓喜の歌」のメロディは広く愛されています。

交響曲第九番と年末

毎年12月、日本では交響曲第9番「合唱」の演奏会が各地で開催されます。平和、希望、喜びのメッセージが込められた「第九」は、日本の年末の風物詩として定着しています。演奏会の会場はショッピングモールや公民館、学校、コンサートホールなど、さまざまな場所で開かれます。

特に後半に入ると、毎日どこかで「第九」が演奏されています。週末には、同時に複数のオーケストラが「第九」を演奏することも珍しくありません。

2018年12月の調査では、東京・関東エリアだけでも80を超える公演があり、サントリーホールだけでも13公演が予定されていました。全国的には例年150以上の公演が開催される「第九」は、クラシック史上最大のヒット曲と言っても過言ではありません。

コンサート会場での演奏だけでなく、百貨店のバーゲンセール会場や商店街のBGMでも「第九」が流れますし、12月31日の夜にはNHKがN響の「第九」をテレビ放送するのも毎年恒例です。今や「第九」は完全に年末の風物詩となっています

「歓喜の歌」のメッセージ

12月に多く演奏される理由は、年末にかけての祝祭感や新年を迎える希望といった雰囲気と、「歓喜の歌」が持つ普遍的なメッセージが相まって、人々に喜びや希望を与える力強い音楽として愛されているためです。

また、交響曲第9番は、ベートーヴェンが聴力を失ってからも作曲し続けた最後の交響曲であり、彼の音楽的な遺産の集大成とされています。そのため、年の瀬にこの交響曲を演奏することは、一年を締めくくる感慨深いイベントとして多くの音楽ファンにとって特別なものとなっています。

さらに、交響曲第9番の「歓喜の歌」に込められた自由や平和、人類の絆のメッセージは、新しい年を迎えるにあたって希望に満ちた気持ちを呼び起こし、聴衆に勇気とエネルギーを与えることができます。このため、12月に演奏される「第九」は、クラシック音楽界の風物詩として広く親しまれています。

ArtTowerMito/YouTube

実は日本だけ?年末といえば第九……。

「第九」の演奏にはオーケストラの他に、4人の独唱歌手と合唱団が必要であり、規模が大きいことが一因で、頻繁には演奏されません。

アメリカやヨーロッパでは、年末のオーケストラの定番プログラムとしては、ヘンデル作曲の『メサイヤ』が一般的です。しかし、日本とは異なり、12月に『第九』を演奏するオーケストラは稀です。

例外的な状況として、ドイツのライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団は1918年の第一次世界大戦終結後から大晦日に『第九』を演奏する伝統があり、オーストリアのウィーン交響楽団も12月30日と31日に『第九』を演奏する習わしがあります。

欧米では『第九』は、祝典や歴史的な行事など特別な機会に演奏されることが一般的です。例えば、1952年のバイロイト音楽祭復活時のフルトヴェングラー指揮による記念碑的公演や、1989年のベルリンの壁崩壊時にバーンスタインが指揮した世紀のコンサートなどが有名です。

このように、特定の記念日や祝典などで演奏されることがありますが、日本のように年末に演奏が集中するという現象は、世界的にも見ても珍しいといえます。

日本人で初めて「第九」を歌った人物「幸田延」

日本における「第九」の普及は、幸田露伴(こうだ ろはん)の妹の幸田延(こうだ のぶ)の歌唱を皮切りに始まりました。

幸田露伴は、明治から昭和にかけて活躍した小説家・随筆家・考証家で、日本の文学界において多大な功績を残しました。その偉大さから「大露伴」とも呼ばれる人物です。

明治時代の音楽教育改革

明治時代は、日本が新しい時代への脱皮を目指し、欧化政策を推進する時代でした。その中で、日本の音楽教育にも大きな変革が訪れました。不平等条約改正を目指す政府は、欧米諸国と対等な外交関係を築くため、西洋音楽の導入を進めました。

1879年、文部省内に設置された音楽取調掛は、西洋音楽導入の先駆けとなり、日本の音楽教育の変革を推進しました。1887年には、音楽取調掛が東京音楽学校へと発展し、多くの優れた音楽家たちを輩出することになります。

この改革の中心にあったのが、アメリカ人音楽教師ルーサー・ホワイティング・メーソンでした。彼は、日本の音楽教育において重要な役割を果たし、西洋音楽の教育法を広めました。

メーソンは、日本の音楽教育を革新するため、自身の音楽知識と経験を活かし、日本の音楽教育システムの改革に尽力しました。彼の功績は、今日の日本の音楽教育にも影響を与えており、彼が築いた基盤の上に、多くの優れた音楽家たちが育っているのです。

メーソンに見出された天才音楽家

そんな時代に生まれた幸田延は、幼少期から楽才に秀でており、音楽取調掛で学び、12歳の時にルーサー・ホワイティング・メーソンに見出され、第1回文部省音楽留学生として、海外で音楽を学びました。

彼女は、ボストンとウィーンで研鑽を積み、ウィーン音楽院でヴァイオリンを主専攻し、和声学、作曲、ピアノなども学びました。ウィーンでの経験は、彼女にとって非常に重要なものでした。当時のウィーンは、音楽が充実し、文化が成熟している時代でした。

幸田延は、ウィーン音楽院での学びや現地での音楽演奏を通して、西洋音楽の最先端をリアルタイムで吸収し、帰国後、日本の音楽界に多大な影響を与えました。彼女は、教育者としても演奏家としても活躍し、日本の音楽史に名を刻むことになります。

彼女がウィーンで学んだ成果の一つとして、ローベルト・フックスのもとで作曲した「ヴァイオリン・ソナタ 変ホ長調」があります。これは、日本人による初のソナタ形式による器楽曲であり、幸田延の才能と努力の証となっています。

当時の日本の音楽界と幸田延の留学経験

1909年12月20日、ベルリンでのベートーヴェンの交響曲第9番の演奏会に、日本人として初めて参加した幸田延は、当時の日本音楽界とはまったく異なる状況の中で貴重な経験を積むことができました。指揮者アルトゥール・ニキシュとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏に参加することは、彼にとって大変な名誉であり、日本の音楽界にとっても画期的な出来事でした。

当時の日本では、西洋音楽はまだ新しい存在であり、ベートーヴェンの交響曲、特に「第九」は演奏技術や合唱の組織が不十分なため、困難な作品とされていました。しかし、幸田延がベルリンでの演奏会に参加することによって、日本の音楽家たちにもベートーヴェンの交響曲に挑戦するきっかけが与えられました。

日本で初めて「第九」を演奏したオーケストラ

1924年1月26日、九州帝国大学フィルハーモニー会(現・九州大学フィルハーモニー会)が、日本のオーケストラとして初めてベートーヴェンの交響曲第9番「第九」を演奏しました。この演奏は、摂政宮(後の昭和天皇)の結婚を祝う演奏会で行われ、特別な歌詞が選ばれました。

最終楽章である「歓喜の歌」は、通常フリードリッヒ・シラーの詩による歌詞が用いられますが、この演奏会では文部省が摂政宮の結婚を祝うために選定した「皇太子殿下御結婚奉祝歌」という歌詞に替えられました。この特別な歌詞での演奏は、合唱を含めて約10分間の演奏だったとされています。

この歴史的な演奏会は、ベートーヴェンの「第九」が日本の音楽界でどれだけ重要かを示すとともに、その後の日本のオーケストラや合唱団による「第九」演奏のさきがけとなりました。

日本人オーケストラで初めての全楽章を演奏

九州帝国大学フィルハーモニー会による「第九」の演奏では、原曲のシラーの詩ではなく、「皇太子殿下御結婚奉祝歌」という特別な歌詞が用いられました。このため、公式な初演としては、1924年11月29日に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)が演奏したものが認められています。

東京音楽学校における「第九」の練習

1924年4月、新学期が始まると同時に、東京音楽学校では教官と学生が一丸となってベートーヴェンの交響曲第9番「第九」の猛練習に取り組みました。当時、この作品は演奏技術や合唱の組織が求められる難曲とされており、日本での初演に向けて十分な準備が必要でした。音楽学校では管楽器が足りず、海軍軍楽隊のメンバーも参加して演奏に臨んだと伝えられています。

東京音楽学校の教官と学生たちは、「第九」の楽譜を研究し、オーケストラや合唱の編成、指揮法などを徹底的に練習しました。学校全体が熱心に取り組むことで、「第九」の演奏技術が向上し、日本初演への道筋ができあがっていきました。

このような猛練習の成果が実り、東京音楽学校第48回定期演奏会(同年11月29日〜30日)で「第九」の初演が行われました。

ベートーヴェンの「第九」と合唱の難しさ

ベートーヴェンの交響曲第9番「第九」は、その高度な技術と表現力が求められるため、簡単な曲ではありません。1924年の東京音楽学校による初演では、合唱隊が1年間の猛練習を重ねましたが、それでも満足に歌えず、特にテノールの高音域は困難であったと、後に声楽家となった木下保(1903~1982)の回想からも伺えます。

また、「第九」の歌詞はドイツ語であることが、さらに演奏の難しさを増していました。当時は「外国語の歌詞の意味など分からなくてもよい」という風潮があり、それは戦後、プロアマを問わず多くの人が「第九」の合唱に挑戦するようになってからも、完全にはなくなっていないかもしれません。

追加公演とグスタフ・クローン

初演は大盛況であり、その後12月6日には追加公演が行われました。この追加公演も満員となり、ベートーヴェンの「第九」は日本の音楽ファンに強い印象を残しました。

指揮を務めたのは、ドイツ出身のグスタフ・クローンでした。彼は、お雇い外国人教師として東京音楽学校に12年間在職し、その間にベートーヴェンの9つある交響曲のうち、6曲の本邦初演を指揮しました。この「第九」初演は、クローンの日本における音楽教育活動の総仕上げ的な功績となりました。

日本のプロ・オーケストラによる初の「第九」

1926年に設立された新交響楽団(1942年に日本交響楽団に改名し、1951年に現在のNHK交響楽団となる)は、1927年5月にベートーヴェン没後100年を記念して「第九」を演奏しました。

これは、日本のプロ・オーケストラによる初めての「第九」でした。続いて1928年には、新響は12月に初めて「第九」を演奏しました。この時の演奏は、初代指揮者である近衛秀麿による日本人指揮者初の「第九」であり、日本の師走に響いた初めての「第九」となりました。そして、新響が次に年末の「第九」を演奏するのは10年後の1938年になります。

年末の「第九」演奏の始まりと普及

新交響楽団(新響、後のNHK交響楽団)は、1938年にドイツから招いた指揮者ヘルマン・ローゼンシュトックのアドバイスを受けて、年末にベートーヴェンの交響曲第9番「第九」の演奏を開始しました。彼がドイツの大晦日のラジオ・ライブ「第九」に言及したことが、「年末の第九」が日本で定着するきっかけとなりました。

当時、日本では「第九」は主に5月や6月頃に演奏されることが一般的でしたが、翌1938年の「第九」の演奏は、12月26日と27日に築地の歌舞伎座で行われ、大成功を収めました。

この成功を受けて、新響はその後もほぼ毎年12月に「第九」の演奏を行うようになり、「年末の第九」が日本の音楽文化の一部として定着しました。

新交響楽団は、1938年以降ほぼ1年おきに、そして1946年からは原則として毎年、12月にベートーヴェンの交響曲第9番「第九」を演奏し、「年末の第九」が恒例となるようになりました。

同じ頃から、NHKのラジオ放送も「年末の第九」に同調するように動き始めました。1940年(昭和15年)の大晦日には、ヨーゼフ・ローゼンシュトック指揮による演奏がラジオで全国放送され、多くの日本人が「第九」を聴く機会が増えました。太平洋戦争中も、「第九」の放送は続き、一時期は正月に移ったものの、その後も「第九」はラジオで放送されることが継続されました。

「戦地へ赴く学生たち」1943年の学徒壮行音楽会

1943年の東京音楽学校(現在の東京芸術大学)で行われた学徒壮行音楽会でも「第九」が演奏されました。

当時、太平洋戦争が悪化し、法文系学生で満20歳に達した者も徴兵される状況でした。12月に入隊することが決まった学生たちの壮行会で、彼ら自身が主導してベートーヴェンの交響曲第9番「第九」が演奏されました。「第九」は戦地に赴く学生たちにとって、戦時下を生き抜くための音楽だったのです。

戦後復興と「第九」

1945年8月14日、日本は無条件降伏に大筋で同意し、正式に降伏して太平洋戦争が終結しました。同年12月、空襲で焼け野原となった日比谷公会堂で、ヘルマン・ローゼンシュトック指揮のもと、新交響楽団から改称した日本交響楽団が復興への思いを込めたベートーヴェンの交響曲第9番「第九」を響かせました。この演奏は、戦争から立ち直ろうとする日本人の心に力を与え、希望をもたらしました。

1947年12月30日は、東京音楽学校で戦没した学徒兵を追悼する演奏会が開かれ、「第九」が演奏されました。太平洋戦争が終わり、出征した者のうち多くが戦死し、生きて帰った者たちにとって、再び「第九」を演奏することは、戦没した仲間への鎮魂歌(レクイエム)だったのです。

メディアの影響力

さらに、ラジオでは「第九」の放送を正月から再び年末に戻し、1953年末にはテレビ中継も開始しました。1950年代半ば以降、メディアの影響力が大きくなるにつれて、各オーケストラも次々と「年末の第九」に加わりました。

平和と復興の象徴

戦後の復興期には、音楽鑑賞団体などによる合唱運動やコンサートが活発化し、その中で「第九」が演奏されることが普及の後押しとなりました。各地のオーケストラが合唱団を併設するケースが増え、音楽教育の中で「第九」が親しまれるようになり、市民に浸透していきました。

また、労働者による音楽鑑賞運動の年末企画として毎年演奏されるようになり、平和推進運動の高まりと相まって、「第九」は平和と復興の象徴となりました。その結果、プロとアマチュアを問わず、多くの合唱団が「第九」をレパートリーに取り上げるようになり、さらには「第九」を歌うための専門の合唱団も誕生しました。

「第九は稼げる!?」大人の事情

戦後のオーケストラは運営が困難な状況にありましたが、「第九」の人気を利用して収入を確保するために、年末にコンサートを開催するようになりました。合唱団も出演するため、その家族や知人たちがチケットを購入して駆けつけ、チケットが売り切れることも多かったです。

今や年末の代名詞!それが「第九」

「第九」研究家の集計では、1955年に全国でたった3回だった12月の「第九」公演は、1960年代には2ケタに増え、70年代には50回を超え、80年代には100回を突破しました。

こうした状況が、「第九」の年末演奏の定着にも繋がり、さらにその人気を高める要因となりました。現在でも、年末に開催される「第九」のコンサートは多くの人々に楽しまれており、その歴史と意義が引き継がれています。

SankeiNews/YouTube
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ベートーヴェンが1824年に完成させた『交響曲第九番』は世界中で演奏され、日本では毎年5万人以上が歌っている。 この『第九』がいかにして日本に受け入れられ、市民参加型の合唱として定着していったのか。そこにはシラーやベートーヴェンの自由や兄弟愛などへの思いに共鳴し、『第九』を演奏しようとする人びとの姿が見出される。またラジオやレコードといったメディアがこのブームを支えていたことにも気づかされる。(「Books」出版書誌データベースより)

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