感動と希望に満ちたクラシック音楽の傑作、それが『第九』です。年末になると、この交響曲が各地で演奏され、多くの人々に愛されています。
infonie Nr. 9 d-moll op. 125
「年末の第九」
毎年12月、日本では『第九』の演奏会が各地で開催されます。
演奏会はショッピングモールや公民館、学校、コンサートホールなど、本当にさまざまな場所で開かれます。
特に12月後半に入ると、毎日必ずどこかで『第九』が演奏されています。週末になると、同時に複数のオーケストラが『第九』を演奏することも珍しくありません。
2018年12月の調査では、東京・関東エリアだけでも80を超える公演があり、サントリーホールだけでも13公演が予定されていました。全国で見ると例年150以上の公演が開催されています。
『第九』は、クラシック史上最大のヒット曲と言っても言い過ぎではないでしょう。
演奏会だけでなく、百貨店のバーゲンセール会場や商店街のBGMでも『第九』が流れますし、12月31日の夜にはNHKが「NHK交響楽団」の『第九』をテレビ放送するのも毎年の恒例行事になっています。
平和、希望、喜びのメッセージが込められた『第九』は、まさに日本の年末の風物詩として定着しているのです。
「歓喜の歌」のメッセージ
12月に多く演奏される理由は、年末にかけての祝祭感や新年を迎える希望といった雰囲気と、最終楽章の「歓喜の歌」が持つ、自由や平和、人類の絆のメッセージなどの普遍的なメッセージがぴったりマッチしているためです。
『第九』新しい年を迎えるにあたって、人々に喜びや希望を与える力強い音楽として愛されているのです。
ベートーヴェン最後の交響曲としての感動
また、『第九』は、ベートーヴェンが聴力を失ってからも作曲し続けた最後の交響曲であり、ベートーヴェンの音楽的な遺産の集大成とされています。
そのため、年の瀬にこの交響曲を演奏することは、一年を締めくくる感慨深いイベントとして多くの音楽ファンにとって特別なものとなっています。
実は日本だけ?年末といえば第九……。
さて、『第九』の演奏にはオーケストラの他に、4人の独唱歌手と合唱団が必要であり、その規模が大きいことから、世界的に見ると頻繁に演奏されるものではありません。
アメリカやヨーロッパでは、年末のオーケストラの定番プログラムとしては、ヘンデル作曲の『メサイヤ』が一般的です。日本とは違い、12月に『第九』をオーケストラが演奏するほうが珍しいぐらいです。
もちろん例外もあり、ドイツのライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団は1918年の第一次世界大戦終結後から大晦日に、オーストリアのウィーン交響楽団は12月30日と31日に『第九』を演奏する文化があります。
特別な日に演奏される特別な曲
しかし欧米では、あくまで祝典や歴史的な行事など、特別な機会に演奏される特別な楽曲として扱われています
例えば、1952年のバイロイト音楽祭復活した時のフルトヴェングラー指揮による記念碑的公演や、1989年のベルリンの壁崩壊時にバーンスタインが指揮した世紀のコンサートなどが有名です。
このように、特定の記念日や祝典などで演奏されることこそありますが、日本のように年末に演奏が集中するという現象は、世界的にも非常に珍しいものになっています。
『第九』を初めて歌った日本人
日本における「第九」の普及は、幸田露伴(こうだ ろはん)の妹の幸田延(こうだ のぶ)の歌唱を皮切りに始まりました。
幸田露伴は、明治から昭和にかけて活躍した小説家・随筆家・考証家で、日本の文学界において多大な功績を残している偉人です。その偉大さから「大露伴」とも呼ばれれています
明治時代の音楽教育改革
明治時代は、日本が不平等条約の改正を目指し、西洋化政策を通じて近代化を進めた重要な時期です。
この時代は「文明開花」とも称され、西洋の技術、文化、制度が積極的に取り入れられ、国の急速な変化と発展が遂げられました。
音楽教育においては、この時代が特に重要な転換点となりました。日本政府は、不平等条約改正という国際的な目標を達成するため、西洋音楽の導入に重点を置きました。
この政策は、欧米諸国との対等な外交関係を築くための戦略の一環として展開されました。
1879年、文部省内に設置された音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)は、西洋音楽導入の先駆けとなり、日本の音楽教育の変革を推進しました。
1887年には、音楽取調掛が東京音楽学校へと発展し、多くの優れた音楽家たちを輩出することになります。
この改革の中心にいた人物が、アメリカ人音楽教師ルーサー・ホワイティング・メーソンでした。
メーソンは、日本の音楽教育を革新するため、自身の音楽知識と経験を活かし、西洋音楽の教育法を伝え、日本の音楽教育システムの改革に尽力しました。
その功績は、今の日本の音楽教育にも影響を与えており、メーソンが築いた基盤の上に、多くの優れた音楽家たちが育っています。
メーソンに見出された天才音楽家
そんな時代に生まれたのが幸田延です。幸田延は幼少期から楽才に秀でており、音楽取調掛で学び、12歳の時にはメーソンに見いだされ、第1回文部省音楽留学生として音楽を学ぶために海外に渡航することになりました。
その後、幸田延はボストンとウィーンで西洋音楽の知識と技術を吸収しました。ウィーン音楽院ではヴァイオリンを主専攻し、和声学、作曲、ピアノなども学びました。
当時のウィーンは、音楽が充実しその文化が成熟している時代であり、幸田延にとってこの期間は非常に有意義なものでした。
ウィーン音楽院での学びや現地での音楽演奏を通して、西洋音楽の最先端をリアルタイムで吸収した幸田延は、帰国後、日本で教育者・演奏家として活躍し始め、日本の音楽史に名を刻むことになります。
「ヴァイオリン・ソナタ 変ホ長調」を作曲
幸田延がウィーンで学んだ成果の一つが、留学中の1895年にローベルト・フックスのもとで作曲した「ヴァイオリン・ソナタ 変ホ長調」です。
これは、日本人による初のソナタ形式による楽器のみで演奏される「器楽曲」であり、幸田延の才能と努力の証となっています。
当時の日本の音楽界と幸田延の留学経験
1909年12月20日、ベルリンでの『第九』の演奏会に、日本人として初めて参加した幸田延は、当時の日本音楽界とはまったく違った環境に置かれ、そこで貴重な経験を積むことができました。
指揮者アルトゥール・ニキシュとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏に参加することは、幸田延にとって大変名誉なことであり、日本の音楽界にとっても歴史的な出来事でした。
当時の日本では、西洋音楽はまだ新しい存在であり、ベートーヴェンの交響曲、特に『第九』は演奏技術や合唱の組織が不十分なため、演奏するのは困難といたからです。
しかし、幸田延がベルリンでの演奏会に参加して以降は、日本の音楽家たちが我先とベートーヴェンの交響曲に挑戦し始め、やがてそれが日本における『第九』文化に繋がっていく事になります。。
日本で初めて「第九」を演奏したオーケストラ
1924年1月26日、九州帝国大学フィルハーモニー会(現・九州大学フィルハーモニー会)が、日本のオーケストラとして初めて『第九』を演奏しました。
この演奏は、摂政宮(後の昭和天皇)の結婚を祝う演奏会で行われ、特別な歌詞が選ばれました。
最終楽章である「歓喜の歌」は、通常フリードリッヒ・シラーの詩による歌詞が用いられますが、この演奏会では文部省が摂政宮の結婚を祝うために選定した「皇太子殿下御結婚奉祝歌」という歌詞に差し替えられました。
この特別な歌詞での演奏は、合唱を含めて約10分間の演奏だったとされています。
この歴史的な舞台での演奏会は、ベートーヴェンの『第九』が日本の音楽界でどれだけ重要かを示すとともに、その後の日本のオーケストラや合唱団による『第九』演奏のさきがけとなりました。
日本人による初めての「歓喜の歌」の演奏は九州帝国大学フィルハーモニー会によるもの。「第4楽章の一部が奏でられたことは分かっていたが、どの部分をどう演奏したかは不明だった。」
— 南野 森(MINAMINO Shigeru) (@sspmi) December 30, 2018
> 大正時代の第九、楽譜見つかる 演奏10分の詳細が判明:朝日新聞デジタル https://t.co/ngwscZEaGp
日本人オーケストラで初めての全楽章を演奏
日本における『第九』の公式な初演は、1924年11月29日に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)が演奏したものとされています。
これは、九州帝国大学フィルハーモニー会による『第九』の演奏は原曲のシラーの詩ではなかったためです。
東京音楽学校における「第九」の練習
1924年4月、新学期が始まると同時に、東京音楽学校では教官と学生が一丸となって『第九』の猛練習に取り組み始めました。
当時、この作品は演奏技術や合唱の組織が求められる難曲とされており、日本での初演に向けて十分な準備が必要でした。
そのため、東京音楽学校では管楽器が足りず、海軍軍楽隊のメンバーにも参加してもらり演奏に挑む事になりました。
東京音楽学校の教官と学生たちは、『第九』の楽譜を研究し、オーケストラや合唱の編成、指揮法などを徹底的に分析、練習しました。
学校一丸となって取り組み続けた結果、『第九』の演奏技術は格段に向上し、日本初演への道筋ができあがっていきました。
そして、、ついに東京音楽学校第48回定期演奏会(同年11月29日〜30日)で「第九」の初演が実現したのです。
ベートーヴェンの「第九」と合唱の難しさ
実際に『第九』は、その高度な技術と表現力が求められるため、簡単な曲ではありません。
1924年の東京音楽学校による初演では、合唱隊が1年間の猛練習を重ねましたが、それでも満足に歌うことはできず、特にテノールの高音域は困難であったと、後に声楽家となった木下保(1903~1982)が振り返っています。
また、『第九』の歌詞はドイツ語であったことが、さらに演奏を困難なものにしていました。
当時の日本では、「外国語の歌詞の意味など分からなくてもよい」という風潮がありました。
それは戦後、プロアマを問わず多くの人が『第九』の合唱に挑戦するようになってからも、もしかしたら現代になっても、完全にはなくなっていないかもしれません。
大盛況と追加公演
そんな様々な難題を抱えながらも、東京音楽学校の初演は大盛況であり、その後12月6日には追加公演が行われました。
この追加公演も満員御礼となり、『第九』は日本の音楽ファンに強い印象を残す事になりました。
ドイツ出身の指揮者「グスタフ・クローン」
これらの演奏で指揮を務めたのは、日本人ではなくドイツ出身のグスタフ・クローンでした。
クローンは、お雇い外国人教師として東京音楽学校に12年間在職し、その間にベートーヴェンの9つある交響曲のうち、6曲の日本での初演を指揮しています。
その中でも。この『第九』初演は、クローンの日本における音楽教育活動の総決算ともいえる功績となりました。
日本のプロ・オーケストラによる初の『第九』
それから数年後の1927年5月、1926年に設立された新交響楽団(1942年に日本交響楽団に改名し、1951年に現在のNHK交響楽団となる)がベートーヴェン没後100年を記念して『第九』を演奏しました。
これが、日本のプロ・オーケストラによる初めての『第九』の演奏になりました。
日本人指揮者初の『第九』と師走
続く1928年には、新交響楽団が師走の12月に初めて『第九』を演奏しました。
この時の演奏は、初代指揮者の近衛秀麿(このえ ひでまろ)による日本人指揮者初の『第九』でもあり、年末に演奏された初めての『第九』でもありました。
そして、新交響楽団が次に『年末の第九』を演奏するのは10年後の1938年になります。
戦争を超えた年末の「第九」の始まりと普及
1938年、新交響楽団はドイツから招いた指揮者ヘルマン・ローゼンシュトックのアドバイスを受け、再び年末に『第九』の演奏をすることになりました。
そして、同年年12月26日と27日に築地の歌舞伎座で演奏会が開催され、大成功を収めました。
『年末の第九』のはじまり
当時の日本では、『第九』は主に5月や6月頃に演奏されることが一般的でしたが、この成功を受けて『年末の第九』が注目される様になりました。
さらに、ヘルマンがドイツの大晦日のラジオ・ライブ『第九』に言及したことが、『年末の第九』が日本で定着するきっかけとなりました。
新交響楽団は、1938年以降ほぼ1年おきに、そして1946年からは原則として毎年、12月になると『第九』を演奏し続け、『年末の第九』は恒例行事になっていきました。
NHKも年末に『第九』を放送
同じ頃、NHKのラジオ放送も『年末の第九』に同調するように動き始めました。
1940年(昭和15年)の大晦日には、ヨーゼフ・ローゼンシュトック指揮による『第九』の演奏がラジオで全国放送され、多くの日本人が『第九』を耳にする事になりました。
太平洋戦争中にも、『第九』の放送は続き、一時期は正月に移ったものの、その後も『第九』はラジオで放送され続けました。
「戦地へ赴く学生たち」1943年の学徒壮行音楽会
1943年の東京音楽学校で行われた、学徒壮行音楽会でも『第九』が演奏されました。
当時は、太平洋戦争が悪化し、法文系学生で満20歳に達した若者さえも徴兵される状況でした。
12月に入隊することが決まった学生たちの壮行会で、学生ら自身が主導して『第九』演奏しました。
この時の『第九』は、戦地に赴く学生たちにとっての戦時下を生き抜くための音楽だったのです。
戦後復興と「第九」
1945年8月14日、日本は無条件降伏に大筋で同意し、正式に降伏して太平洋戦争が終結しました。
同年12月、空襲で焼け野原となった日比谷公会堂で、ヘルマン・ローゼンシュトック指揮のもと、新交響楽団から改称した日本交響楽団が復興への思いを込めて『第九』を響かせました。
この演奏は、戦争から立ち直ろうとする日本人の心に力を与え、希望をもたらしました。
追悼式での『第九』
1947年12月30日は、東京音楽学校で戦没した学徒兵を追悼する演奏会が開かれ、『第九』が演奏されました。
太平洋戦争が終わり、出征した者のうち多くが戦死し、生きて帰った者たちにとって、再び『第九』を演奏することは、戦没した仲間への鎮魂歌(レクイエム)でした。
メディアの影響力
さらに、ラジオでは『第九』の放送を正月から再び年末に戻し、1953年末にはテレビ中継も開始しました。
1950年代半ば以降、メディアの影響力が大きくなるにつれて、各オーケストラも次々と『年末の第九』に加わりました。
平和と復興の象徴
戦後の復興期は、音楽鑑賞団体などによる合唱運動やコンサートが活発化し、その中で『第九』が演奏されることが普及の後押しとなっていました。
各地のオーケストラが合唱団を併設するケースが増え、音楽教育の中で『第九』が親しまれるようになり、市民に浸透していきました。
また、労働者による音楽鑑賞運動の年末企画として毎年演奏されるようになり、平和推進運動の高まりと相まって、『第九』は平和と復興の象徴となりました。
その結果、プロとアマチュアを問わず、多くの合唱団が『第九』をレパートリーに取り上げるようになり、さらには『第九』を歌うための専門の合唱団も誕生しました。
第九は稼げる?切実な大人の事情
実は、戦後のオーケストラは運営が困難な状況であり、収入を確保するために『第九』の人気を利用して年末にコンサートを開催していました。
『第九』の演奏には合唱団も出演するため、その家族や知人たちがチケットを購入して駆けつけ、チケットが売り切れることも多く、これが貴重な収入源になっていました。
今や年末の代名詞「第九」
その結果、1955年に全国でたった3回だった12月の『第九』の公演は、1960年代には2ケタに増え、70年代には50回を超え、80年代には100回を突破しました。
このような時代背景の中、『第九』の年末演奏の定着にも繋がり、さらにその人気を高める要因となりました。
読者の皆様へ
そして現代、『年末の第九』は多くの人々が楽しみにしており、その素晴らしい音楽とメッセージは、今も私たちの心を掴んで離しません。是非、『第九』のコンサートに足を運んで、その感動を体験してみてください。