J-POPの源流は「蛍の光」にあり!日本の音楽史における重要性とは?

明治時代に日本の音楽教育に欧米の手法が取り入れられ、日本の音楽文化と西洋音楽の融合が始まりました。この中で、「小学唱歌集初編」が誕生し、多くの楽曲が収録されました。その中でも、「蛍の光」という曲は、日本の音楽史において特別な位置を占めています。

この曲の魅力や意味を含めて、この記事では詳しく紹介していきます。また、「蛍の光」が、日本の音楽文化の多様性と豊かさを示すものとして、現代のJ-POPにも影響を与えたことも紹介します。日本の音楽史に興味がある方や、日本の音楽文化に興味を持っている方におすすめの記事です。

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オリジナルはスコットランド民謡「Auld Lang Syne」で200年以上前に作られ、日本では約120年前に“小学唱歌集初編”に掲載されて以来愛されてきた「蛍の光」。当タイトルは「蛍の光」の原曲にまでさかのぼり、その歴史と世界的広がりを音で検証する企画アルバム『螢の光のすべて』の改訂版。 (C)RS

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「蛍の光」

Yuki Kondo Pianist/YouTube

『蛍の光』は、1881年(明治14年)に発行された「小学唱歌集初編」で発表された日本の唱歌です。作詞者は、高野辰之(たかの・たつゆき)、作曲者は、板垣正博(いたがき・まさひろ)です。日本の伝統的な景色や風習を詠んだ詞と、やさしい旋律が人気を博し、今でも多くの人々に愛唱されています。

日本の音楽教育に与えた影響と欧米文化の輸入

『小学唱歌集』は、文部省音楽取調掛が編集した日本初の五線譜による音楽教材で、全91曲が収録されています。その中には、「蝶々」「蛍の光」「仰げば尊し」「庭の千草」など、今も歌い継がれる曲が含まれています。この唱歌集は、日本の音楽教育の発展に大きな役割を果たしたとされ、今でも多くの人々に愛されています。

『小学唱歌集』に収録された多くの歌は、欧米の歌謡から選ばれ、原曲の歌詞とは異なる独自の歌詞が付けられました。当時の日本では、欧米の文化が輸入され、その中には音楽も含まれていました。文部省音楽取調掛が編集した『小学唱歌集』は、そのような時代背景から欧米の曲が多数収録されたものとされています。

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オリジナルはスコットランド民謡「Auld Lang Syne」で200年以上前に作られ、日本では約120年前に“小学唱歌集初編”に掲載されて以来愛されてきた「蛍の光」。当タイトルは「蛍の光」の原曲にまでさかのぼり、その歴史と世界的広がりを音で検証する企画アルバム『螢の光のすべて』の改訂版。 (C)RS

「蛍の光」の作者・伊沢修二の音楽的軌跡

「蛍の光」の作者である伊沢修二は、1851年、嘉永4年に、現在の長野県伊那市の高遠城下(信濃国)で生まれました。彼は幼少期から音楽の才能を示し、日本の音楽史に名を刻むことになります。

幕末から明治時代にかけての日本は、激動の時代でした。日本が開国し、急速に西洋文化が流入する中で、伊沢修二は西洋音楽と日本の伝統音楽の融合を模索し始めました。

伊那市教育チャンネル/YouTube

アメリカで音楽のレベルの違いに驚愕

大学南校に進学した伊沢修二は、明治8年(1875年)に師範学校教育調査のためアメリカ合衆国に留学し、そこで近代的な音楽教育を学んだとされています。

ルーサー・ホワイティング・メーソンとの出会い

当時、アメリカ合衆国は教育面で日本に先進的な制度を取り入れており、音楽教育においても先進的な手法が取り入れられていました。

伊沢修二は、マサチューセッツ州にあるハーバード大学、ボストン大学、セイラム大学などの大学で師範教育や音楽教育を学びました。また、ボストンで音楽教育家として名を成していたルーサー・ホワイティング・メーソンからも教えを受け、アメリカの音楽教育の先進的な手法を学びました。

後にメーソンは日本に滞在し音楽教育の指導

この伊沢修二との縁がきっかけで、ルーサー・ホワイティング・メーソンは1880年から1882年にかけて、日本に滞在し、音楽教育の指導にあたりました。

帰国後に痛感!この国には音楽教育がない!!

伊沢修二は日本に帰国後、日本における音楽教育の不足を痛感し、文部省に働きかけて音楽教育の研究機関を創設するよう提案しました。

「音楽取調掛」音楽教育の調査と研究のために設立

この提案を受け、明治12年(1879年)に「音楽取調掛(とりしらべがかり)」が創設。これは音楽教育の調査と研究のためだった。伊沢は初代掛長に就任し、音楽教育の発展に尽力することになる。

「小学唱歌集初編」の誕生

そこで伊沢やメーソンが作り上げたのが「小学唱歌集初編」

“蛍の光”は当時はまだ“蛍”だった

『小学唱歌集初編』(1881年)には、メイソンや伊沢らの努力を結集して収録された歌が多数含まれています。その中には、「むすんでひらいて」(原曲「Mary Had a Little Lamb」)、「スコットランドの釣鐘草」(原曲「Auld Lang Syne」)などの曲に混じって、「蛍の光」が「蛍」という題で収録されています。

日本唱歌の代表的な作詞家・稲垣千頴と「蛍の光」

蛍の光の作詞をしたのが稲垣千頴(いながき ちかい)です。稲垣は日本唱歌の代表的な作詞家の一人として知られています。その当時は東京師範学校教員として働いていた、同校の校長だった伊沢修二に請われて音楽取調掛の一員となり、『小学唱歌集 初編』に収録されたいくつかの曲に歌詞を付けました。

晩年の伊澤修二は、稲垣を音楽取調掛に抜擢した理由を「(和)歌が上手」だったからと振り返っていました。実際に稲垣は生涯、歌を読みつづけた歌人であり、国文漢文の広い学識を持っていた。

古語や表現の工夫が醸し出す詩情

「蛍の光」の歌詞は、古語を含んだ詩的な表現で構成されており、言葉遣いや意味が深いとされています。歌詞の中の「蛍の光、窓の雪」というフレーズは、明治時代の日本に伝わった中国の故事「蛍雪の功」から引用されたものです。

故事「蛍雪の功」は、貧しい家庭で生まれた車胤(しゃいん)と孫康が、努力と忍耐を重ねて成功を収める物語です。車胤は、夜間に勉強する際に蛍の光を利用し、孫康は雪の上に字を書いて勉強しました。この故事から、「蛍雪の功をあげる」という表現が生まれ、困難や苦難を乗り越えた結果としての功績を称える言葉として使われるようになりました。

「蛍の光」の歌詞の中には、この故事を引用した言葉が含まれており、苦難を乗り越えた人々の努力を讃えるとともに、希望や光明の象徴としても解釈されています。

また、「いつしか年も すぎの戸を」という歌詞の「すぎ」は、「過ぎ」と「杉」の掛詞として使われており、稲垣が歌人でもあったことから、その特徴が歌詞にも現れているといえます。こうした言葉遣いや表現の工夫が、この歌が持つ独特の魅力や詩情を醸し出しています。

J-POPのルーツと言われる理由は“西洋音楽との融合”

明治時代初期の日本では、音楽教育に関する議論が活発に行われていました。国際的な観点から近代化を進めるべく、西洋音楽の導入と日本固有の音楽文化の在り方が問われるようになりました。この時期には、大きく分けて以下の3つの意見が存在していました。

  1. 西洋音楽を日本に移植し、それのみを教育する
    西洋音楽の優れた要素を取り入れることで、日本の音楽文化を近代化し、国際的な基準に合わせるべきだという考え方です。この流れから、ドイツを中心とした西洋音楽の技法や理論が日本に導入され、音楽教育の基盤が形成されました。
  2. 日本固有の音楽を育成・発展させる
    日本の伝統音楽を尊重し、それを継承・発展させるべきだという考え方です。日本固有の音階やリズム、楽器などを用いた音楽を重視し、それを後世に伝える役割を果たすことを目指していました。この流れから、邦楽や日本の伝統芸能が再評価され、保護・継承の動きが起こりました。
  3. 西洋音楽と東洋音楽を折衷する
    西洋音楽と日本の伝統音楽を組み合わせて新しい音楽文化を創造するべきだという考え方です。両方の音楽の長所を取り入れ、独自の音楽スタイルを確立することを目指していました。この流れから、日本独自の音楽ジャンルや作品が誕生し、現代にもその影響が見られます。

このような背景から、明治初期の日本の音楽教育は多様な試みが行われ、西洋音楽や日本固有の音楽、そしてそれらを組み合わせた折衷的な音楽教育などが試みられました。

アメリカに輸入されたスコットランド民謡を日本が輸入

このように「小学唱歌集初編」は、日本の音楽史において画期的な試みが行われたもので、西洋音楽の影響を受けた日本語の歌詞に西洋音楽の旋律を合わせるという方法が採用されていました。

この唱歌集は、その後の日本の音楽教育の基礎を築くことになり、多くの日本人に親しまれるようになります。

例えば、「蛍の光」は、もともとスコットランド民謡「オールド・ラング・サイン」として知られていますが、この曲は、スコットランドから直接日本に持ってこられたものではありません。実際には、この楽曲は一度アメリカ合衆国に輸入され、アメリカの音楽家ローウェル・メーソンの耳と手を通じてアレンジされ、さらにアメリカで十分に機能することが分かった上で、日本へと移し変えられたものでした。

J-POPに多様性をもたらせた作品

このような文化交流が、日本の音楽史において独自の進化を遂げるきっかけとなり、多様な音楽スタイルが生まれていくことにつながりました。そして、この流れが現代のJ-POPにも影響を与えており、日本の音楽文化の多様性と豊かさを示すものとなっています。

J-POPは、西洋音楽のポップスやロックを基調にしながらも、日本固有の音楽要素や歌詞の表現、メロディーラインなどが組み合わさり、独自のスタイルを確立しています。これらは「蛍の光」が持つ異文化融合の精神を受け継いでいるといえるでしょう。こうした音楽作品は、日本の音楽文化を豊かにし、国内外で多くの人々に親しまれるようになりました。 

さらに「蛍の光」以外にも「小学唱歌集初編」に収録された多くの楽曲は、今なお日本の音楽教育や文化において重要な位置を占めており、その影響力は依然として続いています。

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オリジナルはスコットランド民謡「Auld Lang Syne」で200年以上前に作られ、日本では約120年前に“小学唱歌集初編”に掲載されて以来愛されてきた「蛍の光」。当タイトルは「蛍の光」の原曲にまでさかのぼり、その歴史と世界的広がりを音で検証する企画アルバム『螢の光のすべて』の改訂版。 (C)RS

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