〜ホタルノヒカリ〜 卒業式の定番ソング『蛍の光』 「え?今の日本の音楽ルーツはここ!?」

HOTALUNOHIKARI

「蛍の光」

Yuki Kondo Pianist/YouTube

明治時代「小学唱歌集初編」の中に

『蛍の光(ほたるのひかり)』は、1881年(明治14年)に「小学唱歌集初編」で発表された日本の唱歌。

蛍の光 歌詞の意味・現代語訳/世界の民謡・童謡 WORLDFOLKSONG.COM

『小学唱歌集』は、文部省音楽取調掛が編集した日本初の五線譜による音楽教材だ。

【明治の50冊】(4)文部省音楽取調掛編 小学唱歌集 理想に終わった和洋折衷/産経ニュース.2018

全91曲中には「蝶々」「蛍の光」「仰げば尊し」「庭の千草」など、今も歌い継がれる曲が含まれる。

(4)文部省音楽取調掛編 小学唱歌集 理想に終わった和洋折衷/産経ニュース.2018

『小学唱歌集』は文部省音楽取調掛(掛長、伊沢修二)が編纂した音楽の教科書ですが、収められた多くの歌は欧米の歌謡から選ばれて、原歌詞の内容とは異なる独自の歌詞が付けられたのです。

蛍の光」あれこれ/関東学園大学 教員によるNews解説.2014

Shuji Izawa

伊沢修二

伊沢は嘉永4年(1851)、信濃国高遠城下(現在の長野県伊那市)で生まれました。

勲二等伊沢修二叙勲|音楽教育|明治の学び/国立公文書館

アメリカで音楽のレベルの違いに驚愕

大学南校に進学した後、明治8年(1875)に師範学校教育調査のため米国へ留学しました。そこで接したのが近代的な音楽教育でした。

勲二等伊沢修二叙勲|音楽教育|明治の学び/国立公文書館

「メーソン」との出会い

留学した彼は、主にマサチューセッツ州の大学でアメリカにおける師範教育の在り方を中心に学び、この時、ボストンで音楽教育家として名を成していたルーサー・ホワイティング・メーソンの教えを受けます。

音楽教育の原初までさかのぼってみると…(2)/大谷能生.【ニッポンの音楽教育150年間のナゾ】.zakzak.2019
メーソンは日本に滞在することに…

この伊沢との縁が機となって,メイソソは1880-82年の問,お抱え外国人として日本に滞在することになる。

英詩における賛美歌・聖歌・民謡/実村文.明治大学人文科学研究所紀要 第50冊(2002)411-425(p.419)

帰国後、危機感から国にある要望をした

日本に帰ってから伊沢修二が痛感したのは、音楽教育というものが、全然 日本にないことであつた。彼はすぐ文部省上層部を説いて、音楽教育の研究機関を創設させた。この機関というのは明治十二(1879)年十月創設された、音楽取調掛のことである。

明治以降の 日本における洋楽導入の経過と 中国内モンゴル 自治区の現状 ~滝廉太郎と山田耕律の事績を中心に~/兵庫教育大学大学院 教育学研究科.方法開発専攻.文化表現系教育コース 芸術分野 (音 楽).島利吉(p.8)

「音楽取調掛」設立

明治12(1879)年に明治政府は音楽取調掛(とりしらべがかり)を開設した(中略)。音楽教育の調査と研究のためである。

異文化研究」の哲学的根拠と今日的使命/斎 孝 則(p.22)

蛍 a.k.a 蛍の光

 メイソンや伊沢らの努力を結集して完成された小学唱歌集初編』(1880)には,「見渡せば」(原曲「むすんでひらいて」),「うつくしき」(原曲「スコットランドの釣鐘草」)などに混じって,「蛍の光」が「蛍」という題で収録されている。

英詩における賛美歌・聖歌・民謡/実村文.明治大学人文科学研究所紀要 第50冊(2002)411-425(p.419)
作詞者不明?

ワイド版岩波文庫『日本唱歌集』(堀内敬三・井上武士編、1991年6月26日第1刷発行)には、まだ「歌詞の作者は、当時音楽取調掛と関係のあった稲垣千頴、加部厳夫、里見義などのうちの誰かであろうが、記録がない」とあって、作詞者未詳となっていますが、前にも触れたように、当時東京師範学校教員だった稲垣千穎(いながき・ちかい)が作詞者だということが分かったそうです。

唱歌「蛍の光」「あおげば尊し」/小さな資料室

作詞:稲垣千頴

「蛍の光」はこの教科書に収録された唱歌のひとつで(当初の表題は「蛍」)、作詞を稲垣千頴(ちかい/1847~1913)という国文学者が手がけた。

朝ドラ『エール』窪田正孝が“仕掛け人”? 「蛍の光」はなぜ閉店BGMの定番になったか?/近藤 正高.文春オンライン.2020

歌詞は古語(和文)で書かれた

「蛍の光」は、歌詞の大半が古語。

【歌詞コラム】卒業式の定番ソング「蛍の光」の歌詞の意味とは?/UtaTen

 「蛍の光、窓の雪」は、中国の故事「蛍雪の功」から採られた言葉です。明かりを灯すお金もないほど貧乏だった晋の時代の車胤(しゃいん)と孫康は、逆境に負けず昼夜を問わず勉学に励んで出世しました。明治文明開化に物心ついた日本人は、取り敢えず清貧を元手にがむしゃらに邁進する他はありませんでした。蛍雪を耐えた鋼のような清き心が、功=天職を成し遂げさせるのです。

「ほたるこい」と「蛍の光」/大紀元時報

日本の音楽はここから始まった!

明治時代「今後の音楽の方向性どうしよ…」

「明治のはじめ、日本の音楽教育については、西洋音楽を日本に移植してそれのみを教育する、日本固有の音楽を育成発展させる、西洋音楽と東洋音楽の折衷、の3つの意見があった」。

異文化研究」の哲学的根拠と今日的使命/斎 孝 則(p.22)

海外の音楽を吸収

例えば、唱歌「蛍の光」は、もともとはスコットランド民謡だと伝えられていますが、しかし、それはスコットランドから直接日本に持ってこられたものではなく、一度メーソンの耳と手を通してアメリカ大陸に輸入され、アメリカという「異国」でもそれが十分に機能することが分かった上で、再度日本へと移し変えられたものなのです。

「君が代」と「唱歌」と「明治頌」(7)/大谷能生.【ニッポンの音楽教育150年間のナゾ】.zakzak.2020

すなわち、「蛍の光」に限って言えば、かつて日本人が聞いたことのない西洋音楽の旋律、すなわち異文化を輸入しつつ、それを国学者であり、歌人であり、和文教育を行う教育者であった稲垣千穎の作詞による日本語の歌詞、すなわち日本文化と一つにすることで、「日本固有の音楽を育成発展させる」道を取っていたら生まれなかったであろう多様性を日本文化に与えることになったのである。

異文化研究」の哲学的根拠と今日的使命/斎 孝 則(p.22)

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