《オールド・ラング・サイン》唱歌『蛍の光』の秘密、日本人の心に触れたスコットランド民謡

日本の卒業式や店の閉店時に流れる、やさしく懐かしいメロディ「蛍の光」。

この曲は、日本の伝統的な唱歌として広く愛され、多くの人々にとって特別な思い出や感情を呼び起こすものです。

しかし、ご存知でしょうか?この美しいメロディの起源は、実は日本から遥か離れた国、スコットランドにあります。

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オリジナルはスコットランド民謡「Auld Lang Syne」で200年以上前に作られ、日本では約120年前に“小学唱歌集初編”に掲載されて以来愛されてきた「蛍の光」。当タイトルは「蛍の光」の原曲にまでさかのぼり、その歴史と世界的広がりを音で検証する企画アルバム『螢の光のすべて』の改訂版。 (C)RS

History of Auld Lang Syne

「古き友情を讃えるスコットランドの名曲」Auld Lang Syne

National Geographic/National Geographic

日本人の心に優しくも儚く響く、「蛍の光」のメロディはスコットランド民謡の「オールド・ラング・サイン(Auld Lang Syne)」に由来しています。

一方で、その歌詞は完全に日本オリジナルです。

「別れの歌」じゃなくて「友情の歌」

元々「オールド・ラング・サイン」は古い友情や思い出を振り返りながら絆を祝う歌であり、再会や友情の継続を意味するものでした。

しかし、日本で「蛍の光」として独自の歌詞に翻訳された際に、その意味や曲調が変化していきました。

The Tenors/YouTube

卒業ソングと日本語の和訳

明治15年(1882年)、日本に「オールド・ラング・サイン」が入ってくると、同年、唱歌作詞者の稲垣 千穎(いながき ちかい)がそれを訳し、小学唱歌集第20番の唱歌「蛍の光」として発表されました。

同年7月、東京女子師範学校の卒業式で初めて歌われ、そこから「蛍の光」は別れや送別をテーマにした歌として広まりました。

特に「開けてぞ今朝は別れゆく」や「別れ別れになるべく」などの歌詞が、その別れを象徴しています。曲調も、日本での演奏スタイルや文化の影響を受け、元々の明るさがやや和らぎ、別れの雰囲気を強調するものへと変化しました。

結果として、「蛍の光」は日本で独自の意味合いを持ち、卒業式や送別会などの別れの場面で歌われることが一般的となりました。

そのため、日本ではオールド・ラング・サインの原型とは異なる形で親しまれています。

UNIVERSAL MUSIC JAPAN/YouTube

スコットランド「第二の国歌」

オールド・ラング・サインは、スコットランドの第二国歌とも称されるほど、スコットランド人にとって非常に重要であり、その文化やアイデンティティの象徴となっています。

この楽曲には伝統的なスコットランド音楽や民族的な要素が盛り込まれていることからも、スコットランド人にとって特別な意味を持つ歌というのが伝わってきます。

Kenny G/YouTube
Home Free/YouTube
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作詞:詩人”ロバート・バーンズ”

オールド・ラング・サインの歌詞を書いたロバート・バーンズ(Robert Burns)は、18世紀当時のスコットランドでは非常に有名な詩人でした。

バーンズは、スコットランドの文化や風習を、詩や歌で表現した作品をたくさん生み出しました。

その中でバーンズの詩は、時代を超越した普遍的なテーマや感情を描いており、スコットランド文化の象徴として今も愛されています。

ROBERT BURNS STATUE - KILMARNOCK
ロバート・バーンズ詩人としての功績

ロバート・バーンズは、1759年にスコットランド南西部サウス・エアシャイアのアロウェー(Alloway)で生まれました。

バーンズは7人兄弟の長男として、幼少の頃は貧しい小作農の家庭で育ちました。

それでもバーンズの父親は敬虔な長老教会信徒であり、子供たちに良い教育を受けさせることに力を入れていました。そんな生活をする中で、バーンズは弟と一緒に農場で働きながら詩の世界に興味を持ち始めました。

このような背景があったため、バーンズは「鍬(くわ)を振るう詩人」と呼ばれることもありました。

1781年、フリーメイソンに加入したバーンズは、その人脈を活かして詩人としての成功への足がかりを築いていきました。

1783年からはスコットランド語のエアシャイア方言を使った詩を手がけ、1786年には初の詩集『Poems- Chiefly in the Scottish Dialect』が出版されました。(この詩集は現在「キルマーノック版」として知られています )

バーンズの詩集は翌年にはエディンバラでも出版され、詩人としての名声が一気に高まりました。

大の女好き!?プライベートのロバート・バーンズ

ロバート・バーンズはプライベートで、すぐに女性に手を出していたことがよく知られています。

バーンズがフリーメーソンに加入した頃にはアリソン・ベグビーという女性に恋をし、ラブレターを送りました。これはバーンズの初期の恋愛の一つで、最終的にはベグビーによってフラれる形で破局しました。

20代半ばには、同時に複数の女性と関係を持っていました。その中には、母親の召使だったエリザベス・ペイトンが含まれており、彼女との間に子供が出来ました。

また、近所の女性ジーン・アーマーとも関係を持ち、彼女との間には双子が生まれました。バーンズは事実上の結婚証明書をジーン・アーマーに渡してプロポーズしました。

しかし、バーンズの素行は非常に悪いことで知られていたため、アーマーの母親に断固反対されこの話は消えてしまいました。

その後、今度はメアリー・キャンベルと恋愛関係になり、彼女とともにジャマイカへの逃避行を計画しましたが、計画はメアリーの突然の死によって終わってしまいました。

20代後半には、アグネス・ナンシー・マクリーホースという女性と恋愛関係になりました。

バーンズはナンシーに肉体関係を迫りましたが、彼女はプラトニックな関係を望んでいたため、バーンズはナンシーの召使であるジェニー・クローに手を出し子をもうけました。

最終的には、1788年にバーンズはジーン・アーマーと和解し、結婚。その後のバーンズからは浮気の話は聞かれず、ジーンとの間に9人の子供をもうけています。

晩年のロバート・バーンズ

子沢山のバーンズは詩の制作だけでは家計を支えきれなかったため、1789年にロバートは収税吏の仕事に就きました。

この時期には、『シャンタのタム』(Tam o’Shanter)、『我が恋人は紅き薔薇』(Red, Red Rose)などの名作が生まれました。

また、バーズンは民謡を収集し、自ら作詞を行い、Musical MuseumやSelect Collection of Original Scottish Airsなどで発表しました。

詩人として名声を得たものの、リウマチ熱に苦しみ1796年に心臓疾患のため37歳で短い人生を終えました。

バーンズの人生における女性との関係は、現代における日本人の感覚ではとても称賛することはできませんが、この奔放ま私生活がバーンズの作品に大いに影響していたのは明白であり、バーンズの情熱的な性格を反映しているともいえます。

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ロバート・バーンズによる再解釈

そんなロバート・バーンズが、「Auld Lang Syne」の歌詞を書いたのは1788年。

バーンズは伝承歌である「Auld Lang Syne」を「断片」と解釈し、古い時代のスコットランドの歌であることを強調しました。

そして、この古い民謡をベースにして、自分自身の解釈やアレンジを加えながら歌詞を書き直しました。

こうして出来上がった歌詞は、旧友との再会と共に過去の良き日々を思い出し、杯を交わすというものでした。

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18世紀スコットランドの生んだ国民詩人ロバート・バーンズ(Robert Burns、1759‐96)。農作業のきびしい労働と貧窮をきわめた日常生活のなかで詩作にはげみ、天性の詩才を発揮した。日本では「蛍の光」の原詞作者としても馴染みが深い。2009年1月25日、バーンズの生誕250年を迎えるにあたって本書では、いまも愛され続ける詩作や、多彩な伝記的事実を現代の視点でとらえ直し、詩人の真価と魅力を紹介する。バーンズ研究の専門家、スコットランド文学・言語など関連諸領域の研究陣が稿を寄せる。(「BOOK」データベースより)

ロバート・バーンズの「Auld Lang Syne」が世界中で定着

ロバート・バーンズの作品は、スコットランドの文化や伝統を表現するものでありながら、人間の感情や絆に関する普遍的なテーマが含まれているため、国や言語を越えて世界中の人々に愛されています。

その中かでも特にオールド・ラング・サインは、その友情や過去の思い出を称える内容が世界中の人々に共感を呼びました。

そして明治時代に日本に伝わったオールド・ラング・サインは、日本語に訳され、「蛍の光」として日本の学校や文化の一部として定着したのです。

中国では原曲忠実!

中国では「地久天長」というタイトルで知られており、そのメロディと感動的なテーマは中国でも広く愛されています。

この曲は、友情や絆を讃える内容であり、スコットランドのオリジナル版に近い歌詞で歌われています。

中国では、新年の祝いや結婚式などの特別な場面で「地久天長」が歌われることが多く、人々の心に残る瞬間を彩る曲としての役割を果たしています。

シネマトゥデイ/YouTube
韓国では国歌「愛国歌(エグッカ)」

韓国の国歌「愛国歌(エグッカ)」は、国を愛する気持ちを表現するために広く用いられています。

この歌の歴史は非常に興味深いもので、その起源はスコットランドの民謡オールド・ラング・サインに関連しています。

「愛国歌」の歌詞は、韓国の作曲家安益泰(アン・イクテ)によって、もともとはオールド・ラング・サインのメロディに合わせて歌われました。

その後、韓国の独立運動家たちがこの曲を愛唱し、これが現在の国歌の形成に大きく貢献しました。韓国が独立した後に現在の歌詞になり、韓国国民にとって非常に重要な意味を持つ歌となりました。

現在、「愛国歌」は、国民的な歌として韓国人に親しまれ、特に国を愛する気持ちを表現する様々な場面で歌われています。

Roserouge/YouTube
世界で3番目に歌われる曲としてギネスに認定!!

オールド・ラング・サインはギネス世界記録に「世界で3番目に多く歌われる曲」として認定されています。

これはこの歌が持つ普遍性と影響力を示しています。この曲は、時代や国境を越えて、人々の記憶に残る感動的な瞬間を演出する力を持っていると言えるでしょう。

もうすぐニューイヤーソング!みんなでこの曲を歌おう

オールド・ラング・サインは新年を迎える瞬間、特に大晦日の真夜中に、世界中の多くの英語圏の国々で歌われることが伝統になっています。

人々は手をつないで輪になり、この歌を歌いながら新しい年の到来を祝います。

Mariah Carey/YouTube
「歌うときみんなでやりたい!」お決まりのポーズ

この時の伝統的な腕組みポーズも、世界中で愛される新年の伝統の一部となっています。

参加者は両腕を胸の高さで交差させ、隣の人と手を繋ぎます。これは、今年の素晴らしい時間を振り返りつつ、来年への希望を共に祝う意味を持っています。

そして曲のメロディーに合わせて、手を繋いだままゆっくりと踊り、新しい年の始まりを共に祝うのです。

これは歌の歌詞が伝える友情や絆を具現化したものであり、この時の一体感は非常に感動的なものになっていますす。

この伝統は、新年を迎える際の特別な感動と一体感を生み出し、世界中の多くの文化で受け継がれています。

BBC/YouTUbe

読者の皆様へ

オールド・ラング・サインは、世界中の他の人々と心を一つにしています。この曲は、これからも時間と場所を超えて、人々の心に響き続けるでしょう。

新たな年の始まりに際して、皆様がこの曲を通じて感じる絆と希望を、心より祝福します。新年が皆様にとって、平和と幸福に満ちたものであることを願っています。

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オリジナルはスコットランド民謡「Auld Lang Syne」で200年以上前に作られ、日本では約120年前に“小学唱歌集初編”に掲載されて以来愛されてきた「蛍の光」。当タイトルは「蛍の光」の原曲にまでさかのぼり、その歴史と世界的広がりを音で検証する企画アルバム『螢の光のすべて』の改訂版。 (C)RS

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