日本でもよく知られる「蛍の光」が元々はスコットランドの民謡だったことをご存知ですか?
「Auld Lang Syne(オールド・ラング・サイン)」というスコットランドの伝統的な歌は、世界中で友情や別れの時に歌われ、新年や終わりを迎えるイベントでもよく演奏されています。この曲から派生した日本の唱歌「蛍の光」は、卒業式や別れの場面で歌われることが多く、多くの人々に親しまれています。
この記事では、「Auld Lang Syne」や「蛍の光」の歴史や由来、そしてそれぞれの歌がどのように広まっていったのかについて詳しく紹介します。友情や別れの時に心に残るメッセージを歌に込めたこの二つの歌の魅力に触れてみてはいかがでしょうか。
History of Auld Lang Syne
「古き友情を讃えるスコットランドの名曲」Auld Lang Syne」
「Auld Lang Syne(オールド・ラング・サイン)」は、ロバート・バーンズが1788年に詩として書いたスコットランドの伝統的な歌で、世界中で友情や別れの時に歌われています。新年や終わりを迎えるイベントでもよく演奏され、その普遍的なメッセージは、人々が懐かしい時代や友情を讃え、新たな門出を祝う際に最適です。
唱歌「蛍の光」はこの曲から作られた
蛍の光は、日本で広く知られている歌で、卒業式や別れの場面で歌われることが多いです。この歌のメロディは、スコットランドの古典的な歌「Auld Lang Syne」に由来していますが、歌詞は日本独自のものです。
蛍の光の歌詞は、ウィリアム・エドワード・アクランドというイギリスの宣教師が、1870年代に日本で学んだ日本文学に触発され、英語の詩「Should Old Acquaintance Be Forgot」を作詩しました。この詩は、1876年にアクランドが帰国する際に日本の友人に贈られました。
その後、日本では多くの翻訳が試みられ、明治時代には早稲田大学の学生たちが卒業の際に歌うようになりました。蛍の光の現在の日本語訳は、1905年に島崎藤村が訳したものが広く知られています。
「別れの歌」じゃなくて「友情の歌」
「Auld Lang Syne」は古い友情や思い出を振り返りながら絆を祝う歌であり、再会や友情の継続を意味するものでした。しかし、日本で「蛍の光」として独自の歌詞に翻訳された際に、その意味や曲調が変化しました。
島崎藤村の日本語訳詩によって、「蛍の光」は別れや送別をテーマにした歌として広まりました。特に「開けてぞ今朝は別れゆく」や「別れ別れになるべく」などの歌詞が、その別れを象徴しています。曲調も、日本での演奏スタイルや文化の影響を受け、元々の明るさがやや和らぎ、別れの雰囲気を強調するものへと変化しました。
結果として、「蛍の光」は日本で独自の意味合いを持ち、卒業式や送別会などの別れの場面で歌われることが一般的となりました。そのため、日本では「Auld Lang Syne」の原型とは異なる形で親しまれています。
スコットランド第二の国歌
「Auld Lang Syne」は、スコットランドの非公式な第二国歌とも言われています。この歌はスコットランド人にとって非常に重要であり、その文化やアイデンティティの象徴となっています。伝統的なスコットランド音楽や民族的な要素が盛り込まれていることから、スコットランド人にとって特別な意味を持つ歌となっています。
作詞:詩人”ロバート・バーンズ”
「Auld Lang Syne」の歌詞を書いはロバート・バーンズは、18世紀スコットランドの詩人として非常に有名であり、スコットランドの文化や風習を詩や歌で表現した作品が多数あります。彼の詩は、時代を超越した普遍的なテーマや感情を描いており、スコットランド文化の象徴として今も愛されています。
ロバート・バーンズの生涯と詩人としての功績
ロバート・バーンズは1759年にスコットランド南西部サウス・エアシャイアのアロウェー(Alloway)で生まれました。彼は7人兄弟の長男であり、貧しい小作農の家庭で育ちました。彼の父親は敬虔な長老教会信徒であり、子供たちに教育を受けさせることに力を入れていました。ロバートは弟と一緒に農場で働きながら詩作に興味を持ち始めました。
1781年にフリーメイソンに加入したロバートは、その人脈を活かして詩人としての成功への足がかりを築きました。1783年からはスコットランド語のエアシャイア方言を使った詩作を行い、1786年には初の詩集『Poems- Chiefly in the Scottish Dialect』が出版されました。この詩集は現在「キルマーノック版」として知られています。彼の詩集は翌年エディンバラでも出版され、詩人としての名声が高まりました。
ロバートは女性関係に奔放で、1788年に恋人であったジーン・アーマー(Jean Armour)と結婚しましたが、彼女との間に5人の子供がおり、さらに9人の私生児もいました。彼の作品の中には、恋人たちに捧げられた詩もあります。例えば、「ハイランドのメアリー」(Highland Mary)はその一つです。
詩作だけでは家計を支えきれなかったため、1789年にロバートは収税吏の仕事に就きました。この時期には、『シャンタのタム』(Tam o’Shanter)、『我が恋人は紅き薔薇』(Red, Red Rose)などの名作が生まれました。また、彼は民謡を収集し、自ら作詞を行い、Musical MuseumやSelect Collection of Original Scottish Airsなどで発表しました。
詩人として名声を得たものの、リウマチ熱に苦しんだロバートは、1796年に心臓疾患のため37歳で亡くなりました。
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ロバート・バーンズによる再解釈
ロバート・バーンズは、1788年に古くから伝わるスコットランドの伝承歌をもとに「Auld Lang Syne」の歌詞を書きました。この歌の内容は、旧友との再会と共に過去の良き日々を思い出し、杯を交わすことを歌っています。
バーンズは、「Auld Lang Syne」を「断片」と表現し、古い時代のスコットランドの歌であることを強調していました。彼は、この古い民謡をベースにして、自分自身の解釈やアレンジを加えながら歌詞を書き直しました。
バーンズ作の品は国を渡ってやがて日本へ
ロバート・バーンズの作品は、スコットランドの文化や伝統を表現するものでありながら、普遍的なテーマが含まれているため、世界中の人々に愛されています。彼の詩や歌は、人間の感情や絆に関する普遍的なメッセージを伝えることで、国や言語を越えて共感を呼びます。
特に「Auld Lang Syne」は、その友情や過去の思い出を称える内容が世界中の人々に共感を呼びました。明治時代に日本に伝わった「Auld Lang Syne」は、日本語に訳され、「蛍の光」として日本の学校や文化の一部として定着しました。
世界で3番目に歌われる曲としてギネスに認定!!
世界で3番目に歌われている曲として「Auld Lang Syne」がギネス認定されています。
中国では原曲忠実!
中国では「地久天長」というタイトルで親しまれています。歌詞の内容は、ほぼスコットランドで歌われている内容に近く、友情や絆を歌ったものとなっています。中国でも新年の祝いや結婚式の場で歌われることが多く、世界中で愛される曲の一つとして、多くの人々に親しまれています。
韓国では国歌として!
韓国の国歌である「愛国歌(エグッカ)」は、国を愛する歌として知られています。この歌詞は、何度も変更されており、現在の形になったのは、韓国が独立した後のことです。しかし、この歌詞が最初に歌われたのは、スコットランドの民謡「Auld Lang Syne」と同じく、作曲家の安益泰(アン・イクテ)がこの曲に合わせて歌ったことが始まりでした。
その後、韓国の独立運動家たちがこの曲を愛唱し、現在の国歌の誕生に繋がったとされています。現在では、韓国の国民的な歌として親しまれ、国を愛する気持ちを表現する場面でよく歌われます。
英語圏では「ニューイヤーソング」
英語圏の多くの国々で、大晦日のカウントダウンで年が明けた瞬間に歌われる新年ソングとして親しまれています。
「歌うときみんなでやりたい!」お決まりのポーズ
この歌が歌われる際に、一般的に、両腕を胸で交差させ、両隣の人と手を繋ぐ(腕を組む)というお決まりの姿勢があります。この姿勢は、曲の歌詞に合わせて、友情や絆を表現するためのものであり、多くの人々にとって、この瞬間は非常に感動的なものとなっています。また、この姿勢は、新しい年の始まりを祝うためのものでもあり、希望に満ちた未来を共に迎えることを願うものとなっています。
世界中で愛される名曲!
このように、「Auld Lang Syne」は、人々の心に深く刻まれた曲の一つとして、世界中で愛され続けています。