日本の伝統的な竹製縦笛「尺八」について知っていますか?尺八は、鎌倉時代に禅僧によって日本に伝えられ、虚無僧が用いる宗教的な楽器として発展してきました。普化尺八、一節切尺八、現代の尺八という3つのタイプがあり、歴史や形状によって異なる音色が楽しめます。この記事では、尺八の歴史や流派について紹介しています。尺八の独特な音色と魅力に触れながら、日本の文化や美意識についても知ることができます。
History of the Shakuhachi
「尺八」の歴史
尺八(しゃくはち)は、日本の伝統的な竹製の縦笛で、多様な種類があり、またその歴史は非常に古く様々です。
尺八は、その歴史と形状によって大きく3つのタイプに分類されます。「雅楽尺八」「普化尺八(ふけしゃくはち)」「一節切(ひとよぎり)」です。
- 雅楽尺八:古代日本で雅楽に用いられていた尺八で、正倉院にも遺品が残されています。現存する最古の尺八であり、長さが約40cmとされています。当時の貴族たちに愛好されていた楽器ですが、12世紀には雅楽の演奏から姿を消してしまいました。
- 普化尺八(ふけしゃくはち):鎌倉時代に禅僧の僧侶が日本に伝えた尺八で、禅宗の一派・普化宗の虚無僧が用いていました。現代の尺八の直接的な祖先とされており、竹の根元を使用することで現在の形になりました。宗教的な道具(法器)として、瞑想に捧げられる形で演奏されていました。
- 一節切(ひとよぎり):室町時代中期に中国から伝わったとされる尺八で、竹の節を1つ含む形状が特徴です。武家や上流階級の風雅な嗜みとして用いられていました。音量や音域が狭く、音程の正確性に劣りますが、素朴で独特の音色が魅力とされています。
これら3つの尺八は、それぞれ時代や用途によって異なる特徴を持っており、日本の音楽史や文化を理解する上で重要な役割を果たしています。
遥か昔……大陸から日本に伝わってきた
数千年前、中央アジアでは竹や蘆に穴を開けた笛の類が存在していました。その後、インドに伝わり、仏教の布教活動を通じて中国へと広まりました。中国では、この笛が雅楽や仏教の法器として使用されるようになり、さらに仏教の伝来と共に日本へと渡来しました。
日本に伝わった当初、尺八は宮廷音楽や仏教行事において使われていました。やがて日本独自の音楽や文化と融合し、さまざまな形式やスタイルの尺八が発展していきました。
聖徳太子も奏者?正倉院にある古代の尺八
日本の尺八の最古のものとして、聖徳太子が愛玩したとされる尺八が法隆寺に伝わっているという話がありますが、具体的な証拠や裏付けは存在しないため、その真偽は定かではありません。ただし、奈良時代の正倉院御物の中には5本の尺八が遺されており、これが現存する最古の尺八とされています。
正倉院御物の尺八は、長さが約1尺1寸から1尺4寸5分(約33.3cmから44.3cm)とされており、古代の雅楽で使用されたものだと考えられています。
玉という加工が難しい材質で作られており、実用よりも装飾用の意味合いが強いとされています。そのため、当時の正確な音程に関しては確定的なことは言い難い状況です。この尺八は、日本の尺八の歴史や発展において重要な役割を果たしたとされており、今日の尺八のルーツを知る上で貴重な資料となっています。
【#正倉院展】#第69回正倉院展の主な出陳宝物
— 奈良国立博物館 Nara National Museum, Japan (@narahaku_PR) October 18, 2017
北倉 玉尺八(石製の縦笛) 1管
『国家珍宝帳』に記された聖武天皇ご遺愛の尺八。玉の尺八と呼ばれているが、大理石を用いながら尺八本来の三節の竹の形を忠実に模している。宝庫に納められる八管の尺八のうち、本品は最も短い。 pic.twitter.com/11857SS3l2
正倉院の尺八「雅楽尺八」
雅楽尺八(あるいは古代尺八、正倉院尺八)は、日本の古代において宮廷や神社仏閣で演奏された尺八の一種です。この時代の尺八は、長さが1尺8寸(約40cm)であり、「しゃくはち」という名前が付けられたとされています
11世紀に発表された「源氏物語」にも登場!
尺八は、『源氏物語』に「さくはちのふえ」として登場し、平安時代の貴族たちが愛好していたことが分かります。『源氏物語』は、11世紀に成立した日本最古の物語文学であり、貴族たちの生活や文化が詳細に描かれています。尺八が登場することで、当時の社会において尺八が重要な役割を果たしていたことが示唆されます。
12世紀には雅楽が衰退…。尺八も歴史から消えていく
しかし、12世紀になると、尺八は雅楽の演奏から姿を消してしまいます。これは、雅楽自体が衰退し、代わって室町時代以降の能楽や能管、能笛などの新しい音楽が台頭したためと考えられます。また、尺八の演奏技法が時代とともに変化し、平安時代の貴族社会から離れて庶民の間で広まるようになったことも、その要因の一つとされています。尺八は、その後も日本の伝統音楽において重要な役割を果たし続け、現代に至るまで多くの人々に愛されて
鎌倉時代!再び歴史に登場!?僧侶と尺八
日本に再び尺八が登場するのは、鎌倉時代です。中国・南宋から、臨済宗の僧侶・覚心が禅宗の一派である「普化宗」を日本に伝えました。普化宗は、唐の時代の禅僧・普化が開祖で、彼は「鐸」という大きな鈴を持ち歩き、それを鳴らしながら「明頭来明頭打(ミョウトウライヤ、ミョウトウタ)、暗頭来暗頭打(アントウライヤ、アントウタ)」と唱えて歩いていました。
普化宗の僧侶「虚無僧」にとっては神聖な道具
虚無僧は、座禅を実践する代わりに尺八を吹くことでお経をあげ、心身を鍛えるとされていました。そのため、虚無僧が吹禅に使用する尺八は、単なる楽器ではなく、瞑想に捧げられた宗教的な道具(法器)とみなされていました。
この時代、尺八は普化宗の法器として扱われていたため、一般人には吹くことができませんでした。しかし、それが完全に手に入らないわけではなく、一部では広く楽しまれていたとされています。尺八の演奏は、禅の精神や哲学を体現するものとされ、その音色や奏法は日本独自の美意識や感性が反映されていました。
尺八を吹く僧「虚無僧」
南北朝時代(1336年 – 1392年)に活躍した武将である楠木正成の孫、楠木正勝が虚無僧として知られるようになったのが始まりとされています。正勝は「虚無」を名乗り、編み笠(あみがさ:竹などで編んだ日よけの帽子)をかぶり、頭陀袋(ずだぶくろ:僧侶が持つ乞食袋)を持ち、わらじ(藁製の草履)を履いて各地を巡り、托鉢(たくはつ:乞食)を行いました。
正勝が托鉢の際に尺八を吹いていたことから、彼をはじめとする尺八を吹く僧侶たちが、次第に「虚無僧」と呼ばれるようになりました。虚無僧は、禅宗の教えや修行を行いながら、尺八の演奏を通じて悟りを求め、また、音楽を通じて布教活動を行っていました。虚無僧はその後も日本各地に広まり、尺八の文化を発展させていったのです。
武器としても使っていた(笑)
禅宗の一派である普化宗の虚無僧は、尺八を法器として用いました。
虚無僧が吹いていた尺八を「普化尺八」
虚無僧が吹いていた尺八は、「普化尺八」と呼ばれています。普化尺八は、竹の根元を使用し、現代の尺八に似た形状をしています。竹の根元を用いることで、自然な節があり、音色が豊かで独特な響きが生まれます。
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今の尺八に繋がる
普化尺八は、現代の尺八の直接的な祖先とされています。
武家や上流階級の嗜み「一節切尺八」
一節切尺八(ひとよぎりしゃくはち)は、主に武家や上流階級が風雅な趣味として楽しむために用いられました。その形状は現代の尺八に似ており、1節の竹を切り取って作られています。このため、「一節切」という名前が付けられています。
室町時代中期に、中国の禅僧・盧安(ろあん)が日本に一節切尺八を伝えたという説があります。盧安は日本の禅宗にも多大な影響を与えた人物であり、彼が一節切尺八をもたらしたことで、この楽器が日本でさらに広まり、武家や上流階級にも受け入れられるようになったとされています。
一節切尺八は、竹の節を1つ含むことからその名前が付けられました。普化尺八と区別するために、「一節切」という呼び方が一般的です。現代の尺八と比べて、一節切尺八は音量が小さく、音域が狭く、音程の正確性に劣るなど、楽器としての機能面では見劣りする部分があります。しかし、普化尺八にはない素朴で独特の音色が魅力であり、それが評価されています。
近年、一節切尺八の愛好者が徐々に増えており、その独特な音色や表現力に惹かれる人が多いことから、古い伝統を受け継ぐ尺八の形態として再評価されています。
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室町から江戸にかけて歴史的重要人物も演奏!
町時代から江戸時代にかけて、尺八は武士、僧侶、貴族の間で広く人気がありました。後醍醐天皇の皇子である筑紫宮(つくしのみや、中務卿憶良親王)が好んで吹いたことから流行が始まったと古資料に記されています。
僧侶の中には一休宗純や雪舟といった著名な人物がおり、彼らも尺八を愛好していました。
また、多くの武将にも愛され、織田信長も一節切を愛用していたと言われています。大森宗勲(オオモリソウクン)から指導を受けたという話もありますが、年齢が微妙に合わないため、彼が信長の小姓であった可能性も指摘されています。
幻庵切り
戦国武将の中でも長寿で知られる北条幻庵は、自作したと伝わる一節切(ひとよぎり)を奏でており、これは尺八の一種で、「幻庵切り」とも呼ばれていました。このように、尺八は様々な階層の人々に愛され、日本の文化や歴史に深く根ざしています。
江戸時代からは虚無僧によって再び普化尺八が主流に!
江戸時代になると、虚無僧たちはより音域が広く音量の大きい普化尺八で行脚を行うようになりました。これにより、一節切は次第に衰退していきました。その結果、現存する一節切は非常に数が少なく、まれな存在となっています。その希少性から、「幻の笛」とも呼ばれています。現代では、一節切を再評価し、その素朴な音色や歴史的価値を再認識する動きもあります。
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明治初期の廃仏毀釈によって虚無僧が激減
明治初期の廃仏毀釈によって普化宗が廃宗になると、尺八はついに広く一般の人々が触れることのできる楽器となりました。宗教的な音楽だけでなく、芸術的な音楽としての道も切り開かれるようになりました。「春の海」の作曲で有名な宮城道雄や都山流の祖・中尾都山などの活躍により、尺八はさらに広まっていきました。
また、箏や三絃といった楽器の発展とともに、尺八はそれらの楽器と合奏するようになりました。これにより、尺八は現代の日本の音楽文化において重要な位置を占めるようになりました。現在、尺八は宗教的な音楽だけでなく、伝統音楽や現代音楽の分野でも幅広く活躍しており、多くの愛好者に支持されています。
そして現代!尺八シーンを牽引する2大流派!
都山流と琴古流は、尺八の二大流派とされています。それぞれの流派には独自の奏法や音色、歌口の形状などが特徴としてあります。
琴古流
琴古流は、福岡黒田藩の藩士であった黒沢琴古(クロサワキンコ、幸八、初代琴古)が創設した尺八の流派です。彼は、各地にあった虚無僧寺に受け継がれてきた楽曲を再編し、現在「琴古流本曲」と呼ばれる、琴古流の基礎となる曲集を作り上げました。
黒沢家の跡継ぎは4代目までで、5代目が継承を放棄したため、その後は流れを組む社中や会派という形で琴古流が存続し、今日まで伝えられています。
琴古流には独自の演奏技法が存在し、尺八独特の響きを生かした表現が特徴です。古典音楽の演奏に秀でており、その音色や技法は、尺八の伝統的な魅力を引き出すものとされています。
現在でも、琴古流はその独特の演奏技法や音色を守りつつ、新たな表現やスタイルにも挑戦している流派として、尺八演奏の世界で重要な位置を占めています。
都山流
都山流は、初代中尾都山によって創設された尺八の流派で、現在は四代目中尾都山が率いています。この流派は、教授資格を持つ師匠が約4,000名に及ぶと言われており、国内最大の尺八流派の一つです。
江戸時代には、尺八は虚無僧によって独占され、演奏される曲も宗教的なものがほとんどでしたが、都山流はその伝統を変えることに成功しました。明治36年(1903)に初代中尾都山が「慷月調」を作曲し、それ以降、従来の古典尺八曲にはない新しい「都山流本曲」が次々と生み出されました。
また、古典尺八本曲はほとんど独奏曲でしたが、都山流は合奏曲の本曲という新しい分野を開拓しました。この新たなスタイルは、尺八の演奏方法や曲の表現を大きく広げました。
新都山流
新都山流は、中尾都山が創設した都山流を基盤に、流祖の孫娘である中尾美都子が初代宗家として率いています。
新都山流は、古典的な尺八音楽の継承はもちろん、現代音楽や他の楽器とのコラボレーションなど、尺八の可能性を追求する活動を行っています。これにより、尺八の魅力を多くの人々に伝えることができるだけでなく、尺八演奏の進化にも寄与しています。新都山流は、都山流の伝統を継承しながら、新しい音楽表現の創出を目指している流派です。