米津玄師のルーツとは?ニコ動から日本のトップアーティストへの道のり ── 初音ミクとめぐるJ-POPとボーカロイドの歴史⑤

「日本を代表するシンガーソングライター」として知られる米津玄師さんですが、彼のルーツは意外と知られていないかもしれません。実は彼は、ニコニコ動画でのボーカロイドプロデューサー(ボカロP)として活躍していた過去があります。

2009年に投稿した楽曲「パンダヒーロー」で注目を集め、その後も多くの楽曲を制作してきました。2011年には自身のボーカロイドを使ったアルバム「diorama」をリリースし、CDデビューを果たした彼は、その後もボカロPとしての活動を通じて培った楽曲制作のスキルや音楽性が、現在の彼の音楽活動に大きな影響を与えています。

そして、彼が生み出した「Lemon」や「馬と鹿」などのヒット曲は、現在も多くの人々に愛され、支持されています。本記事では、そんな彼のルーツと現在の活躍について、詳しく紹介していきます。

ニコニコ動画で1000万再生突破!ボカロオリジナル曲「神話入り曲」 ── 初音ミクとめぐるJ-POPとボーカロイドの歴史④
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ボカロPとして、音楽家として生きる、40mPの軌跡! まだ何者でもなく、ただ音楽が好きな会社員だったあの頃。ボーカロイドとの出会いと衝撃、働きながらの楽曲制作とニコ動への投稿、インターネットの向こう側からの反響、様々なクリエイターたちとの出会い、メジャーデビュー、数々の名曲が生まれる舞台裏、虹色オーケストラの開催、そして――。 楽曲制作の過程やプライベートなど数々のエピソードを通して人気ボカロPの軌跡を描く初のコミックエッセイ! さらにおまけページには、DTMの概要や楽曲ができるまでの過程(作詞、作曲)、ボカロ動画の制作の流れ、さらに原作・40mPと作画・たまによる対談などスペシャルコンテンツを多数収録。 40mPの活動を凝縮した待望の一冊。(「Books」出版書誌データベースより)

Kenshi Yonezu

ボカロP出身!?「米津玄師 a.k.a ハチ」

Kenshi Yonezu 米津玄師/YouTube

2007年8月に登場したボーカロイドソフト「初音ミク」は、音楽業界に大きな変革をもたらしました。初音ミクは、ニコニコ動画を中心に「ボカロP」と呼ばれる一般ユーザーたちが大量の新曲を発表する原動力となり、単なるツールやソフトウェアの枠組みを超え、「音楽の新しいあり方」を示す象徴となりました。

現在、ボカロP出身のアーティストが日本のポップ・ミュージックのメインストリームの一部となり、その作品がヒットチャートの上位を占めるようになっています。2018年の「NHK紅白歌合戦」で故郷の徳島県から歌唱した国民的ヒット曲「Lemon」で話題となった人気シンガーソングライターの米津玄師も、ボカロP出身のアーティストの一人です。

米津玄師 – Lemon Kenshi Yonezu/YouTube

J-POPのレベルを引き上げたアーティスト!

米津玄師は、2009年に18歳で「ハチ」という名義でニコニコ動画に楽曲の投稿を始め、独自の音楽スタイルで注目を集めました。2012年からは本名の「米津玄師」として音楽活動を展開し、さらに幅広いファン層を獲得しました。

彼の音楽は、不協和音を多用した独自のメロディ感覚や、クラシックのオーケストラサウンドからインスパイアされた壮大な楽曲が特徴です。これらの要素が組み合わさった彼の音楽は、日本のポップミュージックのレベルを一気に引き上げる力がありました。

初音ミクなどボーカロイドを用いて楽曲を作る「ボカロP」としてキャリアをスタートした米津玄師の表現は、現在では多彩に広がっています。彼はボーカロイドを用いた楽曲制作だけでなく、自身の歌唱力や作詞・作曲能力を活かして、幅広いジャンルの音楽を生み出しています。そのため、彼はボカロP出身のアーティストの中でも特に成功した例として認識されています。

様々な才能を発揮し続ける

米津玄師は、多彩な才能を持つアーティストとして知られています。彼は自分で曲を作り、自分の声で歌うだけでなく、アルバムジャケットなどのイラストレーションも自ら描いています。これにより、彼の作品には独自の世界観が表現されています。

また、彼はミュージックビデオ制作にも関わり、アニメーション動画を手がけることがあります。これによって、彼の音楽とビジュアルが一体となった作品が生まれ、視聴者に強い印象を与えています。

さらに、米津玄師はコンテンポラリーダンスにも挑戦しており、彼のパフォーマンスは音楽だけでなく、ダンスやビジュアル面でも高い評価を受けています。

ハチ誕生ストーリー

米津玄師は1991年生まれの徳島出身のアーティストで、自然豊かな町で育ちました。しかし、彼は過去の音楽誌のインタビューで、自分の家庭環境が精神的にも肉体的にも貧しいと語っています。彼の母親はチラシを作る内職をしており、恵まれた家庭環境ではなかったようです。

米津玄師(本名)は特徴的な名前だっため、子ども時代にはいじめられることも多かったと言われています。また、幼稚園の頃に遊んでいた時に人とぶつかってしまい、唇を大ケガして大出血し、病院に運ばれたことがあります。

今も唇が少し腫れているように見えるのは、その名残だとされています。この出来事について彼は音楽誌のインタビューで、独特な表現で振り返っています。

規格外のサイズで産まれた事や個性的な名前、幼少期のトラウマなどがあって、成長とともに生きることに居心地の悪さを感じるようになった米津玄師は、友達もあまりおらず、休み時間などは自分の頭の中で作り上げた架空の人物と話すことを心の拠り所にしていたと音楽誌で語っています。

彼は「普通の人になりたかった」と言い、普通ではないという感覚によって苦しい思いをしてきたことを自覚しています。

診断結果は「高機能自閉症」

20歳のころ、米津玄師は人とコミュニケーションがうまくとれないことに疑問を感じ、病院を訪れました。そこで彼は「高機能自閉症」と診断されたそうです。高機能自閉症は、コミュニケーション能力に乏しかったり、こだわりが強いといった特徴を持つ病気です。

そのため、彼が当時クラスメートになじめなかった理由が納得できると、中学の同級生は語っています。

当時の彼は、自分が人とは違うことにコンプレックスを感じ、普通にできないことに悶々としていたようです。

音楽活動は中学2年!友達とバンドを結成

米津玄師が初めて自発的に行動を起こしたのは中学2年生のときでした。彼は当時、流行っていたスピッツやBUMP OF CHICKENなどのバンドに憧れ、自分もそんな存在になりたいと思い、2万円のギターを購入しました。彼は仲のいい友達を誘ってバンドを結成しました。

BUMP OF CHICKENに関しては、曲が単純に良かったことも影響していますが、その音楽が非常に映像的で、聴いていると情景が浮かぶものだったため、彼がこれまで漫画やアニメを通して見てきたものとリンクしていたと語っています。

中学時代からオリジナル楽曲を制作

小学校5年生のとき、インターネットを利用して当時WEB上で流行っていたFLASHアニメーションを視聴した米津玄師は、それによって音楽に対する意識が変わりました。その後、中学2年生の終わり頃からMTR(マルチトラック・レコーダー)を使用してオリジナル曲を製作し始めました。

中学の文化祭では、彼がオリジナルの曲を披露し、みんなを驚かせました。彼の同級生は、「田舎の学校なのでオリジナル楽曲を披露するような人は、米津くんたちが初めてだったと思います」と語っています。このことから、当時から米津玄師がクリエイティブな才能を持っていたことがわかります。

高校文化祭のため!バンド「Toy Circus Show」を結成

徳島商業高校に進学した米津玄師は、ギターを持って自転車通学していました。しかし、高機能自閉症の影響でバンド仲間に自分の意志をうまく伝えられず、高校に入学してからバンドは自然消滅の形で解散してしまいました。

彼は昼休みにイヤホンをつけて音楽を聴いて過ごしていたようですが、話しかけられるのを嫌がっていました。高校の同級生によれば、「一度、昼休みに教室が騒がしかったとき、いきなり米津がバーン!と机を叩いて教室を出ていったことがありました。きっとうるさかったんでしょうね(笑)」と語っています。

高校2年生のとき、修学旅行で北海道のスキーを選択しましたが、「運動神経はイマイチだった」という証言もあります。高校の文化祭では、「Toy Circus Show」というバンドを率いました。ちなみに、彼は高校時代に彼女がいたことが分かっています。

アマチュアバンド「late rabbit edda」のフロントマンとしても活動!

米津玄師はオリジナル曲の制作を開始すると同時に、アマチュアバンド「late rabbit edda」のフロントマンとしても活動していました。彼はバンド活動を通じて、音楽制作やパフォーマンスのスキルを磨き、さらに自身の音楽スタイルを確立していくことになります。

その頃の米津を知るライブハウスの店長の証言

この連載では、全国のライブハウスの店長たちが、それぞれの店の特徴や魅力を語っています。今回は徳島・club GRINDHOUSEの現店長、長谷川洋星氏が登場。彼は、徳島出身のアーティストや学生バンドへの熱い思いを語ってくれました。

徳島・club GRINDHOUSEは1987年にJITTERBUGという名前でオープンし、その後2010年に現在の名前に変更されました。徳島出身のアーティストとしては、米津玄師がlate rabbit eddaというアーティスト名で10年以上前にJITTERBUGでライブを行っていたことが印象に残っています。彼は当時から曲を自分で作り、ほとんどソロに近い活動をしていました。性格的にはおとなしい感じで、当時はニコニコ動画に投稿することが一般的ではなかったため、周りから浮いていたかもしれません。しかし、曲は抜群に良かったという印象があります。

店長の長谷川氏は、米津がハチ名義で有名になったことや、その後米津玄師名義でメジャーデビューしたことを当初は知らなかったそうです。しかし、彼の曲を聴いた際に「あれ? これlate rabbit eddaの米津くんと声がまったく一緒や。曲も似てるぞ?」と気付いたほど、彼は印象に残るアーティストでした。

アーティスト発掘イベント「閃光ライオット」に応募

2008年に開催された10代限定のロックフェス「閃光ライオット」に米津玄師は応募し、デモテープ音源で一次審査を通過しましたが、二次審査(スタジオ審査)で残念ながら落選しました。また、彼は閃光ライオットを企画したTOKYO FMのラジオ番組『SCHOOL OF LOCK!』を放送当初から聴いていました。彼は番組の公式サイト内の掲示板にも書き込みをしていたと語っています。

閃光ライオットは毎年、デモテープ応募総数が1万組を超えるほどの盛況で、参加者のパフォーマンスが非常にハイレベルです。このイベントからは、初代優勝バンド「Galileo Galilei」や「ねごと」、「PAGE」など、次世代の音楽シーンを担うアーティストが続々とメジャーデビューを果たしており、業界内外から注目を集めています。

高校在学中に「ニコニコ動画」に音源投稿を開始!

高校在学中にニコニコ動画(ニコ動)を知った米津玄師は、そのプラットフォームを活用しようと考えました。

彼は当時のバンド仲間で、現在もサポートメンバーとして彼を支えている男性に、自分が作曲した曲を演奏してもらい、音源をニコニコ動画に投稿することにしました。この方法で彼の音楽は徐々に人々の目に触れるようになり、後の彼の成功に繋がります。

歌手「ハチ」として投稿するも当時の曲は削除

パソコンの新調を機にDTM(デスクトップミュージック)を始めたハチは、2008年から「ハチ」という名義で約30曲程度の自分が歌っているオリジナル曲をニコニコ動画に投稿しました。しかし、しばらくして自分が影響を受けたものの色が濃く出ていると感じ、恥ずかしくなってすべて削除しました。

ニコニコ動画に投稿しようと思ったきっかけは、ハードシーケンサーを使ってドラムやベースを打ち込んで作った曲を誰かに見せたいという思いからでした。最初にニコニコ動画に投稿した時は、技術的にまだ未熟で音質も悪く、好意的なコメントは少なかったそうです。

それでも、反応がないよりはマシだと感じていました。ヘコむこともありましたが、反応があること自体が彼にとっては喜ばしいことでした。この経験が後に彼の音楽活動の発展につながりました。

大阪の美術専門学校時代にバンド「Ernst Eckmann」でベースとボーカルを担当

徳島商業高校を卒業した後、米津玄師は大阪の美術専門学校に通いながらバンド活動を続けました。専門学校時代には、「Ernst Eckmann」というバンドでベースとボーカルを担当していました。しかし、周囲の仲間との温度差もあり、バンド活動を休止することになります。

米津自身が「個人主義的な人間で、周りの人と一緒にものを作ることができなかった」と語っています。

大学中退後からボーカロイドを使った制作に集中!!

さらに、「つまらない」という理由で大学も中退した米津玄師はさらに制作活動に集中することになりました。2009年にはボーカロイドを使った動画制作に取り組むようになります。

その時代をハチが振り返る

米津玄師は、20000年代後半のニコニコ動画やボーカロイドシーンを自分の”故郷”だと語っています。当時のニコニコ動画は新しい遊び場であり、クリエイターたちは将来を考えずに無邪気に創作活動に取り組んでいました。その混沌とした環境は刺激的で魅力的であり、米津にとっては計り知れないほどの影響を与えています。

実際に、米津さんの音楽キャリアはこのシーンで始まりました。彼はその独特な土壌で自分の音楽スタイルを確立し、才能を開花させることができました。

「クズたちの受け皿」

米津玄師はボーカロイドPとしての活動を2009年に始めましたが、そのころにはすでに多くのボーカロイドPが活躍していました。

例えば、2007年に「【ネギ踊り】みっくみくにしてあげる♪【サビだけ】」を作ったika(鶴田加茂)はボーカロイドPの先駆者として知られており、ryo(Supercell)、DECO*27、mothy_悪ノPなど、多くの才能あるボーカロイドPがすでに存在していました。

彼らはほとんどが1990年代生まれで、10代の時期にニコニコ動画やインターネットで育ち、現在は20~30代で日本の音楽シーンを支えています。

米津はボーカロイドが「クズたちの受け皿」として機能していたと述べています。多くのボーカロイドPはバンド活動をしたいがうまくいかなかった人たちであり、ボーカロイドをオルタナティブな選択肢として取り入れました。

米津自身も中学生のころからバンドを組んでいましたが、うまくいかず、他人と一緒に何かを作ることが苦手でした。

そんな中、ボーカロイド界隈に出会い、自分に合った方法で音楽を作ることができるようになりました。彼はボーカロイドに出会ったことに感謝し、ボーカロイドの存在が今の彼を作り上げたと語っています。

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ボカロの声は、あなたの声だ。 表面付き合いだけのどんなクラスメイトよりも、この本こそがきみの本当の親友になってみせる。(「Books」出版書誌データベースより)

Producer name Hachi 

ボカロP「ハチ」

Kenshi Yonezu 米津玄師/YouTube

2009年5月から米津玄師さんは、VOCALOIDの初音ミクとGUMIを使用してニコニコ動画にオリジナル楽曲を投稿し始めました。2010年には、2月7日に『花束と水葬』、10月4日に『OFFICIAL ORANGE』という2枚のアルバムを発売しました。

『OFFICIAL ORANGE』に収録された『遊園市街』では、米津さん自身が歌唱を担当しており、このアルバムがある意味で米津玄師としてのデビューとも言えるでしょう。

両作品は2013年10月23日に再リリースされ、現在も購入が可能です。これらのアルバムは、米津玄師さんの音楽活動の初期段階を知ることができる貴重な作品となっています。

個性的!?ハチ時代の曲

ハチ時代の曲には、哲学的・宗教的なモチーフ、アナグラムや暗喩といった言葉遊び、伏線などの要素が顕著に現れています。彼の作品は独特の世界観と深い意味が込められており、その魅力は多くのリスナーに支持されています。

現在の米津の楽曲でも、これらの要素は前面的ではないものの、確かに受け継がれている様子があります。彼の曲の中には、物語やメッセージが隠されていることが多く、それを解釈し楽しむことができるのも魅力の一つです。

オタクと呼ばれる人々の中には、強い思考活動欲を持ち、こういった要素が大好物となる方も多いでしょう。米津玄師の作品は、そのようなリスナーにも刺激的で魅力的なものとなっています。彼の音楽が幅広い層に支持される理由の一つと言える。

Kenshi Yonezu 米津玄師/YouTube

1作目「お姫様は電子音で眠る」最初のボカロオリジナル曲

2009年5月20日に、米津がハチとして初めて発表した作品『お姫様は電子音で眠る』は、初音ミクを用いたオリジナル楽曲で、独特なパーカッションが散りばめられています。この作風は、後のハチや彼のフォロワーの楽曲にも影響を与えました。

さらに、彼の特異な音楽性がより顕著に現れているのは、2作目の「Persona Alice」でしょう。

2作目「Persona Alice」自分で描いたイラストでMVを制作していく

『Persona Alice』は、2009年6月2日に発表されたハチ(米津玄師)作詞作曲の初音ミクオリジナル曲です。幼少期から漫画家志望でもあったハチは、この曲をきっかけに、自身によるイラストでMVを制作するようになりました。

彼が手がけるMVは、イントロ、間奏、アウトロなどの節目となる部分に、歌詞にはない文章を書くことで、他のボカロPのMVとは異なる印象を与えています。その結果、MVは一冊の本のように読み進めるほどに腑に落ちていく構造となっています。

ハチの楽曲の内容は、おとぎ話の性質が強いことが特徴です。その中でも、登場する主人公は、孤独でありながらも、他者との出会いを通して温かい気持ちを持つようになる少女が多いです。

さらに、人物だけでなく、猫などの動物名を歌詞に入れたり、MVに挿し込むことで、楽曲全体が温かみのあるものになっています。

また、サウンド面では典型的なバウンドサウンドではなく、マーチングバンド要素の強いサウンドを主体としています。これもまた、おとぎ話のイメージをより強くさせる要素となっています。

3作目「WORLD’S END UMBRELLA 」

『THE WORLD END UMBRELLA』は、2009年6月25日に投稿されたハチ(米津玄師)作詞作曲の初音ミクオリジナル曲で、彼の通算3曲目となります。この曲は、独特な世界観や物語性が特徴で、彼の作品の中でも印象に残るものの一つです。

『THE WORLD END UMBRELLA』の歌詞は、崩壊する世界の中で過ごす少女と少年の物語を描いています。彼らは終わりの世界で出会い、共に過ごすことで互いに支え合い、希望を見出していくというストーリーです。この曲のMVも、ハチ自身が手がけたイラストが登場し、物語の雰囲気を一層引き立てています。

サウンド面では、ハチらしい独特のアレンジが光ります。エレクトロニックな要素やエフェクトを多用し、緻密なリズムやメロディが織り成すサウンドが、彼の作品の個性を強調しています。

4作目「結ンデ開イテ羅刹ト骸」一気に有名ボカロPに!

2009年7月6日に投稿されたハチの4作目の楽曲「結ンデ開イテ羅刹ト骸」は、彼のキャリアの中でも非常に重要な作品です。この曲が大ヒットし、たった3日という驚異的なスピードでニコニコ動画の殿堂入りを果たしました。その後、約4ヶ月後の11月9日には、ミリオン再生を達成するなど、非常に注目される作品となりました。

「結ンデ開イテ羅刹ト骸」のヒットによって、米津玄師は「ハチ」としてボカロ界での名声を確立し、彼の才能が広く認知されるようになりました。

独特の世界界の作品

『結ンデ開イテ羅刹ト骸』は、確かに不穏なムードを醸し出す言葉や和風のテイストが特徴的な曲です。妖怪や異形の存在を彷彿とさせる歌詞が話題を呼び、その後も彼の作品に繰り返し登場するモチーフとなりました。

インタビューでハチは、曲を日常生活をテーマにして書いたと述べています。しかし、リスナーは様々な解釈を持ち、それが彼にとって驚きであり、うれしいことだと語っています。また、彼は『結ンデ開イテ羅刹ト骸』がこれほど再生されることを予想していなかったと言い、1万再生程度だと考えていたそうです。

和風のテイストについては、ハチ自身もなぜそのような方向性になったのかわからないと語っています。しかし、この独特な世界観が多くのリスナーの心をつかみ、彼の人気を不動のものとしたことは間違いありません。

自主制作アルバム「OFFICIAL ORANGE」に収録

『結ンデ開イテ羅刹ト骸』は、確かにニコニコ動画やYouTubeで公開されており、多くの人々に親しまれています。この楽曲は、2010年11月に自主制作されたアルバム『OFFICIAL ORANGE』に収録されています。

ただし、アルバムに収録されているバージョンは、オリジナルとは異なるリテイクバージョンとなっています。リテイクバージョンとは、オリジナルバージョンを再録音や再編集して作られたもので、音質やアレンジが向上されていることが一般的です。

5作目「Qualia」

2009年8月4日に投稿されたのが、ハチによる通算5曲目となる初音ミクオリジナル曲『Qualia』です。Qualia(クオリア)は、「感じ」や「体験」という意味で、世界に対する個々人の意識的な体験を指します。

ハチは、手書きの絵をスキャナで取り込んで動画にし、PVを制作しています。これにより、マウスによるデジタル描画とは異なる雰囲気や方法で、独特な世界観を表現しています。この手法は、リスナーや視聴者に新鮮な印象を与え、ハチの作品に対する興味を引き出す要素となっています。

6作目「Mrs.Pumpkinの滑稽な夢」

『Mrs.Pumpkinの滑稽な夢』は、2009年10月12日に投稿されたハチによる作詞・作曲の初音ミクオリジナル曲です。これは、前作『Qualia』から約2ヶ月ぶりにリリースされた、6作目のオリジナル曲です。

この楽曲は、独特な世界観と物語性を持ち、タイトルにもある「滑稽な夢」をテーマにしています。Mrs.Pumpkinというキャラクターが登場し、夢の中でさまざまな出来事が繰り広げられる様子が歌詞で描かれています。

また、楽曲のサウンド面では、キャッチーなメロディとハチ独特のアレンジが特徴的で、多くのリスナーに印象的な作品として認知されています。

7作目「雨降る街にて風船は悪魔と踊る」

『雨降る街にて風船は悪魔と踊る』は、2009年10月27日に投稿されたハチ作詞・作曲の初音ミクオリジナル曲です。

ハチによれば、この曲は「むしゃくしゃして1日で作った」と言われていますが、その高いクオリティには驚かされます。また、映像も製作期間1日に含まれているそうで、1枚絵が多い映像ですが、1日でこのクオリティに仕上げた彼の才能が伺えます。

この楽曲は、『お姫様は電子音で眠る』の前日譚としても知られており、物語のつながりが注目されています。ただし、現在はリメイクのため削除されており、直接視聴することはできません。

サビが転用されていることから、リメイク作品は『OFFICIAL ORANGE』の『病棟305号室』に当たると考えられています。

聽說穎函是隻松鼠/YouTube

8作目「clock lock works」

『clock lock works』は、2009年11月27日に投稿されたハチ作詞・作曲の初音ミクオリジナル曲で、前作『雨降る街にて風船は悪魔と踊る』から1ヶ月振り、通算8作目となるオリジナル曲です。この曲は、コンピレーションアルバム「EXIT TUNES presents Supernova」に収録されることが決まっています。

アニメーションのように滑らかに動くPVは、南方研究所のタスク氏とうつした氏が手がけており、視聴者にとって視覚的な魅力も大きい作品となっています。

9作目「恋人のランジェ」

『恋人のランジェ』は、2009年12月19日に投稿されたハチ作詞・作曲の初音ミクオリジナル曲で、前作「clock lock works」から3週間振りとなる通算9作目のオリジナル曲です。

曲タイトルの「ランジェ」は、一説によれば「ドッペルゲンガー」という単語の「ドッペル」の部分のアナグラムであるとされています。ドッペルゲンガーは、他人と瓜二つの顔を持つ者や、自分自身の幻影といった意味を持つ言葉であり、この曲の歌詞やテーマに関連している可能性があります。

10作目「WORLD’S END UMBRELLA」

前作「恋人のランジェ」から約2ヶ月振りの2010年2月6日に投稿された、通算10作目のオリジナル曲が「WORLD END UMBRELLA」。PVは南方研究所が制作を担当しています。

また、元となる曲「THE WORLD END UMBRELLA」は、2009年6月にニコニコ動画に投稿されています。この曲は、前回のバージョンと比較してアレンジや音源が変更されており、進化した形で再投稿されたものとなっています。

11作目「演劇テレプシコーラ」

2010年04月05日に通算11作目のオリジナル曲「演劇テレプシコーラ」を発表しました。この曲では、PVもハチP自身が制作しています。また、この作品からPVの制作方法が変わり、ペンタブを使用して描いた自身のイラストが使われるようになっています。この手法により、ハチPの独自の世界観がより一層表現されることとなりました。

12作目「沙上の夢喰い少女」

『沙上の夢喰い少女』は、2010年5月3日に投稿されたハチ作詞・作曲による巡音ルカオリジナル曲です。この曲は、ハチが初めて巡音ルカを使用した通算12作目のオリジナル曲となっています。

PVは南方研究所が制作しましたが、今回はハチ自身もPV制作に参加しています。このコラボレーションによって、ハチ独自の世界観がさらに強調された作品となっています。

Kenshi Yonezu 米津玄師/YouTube

13作目「ワンダーランドと羊の歌」

『ワンダーランドと羊の歌』は、2010年7月3日に投稿されたハチ作詞・作曲による初音ミクオリジナル曲で、通算13作目のオリジナル曲となります。PVは南方研究所が制作しており、独特の世界観が表現されています。

この曲は、ハチの2010年発売の1stシングル「ワンダーランドと羊の歌」と、同年発売の2ndアルバム『OFFICIAL ORANGE』に収録されています。当時は自主制作および同人でのリリースとなっており、ファンによるサポートが大きかったことが伺えます。

14作目「リンネ 」

『2010年7月21日に投稿された通算14作目のミクオリジナル曲』は、「マトリョシカ」という楽曲です。ハチP自身がPVを制作し、『EXIT TUNES PRESENTS Supernova3』に収録されています。

2010年7月23日23時39分には、VOCALOID殿堂入りを達成しました。さらに、2011年11月30日12時25分には、100万再生を達成しました。この曲によって、ハチ氏はVOCALOIDプロデューサーとして史上初の6曲ミリオン達成者となりました。

15作目「マトリョシカ」

『マトリョシカ』は、2010年8月19日に投稿されたハチ作詞・作曲のGUMIを使用した通算15作目のオリジナル曲です。タイトルの“マトリョシカ”は、入れ子構造になっているロシアの民芸品である木製の人形を指します。

この曲は意味深なタイトルや語感の良いフレーズで構成された印象的な歌詞と、キャッチーでテンポの良いメロディーがシンクロし、何度も聴きたくなる中毒性があります。これらの要素が組み合わさり、多くのリスナーに愛される楽曲となっています。

16作目「Christmas Morgue」

『Christmas Morgue』は、2010年12月7日に投稿されたハチ作詞・作曲の初音ミクを使用した通算16作目のオリジナル曲です。

この曲はクリスマスをテーマにしたものであり、独特の雰囲気を持っています。PVは前作に引き続き、ハチ自身が制作しており、彼の独特の世界観が表現されています。この楽曲は、ハチのファンにとっても特別な存在となっています。

17作目「パンダヒーロー」ハチとしての活動を休止!

2011年1月23日に公開された『パンダヒーロー』は、ハチが手がけた通算17作目のオリジナル曲で、使用VOCALOIDはGUMIです。この曲は軽快なリズムと言葉遊びのような歌詞で高い中毒性があり、当時まだ未成年だった米津さんの才能が光る作品です。

YouTubeとニコニコ動画の累計再生数が2950万回を超える人気曲で、『マトリョシカ』や『ドーナツホール』と並ぶハチ時代の代表曲のひとつとされています。MVイラストも米津さん自身が手がけており、2人の特徴的な髪色を持つキャラクターが登場します。

実際に、2010年に『THE VOC@LOiD M@STER14』で頒布されたアルバム『OFFICIAL ORANGE』に収録されていた曲が、2011年1月23日にGUMIを使用してアレンジを変えてニコニコ動画で公開されました。

しばらく投稿がSTOP

その後、2011年3月6日に開催された『INTERNET INDEPENDENT MUSIC LIVE FES』に参加するなど、精力的に活動を続けましたが、作品の投稿は『パンダヒーロー』のPVを最後に一時途絶えました。その後、米津さんはソロアーティストとしての活動を本格化させ、現在の成功へと繋げています。

「ゴーゴー幽霊船」米津玄師の名義でニコ動に投稿!

 2012年2月20日、本名である米津玄師の名義で、ニコニコ動画に『ゴーゴー幽霊船』のMVを投稿。1年以上にもわたる沈黙を破る。

米津玄師はニコ動出身のアーティストって知ってた? その創作活動を振り返る/日刊SPA!.2019

米津玄師として音楽シーンで活動を開始!!

2012年2月20日、米津玄師は本名である米津玄師名義でニコニコ動画に『ゴーゴー幽霊船』のMVを投稿し、1年以上の沈黙を破りました。その後、彼はインディーズアルバム『diorama』をリリースし、自らボーカルを担当しました。2012年には、米津玄師はネットシーンで確固たる支持を獲得していました。

2009年にハチ名義でニコニコ動画にボーカロイド楽曲の投稿を始め、「マトリョシカ」や「パンダヒーロー」「結ンデ開イテ羅刹ト骸」などの多数のヒット曲を連発し、シーンを代表するボーカロイドプロデューサーの1人となっていました。

しかし、彼の本名である米津玄師名義の初のアルバム「diorama」では、彼はボーカロイドシーンとは一線を画し、すべての曲を自ら歌う作品としてリリースしました。

このアルバムでは、作詞、作曲、編曲、ミックスだけでなく、アートワークのイラストや動画制作も自ら手がけました。アルバムの構想から完成までにかかった時間は約2年でした。

その後のインタビューで、彼はボーカロイドシーンを自らの“故郷”と語り、あえてそのシーンを離れ、生身の自分をさらけ出すことで新たな境地に踏み出す挑戦を始めました。これが米津玄師のキャリアの始まりとなり、その後彼はソロアーティストとしての成功を築いていくことになります。

そしてメジャーデビュー!

2013年からはフィールドをメジャーの音楽シーンに移して活動している。ここに至るまでには、数々の変遷があったそう。ニコニコ動画やボカロシーンの持つ独自性は、必ずしも良い面ばかりではなかったと振り返る。

米津玄師『ニコニコ動画とメジャーシーンの違い――ぶち当たった大きな壁とは!?』/ORICON MUSIC.2014

18作目「ドーナツホール」ハチ名義での久しぶりの投稿

『ドーナツホール』は、2013年10月28日に投稿されたハチの18作目のGUMIオリジナル曲で、前作『パンダヒーロー』から約2年9ヶ月ぶりのリリースとなりました。

米津さん自身が「少年漫画っぽいのを目指しました」と語る一曲で、軽快なテンポとロックなサウンドが特徴的です。歌詞には複雑な感情や過去と現在の対比が描かれており、ハチさんの深い洞察力や表現力が感じられます。

本曲は、2014年に発売されたアルバム「YANKEE」で米津さんがセルフカバーを行っています。その底知れぬ才能を垣間見ることができる名曲として、『ドーナツホール』は今もなお多くの人に愛され続けています。

「砂の惑星」初音ミク10周年を記念してハチ名義でリリース!

2017年7月21日にニコニコ動画とYouTubeで投稿された「砂の惑星」は、初音ミクのソフトウェア発売から10周年であり、マジカルミライの5周年という記念すべき年にリリースされました。

この曲は米津玄師がVOCALOID楽曲を発表する際に用いる「ハチ」名義で、約4年ぶりの新曲となり、初音ミクを使用した楽曲としては7年ぶりの新曲です。その当時既にメジャーデビューしていた米津さんが、ハチ名義として3年9カ月ぶりにリリースしたことで話題を呼びました。

米津玄師の4thアルバム『BOOTLEG』には米津玄師バージョンが収録されている「砂の惑星」は、ニコニコ動画で所要日数6日5時間19分でミリオン再生を超え、歴代最速のミリオン再生を記録するVOCALOIDオリジナル楽曲として快挙を成し遂げました。

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物語を音楽に変えるアーティスト「YOASOBI」 ── 初音ミクとめぐるJ-POPとボーカロイドの歴史⑥

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