ベートーヴェンの交響曲第9番は、作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの代表作の一つであり、音楽史に名高い作品です。この作品は1824年に初演され、世界各地で多くの指揮者とオーケストラによって演奏されています。本記事では、交響曲第9番の背景や特徴、そしてその評価について解説します。
Sinfonie Nr. 9 d-moll op. 125
交響曲第9番!通称「第九」
交響曲第9番の最後の楽章「歓喜の歌」は、人類の普遍的な平和や愛を讃える歌詞が特徴的です。これは、言語や文化の壁を越えて、多くの人々に共感や感動を与える力を持っています。
通称の「第九」
正式名称は「交響曲第9番ニ短調作品125」と言いますが、一般的には「第九」という呼び名で親しまれています。
ベートーヴェンの「第九」は、映画やテレビドラマ、CMなどでも使用されており、そのメロディが広く親しまれています。これによって、クラシック音楽に馴染みのない人でも、曲の印象や名前を知る機会が多くなっています。
オーケストラや合唱団による定期演奏会だけでなく、学校や地域団体のイベントでも演奏されることが多いです。また、国際的なイベントや式典でも演奏されることがあり、幅広い層の人々に楽しまれています。
ベートーヴェンの「第九」は、合唱やオーケストラのパートが豊富で、多くのアマチュア音楽家が参加する機会があります。自ら歌ったり演奏したりすることで、作品の魅力をより深く理解し、多くの人々に潤いを与えることができます。
これらの要素が相まって、ベートーヴェンの「第九」は、幅広い世代や文化に愛され続けるクラシック音楽の代表作となっています。
ベートーヴェンの“最後の交響曲”
ベートーヴェンの「第九」は古典派音楽の集大成としての側面を持ちつつ、ロマン派音楽への橋渡しとなる画期的な作品です。この作品はベートーヴェンが生涯に書いた9つの交響曲の中で最後に完成したもので、1824年に初演されました。
ユネスコの世界記憶遺産に登録
ベートーヴェンの「第九」の直筆譜は、2001年にユネスコの世界記憶遺産に登録されました。
世界記憶遺産は、ユネスコが世界的に重要な文化資料を保存・保護するために設立したプログラムで、アンネ・フランクの日記や日本の藤原道長が書いた「御堂関白記」など、世界中の様々な歴史的・文化的価値を持つ資料が登録されています。
ベートーヴェンの「第九」の直筆譜が世界記憶遺産に登録されたことは、その作品が音楽史において非常に重要な地位を占めることを示しており、多くの人々がその価値を認めていると言えます。
耳があまり聞こえない状態での作曲
ベートーヴェンが「第九」を作曲した時期には、彼の難聴はかなり進行しており、ほとんど音が聞こえない状態でした。彼は若いころから聴力を徐々に失っていき、この問題に苦しんでいました。
加えて、ベートーヴェンはその時期に家庭環境の悪化やオペラ上演の失敗といった困難な状況に直面しており、彼自身もそのプレッシャーや苦悩から死を考えることがあったとされています。
しかし、彼はこれらの困難を乗り越えて、「第九」を完成させることができました。
初演奏はウィーンで!(1824年5月7日)
ベートーヴェンの「第九」は1824年5月7日にウィーンのケルントナー・トーア劇場で初演されました。この初演では、ベートーヴェン自身が指揮を担当し、その歴史的瞬間に立ち会いました。「第九」は、史上初の合唱を取り入れたシンフォニーとして、クラシック音楽のレパートリーに革新的な影響を与え、後の作曲家たちにも大きな影響を与えました。
ウィーンでの初演の際、ベートーヴェンはすでに聴力をほぼ失っていたため、演奏後の大喝采に気付かなかったと伝えられています。観客たちはハンカチを振りながら喝采し、彼に感謝の意を示しました。このエピソードは、ベートーヴェンが音楽に対する情熱と創造力を失わずに作曲活動を続けたことを象徴しており、「第九」の成功は、彼の不屈の精神を称えるべき出来事でした。
Beethoven’s 9th Symphony was premiered at the Theater am Kärntnertor in Vienna, pictured here #EssentialClassics pic.twitter.com/XbxZwfseKp
— BBC Radio 3 (@BBCRadio3) April 16, 2015
「当時は異例だった!」演奏時間“1時間超”の交響曲
「第九」の演奏時間の長さは、その特徴のひとつとして挙げられます。従来の交響曲は、通常20~30分、長くても40分程度で演奏されていましたが、「第九」は通常約74~75分という、従来よりもはるかに長い演奏時間を持っています。
この長い演奏時間により、ベートーヴェンは様々な音楽的要素や情感を盛り込み、作品に深みと広がりを与えることができました。特に第4楽章では、合唱を取り入れることによって交響曲の枠を超えた壮大なスケールを実現しています。
ベートーヴェンの集大成
ベートーヴェンは「第九」において、自身の人生や音楽的な経験を集大成したような作品を生み出しました。彼が1815年に書いた手紙に記された言葉は、彼の音楽に対する情熱や人生哲学が反映されており、この交響曲にもその思想が表れています。
第1楽章の冒頭で、タブーとされる2音だけの和音から曲を始めることで、ミステリアスな雰囲気が生まれています。第2楽章のティンパニーや第3楽章のホルンなど、楽曲全体にわたって革新的な要素や見せ場が盛り込まれています。これらはベートーヴェンの音楽や技法の進化を示すものであり、同時に新しい音楽法則を創造しています。
そして、第4楽章における合唱部分は、専門家でなくても歌いこなせるような技巧的なところが無いように構成されています。これにより、ベートーヴェンは人々に普遍的なメッセージを伝えることができました。「第九」は、ベートーヴェンの半生を象徴する作品であり、その創造力と情熱が詰まった名作として後世に受け継がれています。
ever seen a well-worn conductor’s score? here’s Bernstein’s Beethoven 9: http://t.co/cE1ojoHtAy @NYPhilArchive pic.twitter.com/JtiLYwNCvX
— CRB Classical 99.5 (@CRBClassical) August 27, 2014
日本人に馴染み深い第4楽章「歓喜の歌(Ode to Joy)」
「第九」の中で最も有名で広く親しまれている部分は、第4楽章に含まれる「歓喜の歌(Ode to Joy)」です。この部分では、フリードリッヒ・シラーの詩「歓喜に寄せて」(An die Freude)が使用されており、合唱が歌う歌詞は、人々が平和や結束、歓喜を感じる普遍的なメッセージが込められています。
「歓喜の歌」は、ヨーロッパ各地の国歌や校歌、さらには公的なイベントやスポーツ競技会での応援歌としても使用されており、世界中の多くの人々に親しまれています。また、ヨーロッパ連合(EU)の公式アンセムにも採用されていることから、ベートーヴェンの「第九」は、国境を越えて多くの人々に愛される音楽作品となっています。
交響曲史上初の試み「合唱」
「第九」の最大の特徴は、史上初めて合唱が取り入れられたことです。そして、実際に合唱が歌うのは第4楽章のみで、第1楽章から第3楽章までは通常の交響曲の形式に従っています。
第1楽章から第3楽章までの曲調は、第4楽章に登場する合唱に向けての準備段階であり、それぞれが異なる音楽的要素や表現を提示しています。そして、第4楽章に入ると、ついに合唱団が登場し、「歓喜の歌」を力強く歌い上げます。
このような構成によって、ベートーヴェンは楽曲全体の緊張感や劇的な展開を高め、最終的に合唱の登場でクライマックスを迎えることができました。第1楽章から第3楽章までの部分は、第4楽章で訪れる「歓喜の歌」をより際立たせ、感動的なものにするための重要な役割を果たしています。
日本では「合唱付き」と呼ばれている
日本では、特にこの交響曲を「合唱付き」と呼ぶことが一般的ですが、これは単に曲の特徴を表す言葉であり、ベートーヴェンが名付けた正式なタイトルではありません。正式なタイトルは「交響曲第9番ニ短調作品125」です。しかし、この曲が歴史上初めて合唱を取り入れた交響曲であることから、「合唱付き」や「合唱」といった言葉が後世の人々によって付け加えられるようになりました。
有名すぎるあのフレーズ「歓喜に寄す」のはじまりは?
ベートーヴェンは1815年頃、45歳の時に交響曲第9番の作曲に取りかかりました。この時期は彼にとって非常に創作意欲に満ちた時期であり、交響曲第8番や弦楽四重奏曲など、他の傑作も同時に作曲されました。彼は多くの新しいアイデアを試み、革新的な作品を生み出しました。
「歓喜の歌」の旋律が誕生したのは、1822年頃、彼が52歳の時です。
フリードリヒ・フォン・シラーの詞
ベートーヴェンは若い頃からフリードリヒ・フォン・シラーの詩『歓喜に寄す』に感銘を受けていました。しかし、その当時はまだ交響曲にこの詩を取り入れるアイデアは持っていませんでした。
ベートーヴェンが次第に聴力を失っていく中で、彼の作曲家としての才能はますます磨かれました。シラーの詩への愛着と、その詩を音楽にするという情熱は、彼の心の中で強く燃え続けていました。
Johann Christoph Friedrich von Schiller
権力に立ち向かったドイツの詩人「フリードリヒ・フォン・シラー」
権力に立ち向かったドイツの詩人
フリードリヒ・フォン・シラーは、幼い頃から優秀で、その才能が注目される一方で、権力との対立も経験してきました。カール学院での生活は、彼に多くの制約をもたらし、自由と正義への憧れを一層高めました。彼の処女作『群盗』は、この憧れと反抗心を背景に描かれた物語であり、多くの若者から支持されましたが、権力からの弾圧も受けました。
独房に入れられた後、軍医として従軍する命令が出されたシラーは、限界に達し、1782年に亡命を決断しました。2年半に及ぶ根無し草のような逃亡生活を送りながらも、彼は執筆活動を続け、その間に『フィエスコの反乱』(1783)と『たくらみと恋』(1784)という2つの戯曲を発表しました。
シラーの精神的な強さと執筆への情熱は、彼が後世に残した作品にも表れており、ベートーヴェンが『歓喜に寄す』に感銘を受けるのも、その理由の一つと言えるでしょう。シラーは生涯にわたって権力に抗い、自由と正義を訴え続ける作品を生み出し、文学史に名を刻んでいます。
当時のシラーは生活苦!親友によって支えられていた
シラーの若い頃の生活は困難で、彼は度々路頭に迷いました。そんな彼を支えたのが親友のケルナーでした。
ケルナーはシラーに物質的な援助だけでなく、彼の著作への共感という精神的な支援も提供しました。これによりシラーは困窮した状況でも著作活動を続けることができました。
2年後に「たくらみの恋」を書いたシラーの作品は、クリスティアン・ケルナーの目に留まり、彼はシラーに感動の手紙を送りました。この手紙は、シラーにとって大きな励みとなり、彼が文学活動を続ける原動力となりました。
そんな中で書き上げられた詩が「歓びに寄す」
シラーがケルナーの招きに応じてマンハイムからザクセンに移り、そのザクセンの都市ライプチッヒ近郊のゴーリスに滞在したことは確かです。このゴーリスでの滞在中に、シラーは『歓びに寄す』という詩を書いたとされています。この詩は、後にベートーヴェンが彼の交響曲第9番『第九』の第4楽章の歌詞として採用することになります。
シラーの詩『歓びに寄す』は、自由と平等、人間の友情と結束を称えた詩として知られており、ベートーヴェンがこの詩を選んだ理由は、彼の音楽に込めた理念やメッセージがシラーの詩に通じるものがあったからだと考えられています。
実は当初のタイトルは「歓びに寄す」ではなかった
シラーは当初、詩のタイトルを「自由に寄す」としようと考えていましたが、当時のドイツでは権力者に対する反抗や自由思想が厳しく取り締まられていました。そのため、シラーは検閲や迫害を避けるために、「自由 (Freiheit)」という言葉を「歓喜 (Freude)」に変えたと言われています。
この変更によって、「歓びに寄す」というタイトルのもとで詩が公表されましたが、シラーのメッセージには自由への憧れや人間の結束が根底にあることが明確に伝わります。
当時それは反体制の意味
当時の「自由」という言葉は、一般民衆が王侯貴族体制から解放されることを意味し、国家体制にとっては非常に危険な言葉でした。シラーの「自由賛歌」は、そのような自由の理念を表現した歌だったのです。
実際に、フランス革命が起こる前、ドイツの革命思想を持った学生たちが「ラ・マルセイエーズ」の音楽に乗せて歌っていました。
「自由」→「歓喜」に変更して出版
そんな当時の政治状況を考慮すると、シラーが「自由賛歌」というタイトルのままではなく、「歓喜に寄す」というタイトルに変更して出版したのは、自身の身を守るための賢明な選択だったとも言えます。
政治的な圧力や検閲に対して慎重であることが求められた時代背景の中で、シラーは詩を改訂し、危険思想とされる部分を避けつつ、普遍的な人類愛や絆の大切さを歌った作品を世に出すことができました。
その詩に衝撃を受けたのが学生時代のベートーヴェン
ベートーヴェンがシラーの詩「歓喜に寄す」に出会ったのは、1792年に彼がボン大学で聴講生として哲学や文学を学んでいた頃であるとされています。彼はこの詩に深く感銘を受け、それに曲を付けることを熱望しました。
しかし、様々な理由でこのプロジェクトは遅れがちになり、ベートーヴェンが50代になった1822年から1824年の初めにかけて、ようやくこの詩に基づく曲が完成しました。
一部を抜粋して交響曲に取り入れた
シラーの詩「歓喜に寄す」は、その熱狂的で大げさな表現によって当時の民衆から大変な人気を受け、多くの作曲家によって歌がつけられました。その中でも、「集いの歌」や「飲み歌」として広く歌われました。しかし、ベートーヴェンはシラーの詩から普遍的な真理を感じ取り、全108行の詩のうち30行だけを選び出し、独自の解釈と共感をもとに交響曲という形で表現しました。
受け継がれたシラーの意志
ベートーヴェンは、シラーの詩だけでなく、彼の文学活動全般に対しても敬意と興味を持っていたと思われます。ボン大学の若い教師フィッシェルニッヒからシラーに関する知識を得ていたベートーヴェンは、実際に『歓喜に寄す』を知る数年前に、シラーの演劇「群盗」の上演に触れていました。
当時のヨーロッパはフランス革命の時代であり、絶対君主制が崩壊し、新しい市民社会の到来を予告する動きが広がっていました。宮廷の権力に抑圧された庶民たちは、徐々に連帯し、立ち上がる様子が見られました。シラーの詩『歓喜に寄す』は、この新しい時代の始まりを象徴するかのような作品であり、その普遍的なメッセージがベートーヴェンの心を捉え、彼が交響曲第9番「合唱」を作曲する動機となりました。
存在したかもしれない幻の「第10」
ベートーヴェンは実際に交響曲第10番の作曲を計画し、いくつかのスケッチやアイデアを書き留めていましたが、彼はこの作品を完成させることはありませんでした。彼が1827年に亡くなる前に、交響曲第10番の構想は途中までしか進んでいなかったとされています。
その後、音楽学者や作曲家たちは、ベートーヴェンが残したスケッチをもとに、交響曲第10番の構想を解析し、再構築を試みています。しかし、ベートーヴェン自身による完成された楽譜が存在しないため、現存するものはあくまで推測に基づく再現であり、彼の真の意図を完全には捉えられていない可能性があります。
それでも、交響曲第10番のスケッチは、ベートーヴェンの創造力や音楽的探求心を垣間見ることができる貴重な資料として、音楽史上重要な存在となっています。
Historical anthem
世界で「第九」は歴史的な瞬間に演奏されている
ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」は、その普遍的なメッセージと歴史的重要性から、欧米では神聖視されています。特に歴史的な瞬間や節目に演奏されることが多いです。
例えば、1989年のベルリンの壁崩壊直後には、指揮者レナード・バーンスタインによってベルリンで行われた演奏会で交響曲第9番が演奏されました。この演奏は、東西ドイツ統一という歴史的瞬間にふさわしい選曲であり、自由と平和の祝典として象徴的な意味を持っていました。
また、ウィーン国立歌劇場が第二次世界大戦の破壊から再建された際にも、交響曲第9番が演奏されました。このことは、歌劇場の復活を祝し、新たな文化の再興を願っての演奏であり、その普遍的なメッセージが再び人々の心に届くことを示していました。
ベルリンの壁崩壊!歴史的な名シーン
1989年12月25日、ベルリンの壁が開放され、冷戦が終結したことを記念して行われた歴史的なコンサートで、指揮者レナード・バーンスタインがベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」を指揮しました。この際、歓喜の歌の歌詞が「自由(Freiheit)」に置き換えられ、冷戦終結を象徴する演奏として行われました。
このコンサートでは、東西ドイツ、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連出身の音楽家による混成オーケストラが結成され、世界各国のオーケストラから参加者が集まりました。バイエルン、ベルリン、ドレスデンなどドイツの代表的なオーケストラのメンバーや、アメリカ、イギリス、東西ドイツ出身の歌手が参加し、まさに国境や民族を超えた大イベントとなりました。
この感動的なコンサートは、ベルリンのシャウシュピールハウスで行われ、世界20カ国でテレビ中継されました。この歴史的な出来事は、クラシック音楽史において特別な位置を占めており、今でも多くの人々に記憶されています。
毎年のように続けられてきた
その後も、記念年や特別なイベントなどで、ダニエル・バレンボイム(現在ベルリン国立歌劇場音楽監督)がベートーヴェンの交響曲第9番を度々指揮しています。バレンボイムは、音楽を通じて国境や民族を越えた人々の絆を強める活動を行っており、その精神はベートーヴェンの作品に通じるものがあります。
ブランデンブルク門
2019年8月、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の新首席指揮者キリル・ペトレンコがブランデンブルク門の前でベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」を演奏しました。この演奏は、30年前のベルリンの壁崩壊を振り返りながら、平和へのメッセージを再び伝えるものでした。
ブランデンブルク門は、ドイツ統一と平和・友愛の象徴として広く認知されています。その場所での交響曲第9番の演奏は、過去の歴史的出来事を踏まえつつ、現代の世界に対しても自由、平和、そして人類の絆の大切さを訴えかける意義深いものでした。
このような演奏を通じて、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」は、その普遍的なメッセージを次世代にも伝え続けており、音楽を通じた平和と調和の象徴として、現代にも引き継がれています。
ヨーロッパでは「EUの歌」
ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」からの「歓喜の歌」は、欧州連合(EU)の象徴として重要な役割を果たしています。1972年にオーストリアの指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンによって編曲された「歓喜の歌」は、欧州評議会によって「欧州の歌」として発表され、1985年にミラノで開かれた欧州理事会(EU首脳会議)で「EUの歌」として承認されました。
オーストリアの政治家であり、日本人の母を持つクーデンホーフ・カレルギーが1960年代に提案したこのシンボル曲は、30年以上の歴史があります。『第九』は、自由、平等、結束という統合されたヨーロッパの理想を表すものとして選ばれました。
欧州連合(現在は27カ国)では多くの言語が使われているため、EUの歌は楽器だけで演奏されることが一般的です。ただし、ドイツ語の詩が歌われることもありますし、様々な言語に翻訳して歌う試みも存在しています。
EUの式典では必ず演奏されるこの歌は、ヨーロッパの象徴として結束と共有の精神を表現し、大陸の国々を結びつける重要な役割を果たしています。