オレゴン州ポートランドで生まれたフィル・ナイトと、オレゴン大学でスポーツと教育に没頭したビル・バウワーマン。彼らの運命的な出会いから始まったNIKEの創業物語をご紹介します。
バウワーマンのスポーツへの情熱とナイトの経済の才覚が融合し、彼らはアメリカのスポーツシューズ市場に大胆に挑戦しました。最初は日本のオニツカタイガー(現在のアシックス)との契約から始まり、次第に独自のブランドを確立していきます。
苦境や法廷闘争を経て、NIKEはその翼を広げ、世界中で高まる人気と成功を手に入れます。この記事では、バウワーマンの指導力によるトラックアンドフィールドの栄光や、ナイトの戦略的なビジネス展開に焦点を当てながら、NIKEの逆境を乗り越えた軌跡を描きます。
さらに、オニツカとの契約問題やナイキのロゴ誕生の裏話も紹介します。NIKEの誕生から栄光へと続く感動的な物語をお楽しみください。
History of Nike
伝説の共同創業者が紡ぐスポーツ界の興奮
NIKE(ナイキ)は、今日では世界的に知られるスポーツウェアと装備のブランドですが、その起源はオレゴン州ユージーンの大学キャンパスにまで遡ります。
NIKEの歴史築いた二人の男
NIKEの物語は、フィル・ナイトとビル・バウワーマンという名前の二人の男から始まります。
<創業者>「フィル・ナイト」
ナイキの共同創設者であるフィル・ナイトは、1938年2月24日にオレゴン州ポートランドで生まれました。彼は地元のクリーブランド高校に通った後、オレゴン大学に進学しました。大学では陸上チームに所属し、ビジネスの学位を取得。卒業後はスタンフォード経営大学院に進学し、MBAを目指しました。
革新的なビジネスモデルの提案
ナイトはスタンフォード経営大学院での修士論文で、競技用シューズ市場における新たな機会を探求しました。彼は、低賃金の労働力を利用して効率的に生産を行えば、ドイツの大手企業であるアディダスやプーマと競争できる可能性があると提唱しました。この視点は、後のブルー・リボン・スポーツ(BRS)の設立と、ナイキの成功への道筋を示すものとなりました。
<創業者>「ビル・バウワーマン」
ビル・バウワーマンは、ナイキの共同創設者であり、尊敬されるコーチ、そしてシューズ製造のイノベーターでした。彼は運動選手のトレーニング指導に情熱を注ぎ、選手のパフォーマンスを向上させるために、道具やシューズにもさまざまな改良を試みました。
生い立ちと初期の経歴
バウワーマンはメドフォードとシアトルの学校で教育を受け、その後高校のためにメドフォードに戻りました。彼は高校のバンドで演奏し、中学時代と高校時代は州チャンピオンのフットボールチームでプレーしました。1929年、バウワーマンはオレゴン大学に入学し、フットボールをプレーし、ジャーナリズムを学びました。彼は長年の陸上コーチであるビル・ヘイワードの勧めで陸上チームにも参加しました。
教師とコーチとしてのキャリア
卒業後、バウワーマンはポートランドのフランクリン高校で生物学を教え、フットボールのコーチを務めました。1935年、彼はメドフォードに戻り、フットボールの指導とコーチを務め、1940年には州タイトルを獲得しました。
軍隊でのキャリア
第二次世界大戦中、バウワーマンはアメリカ陸軍に入隊し、彼の任務は軍隊の物資を整理し、山中で物資を運ぶためにラバを維持することでした。彼は最終的に少佐に昇進し、第86連隊の第1大隊の指揮官となりました。
カリスマコーチのシューズ革命
戦後、バウワーマンはメドフォード高校に戻りました。その後、一家はユージーンに移り住み、1948年7月1日には母校であるオレゴン大学のヘッドトラックコーチに就任した
バウワーマンがオレゴン大学のヘッドトラックコーチとしてのキャリアを始めた1948年から1972年までの間には、彼はトラックアンドフィールドチームを4度のNCAAタイトルに導き、16人のオリンピック選手、51人の全米選手、そして30人以上の全米チャンピオンを育て上げました。彼のコーチとしてのスキルと知識は、彼が自分の選手たちに最高のパフォーマンスを引き出すために、シューズを含むすべての装備について革新的なアプローチをとることを助けました。
自作のランニングシューズが選手たちの成功を支える
バウワーマンは選手たちがより速く走れるシューズを提供することに情熱を燃やしていました。1954年には、自身のシューズデザインのアイデアを大手スポーツシューズメーカーに売り込んでいました。しかし、そのアイデアが受け入れられなかったため、彼は自分でランニングシューズを作ることを決めました。
バウワーマンの手作りのシューズは、彼の教え子であるトップランナーたちによってテストされ、その結果、何度も改良が加えられました。彼のシューズは、選手たちがタイトルを獲得するための一因となり、注目を集めるようになりました。
バウワーマンの努力と情熱は、最終的にナイキという世界的なブランドの誕生につながりました。
NIKEとフィル・ナイトの未来を変えた“3つの”出来事
3つの出来事が、ナイキのリーダーとしてのフィル・ナイトの将来を形作りました。
<最初の出来事>バウワーマンとナイトの出会い
最初の出来事は、1957年にオレゴン大学陸上チームのコーチであるバウワーマンと出会ったときに起こりました。アスリートとイノベーションに対する彼の情熱は、やがてナイトにこれら 2 つのことに特化したビジネスを立ち上げるきっかけを与えました。ナイトが陸上競技選手向けにシューズを販売するビジネスを始めたとき、バウワーマンは彼のパートナーになりました。
<2番目の出来事>スタンフォードでのビジネスプロジェクト
2番目の出来事は、ナイトがスタンフォード大学のビジネススクールに通っていたときに起こりました。フランク・シャレンバーガー教授からの任務に応じて、ナイトは高品質のランニングシューズを日本から輸入し、高い利益率で米国で販売するビジネスおよびマーケティングプランを考案しました。このアイデアは、ナイトがアジアの低コスト労働力を利用して競争力のある製品を生み出すことができるという確信を持つきっかけとなりました。
<3番目の出来事>オニツカタイガー(現アシックス)との出会い
3番目の出来事は、1963年に、フィル・ナイトがオニツカタイガー(現アシックス)の創始者である鬼塚喜八郎と直接面会したことです。
ナイトは、日本の製品に関する修士論文を書くほど日本に関心があり、卒業旅行で日本を訪れました。彼は神戸でオニツカタイガーシューズの高性能と低価格に感銘を受け、オニツカ社に連絡を取りました。
ナイトは、鬼塚にアメリカの靴市場の大きさとタイガーのポテンシャルを説明し、米国西部での販売代理店契約を提案しました。鬼塚はナイトの提案を受け入れ、たった50ドルで契約を結びました。
鬼塚は後に、「彼の起業家精神に感銘を受け、自分自身の創業時の姿を見ていた」と語っています。これは、44歳の鬼塚が24歳のナイトの可能性を信じ、海外進出を果たした一歩となりました。
NIKEのはじまりのはじまり!BRS社の設立
アメリカに帰国したフィル・ナイトは大学院修了後に米国の大手会計事務所PwC(プライスウォーターハウスクーパース)で会計士として働き始めました。
その空き時間を活用し副業で、オニツカ社の販売代理店業を軌道に乗せようとします。オニツカ社の販売サンプルが到着したとき、最初に相談したのが自分の元コーチのビル・バウワーマンだった。
バウワーマンとナイトの共同起業
ビル・バウワーマンは、スポーツ選手が最高のパフォーマンスを発揮するためには、適切なシューズが必要だと考えており、ナイトがオニツカ社のサンプルを持ち込んだとき、バウワーマンはその品質とデザインに感銘を受けました。
さらに、フィル・ナイトの輸入代理店という立ち位置だけでなく、次世代のシューズを実現することにも可能性を感じたビル・バウワーマンは、フィル・ナイトにこの事業の立ち上げを提案しました。
1962年2月 BRS(ブルー・リボン・スポーツ)社の設立
そして、1964年2月に2人は500ドルを投資し、オレゴン州ジーンに本拠を置く靴会社BRS(ブルーリボンスポーツ)社を設立しました。
由来は青いリボン
フィル・ナイトがオニツカ社の販売契約を結ぶ際、彼は自身の会社名を「ブルー・リボン・スポーツ」と名乗りました。この名前は、彼が陸上競技で勝ち取ったブルーリボン(一等賞)からインスピレーションを得たもので、その場で思いついたものでした。
「BRS&オニツカタイガー」新たなスニーカーの時代の幕開け
バウワーマンとナイトのBRSがオニツカ社のスニーカーを取り扱うことによって、アメリカの消費者にとって新たな選択肢が生まれました。それまでの市場は、ドイツのプーマとアディダスによって大部分が占められていました。しかし、オニツカタイガーの靴はその高品質と革新的なデザインにより、アメリカの消費者にとって新たな魅力的な選択肢となりました。
バウワーマンは靴のパフォーマンスを改善するために、さまざまな改良を加えることに専念しました。彼は地元の靴屋から手作りの靴のコツやヒントを学び、オニツカ社の靴を基に自分自身で新たなデザインの靴を作り始めました。
車に靴を詰め込んで移動販売
当初BRSは、店舗を持たず、2人は長年にわたって車の後部座席に靴を積み込んでで各地のトラック競技会などで営業をしていました。
しかし、BRS社の売り上げでは食いつなぐことができず、フィル・ナイトはポートランド州立大学で会計を教えたり会計士をしながら生計をたてていたといいます。
1966年の一号店開業とナイキへの道のり
そんな中で、なんとか、1966年にはカリフォルニア州サンタモニカに一号店をオープン、同社は後にナイキで重要な役割を担う従業員を集め始めました。
「ビル・バウワーマンとオニツカ」革新と成功のパートナーシップ
この時期、BRS社とオニツカ社は密接な連携を取りながら、アメリカ市場に適したシューズのデザインと機能性を追求していました。BRS社には、コーチ時代からシューズの研究を行っていたビル・バウワーマンがいて、彼の知識と経験が製品の改善に大いに貢献しました。
オニツカ社にとっても、バウワーマンの存在は非常に重要でした。彼はアメリカのジョギングブームの先駆者であり、消費者のニーズを的確に捉える能力がありました。バウワーマンのアイデアを元に、オニツカ社は1967年に「 タイガー・コルテッツ」を製品化し、大成功を収めました。
その結果、BRS社とオニツカ社は、当時業界をリードしていたドイツのアディダスとPUMAに対抗する存在となりました。一方で、オニツカ社は国内市場の成長にも注力していたため、アメリカへの商品発送が遅れることが度々ありました。
それでも、良好な関係を続けていた両社がこの後に、争い合うことになります。
100万ドルの成功物語、BRSの躍進へ
1968年、フィル・ナイトは本業として働いていた大手会計事務所PwCを退社し、BRSに専念します
そして1969年、フィル・ナイトがその年だけで100万ドル相当のオニツカタイガーシューズを販売するという驚異的な成果を上げました。これは、BRS社が消費者の間で急速に認知度を上げ、ブランドとしての地位を確立していった証拠です。
「契約問題「資金繰り困難」BRSの試練
1969年の年末、フィル・ナイトと鬼塚喜八郎が契約更新の交渉を行いましたが、期間についての意見が合わず、ナイトは1973年以降にはオニツカタイガーの販売ができないと考えるようになりました。また、鬼塚がブルーリボンスポーツの買収を提案したり、他の企業を探していることを耳にしたりする中、人気の「タイガー・コルテッツ」の適切なサイズが十分に輸入されず、資金繰りも困難になってきました。
この時、日商岩井(現在の双日株式会社)から資金援助を受けることができましたが、配送の改善をオニツカ社に要求したところ、これが拒否されました。その時、日商岩井の担当者から他の日本の靴メーカーを紹介する提案を受けました。
この頃、最悪のパターンを想定して、フィル・ナイトはカナダで自社ブランドのスニーカー製造が出来るように動いていました。
契約上の不一致からのBRSは独立の検討
1971年末までに、オニツカとの契約上の不一致により、ナイトとバウワーマンは自分たちの靴会社を設立することを検討するようになりました。
ナイキのロゴ誕生
1969年、フィル・ナイトはポートランド州立大学でグラフィックデザインを勉強していたキャロライン・デイビッドソンと出会いました。デイビッドソンは当初ジャーナリズムを専攻していましたが、デザインコースを受講したことでデザインへと興味が移り、1971年にグラフィックデザインの学士号を取得しました。
デイビッドソンが油絵の材料を買う余裕がないと知ったナイトは、彼女に当時のブルーリボンスポーツ社(後のナイキ)で仕事をするよう提案しました。デイビッドソンは日本の靴業界の幹部らとの会議用にチャートやグラフを作成するという仕事を手掛け、その成功から会社のポスター、広告、チラシをデザインするようになりました。
1971年、ナイトとバウワーマンは、新しいランニングシューズのロゴを必要としました。彼らはデイビッドソンに、「動きと関連性のある」ストライプ(業界用語で靴のロゴ)をデザインを時給2ドルで依頼しました。
デイビッドソンは、靴の絵の上にティッシュを重ねてデザインのアイデアを試み、5つの異なるデザインを提案しました。その中の1つは、翼に似た形状で、ギリシャの勝利の女神ニケを暗示するスウッシュでした。迫り来る生産期限に間に合わせるため、ナイトは他の4つのデザインを拒否した後、スウッシュを選びました。ナイトは当初、このロゴについて「特に気に入っているわけではないが、私の心に残るだろう」と述べました。
35ドルのデザインが世界的な成功をもたらす
キャロライン・デイビッドソンがナイキの象徴となるスウッシュロゴをデザインしたとき、彼女に支払われたのはたったの35ドル(時給2ドル×17.5時間)でした。しかし、ナイキが急速に成長し、スウッシュロゴが世界的に認識されるブランドになると、デイビッドソンの貢献が適切に評価されることになりました。
1972年にナイキが公式に設立され、スウッシュロゴが採用されてから数年後、フィル・ナイトはデイビッドソンの貢献を認め、彼女に500株のナイキの株式を贈りました。その時点ではナイキの株価はまだそれほど高くなかったため、その価値は数千ドル程度だったとされています。
しかし、その後ナイキは急速に成長を続け、その株価は急騰。デイビッドソンがもらった株式の価値は時間とともに増大し、今ではその価値は100万ドルを大きく超えると見られています。さらに、彼女はナイキから金とダイヤモンドで作られた特製のスウッシュロゴのリングも贈られました。
これらの贈り物は、デイビッドソンがナイキのブランド構築に果たした重要な役割を認め、彼女の貢献を称えるためのものでした。ナイキのスウッシュロゴは、今日では世界的に認知されるスポーツウェアの象徴となっており、そのデザインはデイビッドソンの才能と創造性の産物と言えるでしょう。
BRSからナイキへ!勝利の女神がくれたインスピレーション”
ナイキの名称変更は、一部ではナイキの初期の従業員であるジェフ・ジョンソンの提案とされています。彼はギリシャ神話の勝利の女神、ニケ(Nike)からインスピレーションを得て、その名前を提案しました。
ナイキへの歴史的転換点!ブランド名とスウッシュロゴの結びつき
フィル・ナイトとそのチームは、オニツカとの契約が予想通りに進まない可能性を認識していました。そのため、彼らは自身のブランドとしてのスニーカーを開発し、製造する準備を進めていました。
フィル・ナイトと彼のパートナーたちは、新しいブランド名を選ぶ際に多くの選択肢を検討しました。その中でも「ディメンション・シックス」は最終候補の一つでした。しかし、最終的には「ナイキ」という名前が選ばれました。
また、この名前はキャロライン・デイビッドソンによってデザインされたスウッシュロゴと共に、ブランドの認知度と一体感を強化しました。
新たな製造パートナーの選定とブランドの確立
しかし、ブランド名を決定した後も課題はありました。彼らはカナダの工場で新ブランドの靴を製造する計画でしたが、その工場の品質が期待したものでなかったため、彼らは新たな製造パートナーを探さなければなりませんでした。
そこで彼らはスメラギの紹介により、日本ゴム(現在のアサヒシューズ株式会社)と連携することにしました。日本ゴムは品質の高い製品と信頼性のある製造プロセスで知られており、ナイキの靴の製造に適したパートナーでした。
この新しいパートナーシップにより、ナイキは高品質の製品を提供し、自身のブランドを確立することができました。
ビジネス戦略の不一致からオニツカとナイキの契約終了
鬼塚(オニツカタイガー)は1972年にBRSとの契約を終了することを決定しました。
ブルーリボンスポーツ(BRS)とオニツカとの間の関係は、互いに利益を生むためのものでした。しかし、それぞれのビジネス戦略が異なっていたため、この関係はやがて終わりを迎えることになりました。
ナイキ(当時はまだBRSと呼ばれていた)は、自身が製品開発に関与していながらも、単なる代理店としてしか機能していないことに不満を感じていました。また、オニツカから大量に製品を輸入しているにも関わらず、品質や納期に問題があったこともありました。これらの問題を解決し、ビジネスを拡大するために、BRSは自社ブランドの立ち上げを計画しました。
一方、オニツカは、BRSとの販売代理店契約が安価であることに問題を感じていました。確かに、BRSは米国市場の開拓や製品開発に大いに貢献していました。しかし、オニツカは自社が米国市場の販売を直接コントロールすることで、より広範な市場開拓が可能だと考えていました。
<オニツカとナイキの対立>コルテッツのデザインと名称の争い
オニツカとの契約が終了した後、ナイキ(当時はまだブルー・リボン・スポーツ)は、福岡のアサヒコーポレーション(後のブリヂストンの源流)にトレーニングシューズの製造を委託しました。そして1971年、自社ブランド「ナイキ」を立ち上げ、象徴的なスウッシュマークが入ったシューズ「ナイキコルテッツ」を発売しました。
しかし、オニツカとナイキの間には、ビル・バウワーマンのアイデアを元に開発された人気スニーカー「コルテッツ」のデザインと名称の使用権について対立が生じました。この問題は両社間の裁判に発展し、オニツカは日本でナイキを提訴し、一方ナイキはアメリカでオニツカを提訴するという事態になりました。
契約違反と商標権侵害の訴訟
ナイトとナイキがオニツカに対して訴訟を起こした背景には、契約違反と「コルテッツ」の商標権侵害がありました。ナイト自身はこの訴訟が困難なものであることを理解していましたが、それでも訴訟を起こす決断をしました。
ナイトの主張によれば、「ブルーリボン・スポーツ」はオニツカとの契約違反をしていたとされ、契約書には「他のブランドのスポーツシューズを輸入することを禁ずる」という条項が含まれていました。しかし、裁判所はオニツカ側がその事実を隠したため、ブルーリボンスポーツの証言を重視しました。
商標侵害裁判が引き起こしたナイキとオニツカの大きな変化
結果として、裁判は「コルテッツ」の商標権侵害による損害賠償40万ドル(約1億2,000万円)をオニツカがブルーリボンスポーツに支払い、さらに「タイガーコルテッツ」を「タイガーコルセオ」に変更するということで和解しました。
鬼塚喜八郎は後に、「BRS社と販売会社設立の計画を進めていたところ、日本の商社の勧誘で他のメーカーからの仕入れに切り替えてしまった。驚いた私はすぐに別の販売店と契約したが、日本の商慣習になじまないそのドライな行動に裏切られた気がしたものだ」と述べました。
また、「まずいことにBRS社が使っていたニックネームを引き続き使ったため、その使用権の帰属をめぐって対立、訴訟を起こされた。結局和解に応じたが、和解金額は弁護士費用を含め1億数千万円。海外展開するうえで良い経験だったとはいえ、高い授業料を払わされた。これが後に急成長したナイキである」とも語りました。
この裁判はナイキとオニツカの間の関係に深刻な影響を及ぼし、両社のビジネス方針に大きな変化をもたらしました。
ナイキの革新と拡大!スポーツシューズ業界牽引し続ける!!
ナイキはその後、スポーツシューズ業界におけるテクノロジーやデザインの先駆者となりました。
「ワッフルトレーナー」
1974年にはビル・バウアーマンが自宅のキッチンで開発したワッフルソールを特徴とする「ワッフルトレーナー」を発売しました。このワッフルソールは、ワッフルの形状から着想を得て作られ、四角いラグパターンのソールを持つトレーニングシューズでした。この革新的なデザインは、当時としては画期的であり、トレーニングシューズ市場におけるナイキの地位を確固たるものにしました。
「エアシリーズ」
また、ナイキはその後も技術革新を続け、「エア」テクノロジーを搭載したスニーカーを発売するなど、スポーツシューズ業界におけるリーダーとしての地位を確立していきます。「エア」テクノロジーは、シューズのソールに空気を封入することで、衝撃吸収性とクッショニング性能を向上させるというものでした。これにより、ランナーはより長い距離をより快適に走ることができ、またパフォーマンスも向上しました。
ナイキのブランド戦略と広告の力
1976年にナイキはその拡大を続けるために、シアトルに拠点を置く広告会社ジョン・ブラウン・アンド・パートナーズと契約しました。彼らが制作した初のブランド広告「There is No Finish Line」は、具体的なナイキの製品を強調するのではなく、ナイキのブランド哲学とスポーツへの情熱を伝えるものでした。この広告は成功を収め、ナイキのブランドをさらに高める一助となりました。
1980年までに、ナイキはアメリカのスポーツシューズ市場の50%を占めるという驚異的なシェアを獲得し、同年に企業としての株式公開を行いました。
さらに、スニーカーの成功を受けて、ナイキは1979年にアパレル市場へ進出し、さまざまなスポーツウェアを製造しました。その中でも、「ウィンドランナー」は、モダンなシェブロンデザインの軽量ジャケットとして、ストリートでもトラックでも人気を博しました。
「Just Do It」
1982年には、ナイキはさらに広告戦略を強化するために、全世界的な広告代理店であるワイデン+ケネディと提携しました。ワイデン+ケネディと共に、ナイキは1980年代に多くの印象的な広告を制作し、その中でも特に有名なものとして、「Just Do It」のスローガンがあります。このスローガンは、ダン・ワイデンによって考案され、殺人犯ゲイリー・ギルモアの最後の言葉「Let’s do it」からインスピレーションを得たものでした。このスローガンは、20世紀のトップ5スローガンの1つに選ばれ、ナイキのブランドイメージを象徴するものとなりました。
「エアフォースワン」バスケからヒップホップ、ファッションへ波及
ナイキの「エア フォース 1」は、バスケットボールシューズとして1982年に初めてリリースされ、その後1990年代になってバスケットボールの必須アイテムとして地位を確立しました。しかし、その重要性はバスケットボールコートを超えて、ヒップホップカルチャーと深く結びついたファッションアイテムとしても認識されるようになりました。
2000年代には、ジェイ・Z、ネリー、エミネムなどの著名なラッパーが自分たちの歌詞に「エア フォース 1」を取り入れるなど、その影響力が広がりました。しかし、2010年代にはファッションのトレンドが変わり、その人気は一時的に停滞しました。
その状況を救ったのがラッパーのエイサップ・ロッキーで、彼はあえて人気が低下していたミッドカットの「エア フォース 1」を履き続け、自身の影響力をアピールしました。彼の行動はSNSで広く拡散され、再び「エア フォース 1」の人気が高まりました。
現在では、新進のアーティストであるビリー・アイリッシュが自己表現の一環として「エア フォース 1」を着用しています。彼女は新鮮なマッシュルームカラーと太いストラップを特徴とするクラシカルなミッドカットを再構築し、新たなトレンドを生み出しています。
「エアジョーダン」マイケル・ジョーダンとナイキの伝説の出会い
1984年、ナイキはまだ新人のバスケットボール選手、マイケル・ジョーダンと契約を結びました。彼はまだNBAのルーキーでしたが、その大きな潜在能力を見込んだナイキは、彼に年間50万ドルの契約を提供し、彼自身のシグネチャーラインを約束しました。これがエアジョーダンシリーズの誕生に繋がったのです。
初めての試合でジョーダンが着用したナイキ・エア・シップは、そのカラーリングがNBAの規定に違反していたため禁止されてしまいました。これを受けてナイキのデザイナーたちは新たなスニーカー、エア・ジョーダン1の開発に取り組みました。
オリジナルのエアジョーダン1は1984年末にマイケル・ジョーダン専用にデザインされ、1985年4月に一般販売されました。このシューズはハイトップデザイン、ナイキの象徴であるスウッシュ、そして黒と赤の「ブレッド」カラーが特徴でした。このエア・ジョーダン1は大変な人気を博し、ナイキとマイケル・ジョーダンの名を世界に轟かせました。
「ダンク」バスケからストリートファッションのアイコンとしての台頭
ナイキのDUNKは、1985年にバスケットボールシューズとして初めてリリースされました。そのデザインは、同じ年にリリースされた「AIR JORDAN 1」に酷似していましたが、ミッドソールにエアバッグを搭載していないという違いがありました。
DUNKの特徴的なのは、全米大学体育協会(NCAA)の強豪バスケットボールチームに支給されたことです。NCAAはアメリカ全土で極めて人気があり、NBAと同様の影響力を持っています。ナイキは、これらのチームにDUNKを提供することで、そのシェアをさらに拡大することを狙っていました。
この戦略は成功し、DUNKはバスケットボールコミュニティだけでなく、その後のストリートファッションやスケートボーディングのシーンでも人気を博しました。ナイキはその後、このモデルをさまざまなカラーウェイやコラボレーションでリリースし続け、その人気を維持しています。
「エアマックス」革新的なクッション性と時代を超えた人気
1987年、ナイキはエアマックス1という新しいスニーカーラインを発表しました。ティンカー・ハットフィールドによってデザインされたこの革新的なスニーカーは、ミッドソールに空気を物理的にカプセル化し、そのクッション性を高めることで一世を風靡しました。オリジナルのユニバーシティレッド/ホワイトカラーウェイは、現在でもスニーカーファンから高い評価を受けています。
ナイキの本社移転
1990年、ナイキはオレゴン州ビーバートンにある8つの建物からなる新しい世界本社キャンパスに移転しました。広大な400エーカーの土地には11,000人以上の従業員が働き、ナイキスポーツリサーチラボ、ナイキミュージアム、3つのフィットネスセンター、スポンサードアスリートのための施設などが設けられています。さらに、スポーツフィールドやランニングコースも整備されています。
そして同年、ナイキはエアマックス90という新たなモデルを発表しました。より分厚い構造と未来的なデザインが特徴のこのスニーカーは、エアマックスシリーズの中でも特に人気があります。
ナイキの拡大とスポーツ界への進出
1990年代に入り、ナイキは拡大を続け、オレゴン州ポートランドに初のナイキタウンチェーンストアをオープンしました。これらの店舗は、マイケル・ジョーダンなどのナイキスポンサーのアスリートを特集し、各種のスポーツ向けのナイキ製品を広範囲に提供しています。1996年には、ゴルフスーパースターのタイガー・ウッズと契約を結び、ゴルフの世界にさらに進出しました。
1997年には、パッド量を増やし、Zoom Air インソールを特徴とし、ハードな衝撃やスケートボードの摩耗に耐える強化素材を使用した新しいスニーカーラインを発表し、スケートボードの世界に進出しました。その成功を受けて、2001年にナイキはナイキ SB シリーズをリリースしました。このシリーズは、プロスケーター向けのシグネチャーダンクコレクションを発表するなど、すぐに人気を博しました。
さらに、バスケットボール界のレジェンドであるレブロン・ジェームスとコービー・ブライアントと契約し、NBAでのシューズスポンサーとしての地位を強化しました。また、2003年には共同創設者のフィル・ナイトが会長職を退き、後任にはウィリアム・ペレスが就任しました。しかし、ペレスの任期はナイトとの意見の相違からわずか2年で終わりました。また、2005年にはテニス選手のラファエル・ナダルと契約を結び、彼自身のアパレル製品の販売も開始しました。
グローバルな影響力
ナイキは2008年にイギリスのブランドであるアンブロを5億8000万ドルで買収し、サッカー市場への進出とサッカーアパレルやスポーツ用品の拡大をさらに進めることに成功しました。そして2012年と2015年にはNFLとNBAの両方の公式サプライヤーとなり、選手や関係者、個人が着用するすべてのキットとユニフォームの供給を担当しました。
2021年時点では、Nike, Inc.はスポーツシューズ、アパレル、その他のスポーツ用品の最大かつ最も有名なサプライヤーであり、そのブランドポートフォリオにはジョーダンやコンバースなどの有名なブランドも含まれています。これにより、ナイキはさまざまなスポーツとライフスタイルの市場に広く及ぶ製品を提供しており、その品質とイノベーションにより世界中の消費者から高い評価を受けています。
持続可能性への取り組み
さらに、NIKEは社会的、環境的な課題にも積極的に取り組んでいます。NIKEは「Move to Zero」キャンペーンを通じて、炭素排出量を削減し、廃棄物をゼロにするという目標を設定しました。また、持続可能な素材の使用を増やすことにより、製品ライフサイクル全体で環境への影響を最小限に抑えることを目指しています。
スポーツ、ファッション、社会の変革におけるNIKEの使命と成長
それぞれの時代において、NIKEはスポーツウェアの世界をリードし、変革し続けてきました。その誕生と起源は、単なるスポーツシューズブランドから、スポーツ、ファッション、社会問題へのコミットメントを通じて世界に影響を与えるグローバルなブランドへと成長する物語です。そして、その背後には、一貫して革新とパフォーマンスへの追求があります。これからも、NIKEはその使命に基づき、持続可能性と社会的な影響を通じて、世界を前進させることでしょう。