宇宙を抱く幻の茶碗!世界に3つしかない「曜変天目茶碗」の存在感【国宝】

国宝「曜変天目茶碗」は、美しい色彩や光沢から世界中で高く評価されている美術品です。

現存するものは3つのみで、さらにそれぞれ光彩の現れ方が異なっています。この茶碗には、青や藍の大小の波紋が星のように浮かび、内部に虹色の反射光を生み出す美しい宇宙が広がっていますが、このような美しい模様は、製造過程で偶然が重なり奇跡的に現れたものであり、現代の技術力を持ってしても完全再現には至っていません。

この記事では、そんな曜変天目茶碗の魅力や製造過程、歴史などを紹介します。曜変天目茶碗に興味を持つ方や、茶道や伝統工芸品に興味のある方は、特にオススメの記事になっています。

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日本美術史上の名茶碗100点を原寸掲載 茶の湯文化は室町時代以来の日本文化において重要な役割を果たしてきました。中でも茶碗をはじめとする茶道具は日本美術の欠くべからざる領域です。本書はそんな日本美術史上極めて貴重な茶碗を100点厳選、全てカラー原寸大で掲載するものです。(「Books」出版書誌データベースより)

Yohen Tenmoku bowls

世界にたった3つだけ現存!国宝「曜変天目茶碗」

ISSEY TV/YouTube

曜変天目茶碗は、日本の陶磁器の一種で、その美しさから日本の茶道文化においても高く評価されている伝統的な美術品です。

「曜変天目茶碗」は、その特殊な効果と美しさから奇跡的な存在とされています。現存するものは3つのみで、それぞれの茶碗は光彩の現れ方が異なります。これら3つの曜変天目茶碗は、それぞれが日本の国宝に指定されており、その希少性と美しさが高く評価されています。

曜変天目とは何か?茶碗の美と神秘

曜変天目という名前は、光によって見える色彩が変わる現象(曜変)と、中国宋代の天目茶碗が起源とされることから名付けられました。

「曜変」と呼ばれる特徴的な光沢の美しさ

「曜変(ようへん)」とは、天目茶碗の中でも光沢に特徴的なもので、曜変天目茶碗の美しさの源となっています。「曜変天目茶碗」の内側は、青や藍の大小の波紋が星のように浮かび、内部に虹色の反射光を生み出す美しい宇宙が広がっています。この独特の模様は、天目茶碗の代表的な技法である「曜変天目」と呼ばれています。

曜変天目の制作には非常に高い技術が必要とされ、そのため茶碗としては極めて希少価値が高いとされています。その美しい光沢や色彩は、茶道の世界では特に珍重され、美術品としての評価も非常に高いです。

国茶文化の発展と天目山の霧が生んだ美しい天目茶碗

天目茶碗の起源は、中国・宋代(960-1279年)にさかのぼります。この時期、中国では茶文化が発展し、様々な種類の茶碗が製作されていました。その中でも、天目茶碗は特に美しい模様と独特の風合いから高い評価を受けていました。

「天目」の由来は、中国の天目山に関連しています。天目山は、福建省南平市武夷山市に位置し、中国最古の仏教名山の一つとされています。また、この地域は霧が多く、茶の名産地としても有名で、別名「天目茶」とも言われる、良質な「雲霧茶」が生産されています。

天目茶碗の名前の由来には諸説ありますが、一つの説では、中国の天目山周辺で生産された茶葉を召し上がる際に使用された黒釉の茶碗が、日本の留学僧によって持ち帰られたことが始まりとされています。

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中国では“不吉”とされていた

曜変天目茶碗には、確かに不吉とされる要素があると一部の中国陶磁研究者の間で言われています。その理由はいくつかあります。

まず、曜変天目茶碗の色彩の変化は、窯での焼成過程で偶然に起こるものであり、予測が難しいとされています。このため、実際には不完全な焼成品として扱われ、それが不吉なものとして見られていたという説があります。

また、曜変天目茶碗の模様には、赤い斑点や金色の光彩が見られることがあります。これらの模様は、一部の人々によって悪い意味で解釈されることがありました。例えば、赤い斑点は出血を象徴し、金色の光彩は王朝の滅亡を暗示するといった解釈がなされることがあります。

日本の茶道文化と曜変天目茶碗の関係

茶道は、日本の伝統的な文化であり、精神性や美意識を重んじる哲学が根底にあるため、茶道具にも高い芸術性が求められます。「曜変天目茶碗」は、その美しい光沢や色彩、独特の模様が茶道文化と高い相性を持っており、非常に珍重されています。

歴史に名を残す茶人たちが愛した、日本茶道の至宝

「天下三碗」とは、日本の茶道界で最も有名で高価な茶碗の3つを指す呼び名で、「曜変天目茶碗」、「赤楽茶碗」、「利休茶碗」がそれに当たります。これらの茶碗は、茶道の歴史において重要な役割を果たした茶人によって愛され、伝統的な製法で作られたもので、高い芸術性と歴史的価値を持っています。

茶道の際にも最適な手のひらサイズ

曜変天目茶碗は、一般的に高さ約7.2㎝、口径約12.2㎝とされており、手のひらに乗るぐらいの大きさです。この大きさは、茶道の際に使われる茶碗として適切なサイズであり、その美しい色彩や光沢を手に持って鑑賞することができます。

また、このサイズは、茶道の際に茶碗を手渡す際にも適した大きさであり、実用性と美しさを兼ね備えた形状となっています。

曜変天目茶碗の誕生と日本の茶道文化の変革期

鎌倉時代から室町時代の過渡期にかけて、日本の茶道文化は大きな変化を遂げました。この時期には、禅宗が日本に広まり、日本の茶の文化と深く関わるようになりました。天目茶碗は、この時期に中国から日本へ伝わり、日本の茶人たちに愛されるようになりました。

鎌倉時代から室町時代にかけて、日本の茶道の流派が次々と誕生し、それぞれ独自の美意識や茶道具の好みが生まれました。天目茶碗は、その美しい模様や独特の風合いから、日本の茶人たちによって高く評価され、茶会や茶の湯の席で使用されるようになりました。

そんな時期に現れたのが曜変天目茶碗でした。

戦国時代における曜変天目茶碗の行方

戦国時代の日本には、中国から輸入された「曜変天目」の中でも特に美しいものが十碗ほどあったと言われています。それらは当時の大名や貴族によって秘蔵され、国宝級の価値があるとされていました。

しかし、戦国時代から江戸時代にかけての兵火や天災により、多くの曜変天目が失われてしまったとされています。例えば、足利義政が所有していた曜変天目は、特に優れていたとされており、織田信長の所持することになりました。しかし、本能寺の変によって織田信長が亡くなり、曜変天目が焼失したという説もあります。

一方で、他にも曜変天目の茶碗が残っているという説もあるため、真相は定かではありません。実際に現存する曜変天目茶碗は極めて希少で、その数も限られています。そのため、戦国時代において失われた曜変天目に関する謎や真相が解明されることは、現代の陶磁器研究や歴史研究において非常に興味深い課題となっています。

「どうやって作ったのか」謎に包まれた曜変天目茶碗のルーツと美しさ

曜変天目茶碗の製作技法や作者は、今もなお謎に包まれており、数多くの陶芸作家が再現に挑戦してきました。確かに、再現された茶碗も存在しますが、完全な再現は不可能とされています。曜変天目茶碗が持つ美しい宇宙のような模様の成因についても、未だ完全に解明されていない謎が多く残っています。

一説によれば、窯内で温度や酸素量が不規則に変化したことが、表面に微細な結晶が形成される原因となったとされています。この微細な結晶が光を反射し、虹色に輝く現象が起こると考えられています。ただし、この説についても確定的な証拠は見つかっておらず、曜変天目を再現することは非常に困難であるとされています。

曜変天目茶碗の神秘的な美しさやその謎に挑む陶芸作家たちの試行錯誤は、日本の陶芸界において独自の魅力を持っています。そのため、曜変天目茶碗は現代においても多くの人々に憧れられる存在となっており、研究や再現への挑戦が続いているのです。

中国の五大名窯の一つとして知られる建陽窯跡

曜変天目茶碗のルーツは、12-13世紀の中国南宋時代にさかのぼります。福建省の建窯(けんよう)で焼かれたものとされています。

建窯は、12世紀後半から13世紀半ばに福建省南部の建瓯(けんおう)で生産された陶磁器の窯跡(かまあと、ようせき)であり、中国の五大名窯の一つとされています。建陽窯跡は、南宋時代の陶磁器や建築用瓦などの生産で栄え、中国でも有数の窯跡の一つとして知られています。

特に建窯で焼かれた天目茶碗は、建盞(けんさん)と呼ばれ、当時の社会で高い評価を受け、宮廷に献上されるなど重要な役割を果たしました。

曜変天目茶碗は、建窯の中で特別な化学反応が起こり、偶然に美しい光彩が生じたものと考えられています。曜変天目は、窯内の温度や酸素量、釉薬の配合などによって、青、緑、黄、茶、赤などの様々な色合いが現れ、曇りや波紋、星屑のような模様が浮かび上がる特徴的な美しさを持っています。

「足利義満」が中国から輸入して日本に伝来

足利義満は、南宋時代の工芸品に強い興味を持ち、宮廷コレクションを形成しました。このことが、曜変天目を含む宋代の書画や工芸品が日本にもたらされた理由の一つです。曜変天目は、日本でのみ伝来しており、中国国内では見ることができません。

足利義満から義政の時代にかけて流行した唐物の宝物を列挙した名品鑑定の秘伝書『君台観左右帳記』にも、曜変天目が書かれているとされます。この書物によれば、曜変天目は中国福建省の建窯で焼かれた茶碗の中でも、極めて希少であり、「無上也。世上になき物也。」「万疋(まんびき)の物也。」として評価されていたとされます。

この書物に曜変天目が掲載されていたことからも、室町時代にはすでに、この茶碗の価値が高く認められていたことがうかがえます。足利義満や義政の時代の宮廷コレクションや、『君台観左右帳記』によって日本での曜変天目の価値が高まり、その後も日本の茶道や工芸品の歴史に大きな影響を与えることとなりました。

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発掘調査によって解き明かされる秘密

20世紀以降の発掘調査によって、大規模な建窯跡や南宋の皇城遺跡から曜変天目茶碗を含む多くの陶磁器の破片が出土し、研究が進展しています。これらの発見により、曜変天目茶碗の起源や製法について新たな知見が得られ、長年にわたって謎に包まれていた曜変天目の実態が少しずつ明らかになってきました。

南宋皇城遺跡から発見された曜変天目茶碗の破片

2008年末から2009年前半にかけて行われた杭州市の南宋皇城遺跡の発掘調査により、大量の陶磁器の破片が出土しました。その中には、曜変天目茶碗の破片も含まれており、2012年2月に中国で開催された国際学術検討会で報告されました。

報告によれば、出土した曜変天目茶碗の破片は、建盞のうち偶然窯内で美しい光彩が生じたものであり、特別な技術を用いたわけではないことが示唆されました。また、破片から曜変天目の特徴的な波紋模様が再現されており、曜変天目が本物であることが確認されました。これにより、曜変天目の起源と製法に関する新たな研究が進展することになりました。

同時に出土した多くの破片には、越窯、定窯、建窯、吉州窯、汝窯、鞏義窯、高麗青磁などが含まれていました。特に越窯白磁が多く出土し、これらが南宋宮廷用のものである可能性が高いとされました。また、出土地は南宋時代の宮廷の迎賓館跡地であったことから、宮廷関係者や外交使節との交流で貴重な陶磁器や美術品が使用されていたことが分かりました。

曜変天目再発見!謎が深まる中、不吉説を覆す

2017年に中国杭州で再度曜変天目の破片が出土しました。この破片は完器の3分の1程度の大きさを残し、曜変天目の特徴を備えていましたが、発掘場所は不明です。曜変天目が日本でしか存在しないことから、斑文や光彩を不吉として排除したという説もありますが、宮廷文物として高い評価を受けていたことを考慮すると、その説は立証が難しくなります。

また、日本に伝来している曜変天目も、かつて南宋宮廷にあったものである可能性があります。南宋時代の宮廷では、曜変天目を含む貴重な陶磁器や美術品が多く使用されていました。日本の曜変天目が南宋宮廷から伝来したとすると、それらは南宋時代の貿易や外交活動を通じて日本にもたらされたと考えられます。今後の研究によって、曜変天目の起源や伝来に関する謎がさらに解明されることが期待されます。

曜変天目を見に行こう!

日本の国宝に数えられる貴重な曜変天目茶碗は、その神秘的な美しさと希少性から世界的にも注目されています。たった3つしか存在しないこの国宝を鑑賞するチャンスを逃さないよう、ぜひ以下の展示先を訪れてみてください。

日本で曜変天目が所蔵されているの

静嘉堂文庫美術館

静嘉堂文庫美術館は、岩崎家が寄贈した美術品を中心に、日本美術を代表する作品を多数所蔵しており、まさに「宝庫」と称されるにふさわしい美術館です。その中でも、曜変天目茶碗「稲葉天目」は特に貴重な一品であり、国宝に指定されています。

美術館では、曜変天目をはじめとする陶磁器や絵画、書跡、漆器、金工、木彫、茶道具、武具などの多岐にわたる作品が展示されており、国内外から多くの美術愛好家が訪れます。

「稲葉天目」

世界に3つしかない国宝、曜変天目の中でも、稲葉天目はその美しさが圧倒的と言われています。直径約13cmの小ぶりな茶碗でありながら、白磁に透明釉を掛けた表面には瑠璃色の光彩が満天の星のように美しく現れ、他の曜変天目とは比較にならないほどの美しさを持っています。

このため、日本の茶人や美術品愛好家にとって、特に価値が高い作品の一つとされています。静嘉堂文庫美術館の主任学芸員、長谷川祥子さんは、「お茶を飲む茶碗だけど、まずは“息”をのむ茶碗。そんな美しさです」と表現しています。

付属する布も超一級品!

稲葉天目には、茶碗では大変珍しい仕覆(しふく)が2つ添っています。

仕覆(しふく)とは茶道具の茶碗にかぶせる被覆物で、素材や柄、色などが異なる様々な種類があり重要な装飾品として使用される。茶を点てる前に仕覆を取り除いて受け取り、茶を点てた後に再び仕覆を戻すという手順もある。

2つの「仕覆」は曜変天目級で、年月による剥落が見られる部分もあるが、「金襴」に分類されている。

「金襴」とは、金箔を糸に貼り付けた、金属光沢のある織物のことを指します。曜変天目と同じく、金襴も古くから高価で希少な品とされ、貴族や富裕層に愛されてきました

 添ってる仕覆のうち、「紺地二重蔓牡丹唐草文金地金襴仕覆」は、稲葉家から伝来した仕覆で、紺色の地に二重の蔓牡丹唐草文が描かれ、金地金襴で縁取られています。

もう一方の、「白地雲文金襴仕覆」は、岩崎家が新たに調達した仕覆で、白地に雲文が描かれ、金襴で縁取られています。どちらも、中国明時代の絹織物で、曜変天目とともに展示されることで、曜変天目の格を高める重要な役割を果たしています。

岩崎小彌太と曜変天目の物語

静嘉堂文庫美術館にある曜変天目は、徳川家光が病弱の側室であるお江(春日局)に下賜したとされています。その後、お江が亡くなった後に稲葉家に伝わり。「稲葉天目」と呼ばれるようにりました。

そして1934年に三菱の四代目社長・岩崎小彌太が購入したことで、岩崎家が所蔵していた。小彌太は「品、私に用うべからず」として、使うことは生涯なかったという逸話が残されている。

岩崎小彌太は、曜変天目を所有するだけでなく、多くの美術品を収集することでも知られています。彼は当時の最高額である400万円を投じて、『源氏物語』の巻物を購入したこともありました。また、彼が収集した美術品は、1970年に静嘉堂文庫に寄贈され、それらは「岩崎コレクション」として知られている。

静嘉堂文庫美術館は、東京都文京区に位置しており、交通アクセスも良好です。美術館の周辺には、東京大学や小石川後楽園などの名所も多くあり、訪れた際には観光を楽しむことができます。

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藤田美術館

藤田美術館は、日本の大阪市にある美術館で、明治時代の実業家・藤田傳三郎とその子孫が収集した貴重な古美術品を展示しています。藤田傳三郎は、大阪の綿花商人として成功を収めた後、美術品収集に情熱を傾注しました。藤田家は、江戸時代から明治時代にかけての茶道具、絵画、書跡、陶磁器などの古美術品を中心に収集し、その膨大なコレクションをもとに藤田美術館が設立されました。

1954年の開館以来、藤田美術館は日本の古美術品の中でも特に重要な作品を展示し、その美しさや歴史的背景について多くの人々に伝えています。現在、約2000点の美術品が所蔵されており、その中には茶道具、墨跡、能装束、絵巻、仏像、仏教工芸、経典、考古資料など、多岐にわたる古美術品が含まれています。

藤田美術館/YouTube
水戸徳川家から伝わった逸品

藤田美術館に所蔵されている曜変天目は、元々徳川家康から水戸徳川家に伝わったもので、その後、明治時代に入り、財界人の渋沢栄一氏を経て、藤田平太郎氏が1918年に購入しました。当時の価格で53,800円という高額な取引でしたが、現在では、その価値は更に高くなっています。

藤田清館長は「(口縁に)覆輪があること、碗の外側にも青い星のような模様がある点も他の2碗と異なる特色です」と語っています

藤田美術館の曜変天目茶碗には、他の曜変天目茶碗と異なる特徴がいくつかあります。藤田清館長が指摘するように、この茶碗には口縁に覆輪があり、外側には青い星のような模様がある点が挙げられます。これらの特徴は、茶碗の製造過程で生じたものであり、他の曜変天目茶碗とは異なる美しい模様を生み出しています。

藤田美術館は、日本の古美術の魅力を感じることができる貴重な場所であり、国内外の美術愛好家にとっては見逃せないスポットです。大阪を訪れる際には、ぜひ藤田美術館へ足を運んで、日本の伝統美術の素晴らしさに触れてみてください。

大徳寺龍光院

もう一つの曜変天目茶碗を所蔵する龍光院は、大徳寺の塔頭の一つであり、一般の拝観を受け付けていないため、茶碗を拝観する機会は非常に少なく、貴重な作品として知られています。

龍光院の曜変天目茶碗も、他の曜変天目茶碗とは異なる美しい模様を持っており、静嘉堂の曜変に対し、大徳寺のものは斑文が比較的小さく幽玄な雰囲気を醸し出しています。

Amazing 4K Japan/YouTube
龍光院

「龍光院」は、戦国武将の黒田長政が父・孝高(如水、官兵衛)の菩提を弔うため、慶長11年(1606年)に建立されました。龍光院は大徳寺の塔頭寺院の一つで、京都市に位置しています。

龍光院は茶道における重要な場所であり、茶人たちにとっては巡礼地の一つとして知られています。これは、龍光院がかつて茶道の名人・千利休が関わった茶室や茶道具を有していることによるものです。

また、龍光院は美しい庭園を有しており、四季折々の風景が楽しめます。特に、春には桜が美しく咲き誇り、秋には紅葉が見事な景色を作り出します。このような自然と調和した庭園は、日本庭園の美を象徴するものとして、多くの人々に愛されています。

龍光院は一般の拝観を受け付けていないため、訪れることは難しいですが、その歴史や文化的価値は非常に高く、日本の伝統美術や茶道に興味がある方には特別な場所となっています。

著名な茶人「江月宗玩」の元には多くの茶道具が寄付された

江月宗玩は、堺の豪商である天王寺屋・津田宗及の次男であり、実質的な龍光院の開祖とされています。彼は禅風と高い教養で知られ、当時の龍光院は高松宮好仁親王、小堀遠州、松花堂昭乗らが集う寛永文化の発信地となっていました。

江月宗玩は、千利休や今井宗久と並んで、茶道の分派である裏千家の中でも有名な人物でした。彼の父である津田宗及は、豊臣秀吉や織田信長の茶頭を務め、茶道具の蒐集にも熱心でした。津田家が蔵していた天下の名物の一部が、後に龍光院に寄進されたとされています。

江月宗玩のもとに集った当代一流の文化人たち、小堀遠州や松花堂昭乗、狩野探幽などは、寛永文化の中核となりました。江月宗玩は、裏千家の中で重要な役割を担い、茶道の発展に大きく貢献しました。また、彼は文化人としても多彩な才能を持ち、書道や絵画、陶芸などにも取り組んでいました。そのため、多くの文物が龍光院に伝えられることとなりました。

龍光院は、その後も茶道や文化人たちの交流の場として栄え、多くの美術品や文化遺産が保存されています。

龍光院は一般の拝観を受け付けていないため、訪れることは難しいですが、その歴史や文化的価値は非常に高く、日本の伝統美術や茶道に興味がある方には特別な場所となっています。

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