「アメリカを動かした二人の新聞王」イエロージャーナリズムと戦争報道

19世紀末のアメリカは、ジョセフ・ピューリッツァーとウィリアム・ランドルフ・ハーストという二人の新聞王の下で、イエロージャーナリズムの影響を強く受けていました。

彼らが率いる新聞は、衝撃的な見出しや過激な報道で互いに読者を奪い合い、特に戦時においては国民の感情を煽り立てる記事で知られていました。

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2050年、2100年、ジャーナリストという職業はこれまで以上に重要になる。欧州最高峰の知性が、メディアと民主主義にエールを送る。(「紀伊國屋書店」データベースより)

The History and Impact of Yellow Journalism

イエロージャーナリズムの歴史と影響

Gerry Dincher/YouTube

イエロージャーナリズム(Yellow Journalism)は、事実に基づく報道よりも、意図的に人々の感情を煽るような 扇情的(せんじょうてき)で誇張した記事を使い、部数や視聴者を獲得しようとするジャーナリズムの手法です。

人々を煽り立てて部数を増やす!

19世紀末のアメリカでは、センセーショナルな内容のジャーナリズム。「アンチ・エスタブリッシュメント(反体制)」を掲げ、政府や大企業を攻撃し、一般大衆の支持を狙った扇情的な記事が溢れていました。

当時、イエロージャーナリズムの覇権をめぐってを競い合っていたのは、ジョセフ・ピュリッツァーが所有する「New York World」紙と、ウィリアム・ランドルフ・ハーストが所有する「New York Journal」紙。

記事を書くために、法律スレスレどころかガッツリ抵触する調査報道を連発、十分な調査も行わず、あおり見出しをつけて、ひたすら新聞などの部数を伸ばすことに専念し、ニューヨーク市民の民度を下げることに貢献しました。

ランスの社会学者「ガブリエル・タルド」の提言

フランスの社会学者ガブリエル・タルドは、この状況について次のように述べました。

「(何らかの事件によって)公衆の興奮がある点まで高まると、記者たちは、毎日公衆を聴診する習慣だから、たちまちその興奮に気づく。そして公衆は記者たちによって自己を表現するとともに、記者たちによって行動し、みずからの執行機関である政治家たちに、自己の意見をおしつける。これこそ、いわゆる世論の力である」

タルドは直接言及していませんが、時期から考えると、フランスのドレフュス事件が彼の認識に大きな影響を与えたと思われます。

フランスは普仏戦争でプロシャに敗れ、国民感情が怒りと欲求不満に満ちていました。

その感情は軍部と新聞によって導かれ、ユダヤ人のドレフュス大尉がドイツのスパイとして逮捕されるという結果を招きました。ドレフュスは軍籍位階を剥奪され、終身禁固刑を受け、「悪魔島」と呼ばれる監獄島に送られました。

言葉の由来はキャラクターから!

イエロー・ジャーナリズムの由来は、1890年代後半に「コミック・ストリップ」という漫画作品の中で大変な人気を誇ったキャラクターから来ています。

イエロー・キッド

イエロー・キッド(The Yellow Kid・本名ミッキー・デューガン Mickey Dugan)は漫画家「リチャード・アウトコール」生み出したキャラクターで、赤ん坊の顔をしたストリート・チルドレンです。

新聞社の争い

イエロー・キッドは、ジョーゼフ・ピューリッツァーの新聞『ニューヨーク・ワールド』の1895年から登場し、ストリップ「ホーガンズ・アレー」に出演しました。

彼は特大のイエローなナイトシャツを着ており、そのナイトシャツにはニューヨークの広い方言で書かれた奇抜な観察が描かれていました。

その人気は、新聞の売り上げを向上させるだけでなく、商品化の最初の例として歴史に名を刻みました。イエロー・キッドは、大人にもアピールすることができる子供向けキャラクターとして成功を収めました。

1896年にウィリアム・ランドルフ・ハーストが、漫画家「リチャード・アウトコール」に法外な料金を提示し、イエロー・キッドを自分の新聞『ニューヨークジャーナル』に引き抜くことに成功しました。

これは新聞業界で大きな話題となりましたが、これによりジョーゼフ・ピューリッツァーとハースト間の競争がさらに激化、それぞれの新聞がイエロー・キッドをフィーチャーすることで売り上げを伸ばそうとしました。

両社はイエロー・キッドをフィーチャーして、誇張された報道やスキャンダラスなニュースを追求し続け、それは「イエロー・キッドの戦い」と言われるようになりました。

多くの批評家にとって、「イエロー・キッドの戦い」は、ジャーナリズムの誠実さが低下する傾向を象徴しています。

ピューリッツァーの『ワールド』紙とハーストの『ジャーナル』紙は、数年にわたって競争相手に勝るためにセンセーショナルで誇張された報道を行っていました。

ニューヨーク・プレスの編集者アーヴィン・ワードマンは、このような報道に対して様々な名前を付けようと試みましたが、「ニュー・ジャーナリズム」や「ヌード・ジャーナリズム」という名前は定着しませんでした。

両新聞がイエロー・キッドをめぐって競合し、ニュースコンテンツがコミックストリップに取って代わられたとき、ワードマンはこの現象を「イエロー・キッド・ジャーナリズム」と名付けました。

しかし、最終的にこの言葉は「イエロー・ジャーナリズム」に短縮され、今日でも誇張や事実ではない報道、研究不足のニュースを指す言葉として使用されています。

新聞王「ウィリアム・ランドルフ・ハースト」

ウィリアム・ランドルフ・ハース(William Randolph Hearst.)は、父が購入した鉱山から銀が採掘されたことで、一夜にして大富豪となりました。

権力に飢えた彼は、政治的野心も持ち合わせており、政治家に多額の献金を行ってニューヨーク市長の座を狙ったこともありました。

しかし、市民たちは彼の傲慢さを嫌い、市長が民選である限り、彼がその椅子に座ることはできませんでした。

政界進出への夢が砕かれたハーストですが、彼の権力欲は衰えることはありませんでした。

彼は世論を操作するために全米のメディアを買収し、絶頂期には日刊紙22、日曜紙15、雑誌7、ラジオ局5を所有し、その影響力は「王国」とも呼ぶにふさわしいものでした。

ハーストは記者たちに、「誤報でもよい。記事から如何なる結論が引き出せるかだけ考えろ」と説教し、「何っ? 写真がないだと? この馬鹿者が! 何度云ったら判るんだ! 似たのを載せればいいんだ、似たのを!」と怒りをぶつけるなど、彼の新聞やメディアがイエロージャーナリズムの代表格であったことがわかります。

American Experience | PBS/YouTube

新聞王「ジョーゼフ・ピュリツァー」

ジョーゼフ・ピュリツァー(Joseph Pulitzer)は、現在のハンガリーにあたるオーストリア帝国のマコーで生まれました。

彼の両親はユダヤ人で、父親は穀物商人、母親は裕福な家庭の出身でした。しかし、彼が11歳の時に父親が亡くなり、家族は経済的に困難な状況に陥りました。

1864年、17歳の時にドイツ人義勇兵としてアメリカに渡り、南北戦争に参加しました。戦争が終わった後、彼はセントルイスに移り、そこで様々な職に就きながら生計を立てました。

その後、彼はセントルイスのドイツ語新聞「Westliche Post」で働き始め、新聞業界に足を踏み入れました。

1878年、彼はセントルイスの「ディスパッチ」紙を買収し、「セントルイス・ポストディスパッチ」を創刊しました。この新聞は大衆受けする内容を提供し、人気を博しました。

その後、彼は1883年に「ニューヨーク・ワールド」紙を買収し、その発行者となりました。彼は再びイエロー・ジャーナリズムを展開し、新聞の購読者数を飛躍的に増やしました。

ウィリアム・ランドルフ・ハーストとの競争が激化し、1890年代にはイエロー・ジャーナリズムがその頂点に達しました。

American Experience | PBS/YouTube

二人の新聞王の競争が戦争に繋がる

ウィリアム・ランドルフ・ハーストは、ジョセフ・ピュリツァーを当初称賛し、自身のヒーローとして敬愛していました。

ハーストが「ニューヨーク・ジャーナル」紙を買収した後、ピュリツァーの「ニューヨーク・ワールド」紙のスタイルを模倣し、ワールド紙のスタッフを引き抜くなどの戦術を使い、両者の間で激しい競争が繰り広げられました。

このライバル関係が続く中で、スペイン・アメリカ戦争(米西戦争)が勃発しました。両者は、イエロー・ジャーナリズムを通じて扇情的な報道を展開し、部数増加に一役買っていました。

戦争が進行するにつれ、ピュリツァーは「戦争ほど新聞社に利益をもたらすものはない」と言い放ち、ハーストも「戦争が起こらなければ、私が戦争を起こす」と豪語するなど、両者は戦争報道において競争心を燃やしていました。

イエロージャーナリズムの影響力と「人類初のメディア戦争」

米西戦争(1898年)はイエロージャーナリズムの影響が強く、戦争が引き起こされた背景にはメディアの力が大きく関与していました。米西戦争は、「人類初のメディア戦争」とも言われています。

American Experience | PBS/YouTube
スペイン帝国の没落とキューバ・フィリピンの独立運動

南北戦争終結後の米国は、国内の分裂を回避し、西部開拓時代が始まり、経済的な発展を遂げました。

対照的に、スペイン帝国は海上覇権を喪失したものの、キューバやフィリピンなどの植民地を維持していました。19世紀後半、キューバとフィリピンでは独立運動が起きていました。

キューバでは、反スペイン感情が高まり独立戦争が開始され、革命軍が次第に優勢になりました。米国は、キューバの革命軍に好意的であり、一部の富裕層は米国に介入して秩序回復を求める者もいました。

マッキンレー大統領の外交戦略とアメリカの膨張主義者たちの要求

しかし、マッキンレー大統領は戦争のリスクや経済的なコストを懸念し、外交手段で問題を解決しようと考えていました。

一方で、アメリカの世論はキューバ革命軍に好意的であり、アメリカの膨張主義者たちはマッキンレー大統領に対し、干渉してキューバへ侵攻するよう要求しました。

メディアの力と報道の影響力

この時代、メディアは世論形成の重要な役割を果たし、ピュリッツァーの『ワールド』とハーストの『ジャーナル』がその代表格として発行部数を競い合っていました。

スペインによるキューバの弾圧は、当時の大衆紙にとって大衆の感情に訴える願ってもないニュース材料でした。ハーストは、戦争を新聞事業拡大の好機と捉え、戦争を煽る愛国キャンペーンを展開しました。

ハーストの戦争煽り「君は留まり絵を描け。私は戦争を準備する」

1897年、ウィリアム・ランドルフ・ハーストは画家フレデリック・レミントンをキューバに派遣し、スペイン人の残虐行為を描いた絵を送るよう命じました。

しかし、現地は戦争の気配がなく平穏であったため、レミントンは戦争が起きそうにないと報告し、帰国を希望しました。ハーストは「君は留まり絵を描け。私は戦争を準備する」と返電しました。

その後、ハースト系の新聞は「アメリカ婦人を裸にするスペイン警察」の記事をスクープしましたが、これはまったくの捏造だったとされています。

アメリカを戦争へと駆り立てたメイン号爆発事件を巡る報道

1897年、アメリカはキューバ在住の米国人を保護するために戦艦メイン号をハバナ港へ派遣しました。

そして、1898年2月15日、キューバのハバナ沖でアメリカ海軍の巡洋艦メイン号が突然爆発し、沈没するという決定的な事件が発生、この事故で250名の乗組員が死亡しました。

アメリカでは大騒ぎになりましたが、南北戦争を終えたばかりで、事態の推移に対して慎重な態度を取っていました。しかし、納得がいかず、反乱軍かスペインの仕業だと考えられていました。

政府が躊躇している間に、アメリカの二大新聞、ハースト系の「ジャーナル」紙とピュリッツァー系の「ワールド」紙が、戦端を開くきっかけとなりました。

彼らは「リメンバー・ザ・メイン」をスローガンに、開戦ムードを連日煽り始めました。

捏造とスキャンダルが戦争を呼ぶ

メイン号の事件が発生した後、ハーストとピリッツァーはスペイン軍によるキューバ人への拷問やレイプなどの捏造された話を大量に報道しました。

ハーストは、この将軍をハバナの”虐殺者”と呼び、社説ではキューバへの干渉と合併を主張しました。

1898年には、ハーストはさらに過激な行動に出て、ワシントン駐在のスペイン大使のマッキンレー大統領に対する批判的な個人書簡を盗んで公開しました。

この事件により、アメリカ国内では反スペインの世論が高まり続けました。

ついに、マッキンレー大統領はアメリカ国内の介入への圧力に抵抗できなくなり、議会は戦争宣言を採択しました。

NBC News Learn/YouTube
メディアの力とアメリカの勢力拡大

この戦争の結果、キューバは独立を達成しましたが、アメリカの影響下に置かれました。

また、フィリピンとグアムはアメリカの植民地となり、アメリカの国際的な勢力拡大を図るきっかけとなりました。この戦争は、アメリカが世界の大国への道を歩み始めた時期を象徴するものであり、新聞の影響力を強く感じさせる出来事でした。

「事故か謀略か?」メイン号事件の真相

1898年2月15日、アメリカ海軍の戦艦メイン号がキューバのハバナ港で爆発し、沈没しました。この事件は、当時のアメリカの新聞、特にピュリツァーとハーストが率いる新聞が、スペインによる攻撃として報道し、米西戦争への道を開く大きなきっかけとなりました。

およそ50年後、海軍はメイン号の艦体を引き揚げ、調査を行いましたが、スペイン人によって艦が爆破された形跡は見つからなかったとされています。

その後の調査では、爆発の原因はおそらくボイラーか武器庫で起きた事故であるとされ、石炭貯蔵庫の自然発火が原因であるという説が広まりました。

爆発の原因に関する証拠は、矛盾が多く、決定的なものはありません。

一説では、ピュリツァーやハーストをはじめとする財界や軍、政界が開戦の口実を作るための大掛かりな謀略があったともされていますが、確証は得られていません。

イエロージャーナリズムを反省した2人の新聞王

戦争の後、ハーストとピュリツァーは報道のあり方に対する反省から、ジャーナリズムのプロフェッショナリズムや報道の質の向上を目指すようになりました。

両者は、イエロー・ジャーナリズムが引き起こした問題を自省し、ジャーナリストには高い倫理観と誠実さが求められるべきだという考えを持つようになります。

ピュリツァーは、その思いを具現化するために、1903年にコロンビア大学に200万ドルを寄付してジャーナリズムスクールを創設し、ピュリツァー賞を設立しました。

この賞は、優れたジャーナリズムを称え、報道の質を向上させることを目指す取り組みが始まるきっかけとなりました。

一方、ハーストも報道の質を重視するようになり、彼が設立したハースト・コーポレーションは、多くの新聞や雑誌、テレビ局などを所有するメディア帝国へと成長しました。

ハーストは、報道機関の多様性と情報の正確性を重視するようになり、報道のあり方に対する態度が変わっていったことが伺えます。

これらの取り組みにより、ハーストとピュリツァーは、報道の質の向上とジャーナリズムのプロフェッショナリズムを推進し、現代のジャーナリズムやメディアに大きな影響を与えることになりました。

CNN/YouTube

新聞王:ハーストをモデルにした映画『市民ケーン』

『市民ケーン』(Citizen Kane)は、1941年に公開されたアメリカの映画で、オーソン・ウェルズが監督・主演・共同脚本を務めました。

この映画は、フィクションの新聞王チャールズ・フォスター・ケーン(オーソン・ウェルズ)の生涯を描いており、彼の死後、彼が遺言で言及した「ローズバッド」という謎の言葉を巡ってジャーナリストたちが調査を進める構成となっています。

『市民ケーン』は、新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルとしていると広く認識されており、ハーストの私生活や仕事ぶりを描いた部分があることで、物議を醸しました。

ハーストは映画の公開に反対し、彼が所有するメディアでの宣伝を禁じるなど、映画の成功を妨害しようとしました。しかし、このことが逆に映画の注目度を高める結果となりました。

『市民ケーン』は、その革新的な映像技法や物語性、演技、音楽などが高く評価されており、映画史上最も偉大な作品のひとつとされています。

また、映画はメディアの権力や個人の野心、富や名声の虚しさなど、さまざまなテーマを扱っており、その普遍性から現代にも受け継がれる作品となっています。

Movieclips Classic Trailers/YouTube
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