【戦艦大和(5)】今どこに?元乗組員と研究者が挑む探索の物語

戦艦大和――日本海軍が誇った世界最大の戦艦。その名は、日本の歴史や文化に深く刻まれており、多くの日本人にとって特別な存在として語り継がれています。しかし、この巨大な戦艦の最期は、東シナ海の深海に沈むという悲劇的なものでした。

時が経つにつれ、その沈没地点や遺構の探索が繰り返され、多くの元乗組員や研究者たちがその謎を解明しようと挑戦してきました。本記事では、過去の探索から最新の調査まで、戦艦大和の沈没の謎に迫る詳細な経緯とその成果について紹介します。

【戦艦大和(4)】終焉の航海…天一号作戦と大和最後の戦い。
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テレビカメラが捉えた海底の巨大戦艦大和の艦姿……。かつて世界最強を謳われ、連合国に「幻の大戦艦」と恐れられた巨艦に何が起ったのか。名著『戦艦大和ノ最期』の著者吉田満と大和研究の第一人者原勝洋が、日米資料を駆使し、昭和20年春の沖縄大和特攻作戦を再現する。NHK特集「戦艦大和探索」の資料原本。(「BOOK」データベースより)

Deep sea exploration

海の底に眠る伝説…大和の真実を探る旅

広島県呉市/YouTube

戦艦大和は、第二次世界大戦の激戦を経て、鹿児島県の房総岬沖で永遠の眠りにつきました。この巨艦は北緯30度22分17秒、東経128度04分00秒の地点、約350メートルの海底にその姿を隠しています。この場所は多くの研究者や歴史愛好家にとって、深い興味と尊敬の対象となっています。

実は沈没した大和が鹿児島県枕崎市沖で「発見」されたのは戦後、潜水調査が行なわれた昭和57年のことでした。この発見は、日本の歴史や海洋考古学において、非常に重要な意義を持つものとなりました。

戦艦大和の沈没位置調査

戦艦大和の沈没後、乗組員の生存者を中心にした調査が戦後数年後に開始されました。この調査の目的は、大和の最終位置や沈没の詳細を明らかにすることでした。

「1980年の初調査」

1980年、米国海軍と海底油田探査の協力を得て、音波検出と磁気検出技術を使用して、海底に大和に似た物体が発見されました。しかし、調査中に台風が襲来し、詳細な確認作業が中断されました。

NHKの取り組み

NHKは、戦争終結の35周年を記念する特別番組の放送2年前から、大和の沈没位置に関する情報の収集を開始しました。生存する乗組員や戦艦大和会の会長石田恒夫氏、戦史学者原勝洋氏からの情報を基に、米海軍が保持していた「YAMATO」と題されたマイクロフィルムを参照し、大和の沈没位置を特定しました。

探索の詳細

1980年7月10日、二隻の船を使用して探索が行われました。しかし、悪天候や機器の故障などのトラブルに見舞われ、詳細な確認作業が難航しました。それでも、水深350から400メートルの地点で、海底の異常な突起を発見しました。

探索の結果

この探索は1980年8月15日に放送され、日本国内で2000万人以上が視聴しました。多くの反響が寄せられ、多くの人々が「大和」の姿を見たいという期待を持ちました。

「1981年の挑戦」

第一回の捜索の後、2か月が経過した頃、前田(日本沿岸工事)、三井(NHK)、村井(海洋科学技術センター)、神田(筆者)の4人は、第二回の捜索計画を立て始めました。しかし、今回はNHKの関与がなく、資金調達の問題が浮上しました。それにも関わらず、前田社長は自らの資金で船をチャーターすることを決意しました。

探索の参加者

戦艦大和会の石田会長や神戸大学理学部の伊勢崎修弘助教授など、前回の探索に参加したメンバーに加え、新たに長崎市の水中テレビメーカー、(株)海研の森好一社長も加わりました。

探索の経緯と結果
  • 1981年4月28日:探索隊のメンバーが長崎市に集結。
  • 4月30日:第二次探索隊が長崎港を出発。
  • 5月1日:現地到着後、慰霊の黙とうを行い、花束を投下。その後、浮標の設置と魚群探知機を使用した調査を開始。
  • 5月2日:水中テレビを使用して海底を調査。しかし、カメラが故障し、低気圧の接近により作業が中断。
  • 5月3日:悪天候により探索が困難となり、船は浮標の位置から大きく流された。
  • 5月4日:悪天候が続く中、探索隊は長崎港に帰投。
探索結果

探索隊は海底の写真を撮影することに成功しましたが、それは「大和」の本体ではなく、上部構造物のようでした。戦艦大和は容易に姿を見せてはくれないことが再確認され、探索隊は再び挑戦を続けることを決意しました。

「1981年夏の再挑戦」

昭和56年(1981)の夏、過去二度の探索行での失敗を教訓に、探索隊は再び戦艦大和の探索を開始しました。この回では、年間で最も平穏な気象の時期を選び、一般からの参加を募り、最新の機材を導入することを決定しました。

探索の参加者と協力企業

石田恒夫氏を通じて、国会議員で構成されるオールド・ネイビー・クラブを中心とした戦艦大和探索会が結成されました。また、古野電気(フルノ)が探索に協力し、魚群探知機やソナーなどの先進的な機材を提供しました。

探索手法
  1. 潜水調査:潜水艦や潜水士を使用して、海底の戦艦大和を直接調査。
  2. 音響機器:探信儀や聴音機を使用して、戦艦の音や音響信号を探知。
  3. 磁力探知:磁探を使用して、戦艦の存在や位置を推定。
  4. 魚群探知機:海底の物体や障害物の探知。
フルノの役割

フルノは、当時ロランCという航海装置を製造していた企業で、探索において以下の4つの重要なミッションを担当しました。

  1. 大和沈没の推測位置の決定。
  2. 推測位置を中心に沈船反応の探索。
  3. 沈船反応のデータ収集。
  4. 水中ビデオカメラの操船誘導。
探索結果

330mの海底で船影を撮影することに成功しましたが、それが戦艦大和であるという確証は得られませんでした。

「1985年の大和発見」

1985年、戦後40年目の節目として「海の墓標委員会」が組織され、より本格的な調査が行われることとなりました。

探索手段

イギリスの潜水艇「バイセス2号」を使用し、3日間の再調査が実施された。フルノからは、前回参加の笹倉氏、葉室氏、岡本氏、そして新たに遠藤氏の4名が参加。

探索結果
  • 三次元ソナーを使用して北緯30度43.17分、東経128度04.00分のポイントで海底を探索。340mの海底で眠る船体を確認。
  • 船体の詳細な情報、沈座状況などを三次元で捉えることに成功。
  • 有人海底探査船による調査を開始。艦尾付近、スクリュー、船体の状態などを確認。
  • 7月31日、2度目の潜航で大和の主砲弾、甲板、アンカー・チェーン、日章旗掲揚ポール、そして菊花紋章を発見。これにより、沈没物が戦艦大和であることが確定された。
発見の瞬間

「パイセスII」のジョン艇長は菊の紋章を発見した際に、「ルック! エンペラーズシンボル! ジス イズ ヤマト!」と叫んだ。この発見は、1945年4月7日の沈没から40年後のことであり、戦後40年の鎮魂のための探索となりました。

遺品の引き揚げ

「海の墓標」委員会の尽力により、初めて一部の遺品が引き揚げられた。遺品は19点に及び、乗組員の靴、スイッチ切替盤、移動式ライト、滑車、平リング、卓上電気スタンド、高角砲の薬きょう、25ミリ機銃の薬きょうなどが含まれていた。

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沖縄特攻作戦に散り、三千余名の将兵とともに東シナ海に眠る戦艦・大和、四十年目の発見―。一九八五年夏の「海の墓標委員会」による、沈没位置の確認から戦没者の鎮魂・慰霊にいたる、戦艦大和探索の完全ルポルタージュに加え、大和の元乗組員百人の証言、建造時の設計秘話など、データとドキュメントで構成する巨大戦艦のすべて。太平洋戦争・悲劇の軍艦の姿が今、甦る。(「BOOK」データベースより)

「1999年の大和プロジェクト99」

1999年(平成11年)8月、テレビ朝日の「大和プロジェクト99」が東シナ海の戦艦大和の水中探索を実施。開局40周年記念特別番組として放送されることとなりました。

探索手段
  • 水深1000mまで潜水可能な最新鋭の潜水艇を使用。
  • フランスの「オーシャン・ボイジャー号」のクルーによる探査。
  • 元乗組員や遺族も同行。
探索結果
  • 海底350mに眠る戦艦大和の全貌を撮影成功。
  • 艦首の菊花紋章、主砲塔、スクリューなどの映像を取得。
  • 遺品を計81点引き揚げ。その中には、銅製窓枠、25ミリ機銃の薬きょう、乗組員の靴底、電極子、薬品のボトル、ビールびん、スイッチ切替盤、公室用内装材(真鍮製)、碍子、ラッパ、電気スタンド台などが含まれていた。
メディアへの影響
  • 朝日新聞全国版の1面を2度にわたって飾るスクープとなった。
  • 「ニュースステーション」や朝日新聞で連日報道され、大きな話題を集めた。
  • 同年10月に特別番組『よみがえる戦艦大和』として放映。ゲストの立花隆氏や松本零士氏の涙が視聴者に大きな反響をもたらした。
展示

引き揚げられた遺品の一部は、呉の「大和ミュージアム」で展示されています。

2016年「呉市の戦艦大和調査」

2016年(平成28年)5月、呉市が10日日をかけて戦艦大和の現状を高解像度で撮影し、主要部分について計測を行うための調査を実施。

調査手段
  • 調査船「新日丸」(697トン)を派遣。
  • 男女群島の南176キロで無人潜水探査機を使用。
  • 音響測位装置とデジタル映像を活用。
調査結果
  • 世界最大級の「46センチ主砲塔」の側面に取り付けられた測距儀を確認。
  • 主砲塔は逆さの状態で、水深約350メートルの海底に存在。
  • 大和ミュージアムのジオラマとの比較で、爆発の穴のサイズが従来より大きいことが判明。
  • 調査範囲は、船体を中心に南北400メートル、東西450メートル。
  • 主砲の火薬缶が至る所に散見された
  • 約50時間の映像と約7,000枚の写真を撮影。艦首部や主砲塔等の鮮明な撮影に成功。
遺品の引き揚げ
  • 計18点の遺品を引き揚げ。その中には、主砲用火薬缶、測距機、ボイラー部品などが含まれていた。
  • 最新の機材の進歩により、最大200キロまでの遺品の引揚げが可能となった。
今後の展望

この調査後、呉市は潜水調査結果の解析・検証を進める予定であり、その進行に合わせて、同市の「大和ミュージアム」等で映像やその他の潜水調査結果を順次公開する計画としている。

朝日新聞デジタル/YouTube
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新発見・未発表の「戦艦武蔵の艦上写真」から、大和型戦艦の不明部分判明。2016年5月に行われた、GPS連動の潜水撮影で、詳細な海底配置が明らかに。崩壊が進む「戦艦大和」の貴重な映像資料を満載。(「BOOK」データベースより)

艦大和の沈没から見る戦争の悲劇と平和の重要性

戦艦大和は、日本海軍の誇りとも言える巨大な戦艦であり、その沈没は多くの日本人にとって大きな悲劇として記憶されています。時代を経て、その沈没地点と遺構の探索が繰り返され、多くの調査団がその姿を明らかにしようと努力してきました。

昭和56年(1981年)の初めての大規模な探索から、2016年の呉市による最新の調査まで、技術の進化とともに、戦艦大和の詳細な姿やその沈没の状況が明らかにされてきました。各調査は、先進的な技術や機材を駆使して行われ、その都度、新たな発見や知見が得られました。

特に、映像や写真による記録は、戦艦大和の実像を私たちに伝える貴重な資料となっています。これらの調査により、大和の沈没の状況や、その時の悲劇の実態がより詳しく知られるようになりました。

今後も、これらの調査結果を基に、戦艦大和の歴史やその意義を後世に伝えるための取り組みが続けられることでしょう。大和の沈没は、戦争の悲劇を私たちに思い起こさせ、平和の重要性を再認識させるものとなっています。

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大和型戦艦主要全写真+大型図面。 主要論文4編+松本ノート。 カラー口絵「海底に眠る大和」「海中の戦艦長門」 「呉市海事歴史科学館展示の『10分の1大和』建造経過」 「特攻出撃前の大和の最後の姿」(「Books」出版書誌データベースより)
【戦艦大和(6)】呉市と戦艦大和の歴史旅行!「大和ミュージアム」で学ぶ海事史

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