【戦艦大和(4)】終焉の航海…天一号作戦と大和最後の戦い。

太平洋戦争中、日本が進めていた数々の作戦の中で、大和の存在は常にその先頭に立ち、多くの戦場でその力を発揮しました。しかし、戦局が悪化する中で、日本海軍は大和を中心とした最後の大規模な作戦に出る決断を下します。

この最後の航海は、絶望的な戦局の中での日本の意地と誇りを示すものであり、多くの兵士たちが家族や恋人に別れを告げ、命を懸けてこの任務に挑みました。大和が進む先には、圧倒的な数の敵艦隊が待ち構えていましたが、乗組員たちはその巨大な艦を守るため、そして日本のために最後まで戦う覚悟を決めていました。

今回は、その最後の航海の背景や状況、そしてその戦いでの英雄的な瞬間や悲劇的な瞬間を詳細に探るとともに、大和の最後の航海が日本の戦争史、さらには日本人の心にどのような影響をもたらしたのかを考察していきます。

【戦艦大和(3)】太平洋の戦火の中で…大和の戦時下での運用とその衝撃的な戦歴
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テレビカメラが捉えた海底の巨大戦艦大和の艦姿……。かつて世界最強を謳われ、連合国に「幻の大戦艦」と恐れられた巨艦に何が起ったのか。名著『戦艦大和ノ最期』の著者吉田満と大和研究の第一人者原勝洋が、日米資料を駆使し、昭和20年春の沖縄大和特攻作戦を再現する。NHK特集「戦艦大和探索」の資料原本。(「BOOK」データベースより)

Battleship Yamato’s Final Day

戦艦「大和」最後の日

Yamato.

1945年1月、新たに編成された第二艦隊に、戦艦大和が旗艦として指名されました。この新しい艦隊は、日本海軍の残存する艦艇を中心に編成され、最後の防衛線として期待されていました。

第二艦隊の主要な目的は、日本本土の防衛と、アメリカの進撃を食い止めることでした。大和がその旗艦として選ばれたことは、その象徴的な存在と、戦力の高さが評価されていた証左です。しかしながら、この時期、日本海軍の全体的な戦力はすでに大きく弱体化していました。

太平洋戦争後期、日本は連合国との戦争の継続において、資源や物資の不足、技術的な遅れ、人員の減少など多くの問題に直面していました。そのため、第二艦隊の設立は、厳しい状況の中での最後の抵抗ともいえる試みであった。

この時期の大和や第二艦隊の活動は、日本が持っていた限られた資源と戦力を最大限に活用しようとする努力の一環であり、国の存亡をかけた決意の表れでした。た。

瀬戸内海空襲と大和の生存

1945年3月19日、瀬戸内海の静寂は、アメリカ軍の艦載機による急襲によって破られました。この襲撃は、日本海軍の主要な停泊地である瀬戸内海を対象としており、その目的は日本の艦隊を無効化し、太平洋における支配をさらに強化することでした。

瀬戸内海の空襲では、15,000発もの砲弾が放たれ、多くの日本艦船がその炎の中で損傷を受けました。しかし、その中で、巨大戦艦・大和は無傷でその日を乗り越えることができました。これは、大和が持つ圧倒的な対空防御システムと、訓練された乗組員の熟練した技術によるものでした。

この瀬戸内海での空襲は、太平洋戦争における連合軍の戦略の一部であり、日本海軍をさらに弱体化させることを目的としていました。この攻撃を受けた後も、大和はその任務を続行することとなり、最終的には天一号作戦での出撃となります。

慶良間諸島:沖縄戦の鍵となる要点

1945年の春、太平洋戦争は終結に向けての大きな局面を迎えていました。その中心となる戦場は、日本の最後の砦とも言える沖縄での戦闘でした。

沖縄戦は、連合国と日本軍の間で繰り広げられる激しい戦闘となりましたが、その最初の一歩として、1945年3月26日にアメリカ軍が慶良間諸島(けらましょとう)への上陸を果たすこととなりました。

慶良間諸島は、沖縄県那覇市から西方約40㎞の位置にある島群で、沖縄本島から比較的近い距離に位置しています。この地理的位置から、アメリカ軍は慶良間諸島を沖縄本島への上陸の前哨基地として利用することを決定しました。

慶良間諸島の占拠はアメリカ軍に様々な恩恵をもたらしました。

  1. 前線基地の確保:島群は、沖縄本島への侵攻を行う前の前線基地として機能しました。
  2. 艦隊の安全な停泊地:慶良間諸島の占拠により、連合国の艦隊は安全な停泊地を確保することができ、日本軍の自爆ボートや航空攻撃からの保護も得られました。
  3. 補給・給油地点の提供:連合国の艦船や航空機は、慶良間諸島を補給・給油の地点として利用し、長期にわたる沖縄戦をサポートしました。

このように、慶良間諸島の占拠は、沖縄戦の進行において重要なステップであり、その後の戦闘の方向性を決定づける出来事となりました。

「天一号作戦」と「菊水作戦」の展開

1945年の太平洋戦争末期において、日本は連合国からの空襲による被害を連日受けていました。特に3月10日の東京空襲は日本の国民に大きなショックを与え、アメリカ軍の本土への上陸が近いのではないかという不安が一層高まった。

この緊迫した状況の中、1945年3月26日にアメリカ軍は慶良間諸島に上陸を果たし、沖縄戦の火蓋が切られました。日本側はこの状況を打開するために「天号作戦」を発動させました。

「天号作戦」は、日本が連合国軍の本土上陸を阻止しようとする本土防衛作戦の一部で、その中でも特に「天一号作戦」と「菊水作戦」が注目されます。

「天一号作戦」

「天一号作戦」は、「大和」を利用して、敵艦隊を九州地域に引き寄せ、日本本土からの空襲で撃退を試みる作戦でした。

「菊水作戦」

一方、「菊水作戦」は、沖縄戦を背景に沖縄周辺の海域で連合軍艦隊に対する特攻航空攻撃を行うもので、この名前は武将楠木正成の旗印「菊水」に由来しています。

これらの作戦は、日本が太平洋戦争での敗北を避けようとする最後の努力の表れでした。激しい戦闘と多くの犠牲が伴い、日本の歴史の中で重要な出来事として記憶されています。

「天一号作戦」中の『大和』の動き

「天一号作戦」の一環として、大和は豊後水道を通って九州の佐世保に進出する命令を受けました。そして1945年3月28日、大和は呉から出航しました。しかし、その日にアメリカ軍が九州南部地域を空襲したため、作戦は中止となり、大和は一旦、広島湾に停泊することとなりました。

しかし、日本の戦局はさらに厳しさを増しており、敵の沖縄戦への進出を阻止するための新たな作戦が練られました。

「大和」出撃…日本海軍の最後の闘志

1945年4月5日、「大和」の甲板は、緊張に満ちた乗組員で埋め尽くされていました。この日、第二艦隊司令長官の伊藤整一中将より前代未聞の重要な命令が下されました。

この命令により、日本海軍の象徴である「大和」を中核に、第一遊撃部隊および軽巡「矢矧」率いる第二水雷戦隊を組み込んだ特別攻撃隊「海上特攻隊」の結成が決定。4月8日早朝、沖縄の西方海上への突入が命じられたのです。

この作戦の目的は、アメリカ軍の艦隊や輸送船団を撃破し、沖縄への上陸を防ぐことでした。しかし、沖縄はこのときすでにアメリカ軍の猛攻を受けており、アメリカ軍は日本本土への進行路としての沖縄を確保するため、50万の兵員や2,000隻もの艦船を集結させ、沖縄を固く封じていた。そして1000機を超える戦闘機による攻撃が繰り返されていました。

この絶望的な状況下での出撃は、乗組員たちに生還はほぼ不可能という現実を突きつけました。

さらに、「大和」は沖縄の浅瀬に乗り上げても動かざる砲台と化し、最後の一発まで戦うことを求められました。これは日本海軍の最後の力の全てを注ぎ込むという意味合いがあり、勇敢でもありながら絶望的な作戦でした。

それでも出撃命令を受けた「大和」の乗組員たちは、自らの命を犠牲にしてでも日本を守る覚悟を持ってたとされています。

「大和」は日本海軍の誇りであり、その存在と役割は戦時中の日本のシンボルでした。それでもなお、この特攻作戦に日本は最高戦力である「大和」を送り出す決断が下をしました。これは、アメリカ軍の前進を止め、日本の領土を守るための最後の手段といえます。

「大和」出撃…最後の準備と未来の士官たち

出撃前の「大和」は、乗組員たちの慌ただしい活動で賑わっていました。特攻、すなわち自爆攻撃の命を受けた彼らは、全てを捨てる覚悟で最後の準備を進めました。燃料の補給、船内の不要な物の撤去、さらには乗組員自身の私物や身だしなみに至るまで、徹底的な準備が進められました。そして、多くの乗組員が、家族や親しい人々への最後の手紙を書いていました。

未来の士官たちの選択

しかし、中には特攻に参加しない者たちもいました。それは、73人の海軍士官学校の生徒たちでした。彼らは、未来の日本を担う存在として、この絶望的な任務から外されました。彼らには、戦後の日本の再建という大きな役割が待っていました。この決定は、どんな状況下でも未来を失ってはならないという日本軍の思いを表しています。

出発の瞬間

1945年4月6日の15時20分、沈む太陽のもと『大和』率いる10隻の艦隊が山口県徳山市の三田尻沖から静かに出発しました。大和の他、矢矧や冬月、涼月、磯風といった艦艇が隊列を組んで進行しました。この壮大な艦隊は、日本海軍のプライドともいうべき存在でした。

伊藤司令官の訓示は「神機将ニ動カントス。皇国ノ隆替懸リテ此ノ一挙ニ存ス。各員奮戦敢闘、全敵ヲ必滅シ、以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ」。この言葉は、その任務の重要性と、乗組員たちへの信頼と期待を伝えました。

米潜水艦の発見

しかし、艦隊が豊後水道に近づいた時、米潜水艦に発見されるアクシデントが発生します。この瞬間、艦隊の運命は大きく動き始めました。しかしながら、大和は揺るがず、定められた進路を進み続けました。それは、その任務の重要性と、彼らの覚悟を示すものでした。

筒抜けの大和

実はこの作戦は、アメリカ海軍の高度な情報収集と解析技術によって早い段階で把握されてしまっていました。

アメリカ海軍は、戦争の進行とともに日本陸軍の暗号を次々と解読。特に「天号作戦」の準備に際しては、通信情報の監視を通じて日本の動向を詳細に掴んでおり、大和を旗艦とする第二艦隊の10隻が突入作戦を4月5日と6日に実行することを、出撃前から知っていたのです。

米軍偵察機の発見

アメリカ側は、日本の出撃予定であった4月5日と6日に、その動きを確認。特に、4月6日午前には山口県徳山沖で準備を進める大和を米軍偵察機が明確に捉えていました。この時の写真には、大和の左舷に、戦闘に備えて不要物を陸揚げする作業を行っている様子が詳細に記録されています。

米潜水艦の追跡

さらに、大和率いる艦隊が豊後水道を通過する頃には、米軍の潜水艦「スレッドフィン」と「ハックルバック」による追尾が始まりました。これらの潜水艦は、艦隊の速度についていけず攻撃こそ行わなかったが、艦隊の動向を数時間にわたり監視し続け、詳細な進路や動きを米軍にリアルタイムで報告していました。

アメリカ第5艦隊の対応

このような情報から、スプルーアンス提督は大和艦隊の出撃時期と目的を予測しました。これに基づいて、4月6日午前12時30分、つまり大和とその護衛艦隊が出航する前に、部隊に攻撃の準備を命じました。この迅速な対応は、アメリカ軍が日本の艦隊に対して優位に立つ要因となりました。

豊後水道を突破…敵潜水艦に立ち向かう

4月7日は、大和艦隊にとって運命的な日となりました。朝の静寂を背に、艦隊は大隅海峡を通過。この日の航行形態は『矢矧』を先頭に『大和』を中心とする輪型陣であり、駆逐艦の『雪風』は大和の左後部、約1500メートルの位置に配備されました。この隊形は、艦隊が一つの団結した力を持って前進する姿を示していました。

しかし、この日の航行は平穏なものとはいかなかった。午後7時20分ごろ、豊後水道を抜けると、前方には敵の潜水艦の姿が。この脅威に対応するため、艦隊はジグザグ航進や之字運動など、潜水艦の魚雷を回避するための複雑な動きを採用しました。この動きは、艦隊が敵からの攻撃を回避し、同時に目的地へと無事に到達するための重要な手段でした。

予定通り、艦隊は一旦西進し、その後南下して沖縄に向かう航路を取りました。しかしこの航行中、鹿児島県薩摩半島沖での出来事が艦隊の運命を大きく変えることとなる。4月7日午前8時15分、突如としてアメリカ軍機の姿が現れました。わずか25分後の8時40分には、大和艦上からも米軍の航空機の編隊を明確に視認することができました。そして、午前10時すぎ、ついに米哨戒機との接触が確認されました。

この接触は、大和艦隊にとって進行中の作戦を大きく左右するものとなり、これ以降の航行がどのような結末を迎えるのか、多くの乗組員たちの間で緊迫した空気が流れ始めました。

1945年4月7日、大和最後の日

1945年4月7日。朝の静寂を背に、大和率いる艦隊は大隅海峡を通過。この日の航行形態は『矢矧』を先頭に『大和』を中心とする輪型陣で、駆逐艦の『雪風』は大和の左後部、約1500メートルの位置に配備されました。この隊形は、艦隊が一つの団結した力を持って前進する姿を示していました。

しかし、この日の航行は平穏なものとはいきませんでした。午後7時20分ごろ、豊後水道を抜けると、前方には敵の潜水艦の姿が…。この脅威に対応するため、艦隊はジグザグ航進や之字運動など、潜水艦の魚雷を回避するための複雑な動きを採用しました。この動きは、艦隊が敵からの攻撃を回避し、同時に目的地へと無事に到達するための重要な手段でした。

その後、予定通、艦隊は一旦西進し、その後南下して沖縄に向かう航路を取りました。しかしこの航行中、鹿児島県薩摩半島沖での出来事が艦隊の運命を大きく変えることになりました。

4月7日午前8時15分、突如としてアメリカ軍機の姿が現れました。わずか25分後の8時40分には、大和艦上からも米軍の航空機の編隊を明確に視認することができました。そして、午前10時過ぎ、ついに米哨戒機との接触します。

この接触は、大和艦隊にとって進行中の作戦を大きく左右するものとなり、これ以降の航行がどのような結末を迎えるのか、多くの乗組員たちの間で緊迫した空気が流れ始めました。

12時34分「坊の岬沖海戦」

その静寂は突如として破られました。空から近づいてくる約150機の米軍機の接近を察知した、大和艦隊は緊急に対空戦闘陣形へと移行し、巡洋艦や駆逐艦が大和を中心として固まり、ぐるりとその周りを囲む形になりました。

そして12時34分、遠くの空での小さな点が徐々に大きく、鮮明になってきました。それはおよそ150機もの米軍機の編隊でした。艦上の兵士たちも、この巨大な敵の接近を知り、心臓の鼓動が高鳴る中、一刻も早く戦闘態勢を取るよう指示が出されました。

続く瞬間、大和の巨砲が一斉に火を噴き、その砲火は敵機群に向けられました。天と海の間を埋め尽くすような米軍機の編隊と、それに立ち向かう日本艦隊の大砲の閃光。

これが後に坊ノ岬沖海戦 (ぼうのみさきおきかいせん)と名付けられた戦いの始まりでした。

空の中心で、大砲の雷鳴のような砲声と、敵機の爆撃や銃撃の音が鳴り響き、その光景はまさに地獄絵図のようでした。艦上の乗組員たち、そして周囲を囲む巡洋艦や駆逐艦の兵士たちも、自らの命を守るため、そして祖国を守るために、一糸乱れず戦闘を繰り広げました。

壮絶な戦い!大和最後の戦い

真上から襲い来る敵機に主砲での迎撃は困難で、艦上の乗組員たちは高角砲や機銃を駆使して必死の防衛戦を繰り広げました。

次第に激しくなる米艦載機の攻撃。「大和」だけでなく、随伴していた艦艇も激しい攻撃にさらされました。その結果「矢矧」をはじめとする艦艇は次々と沈没へと追い込まれました。

劣勢の大和への攻撃

「大和」もまた、戦闘機180機、爆撃機75機、雷撃機131機を含む計386機(一部の記録では367機)という大群の敵機の前に次第に劣勢となっていきました。

艦尾への急降下爆撃

4機の爆撃機が急降下爆撃を実行し、500キロの爆弾を用いて大和の後部マストを破壊しました。炎上の影響で、敵機の位置が判別し難くなりました。

魚雷攻撃

続いて、魚雷隊の攻撃があり、大和の左右から合計9本の魚雷が命中。さらなる攻撃により、計29発の魚雷が命中し、特に左舷への命中により、重大な損害を受けました。

艦の状況の悪化

これらの攻撃の結果、大和は大きく傾き、速度も大幅に落ちました。その上、甲板上の対空火器も失われ、13時25分には通信設備が機能しなくなりました。

連続的な攻撃

13時42分には、米軍機の連続的な波状攻撃が実施され、1000ポンド爆弾をはじめ、魚雷やその他の爆弾が命中しました。

艦内の混乱

連続する攻撃と火災により、乗組員に多数の死傷者が出ました。船体はさらに傾き、主砲や副砲の射撃が行えなくなった。また、舵の操作が不可能となり、艦内は大混乱に陥りました。

大和に致命的な一撃…沈没までのカウントダウン

14時10分、空母ヨークタウンからの雷撃隊の攻撃で、大和の右舷に魚雷が複数命中。艦はさらに傾斜を増し、沈没が迫る事態となりました。

この瞬間、艦上の指導者たちはそれぞれの決断を迫られました。伊藤中将は自らの命とともに艦と運命を共にし、荒賀艦長もまた、羅針盤台に自らを縛り付け、艦と共に最後を迎える覚悟を決めました。

そして、14時15分には、火災による熱上昇で前部弾薬庫の温度が上昇。警報ブザーが鳴り響きました。

戦艦「大和」沈没の瞬間

14時20分、時が止まるかのような静寂の中、大和の主甲板が途方もない速さで垂直の角度へと移動を始めました。そして、そのわずか3分後の14時23分に、前部弾薬庫が壮絶な大爆発を起こし、世界最大の戦艦「大和」の船体は2つに裂け、坊ノ岬沖の深い海の底へと静かに沈みました。

爆発の影響範囲

この爆発は、周辺の海域にいた多くの艦船や乗組員に深刻な被害を及ぼしました。その爆発によって生じたきのこ雲や火柱は、遥か遠くの鹿児島からも確認されたとの報告も存在します。

また、爆発の原因に関しては、前部弾薬庫の爆発だけでなく、機関部での水蒸気爆発が起きたのではないかという説も存在します。

さらに、沈没の際に右舷のスクリューが最後まで回転を続けていたのが海面から見えました。その中で、2番主砲の爆薬が誘爆を起こし、海に浮かぶ多くの生存者の頭上に破片が降り注ぎました。この破片により、多くの生存者が命を失ったとされています。

沈没の要因

損害には諸説あり、「軍艦大和戦闘詳報」は魚雷10本爆弾6発とする。第1遊撃部隊(戦艦1、軽巡洋艦1、駆逐艦8)の残存艦は駆逐艦4隻のみ。特に、左舷に8本の魚雷が命中したことが、『大和』沈没の決定的な要因となりました。

『大和』が受けた最終的な被害は、爆弾6発の命中、魚雷10本または14本の命中というものでした。特に、左舷に8本の魚雷が命中したことが、『大和』沈没の決定的な要因となりました。

爆弾6発、魚雷10本、あるいは14本とも言われる命中。特に左舷に集中して命中した8本の魚雷が、『大和』の運命を決定づけました。大きく左に傾斜していく大和は、遂にその誇り高き船体を海の底に沈んでいきました。

懐かしの昭和そして時々平成/YouTube

戦果とその壮絶な被害

「大和」が記録した戦果は、撃墜3機、撃破20機とされています。しかし、その勇猛な戦いにもかかわらず、大和は壮絶な被害を受けました。「沈没(戦死艦長以下2498名)」という冷徹な記録がそれを物語っています

呉市海事歴史科学館の記録

呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)の調査によれば、乗組員の正確な人数は3,332人。そのうち3,056人がこの戦で命を落とし、生き残ったのはわずか276人、全体の1割にも満たない数でした。

生き残った乗組員の葛藤

生き残った乗組員は戦後、心の中に深い傷を抱えながら生きてきました。「なぜ、自分だけが生き残ったのか」という答えの出ない問いかけが、彼らの心を常に苛んでいました。

船とともに沈んだリーダーたち

大和の指導者たち、伊藤中将と荒賀艦長は、この戦で船とともに沈みました。それぞれの献身的な働きを称えて、荒賀艦長は死後に中将に、伊藤中将は大将に昇進されました。大和の生存者の中で、最も高い階級を持っていたのは伊藤の参謀長、森下信光少将でした。

「片道分の燃料」伝説の真相

「大和」の名は、数々の逸話や伝説とともに語り継がれています。その中でも、特に有名な話として「大和やそれに随伴する艦艇が片道分の燃料で出撃し、帰還の意図がなく、特攻作戦を敢行した」というものが挙げられます。

しかしこの話、実は事実ではありません。戦後の一部の人々の間で、この作戦をより悲劇的に、あるいは壮絶なものとして描写しようという動きがあり、その結果としてこのような伝説が生まれ、拡散されたと考えられます。

実際の燃料状況

実際には「大和」は約4000トンの燃料を積んで出撃しました。この量は本土から沖縄へ、そして再び本土へと帰還するのには十分な量でした。また、同行した他の艦船も燃料をしっかりと満載して出撃していました。事実、生き残った駆逐艦が佐世保に帰還しており、これは燃料が片道分しか搭載されていなかったならば、絶対に不可能な事態です。

なぜこのような話が生まれたのか?

原因は連合艦隊司令部の帳簿上の燃料量との関連が考えられます。司令部の記録によれば、出撃の際、使用可能な燃料は片道分しかありませんでした。しかし、実際の状況は異なっていましたた。その理由として「帳簿外燃料」が挙げらます。

帳簿外燃料とは

これは、重油タンクの底部に残る燃料のことを指しています。この燃料は、通常の燃料としての在庫とはみなされていなかったのです。しかし、この「帳簿外燃料」を全て集めると、それはかなりの量となり、帳簿に記録された数字よりも実際の燃料の量はずっと多かったのです。そして、呉鎮守府機関参謀の指示により、この燃料が収集され、艦艇は満載の状態で出撃することができたのでした。

対空だらけ!?ハリネズミ化していた大和

日本海軍の連合艦隊は、レイテ沖海戦で壮絶な戦闘を経験し、壊滅的な打撃を受けました。戦いを経て生き残った艦艇は、本土に戻り、最終的な防空対策としての対空兵装の強化を行いました。特に戦艦「大和」は、呉軍港でその対空兵装を増強し、文字通りハリネズミのような姿になりました。

「大和」の兵装は、その重厚さで知られていました。主砲の次に装備されていたのは60口径15.5 cm3連装砲で、合計で4基12門が装備されていました。しかしながら、艦隊決戦が望めなくなったマリアナ・レイテ沖海戦を経て、この15.5 cm副砲の多くが取り外されました。その代わりとして、多数の高角砲や機銃が追加装備されました。

特に注目すべきは、25 mm3連装機銃です。沖縄特攻時にはこの3連装機銃が驚異的な数、52基156門もの装備が確認されています。さらには、単装機銃が6基(6門)、そして13mm連装機銃が2基(4門)装備されていたという説もあります。これらの対空火器のを大量に装備した大和は、まさにハリネズミのような状態でした。

kinsei1560/YouTube
「大和」の燃料不足と呉軍港の空襲

ハリネズミ化された大和だったが、燃料不足で動きを封じられ、呉軍港で待機していました。しかし、1945年3月19日の米空母機による呉軍港への大規模空襲に日本の戦局をさらに難しいものにしました。

「大和」自体はこの空襲時に安芸灘に出撃しており、直接の被害を免れました。しかしその後の状況は、呉軍港の安全性が極めて低くなり、徳山沖への疎開が必要となりました。さらに、米軍は呉軍港や広島湾に大量の機雷を敷設、これにより「大和」の呉軍港への帰還が困難になりました。

このような状況下、日本の指導部は「大和」の持つ巨大な火力をどのように活用するかという問題に直面しました。一部の指導者や軍人たちは、沖縄を守るための「大和」の出撃を強く主張しました。既に連合軍の進出が日本本土に迫る中、沖縄の防衛は日本の最終防衛線としての役割を果たしていたためです。

一部の説によれば、これらの事情や状況を背景に、沖縄特攻作戦の計画が具体化し加速されたと言われています。

九州沖の海底345mに眠り続ける

大和の沈没地点は九州の坊ノ岬沖、約90カイリの位置でした。具体的には北緯30度22分、東経128度3分と、北緯30度43分、東経128度04分の間、長崎県の男女群島・女島から南方176キロの地点にありました。水深は約345mの地点で、船体は深く沈んでいます

沈んだ船体の状態

大和の船体は、艦首が北西(方位310度)を、艦尾部が東(方位90度)を向いています。右舷を下にした艦首部から一番副砲まで、そして転覆状態の三番主砲塔基部付近から艦尾までの部分は、その原型を保っています。しかし、中央部はその原型を留めておらず、一つの大きな起伏となっています。艦の中央部は艦尾や艦首の70メートル南に転覆し、艦の一部は半分泥に埋もれた状態で沈んでいます。

乗組員の運命

大和の乗組員は、最期を迎える際、船と共に沈んでいきました。第二艦隊司令の伊藤長官や有賀艦長を始めとする乗組員たちは、今も沈んだ「大和」の中で静かに眠っています。彼らの犠牲は、日本海軍の歴史や太平洋戦争の記憶の中で、今も忘れられないものとなっています。

海軍戦艦の時代の終焉を告げる

「大和」の沈没は、太平洋戦争の終盤における象徴的な出来事として、歴史の中で特別な位置を占めています。日本が戦争を通じて極めて多くの資源を注ぎ込んで建造したこの巨大艦は、日本海軍の技術力と国の意気込みを体現していました。

しかし、太平洋戦争の進行とともに、航空機の優越性が明らかになり、戦艦という艦種の限界が露呈してきました。特に、ミッドウェイ海戦での航空機による戦艦の撃沈は、戦艦中心の戦術の脆弱性を示すものでした。

「大和」の沈没は、その象徴的な瞬間ともいえるものでした。最後の任務である沖縄特攻作戦中に、アメリカ海軍の航空機による集中攻撃を受け、乗組員とともに海の底へと沈みました。

この出来事は、大和型戦艦の技術的な優越性やその壮大な姿が、航空機の時代には勝てないことを示す象徴となりました。それは同時に、大規模な海軍戦艦を中心とした艦隊戦術の時代が終わりを迎え、航空母艦を中心とした新しい艦隊戦術の時代が始まったことを意味しています。

大和の沈没は、戦艦の終焉だけでなく、戦争の進行とともに変わる戦術と技術、そしてそれに伴う時代の移行を示す歴史的な出来事として、多くの人々に記憶され語られ続けています。

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