太平洋の荒れ狂う海を舞台に、大和はその巨大な姿で多くの戦いに臨みました。それはまるで古の巨大な神が現れたかのような畏怖を持って迎えられました。友軍にとっては、その背後に立つ安心感として、敵軍にとっては圧倒的な脅威としての存在でした。
しかしその実態はどのようなものだったのでしょうか?。大和がどれほどの戦果を上げたのか、その歴史的背景や戦術的な意義についても、この章では詳しく解説していきます。太平洋戦争における大和の役割と、それがもたらした影響についての真実を、一緒に追体験してみましょう。
【戦艦大和(2)】驚異の火力と防御!大和の主砲、副砲、そして革命的な防御設計
Yamato and the Pacific War
「巨艦の航跡」大和と太平洋戦争
「大和」型戦艦は、1941年12月16日に完成しました。
連合艦隊の旗艦としての大和
「大和」の完成から約2ヶ月後の1942年2月12日、日本海軍の最高指揮官である山本五十六提督が、この新鋭戦艦を連合艦隊の旗艦として指名しました。
旗艦とは、艦隊を指揮する提督や司令官が乗艦し、指揮をとる船を指します。旗艦が選ばれると、その艦上から作戦や戦術が指示されるため、通常はその艦隊の中でも最も信頼性と戦闘能力が高い艦が選ばれます。
山本五十六提督と「大和」
山本提督は、日本海軍の中でも特に有能な指揮官として知られ、その戦略眼と先見の明は多くの人々から評価されていました。彼が「大和」を旗艦として選んだことは、その信頼性と戦闘能力、そして「大和」が持っていた象徴的な価値を示していました。山本提督は、その後の作戦や戦術を「大和」の艦橋から指揮し、日本海軍の先頭に立って戦いました。
「大和」の役割:連合艦隊旗艦の重要性
「大和」が連合艦隊の旗艦として指名されたことは、日本海軍の戦意高揚や士気向上にも繋がりました。その巨大な姿と強力な武装は、日本の技術力と誇りを象徴する存在として、多くの兵士や市民に希望と勇気を与えたのです。
「大和」が旗艦として果たした役割は以下の点で、その役割の深さと重要性を理解することができます。
1. 指揮の中枢
- 旗艦としての「大和」は、艦隊全体の指揮中枢として機能しました。山本五十六提督らの指示は、「大和」の艦橋から出され、艦隊の各艦へと伝達されました。
- 連合艦隊の神経中枢としての「大和」の動きや決断は、艦隊全体の作戦成果に影響を与えました。
2. 調整とコミュニケーション
- 「大和」は、戦艦、巡洋艦、駆逐艦などの各艦の動きを調整する重要な役割を持っていました。
- 高度なコミュニケーション能力と調整力が求められ、これが艦隊作戦の成否に直結しました。
3. 象徴的存在
- 世界最大・最強の戦艦としての「大和」は、日本の軍事力と威信を体現していました。
- 敵からは、艦隊の士気を低下させるための主要な標的と見なされました。
4. 乗員への影響
- 「大和」の乗員は、複雑な戦艦操作のための高度な技術と訓練を受けていました。
- 連合艦隊旗艦としての「大和」の乗員は、高い技量と規律、常時の警戒が求められました。
5. 作戦への影響
- 連合艦隊の中枢としての「大和」は、各作戦における艦隊の動きや配置に大きな影響を与えました。
- 「大和」が関与する各作戦は、艦隊の成功や失敗が日本の軍事的運命に影響を与える重要なものでした。
「大和」の試験航海とミッドウェー海戦への参加
1942年5月27日、世界最大の戦艦「大和」はその試験航海を完了しました。この試験航海は、艦が実際の戦闘での使用に先立って、その性能と能力を検証するためのものでした。
試験航海の目的
大和の試験航海の主な目的は、エンジン、推進システム、武器システムなど、艦の全ての要素が設計通りに動作することを確認することでした。これには、艦の最高速度のテストも含まれました。さらに、乗員はこの機会を利用して、艦とそのシステムに慣れるための練習を行いました。
速度の検証
試験航海中に大和が達した最高速度については、様々なソースで異なる情報が伝えられています。公式の記録によれば、28.33ノットを記録した一方で、別の試験航海では27.4ノットに達したともされています。一部のソースでは、大和の設計上の最高速度は30ノットであるとされていますが、実際の達成速度は27ノット前後であったようです。
ミッドウェー海戦へ
試験航海を完了した直後、大和はミッドウェー海戦に向けて出航しました。この海戦は、太平洋戦争中の重要なターニングポイントとなった戦闘であり、大和はこの戦いで連合艦隊の旗艦としてその能力を示す機会となりました。
ミッドウェー海戦と「大和」の役割
ミッドウェー海戦は、1942年6月4日から6月7日までの間に太平洋で行われた歴史的な海戦で、太平洋戦争の流れを決定的に変える出来事となりました。
戦闘の背景
この海戦は、日本とアメリカの艦隊が直接対決する形となり、結果として太平洋戦線の戦局を大きく変動させました。特に、航空母艦が中心となる航空戦であり、航空戦力の優越が勝敗を大きく左右しました。
アメリカの情報戦術
アメリカは日本の暗号通信を解読することに成功し、日本の作戦の詳細を事前に入手することができました。これにより、アメリカ軍は戦術的な優位を確立し、日本艦隊に対して効果的な奇襲攻撃を実施することが可能となりました。
日本の損失
ミッドウェー海戦における最大の打撃は、日本の主力航空母艦の損失でした。この結果、日本の海軍の航空戦力は大幅に低下し、戦局のバランスは明確にアメリカ側に傾きました。
大和の役割
「大和」は日本の連合艦隊の旗艦として、ミッドウェー海戦において重要な役割を果たしました。しかし、大和自体はこの戦闘には直接参加していません。この海戦は航空中心の戦いであり、大和のような戦艦は主戦場から離れた位置で待機していました。山本五十六提督の指揮の下、大和は艦隊の指揮中心として活動していました。
戦後の影響
ミッドウェー海戦の結果、日本の太平洋戦線における優越性は失われました。アメリカの連合軍はこの勝利をもとに、太平洋での反攻を開始し、これが最終的に日本の敗北に繋がっていきます。
大和の役割の変遷「1943年」
1943年2月11日は、太平洋戦争の中で日本の超大型戦艦「大和」の歴史において特筆すべき日でした。この日、大和は、その姉妹艦である「武蔵」と旗艦の役割を交代しました。
乾ドックへ
大和は、役割が交代した後、乾ドックに移されました。ここでは、船体の検査や必要な修理が行われるのが一般的でした。この期間中、前艦長である森下信英が再び大和の指揮を執りました。
新しい役割
旗艦の役割を失ったものの、大和はそれで役立たずとなることはありませんでした。新たな役割として、主に海軍基地間の移動、修理、あるいは改装等の業務が主となりました。
武蔵の活動
驚くべきことに、新たな旗艦となった武蔵も、この期間中、大きな戦闘や作戦には実質的に参加していませんでした。これは、日本海軍の戦略や資源の配分、さらには戦局の変動等、多くの要因が影響していると考えられます。
大和戦艦の装甲と1943年の魚雷攻撃
大和戦艦、日本海軍の誇る超大型戦艦でありながら、その装甲設計には予期せぬ弱点が隠されていました。
アメリカの潜水艦からの攻撃
1943年12月25日、USS Skateというアメリカの潜水艦からの魚雷攻撃を受ける事態が発生しました。その魚雷は大和の右舷後方に命中。命中地点は大和の側面装甲で、その装甲ベルトは厚さ41cmもの鋼材で構成されていました。
装甲ベルトの損傷
しかし、魚雷の衝撃により、、側面の厚さ41cmの装甲ベルトは爆発的な圧力を受け、支持鋼材の接合リベットが裂けてしまいました。
これにより装甲が内側に押し込まれ、まるで郵便受けの蓋のような状態となりました。さらに、支持鋼材の突き出た端が内部の防水障壁に穴を開け、内部に浸水が発生しました。
浸水の総量は約3,000トンに達し、バルジコンパートメント、重要部位(主防御コンパートメント)、および第三主砲の上部火薬庫に影響を及ぼしました
幸い、大和には「注入排水システム」という防御システムが搭載されていました。このシステムのおかげで、一方向からの攻撃がない限り、魚雷の損傷は最小限に留められました。
魚雷の衝撃の影響
大和の強力な装甲も関わらず、魚雷の爆発による衝撃の強さを軽視してはなりません。特に、側面装甲の支持鋼材の配置に問題があったため、想定以上の損傷が発生したのです。
大和戦艦の1944年の修理と改修
1943年12月の魚雷攻撃から回復し、1944年1月末に呉に帰還した大和戦艦は、約1ヶ月間のドライドック期間中に、多数の修理と改修を受けました。これらの変更は、対空防御の向上を目的としていました。以下に、主な改修点を詳述します。
副砲の2門解除
大和の副砲のうち2門が取り外されることとなりました。この措置は、艦の総重量を軽減し、艦の機動性や他の性能を向上させるためのものでした。
対空砲と対空機銃の追加
既存の対空防御システムを強化するために、新たな対空砲と対空機銃が大和に追加されました^1^。これにより、敵航空機に対する防御力が一段と増強されました。
レーダーシステムのアップグレード
大和の既存のレーダーシステム、通称「電波探知」または「電子探知」が改良されました。この進化により、敵航空機の検出や追跡の精度が大幅に向上し、状況認識と応答の速度が大幅に向上しました。
南方への再出動
これらの改修を受けた大和は、空中からの脅威に対してさらに堅固な存在となりました。この修理と改修は、進化する戦時の状況に対応し、大和の生存能力を維持・向上させるための重要な取り組みでした。
その後、大和はその先進的な能力を活かして、1944年の戦局に応じて南方へと再び出動しました。南方エリアは、日本海軍の主要な活動範囲であり、重要な資源地域として連合軍との間で熾烈な戦闘が繰り広げられていました。
マリアナ沖海戦(フィリピン海海戦)と大和戦艦
1944年6月15日、太平洋戦争の大局を決するともいえるマリアナ沖海戦が始まりました。この海戦は『あ号作戦』として知られ、帝国海軍がアメリカ海軍の南下を食い止めるための最後の大規模作戦となりました。
日本艦隊の中核として大和はこの戦闘に参加。その堂々とした姿は、日本艦隊の象徴ともいえる存在でした。しかし、アメリカ海軍の空母艦隊が展開する強大な航空攻撃の前に、日本艦隊は手をこまねいている状態となり、苦しみました。
大和は多くの航空攻撃を受けたものの、その強固な装甲により大きなダメージを受けることはありませんでしたが、その他の日本艦船は痛烈な打撃を受けました。
空母「大鳳」、「翔鶴」、「飛鷹」など、日本の主力艦が次々と沈没、さらに、ベテラン搭乗員を中心とする航空機多数が失われるなど、帝国海軍の航空戦力は大幅に削減されてしまいました。
これにより、アメリカ海軍の太平洋での優越性が決定的なものとなり、戦局の大きな転換点となりました。
大和は、太平洋での日本の存在を示すためその力を全て発揮しようとしました。しかし、航空機の時代において、どれほど巨大で堅固な戦艦であっても、航空攻撃の脅威からは逃れることはできなかったのです。
レイテ沖海戦(比島沖海戦) (1944年10月)
マリアナ沖海戦の後、『大和』は呉に帰還するが7月には南方に進出する。44年10月18日、『捷号作戦(しょうごうさくせん)』発動により出動。一連のフィリピン沖海戦(レイテ沖海戦)に参加。
『捷号作戦』とは
『捷号作戦』は、日本帝国海軍が実行したフィリピン沖海戦(レイテ沖海戦)に関連する作戦です。この作戦の発動は、アメリカとの間の力の均衡を再び取り戻すための日本の最後の大規模な試みでした。
レイテ湾海戦の概要
1944年10月23日から26日にかけてのレイテ湾海戦は、第二次世界大戦中の太平洋戦域での最も重要な海戦として位置づけられています。この海戦は、日本と連合国の戦局を大きく左右するものとなりました。
大和の参戦
大和戦艦はこの戦闘で中央艦として参加しました。彼女は敵艦数隻に対して攻撃を仕掛けましたが、日本海軍はアメリカ艦隊との接触を果たせず、期待された成果を上げることができませんでした。
戦闘の影響
- 日本海軍の大損害: 日本海軍は多くの艦船と乗員を失いました。連合軍の前進を阻止するための試みは失敗しました。
- 日本の戦略的地位の低下: 日本は連合軍の進撃を食い止められなかったことにより、敗北がほぼ確定しました。
- 連合国のフィリピン侵攻: 連合国はフィリピンにさらに侵攻し、太平洋での地位を強固にしました。
- 日本海軍の航空母艦能力の喪失: 日本海軍の航空母艦能力は事実上喪失し、連合軍の航空母艦に対する優越性がさらに固定されました。
特筆すべきは、日本の主力戦艦である『武蔵』が、シブヤン海で沈没したことです。これは日本海軍の重大な損失として、戦局の大きな転換点となりました。
大和戦艦のその後の役割
マリアナ沖海戦やレイテ沖海戦では、大和の主砲はほとんど活躍することがありませんでした。特にマリアナ沖海戦では、大和は対空戦闘に終始し、その威力を発揮する機会がありませんでした。
しかし、比島沖海戦の際、サマール島沖での米護衛空母部隊との交戦で、大和は敵艦に対して砲撃を行いました。これは大和が実際に敵艦に対して主砲を使用した唯一の時でした。
大和戦艦の最期とその使命
レイテ湾海戦後の大和は、大きな損傷を受けることなく呉に帰還しました。その後の修理と整備を受けて、瀬戸内海にて待機していました。この待機は、新たな戦術の策定や、連合軍の動向を注視する時期でした。
レイテ湾海戦の意義
レイテ湾海戦での大和の参加は、日本の最後の反撃の一部としての位置づけがされていました。しかし、その結果は日本海軍にとって大きな打撃となりました。
多くの艦船が失われ、連合軍の前進を止めることができない結果となったのです。大和も、この海戦での大きな活躍の場は持たなかった。
大和の最終的な使命
1945年4月、大和は最後の使命として「天一号作戦」に参加することとなります。この作戦は、大和を含む艦船を連合軍に向けて特攻攻撃させるというものでした。
大和は、艦載機の攻撃を受けつつ、目標である沖縄へと進行しましたが、多数の航空機の攻撃を受け、最終的には沈没しました。この沈没は、日本の最大の戦艦が持つ象徴性やその最後の使命を考慮すると、戦争の終結を予感させるものでした。
この特攻作戦の背後には、日本の絶望的な状況や、最後の抵抗の意味が込められていました。大和の沈没は、日本海軍の最後の矜持として、多くの日本人にとって大きな悲しみとして受け止められました。