【戦艦大和(2)】驚異の火力と防御!大和の主砲、副砲、そして革命的な防御設計

大和級戦艦は、日本帝国海軍の最高峰を示す存在でした。その圧倒的なスケールと装甲、豪華な内装、先進的な技術によって、世界の海軍力の頂点を競い合っていた時代の状況を反映しています。大和級戦艦の特徴や技術的な詳細、内部の豪華さなどについて詳しく解説します。

【戦艦大和(1)】日本の技術の頂点!大和の設計技術と建造の背後に隠された秘話
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大和型戦艦主要全写真+大型図面。 主要論文4編+松本ノート。 カラー口絵「海底に眠る大和」「海中の戦艦長門」 「呉市海事歴史科学館展示の『10分の1大和』建造経過」 「特攻出撃前の大和の最後の姿」(「Books」出版書誌データベースより)

Yamato class battleship

化け物クラス!?大和級戦艦の圧倒的スペック

Battleship "YAMATO" @ Yamato Museum
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大和戦艦は、その規模、装甲、武装、および設計において、日本帝国海軍の最高峰を示すものでした。以下に、その主要な特徴と技術的な詳細を詳しく述べます。

圧倒的なスケールと排水量

大和級戦艦は、その圧倒的なスケールと巨大な排水量によって、当時の戦艦の中でも驚異的な存在でした。その巨大なサイズと技術的な進歩は、日本海軍の力と意志を象徴し、同時に世界の海軍力のトップを競い合っていた時代の状況を反映しています。

世界最大の戦艦

大和級戦艦は、その全長263メートルと幅39メートルという驚異的な大きさによって、世界最大の戦艦として名高いです。これはその当時の造船技術の最高峰を示すものであり、その巨大さから大和型戦艦は「超戦艦」とも称されました。

排水量の大きさ

大和級戦艦の排水量は、その大きさを物語る重要な指標です。竣工時の船体試験時には約69,000トンの排水量を持ち、満載状態では約72,800トンとなりました。これは膨大な兵員、兵器、燃料、弾薬などを運び、長距離航海や戦闘を支えるために必要なものでした。

技術と力の結集

大和級戦艦の巨大なサイズと排水量は、単なる戦闘能力だけでなく、当時の日本海軍の技術力と国家の意志を示すものでした。大和級の建造は、海軍技術者や造船所の努力の結晶であり、それによって日本は海洋における強大な存在感をアピールしました。

戦略的存在

大和級戦艦の存在は、戦略的な観点からも重要でした。その巨大な火力と防御力は、海上での戦闘において強力な戦力となり、日本の軍事戦略を支える重要な役割を果たしました。

大和級戦艦のスケールと排水量は、その時代の技術と海軍力の頂点を示すものであり、その存在は日本の歴史における重要な一章として記憶されています。

大和の主砲とその威力

大和級戦艦は、その巨大な主砲によってもその存在感を際立たせました。その主砲には世界最大口径の46cm砲(18.1インチ砲)が使用され、その火力と射程は圧倒的でした。

3連装砲塔の配置

大和級戦艦は、前甲板に2基の3連装砲塔を搭載し、後甲板に1基の3連装砲塔を配置して計9門の46cm砲を持っていました。これによって、船首から船尾にかけての広範囲に砲火を浴びせることが可能でした。

砲身の起源

大和の主砲身は、長さ20.7メートル、重さ166トンのもので、これは1938年にドイツから輸入されました。その技術的進歩によって、砲弾の威力と射程を最大限に引き出すことが可能となりました。

威力と射程

46cm砲の威力は、弾径の3乗に比例しています。そのため、41cm砲と比べて威力は大きく向上し、飛距離も長かったため、艦隊決戦において大きな有利さをもたらしました。砲塔の下には弾薬庫や給弾システムが配置され、これによって継続的な発射が可能でした。

破壊力

46cm主砲から発射される砲弾の破壊力は驚異的で、射程距離によってもその攻撃力は変わりました。例えば、射程距離3万mでは垂直鋼板を41.6cm、水平鋼板を23cm打ち抜くことができ、その破壊力は敵戦艦や要塞をも容易に打ち砕くものでした。

発射の確実性

主砲の発射時の爆風は非常に強力であり、乗員の安全を確保するために発射のタイミングは慎重に計画されました。そのため、発射の際には乗員に周知され、命中の確実性を高めるための注意が払われました。

副砲と対空火器

大和級戦艦の火力は主砲だけにとどまらず、副砲や対空火器も充実していました。

口径15.5cmの3連装砲塔

口径15.5cmの3連装砲塔が4基(最終的には2基)搭載されていました。この副砲は、射程と散布界の両面で優れた性能を持っており、主に対水上戦闘に使用されました。この砲は軽巡洋艦用の主砲を流用しており、大和型戦艦以外にも大淀型軽巡洋艦の主砲としても採用されました。

口径40cmの12.7cm連装高角砲

口径40cmの12.7cm連装高角砲を12基搭載していました。これらの砲は対空火器として使用され、敵機や敵艦船への対抗手段として重要な役割を果たしました。

25mm機銃

25mmの3連装機銃が52基、単装機銃が6基搭載されていました。これらの対空機銃は、近接防空用として敵の航空攻撃に対抗するために使用されました。25mm機銃は、高い発射速度と命中精度を持ち、多くの弾丸を同時に発射することができました。

13mm連装機銃

13mmの連装機銃も2基搭載されていました。これらも対空火器として使用され、敵機の接近を阻止する役割を果たしました。

大和型戦艦の副砲と対空火器は、主に対水上戦闘と対空防御に使用されました。これらの火器の組み合わせによって、大和級戦艦は多岐にわたる戦闘状況に対応できる多面的な火力を備えていました。

戦艦「大和」の対空兵装は、航空攻撃に対抗するために強化され、特にマリアナ沖海戦後に対空兵装の増強が行われました。航空主兵主義が台頭する中で、対空火器は艦艇の生存性と戦闘力を向上させる重要な要素となりました。しかし、大和型戦艦は航空攻撃により撃沈される運命を免れることはありませんでした。

対潜能力と爆雷装備

大和型戦艦は、意外にも水中に潜む潜水艦を攻撃するための能力も備えていました。

九五式爆雷

大和型戦艦には、九五式爆雷10個が搭載されていました。これは潜水艦を攻撃するための対潜兵器であり、水中に潜んだ潜水艦を追い詰めるために使用されました。特に「武蔵」では、艦尾のジブクレーン付近に爆雷投下台を設置しており、潜水艦攻撃の能力を一応持っていました。

しかし、実際には爆雷攻撃の実行にはいくつかの制約がありました。水中聴音室が第一主砲塔に近かったため、主砲が旋回するとその騒音で水中聴音室が正確に機能しないなどの問題が報告されています。

また、対潜兵器としての爆雷は、潜水艦を探知して攻撃するためには相当な技術と情報が必要であり、大和型戦艦がそのような状況で使用されることは限られていたと考えられます。

大和型戦艦の爆雷装備は、その多様な戦闘状況に対応しようとする試みの一環であり、潜水艦に対する対処能力を備えていたことが示されています。

巨大な探照灯とその役割

大和型戦艦の特徴的な補助兵器の一つとして、巨大な口径150cmの探照灯が挙げられます。これは世界最大の艦載用探照灯であり、射撃の補助や夜間作戦時の視界確保に使用されました。

大和型戦艦は左右に4基ずつ計8基の150cm探照灯を備えており、その明るさは驚異的でした。重巡洋艦の110cm探照灯ですら「1万m先で、本が読める」ほどの明るさを持っていたとされていますが、大和型の150cm探照灯はさらにその明るさを超えており、陸上用の探照灯としても使用されたことから、その威力が伺えます。

一部の資料によれば、150cm探照灯は1万2000m程度までの距離で有効な照射が可能だったとされています。

これらの巨大な探照灯は、射撃時や夜間の戦闘において、敵の位置や動きを確認するために重要な役割を果たしました。また、軍港などの基地でも防空用に使用され、大和型戦艦の兵装の一環として戦局の変化に応じて多様な任務に投入されました。

大和型戦艦の装備した巨大な探照灯は、その存在感と実用性において、艦の戦術的な活動を支える重要な装備品であったことが伺えます。

「大和」の防御力と装甲設計の特徴

「大和」の戦艦は、その堅固な装甲によって特筆されました。以下に「大和」の防御力と装甲設計の特徴について詳しく解説します。

装甲の厚さと配置
  • 垂直装甲: 410mm
  • 水平装甲: 230mm
  • 甲板: 200~230mm
  • 舷側上部: 410mm
  • 舷側下部: 50~200mm
  • 主砲塔正面: 650mm、天井: 270mm
  • 主砲弾薬庫を守る装甲: 340mm
設計目的とバイタルパートの耐性

装甲は、自身の主砲である46cm砲の射撃に耐えるよう設計されました。特にバイタルパートは、射距離20,000~30,000mから発射される46cm砲弾に耐えるように配置されました。

排煙装甲の効果

排煙装甲として、煙突内部の基部に蜂の巣状の穴を開けた380mm厚の装甲板を配置しました。これにより、煙突から飛び込んでくる敵の砲弾に対して防御が施され、防御力が向上しました。

木甲板の利用

表面を木製の甲板で覆った部分もありました。この木甲板は直射日光による表面温度上昇を避け、乗組員の快適さを向上させるためのものでした。艦首錨甲板、後部、レール甲板を除く範囲に及びます。

主砲塔の弱点と防御

の主砲弾薬庫を守る装甲が第1および第3主砲塔の手前には薄く、水平に傾斜しているため、敵の攻撃に命中すれば轟沈する可能性がありました。ただし、通常の戦闘ではこの部分が直撃されることは少なかったとされます。反航戦以外では問題はないでしょう。

水中防御の課題

一方、「大和」は水中防御が劣っていた面もありました。1943年にはアメリカ潜水艦の雷撃を受けてしまい、その限界が露呈しました。この部分の強化が今後の課題となりました。

このように「大和」の防御力は、その装甲の厚さや配置、排煙装甲などによって、優れたものでしたが、一部の弱点も存在しました。装甲設計は理論的にも実際の数字においても世界一であり、その優れた性能は戦艦としての存在感を強調する要因となりました。

推進システムと技術

大和型戦艦は、伝統的なタービンおよび蒸気推進システムを使用していました。この推進システムは、高温高圧の蒸気を生成し、それをタービンによって回転力に変換してプロペラを回して推進力とする仕組みです。このシステムによって、「大和」は高い出力と速力を実現し、長距離の航続距離も確保できました。

蒸気生成とタービン回転

12基のロ号艦本式罐(重油専焼)を使用して高温高圧の蒸気を生成しました。この蒸気は4基の艦本式タービンに供給され、タービンは蒸気の回転力を活用してプロペラを回転させました。

出力と速力

出力は15万3千馬力であり、最大速力は27ノット(約50km/h)でした。この高い出力と速力は、戦闘や航行時の機動性を確保するための重要な要素でした。

航続距離

航続距離は7200浬(約13335km)で、16ノット(約30km/h)の速力で航行した場合に実現できました。この長い航続距離は、遠距離作戦や長時間の航海において有利な特性でした。

超大型スクリュープロペラ

スクリューは、直径5メートルの超大型推進器で、3枚の翼を持っていました。これにより、大きな水流を効率的に受けて推進力を生み出すことが可能であり、戦艦の大きな船体を効果的に動かすための重要な要素でした。

この推進システムと技術は、「大和」型戦艦の優れた機動性と航行能力を支える重要な要素であり、戦局や作戦において戦艦の運用能力を向上させる役割を果たしていました。特に、超大型推進器の鋳造技術は戦後にも影響を与え、日本の鋳物技術の基盤となる重要な技術の一翼を担いました。

測距儀の革新!「大和」の15メートル測距儀

「大和」型戦艦は、その先進的な技術により、戦闘時における正確な目標の測距を可能にするために、世界一の大きさと性能を持つ15メートル測距儀を搭載していました。この測距儀は、艦隊の戦術的な優位性を確保するための重要なツールとして活用されました。

大きさと性能

大和」の15メートル測距儀は、その巨大なサイズと優れた性能により、世界一の測距儀とされました。この大型測距儀は、遠距離の目標でも高い精度で距離を測定することができました。

三連装式

15メートル測距儀は、2組の上下像合致式とステレオ式の三連装式で構成されていました。この組み合わせにより、目標を複数の角度から観測し、正確な測距を行うことが可能でした。ステレオ式は、両目の位置からの視差を利用して距離を計算する方法であり、高度な測距精度を提供しました。

戦術的利用

測距儀は戦闘時において敵艦隊の位置や距離を正確に把握するために使用されました。これにより、「大和」は遠距離からでも目標の位置を把握し、戦術的な判断や攻撃計画を立てる際の重要な情報源となりました。

このように「大和」の15メートル測距儀は、その先進的な設計と性能により、戦闘時における正確な測距と戦術の実行を支える重要な装置でした。この測距儀は戦艦の優れた火力と装甲とともに、戦局において「大和」の戦闘力を高める要因となりました。

豪華絢爛!?戦艦大和の内部

「大和」の建造にあたり、艦内の設備や内装には細部にわたるこだわりが見られました。この巨大戦艦は単なる戦闘兵器だけでなく、国家の威信や誇りを象徴する存在であるという意識が反映されていたのです。

内装の豪華さ

艦内の内装は、細部まで洗練されたデザインと高品質な素材で飾られていました。士官用の居住区や指揮官の部屋は特に豪華で、木材や彫刻、照明などが贅沢に施されていました。

乗組員たちの舌を魅了する食事

大和は強大な火力や装甲だけでなく、豪華な食事文化においても独特の存在でした。

昼の時間、大和型戦艦の食堂に響く賑やかな声。磨き上げられた黒塗りの膳の上には、香ばしく焼かれた鯛の塩焼きや、新鮮な刺身が並び、さらには冷えたビールが供されました。これはただの食事ではなく、乗組員たちへの特別な待遇の一つでした。

大和型戦艦はその名の通り、日本海軍の誇りとも言える巨大な艦船であり、そこに暮らす乗組員の生活環境もまた、他の艦船とは一線を画していました。艦の内部は先進的な技術と設備で満ち溢れており、その中でも特に食糧の備蓄は豊富で多彩でした。

冷凍冷蔵庫にはさまざまな食材が保存されており、艦内ではそれを用いて日々の食事を提供していました。しかしこれだけではなく、艦内には食材を製造するための設備も充実していました。

納豆やこんにゃく、もやしといった一般的な食材から、うどんや豆腐といった日本食の基本、そしておはぎや汁粉といった伝統的なデザート、さらにはラムネやアイスクリームまで、乗組員たちは多種多様な食事やデザートを楽しむことができました。

戦時中の豪華な「オマケ」?ラムネとアイスクリーム

ラムネ製造機は、その巨大な存在だけでなく、特定の付属設備により注目を浴びていました。しかし、その製造機は大和型戦艦だけの特別なものではありませんでした。実は、巡洋艦以上の大型艦にも同様の設備が搭載されていたのです。とはいえ、このラムネ製造機の存在には裏話があります。

もともとこの設備は、ラムネを作るために作られたものではありませんでした。実際には、火災時に使用する二酸化炭素消火設備の一部として搭載されていたのです。艦内、特に閉鎖された空間での火事は非常に危険であり、二酸化炭素を消火手段として使用することは、現代においても一般的な方法として採用されています。

戦時中、日本陸海軍では暑い時期に砂糖水が支給されることがありました。この砂糖水に二酸化炭素を加えると、簡単にラムネが作れたのです。特に大和型戦艦には、大型の二酸化炭素消火設備が搭載されており、1日に最大で5000本ものラムネを製造することが可能でした。

戦時中、甘いものは非常に貴重だったため、暑さと塩辛い風の中を航行する船員たちにとって、ラムネはまさに涼しさと甘さのオアシスとなりました。その人気は絶大で、船内での販売時には瞬く間に売り切れてしまったと言います。

また、冷凍室も備えられており、この冷凍室を活用してアイスクリームも作られていました。戦時中の厳しい環境下でも、このような小さな贅沢が船員たちの士気を高め、日常の一瞬の安らぎとなっていたことでしょう。

プロのシェフが提供する絶品メニュー

その食事の品質やサービスは、戦艦という閉じられた環境の中での、一時的な安堵や贅沢を求める船員たちの精神的なサポートとなっていました。

厨房には、土地の料亭や都会のレストランで研鑽を積んだプロのシェフたちが乗り込んでいました。彼らの腕前を生かし、将校の食事は一日三回、異なるスタイルで提供されていました。朝は日本の伝統的な旅館朝食風のメニュー、昼は洋食のフルコース、そして夜は日本の伝統的な食膳が提供されていました。特に昼食時のサービスは、司令長官が食事を取る際には軍楽隊の生演奏が行われ、艦内に優雅な音楽が流れるという、他の艦船とは一線を画すものでした。

しかし、このような特別な待遇は将校だけのものではありませんでした。一般の水兵たちも、白いごはんなどの好待遇を受けていました。戦時下の厳しい状況の中でも、食事を通じて船員たちの士気を維持し、彼らに心の慰めを提供していたのです。

冷房設備の存在

当時の最先端技術を駆使した様々な設備でも注目に値しました。その中でも、特に他の乗組員から羨望の眼差しを浴びていたのが、東京芝浦電気製の冷房設備でした。

1930年代から40年代初頭の日本において、冷房設備はまだ一部の高級施設にしか設置されておらず、一般の人々にはほとんど利用できるものではありませんでした。

大和型戦艦が冷房設備を搭載した背景には、複数の要因があります。まず、日本の気候は特に夏には非常に暑く多湿であり、熱帯地方での任務も考えられていました。

これにより、船内の温度は容易に上昇し、乗組員の作業や生活に大きな影響を及ぼすことが予想されました。そのため、乗組員の快適性と健康維持を考慮して、冷房設備の導入が検討されたのです。

士官用居住区に限られていた冷房設備でしたが、それでも船員たちにとっては大きな恩恵でした。特に熱帯地方での任務中や夏の暑い季節において、冷房の涼しい風が広がる居住区は、乗組員たちの労苦を和らげ、仕事の効率や体調の維持に寄与しました。

弾薬庫の冷房は命懸け!大和戦艦の隠された安全管理術

この冷房設備にも裏話があります。

当時の日本海軍は弾薬の管理に関するさまざまな課題に直面しており、特に弾薬に起因する爆発や火災事故は重大な問題となっていました。戦艦「陸奥」の事故も、その象徴的な出来事でした。大和には膨大な量の弾薬が収められており、その安全管理は最優先される課題でした。さらに、火薬の状態が変化すると、それに伴って砲弾の性能も変わってしまいます。

火薬の性質上、温度や湿度に影響を受けやすく、それが射撃の精度や安全性に直接関わるため、弾薬庫の温度と湿度は厳格に管理することが必須でした。具体的には、弾薬庫の温度を摂氏7度から21度、湿度を80パーセント以下に保つことが求められたのです。

このような背景から、高性能な冷房設備が大和型戦艦に導入されることになり、この弾薬庫用の冷房設備の余力が士官用居住区や食材の冷蔵庫の冷房にも使用されることになりました。

この冷房の恩恵は、熱帯地方での任務や日本の暑い夏を乗り越える上で、船員たちにとって非常に貴重なものでした。

大和型戦艦のエレベーター

大和型戦艦は、その優れた設計と最新の技術を駆使して様々な設備が搭載されていましたが、その中でも注目すべき存在が艦橋に設置されたエレベーターでした。このエレベーターは、当時の船内移動の煩雑さや乗員の労力を軽減するために導入されました。

大和型戦艦のエレベーターは、中甲板から13階、露天甲板からでも10階相当の高さをカバーする、まさに巨大な仕組みでした。階段での昇降は大変な労力を必要とし、特に急いで移動する場面では不便でした。このエレベーターは、船内移動を迅速かつ楽に行えるようにするために導入されたもので、その存在は乗員たちにとって大きな恩恵となりました。

エレベーターの製造元は三菱電機で、定員は3人から5人程度でしたが、詳細な仕様については明確ではありません。当時の技術では、現代の全自動運転方式とは異なり、扉の開閉やエレベーターと乗場の床面を合わせるために加減速操作が必要な手動運転方式でした。このため、操作がやや複雑であり、乗り心地もあまり良くはなかったと言われています。

エレベーターは原則的に上級士官用の設備でしたが、特定の状況下での利用が許可されていました。例えば、艦橋横の九三式13mm連装機銃の銃弾運搬員や第一艦橋付近で待機するパイロットについては、緊急時に必要に応じて利用が認められていました。このような設計は、効率的な船内運用と乗員の安全を確保するために重要な役割を果たしました。

快適な居住スペース

大和はその巨大な規模にもかかわらず、乗員約3000人に対して比較的広々とした居住スペースを提供していました。この快適な環境は、乗員たちの生活をより良くするための努力の一環として取り入れられました。

乗員1人当たりの居住スペースは約10平方フィートであり、これは当時の日本の他の艦船、特に駆逐艦の3〜4平方フィートと比較して大きなものでした。

ほとんどの兵士にはハンモックではなくベッドが提供され、昼夜を快適に過ごすことができました。この設備は、艦内の居住環境を向上させ、乗員たちが長い航海や任務中も健康で過ごせるようにするためのものでした。また、停泊中には乗員たちにエンターテイメントやリラックスの機会も提供されました。

釣りを楽しむことや映画の上映会などが行われ、戦艦とは思えないほどの充実感が漂っていました。乗員たちの間では「ヤマトホテル」という愛称が使われ、艦内での居心地の良さやサービスの充実を象徴する呼び名となっていました。

戦艦の異名!「ヤマトホテル」と「武蔵屋旅館」

「ヤマトホテル」という愛称は、泊地に停泊し、他の艦船が出撃や作戦に忙しく従事する中、静かに贅沢な時間を過ごしている「大和」を皮肉ったものでした。

戦時中の艦船の多くは出撃や戦闘に追われており、その中で「大和」だけが泊地に留まり、豪華な内部設備を楽しんでいる様子が他の乗員からはうらやましく映ったことが反映されています。

一方、姉妹艦である「武蔵」も同様の内部環境や設備を持っており、「武蔵屋旅館」という愛称をつけられました。

建造所の違いと艦内の仕上がり

大和型戦艦の「大和」と「武蔵」は、それぞれ異なる造船所で建造されました。この違いは、艦内の内装や調度品の仕上がりにも影響を与えました。また、特に「武蔵」の方が旗艦機能が充実していたと言われています。

「大和」は海軍の呉工廠で建造されました。呉工廠は大和型戦艦の建造を担当した主要な造船所であり、日本海軍の主要な艦船が建造される場所でした。一方で「武蔵」は、民間企業である長崎三菱造船所で建造されました。長崎三菱は大型客船なども手掛けた経験があり、その造船技術を活かして「武蔵」の内装や仕上がりにも工夫が凝らされました。

特に「武蔵」の方が良かったとされる要因はいくつかあります。まず、長崎三菱が大型客船などを手掛けた経験から、内装や調度品のデザインや配置に細かな配慮が行われたと言われています。また、「武蔵」の方が司令室の広さや旗艦機能が充実していたとされ、戦術的な指揮を行うための施設やスペースがより優れていたと言われています。

陸軍の参謀“辻政信”の「ヤマトホテル」訪問

1942年9月24日、陸軍の参謀の辻政信中佐は、太平洋戦争の激戦地となっていたガダルカナル島に向かう途中に「大和」を訪れました。その時のエピソードが逸話として残っています。

当時、陸軍と海軍、それぞれ異なる文化や価値観を持っており、戦場での過酷な状況が陸軍兵士に与えるストレスと苦しみは絶大なものでした。

そのような状況の中で、陸軍の辻中佐は「よくも人力でこのような軍艦がつくれたものだ」と思わずつぶやき、主砲を見て驚き、「海軍さん、これ本当に動くんですか?」と質問したと言われています。

前述の通り「大和」は豪華な内装や設備を備えた「ヤマトホテル」として知られ、その贅沢さが他の艦船や兵士たちから羨望を集めました。辻中佐も当初、その贅沢さに対して悪態をついたのです。

しかし、後になって自分の行動を振り返り、「元帥(山本五十六)の真意を付度しえなかった恥ずかしさ。穴があったら入りたい気持ちであった」と語ったとされています。

海軍の旗艦としての役割と陸海軍の文化の違い

「大和」「武蔵」は太平洋戦争の時代において、日本の連合艦隊の旗艦として建造されました。

これらの戦艦には、単なる戦闘艦としての機能だけでなく、外交や国家主権の象徴としての役割が求められました。戦争時の軍艦は国を代表する存在であり、その外観や内装、待遇が国のイメージを世界に示す重要な要素でした。

海軍の艦船は外国に訪れる際、しばしば外交使節や要人を受け入れる役割を果たしました。

この際、最大限の供応が行われ、賓客をもてなすことが求められました。この供応は、外交的な要素とともに、国家の尊厳や威信を示す一環として重要視されました。そのため、「大和」や「武蔵」の内部設備や待遇は、その時代の日本の誇りと国際的な評価を反映していたのです。

辻政信中佐のエピソードは、陸軍と海軍の文化の違いや、戦争の中での国家の役割が浮き彫りにされています。

辻中佐は当初、「大和」の内部の贅沢さに驚きと悪態をついたものの、後にその理由や背景を知り、恥じる思いを抱くことになりました。これは陸海軍の文化の違いや、軍艦が果たす国家的な役割に対する理解の変化を象徴するものと言えるでしょう。

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