大和型戦艦「大和」は、第二次世界大戦中に日本帝国海軍が建造し、運用した最大級の戦艦である。その名前は、古くから日本の象徴とされる「大和」、即ち古代日本の原名であり、その威容は日本海軍の技術と意志を体現してました。
全長263メートル、満載排水量は約7万2千トンと、20世紀最大の戦艦として知られる超巨大戦艦。特にその主砲、46cm三連装砲を9門搭載しており、驚異的な火力を誇りました。今回のシリーズでは「大和」の設計、建造、戦歴など、その伝説的な存在に迫っていきます。
Japanese battleship Yamato
日本海軍の誇りとなった巨大戦艦「大和」の誕生
日本の海軍史において、最も記憶に残る艦といえば、大和型戦艦「大和」であることは間違いありません。第二次世界大戦中に建造された「大和」は、その規模、火力、そして技術的な革新性において、世界最大級の戦艦としてその名を刻み込みました。
「大和は」、戦時下の日本が持っていた技術力の頂点を示す存在であり、多くの人々にとっては日本の誇りともいえるシンボルとなっています。
日本海軍が建造した大和型戦艦は、第二次世界大戦時に活動した戦艦としては最大のもので、その名前は戦時中の日本の技術と意気込みを体現しており、数々の戦闘で活躍しました。
大和型戦艦!日本海軍の最後の戦艦シリーズ
大和型戦艦は、日本帝国海軍によって建造された一連の戦艦であり、その巨大なサイズと優れた火力で知られています。この戦艦クラスは、日本で建造された最後の戦艦であり、その排水量と主砲の口径の大きさによって、当時世界最大の戦艦として著名でした。
艦船の概要
- 大和(Yamato): 大和型戦艦の初の艦として、1941年に竣工しました。その巨大なサイズと強力な火力は、その存在感を象徴していました。
- 武蔵(Musashi): 2番目の大和型戦艦であり、1942年に竣工しました。大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦であり、「大和」の姉妹艦としても知られています。
- 大和姉妹艦としても知られています。
- 信濃(Shinano): 最初の2隻とは異なり、信濃は当初は戦艦として計画されましたが、その後アメリカ海軍の航空優勢を考慮して、航空母艦に改装されました。
- 111: この戦艦は大和型の4番目に計画されていましたが、1942年に建設中止となりました。
「大和」の名とその象徴
「大和」の名は、日本の古代に深く根ざしています。かつて奈良県桜井市周辺を指す名前として使われたこの言葉は、後に大和国、さらには日本全体を意味するようになりました。「大」という漢字は「偉大な」という意味を、一方「和」は「調和」や「平和」を意味します。この2つの組み合わせは、日本の理想や価値観を象徴しています。
海軍力との関連
「大和」戦艦の命名は偶然ではありません。古代の大和の精神と、その名が持つ歴史的な重みを背負い、日本海軍が世界の海上での覇権を目指す決意を体現するために選ばれました。この巨大な戦艦は、アメリカという強大な敵を前にしても、日本の意志を示す象徴として建造されました。
第二次世界大戦前夜の国際的状況
1929年10月24の暗黒の木曜日(ウォール街大暴落)により始まった大恐慌は、世界経済に甚大なダメージを与えました。失業と経済不況が拡大し、国々の政治的安定性にも影響を与えた。この経済的不安定さが、過激な政治運動や極右、極左の台頭の土壌を作りました。
ファシズムの台頭
特にドイツでは、大恐慌の影響で生じた社会的な不満を背景に、アドルフ・ヒトラーが率いるナチ党が台頭。1933年にはヒトラーが首相に就任し、急速に独裁体制を築き上げました。また、イタリアではムッソリーニがファシスト政権を樹立し、欧州の政治的風景が変わりつつありました。
先行する戦争と紛争
第二次イタロエチオピア戦やスペイン内戦は、国際連盟の失敗とともに、大国間の緊張を高めました。また、アジアでは日中戦争が勃発し、中国と日本の間に広範な戦闘が繰り広げられました。ソ連と日本の間では、ハルハ河事件やノモンハン事件などの国境紛争が続発。
第二次世界大戦の勃発
1939年、ドイツがポーランドを侵攻。これを受けて、イギリスとフランスはドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まりました。これに続き、多くの国々が戦争に巻き込まれ、世界規模の戦争が繰り広げられました。
戦後の影響
戦争は1945年に終結しましたが、その後の世界秩序は大きく変わりました。ユーラシア大陸の大部分を掌握したソビエト連邦と、経済・軍事両面で力をつけたアメリカ合衆国との間に冷戦が始まり、新たな国際的緊張が続くことになりました。
日本の海軍拡張政策と戦艦建造の目的
日本は明治維新以降、西洋の先進国を手本として近代化を進めました。産業の近代化に伴い、経済の成長とともに資源への需要も増大しました。これが日本の帝国主義的な野望の背後にある大きな要因となったのです。
海軍力の重要性
日本は、海上の国際的なシーレーンを確保し、資源や市場へのアクセスを保持するために強力な海軍が必要だと考えました。特に、日露戦争や第一次世界大戦後、海上の覇権をめぐる競争が激化する中で、日本は自国の利益を守るための海軍の強化を急速に進めました。
西洋列強との対抗
20世紀初頭、アメリカやイギリスをはじめとする西洋列強は、アジア太平洋地域での影響力を増大させていました。これに対抗するため、日本は自らも海軍を強化し、地域における優越性を確立しようとしました。
孤立からの脱却と自己主張
長らく鎖国政策を採用してきた日本は、明治維新以降、積極的に国際舞台での役割を拡大しようとしました。列強に取り残されないため、また西洋列強からの圧迫を避けるため、自らの力をつけることが急務となった。
これらの背景をもとに、日本は「大和」を建造することを決定しました。この巨大戦艦は、日本の技術力と意志、そして海上での覇権をめぐる決意を体現していました。
大和型戦艦の建造背景
1922年、世界は第一次世界大戦の終結から数年が経過し、各国は戦時中の膨大な軍事費の削減と新たな軍備競争を防ぐための方策を模索していました。この背景の中で、主要な海軍大国であったアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの5ヵ国がワシントンで集まり、「ワシントン海軍軍縮条約」が調印されました。
この条約は、参加国の戦艦と巡洋艦の建造と保有量を制限することを目的としていました。特に日本は、アメリカやイギリスに比べて経済力が劣っていたため、5:5:3の比率で制限を受けることとなりました。具体的には、アメリカとイギリスがそれぞれ5という主力艦のトン数を持てるのに対して、日本は3という量しか保有できないという内容でした。
8年後の1930年、新たに「ロンドン海軍軍縮条約」が締結されました。この条約では、補助艦船についての新たな制限が追加され、更なる海軍軍縮が進められました。
これらの条約の影響で、日本は多くの新型艦の建造をキャンセルし、既に建造中であった艦船も一部が廃棄されることとなりました。これにより、日本海軍は一時的にその拡大を抑制されることとなったのです。
日本の課題と対応
条約により、アメリカやイギリスと同じ数の主力艦を建造することが制限された日本は、国力の差を強く意識するようになりました。特に、将来のアメリカとの紛争を見越した海軍の戦略上、数的な不利を補うための手段を模索する必要がありました。
この結果、数量ではなく質での優位を追求する戦略が採用されました。トン数の制限を回避するため、各艦の性能強化や、ロンドン条約の制約を受けない小型艦の改装を進める方針が採られました。
海軍軍縮条約の期限切れと新しい戦艦の動向
1934年2月8日、連合艦隊司令長官の高橋三吉大将は戦艦扶桑の視察中に、「50,000トンの戦艦2隻でも、航空機の開発遅れからアメリカがパナマ運河に対抗できないかもしれない」と述べました。
この頃、1937年にロンドン海軍軍縮条約の期限が切れることを見越し、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアなど西洋の主要国では新型戦艦の建造が活発化していました。特にドイツのポケット戦艦やフランスのダンケルク級が先行しており、アメリカも高速戦艦の建造に興味を示していました
新型戦艦の設計方針
大日本帝国海軍は世界の海洋強国、特にアメリカやイギリスとの海軍力比較で劣勢を強いられていました。当時の海軍兵力比較では、日本はアメリカ軍に比べてその力の約60%しか持たないと評価されていました。
その背景には、前述のワシントン海軍軍縮条約などの国際的な条約制限や、日本の経済力、技術力の限界が影響していました。
この不利な状況を打破するため、日本は「質」で勝る新型戦艦、すなわち大和型戦艦の建造を計画しました。
新型戦艦の構想
1934年9月25日には、新しい高速戦艦の構想が海軍総司令部から発表されました。その基本要件は、65,000トンの排水量と30ノットの高速であり、これは当時の世界最大級の戦艦を意味していました。
具体的な要件の提案
翌月の10月には、新型戦艦の具体的な武装と性能要件の提案が行われました。これにより、日本は世界最大級の46cm主砲を装備する戦艦の建造を目指すこととなりました。
ワシントン海軍軍縮条約の破棄
国際的な情勢が緊迫していた1934年12月3日、日本はワシントン海軍軍縮条約の破棄を岡田啓介内閣の下で閣議決定し、アメリカにその旨を通告しました。
新型戦艦の設計方針の決定
1935年11月2日には、中村義三大将の指示のもとで新型戦艦の設計方針が決定されました。これは、日本が持っている技術力を最大限に活用して、最強の戦艦を作り上げるという野心的なプロジェクトでした。
ロンドン海軍軍縮会議からの脱退
1936年1月15日、ワシントン海軍軍縮条約に続き、ロンドン海軍軍縮会議からの脱退も通告。これにより、両軍縮条約は実質的に無効となり、ワシントン海軍軍縮条約はその年の12月末をもって期限切れとなりました。
この条約破棄の背後には、日本の軍拡への意志があった。保有していた戦艦の大部分が旧式であり、新しい技術革新を取り入れた新型戦艦の必要性が高まっていました。特に、「長門型」よりも遥かに優れた性能を持つ新型戦艦の開発が急務とされました。
議会での予算提出
1936年12月26日、第70回帝国議会ではA140-F5と指定された2隻の大和型戦艦の建造予算が提出され、これが「大和」と「武蔵」の建造の第一歩となりました。
建造費の内訳
政府が発表した予算案によると、大和型戦艦一隻の建造には以下の費用が掛かりました。
- 船体: 約5,000万円
- エンジン: 約2,200万円
- 主砲: 約4,670万円
- 装備: 約1,930万円
合計:約1億3,800万円
しかし、実際の戦艦「大和」と「武蔵」の建造費は、各約2億2,000万円(合計で4億4,000万円)でした。この金額を現代の日本円に換算すると、約2,8000億~3,300億円(合計約6,000億円)に相当します。インフレの影響により、正確な額には幅があります。
大和戦艦の費用は国家予算のかなりの部分を占め、約4%を消費したとする情報源もあります。
予算の工夫と背景
国家の安全保障上の理由から、実際の建造費は公には発表されませんでした。公式な予算としては3億1,500万円とされ、その差額にあたる1億2,500万円は、架空の駆逐艦3隻と潜水艦1隻の建造予算としてカモフラージュされました。これは、機密保持や軍事的な戦略を考慮したものと思われます。
「大和」誕生まで…。
実のところ、この新型戦艦の設計や研究は、ワシントン海軍軍縮条約が締結される前から既に行われていました。ワシントン海軍軍縮条約の破棄により、これらの研究や設計が実際の建造フェーズに移行したのです。そして、その結果として、史上最大級の火力と堅牢な防御を誇る戦艦「大和」が誕生することとなりました。この船は、日本海軍の技術力と意志を象徴する存在として、その後の海軍史に名を刻むこととなるのです。
「A-140」戦艦設計の詳細
A-140戦艦設計は、大和型戦艦の原型となる予備設計として日本海軍により開発されたシリーズです。設計名称の”A-140″は、Aが戦艦を意味し、140はこの計画された戦艦が140番目であることを示しています。
設計のバリエーション
A-140戦艦設計シリーズには、総計24の初期設計が存在しています。これらの設計は、それぞれ異なる兵装、推進力、耐久性、装甲などの特徴を持っています。具体的には、以下のような枝符号により分類されています:
- A-140a:初期段階の設計で、特定の基本的な要求を満たすもの。
- A-140b:aの設計を基に、ある程度の改良を加えたバージョン。
- A-140c:さらに高度な武装や装甲強化が施された設計。
- A-140d:推進性能を重視した、より高速な戦艦設計。
- A-140e:装甲や武装のバランスを考慮した中間的な設計。
- A-140f:最終的に大和型戦艦の設計として採用されたもので、全体的な性能のバランスが重視されています。
これらの設計は、日本海軍が求める様々な戦場でのシナリオや戦術要求に応じて、最適な戦艦を設計するためのものでした。最終的にA-140fが大和型戦艦の基本設計として採用され、その強力な火力と装甲により、太平洋戦争の海上戦闘において主要な役割を果たすこととなりました。
天才造船学者「平賀譲」と「藤本喜久雄」
大和型戦艦の設計開発において、技術的な難問と戦術的な要求を満たすため、平賀譲(ひらが ゆずる)と藤本喜久雄(ふじもと きくお)という二人の天才的な造船学者が中心となり、その開発を牽引しました。
平賀譲の役割
海軍技術研究所の主任設計者の平賀譲は、早い段階から艦船設計の研究を重ね、特に艦船の流線形デザインや防御機能に関する革新的なアイディアを持っていました。大和型戦艦の設計に取り組む際、平賀譲は船体の形状や装甲の配置、さらには砲塔の配置など、多岐にわたる要素において、最適化された設計の提案を行いました。
藤本喜久雄の貢献
平賀譲が退職後に後を継いだのが、推進技術や動力システムの専門家として知られていた、海軍技術研究所の主任設計者の藤本喜久雄でした。
藤本の研究は、大和型戦艦が持つ強力なエンジンや推進器の開発に貢献し、戦艦が高速で動くことを可能にしました。また、藤本は燃料効率の向上や、エンジンの耐久性向上のための革新的な方法を数多く提案しました。
共同のビジョン
二人の天才造船学者はともに、戦艦大和型の開発において重要な役割を果たしました。特に、46cmの主砲を搭載することの意義を深く理解しており、それを基盤とした多くの設計案を提出しました。彼らの提案は、後にA-140戦艦設計シリーズとして纏められ、大和型戦艦の数多くの予備設計に組み込まれました。
藤本喜久雄の突然の死と福田啓二のリーダーシップ
1935年1月9日、藤本喜久雄は自宅で脳溢血のため急逝しました。享年47。その死は日本海軍と国民に衝撃を与え、彼の死を悼む新聞の訃報欄には「わが海軍造船の至宝」と称えられました。この突然の失った大きな存在の後を継ぐのは容易なことではありませんでした。
しかし、翌1935年(昭和10年)から1936年(昭和11年)の間、福田啓二少将がその役割を引き継ぎ、大和型戦艦の設計の主導していきました。
設計と選定の軌跡
福田啓二造船官を中心として、戦艦設計の巨匠、平賀譲予備役造船中将の顧問のもとで結成された新型戦艦設計チームが結成されました。彼らの初の提案はA140と呼ばれるもので、そのスペックは圧巻のものでした。しかし、その規模の大きさからこの案は却下され、設計チームはA140のブラッシュアップを求められることとなったのです
その結果、A140AからA140Dまでの4つの案が生まれ、それぞれが異なる特性や強みを持つものとなっていました。しかしこの段階ではまだ、軍令部と艦政本部の間で合意に至ることはできませんでした。速力や主砲の口径、排水量など、様々な要素が議論の中心となり、その間に20種を超える設計案が提示されるほどの深い検討が行われました。
結果として、「A140-F5」がほぼ完成形として選ばれることとなったのですが、その後も機関構成の問題が残り続け、最終的には「A140-F6」が採用されることになりました。
「第一号艦」「第二号艦」の建造がスタート
1937年3月29日、旧日本海軍は「A140-F6」計画を基にして「第一号艦(後の大和)」と「第二号艦(後の武蔵)」という仮称で新たなる巨艦の建造を進めることを決定しました。この戦艦の基本スペックは、その時代の技術力と設計思想の集大成とも言えるもので、他のどの戦艦とも一線を画していました。
基準排水量は6万4000トン、全長は263mという、その巨大さだけで敵艦隊に圧倒的な威圧感を与えることができるスペックが採用されました。さらに、その主武装として46cm砲9門を装備。これにより、遠距離からの砲撃で敵艦を圧倒することができました。そして、この巨艦が持つ最大速力は27ノット。その大きさとは裏腹に、迅速な移動能力も備えていました。
限られた造船所で生まれた巨大戦艦!呉海軍工廠の挑戦
当時の日本において、このような巨大戦艦を建造可能な造船所は限られていました。呉海軍工廠、横須賀海軍工廠、そして民間の三菱長崎造船所の3か所のみが、この雄大な船の建造を手掛けることができる施設でした。
その中で、規模や施設が最も充実していた呉海軍工廠が1番艦の建造を担当することになりました。呉海軍工廠は、長い歴史と実績を持つ造船所であり、多くの艦船を世に送り出してきました。
大和型戦艦の建造と呉海軍工廠の役割
1937年11月、日本海軍の誇る造船所である呉海軍工廠において、新時代の象徴である大和型戦艦の建造が始まりました。この出来事は、日本海軍の技術や意志、そして国内の造船技術の粋が結集した瞬間であり、その影響は時を超えて大きな意義を持つものとなりました。
呉海軍工廠の役割
呉海軍工廠は日本海軍の主要な造船所の一つであり、長い歴史と実績を持つ造船所でもありました。ここで建造された数多くの戦艦や軍艦は、日本の軍事力と技術の象徴であり、国家の威信を高める重要な存在でした。大和型戦艦の建造も、呉海軍工廠の熟練した技術者たちによって行われ、その造船技術の高さを示すものとなりました。
造船の進化
大和型戦艦の建造にあたり、呉海軍工廠では長門型戦艦「長門」や天城型巡洋戦艦「赤城」(空母)の建造経験を活かし、設備を拡張しました。乾ドックは拡張され、大和型戦艦の巨大なサイズに合わせて調整されました。これにより、大和型の建造に必要な設備とスペースを確保し、効率的な作業を実現しました。
象徴的な意味
大和型戦艦の建造は単なる技術的な成果だけでなく、国家の意志と誇りを示す象徴的な行為でもありました。当時、日本は国際的な緊張状態や外交的な挑戦に直面しており、大和型戦艦の建造はそのような状況下での国家の強さと決意を示すものとなりました。
技術と伝統の融合
大和型戦艦の建造においては、伝統的な日本の造船技術と、最新の技術や設備が結びついていました。これは日本の建造業の進化と、海軍がその最先端技術を積極的に取り入れていたことを反映しています。
巨艦の隠蔽工作
日本が世界に誇る新型戦艦の建造は、その性能や存在そのものが他国に知られれば、軍事的な価値や戦略的価値が低下してしまう恐れがありました。そのため、極秘裏にその存在を隠すためのさまざまな策が取られることになりました。
まず初めに、建造ドック自体の姿を隠すために、屋根や棕櫚の葉を使った筵を大量に取り付けました。これにより、遠方からの視線は遮断されました。また、造船所周辺の住民や通行人が艦の姿を目にすることを防ぐための取り組みも実施。海側の窓を開けることを制限された民家や、目隠しのための塀の建設、さらに鉄道の列車の窓も閉ざすことが通達されました。
隠すためだけではなく、直接的な警備も強化されました。工廠周辺の丘には憲兵が配置され、通行するすべての人々の動向を監視。工廠の職員や関連する者も、厳格なチェックを受けることとなりました。
そして、建艦の真相を知ることができるのは、非常に限られた人々だけ。一般の見学は、海軍大臣の特別な許可がない限り禁じられました。
「大和」のひっそりとした誕生と浸水式
1940年(昭和15年)8月8日。一般には知られることのなかった場所で、特別な式典が行われました。それは、日本海軍が長きにわたり構想してきた超大型戦艦の進水式でした。この日、その巨大な艦体に日本海軍の願いとともに「大和」という名がつけれました。
呉市内では、一般市民の注意を逸らすために陸戦隊の演習が公然と行われるなどの策略が巧妙に実施されました。市の各所には警察や憲兵が配置され、不審な動きや漏洩を未然に防ぐための監視体制が整えられていました。
進水式自体も、通常考える壮大な演出や軍楽隊の演奏、民衆の声援や拍手といったものは一切なく、静かな中での儀式となりました。その場には、天皇の名代として久邇宮朝融王が臨席し、一般の見物人はおらず、関係者のみが厳かな雰囲気の中で新しい戦艦の命名と進水を見守りました。
この「大和」の進水は、日本海軍の新しい時代の幕開けを告げるものでしたが、その誕生自体が秘密裏に進められたことが象徴的です。その後の艤装や公試も、多くの隠蔽策のもとで行われ、約1年後の1941年12月16日に、史上最大の戦艦として「大和」は正式に海軍に加わることとなりました。
真珠湾奇襲が告げた「大艦巨砲主義」の終焉
大和が就役する一週間ほど前の1941年12月8日、日本海軍は歴史に残る奇襲攻撃を実施しました。ハワイの真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊への攻撃は、6隻の空母を中心とする機動部隊によって行われ、結果として停泊中の戦艦8隻のうち4隻を撃沈し、3隻を大破させました。
さらに、そのわずか2日後、マレー沖で日本海軍航空部隊はイギリスの主力戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」も撃沈しました。
この一連の出来事は、もはや“戦争の主役は戦艦ではなく航空機である”ということの証明になりました。これは、真珠湾攻撃の直後の1941年12月16日に就役した大艦巨砲主義の「大和」にとっての皮肉な事実となりました。
この「大艦巨砲主義」は、大砲の威力と射程を最大限に発揮するための思想だった。しかしこの思想の下で建造された「大和」が実戦でその能力を示すことはなく、航空機の台頭によって役立たずになってしまいました。
山本五十六提督もこの事実を理解していた。山本五十六は過去にアメリカに2年間滞在し、アメリカの強大な産業力を目の当たりにしていた山本五十六は、アメリカの工業力を前にして、「デトロイトの自動車工業とテキサスの油田を見ただけでも、アメリカ相手に無制限な建艦競争などは不可能だ」と認識していました。
一方で航空機の重要性を認識しつつも、戦艦の国際的な影響力を理解していました。山本は「戦艦は床の間の置き物だと考え、あまり廃止廃止と主張するな」との言葉で、戦艦が国際的には海軍力の象徴としての価値があることを指摘しました。
しかし、最終的に戦艦「大和」と「武蔵」は航空機の攻撃によって撃沈、山本五十六の予言が現実となったしまいました。
【戦艦大和(2)】驚異の火力と防御!大和の主砲、副砲、そして革命的な防御設計