子グマから兵士へ ── ポーランドの英雄「ヴォイテク」の感動の物語

この物語は、第二次世界大戦中にポーランド軍に拾われた子グマが、まさに兵士として戦うまでの成長を描いた本当にあった話です。

ヴォイテクは、戦場での人間の兵士たちとの絆を通じて、特別な存在となりました。

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昔むかし、あるところに一頭のクマがいました。クマは兵士になって戦場に行きました…。おとぎ話か童話のように思われるかもしれませんが、実は、そんなことが本当にあったのです。世界でいちばん有名なクマ、ヴォイテクの物語です。ALAバチェルダー賞(米国児童文学翻訳賞)受賞。(「BOOK」データベースより)

Wojtek

伝説の兵士「ヴォイテク伍長」

The Story Behind/YouTube

第二次世界大戦中、数々の英雄が誕生しましたが、中でも一際ユニークな存在が「ヴォイテク(Wojtek)」伍長という名前のクマでした。

ヴォイテクはポーランドの第22輸送中隊の一員として、人間の兵士たちと共に戦場を駆け抜けました。

時代の背景

第二次世界大戦は、欧州や世界の歴史において最も悲惨な出来事の一つとして知られています。この戦争は多くの国々に影響を及ぼしましたが、ポーランドは特に困難な立場に置かれていました。

両大国の侵略シベリアへの追放

1939年9月、突如ヒトラー率いるナチス・ドイツが西側から侵攻してきました。さらに、その直後に今度は東側からソ連(ソビエト連邦)が侵攻してきました。

これにより、ポーランドはわずか数週間のうちに二つの大国によって分割、占領支配されてしまいました。この戦争で数多くの都市や村が戦火に包まれ、多くのポーランド市民がその犠牲となりました。

ソ連によって捕らえられ約20万人のポーランド兵士は、遠く離れたシベリアの強制収容所に追放。極寒のシベリアでの生活は過酷を極め、多くの兵士が体調を崩し、そのまま息を引き取りました。

「アンダース軍」の結成

しかし、1941年にドイツがソビエト連邦に侵攻を開始したことで、これまでの敵対関係にあったソ連と、ポーランドを含む連合軍は協力して戦うことになります。

ソ連の指導者であるスターリンはポーランドへの侵攻の結果を再考し、ポーランドの将軍ヴワディスワフ・アンデルス指揮下のポーランド兵を全て解放する決断を下しまいた。

これにより解放された兵士によって「アンダース軍」と呼ばれる部隊が結成されました。

その後、アンダース軍は連合軍の一員として枢軸国と戦うために、中東を通ってヨーロッパへと向かう長い旅を始めました。

ヴォイテクとの出会い

ある日、イランを横断しているアンダース軍の兵士たちの前に、予想もしない出会いが待ち受けていました。

イレーナとの遭遇

1942年4月8日、イランのハマダーンの鉄道駅。

ボレスワフ・ヴィエニャワ=ドゥウゴショフスキ将軍の大姪で、アンダース軍と共に移動していた18歳のイレーナ(インカ)・ボキェヴィチは地元のイラン人の少年たちに出会いました。

そして、その少年たちが持っていた袋の中には、小さなシリアン・ブラウンベアの子グマが入っていました。

少年から子熊を購入

子グマの持ち主である少年は、飢えと困窮の中でこのクマを売りに来たのでした。すぐにこの子グマに心を引かれたイレーナは購入する決意をします。

彼女は少年と交渉し、自分の持っていたスイスアーミーナイフ、牛肉缶、ペルシャコイン、そしてチョコレートと子グマを交換しました。

幼きヴォイテクの看護

こうしてアンダース軍と一緒に旅をすることになった子グマでしたが、すぐに問題が浮上しました。

この子グマはまだ幼く、これまでの生活環境の厳しさから、食べ物をうまく食べることができなかったのです。

イレーナのケアとウォッカ瓶

この子グマの健康を気にかけたイレーナは、特別な方法でそれに対応しました。彼女は、コンデンスミルクを捨てられたウォッカ瓶に入れて与えたのです。

兵士たちの仲間へ

子グマはその後、3か月間にわたって近くに設立された難民キャンプで過ごしました。

子グマはその愛くるしい姿で厳しい環境の難民キャンプを明るい雰囲気に変え、周りには常に好奇心を持った難民や兵士が集まっていました。

イレーナの愛情深い看護のおかげで、健康的にすくすくと成長した子グマはとても人懐っこく。キャンプの子どもたちと一緒によく遊んでいました。

第2輸送中隊への移動

1942年8月、この子グマは正式に第2輸送中隊(後に第22砲兵補給中隊と改名)に譲られました。この部隊の兵士たちは、「ヴォイテク」と名付けを部隊の一員として温かく迎え入れました。

名前の由来「ヴォイテク」とは

「ヴォイテク」という名前は、ポーランド語の「wojownik」から派生したもので、文字通り「戦士・戦争」を意味します。

名前の意味

さらにこの名前は、スラブ起源の「Wojtek」としても知られており、赤ちゃんや子供がもたらす明るさや喜びを強調するものとしてよく使われます。

このことから「ヴォイテク」は、一般的に「戦いを楽しむ者」や「微笑む戦士」という意味合いで使われます。

兵士たちはこの名前をこの小さなクマに与えることで、子グマがもたらす喜びや明るさ、そして兵士である自分達との絆を表現しました。

兵士たちとの生活

その後のヴォイテクは、戦地で同じ時を過ごす兵士たちにとってただのクマ以上の特別な存在となっていきました。

ヴォイテクの食生活

兵士たちはヴォイテクのために特別な食事を用意していました。

通常の兵士の2倍の食料に加えて、ヴォイテクにはさまざまな“おやつ”が与えられていました。これはヴォイテクの巨大な体格や特別な栄養バランスを考慮してのことでした。

ヴォイテクのビール愛

ヴォイテクの食事や生活習慣の中で、特に印象的だったのはビールでした。

ヴォイテクの世話係をしていたディミトル・シャウルゴ兵士によれば、ヴォイテクはビールを瓶から直接飲むことが好きで、ビールを飲んでも酔っ払うことはなかったといいます。

この事は、兵士たちの間で知れ渡っており、兵士らはクマであるヴォイテクがビールの瓶を覗き込み、残った一滴まで追い求める様子を愛情深く見守っていました。

ヴォイテクのこの行動は、クマとしての野生の本能と、子グマの頃から人間と一緒に生活してきた習慣が混ざり合った結果と考えられます。

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タバコの習慣

通常、野生動物がタバコの葉を好むことはほとんどありませんが、ヴォイテクはその一般的な傾向から外れていました。

兵士たちが休憩時にタバコを吸っている姿を日常的に見ていたヴォイテクは、兵士らの行動を真似し始め、やがてタバコを食べるようになりました。

兵士が放っていたタバコの葉っぱは、ヴォイテクにとって新しい発見のようで、その味や匂いを楽しんでいるようでした。

シャウルゴ兵士は、「ヴォイテクは火のついたタバコを兵士から直接受け取り、一服して飲み込んだ」と証言しており、このエピソードから、兵士らとヴォイテクの絆や信頼関係が強く築かれていたことがわかります。

ヴォイテクの模倣と日常

このようにヴォイテクは、兵士たちの行動や習慣をどんどん真似していきました。それは、タバコやビールの消費だけでなく、他の日常的な行動や訓練にも及びました。

ヴォイテク世話係の一人、ピーター・プレンディーズ兵士によれば、ヴォイテクは人間兵士のように敬礼することや、手を振ること、そして行進することを学んでいたといいます。

ヴォイテクはこれらの動作を楽しんでおり、周りの兵士たちを笑顔にさせました。

もちろんヴォイテクは、訓練以外の時間もレスリングやボクシングといった活動に積極的に参加し、兵士たちとの交流の中で絆を深めていきました。

また、トラックに乗ることも大好きで、幼い頃はトラックの助手席に乗り、大きくなると後部座席に乗っていました。

深い絆と信頼関係

この頃には、ヴォイテクは単なる動物以上の存在として多くの兵士たちの心に刻まれました。

すぐに近くに駐留するすべてのポーランドの部隊の非公式マスコットになり、兵士たちの間で愛され、兵士たちはヴォイテクを心の拠り所にしていました。

過酷な戦場にあって、兵士たちは孤独や恐怖に苦しむことがありますが、ヴォイテクの存在が彼らに勇気や希望を与え、人間性を失わずに戦えるようになりました。

「サソリ事件」

ヴォイテクがいかに大切な存在だったのかがわかるエピソードも残っています。

ある日、ヴォイテクはサソリに鼻を刺されてしまい、その影響によって死の淵を彷徨うことになりました。そんなヴォイテクを、兵士たちは親身になって24時間体制で看病し続けました。

兵士らはヴォイテクを失うかもしれないという恐怖と向き合いながら、ヴォイテクの回復を祈り続けたのです。そして、その気持ちが通じたのかなんとか無事に回復することができました。

この話は、ヴォイテクが単なる「動物」ではなく、彼らの「仲間」として扱われていたことを強く示しています。

ヴォイテクの野生としての性格

一方で、ヴォイテクとの日常のやり取りでは、その荒々しい性格を理解することも必要でした。

ヴォイテクと遊ぶ際のリスクをきちんと理解している兵士たちは、その力と野生の本能に敬意を払いつつ、適切な距離を保っていました。

兵士らはヴォイテクの扱い方を知っており、それを実践すればヴォイテクとの関わりの中で怪我をすることはありませんでした。

もちろん、彼らも時折、ヴォイテクの強さを甘く見て戦いの中で彼と向き合うことがありましたが、適切なタイミングで戦いを終わらせる術を知っていました。

このような日常の中で、ヴォイテクと兵士たちはお互いの存在を尊重し、信頼関係を築いていきました。

人とクマである彼らの関係は、動物と人間との共存の可能性を示す貴重な前例となっています。

中東でのシャワー問題とヴォイテクの活躍

ヴォイテクは第22中隊と共に、イラクを経てシリア、パレスチナ、そしてエジプトへと進んでいきましたが、彼らは移動する場所ごとに異なる環境と困難に対応しなければいけませんでした。

エジプトと中東での生活は、ヴォイテクにとって特に厳しいものでした。

非常に高温としてしられるこの地域では、ヴォイテクはつねに涼しさや水分を求めており、手榴弾の練習に使っていたオレンジを追いかけることもありました

自力でシャワー

ヴォイテクは共同のシャワー室に侵入し、自力でシャワーを浴びることすらありました。

しかし、兵士たちにとっても水は貴重な資源であり、ヴォイテクのこうした行動が原因で水が不足することもありました。このため、兵士たちはヴォイテクが一人でシャワーを浴びることを禁止しました。

「ヴォイテク vs 侵入者」シャワー室での戦い

しかし、ヴォイテクのこの知識や能力が役立つことになりました。

ある日、キャンプ内を歩き回っていたヴォイテクは、シャワー室のドア開いているのを見つけると、水浴びするために中に入っていきました。

しかし、シャワー室にはすでに他の「訪問者」がいました。

この頃、地元の反政府勢力が襲撃を計画しており、その中の一人が武器を探すために第二中隊のキャンプに不法侵入していたのです。

ヴォイテクは、この侵入者とばったり会ってしまったのですしかし、驚いたのはヴォイテクではなく侵入者の方でした。

突然の目の前に現れた巨大なクマの出現に、侵入者はあまりの恐怖で硬直。この瞬間、侵入者の計画は台無しになってしまいました。

その後、命の危険を感じた侵入者は、すぐさまポーランドの兵たちに降伏しました。

ヴォイテクは、兵士らの生命や安全を守るためにその価値を証明したのです。

この事件はキャンプ内で大きな話題となり、ヴォイテクの行動に感謝した兵士らは、報酬として無制限のシャワー使用を許可し、さらに大好きなビール2本を贈りました。

ヴォイテクのこの英雄的な行動は、兵士たちとの間の絆をさらに深めるものとなりました。

「“動物”ではありません!」ヴォイテクの乗船作戦

ある日、エジプトに滞在していた第22中隊は、「モンテ・カッシーノの戦い」に参加するためにエジプトのアレクサンドリア港から航路でイタリアに向かうことになりました。

しかし、船で動物を輸送することは禁止されており、ヴォイテクを連れて行くことはできません。

大切な仲間、ヴォイテクをどうしても連れて行きたかったポーランドの兵たちは、これまで多くの困難を乗り越え、多くの楽しい時を過ごしてきた思い出を振り返りながらも、策を巡らせました。

そして、ある妙案を思いついたのです。

ポーランド兵たちは、乗船名簿にヴォイテクを「兵士」という肩書きで記載し、給与明細を作成しシリアル番号を付与しました。

こうして、書類上ではヴォイテク(兵士)が存在することになり、船に乗り込む準備が整いました。

しかし、実際の受け付けには、クマであるヴォイテクが姿を現すわけにはいきませんでした。そしてこれが決定的な弱点となりました。

受付当日に名簿に名前があるにもかかわらず、ヴォイテク本人が姿を現さなかったことで、乗組員や当局はすぐに何かがおかしいことを感じ取りました。

そして、すぐに兵士としてクマが登録されていることがバレてしまいました。

ついに熊が正式にポーランド兵士に!!

それでも諦めきれないポーランド兵たちは、カイロの最高司令部に懇願しました。

そして、彼らの必死な気持ちと熱意に押された司令部は、ヴォイテクを兵士と認め、ポーランド第2軍団司令官であるアンデルス将軍によって正式に部隊に採用されました。

こうして、ヴォイテクは認識番号を与えられ、新しい肩書(ポーランド陸軍二等兵)を持つこととなりました。

これは、ヴォイテクがもはやただの動物ではなく、名誉ある部隊の一員として認められたことの証明になりました。

さらに、ヴォイテクは第22砲兵補給中隊(旧:第2輸送中隊)に配属され、ヘンリク・ザチャレヴィチとディミトル・シャヴルゴが正式にヴォイテクの世話人として任命されました。

こうして、ヴォイテクはこの先も仲間たち共に戦場で運命を共にすることになったのです。

兵士としてのヴォイテク

その後のヴォイテクの日常は他の兵士と同じように、テントやトラック、そして特別な木箱の中での生活へと変わりました。

それでもその存在は、部隊の中で特別な場所を占めていました。兵士たちはヴォイテクの力強さや忠誠心を高く評価しており、これまでと変わらず深く尊重していました。

ヴォイテクの兵士としての貢献は数えきれないほど多くありますが、その中でも最も重要なのは、ヴォイテクの存在が部隊の士気を高め、皆を笑顔にしていたことでした。

ヴォイテクは、厳しい戦況の中で兵士たちにとって心の支えとなり、彼らの精神的な負担を軽減する重要な役割を果たしていました。

また、ヴォイテクがタバコを購入するための給料を受け取る姿は、部隊にとっての明るい話題でした。

ヴォイテクが実際に給料を受け取り、自分でタバコを購入するという、人間の兵士と同じような行動をしていたことは、部隊の間で伝説的なエピソードとなりました。

これは、ヴォイテクが単なるペットではなく、部隊の一員として認識されていたことの証でもあります。

いざモンテ・カッシーノの戦いへ!

モンテ・カッシーノの戦いの直前のヴォイテクは、もはやかつての小さな子グマではありませんでした。

ヴォイテクは体重が90キロもある大きな成獣へと成長しており、圧倒的な存在感を放っていました。

「ストロングマン」砲弾を運ぶクマ

モンテ・カッシーノの戦いの前、ヴォイテクはすでに単なる部隊のマスコットだけではなく、部隊の一員としての役割を果たせる片鱗を見せていました。

その中でも特に注目すべきは、ヴォイテクが迫撃砲を運ぶ訓練を受けていたことです。この訓練は、ヴォイテクにとっても非常に難しく危険なものでしたが、これを見事にクリアしました。

この特訓は、ヴォイテクが戦場で本当の意味での仲間として活躍するために必要不可欠でした。この訓練をクリアしたことでその後のヴォイテクは多くの危険な任務を共に遂行することとなりました。

ヴォイテクの驚異的な身体的な能力は、特に弾薬の運搬において役立ちました。

彼の強力な腕は、重い弾薬箱を簡単に持ち上げることができ、これにより彼は「ストロングマン」という愛称で呼ばれるようになりました。

このあだ名は、ヴォイテクの身体的な能力だけでなく、勇気や決断力、そして戦場での貢献を称賛するものでした。

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「モンテカッシーノの戦い」

1943年、連合軍はイタリア南部サレルノ近くに上陸を果たし(サレルノの戦い)、その後北上を進めていきました。

しかしイタリアの降伏にもかかわらず、ドイツ軍は撤退することなく、連合軍の進撃を阻むためイタリアに駐留を続けました。

特に、ドイツ軍はアペニン山脈に「グスタフ・ライン」という強固な防御線を築いていました。このラインの中心的な位置にモンテカッシーノ修道院がありました。

4度の総攻撃

1944年1月から5月にかけて、連合軍はモンテカッシーノ周辺で、4度の総攻撃を実施しました。

  1. 第一次モンテカッシーノの戦い(1944年1月17日 – 2月11日): 連合軍が初めてグスタフラインを攻撃。しかし、ドイツ軍の防御は堅固で、進撃は失敗に終わった。
  2. 第二次モンテカッシーノの戦い(1944年2月15日 – 18日): 修道院を空爆した後、地上部隊での攻撃が行われた。しかしこれも防御を突破することはできなかった。
  3. 第三次モンテカッシーノの戦い(1944年3月15日 – 22日): 連合軍は新戦略と新部隊を持ち込み再度攻撃を試みたが、再びドイツ軍の防御に阻まれた。
  4. 第四次モンテカッシーノの戦い(1944年5月11日 – 18日): 多国籍の部隊が参加する中、大規模な攻撃が行われ、ついにドイツ軍を退け、修道院を占領。
最終的に連合軍がモンテカッシーノの戦いで勝利

モンテカッシーノの戦いを制した後、連合軍はローマへの道を開いて進撃を続け、1944年6月4日にローマを解放しました。

この戦闘は連合軍とドイツ軍の双方で大きな犠牲が出ました。連合軍は多国籍の部隊から成り立っており、ドイツ軍も多くの国からの兵士で構成されていました。

5か月の戦闘で両軍合わせて約7万5000人が死亡。モンテカッシーノの戦いは第二次世界大戦中の激戦の一つとして記憶され、戦争の惨禍を改めて世界に示すこととなりました。

Documentary Base/YouTube

第四次モンテカッシーノの戦いにヴォイテク参戦!

第四次モンテカッシーノの戦いでは、ヴワディスワフ・アンデルス大将の決断により、1943年から1944年にかけてイタリアに投入されていたポーランド第2軍団が連合軍の参戦していました。

第2軍団には第22砲兵補給中隊も含まれていました、つまりヴォイテクもこの戦いを戦ったのです。

山道での弾薬運搬で大活躍!

激戦の中で、第22砲兵補給中隊は弾薬の補給に追われていました。

砲弾の飛び交う足場の悪い山道の中で、ヴォイテク兵士は45kgもの重い木箱を楽々と運搬しました。箱の中には、25 ポンドの砲弾が詰められいたという事実からその凄さが際立ちます。

人間一人では持ち上げられないような重い箱でも、クマであるヴォイテクにとってはまったく問題にはならなかったのです。

ヴォイテクは通常4人の兵士がかりで運ぶ箱をトラックや他の弾薬箱に積み上げることもできたといいます。

さらに、運搬するだけではなく、弾薬箱を要求する際の右足を出す仕草も覚え、その知性と人間を遥かに超えた筋力によって、この戦いで大活躍しました。

戦場の英雄と伝説のクマの物語「ヴォイテク」

モンテ・カッシーノの戦いの中でも、第22砲兵補給中隊を含む第2ポーランド軍団の奮戦は特に際立っており、彼らの攻撃は、ドイツ軍の堅固な守りを打破し、連合軍のローマ解放への道を開く重要な一歩となりました。

伍長への昇進

連合軍の勝利の中で、ヴォイテクはの活躍は高く評価され、その奮闘を称えて、ヴォイテクは伍長に昇進。そして、ヴォイテクの姿は第22砲兵補給中隊の公式な紋章(エンブレム)に採用されることになりました。

それは、砲弾を運ぶクマの姿で、ヴォイテクがポーランド軍とともに戦った証として今も残っています。

英雄か、単なるサポートか?真実は…

実はこの話にも裏があり、ヴォイテクの世話人だったアンディ・シャウルゴやヘンリク・ザチャレヴィッチは、ヴォイテクは空の弾薬箱や使用済みの砲弾を運ぶ役割だったと証言しています。

しかし、その事実の有無にかかわらず、記者団はヴォイテクの画像と活動を利用してをヒーローとして持ち上げ、その結果、同中隊はヴォイテクを自慢の兵士として隊内で称え、ヴォイテクに階級と番号を与えたとされています。

第二次世界大戦後の問題

第二次世界大戦が終結した後も、世界はまだ多くの問題を抱えていました。特にポーランドではソ連の影響力が強まり、新しい共産主義政府が樹立されました。

この新政府の指導の下で、母国であるポーランドは急速に変わっていきました。

新政政府は社会主義の理念を強く推進したため、退役軍人や戦争の英雄を祝福することは、新しい国のイデオロギーとは合致しないとさました。

ソ連の影響下でのポーランドの現実

多くのポーランド人は、祖国での生活が以前のようではなくなったことを悟りました。特に、西側の連合国と共に戦った退役軍人たちは、新政府による迫害の対象となる可能性すらありました。

このため、多くのポーランド兵やその家族が故郷を離れざるを得ない状況に追い込まれ、安全な場所を求めて西ヨーロッパや北アメリカへと移住していきました。

ポーランドに帰国するとヴォイテクがソ連に利用されてしまう

このような状況の中で、ヴォイテクを保護していた第22砲兵補給中隊の兵士らは、ヴォイテクをポーランドに戻すことのリスクを深く理解していました。

新たに樹立されたソ連影響下の新政府が、ヴォイテクを政治的なプロパガンダの道具として利用する可能性が高かったのです。

ヴォイテクの存在は、ポーランド人にとっても希望や誇りの象徴でした。そのため、新政府がヴォイテクを利用して国民の人心を掌握しようとしても何の不思議もありませんでした。

第22砲兵補給中隊の決断は帰国せず共に暮らす

そこで、第22砲兵補給中隊の兵士らはヴォイテクを安全な場所に移すことを決め、スコットランド国境のハットン村近くのサンウィック・ファームのウィンフィールド飛行場に駐屯し、ヴォイテクと共に暮らしはじめました。

戦士から地域のアイコンへ!

ヴォイテクがウィンフィールでの生活を始めると、すぐに地域の人々の人気の的となりました。ヴォイテクの人懐っこい性格と愛らしい行動は、地域の民間人やマスコミからの注目を集めたのです。

事実、ポーランド・スコットランド協会はヴォイテクを名誉会員に任命するなど、ヴォイテクは非常にリスペクトされていました。

ヴォイテクは地域社会のイベントやアクティビティにも積極的に参加し、子供たちとサッカーボールを蹴る姿や、ダンスやコンサートに参加する姿が目撃されました。

ヴォイテクの存在は兵士だけではなく、地域社会にも明るさや楽しさをもたらしたのです。

ヴォイテクを交流した人は、「犬のようであり、ほとんど人間だった」という言葉を残しており、このエピソードからヴォイテクがただのクマではなく、家族や友人のような存在だったのがわかります。

ヴォイテク、戦場から動物園へ

過酷な戦争の中で、第22砲兵補給中隊の一員として数々の戦場をくぐり抜けてきたヴォイテクでしたが、1947年11月15日には動員が解除されることになり、突如として軍での日々は終わりを迎えることになりました。

ヴォイテクはただの動物ではなく、戦争の中で特別な役割を果たしてきた重要な存在でした。そのため、ヴォイテクの今後の行く先をどうするかが、第22砲兵補給中隊にとっても重要な問題になりました。

軍の一員としての役割が終わりを迎えた今、新たな居場所を見つける必要があったのです。

エディンバラ動物園のスター時代

兵たちは考え悩んだ末、最終的にスコットランドのエディンバラ動物園がヴォイテクを引き取ることになりました。

エディンバラ動物園に到着したヴォイテクは、すぐにその場所のスターとなりました。動物園という新しい環境にもかかわらず、ヴォイテクはすぐに慣れ、訪問者たちとの交流を楽しんでいました。

ヴォイテクの過去や共に過ごした日々を知るジャーナリストや元ポーランド兵たちは、何度もヴォイテクの顔を見にここに訪れました。

彼らはヴォイテクに、戦争時代と同じようにヴォイテクが好きだったタバコやビール瓶を投げ入て、変わらない反応をするヴォイテクと楽しい時間を過ごしました。

しかし、この頃のヴォイテクはそれを飲んだり、タバコを食べることはしませんでした。

ヴォイテクはその場で何をすべきかを正確にわかっていたのです。このようなヴォイテクの知恵や性格、そして兵士たちとの特別な絆は、動物園を訪れた人たちにとって大変魅力的なものになっていました。。

メディアからも注目され、ヴォイテクはBBC テレビの子供向け番組「ブルー ピーター」にも頻繁にゲストとして出演しました。

ヴォイテクの最後の時間

しかし、命あるものには必ず終りが訪れます

1963年12月2日、ヴォイテクはエディンバラ動物園で静かに息を引き取りました。

ヴォイテクの死は多くの人々に深い悲しみをもたらしました。21年の短い生涯の中で、ヴォイテクは数え切れないほどの人々の心に触れ、特別な存在として深く愛されました。

ヴォイテク最終的には体重約500 kg(約1,100ポンド)、身長約1.8 m(約5フィート11インチ)を超える大きさにまで成長していました。その迫力ある外見は、ヴォイテクの強さと存在感を象徴していました。

その迫力ある外見とは裏腹に、優しさや友情に溢れた性格が人々に愛された理由でした。

エディンバラ動物園での楽しい時間

エディンバラ動物園で過ごした16年間は、ヴォイテクにとっても、訪問者たちにとっても価値ある時間となりました。ヴォイテクはこの場所での生活を楽しんだだけでなく、多くの人々との貴重な思い出を作り上げました。

その後、ヴォイテクの意義を称えて、エディンバラ動物園はヴォイテクを記念する銘板を建てました。この銘板は時間の経過とともに失われてしまいましたが、その記憶は多くの人々の心に残り続けています。

BBCはヴォイテクの死を単なるクマとしてではなく「偉大なポーランド軍兵士の死」として表現しました。

これは、ヴォイテクがただの動物園の動物以上の存在であったこと、そしてヴォイテクが人々に与えた影響の大きさを示しています。

ヴォイテクが残した遺産

ヴォイテクの存在は消え去ることはありませんでした。ヴォイテクはポーランドとエディンバラで不滅の存在として知られており、エディンバラ城を囲む公園には彼を記念する銅像が建てられています。

また、世界中でも多くの記念碑や彫刻を通じて称賛され、その勇気と献身が称えられています。

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イギリス
  • ロンドンの帝国戦争博物館:ヴォイテクを讃える銘板が展示されています。
  • ロンドンのシコースキ美術館:デイビッド・ハーディングの彫刻が設置されています。
  • グリムズビーのウェルズビーウッズ:ヴォイテクの木彫りがある。
ポーランド
  • クラクフのヨルダン公園:2013年にヴォイテクの像の建立が許可され、2014年に除幕されました。
  • ポズナン:ウリカ・カプララ・ヴォイトカ(ヴォイテク伍長通り)があり、新動物園に通じています。さらに、2018年には新動物園にヴォイテクの木像が設置されました。
スコットランド
  • エディンバラのウエスト・プリンセス・ストリート・ガーデン:アラン・ビーティ・ヘリオットによるヴォイテクの銅像が2015年に公開されました。
  • ダンズ:2016年にヴォイテクの銅像が公開され、除幕式が行われました。
イタリア
  • カッシーノ:2019年にヴォイテクの大理石像が公開されました。
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読者の皆様へ

ヴォイテクは戦争の中で勇気と希望の象徴として輝きました。ヴォイテクを讃える記念碑は彼の普遍的な尊敬の証で、特に故郷ポーランドでは国の誇りとして語り継がれています。

ヴォイテクの物語は、書籍やドキュメンタリーといった形で世界中に広がり、逆境の中での人間と動物の強い絆を示しています。この伝説は、その先も時代を超えて心に響くものとして私たちに残るでしょう。

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