アルゼンチンの首都ブエノスアイレスには、美味しい肉料理やワイン、サッカーなど、楽しめるものがたくさんあります。しかし、同時に治安の悪さや貧困問題も深刻で、スラム街での強盗事件も発生しています。
この記事では、ブエノスアイレスの魅力や現状について詳しく解説します。また、ブエノスアイレス出身のサッカー選手、カルロス・テベスの生い立ちにも触れています。アルゼンチンやブエノスアイレスに興味のある方は必見です。
《ビジャ①》ダンボール収集で生計を立てる…。アルゼンチンの貧困層に生きる人々【世界のスラム街】
Villa in Buenos Aires
美しい街並みはまるで南米のパリ!
ブエノスアイレスは、南米アルゼンチンの首都で、ラ・プラタ川の上流約240キロメートルの川沿いに広がる大都市です。スペインとイタリアの移民によって発展し、現在の人口は約303万人です。
この広大な都市の中心部は、100メートル間隔で碁盤の目のように整備されており、ヨーロッパ風の美しい建物が立ち並んでいます。そのため、「南米のパリ」とも呼ばれています。
ブエノスアイレスは、タンゴの発祥地としても有名で、多くのタンゴクラブやショーが開催されています。また、美術館や劇場など文化施設も充実しており、観光名所が数多く存在します。フロリダ通りやサン・テルモ地区などの繁華街では、ショッピングやグルメを楽しむことができます。
アルゼンチン料理は、肉料理が特に有名で、ブエノスアイレスには多くのステーキハウスがあります。エンパナダやチョリパンなどの郷土料理も楽しめます。また、アルゼンチンはワインの産地としても知られており、美味しいワインが楽しめます。
スポーツにおいては、サッカーが非常に人気があり、ブエノスアイレスには有名なサッカーチーム、ボカ・ジュニアーズやリーベル・プレートがあります。これらのチームの試合は、熱狂的なサポーターによって盛り上がります。
観光客には、ブエノスアイレスのエネルギッシュな雰囲気や豊かな文化が魅力的な都市として楽しまれています。
2001年から拡大す格差と治安の悪化
2001年末の深刻な政治・経済危機以降、ブエノスアイレスはデモ、道路封鎖、略奪などの社会不安が増加し、一般犯罪も増加しました。治安状況は大きく悪化しましたが、経済面では景気回復の兆しを見せ、失業率も徐々に改善されています。それに伴い、治安も緩やかに回復傾向にあるとされています。
しかしながら、2001年以降拡大した貧困層は、若干減少しているものの大きく改善するまでには至らず、特にブエノスアイレス州大ブエノスアイレス圏では、強盗や盗難事件が頻発し、殺人や金銭目当ての誘拐などの凶悪犯罪も発生しています。
これらの犯罪は、失業、貧困、司法制度の脆弱性、治安当局の汚職、刑務所の不足などが要因とされており、短期的な解決は困難です。
ブエノスアイレスのスラム街「ビジャ」
首都ブエノスアイレスのような観光客に人気の都市でも繁華街から一歩裏に入ると、「ビジャ」(Villa)と呼ばれるスラム街が存在します。
ブエノスアイレスの1割がスラムで生活
ブエノスアイレスでは、貧困問題が深刻であり、NPO団体によると、市民の約10%がビジャに暮らしています。社会福祉制度が十分に整備されていないため、露天商やインフォーマルビジネス、違法な商売に従事することで生計を立てるしかない状況が続いています。
ブエノスアイレス市によれば、住民の16.2%が生活に必要な物資すら購入できない貧困層に属しています。市内の観光名所であるセントロ地区のサン・マルティン広場、5月広場、フロリダ通り、オベリスコなども、治安が良いとは言えません。
【危険】バスターミナルのすぐ横がスラムの入り口
ブエノスアイレスは、アルゼンチンの中でも治安が悪いとされています。特に、駅やバスターミナル周辺にスラム街が存在し、これらの地域は通り過ぎることすら危険とされている。
最悪のビジャ「ビジャ1-11-14」
ビジャ1-11-14(Villa 1-11-14)は、バリオ・リエンソ地区に位置しており、ブエノスアイレス市内で最大かつ最も貧しいスラムの一つとされています。名称の由来は、地区を形成する2つのブロックの広さにより、1ブロックが11ヘクタール、もう1ブロックが14ヘクタールであることからきています。
この地区は、1948年にファミリア・エリオット財団によって設立されました。設立当初は、この地区は移民のための住宅地として建設されましたが、その後、多くの貧困層が住み着くようになりました。
ここには約5万人以上の人々が暮らしており。ブエノスアイレス市内で最も人口が多いスラム街であり、もっとも危険なビジャと言われています。
アルゼンチン政府による貧困対策が不十分であるため、基本的なインフラや公共サービスが不足しています。住民は電気や水道、ガスなどの必要なサービスにアクセスすることが困難であり、公立学校や医療施設も十分に整備されていません。
また、この地域では治安が悪く、麻薬取引やギャング活動が頻発しています。
主要な駅すぐそば最大規模のスラム街!「ビジャ31」
ブエノスアイレス市のレティーロ駅北側に広がるビジャ31は、市内北部最大規模のスラム街で、警察ですら近づくことを避けるほど危険な場所です。約32ヘクタールの土地に約43,000人が暮らしており、地下鉄、電車、バスなど交通の便が良いことから、近年急速に拡大しています。
このため、他のスラム街と比較して商業的な発展が著しいです。土地価格や家賃も高騰しており、40万ペソの土地や、16平米の部屋が4,000ペソに達することもあります。
ビジャ31に住む多くの人は真面目に働いていますが、一部の住民がスリやひったくり、強盗を生業にしており、非常に危険です。
ビジャ31は、アルゼンチン全土のスラム街(ビジャ)が抱える問題の一部を象徴し、かつて裕福であったアルゼンチンが現在直面している構造的な貧困の典型的な例と言われています。
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日本人Youtuberが犯罪に巻き込まれる
アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで、日本人観光客がスラム街で強盗被害に遭いました。彼は「衝撃的な動画をYouTubeに投稿したかった」と説明しました。在アルゼンチン日本大使館は、スラム街への不用意な立ち入りを避けるよう呼びかけています。
大使館によれば、観光客の男性は市中心部近くのスラム街「ビシャ31」を訪れました。現地の女性の案内でスラム街に入ると、突然2人の男に襲われ、首を絞められたりバッグを奪われたりしました。女性と2人の男はその後逃走しました。
ビジャ31の住民を移転させた街!フエルテ・アパチェ(Fuerte apache)
フエルテ・アパチェは、1968年に開発が開始されたアルゼンチンのスラム街です。開発の背景には、政府が1978年のアルゼンチン初のワールドカップ開催に向けて、貧困の撲滅を目指し、ビジャ31の住人をこのエリアに移転させる計画がありました。
当時、政府はスラム街の開発・撲滅に前向きで、1962年には960世帯用の住宅を建設し、1971年には2400世帯用に拡大しました。1973年には10階建てのビルが9棟建設され、1976年にはビジャ31の住人が本格的に移転しました。
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スラム街に変貌
しかし、1978年のワールドカップ後、アルゼンチン政府は貧困政策を放棄し、フエルテ・アパチェは現在のスラム街へと変貌しました。
このエリアの最大の特徴は、他のスラム街にはほとんど見られないビルがあることです。約100人が1棟のビルに住んでいるとされていますが、メンテナンスがされていないため、老朽化や倒壊の危険性があります。
フエルテ・アパチェは、スラム街の住人を移転させた後、貧困政策を放棄した政府によって生まれたスラム街です。強制移転されたスラムの住人たちは、フエルテ・アパチェに住み続ける人もいれば、ビジャ31に戻った人もいます。
このように、フエルテ・アパチェは、スラム街が生んだスラム街という状況が生まれています。
フエルテ・アパチェ伝説のサッカー選手「カルロス・テベス」
カルロス・テベスは、アルゼンチンの代表サッカー選手で、マンチェスター・ユナイテッドから2009年に42億円の移籍金でマンチェスター・シティーに移籍しました。彼は若いころからマラドーナ2世と呼ばれていました。テベスは、アルゼンチンのブエノスアイレスにある最も危険とされるスラム街、ビラ・フエルテ・アパチェ出身です。
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選択肢は2つ…。サッカー or ギャング
この街ではサッカーチームが存在せず、子供たちは近所の路地でストリートサッカーをして遊んでいました。
サッカーは、子供たちにとってただのスポーツや遊び以上のものでした。非行やギャンググループから子供たちを守る役割も果たしていました。子供たちはサッカーをするために非行をしなかったし、サッカーをしたいからギャンググループに入らなかったというわけです。
プレイも命懸け!?生き延びたければ勝つしかない!
テベスが育ったビラ・フエルテ・アパチェは、貧困、ドラッグ、犯罪がはびこる場所で、彼自身も「子供の頃はタフだった。怖いことだらけだったよ。夜になると通りに出ることもできなかったんだ」と回想しています。
彼は、銃声が聞こえる中でストリートサッカーに興じ、食べ物や飲み物を賭けてプレーしていました。負けたチームは勝ったチームにサンドイッチとコーラをおごらなければならず、それは恐ろしいことだったと語ります。
フエルテ・アパチェで育ったテベスは、厳しい環境の中で成長し、早くから成熟し、たくましくならなければならなかった。
サッカーを通して、「最強の者だけが生き延びる」という考え方を身につけたのです。
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スラムから世界へ!カルロス・テベスの人生
カルロス・テベスは、ブエノスアイレスのスラム街シウダデーラで生まれ、5人兄弟の長男として育ちました。彼は13歳のときに、隣町のオール・ボーイズというクラブでプレーを始め、その才能がすぐに評判となりました。
ボカ・ジュニアーズのスカウトも彼に目をつけ、彼のサッカー選手としての第一歩は、少年チーム「オール・ボーイズ」のコーチであったノルベルト・プロパトが彼をチームに誘ったことがきっかけでした。
しかし、オール・ボーイズはテベスを手放したがらず、ボカ・ジュニアーズはトリックを使ってテベスと契約しました。彼らはニセの父親を作り、隣の家の姓であるテベスを使って契約を結んだのです。
彼の実の父親はギャングに射殺され、母親は薬物中毒になってしまったため、隣に住んでいたセグンド・テベスが5歳のカルロスを引き取っていました。ボカ・ジュニアーズが契約したのは、このセグンド・テベスでした。
最年少で下部組織から昇格!!そして世界のスター選手に!!
2001年に17歳でボカ・ジュニアーズの下部組織から昇格すると、すぐにレギュラーになり活躍しました。2003年にはリーグ優勝やコパ・リベルタドーレス優勝に貢献し、2004年にはブラジルのコリンチャンスに移籍して活躍しました。彼は2003年から3年連続で南米年間最優秀選手に選ばれました。
その後、テベスはマンチェスター・ユナイテッドやユベントスなどのクラブを渡り歩き、総額9700万ドル(約103億円)の移籍金を生み出しました。中国の上海申花では、世界最高額の週給を受け取っていると言われています。